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キリンの首は、伸ばそうと思ったから長くなったのかもしれない?!

「キリンの首が長くなったのは、彼らが伸ばしたいと思ったからかもしれない」――そんなことを言うと、数年前までは周りから馬鹿にされたものです。小中高の間に、進化論にちょっとでも触れていれば、そのような説は空想甚だしいとわかるからです。
しかし、近年になって、科学者もやや本気にこの可能性を信じるようになってきました。今回はその話題を取り上げてみたいと思います。

まずは進化論の基礎から復習しておきましょう。高校までに習っているとはいえ、進化論は誤解を招きやすいものですからね。
現在の主流となっている進化論では、「親が経験したことは、子には引き継がれない」と考えられています。例えば、低身長な家庭に生まれた方がそのことに悩み、背を伸ばしたいとバレーやバスケに励んだ結果、本当に高身長になったとします。けれど、その身長の伸びは子供には遺伝しません。
このことは次のことを考えれば自明とわかります。事故等によって後天的に足を失ってしまった方が子供を産んだ場合、その子に足がないなんてことはあり得ません。あるいはくせっ毛がイヤでストレートパーマをかけていたからといって、自分の子供がまっすぐサラサラの髪の毛で生まれてくることはありません。
上記の3例は、どれも後天的に身体に変化が生じたものです。つまり、体細胞(の構成)が変わっただけのもの(「獲得形質」と呼んでいます)です。
しかし、遺伝に関わるのは生殖細胞です。いずれ精子や卵になる精原細胞卵原細胞は、その他の肉体を構築し頻繁に入れ替わる体細胞とは、発生の初期段階で分かれて保管されています。細胞の複製を何度も繰り返していると遺伝子情報(≒DNA)が破損してしまう危険性も高まるので、それを避けるように大事にされているからと考えられます。これは当然ことでもあって、遺伝情報がそうコロコロかわってしまうと、親と子供でまったく別の生き物になってしまいかねません。脈々と生物種が生き残り続けるためには、必要不可欠とすら言ってよいものでしょう。
ただそれは、「生物は遺伝子の乗り物」に過ぎない、という(我々人間からすると)ちょっと悲しい結論でもありました。私たちが生きている間にどれだけ頑張って学び、自身を成長させようと、子供に受け継がれるのは自分の親の形だけなのです。「趣味で意気投合した相手と恋に落ちた」「夢に向かって努力している姿が格好良かった」みたいな人間物語は生殖の面からみるとどうでもいいことで、子供を産むということはお互いの親の遺伝子を組み合わせることであるとされていました。

以上のような「常識」を、2014年、ひっくり返すかもしれない論文がNature Neuroscience誌に発表されました。親マウスの獲得形質が、子孫にも引き継がれたように見えるという報告です。
(Nature公式HPより原論文:Brian G Dias, et al. Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations. Nature Neuroscience 17, 2014, pp. 89-96.
実験内容は次の通りです。父マウスに電気刺激を与えながら特定の匂いを嗅がせていたところ、その匂いを嗅ぐだけですくみ反応をするようになった(条件反射の獲得とも考えられます)。その父マウスから生まれた子マウス、孫マウスにもその匂いを嗅がせてみせたところ、それまで同時に電気刺激を与えるようなことをしていなかったのにも関わらず、すくみ反応が観察された(親の獲得形質の遺伝)。
この報告は、これまでの「常識」であった獲得形質は遺伝しないという説への反証とみなすことができます。

ただし、なぜ父マウスの恐怖体験が子孫にまで遺伝したのか、その仕組みまでは現時点ではわかっていません。
ここからは想像になりますが、父マウスの恐怖体験が体内ホルモンなどに影響し、それが生殖細胞の遺伝子(この場合、DNAとは限らないかもしれません)を変異させ、子孫マウスにも父マウスと同様の神経変質を生じさせたのではとも考察できます。
あるいは、これは別の研究(糖尿病を発症させたマウスの子供は重度の肥満になりやすい)で示唆されていることなのですが、親世代の経験が生殖細胞内にあった休眠状態にあったDNAをアクティブ化させた可能性も考えられます(この場合には、その遺伝情報はすでに持っていたものなので、厳密には獲得形質とは言えないかもしれません)。

獲得形質が遺伝するとなれば、冒頭の「キリンは伸ばそうと思って首を長くしたのかも」という言説も多少の真実味を帯びてきます。つまり、意思によってある程度は進化の方向性が決定されてきたのかもしれない、ということです。人間がその人生で学び成長した結果も、ある程度ならば子供に受け継がれるかもしれません。
ただし念のため注意書きしておくと、「ある程度」というのが大事となるでしょう。キリンの首と同じように語られることのある「ブタがいくら空を飛びたいと鳥に憧れを抱いても、背中にその翼は生えてこない」という言説までは、おそらくひっくり返らないからです。キリンは元から持っている首を伸ばしているのに対し、ブタはまったく持っていない器官を獲得しようとしているからです。そのような進化は起こらない、という常識までは、今回の報告では覆せません。ブタはどうしても空が飛びたいのなら、鳥の翼とはまったく異なる器官を獲得することになるでしょう(あるいは、飛行機を操縦できるような知能を得るのでもいいですが)。
同様に、どれだけ勉強して頭がよくなったとしても、子供に受け継がれる可能性のあるのは発達した脳の構造だけであり、知識までは当然のように引き継がれないはずです。伝説級の野球選手から子供が生まれても、親が培った立派な筋肉構成くらいは遺伝するかもしれませんが、センスまでは伝わらないのと同じことです。

