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『世界を凍らす死と共に』3-4-1


   四.


 公園を眺め回して、これまで如何に自分が周囲をきちんと見てこなかったのかを知った。この前母さんと一緒に話をしたブランコは、安っぽいピンクのペンキで塗装され、それも古くなっているせいで所々剥げ落ちている。そういえばピンク色のペンキは需要がないから余っているという話を美術部の顧問をやっている先生から聞いたことがある。辺りを囲む木々はその葉の色を半ば枯れ色にしていた。落葉したり紅葉するにしてはまだまだ早い季節だ。おそらくは氷漬けになっていたことで、きちんと光を吸収したり栄養を回すことが出来なかった結果なんだと思う。
 雨が降っているせいでどんよりと薄暗くなっていることも一つの要因なのかもしれないけれど、これまで思い描いていたよりずっとこの公園の色はくすんでいた。もっと鮮やかな色をしているか、もしくは落ち着いた色をしているかのそちらかだと思っていたのだけれど、実態は行政管理の行き届いていないやや廃れた公園だったらしい。
 幼い頃はここで他の子供たちと遊んだこともあったから、そのときの賑やかな思い出を投影してしまっていた可能性もある。いずれにせよ思い込みでこの公園を見ていたのは確かだ。
 腕の中にいた母さんが、ようやく俺の変化に気付く。
「鏡夜くん、もしかして色が見えるようになったの?」
 俺はそれに頷いて返すと、苦笑しながら告げた。
「今頃になって初めて母さんの顔を見た気がするよ。これまで何度も見てきたはずなのに。虹彩の色素が薄くて綺麗な栗色の瞳をしていることとか、当たり前のことなんだけど唇が肌よりずっと赤いこととか、そんなことすら知らなかった。すごい新鮮な感じがする」
 色が見えるとか見えないとか、それは表面的なことだ。必ずしも見えた方がいいとは言えない。むしろ色があることを当たり前に思って周囲の綺麗な様子に気を配れない人よりも、色がない世界でその情緒に気を向けられる人の方がこの世の美しさを良く知っていると思う。俺も絵を描くときに鉛筆画や木炭画を選んだのはそのことを表現できるだろうと考えてのことだった。
 けれど俺の場合は違っていた。色を取り戻したいとは真剣に考えていた。画材屋で絵具の種類の豊富さに圧倒され、そして悔しくなった気持ちは本物だったから。でもそれを口にするだけで、世界からはずっと目を背け続けていた。結局色が見えないことを武器にするどころか、そのせいにして逃げていただけだったんだ。だから俺の絵は駄作と柊に言われたのだ。描こうとしている対象から目を外していて、きちんとした絵が描けるはずがない。
「それは私も何となく感じてた。鏡夜くん本当は色々なものを見ているはずなのに、肝心なところを、そういうものだからって決め付けて、目を逸らしてしまうの。見ていない部分は想像で埋めちゃうから、結局その本質を捉え損ねてしまう」
 母さんは俺の抱えているその問題までは気付いていたようだけれど、どうしてそれと色が見えないことが繋がるのかまではわからないようだった。まだ俺が急に色覚を取り戻したことを不思議に思っている母さんに、何が起きていたのかを説明する。
「想いは現象となるから。俺は物事の形だけは捉えていたけれど、母さんの指摘した通り、その本質まで見ようとはしていなかった。それは姿勢だけじゃなかった。むしろ無意識に心がそうさせていたんだ。きっかけは前の母さんが死んだこと。深く考えてしまうと世の中のすべてを憎んでしまいそうになっていたから、そうなるくらいならと目を向けるのをやめたんだ。見えないところは常識とか摂理とかそういうもので誤魔化してね。結果として俺は世界の色を見れなくなった。見ようとしてないんだから、それは自然なことだと言えると思う」
 その性根を直してくれたのが今の母さんということになる。ずっとあの事件のことから目を背けて来た俺は、怪が見せてきたものからも逃げようとした。昔は病弱な母さんに全部を押し付けた。そしてさっきは俺が母さんを振り返らなかったせいだとし、その際に都合の悪いことに目を瞑るため、その想いをでっち上げた。
「母さんは死ぬときには冷たい気持ちを抱いていたと俺は考えたけれど、それは思い込みだった。母さんは自分のしたことに納得していたし、助けようとした子供を救えたことに満足していた。だから当然のように用水路の周りは凍らなかった」
 残された家族のことも少しは考えて欲しいというのが、正直なところだ。でもそれはうちの家族みんなに言えることなのかもしれない。俺も立花先輩を助けるために突っ走ってしまったと思うし、父さんも柊を助けるために自分の命を賭した。そしてついには今の母さんまで俺を助けようとして冷たい怪の中に飛び込んできた。家族というのは自然と似てくるものなのかもしれない。
「そういえば母さんは怪に触れていた時間が短いから、その想いをほとんど見れていないんじゃないかと思う。俺もずっと取り憑かれていたわけじゃないから推測が交じるけど、でも父さんが死ぬときに感じていたことがわかった気がするんだ」
 それを整理することは俺にとってだけではなく、母さんにとっても大事なことのはずだから語って聞かせる。場所が父さんの死んだ公園だというのは偶然だけれど、でもだからこそ一つの決着を付けるべきだと諭されている気にもなった。
「おそらく父さんも、柊に襲われたときに怪の持っていたその想いを垣間見たんだと思う。そこで前の母さんが最後にどんな気持ちを抱いていたのかを知ったんじゃないかな?」
「やっぱりお父さんも、前のお母さんのことはずっと気になっていたのかな?」
「そんな素振りは見せなかったけどね。多分そうなんじゃないかと思う。やっぱり肉親の死ってとても大きな出来事だし、忘れることが出来るようなものじゃないから」
「そうだね。そこは嫉妬するところじゃなく、嬉しく感じるべきところなのかも。前のお母さんのこともきちんと愛していて、その人を大事にした想いは抱きながらも新しく私のことを好きになってくれた。ちょっと複雑な気持ちにはなっちゃうけど、でも前妻がいなくなったから乗り換えただけって、そんな薄情なことよりはずっといいよね」
 俺はもう一度周囲を見渡した。事件の当時よりは大分マシになったけれど、この公園はまだ氷に閉ざされたままだ。
「今際の際に立ち会った母さんから、父さんは満足そうに微笑みながら息を引き取ったと聞いてる。柊を助けられたってこともあるんだろうけど、前の母さんが自分の取った行動に悔いなく逝ったということをきちんと知ることが出来たから、安心したんだと思う。父さんもあの事件の現場にいたわけじゃないからね、どうしても気になってたんじゃないかな」
 そしてここからが更に大事なこと。これから決着を付けなければいけないことがある。
