『世界を凍らす死と共に』4-2-1


   二.


 病院は消毒液などで独特の匂いがするものだけれど、立花先輩の入れられた個室はそのような嫌な匂いはなく清潔な空気で満ちていた。穏やかな色調で部屋は整えられ、しかし蛍光灯は少し眩しいと思うくらいに明るい。
 救急車で搬送された先輩の検査が終わる頃には日も暮れ、しばらく降り続いていた雨もやんでいた。最初に先輩を助けたときの検査よりは大分時間がかかったが、今日の先輩の様子から考えれば短すぎるくらいなのかもしれないとも感じる。
 目を覚ました先輩はベッドの隣にいる俺を見て驚いたようだった。
「御薗木君?」
 先輩は上半身をベッドの上に起こそうとして、結局うまく力が入らないようだった。無理をしないようにと告げ、体を寝かせる。
 横になった先輩は改めて室内を見渡し、尋ねてきた。
「いるのは御薗木君だけ? その、うちの両親は?」
「来ていますよ。でも頼み込んで二人きりにしてもらいました。先輩と大事な話をしたかったので」
 それを聞いて立花先輩は表情を曇らせた。
「アタシの身体のことだよね。ずっと黙ってたんだし、気になって当然だもん。それと告白に対する返事だよね。……うん、覚悟は出来てる」
 俺は否定しなかった。実際にその通りの話をするつもりだったし。だから先輩が両拳を固く握りしめたのが視界に入っても、それに関して触れることをしなかった。
「臓器が少しずつ壊死していっているそうですね。治療法もないと聞きました。イメージとしては癌に近くて、ある程度侵食が進んだら器官の機能が損なわれるのを防ぐために切除するしかない」
「そう。顔とか腕には出ないから外から見てるだけじゃわからないんだけどね。でもそのせいで体の中でそういう異変が起こっていると気付くのが遅れて、小さい頃に一度大きな手術をしている。その後も何度か胸やお腹を切ってるから痕が残っちゃってる。進行はすごいゆっくりしたものだったんだけど、最近になって加速しちゃったみたい。ちょうど御薗木君に助けてもらった頃にそれがわかって、だから途方に暮れて一人で家を出たら倒れちゃったってわけ」
 ということは一年前から先輩は自分の病状について知っていたということか。そして悩み続けて結局怪に縋った。
「一応ね、成功する確率は低いものの新しい手術をすれば、病気が進行するのは止められるかもしれないんだって。でも成功したとしても進行が止まるだけで、刻まれた傷は消えない。壊れたり切除された臓器も元通りにはならないから、子供も諦めるしかないよね。体力も人並みになるわけじゃないし、現時点で悪くなってる消化器官がごっそりと持っていかれるから食事も制限されることになる。しばらくは寝たきりの生活をして、その間に筋力も落ちるだろうから、普段の通りに歩けるくらい体力を回復させるには数年間はリハビリを覚悟してくれって言われた。この若い時期に、それって死刑宣告と同じだと思うんだよね。学校にも通えなくなるし、仕事に就くのも難しくなる。寿命は延びるかもしれないけど、普通の生活は一生できなくなる。それならすぐに死んでもいいから普通のことを目一杯しておきたかったんだ。それがアタシの夢だからって、お父さんやお母さんを説得したの。ずっと言い続けて、ようやく一人で学校に通わせてもらうことも叶ったんだけど、ちょっと短過ぎだよね」
 長い独白をしながら先輩は泣いていた。何とか笑顔を見せようとするのだけど、唇がわななくのは止められなかった。
 目尻から溢れる滴を指で擦りながら、先輩は俺に問いかける。
「公園で言ってくれたけど、こんなアタシでも御薗木君に想いを向け続けたら、振り向く可能性があるって話だったよね? アタシの口からも伝えたけど病気のことは知ったと思う。普通に付き合うことなんて無理だよ。子供とかはアタシたちの年齢からするとずっと先の話だから想像しにくいかもしれないけど、愛し合うために抱こうとしたらその相手の体は切り刻まれて傷だらけだっていうのはイメージしやすいと思う。それって幻滅するものじゃないかな。それとも御薗木君はそういうの気にならない人? 全部知った上でアタシに目を向けてくれる? ……もう一度、よく考えて答えて欲しい」
 先輩は尻すぼみにそう懇願してきた。自信がないんだと思う。何度も病室で両親相手に温もりを求めて、その度に諦めてきたのだから。
 でも俺はここにいる。今は先輩のご両親には席を外してもらっているけれど、俺と想いは同じだと思う。
「俺はここにいますよ。病気のことを聞いても、先輩が目を覚ますまでずっとその寝顔を見てました」
 少し遠回しな言い方かもしれない。でもそれで先輩には十分伝わったようだった。
「そっか。御薗木君はアタシを見てくれるんだね……」
 本当は俺だけじゃない。先輩のご両親は今でも病室の外にいる。ただそれを素直に受け入れられるほどには先輩はまだ気持ちを整理できていないと思ったから、俺だけにしてもらったに過ぎない。
 先輩は隣に俺がいることを何度も何度も噛みしめて、少し元気を取り戻したようだった。表情を明るくしながら訊いてきた。
「でもそれはまだ恋愛感情ってわけじゃないんだよね? 同情だとかそういうのだとも思えないけど」
