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脳死臓器移植論議における「日本の死生観は東洋的」を主張する価値について

0)はじめに
脳死臓器移植の是非が論じられるとき、しばしば推進派も反対派も「日本人の死生観は東洋的なものであり、西洋のものとは異なっている」ということを主張してきました。このことが盛んに言われるようになったのは、推進派が「西洋の死生観は(日本とは異なり)デカルト的な二元論に基づいている」と言い始めたことがきっかけで、科学的な死生観の西洋に対し「日本は死生観も非科学的なままで、遅れている」という推進派と、「いや、それは遅れていることを意味しない。思想・宗教が異なっているだけだ」という反対派に分かれたものとなります。
今回の記事では、反対派がこのような主張をすることによって、法案成立までの論争においては、逆に自らを不利に追い込んだのではないか、という話をしたいと思います。そして本当は論争はどのような方向に向いていくべきだったのか、近年は注目したい動きもありますので、紹介したいと考えています。

1)日本人の死生観は東洋的?
そもそものこととして、「日本人の死生観は東洋的でしょ?」とか言われても、ほとんどの人にはピンとこないかと思います。お葬式は仏教の作法に従うとか、人の死は当人だけのものではなく周囲の人も巻き込む(誰かが死んだとき、すぐにその遺体をモノとして見ることなんてできない。悲しみを分かち合うための葬儀が必要であり、死んだらすぐに移植しようという法案には馴染めない)とか、『それもそうかなあ』と思う程度には反対派の意見ももっともらしくはあるものの、ぶっちゃけた感想として「そんなこと普段から考えてないよ」というのが大勢ではないでしょうか。喪服はタンスのどこにしまったかも覚えておらず、ご焼香の仕方も曖昧なのが現代人というものです。
この点だけをとっても、死生観に重きを置いて論じた脳死臓器移植反対派が負けたのは、当然の結果だったように感じます。
彼らの主張を聞くことは、死とどう向き合うかを考えるうえで示唆に富んでいますので、それはそれで非常に有意義なことではあるのですけども。

2)じゃあ西洋人の死生観はデカルト的なの?
しかし、反対派はこのような主張をしなければなりませんでした。なぜならば、推進派の「西洋の死生観は科学的」という意見が、あまりにもデタラメだったからです。
先の節で「現代日本人に東洋的死生観とか言ってもピンとこないよ」と言いましたが、これとまったく同様に、西洋人にデカルト的二元論とか言っても何のことやら伝わりません。それどころか、私たち日本人と死生観についてはさほど変わらないかのようですらあります。というのも、脳死臓器移植の技術ばかりが先行してしまい、死生観とのギャップに悩む方が近年になって顕在化しているようなのです。
例えば、推進派がデカルト的二元論と表現したのは、「人の意識は脳にあり、体はそこからの命令に従って動いているのみ」という考え方でした。この思想は一見正しいと感じる方もいるとは思うのですが、実際に遺体が臓器移植に提供されると、戻ってきた体に大きなショックを受ける方が多いようです。臓器移植においては死体はモノとされますので、臓器(内臓だけでなく骨なども含む)を摘出した後は、おざなりに人の形を再現することだけなされます。内臓の代わりの詰め物や、骨の代わりのパイプなどは、故人の面影をなくしてしまいます。そこに直面してようやく遺族は、故人の脳を愛していたわけではない、と気付くのだと思います。
このような問題が、西洋でも相次いで報告されるようになりました。脳死移植ではありませんが、病院側が検死のために遺体から勝手に臓器を摘出していたことが発覚し、遺族が臓器を取り戻して葬儀をやり直したイギリスの事件をBBCが2001年1月29日付で報道しています。これは西洋人のすべてが脳だけに人の生き死にを見ているわけではなく、全身に見ることもあるのだとわかる一例かと思います。
そもそもの話として、デカルト(1596~1650)の思想に基づいた死生観を21世紀の人々が共有しているだなんて、さすがに無理すぎる主張でしょう。日本人の死生観がとっくの昔に東洋的ではないのと同様に、西洋人のそれも西洋的ではないのです。
このことは、死生観の歴史を調べれば、よりはっきりとわかります。死の概念というのがそもそも社会情勢によって変動するものです。今では死として確実と思われている心臓死ですら、定義されたのは19世紀と歴史が古いとは言えません。「早すぎた埋葬」のような事件が起こり、社会的な不安から医学界が死の基準を考え出したものでした。デカルトはこれよりずっと昔の人物なのですから、現代の死生観とは乖離が生じているのが当たり前とも思えます。
まとめますと、推進派の主張した「西洋と日本の死生観の違い」は根拠に乏しく、また間違っているのではないかとすぐに想像できるくらい稚拙な議論でした。反対派の人たちは、そのようないい加減な学説によって、死の扱いに関わる大事な法案が通ることに我慢ならなかったわけです。ですので、この穴にくらいつき、推進派の問題点を長きにわたって追及し続けているということになります。はじめは「推進派の言うデカルト的な考え方なんて日本人に馴染まない」と反対することによって、そして研究が進んでからは「いや、そもそも西洋人だってデカルトのときからは全然違ってるじゃないか」と間違いを指摘することによって。