「父さんは心穏やかに息を引き取った。だからこの公園を凍らせるわけがない。氷に包ませることになったのは死んだ母さんに関わる冷たい想いだったんだ」
「え? でも前のお母さんは納得して亡くなられたんでしょう? だったら冷たい想いを抱いているはずがない」
「わかってる。だから母さん自身の想いじゃないよ。それは別の人の想い。母さんの事件から目を背け続けることで、気持ちを冷やしてしまった人間がいたんだ。怪が柊から引き離されたときに、その冷気が溢れ出たんだ」
 目を背けていたのは俺だ。でも怪を作り上げてしまったのは俺じゃない。用水路の中で人が冷たくなっていくのを間近で感じていた人物が、その感覚を忘れられずに積もらせていき、結果怪にしてしまった。
「その通りだよ。だから僕は雨の日が嫌いなんだ」
 公園の入り口からその人物の声が聞こえる。しっかりと抱えた薄紅色の傘に隠れてその顔は見れなかったが、幾重にも折り畳まれたジーンズは昔俺が穿いていたものだし、その声も毎朝耳にしているから間違えようはずがない。
「真琴も来ていたんだな」
 俺の言葉に、傘が小さく頷いて応えた。


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by zattoukoneko | 2013-04-24 21:07 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-3-2


 怪も想いの一つだということを忘れていた。そのことに体も意識も冷たさの中に沈められながら、ようやく気付かされる。柊や立花先輩はこの怪と想いを重ね、その二人と俺は関わりを持ってきたのに、ずっと怪自身の想いを無視していた。この怪も俺と想いを交わらせ、相互に作用しようと働きかけていたのに。なのに俺はそういうものがいるらしいと勝手にその存在を決め付け、それで済ませてしまっていた。
 そもそもこの怪はどこで生まれ、どこからやって来たのか? 周囲が冷たくなっていくのを感じながら、それがどのような冷たさであるのかを知る。
 冷たいというのにも色々種類がある。人の冷淡な心も一つだし、真冬の雪山にしんしんと積もる冷たさというのもある。
 この怪が持つものは水の冷たさに近かった。意識が激流の中を流されるような、そんな感覚を味わう。
 最初に出会ったのは、白髪雑じりの女性が腹を切り裂かれている場面だった。横たわらされたその女性は、二人の男女によって切り刻まれていた。切られた腹には赤いものが多少見えるものの、それが流れるような様子はない。死んですでに一度硬直した後だと知れる。大きく割かれた腹からは様々な色の臓器が取り出されていく。肌の色に普段包まれた人間の中から、そんなものが出てくる光景は吐き気を催すものだった。にも拘わらず俺はじっとその光景を部屋の隅から見つめ続けている。
 その光景を目にしているのは俺じゃないというのはすぐにわかった。俺にはそもそも色が見えない。でも向こうで切り刻まれている女性の肌も、肉も、骨も、そのすべての色がはっきりと知覚出来ていた。その目の持ち主は柊だったのだ。自殺した祖母が両親の手で解体されていく様をじっと見ている。そこに横たわっているものが元は生きていた人間だと思うと心が耐えきれなくなるから、それをただの肉の塊だと必死に思い込もうとしている。目を背ければ両親が続ける残虐な行為は映らなくなるだろうけれど、それをするということは肉塊が自分を大事に世話してくれていた祖母だと認めることに直結する。だから目を逸らさずに、ひたすらそれが人間ではないと自分に言い聞かせる。そうすることで柊は唯一家族の温もりを与えてくれた祖母を記憶の底に沈め、冷たさを周囲に纏うようになった。
 次に意識が流された先で目を開けると、白天井が視界いっぱいに広がった。自分の体はベッドに横たわっていて、すぐ隣には両親の心配そうな顔がある。大丈夫だと伝えようとして、口に呼吸を補助する機械が取り付けられていることに気付く。仕方なしに手を持ち上げて差し伸べようとしたけれど、それもままならなかった。家族の温もりに触れたかったけれど、まだ麻酔が邪魔してそれを叶えさせてくれなかった。代わりに感じたのは体の内側にある冷たさだった。恐らく壊死していた内臓を持っていかれたのだ。そこが空虚になって、冷たくなっているように感じるのだと思う。
 立花先輩がそのような手術を何度受けたか、そこまでは映像を見ているだけの俺には知る由もなかった。ただそうやって家族の中に普通の人のように入ろうとして、それを体に取り付けられた機械や麻酔、そして何より自分の体が邪魔するのを味わった。両親が心配してくれることは嬉しくもあったけれど、心苦しくもあった。そして同時に恨めしくも思った。温かさを向けてくれても、同じように暮らすことは出来ない。応えようにも体が動かないのだ。みんなとは違う境遇に生まれたということを、両親によって思い知らされる。でも憎みたくはないから心を閉ざすことにした。そうすれば、一時的にではあるけれど身体が弱いことも忘れられて、普段は明るく振る舞うことが出来るから。
 再び意識が濁流に飲み込まれて暗転した。その中で見てきた二人の想いを回顧する。目にした場面はいずれも人生の一幕で、それを俺は垣間見ただけでしかなかったけれど、でも強い想いに直に触れて揺らがないはずがなかった。
 立花先輩は俺に出会ったことで、もう一度みんなと同じような生活をしたいと望んだのだろう。道で行き倒れて冷たくなっていくのを感じていたら、そこに温かい手が差し伸べられた。その温かさは目を覚ましたときにも隣にいてくれた。それは今まで傍にいてくれた両親とは違う人物のもの。だからその御薗木鏡夜という相手に手を差し出そうとした。その手を取ってもらいたくて、ずっと叶わなかったことだけれど、再挑戦したくなった。けれど結局身体は思い通りにはならなかった。だから諦めて気持ちを氷の中に閉じ込めようと考えた。それまで何度も繰り返してきたことを、今回もやろうとしていたということなのだ。
 柊も自分の気持ちを閉じ込めてきたという点では先輩と同じだ。彼女はけして人間をやめたわけじゃない。だから祖母の事件は傷になっていたのだ。優しく世話をしてくれた大事な肉親が自殺に追い込まれ、挙句の果てにはただの肉として売られていった。その苦しみをずっと抱え続けていた。その想いを何度も吐露しようとしたに違いない。でもそれを聞いてくれる人は誰もいなかったから、吐き出してしまわないように必死に内に押さえ込んだ。でもそれを続けていくことは無理だと怪に指摘され、その力を借りて憎んでいた両親を殺害した。彼女の心を煮え滾らせた火の元はそうして消すことが出来たが、抱えていた想いを外に出すことは叶わないままだった。彼女の想いは怪の想いと重なり合うことで、歪んだ。気持ちを揺さぶる相手を殺してしまえばいいと、殺人を繰り返した。それは怪が離れた今でも直っていない。柊は自分の想いに触れてしまった立花先輩を殺そうとした。怪を消そうというのは建前だったのだ。おそらくは勝手に自分の傷を他人に知られることが、堪らなく嫌だったのだ。