「そうですね。まだ先輩のことが好きかどうかはわかりません。ただ気になる人にはなりました。だからもう一度先輩のことを見つめることを始めようと思って、病室での出会いから仕切り直しすることにしたんです」
 最初の出会いで深く病状を聞くことは無理だろうけど、でもその後も俺は先輩のことをきちんと知ろうとしていなかった。ただ体が弱い先輩というそれだけの認識。もしかしたら立花先輩はもっと見ていたと言うのかもしれないけれど、深く見ていなかったことに変わりはない。
 少し悩む素振りをしてから先輩はさらに問いかけてきた。それはとても重い内容だったけれど、あえて普段通りの口調で質問される。
「ならアタシは手術を受けるべきかな? せっかく御薗木君が意識してくれるようになったっていうのに、すぐに死んじゃったら勿体ないもんね」
 もしかしたら質問というより、背中を押して欲しかっただけなのかもしれない。先輩はこれから先のことを見始めている。すべてを諦めてすぐに自分の殻の中に閉じこもってしまっていた先輩はもういない。
「入院している間は毎日通いますよ。会えなくなったら変わろうとしている先輩の姿を見れなくなってしまいますし」
「そうしてくれると嬉しいな。もちろん忙しいときは無理しないでくれていいんだけどね。でもずっと放って置かれたら、病院を抜け出して会いに行っちゃうかも」
 体が動かないのにどうやって俺の元に来るんだろう。でも先輩のことだから本当にやってしまうかもしれない。冗談のまま済ませてくれるように、約束通りきちんと通うことにしよう。
 そこで先輩はふっと微笑を浮かべた。
「アタシを変えてくれたのは、最初も今回も結局御薗木君だったな。自分だけで変わろうとして失敗して、そして怪の力にまで縋ってしまって。それで迷惑かけちゃった。せいぜい怪が御薗木君と関係があるものだと知って、その想いを見せようと渡すことくらいしかしてないや」
 先輩は自分が変われたのは俺のおかげだと思っている。怪の力はあまり関係なかったと考えている。実際にそうだったのかもしれない。先輩が一番深く関わり続けたのは俺だったのだから。
 でも俺は怪の想いに触れることで大きく変わることが出来たし、そもそも怪の一件がなかったら変わろうとすらしなかったのではないだろうか。本当に怪は消えてしまうべき、忌むべき存在なのだろうか?


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# by zattoukoneko | 2013-05-07 05:44 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』4-1-2


 柊の言葉に真琴が少したじろぐような様子を見せた。怪に意識が乗っ取られていたとはいえ、彼女は何人もの人をその手で殺してきたのだ。殺気は本物だし、それに怖気付かない方がおかしい。
 けれどすぐに真琴は威勢を取り戻した。
「どうやって殺すのさ。仮にナイフを持っていたとしても僕には怪の力がある。人の力じゃ太刀打ちできないと思うけど」
「方法なんてどうでもいいわ。わたしが口にしているのは決意だもの。どんなことをしてでもそれを成し遂げてみせるという固い想い」
 それから柊にしては珍しく、それとわかる嘲笑を浮かべた。
「許斐さんは怪をつくったくせに想いの怖さを理解していないのね。力なんてなくても気持ちが確かなら人は選んだ道に向かって突っ走るものなのよ。それとも本当は理解しているのだけれど、自分の心に嘘を吐いているから怪に逃げてしまっているのかしら?」
「……」
 確かに真琴がどうして他人にまで怪の力を渡そうとしたのか、そこに思考の飛躍を感じる。
「要はそこが単純ではないところなのよ。許斐さん自身もきちんと整理が出来ていないのかもしれないわね。まあ人間というものは得てしてそういうものだけれど」
「不条理をなくして世界を改変したいというのが真琴の本当の想いじゃないって、柊は言いたいのか?」
「別にそこまで否定しようとなんて思ってないわ。不条理だと感じること、境遇に対する不満は多々あるし、それに直面したとき自分の無力さを感じることも多い。許斐さんの場合は御薗木くんの亡くなられたお母さんの件があるし、余計にそれを意識したのではないかと推測出来るわね。だから怪の力を世界の改変に使おうというのも一応はわかる」
 柊はそう言葉の上では納得できるものであるとしつつも、その端々からは違うところに本当の意図があるのだろうと考えていることが窺い知れた。
「ただ、どうやら世界のすべてを変えることまでは無謀だとも、許斐さんは感じているみたいね。怪を渡した際にその想いに呼応し、かつ耐えられる人なんてそうそういない。わたしや立花先輩は怪を引き受けることまでは出来たけれど、その力を気随気儘に利用したし、許斐さんが長年かけて溜めていった想いとも別の想いを抱いていた。相互に作用した結果、わたしたちはまったく別の行動を取った。それは当り前のことでもあるわね。人それぞれ別々の想いを抱いているのだもの、いくら怪の想いが凄絶なものだろうとそれを受け取った瞬間に変化が起こる。そのことは許斐さんも今回の件を通じて知ったような気がするのだけど、どうなのかしら?」