さて今回ご紹介した話は、2016年8月4日に子供電話相談室でも取り上げられ、話題になっていました。子供からの質問内容は「どうして高所恐怖症は起こるのか?」というもので、これに対して先生は今回の研究成果を挙げ、お父さんの恐怖体験が遺伝しているのかもしれないと回答されていました。
しかしこの回答はまずいなあと、個人的には感じました。ここまでで述べていた内容に、手のひら返すようで申し訳ないですが。
今回紹介した論文で述べられているのは、あくまでマウスのごく限られた恐怖体験についてのみ、です。それが極めて特殊な事例であった、という可能性もまだまだあるということです。
高いところが苦手、という感覚は、先祖が経験した恐怖体験が遺伝しているものなのかもしれませんが、そうでないのかもしれません。これを実験的に確かめることは容易ではなく、あくまで想像話にとどめておくべきと思います。
少なくとも、大学受験までの生徒さんに話す際には慎重にならないとなあ、と思ってます。ほとんどの大学ではここに紹介したようなことを書くとバツにされること、書くことによって評価されそうな大学の場合でも論述はしっかり記載すること、なども並行して教えていかないとですね。


by zattoukoneko | 2018-07-22 18:10 | 生物・医療 | Comments(0)

「ソース出せ」というコメントは愚かしいということについて

ネット上で「ソース出せ」という批判を見かけ、不快な気分になられた方は多いのではないでしょうか? 後でもう一度述べますが、このコメントは喧嘩腰な印象を相手に与えるものですし、何より、すべての人にとってほとんど価値のないものだからです。
学会場などでは、さすがにこのようなコメントをされる方はほとんどいません(皆無、と言えないところが嘆かわしいところです)。今回は、なぜ価値がないのか、という説明を試みたいと思います。

そもそも「ソース出せ」というコメントが出てきたのは、20年ほど前に日本でディベート競技が流行ったこと(1996年、中高の全国大会が開かれるようになりました)が背景にあるのではないかと想像します。
日本におけるディベート競技とは、ある議題に対して競技者を賛成/反対に分け、立論・反駁を行った後、観客にどちらに説得力があったかを判定してもらうものです。この反駁の中で「ソース出せ」(とは流行った当時は言っていませんでしたが)と主張し、相手側が根拠を示すことができなければ、観客の中での相手の印象を下げることができるという非常に有効な手段とされていました。
これと同じノリのことを、ネット上に誰かが持ち込んだのではないかと思います。これこそソースのない、ただの憶測ですが。

しかしながら、これが有効であったのは、あくまで競技だからです。つまり、その場限りのお遊びでしかないからです。勝ち負けの判定員もなく、その後も議論の続いていく一般社会、とりわけ学術の世界では、悪い影響の方が大きくなると考えられます。

まず理由の一つに、学術の知識は所詮専門家集団による共通認識にすぎない、ということがあげられます。
根拠が(実験・観察の力によって)しっかりしていると思われている自然科学ですら、その知識は社会の影響を多分に受けていることが現在ではわかっています。根拠がはっきりとしない主張であったとしても、集団全体からそういうものだと認められれば、その説明は受け入れられます。あるいは逆に、どれだけ根拠を示そうと頑張った学説であっても、集団全体の認識に反していれば正しい説とは認められません(後者の一例となるテレパシーが科学とならない理由については、以前に「科学とは何か」という記事で紹介しました)。
したがって、ソース不足と感じられる説明であっても、その背景には社会・学会の共通認識という極めて大きなバックボーンがそびえている可能性があります。「ソース出せ」によって相手の言葉を詰まらせることができたからといって、競技のようにその場だけの勝った気分に浸っていると、いつの間にか集団全体からは厄介者扱いされていたなんてことにもなりかねません(実際、そうなってしまっている研究者に時折お会いしますよね)。
あるいはまた、根拠は実際にあるのだけれど、発表の場では時間や労力の都合上説明を省いてしまったということもあり得ます。このことは、学会発表や論文執筆を実際にされたことがある方には痛いほどわかる話なのではないでしょうか。発表内容を形作るよりも、引用文献をきちんと書いていくことの方が、時間も精神も削られる仕事です。原著論文や総説のようなきっちりした論文であればまだその作業にも我慢できますが、発表時間も極めて短い学会発表などではいい加減になってしまうところが、どうしても出てきてしまいます。
これに対し「ソース出せ」と批判することは、発表者の労力を膨大なものにするだけでしかなく、学術内容推進の場としての学会でやって褒められることではありません。
「ソース出せ」と言ってしまいたい衝動に駆られたときは、ぐっと堪え、相手が本当に検証不足だったのか、あるいは社会全体の共通認識が潜んでいるのか、慎重に見極めるだけの時間を取ることが肝要です。