 俺は二人を助けたいと思った。まだ終わってなんかいない。怪が彼女たちからいなくなったとしても、その根本をどうにかしないと何も変わらない。このままじゃ二人とも同じことを繰り返す羽目になるだろう。だからそこから救い上げたいと思った。
 けれど次第に俺自身も冷たくなってきていた。怪の積み重ねてきた想いが、体の自由を奪いつつあった。
 もう駄目かもしれない。そう思った次の瞬間、俺の体に何かがしがみついた。
「……母さん?」
 必死に俺の体を抱き寄せようとしているのは母さんだった。今の母さんじゃない。昔死んでしまった母さんだった。
 いつの間にか俺は激しく流れる水の中にいた。梅雨の時期にいつもより雨がたくさん降ったことがあった。たまたま近くを通りかかった用水路が急な流れを形成し、複雑な紋様を描いていることに気付いた。覗き込むとただ一方向に流れているわけではないことがわかった。所々で渦を形作っていて、それが次の瞬間には押し流される。そのダイナミズムに魅了されていたら足を滑らせてしまったのだ。
 それを経験したのは俺じゃない。その証拠に体を抱える母さんの方が、俺よりずっと大きかった。これは母さんが助けた相手が目に写し、感じていたものだ。
 母さんは溺れていた俺を捕まえると、必死に水面を目指して浮上しようとした。でも上手くいかなかった。元々身体が丈夫な方ではなかったし、この急流の中ではどんな大人でもまともに身動きできなかったと思う。母さんは俺をその胸に抱えると、せめてこれ以上は流されまいとした。腕の中で母さんを感じる。……急速に冷たくなっていく母さんの体温を感じる。
 そこでようやく気付いた。この怪がどうして生まれたのかを。
 怪の抱えていた冷たさは、この死にゆく母さんの冷たさだったのだ。母さんは死んだときに周りを凍らせなかったけれど、それはその心を預けていたからに過ぎない。溺れている相手を助けられない自分の無力さを嘆かなかったはずがないじゃないか。
 でもその想いを振り返らなかった奴がいる。大事な人を亡くしておきながら、仕方がないことだと片付けてしまった輩がいる。そいつのせいで母さんの冷たさは逃げる場所を失って蓄積された。そしてやがて怪となった。
 母さんと一緒に冷たくなっていくのを感じながら、呟いた。
「全部、俺のせいだったんだな」
 それまでずっと一緒に暮らしてきた母さんが死んで、悲しくないはずがないじゃないか。いくら自分の意思で濁流の中に飛び込んだとはいえ、助けようとした相手や、その日の天気を恨まないはずがないじゃないか。
 なのに俺はその想いを全部封じた。考えてしまったら気持ちが掻き乱されるから。居ても立ってもいられなくなるから。だから母さんの体力は少なかったからと、そういう性格だったからと、それだけにすべてを押し付けて逃げ出していた。仕方がないことだと決め付けてしまえば楽だったんだ。
 用水路の水の冷たさなのか、怪の募らせてきた冷たさなのか、はたまたしがみ付いている母さんの冷たさなのか、いずれにせよ俺の体も心も凍りつきそうになっていた。そんな状態で頭のずっと上の方にある水面を目指すことは出来そうになかった。
「母さんの想いも引き揚げてあげたかったんだけど、もう無理みたいだ。ずっと目を背けて忘れたふりをしていた報いなのかもしれないな」
 俺は抵抗するのをやめた。冷たくなるのに、身も心も委ねることにした。母さんがこの中に俺を沈めようとするのなら、それを甘んじて受けることにしよう。
「そんなの絶対に許さないからね!」
 急に叫び声が聞こえ、誰かが俺に飛びついて来た。その人は更に続ける。
「勝手に思い込むのはやめてって言ったじゃない、鏡夜くん!」
 それは今の母さんだった。まだ俺の母親になって一年も経っていないその人。
「お母さんが自分の子供を氷漬けにしようなんて考えると思ってるの? 亡くなられるときに冷たい心を誰かに押し付けたと本気で思ってるの? そんなわけないでしょう。鏡夜くんが勝手に決め付けているだけ。自分の心が掻き乱されるのがイヤだから、また思い込みで片付けようとしてるんだ」
 そして母さんは決意を口にする。
「たとえ鏡夜くんが辛い思いをすることになるとしても、私はここからあなたを救い出してみせる。前のお母さんがそうしたように!」
 そして俺をしっかりと抱えると、母さんは水面を目指し始めた。でも怪に取り憑かれているわけじゃないためか、その方向がわからない。足掻こうにも結局出来るのは俺がこれ以上冷えないように胸に抱くことだけしかなかった。
 次第に母さんが冷たくなっていく。積み重ねられた怪の想いに触れて、体に氷が張り付いていく。前の母さんと同じように、自分を犠牲にしてでも、俺を助けようとしてくれている。
「――そんなのは嫌だ」
 また母さんを亡くすことを想像して堪らなくなった。母さんが冷たくなりながらも、俺に母としてのその想いを伝えてくれたことでようやく自分の誤解に気付けた。
 母さんたちはその体を冷たくしながらも、その心は温かいままいてくれたんだと。
 次の瞬間、俺は水面から抜け出していた。公園の真ん中で母さんに抱き締められている。まだ体は冷たいかもしれないけれど、氷の付いてしまった母さんを抱き締め返す。
「鏡夜……くん?」
 変化に気付いた母さんが、俺の胸で小さく名前を呼ぶ。俺の気持ちはもう冷たいものなんかじゃない。そのことを伝えるために、頭に手を遣りながらその言葉を口にする。
「母さんは、本当に俺の母さんをしてくれてたんだな。父さんと結婚したからとかそんなのは関係なく、俺のことを大事な息子として見つめてくれていた。そのことにようやく気付けたし、そのおかげで俺は怪を振り払うことが出来た。助けてくれてありがとう」
 母さんはそれを聞いて、俺の胸に顔を押し付けた。そして泣き出してしまった。母さんは俺の母さんをずっとやろうと頑張ってくれていたけれど、まだまだ頼りないところはいくつもあるらしい。
 たとえばこんなところもその一つだと思う。
「若いからこういうのもアリなのかもしれないけど、でもこの髪はちょっと母親のイメージとは離れてるかな」
 俺が撫でている母さんの髪は、脱色されて薄い黄色に染められていた。


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by zattoukoneko | 2013-04-24 21:05 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-3-1


   三.