 真琴は目を逸らして沈黙した。受け入れたくはないのかもしれないが、すでに柊の言った通りだと思っていたのかもしれない。
 小さく言葉を吐き出した真琴は、苦しそうだった。
「だったら……どうしろっていうのさ」
「決着をつけなさい。そして怪と決別して消してしまいなさい。自分でそれが出来ないなら、わたしがそれをやってあげるわ。熱い血潮で冷たい想いを溶かしてあげる」
 それが決意というものなのだろう。鋭利な刃物のように鋭くて硬かった。
 けれど氷のような冷たさがそこにはないということに俺は気付いた。いつもならもっと冷めていて、場合によっては冷酷とも受け取れる言葉を突き付けるだろうに。
 俺は柊を止めた。おそらくだけれど、そうされることを彼女も望んでいる気がした。
「柊の決意は聞いた。でも俺は真琴を誰かに殺されたくないし、柊にも誰かを殺してもらいたくない。すでにその手が人の血で染まったことがあったとしてもだ。それに気になることが一つある。まだ俺は真琴の決意を聞いていないんだ」
 俺の制止に、柊はあっけなく目に見えない刃物を引いた。
「それもそうね。世界を変えてやろうなんていうのはインパクトがあるだけで、所詮子供騙しでしかないわ。それは想いの一つとしては認めるけれど、許斐さんが他にもいくつかの想いを口にしていたというのも気になる。今は無理だと諦めたようだけれど、それは亡くなられた御薗木くんの前のお母さんを助けようという気持ちに、本当に整理が付いたということを意味するのかしら。それは青葉さんを今の御薗木くんのお母さんとして認められていないという現状にも繋がっている気がするのよ。他にも御薗木くんの力になりたいとか、わたしや立花先輩のような辛い境遇にいる人を助けたいとか、結局想いはどこに向いているのかしら?」
 柊の言葉に重なるように遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。それに合わせて喧騒も響いてくる。
「御薗木くんにも止められたことだし、ここは一度引くことにしましょう。獲物も持っていないし、大勢の人の前で殺すのも難しいでしょうしね。ただ許斐さんが今後も怪を辺りにばら撒いていこうと本気で考えているのなら、わたしは伝えた決意の通りにやらせてもらう」
 結局真琴もこの怪の一件を通じて変わらなければならないということか。俺も母さんの力を借りて変わることが出来たけれど、まだその整理が終わったわけじゃない。
 ふと隼人の忠告を思い出した。俺たちは高校の教科書のようにそれぞれやろうとしていることが違っている。科目が小中のものより専門的になったのだからそれは自然なことでもあるのだけど、あいつはそれぞれの繋がりが無視されていると嘆いた。その言葉は一つの示唆になったと思う。俺も柊も立花先輩もバラバラだった。でも想いは交差していたはずで、それに気付いたからこそ俺は立花先輩を助けるときに柊を巻き込んだ。そして改めてその言葉を思い返したとき、俺は隼人に一言伝えるべきだと思った。
 救急車が公園のすぐ近くまで来たようだ。俺は真琴に向き直り、自分の考えを伝える。
「怪にまつわる事件、そこには前の母さんの一件も含まれるけど、それに関わった人たちの想いを俺は一度整理したい。当然真琴もそこには入ってる。俺の横に並んで力になりたいって言ってたけど、そのことにも何らかの答えを出すつもりでいる。だけどほんの少しだけ時間が欲しい。立花先輩には、目が覚めたときにすぐ伝えないといけないことがあるから、どうしてもその後になる。それまで待っていてくれるか?」
 俺の問いかけに、真琴はそれまでと少し違う言葉を発した。
「鏡にいが僕のことを助けてくれるの?」
 それが真琴の本音なんだろうなと感じた。真琴は俺や誰かの力になりたいとばかり口にしていたけれど、自身の苦しみはほとんど語っていない。本当は誰かに救いの手を差し伸べてもらいたかったんじゃないだろうか。
 今の俺と真琴は距離が離れているせいで、その頭を撫でてやることは出来なかった。
「約束する。まだその方法は見つけていないけど、でも必ず真琴の所に向かうから」
「……わかった。待ってる」
 了承してくれたことを確認すると、俺は母さんに真琴と柊を一度家に連れ帰って欲しいとお願いをする。特に柊はウエディングドレスのままじゃ出歩きにくいだろうし。立花先輩の病院へ付き添ってから、みんなには改めて連絡しよう。
「行ってらっしゃい、鏡夜くん。帰ってくるの待ってるから」
 母さんのその言葉に背中を押されて、俺はようやく到着した救急車に立花先輩と一緒に乗り込んだ。


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# by zattoukoneko | 2013-05-01 06:17 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』4-1-1


   四章


   一.