3)間違った学説は、推進派の罠だった
では、推進派の人たちは、自分たちの主張が間違っていることになぜ気付けなかったのでしょう? 先にも述べましたが、問題点を見つけるのは非常に簡単なはずです。
ここは正しくは「推進派は気付けてない」のではなく、「推進派はわかっていながら、あえて間違った主張をでっちあげた」と考えるのがよいようです。すなわち、彼らは大きな釣り針を投げていたわけです。
脳死移植推進派にとって、重要なのはその主張の正しさではありませんでした。大事なのは日本でも移植が盛んになされることであり、それによって外科医は日本にいながらも業績を積めるようになり、患者もその恩恵を受けることができるようになることだったわけです。これらの医学にかかわる諸問題に比べれば、是非論争における微細な間違いなど取るに足らないものでした。それどころか、東西の死生観がどうなっているか、という問題に食いついてくれれば、その研究・論争は何年にも及ぶものとなり、次第に反対派の焦点は法案の検討からは外れていってくれます。この目論見通り、反対派はこの論争に明け暮れ、世間の死生観ともギャップを生じてしまい、論争に敗北することとなるのです。

4)では反対派の議論はどう向かうべきだったのか
そもそも脳死臓器移植が大きな問題として取り上げられることになった背景には、医療技術の進歩があります。かつては脳死となれば間もなくして心臓死となり、やがて体の腐敗も始まっていたものが、医療機械につなげれば脳が死んでいても体を生かしておくことができるようになりました。寿命が延び、数多くの病気に立ち向かえるようになった一方で、苦しい闘病生活をしてまで長生きしたくはないと、安楽死・尊厳死の考え方も普及してきました。そして同時に、臓器移植の技術も進歩してきました。こうした中から、「どうせならば他人のために残った体を使ってほしい」と臓器移植に価値を見いだす人が増えてきたのだと考えられます。これはつまり、心臓死の議論が生じた19世紀よりもさらに社会情勢が変化し、新しい死生観が形成されつつあることを意味しています。
であるならば、日本であるにせよ西洋であるにせよ、「新しい死生観をつくるにはどうするか、最新の医療技術を利用する患者とどう向き合うか」ということを検討すべきだったのだろうと、私は感じています。
つまり、デカルトでも仏教でもない、新しい学術的な方法論を用いて死生観を捉え直す時期だったのだと思うのです。
「日本人・西洋人の死生観が東洋的・デカルト的である/ではない」に関する検討は、いわば昔の価値観を調べることだったと言えるのではないでしょうか。これに費やした研究は、まったく無駄だったとは言いませんが、すでに成熟したものとなっています。そして、推進派に反論し、移植法案に反対するという点においては、クリティカルな批判とはなっていなかったと、次のステップに移ってよい頃と考えます。

5)新しい試み:現象学と死生観
実はここ最近、医学書院などがこのような考え方に基づいて(いるのかどうか、出版社の意図がどこまで定まっているか、編集者に聞いてないのでわかりませんが)、新しい試みを始めているように思います。それは、看護学と現象学を結びつけ、死生観を捉え直そうという試みです。松葉祥一,西村ユミ.『現象学的看護研究:理論と分析の実際』とか。
現象学に関して、馴染みのない方もいらっしゃるかと思うので、簡単な説明を。
たとえば「チューリップが赤い」と言ったとき、その「赤い」とはどのようなことでしょうか?
従来の科学では次のように説明されることになります。チューリップの花弁の表面に光が当たったとき、そのうち赤色以外の可視光線が吸収され、赤色の波長のみが反射された。その反射光が観察者の網膜に至り、錐体細胞を刺激する。知覚された刺激は信号となって視神経を伝わり、大脳で情報が処理されることで赤色と認知・認識される。つまるところ、機械的な物質・情報の伝達に基づき、因果関係をはっきり繋ぎながら起こっている現象を説明しようとするのが科学となります。
しかしこのような説明では、赤色の本質はわからないという意見がありました。例えば、赤は血の色をイメージさせるだとか、興奮する色、温かい感じがする、といった観察者が自然と抱く感想です。従来の科学では、どうして観察者がこのように感じるのか、まったく説明できないか、説明できたとしても非常に煩雑で冗長な解説を加えねばなりませんでした。
これに対し現象学というのは、まずは見た目(=現象)から拾い上げていき、本質を見抜こうという学問となります。赤色のイメージを出発点とすることで、無味乾燥な光の波長という原因にではなく、人間と色の付き合い方を探っていくことになります。
科学から現象学への転換は、こと看護の世界において親和性が高いようです。例えば、植物状態の患者は医学(=従来の科学)的には大脳(=意識)が死んでいるため、人間らしい反応を返すことはないとされているわけですが、実際の医療現場では「奥さんが手を握ると脈拍が安定する」「毎日こりずに話しかけているベテラン看護師には、患者さんがその日ご機嫌かどうかわかる」といった日々感じていることに対しその考え方では納得のいく説明ができないでいました。この現場に現象学を取り入れると、「意識の生き死にはともかく、周囲から見てモノとは違った温かみをそこに感じる。では、そのような患者に看護師はどう向き合っていくのがよいのだろうか?」と議論が発展するわけです。モノとして扱いがちな従来医学とは異なった、看護学の新たな方向性がここには見出されていることになります。
脳死臓器移植問題、あるいは死生観の議論においても、この現象学的アプローチは新しい可能性を提示するかもしれないと期待できます。まだまだこの試みは始まったばかりであり、どこまで学術として大成するか、社会に受け入れられるかはわかりません。ですが注目するには十分に値するだろうと感じています。

以上、今回の記事は脳死臓器移植の論争概観と新しいアプローチについてでした。
特に脳死臓器移植論争の(反対派の)問題点については、私は二十年前に聞いていたにもかかわらず、自分の中で整理ができないままでいました。現象学というまったく新しい方法論が出てきてくれたおかげで、ようやく筋道立てて理解できたという感じです。
記事中ではざっくりとした説明とするため、間違いや記述不足と感じるところも多々できてしまいました。関連書籍はたくさん出ていますので、これを機に死生観を見つめ直したいという方は、書店の棚を眺めてみてはいかがでしょうか?

by zattoukoneko | 2018-04-13 11:20 | 生物・医療 | Comments(0)