 夏の季節、まだ夕暮れ時というには早い時間帯。それでも雨雲が太陽を隠してしまっているので周囲はかなり暗くなっていた。空から降ってきた雨粒が、氷に包まれた木々を叩いてきらきらと弾ける。凍りついた公園の中央、そこに膝を抱えて立花先輩がうずくまっていた。
 ここは外だけれど、式場でもある。俺たちは入り口で傘を置いた。柊の着ているウエディングドレスは、父さんが少ない貯金をかき集めて母さんのために買ったもの。そんな大事な形見を雨に濡らしてしまうことを申し訳ないと思ったが、これは自分たちの晴れ舞台なのだと気持ちを入れ替える。
 柊と腕を組み、立花先輩の前に進み出る。先輩は俺たちに気付くと、顔を上げて、目を見開いた。その反応からまだ心は冷え切っていなかったらしいと判断する。一先ずほっとする。
 先輩に向かって俺は粛々と宣言する。
「俺たち結婚するつもりでいます」
「……そっか」
 小さくつぶやいた立花先輩は、その後可笑しそうに笑みを浮かべる。
「でも御薗木君は年齢的にまだ結婚出来ないよね。そうやって冗談を言ってアタシをからかってるんだ」
「そうですね、まだ十八歳になっていないので法律の上では結婚は認められていません。だから『つもり』と言葉にしましたし、それに今の母さんは十五歳で式を挙げたんですよ? 本人たっての希望で、戸籍を入れるより早くそうしたんです。父さんは刑事として危険な仕事に就いていましたから」
「……」
 先輩はしばらく沈黙した。でも俺たちのことをどうしても認めたくない様子だった。
「やっぱり冗談だと思うな。こう言っちゃなんだけど、御薗木君は恋愛事に疎いもん。周りにいる女の子のことをあまり見てなかった気がする。アタシのこともそうだし、柊さんのことだってそうだったよ?」
「その通りだと思います。昨日までの俺だったらこんなこと考えもしなかったでしょう」
 けれど俺は変われた。俺に深く関わってくれた人がいたから。
「先輩が俺に世の中にはたくさんの色があると教えてくれたんですよ。これまでずっと俺は画材屋に並んでいる絵具のようなものしか見てなかった。でも色恋というように、人間関係の中にも色は存在する。考えてみれば当たり前のことですよね。色というのは現象の一つだし、となれば想いが相互に作用し合って色を生み出すことも自然なこと。そのことに目を向けさせてくれたのが、今日の先輩だったんです」
 だから俺はその色が見えるようになったことを先輩に知らせに来た。心を氷の中に閉じ込めてしまったら、それを感じることができなくなってしまうから。その前に伝えなければならなかった。
「この柊との交際も結婚も一時的なものです。彼女に対する想いに気付かせてくれた先輩に伝えるために急がせてもらいました。でも俺は真剣に交際しようかと考えています」
 直後、隣の柊が小さく身じろぎした。先輩には聞こえない程度の声で批難してくる。
「ちょっと、御薗木くん。これは立花先輩を救うための演技という話だったじゃない。あまり嘘を吐くと後で先輩を深く傷つけるわよ」
 その抗議を俺は無視することにした。確かに今はまだ俺も、柊も、心の整理が出来ていない。けれど想いが真剣であるのは本当のことだった。そのことを立花先輩だけでなく、柊にもしっかりと聞かせる。
「ずっと柊の描く絵に憧れていたんです。何度見惚れたことかわかりません。柊は表には感情を表わしませんが、けして心が冷たく凍りついているわけじゃあない。むしろ他の人より豊かなくらいなんです。ただそれを表現することをずっと抑えていて、絵にだけはそれを出すことが出来ていた。今後の柊は気持ちをもっと見せてくれるようになると思います。それを傍で見ていたいと、俺は考えているんです」
 柊が俺の腕をぎゅっと握りしめる。そちらを見たけれど、顔を俯かせているせいで、その表情を知ることは出来なかった。
「買い被り過ぎよ。わたしはそんなに器用じゃない。そんなにうまく変われる気はしない」
「別に何年かかったっていいさ。最初は父さんが柊の気持ちを冷たい底から引き揚げてくれたんだろうけど、その後を俺が引き継ぐ。柊も怪の一件を通じて変わることが出来たと言ってたじゃないか。その変化はまだ終わってなんかないんだよ」
「……御薗木くんも変わったわね。以前からあなたの姿勢は好意に値すると思っていた。自分の目に見えない色を何とか捉えようと頑張っている姿勢は素敵だったわ。少し逃げている部分があったけど、それはもうやめたのね。それどころかわたしの知らない色まで見つけてきた。そんな御薗木くんがこれからどんな絵を描くのか、とても興味がある」
 まだ少し不器用な印象は受けたけれど、それでも十分な答えを貰えた。二人で歩いていく道は、きっと鮮やかに彩られているはずだ。
 俺たちのやり取りを見ていた先輩が、悲しみに満ちた微笑を浮かべる。
「そっか。アタシが立ち止まっている間に二人は前へ進むんだね。仕方ないよね、アタシはまともに動けないんだもん」
 そうやって諦めることで先輩は心を閉ざそうとしている。気持ちを封じ込めてしまえば、辛いことを味わうこともなくなるから。
「でも本当にそれでいいんですか?」
「え?」
「先輩は自分の心を凍りつかせてしまえば辛いことを感じなくて済むと思っている。でもそんなことをしたら、周りの人たちは先輩を置いてもっと先に進んでしまうんですよ? それが嫌だったから先輩は身体を丈夫にしようと考えて、そして怪の力に縋ったんじゃないんですか?」
 これから口にする言葉はついさっき俺の想いを受け止めてくれた柊を傷付けることになるかもしれない。そうだとしても、俺は先輩を助けるために言わなければならない。すべて俺の我が儘だけれど、でも本心でもあるから。
「自惚れでなければ、先輩は俺のことが好きだったはずです。今日そう告白してくれたし、そうじゃなかったらそもそもデートになんか誘わなかったと思います。あのときの先輩は前に進もうとしていた。それに俺は心動かされもした。それだけ輝いていたし、可愛かったんです。その先輩が本当に望んでいたものは何だったんですか?」
「……」
「身体を良くしてみんなと同じ速度で動けること、それだけじゃなかったはずです。好きな人と一緒に街を歩くことや、知らない場所に出掛けること、そしていつかは結婚して家庭を持つことを夢見ていたんじゃないんですか?」
 立花先輩が顔を上げ、鋭い目付きできっと俺を睨みつけた。涙を流しながら悲痛な叫び声を上げる。
「アタシの身体じゃ無理なの! 肺も心臓も、胃も全部ダメになってる。子供を産むのはもう諦めてくださいって医者に宣告された。普通の家庭なんて持つことは出来ない。それに身体も次第に動かせなくなってきてる。手を伸ばしても届かないものだったのに、もうその手も持ち上げられなくなるんだよ? どうやって夢を叶えろって、御薗木君は言うのよ……」