 真琴は今年度になって再会した頃から、毎日のように不条理という言葉を口にしていた。それで指すところのものをどうにかしたいと考え続けてきた末に、怪を生み出したということなのだろう。その想いを積み重ねる大きなきっかけとなったのが俺との出会いということなら、最初に知り合ってからもう六年もの間苦しんでいたということになる。思い出すのを放棄した俺の代わりに、真琴はあの水の中から冷たい母さんを幾度となく引き揚げようと涙していたのか。
 俺は死んだ母さんのことを振り返ることが出来たし、受け入れようとしているけれど、おそらくはそれで真琴が怪を消してくれるということにはならないのだろう。
「そうだね。僕はあまりにも鏡にいのお母さんのことを夢に見過ぎた。あの冷たさを忘れることなんて一生できないんじゃないかな。それに話もそんなに単純じゃないし」
「世界は不条理に満ちているってやつか……」
「正解。鏡にいにしては鋭いじゃん。色も見えるようになったみたいだし、変わったっていうのは本当なのかもね」
 いつも通りの小馬鹿にした口を利きながら真琴は頷いた。そして最近は夢を見なくなってきているのだと告げる。
「お母さんが死んでしまったという事実は変わらない。僕の怪の力を使っても生き返らせることは出来ないし、もしかしたら力をもっと蓄えれば可能になるのかもしれないけど、そうしたらみんな大事な人を生き返らせようとして大変なことになるよね。だからそこまでは望まないことに決めた」
 そう心の整理が徐々に付いていく一方で、思い通りにならないこともたくさん出てきたという。
「よく言ってるやつだと、どうして女だからって色々決め付けられなきゃいけないのかってこととか。学校の制服とかは昔の社会が勝手に作り出したルールでしょ? それにも腹立つんだけど、そういうのはこれからみんなの認識が変わることで新しくなるとも思う。でもそれだけじゃないんだ。生物として男と女じゃやっぱり違ってる。自分は女なんだって何度も思い知らされたよ。特にこの年齢になるとさ」
 第二次性徴というやつか。言われて俺も真琴ぐらいの年齢のときに、自分の声が低くなるのを嫌だと感じていたことを思い出す。女子も同じように身体の変化に色々なことを思うのかもしれないけれど、男の俺には想像することは難しかった。そしてそのことこそが男女の間にある溝を如実に語っていた。
 真琴は雨に濡れた制服の代わりとして着ている俺の服を摘まんで示す。
「これ鏡にいが今の僕と同じ年齢の頃に着てたやつなんでしょ? でもぶかぶかだね。中学くらいじゃそんなに差は出ないと思ってたんだけど、実際には結構違うや」
 少しふざけた様子でそんなことを話していた真琴は、一転して真剣な表情になって俺の方に視線を向けてきた。
「僕はずっと鏡にいのことを見つめてきた。学校が分かれて会えなくなってからも、最初に知り合う前からも、ずっと。鏡にいの隣に並んで対等な立場で何か役に立ちたいと思ってた。だけど小学校低学年の僕はいつもあしらわれてばかり。もちろん僕が子供っぽいことばかりしてたってのもいけないんだろうけどね。でもあれから何年も経った。僕も成長した。だから試しに訊いてみるよ。――鏡にい、僕は鏡にいの力になれる?」
「それは……」
 真琴と協力して何かをするなんてこと考えたこともなかった。俺にとっては世話のかかる近所の子供で、懐いてくれているのはわかっていたけれど、対等な関係として見たことは一度もない。
 言い淀み、答えられなくなった俺に、真琴は寂しそうな笑みを向ける。
「そういうことだよ、鏡にい。僕はどこまでいっても無力なままなんだ」
「だから怪の力を蓄えたってことなのか。でもどうしてそれを他の人に渡したりなんかしたんだ?」
 俺のことを考えて想いを募らせたというのなら、それを他人に分けようとはしないんじゃないだろうか。真琴は怪の力を使って何をするつもりだったんだろうか。
 その疑問に答えてくれたのは真琴本人じゃなかった。
「そんなに単純なことじゃないと許斐さんが話していたじゃないの。確かに御薗木くんがこれだけ鈍いと、苦労する気持ちもわかる気がするわ」
 純白のウエディングドレスに身を包んだ柊は、救急車を呼び終えたのか、俺にそう告げながら立花先輩の方に真っ直ぐに進む。俺ともそんなに距離は離れていない。先輩の呼吸はさっきより随分と安定しているようだった。
「詳しくはわたしにはわからないけれど、今はただ寝ているだけみたい。きっと許斐さんが怪の力で容体を安定させてくれたのね」
「……」
 人見知りが出たからなのか、答えたくないと思ったのか、いずれにせよ真琴は沈黙で返した。それを俺は肯定と受け取ったし、柊もそうしたようだった。