そもそも学会(に限らず、議論)における批判というのは、発表者の意見を尊重し、その考えをより高みに押し上げるためにあるべきものです。批判者が自分の主張を声高に叫ぶことはあってはなりません(自分の主張をしたいのなら、自分が発表者になるべきです)。
したがって、根拠の説明が抜けていると感じられたとしても、それは時間等の都合であって、発表者は真摯に調べているはずだと看做して聴講するのがよいと考えられます。そうすることによって意識は論理展開の方へと向き、批判者は論理の飛躍を見つけ、そこを指摘することによって新しい課題を発表者または学会参加者に提示することが可能になります。
このような理念に対して、そもそも「ソース出せ」という言葉には、ディベートのルール紹介からもわかるように、「お前の言うことはそもそも信じられないんだよ! 根拠があるなら示してみろ!」という喧嘩腰なニュアンスが感じられます。つまり、相手を打ち負かしてやろうという意図があるのであって、発表者に貴重な時間を割いてもらった報告を台無しにしようとするものとなっています。言葉を向けられた発表者は、そりゃあ不機嫌になること間違いなしですし、周囲で聴講されていた方々も『ここにいたのは時間の無駄だったの?』とげんなりすることでしょう。
むしろ、こんな喧嘩腰の言い方をしてしまったら、本当は根拠がなかったとしても「○○はあります!」と意固地にさせてしまうかもしれません(もしかすると小保方さんもそんな心境だったのかなぁ……)。そうなってしまうと根拠の追及もうやむやになりかねません。学術ですら良好な人間関係の上に成り立っている、ということを肝に銘じておくべきです。

以上のように、「ソース出せ」という批判では、長期的な視野で捉えたときに学会・社会全体にとってあまり役に立たないのです。
議論をする際には、発表者に対する敬意が絶対に必要です。時には、論拠としている考えが馬鹿馬鹿しいと感じられることもあるでしょう。それでも(相手はあえてそのような馬鹿をやることに意義があると考えているのかもしれませんから)前提は前提として一度受け入れ、説明の運びがきっちりしているかに注目すべきです。そして批判を重ね、最終的に論が破綻したとなれば、そのときようやく「(やっぱり)根拠がおかしかったんじゃないですか? ソースを検討し直しましょう」ととどめを刺せることになるわけです。

もちろんのことながら、「ソース出せ」は有効な批判であることは忘れられてはなりません。それを何の検討もなしに、いきなり言い出すことは害が大きいということを今までは言ってきたつもりです。どうしても言わなければならないときには、その批判を用いることも重要となります。
つまり、実験をした形跡がそもそも見られない、結果に不自然な点があり研究不正が疑われる、などの場合です。
しかしこれらであっても、ある程度の検討がなされた上で提出されるはずのものです。また、このような不正行為は普通は起こらないはずのものです。
ですので、どうしてもソースを出してもらいたいときには、学会の質疑応答の時間にではなく、発表終了後にこっそり相手を捕まえて、「すみません、不勉強なもので○○がわかりませんでした。参考となる文献や実験結果がありましたら、ご教示いただけませんでしょうか?」などと言葉も選びつつ質問の形とするのがよいでしょう。それであれば発表者も気分を害することがなく、それどころか学生を教える気分で嬉々として後日メールで連絡をくれるかもしれません。もしくは根拠に薄かったとはっとして、いい指摘をくれたと思ってくれるかもしれません。
学会も社会である、人付き合いという政治の世界なんだとわきまえることで、学術発展が摩擦なく促進できるのです。

ここまで、学問の世界を思い描きながら、「ソース出せ」は愚かしいという話をしてきました。
しかしながら、このことは学問に限らず、一般社会やネット社会でも同様であるはずです。何か主張をしている方は、それが思い込みであったとしても、何かしらの根拠をもって話を組み立てているはずです。その思い込みを「くだらない!」と一蹴してしまうのは簡単なことですが、それで得られるのは一時的な勝った負けたの感覚だけです。相手にとっても、周囲の人にとっても、何ら建設的ではありません。時間はかかってはしまいますが、相手の議論をしばらくは発展させてあげて、そのうえであらためて主張に価値があるのかないのか検討するのが理想的と言えるでしょう。
また、一般社会には元よりソースを出すことをその役割としているような記事もあります。新聞記事や行政などが出している資料がその代表ですし、個人の方でも情報提供や解析をメインに記事を出されている方がいらっしゃいます。その場合には「ソース出せ」という批判が、学術よりも早く出しやすくはなります。
相手が何を意図して話をしているかをまず読み取る姿勢が、学術を想定しながら説明した内容に加えて必要になってきそうです。

何かしらの意見を見たときには慎重に相手の意図を見極めること、批判とは相手の考えを発展させるものである、人間関係を意識し一時の勝ち負けに囚われないようにする、といったことが身についていくと、おのずと「ソース出せ」がくだらない批判だとわかってくるのではと思います。

by zattoukoneko | 2018-07-01 20:08 | 雑記 | Comments(6)