「……先輩がどうやって夢を叶えるのか、あるいは可能なのか不可能なのか、それは俺にもわかりません。でも今日のデートで俺の目を先輩に向けさせたのは、服装や仕草だけじゃなくて、その向こう側に見えた先輩の想いだったんです。たとえその手足が動かなくなろうとも、その想いを向け続けてくれれば俺の横に立つのはもしかしたら立花先輩だったかもしれない」
 けれど先輩がここで心を止めるというのなら、俺たちは先に進むしかない。死んで冷たくなった人の想いをずっと抱えながら生きていくのは無理だから。想いは相互に作用するのだし、冷え切ったものを引きずったままではそのうち自分の心まで動かせなくなってしまう。だから先輩がここで凍るなら、俺たちは置き去りにしなければならない。
 しばらくの沈黙を挟んで、立花先輩がゆっくりと言葉を紡いだ。
「一つ、訊いていいかな?」
 自分の気持ちを確かめるように。氷の殻に閉じ込めようとしていたそれを、もう一度取り戻すように。
「御薗木君に対する想いを持ち続けたら、その隣にいる女性はアタシになる可能性はまだ残されているのかな? こんな病弱で脆い身体でも、温かい家庭を築くことが出来るのかな?」
「まだ柊とは仮の結婚ですからね。心を奪われたら相手は立花先輩にすると思います。身体のことも気にしなくていいです。他の人とは違う形になるかもしれないけど、ちゃんと家庭を持つことは出来るはずです」
「そっか……」
 呟いた先輩は涙を零した。それは氷になることもなく、滴のまま地面へと落ちる。気付けば先輩の周りにあったダイヤモンドダストのようなきらめきも消えていた。
 声を震わせながら、先輩が想いを口にする。
「そんな夢を見せられたら追いかけたくなるじゃない。こんなところで止まっていたくなんてない。アタシも、幸せになりたいもの!」
 そうして泣きじゃくる先輩の姿を、俺は愛おしいと感じた。これだけ熱い想いを抱いているのに、それを身体が弱いからと封じてしまうのは本当に勿体ない。俺はその純粋で活き活きとした心の動きをずっと見ていたいと思った。
 先輩とのやり取りを隣で聞いていた柊が、いつもの口調で俺のことを馬鹿にする。
「御薗木君は罪作りね。もっと端的に表わせば浮気者よ。女性の気持ちを弄んで、これからどうなるかわかっているのかしら」
「弄んでいるつもりはないんだけどな。全部正直な気持ちだし。でもふわふわと浮ついているってことは認めざるを得ない気もする。これから整理していかないと」
「そうね。先輩の身体のことも気になるし、青葉さんとのこともある。もちろんわたしとの交際を続けるのかどうかについてもきちんと考えてもらわないと」
 台詞は俺を批難しているものだったけれど、その口調はどこか楽しげだった。俺に無理矢理巻き込まされた柊は、きっと他のみんなの想いに触れることで世界が広がったんじゃないかと思う。これまでずっと自分の想いを閉じ込めていたから、他人の想いに触れることもほとんどなかったんだろう。それが変わりつつある。
 雨は降り続いているけれど、夏の雨はそこまで冷たくない。ずっと体を濡らし続けていれば凍えてしまうだろうけど、今は優しく俺たちを包み込んでくれているような、そんな感じがした。
 そしてそんな雨の中、とさっと軽い音がした。
 音の方をした方を向くと立花先輩が地面に伏していた。
「先輩!」
 慌てて駆け寄ると、先輩は浅い呼吸を繰り返していた。喘息の発作じゃない。体力を使い果たして、身体が軋みを上げているような感じだった。
「怪の力を使って無理に動いていたから、その反動が来たのかもしれないわね。元々身体が弱いかったのだし、命に係わるかもしれない。救急車を呼びましょう」
 そうして柊が少し離れる。それに合わせたかのように、立花先輩が微かに手を持ち上げた。俺はその手を迷わずに取った。
「御薗木くん、ありがとう。でもね、この冷たさを君は知らない。それじゃあダメだよ。だから……アタシから分けてあげる」
 次の瞬間、冷気に包まれた。体に当たる雨粒が弾けた瞬間に氷の欠片に変じる。
 芯の方まで体が冷えた頃になって、ようやく気付いた。消える直前の怪を立花先輩から移されたのだと。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:42 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-2-2


 自宅に着いてインターフォンを鳴らすと、すぐに家の中を慌ただしく駆ける足音が聞こえてくる。ドアを開けた母さんは、一枚のバスタオルを用意してくれていた。
「鏡夜くん大丈夫だった? 急な雨で濡れちゃったでしょう」
 そして俺にタオルを渡した直後、他にもう二人いることに気付いて踵を返す。
「紗樹さんと真琴ちゃんの分も用意しないとだね。廊下濡らして構わないからリビングにどうぞ。替えの服も必要そうだし、お風呂も沸かした方が良さそう」
 ばたばたと廊下の奥に姿を消す母さんを見送りながら、俺は柊と真琴を家の中に招き、手に持たされたタオルを柊に渡そうとした。
 すると柊は呆れたようにその行為を批難する。
「もう少し気が遣えるようにならないとダメね。タオルはわたしじゃなくて、許斐さんに渡しなさい。セーラー服は濡れると簡単に透けるんだから」
 言われて真琴がずっと胸の前で鞄を抱えていることに気付く。確かにそういうことに俺は疎いようだ。改めてタオルを真琴の方に差し出す。
 俺たちがリビングに入るのとほぼ同時に、母さんがさらにバスタオルを持ってやってきた。お風呂のお湯も急いで沸かしたとのことなので、まずは真琴を送り出す。
「真琴ちゃんに合う服はさすがにないから、制服を急いで乾かしちゃった方がいいのかな。本人が嫌でなければ、鏡夜くんの昔の服を引っ張り出してくるというのもアリかもしれないけど。沙樹さんは私の服で構わない? 年齢も近いし体格もそんなに変わらないと思うんだけど」
 柊に尋ねる母さんに、割って入ってお願いをする。
「そのことなんだけど、替えの服というか、柊には母さんの持っている別の服を貸してあげて欲しいんだ。大事な物だというのはわかってるし、その格好でまたこの雨の中に出ていくのも気が引けるんだけど」
「何かあったの?」
 訝しげに訊いてくる母さんに、俺は立花先輩が怪に取り憑かれてしまっていたことを手短に話す。そして助けるためには、母さんの私物が役立つだろうと考えていた。
 借りたい衣装について告げると、むしろぎょっとしたのは柊だった。
「本気でそれをわたしに着せようとしているの? 御薗木くん、正気?」