「許斐さんは徐々に自分の気持ちを整理してきたとはいえ、怪とその力を宿すきっかけになったのは御薗木くんの亡くなられたお母さんとの一件で、助けられない無力さを何度も味わったからというのは確かなのでしょうね。だから怪はその一つの現象、属性として冷たさを有しているのだし。そしてお母さんはすでに亡くなられているからと自分の気持ちに蹴りを付けたのなら、残っているのは助けたいという想いということになる。それをわたしや立花先輩に向けてくれたと、そういうことなのでしょう?」
 真琴はしばし言い淀んだ。けれど最終的には柊の言葉を認める形になった。
「他の人が苦しんでいるのを見てるのに耐えられなかったからだけどね。でも力があればその人が背負っている不条理に打ち克つことが出来るかもしれない。そう思って怪の力を渡してみたんだ。本当にその力を役に立てたい相手は鏡にいだったんだけれど」
 それから真琴は、俺の隣にいる今の母さんに視線を移した。
「僕は鏡にいが目に色を見る力を取り戻したいと考えているなら、どうにかしてそれを叶えてあげたいと思っていた。方法は分からないけどそのためには人ならざる力が必要なんじゃないかって考えた。でもそれを達成するのに助力したのは普通の人間でしかない青葉さんだった」
 真琴はそこで小さく頭を振った。その仕草はどこかイヤイヤをしているようにも見えた。
「もう気付いているかもしれないけど、僕にとって青葉さんは鏡にいのお母さんって感覚じゃない。だからずっと『青葉さん』って呼んでる。本当のお母さんは死んでしまったあの人だよ。今回は鏡にいを救ったかもしれないけど、それは取った行動が前のお母さんに偶然重なったからに過ぎないと僕は思ってる。これから鏡にいはまた何か助けが必要になるかもしれないし、そのときのために僕は怪の力をより高める。柊さんや立花さんもきちんと助けられなかったけれど、でも一連のことでこの力があれば世の中の不条理に人は立ち向かっていけると確信した」
「あら、随分と見縊られたものね」
 胸に秘めていた決意を口にした真琴に、しかし柊は冷たく言い放つ。
「確かに今の立花先輩は怪の力で容体を安定させている。だからその力は人を救うのかもしれない。わたしの場合でも、ずっとあの家庭の中に入れられていたら祖母と同じ道を辿ったかもしれない。そう考えれば、そこから抜け出す力をくれたのだから、救われたと言ってもいいのかもしれないわね。でもね、その後わたしが人殺しになり、無関係な人の命をいくつも奪ったというのも事実よ。許斐さんが怪の本体であり、それを離さないつもりなら、その存在を認めたくないわたしはあなたを殺すわ」
 そして柊は腰に手を遣る。怪に取り憑かれていた立花先輩に、サバイバルナイフを手にして飛び掛かっていったときのように。
 けれど腰に手を置いて、それだけだった。柊が溜め息を漏らす。
「ウエディングドレスだからナイフを隠す場所がなかったのよね。こんな服普段着ることないからわからなかったのよ。幸か不幸か今のわたしには許斐さんを殺すことが出来ない」
 嘆息しながらも、柊の口調は真剣そのものだった。怪本体である真琴より冷淡で恐ろしい言葉を紡いでいる気がする。
 その鋭利な言葉でもって柊は真琴を斬りつけた。
「あなたは力とともにあの冷たい想いをわたしたちに押し付けた。あんなものはこの世にいらない。消えるべきものだわ。あなたが怪と深く関わっていて、その関係をやめないというのなら、許斐さんごとね」


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# by zattoukoneko | 2013-05-01 06:16 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-4-2


 あの日母さんに用水路で助けてもらって、それからどんな想いで真琴は過ごしてきたのだろう。死んだ母さんをその心の中にずっと抱き続けてきて、相当苦しかったはずなのに。でも真琴はそれを表に出さずに怪になるまで冷やしてしまった。
「鏡にいがさっき言ってた通りだよ。ずっとお母さんのこと思い出そうとしないんだもん。だから代わりに僕が大事に持っていたんだ」
 真琴は公園の入口に立ったまま、それ以上は一歩も近付いてこようとはしない。その表情がよく見えないこの距離が、今の俺たちの間にある隔たりなのだと感じさせられた。
「ずっと僕は自分のせいで死ぬことになってしまったお母さんのことを、その家族の人に謝ろうと思ってた。相手の家族の名前は知ってて、でも用水路に落ちたのは幼稚園の頃だったから、どうやって会いに行けばいいのかよくわからなかった。小学校に上がったら通学班の中に色が見えない先輩がいたんだ。名前を聞いてすぐにその人が死んでしまったお母さんの子供だと気付いたよ。ずっとずっと謝ろうと思ってたから、すぐにでもごめんなさいって言いたかった。けどその人はとても元気だったんだ。僕は事件のときから悩み続けていたのに……」