 彼女がそんなに戸惑うのも珍しい。一応母さんから服を借りて改めて立花先輩のところに向かうとは伝えてあったけれど、その服が何かまでは教えてなかった。でもそのくらいの印象があった方がいいと思うし、なければ立花先輩は助けられないのではないかとも感じる。
「先輩は自分の殻に閉じ篭ろうとしている。しかも怪に乗り移られたことで、その殻は厚くなっている。それを破らないと先輩は助けられないわけだけど、でもそれをやるのは俺たちじゃない。先輩自身が自らの手でやらないと、いつか同じことを繰り返してしまうと思うんだ。俺たちがやるのは殻の隙間から、中にいる本当の先輩に印象的な姿を見せること。そしてそうすることで先輩が凍らせようとしている気持ちを、殻のずっと奥の方から引き出さないといけないんだ」
 俺と柊のやり取りを横で聞いていた母さんは、人差し指を唇に当てながらぽつりと言った。
「なら鏡夜くんもきちんとした格好をしなきゃだよね。お父さんの服も取っておいてあるし、それが使えると思う。さすがにクリーニングに出すのは無理だけどね。それにお風呂にゆっくり入って体を温めて、そして雨でぐしゃぐしゃになった髪もきちんと整えないと」
「え、それは。確かに父さんの服は借りた方がいいと思うけど、立花先輩を探す時間もあるし、俺は風呂はいいよ」
 先輩は冷たいところに行くと言っていたが、俺にはそれが何処かわからない。急いで探さないとならないわけだし、この雨の中また走り回るのなら、今ゆっくり湯船に浸かって体を温めても意味はないと思う。
 けれどその考えに母さんは怒って反論する。
「冷たいところに行くのなら、尚更体を温めないとダメです。それに母としては自分の息子が体を壊さないか心配するのは当然のことでしょう?」
 俺としては自分の体より先輩の方が気になるし、だから時間も惜しいのだけれど、でも母さんは頑なな態度を変えてくれそうにない。
「御薗木くん諦めて従いなさい。青葉さんの仰ることはもっともだわ。それにわたしが用意するのにも時間がかかるだろうし、その間にお風呂で体を温めればいいだけのことよ」
 渋っていた俺を柊はそう諭すと、今度は母さんに向き直った。
「青葉さんは以前にお邪魔させてもらったときと、また印象が変わりましたね。前は仲の良い家族でしたけど、今はしっかりと母子をやっている」
 母さんは柊の言葉に微笑みを浮かべて返す。
「色々考えさせられたから。まだまだ鏡夜くんのお母さんをきちんと出来ているか疑わしいところはあると思うけど、それもどんどん変えていくつもり。おままごとはそろそろ終わりにしなきゃ」
 その言葉を聞いて柊は少しの間何事か考えていた。それから母さんに問いかける。
「この前青葉さんに怪に取り憑かれたかどうかをお尋ねしました。体や心が冷たくなる感覚はあったようですし、怪に触れたのは間違いないと思います。でもその想いは見ましたか? あれが生まれてからずっと抱えている映像を目にしましたか?」
「そこまでは見てないかな。沙樹さんの言っている状態がどういうものなのかわからないから断言は出来ないんだけど、あのときは目の前にいるお父さんのことばかりに意識が行ってたから」
「そうですか。それだけ聞かせてもらえれば十分です」
 柊は一つ頷くと、母さんの目をしかと捉えて告げる。
「青葉さんが御薗木くんのお母さんになろうとするなら、この怪の一件はそのための通過儀礼になるかもしれない。だから――」
 そこまで口にしたところでリビングのドアが開く。真琴が風呂から上がったらしい。ただ中には入って来ずに廊下でもじもじとしている。
「あ、ごめん! 替えの服を用意してなかったね。今すぐ準備するから」
 慌てる母さんに、柊が告げる。
「ではわたしが次にお風呂をいただきます。話の続きは出掛ける準備をしているときにでも」
「わかった。じゃあその間に鏡夜くんは自分の着る服を用意してくれるかな? お父さんの洋服が片付けてある場所は知ってるだろうし」
 そう指示を出すと、母さんは真琴を押すようにしてリビングから出ていった。残された俺は浴室の場所を柊に伝えると、父さんの服や遺品がしまってある二階へと足を向けた。
 それから一時間くらい。柊が出た後の浴室で、ともすれば急いてしまいそうになる心を落ち着かせながら、俺は母さんの言いつけ通りに体をしっかりと温めた。風呂上がりに洗面台に映った自分の顔に血行が戻ってきているのを見て、確かに青白い表情のまま立花先輩のところに行っても何の魅力もなかったろうなと、己の浅はかさを反省した。
 ネクタイを締めながらリビングに入ると、柊は服を替えて長い髪の毛を母さんに纏めてもらっているところだった。ソファでは真琴が俺がずっと前に着ていたポロシャツとジーンズに身を包み、コーヒーカップを口につけて二人の様子を眺めていた。ジーンズは中学に上がったばかりの頃に使っていたものだと思うが、それでも真琴には尺が長過ぎたのか、裾を幾重にも折り畳んでいる。
 俺の準備は整ったが、柊の方はまだもう少しかかりそうだ。空いているソファに腰を下ろすと母さんに話しかけた。
「今はこうして柊と付き合うことになったけど、一段落付いたら母さんのことも見つめ直さないといけないよな。母さんは俺の母さんである前に、年齢の近い年頃の女性なんだし。ようやくわかったけど俺はそういうのを見ないまま物事を片付けてきてたんだ」
 いつも茶化すようにそのことを指摘していた母さん。一人の女性として俺が異性を意識しなくなっていることを見抜いていたんだと思う。それは俺がいつもやってしまう『そういうものだから』と片付ける悪癖の一つだったわけだ。今ならそのことがよくわかる。
 俺の言葉に、母さんは優しさと、悪戯心を混ぜた微笑みを浮かべる。
「鏡夜くんが仮に私のことを好きになってくれたとして、でもまだまだ私はお父さんのことが好きだから、その恋は実らずに玉砕しちゃうね。それに何より鏡夜くんのお母さんでありたいとも思っているし。ただ確かに一度は若い女の子として捉えてももらいたい。同じ屋根の下で暮らすんだもんね。意識して当然だし、そこは折り合いが付けられるのかどうか悩んで欲しい。そんな感じに女心って複雑だからさ」
 そして柊の髪を纏めるのに使っていたドライヤーをこちらに向ける。距離があるから微風だったけれど、温かな風が顔を撫でる。
「そんな複雑な女心を持つお母さんから鏡夜くんには文句を言わねば。一人の女性として見てくれるという発言は嬉しかったけど、それはこの場で口にすることじゃないと思います。女性の心を弄ぶ悪魔のような男だと主張!」
「それは……この場合仕方ないというか。事情が事情なんだし」
「言い訳がましいわよ御薗木くん。実際わたしというものがありながら、他の人に色目を使ってるんだもの。批難されて当然だわ」
 いつものように表情を変えないまま、柊まで俺を糾弾する。内心面白がっているのではないかと疑いもしたが、それを明確にわかるようにしてくれないし、正論でもあるからぐうの音も出ない。
 そのとき柊はちらりと視線を横に遣ったように見えたが、それも一瞬のことですぐに言葉を続ける。
「けれど確かに整理は必要なのでしょうね。その一つでもあり、大きなものでもあるのが立花先輩との関係。御薗木くんはそれに対してきちんとした答えを出さなければならないし、そうしなければ先輩も納得しないでしょう。それは他の人についても言えることだわ。周りにはたくさんの女性がいるのだし、その中から考え抜いた上で一人の相手を選び抜いたというのでなければ、わたしも含め誰しもが認めない。それは時間のかかることかもしれないし、急いだせいで間違った答えを出されても困るからじっくりと悩んで欲しいのだけれど、だからといって遅くなっていいというものでもないわ」
「……そうだな。心に留めておくよ」
 俺が頷くのを確認すると、柊は自分の髪を預けている母さんに話しかける。
「先程の話の続きですけど、青葉さんにとっても怪の一件は重要な関わりがあるものになると思います。ですからわたしたちと一緒に立花先輩のところへ同行してもらえたらと考えているのですが」
「それは……怪がお父さんと関係があると受け取っていいのかしら?」
 いったん作業の手を止めて問いかけた母さんに、柊はゆっくりと首肯した。
 母さんは落ち着いた様子で覚悟を決めたようだった。手を動かすのを再開しながら、それを口にする。
「私にも整理をしなきゃいけないときが来てるってことだね。わかった。行くことにする。でも真琴ちゃんをうちでずっとお留守番させておくわけにもいかないし、まだ雨も降り続いてるから、家まで送り届けてからだね。それもお母さんとして疎かには出来ない務めだし」
 そして柊の準備が整ったと俺に告げる。
 柊は座った状態で、そっとこちらに手を差し伸べた。
「じゃあ行きましょうか、御薗木くん」
「行くのはいいけど立花先輩の居場所に心当たりはあるのか? 母さんが後から来るというなら尚更場所を絞り込んでおかないと」
「それなら問題ないわ。立花先輩は自らを凍らせるために冷たい場所に行くと言ったのでしょう? この町でずっと冷気を帯びたまま氷に閉ざされている場所は一つしかないわ」
「……父さんの死んだ公園か」
 俺の推測に柊は頷いて応える。どうやら怪はあの場所で決着を付けようとしているらしい。
 望むところだ。父さんはあの場所で命を落としたが、俺は生きて立花先輩を救ってみせよう。父さんが達成できなかったことを成し遂げてみせる。
 覚悟を決めると俺は目の前の柊の手を取った。
 白いウエディングドレスに身を包んだ柊が、俺に導かれてゆっくりと立ち上がる。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:41 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-2-1


   二.


 局所的にとはいえ、立花先輩が急激に気温を下げたからだろうか、あるいは他の想いでも作用したのだろうか。ほんの少し前まで夏の空が頭の上には広がっていたのに、今ではその重量を感じるほどに、どんよりとした雲が下がってきていた。道を急ぐ俺たちの頬にも時折水の滴が当たる。この調子だと本降りになるのも時間の問題というところか。
「急いだ方が良さそうだな。先輩のことも探さないとならないし」
 歩速を速める俺たちは、しかし先輩の後を追っているわけではなかった。その前に用意するものがあって、一度俺の家に向かっている。
 隣を走る柊は、未だに眉根を寄せて難しい顔をしている。
「御薗木くんが真剣なのはわかったから彼女として付き合うことに了承したけれど、あまりに唐突な話だし、この一件が終わったらわたしも気持ちの整理を再度させてもらうことにするわよ?」
「わかってる。俺自身もいきなり飛躍し過ぎたとは思っているし、だから俺の方でも整理をする。立花先輩ともゆっくり話をしたいと考えてるし」
 急な告白に、柊は一応の承諾をくれたのだ。ただ俺の感じたことや思ったことを聞いてもらう前に、一度ナイフを突き付けられた。でもそれもご愛嬌という気がする。彼女がそういう行動に出るということは容易に想像が付くことだし。
「ともかく今は立花先輩を早く助けないとだな。俺の考えが正しければ、すぐに怪と共に凍りつくことはないと思う。だからといって悠長に構えていることもできない」
 先輩はこの世にまだ未練がある。怪に乗り移られながら口から漏らした言葉は、少々まとまりに欠けていたように感じられた。つまり台詞群には本心の部分と偽りの部分と、怪によって導かれた冷たい部分とが混在していたのだ。立花先輩にはまだこの世界や、自身のことを凍らせてしまう覚悟が出来ていない。仮に完了していたならあの場で俺たちごと氷漬けにしていたのではないだろうか。
 この世に未練が残っていて、それがこれまでの言動として現れていたとしたら。そこをきちんと捉えることが出来れば、先輩を怪の冷たい想いから救うことができるはずなのだ。立花先輩にその未練をもう一度自覚してもらうため、俺と柊にはやることがある。家に向かっているのはその準備が簡単にはできないものだからだ。
 先輩と邂逅したところから、大分住宅街の中に入ってきた。あと十分ちょっとで家に辿り着くだろう。そこで柊が何かに気付いたようだった。
「あら?」
 耳に入った声に何事かと振り返る。彼女の視線の先を追うと、見知った姿がそこにはあった。
「真琴じゃないか」
 まだ身体上では男の子と女の子の区別が明確にはついていない年頃。学校の制服でスカートを穿き、短い髪に小さなピンがなければ面識のない人間には間違われてもおかしくない気がする。
 人通りが少なかったために閉店してしまった煙草屋の軒先で、真琴は雨宿りをしていた。どうやら傘は持っていないらしい。確かにここから家までは距離がある。だからといって待っていても雨は当分の間降りやまないように感じられたし、むしろ強まるだろう。帰るなら今のうちだと思うのだが、当の相手はぼんやりと雨空を眺めているだけだった。
「何やってるんだ、あいつ?」
 放っておくわけにもいかないだろう。若干離れてはいるものの、こちらから真琴が視認できるように、向こうからもこちらを確認出来るわけだし。寄り道というほどにはならないだろうと考え、俺は足の向きを変えた。
「御薗木くんは彼女と知り合いなのかしら?」
「ああ、許斐真琴っていう近所に住んでる中学生。小学校の頃に通学班が同じだったんだ。でもよく真琴が女の子だってすぐにわかったな」