 真琴は結局謝ることが出来ずに、塞ぎ込んでしまった。そんな真琴に気付いて声をかけたのが問題の相手である俺だった。
「最初は誰のせいで悩んでるんだよって思ったさ。でも鏡にいと話しているうちに、気付いたんだ。鏡にいはお母さんのことを思い出さないようにしてる。辛くないわけじゃなかったんだ。むしろ考えるとダメになるから、整理し終わったことにしてたんでしょ? だったら僕に出来るのは、余計なことを口にしないで一人で抱え込むことくらいしかない」
「それで真琴は想いを蓄積させていったのか。怪になるほどに」
「鏡にいは怪の想いに触れたことで、お母さんが冷たい気持ちで死んだわけじゃないって答えを出したよね。それは当たってるのかもしれない。僕は助けてもらっただけでその想いにまで触れたわけじゃないから。冷たいものを溜め込んでいったのは僕自身の心だってこともわかってる。でも……仕方ないじゃないか」
 真琴が肩を小さく縮こまらせた。
「あの水の中でお母さんは冷たくなっていったんだ。死にゆくその腕に、僕は抱えられていたんだよ。その感覚を忘れることなんて出来る?」
 俺は怪から真琴の経験を垣間見た。しかし真琴自身になれたわけではないから、そのときに感じていたことを知ることが出来たわけではない。想いに触れながらも間接的な経験で留まっていたのだ。
 それに見たのは母さんが死んだ事件のところだけ。その後真琴がそれをどう捉え、思い起こし、累積させていったのかを知らない。
「僕は何度も何度も夢に見た。凍えるような水の中で鏡にいのお母さんがしがみついてくるんだ。そしてどう足掻いてもお母さんの体は冷たくなっていく。次第に夢の中でも、そして夢から覚めても、一つのことを思うようになった。どうして助けることが出来ないんだろうって」
 昔の出来事なんだから助けられなくて当たり前だ。たとえ夢の中だとしても、起きてしまったことがトラウマとして心の傷になっていたら、それを変えることは容易なことではない。
 真琴はそのことを理解しつつも、どうしても納得できなかったらしい。
「世の中不条理だと思った。鏡にいのお母さんは僕を助けようとした。僕は夢の中でだけれど、そのお母さんと一緒に助かろうとした。でもお母さんは身体が丈夫じゃなかったし、僕は子供で大人を流れる水の中から持ち上げるだけの力がなかった。だからこんな世界修正してやろうと考え始めたんだよ」
「もしかして真琴は世界に対して冷たい想いを向けるようになったのか?」
「そう。怪の力が冷たいのはお母さんが死んだときの記憶が一緒に積み重なったからだけど、それを積み重ねたのは世界の不条理を憎む僕自身の心」
 それを証明するかのように真琴の体から冷気が噴き出した。距離があるのに、放出されたそれは俺の体から急速に体温を奪う。降っていた雨は霰へと変わり、頭や肩に衝撃を与える。そんな中でようやく真琴は傘を下ろした。
「空から降る水を固めるくらいの力を手にすることは出来たよ。降ってくるのを止めるのは無理だけどね」
 嫌いだと言っていた雨を真琴は別のものに変えてみせた。落ちてくる氷の粒はぱらぱらとその体の上に積もっていく。
 人にそんなことができるはずがない。明らかに異なものの力だった。
「怪は真琴のところに戻っていったってことか……」
 そんな俺の呟きに真琴は首を横に振った。
「怪の本体はずっと僕のところにいる。あるいは僕自身が怪だって表現した方がいいのかもしれないな。柊さんや立花さんには想いと力の一部を分け与えただけだよ」
 想いを分け与えるというのは言葉の通りではないだろうと思う。人は他人に自分の気持ちをそんな簡単には伝えることが出来ないのだから。ただ真琴が怪そのものだというのなら納得がいく。活気に溢れた部活動に参加した後は自然と元気になっているものだし、逆に陰気な雰囲気が漂う病室にしばらく入れられれば気持ちも落ち込んでしまう。何らかの想いが集まっているところに参入することで、人は意外と簡単にそれに影響されて想いを自分の心に分けてもらえる。真琴自身が冷たい想いの集合体だというのなら、似たようなメカニズムで他人に怪を移すことが可能なのかもしれない。
「鏡にいの考えで大体合ってるんじゃないかな? 周りを見ずに元気だけ振り撒いているような人はその場の雰囲気を感じ取れないし、持って帰ることも出来ないしさ。僕の持ってる怪も同じだよ。相手の心の中に冷たい部分があって、それに共感できる素地がないと受け渡すことは無理だね」
 そこまで語ってから、真琴は話を少し前に戻す。どうしてそういうことをやるようになったのかについて。
「僕は怪を手に入れたけど世界は広い。残念だけど一人じゃこの世にある不条理をすべてなくすことは無理だった。途方に暮れかけてたんだけど、周囲を見渡したら同じように苦しい境遇に必死に耐えようとしている人が何人もいることに気付いた。やっぱり世界は不条理に満ちてたんだよ。だったら僕がそれを変える力を分けてあげようと思った。そして同じようにして、分けた先の人が別の人に怪を移していけばいつか世界は変わるはずさ。ただ怪の想いは引き受けるには辛いものだから、なかなか相手が見つからないっていうのが難点だったけど」
 確かに柊や立花先輩のように、峻烈な環境に長く置かれていた人はそうそういないだろう。そして想いを閉じ込めて冷やしてしまうのも稀有な例だと思う。俺もいわば色のある世界を凍らせていた冷たい想いの持ち主なわけだけれど、周囲から目を逸らしていたから受け入れる態勢にはなっていなかった。目を向けるようになったから立花先輩は怪を移すことが出来たということなのだろう。
 真琴が冷たく沈めた声で告げる。
「ようやく怪を他の人に渡せたのに失敗しちゃったよ。でも怪はまだ僕の中にいるし、諦めるつもりなんかない。この力を使って世界から不条理をなくしてみせる。そのせいで苦しむ人を救ってみせる」


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# by zattoukoneko | 2013-05-01 06:14 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-4-1


   四.


 公園を眺め回して、これまで如何に自分が周囲をきちんと見てこなかったのかを知った。この前母さんと一緒に話をしたブランコは、安っぽいピンクのペンキで塗装され、それも古くなっているせいで所々剥げ落ちている。そういえばピンク色のペンキは需要がないから余っているという話を美術部の顧問をやっている先生から聞いたことがある。辺りを囲む木々はその葉の色を半ば枯れ色にしていた。落葉したり紅葉するにしてはまだまだ早い季節だ。おそらくは氷漬けになっていたことで、きちんと光を吸収したり栄養を回すことが出来なかった結果なんだと思う。
 雨が降っているせいでどんよりと薄暗くなっていることも一つの要因なのかもしれないけれど、これまで思い描いていたよりずっとこの公園の色はくすんでいた。もっと鮮やかな色をしているか、もしくは落ち着いた色をしているかのそちらかだと思っていたのだけれど、実態は行政管理の行き届いていないやや廃れた公園だったらしい。
 幼い頃はここで他の子供たちと遊んだこともあったから、そのときの賑やかな思い出を投影してしまっていた可能性もある。いずれにせよ思い込みでこの公園を見ていたのは確かだ。
 腕の中にいた母さんが、ようやく俺の変化に気付く。
「鏡夜くん、もしかして色が見えるようになったの?」
 俺はそれに頷いて返すと、苦笑しながら告げた。
「今頃になって初めて母さんの顔を見た気がするよ。これまで何度も見てきたはずなのに。虹彩の色素が薄くて綺麗な栗色の瞳をしていることとか、当たり前のことなんだけど唇が肌よりずっと赤いこととか、そんなことすら知らなかった。すごい新鮮な感じがする」
 色が見えるとか見えないとか、それは表面的なことだ。必ずしも見えた方がいいとは言えない。むしろ色があることを当たり前に思って周囲の綺麗な様子に気を配れない人よりも、色がない世界でその情緒に気を向けられる人の方がこの世の美しさを良く知っていると思う。俺も絵を描くときに鉛筆画や木炭画を選んだのはそのことを表現できるだろうと考えてのことだった。
 けれど俺の場合は違っていた。色を取り戻したいとは真剣に考えていた。画材屋で絵具の種類の豊富さに圧倒され、そして悔しくなった気持ちは本物だったから。でもそれを口にするだけで、世界からはずっと目を背け続けていた。結局色が見えないことを武器にするどころか、そのせいにして逃げていただけだったんだ。だから俺の絵は駄作と柊に言われたのだ。描こうとしている対象から目を外していて、きちんとした絵が描けるはずがない。
「それは私も何となく感じてた。鏡夜くん本当は色々なものを見ているはずなのに、肝心なところを、そういうものだからって決め付けて、目を逸らしてしまうの。見ていない部分は想像で埋めちゃうから、結局その本質を捉え損ねてしまう」
 母さんは俺の抱えているその問題までは気付いていたようだけれど、どうしてそれと色が見えないことが繋がるのかまではわからないようだった。まだ俺が急に色覚を取り戻したことを不思議に思っている母さんに、何が起きていたのかを説明する。
「想いは現象となるから。俺は物事の形だけは捉えていたけれど、母さんの指摘した通り、その本質まで見ようとはしていなかった。それは姿勢だけじゃなかった。むしろ無意識に心がそうさせていたんだ。きっかけは前の母さんが死んだこと。深く考えてしまうと世の中のすべてを憎んでしまいそうになっていたから、そうなるくらいならと目を向けるのをやめたんだ。見えないところは常識とか摂理とかそういうもので誤魔化してね。結果として俺は世界の色を見れなくなった。見ようとしてないんだから、それは自然なことだと言えると思う」
 その性根を直してくれたのが今の母さんということになる。ずっとあの事件のことから目を背けて来た俺は、怪が見せてきたものからも逃げようとした。昔は病弱な母さんに全部を押し付けた。そしてさっきは俺が母さんを振り返らなかったせいだとし、その際に都合の悪いことに目を瞑るため、その想いをでっち上げた。
「母さんは死ぬときには冷たい気持ちを抱いていたと俺は考えたけれど、それは思い込みだった。母さんは自分のしたことに納得していたし、助けようとした子供を救えたことに満足していた。だから当然のように用水路の周りは凍らなかった」
 残された家族のことも少しは考えて欲しいというのが、正直なところだ。でもそれはうちの家族みんなに言えることなのかもしれない。俺も立花先輩を助けるために突っ走ってしまったと思うし、父さんも柊を助けるために自分の命を賭した。そしてついには今の母さんまで俺を助けようとして冷たい怪の中に飛び込んできた。家族というのは自然と似てくるものなのかもしれない。
「そういえば母さんは怪に触れていた時間が短いから、その想いをほとんど見れていないんじゃないかと思う。俺もずっと取り憑かれていたわけじゃないから推測が交じるけど、でも父さんが死ぬときに感じていたことがわかった気がするんだ」
 それを整理することは俺にとってだけではなく、母さんにとっても大事なことのはずだから語って聞かせる。場所が父さんの死んだ公園だというのは偶然だけれど、でもだからこそ一つの決着を付けるべきだと諭されている気にもなった。
「おそらく父さんも、柊に襲われたときに怪の持っていたその想いを垣間見たんだと思う。そこで前の母さんが最後にどんな気持ちを抱いていたのかを知ったんじゃないかな?」
「やっぱりお父さんも、前のお母さんのことはずっと気になっていたのかな?」
「そんな素振りは見せなかったけどね。多分そうなんじゃないかと思う。やっぱり肉親の死ってとても大きな出来事だし、忘れることが出来るようなものじゃないから」
「そうだね。そこは嫉妬するところじゃなく、嬉しく感じるべきところなのかも。前のお母さんのこともきちんと愛していて、その人を大事にした想いは抱きながらも新しく私のことを好きになってくれた。ちょっと複雑な気持ちにはなっちゃうけど、でも前妻がいなくなったから乗り換えただけって、そんな薄情なことよりはずっといいよね」
 俺はもう一度周囲を見渡した。事件の当時よりは大分マシになったけれど、この公園はまだ氷に閉ざされたままだ。
「今際の際に立ち会った母さんから、父さんは満足そうに微笑みながら息を引き取ったと聞いてる。柊を助けられたってこともあるんだろうけど、前の母さんが自分の取った行動に悔いなく逝ったということをきちんと知ることが出来たから、安心したんだと思う。父さんもあの事件の現場にいたわけじゃないからね、どうしても気になってたんじゃないかな」
 そしてここからが更に大事なこと。これから決着を付けなければいけないことがある。
「父さんは心穏やかに息を引き取った。だからこの公園を凍らせるわけがない。氷に包ませることになったのは死んだ母さんに関わる冷たい想いだったんだ」
「え? でも前のお母さんは納得して亡くなられたんでしょう? だったら冷たい想いを抱いているはずがない」
「わかってる。だから母さん自身の想いじゃないよ。それは別の人の想い。母さんの事件から目を背け続けることで、気持ちを冷やしてしまった人間がいたんだ。怪が柊から引き離されたときに、その冷気が溢れ出たんだ」
 目を背けていたのは俺だ。でも怪を作り上げてしまったのは俺じゃない。用水路の中で人が冷たくなっていくのを間近で感じていた人物が、その感覚を忘れられずに積もらせていき、結果怪にしてしまった。
「その通りだよ。だから僕は雨の日が嫌いなんだ」
 公園の入り口からその人物の声が聞こえる。しっかりと抱えた薄紅色の傘に隠れてその顔は見れなかったが、幾重にも折り畳まれたジーンズは昔俺が穿いていたものだし、その声も毎朝耳にしているから間違えようはずがない。
「真琴も来ていたんだな」
 俺の言葉に、傘が小さく頷いて応えた。


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# by zattoukoneko | 2013-04-24 21:07 | 小説 | Comments(0)