 昔から真琴は男の子に間違えられていた。容姿のこともあるけれど、しょっちゅう悪戯ばかりしていたし、家の塀を壊して庭を滅茶苦茶にしたこともあったから、顔を見たことがある程度の人はずっと誤解をしていたらしい。
 でも今の真琴は女子用の制服を着ているのだと、俺は気付いた。それなら柊が性別を正しく判断できたとして、何らおかしくはない。
「いえ違うのよ。あの子とは一度会ったことがあるの。そのときは私服だったから、御薗木くんの言う通り男の子に勘違いをしてしまって、大変失礼なことをしてしまったのだけれど。……そう、御薗木くんとは以前から知り合いだったのね」
 最後はほとんどつぶやきだった。何か思案している風の彼女の様子が多少気になりはしたものの、その頃には真琴の元に辿り着いていた。向こうもこちらに気付く。
「あ、鏡にい」
「どうした真琴。雨宿りしてても意味ないと思うぞ? それにどうして休日に制服なんだ?」
 声をかけてきた真琴には、いつもの元気がない気がした。人見知りする性格だから柊がいることが関係しているのかとも思ったけれど、それにしても覇気がない。
「制服なのは学校に行ってたからだよ。文化祭が近いからさ、その準備」
 それだけ答えると、真琴は再び雨粒の舞う空を見上げた。
「いつもなら折り畳みの傘を持ってるんだけど、今日は荷物が多いから置いてきちゃったんだよね。早くランドセルから卒業したいと思ってたけど、脇にも荷物がぶら下げられたのは便利だったなって、今くらいは思うよ」
「らしくないな。確かに俺の記憶にも、雨の日に真琴が傘を差さずに歩いている姿はないけど。でもいつも元気があり余り過ぎて周りに迷惑かけてるお前なら、このくらいの雨の中走って帰りそうな感じがするけどな」
「……鏡にいはやっぱり覚えてないのかな」
「うん?」
「小学校に入学したばっかりのこと。あの頃の僕がどんなだったかとか、鏡にいが言ってくれたこととか忘れてる」
 その言葉に、最初に真琴と出会った頃の記憶がないことを自覚する。いつの間にか悪戯ばかりしている真琴を、俺が面倒を見るようになっていた。通学班の班長をやっていたから、それが当然のことだと思っていたけれど。
「鏡にい、僕が小学校に入学してからしばらくの間は、まだ班長じゃなかったじゃん。六年生じゃないもん」
 真琴が苦笑しながらそう指摘する。
 言われてみればその通りだ。ならどうして俺は真琴の世話係みたいなことをやり始めたんだろう? 俺の疑問に真琴が懐古しながら答える。
「小学校に上がった頃の僕は全然元気なかったんだよ。塞ぎ込んでたっていうか、そんな感じでさ。それを気に掛けてくれたのが鏡にい。元気なんて自然に出るもんじゃないけど、とりあえず表面だけでも明るく振る舞ってみたらどうだって。その頃には鏡にいの目だと色が見えないこととか、お母さんが死んじゃってるってことを知ってて、そんな状況でも他の人と普通に登校してる相手が言うならって、無理して明るく振る舞ってみることにした。結局無理矢理元気出してるだけだから暴れてるみたいになっちゃって、それで助言した鏡にいが、仕方ないから面倒見るってなったんだよ」
 そんな示唆を与えたことなんてまったく覚えていなかった。けれど真琴と俺は四つ差だし、だから小学五年生の春頃から知り合いだったということだ。確かに思い起こしてみれば、通学班班長になる前から俺は真琴の面倒を見ていたし、真琴自身も俺には特に遠慮なく悪戯していた気がする。そして記憶の中にある真琴が悪戯を繰り返している姿は、夏頃からのものだ。それ以前は真琴の姿を記憶の中に見つけることすらできない。
「多分、髪型が違ったから思い出せないんじゃないかな。鏡にいは僕がずっと髪の毛短かったと思ってるんじゃない? 実は入学した頃は、他の女の子と同じで髪の毛長かったんだよ」
 髪を伸ばしている真琴の姿なんてさっぱり思い出せない。さらには「そういえば自分のことを僕って言い出したのもかなり後だったかも」なんて言う。
「すまん、全然覚えてない。子供の頃のことだったから、なんて言い訳にならないよな。真琴はもっと小さかったんだし」
「鏡にいにとっては、特に何も意識しないでやったことだったんじゃないかな。それが自然なことっていうかさ、だから覚えてないんだと思う。でもお母さんも亡くしてて、色を見る目まで失ってて、それでも明るく話かけてくれる鏡にいの言葉だったから、僕は信じる気になった。実はさ、髪の毛を短くしたりしたのは同じ男になれば、鏡にいとももっと遊べるんじゃないかって考えたからなんだよ」
 笑顔でそんな告白をした真琴は、けれど次には表情を暗いものにしていた。
「でもそんなことくらいじゃ男になんかなれない。世の中そんな思い通りになんかいかないってことだよね。鏡にいはすぐに小学校卒業しちゃったし、中学に上がっても鏡にいはさらに高校に進んでるしさ。こっちは会えない間に色々考えたし、再会してからも自分の中では変化があったのに、周囲はそれに付いてきてくれるとは限らない。そういうところ、世の中理不尽だし、不条理だらけだって思うよ」
「うん?」
 どうしてそこで理不尽とか、最近真琴の口癖になっている不条理という単語が出てくるのだろう? 唐突に感じられたから思わず首を捻ってしまった。
 それを見た真琴が舌を出して憤慨してみせる。
「鏡にいが鈍感ってことだよ、バーカ!」
 いつもだったらここで脛でも蹴ってくるところだろう。けれど今日の真琴にはそんな気配はなかった。代わりに上空を見上げ「あ」と小さく声を漏らした。急に雨足が強くなったようで、軒先や道路を叩く音が大きくなる。
「帰るの大変になりそうだな。しばらく止みそうにないし、実は俺たちにも急ぎの用事があるんだ。濡れるのは諦めて、とりあえず俺の家まで走ろう。真琴はそこで雨宿りをするなり、傘を借りてすぐに帰宅するなり、自分の好きな方を選んで。少なくともここよりはずっとマシだから」
「……うん」
 半ば消え入りそうな声で真琴は承諾する。制鞄を胸の前に抱え込んで、雨の中に出る覚悟を決める。
「雨は嫌いだ」
 その呟きに、それまで俺たちの会話を黙って聞いていた柊が静かに呼応する。
「雨の日は、嫌なことを思い出すものね」
 真琴は応えない。そしてそのまま雨落ちるアスファルトの上に身を投じた。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:40 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-1-2


 体が温まって動けるようになるまでかなりの時間が必要だった。急激に冷やされたせいか末端の血管が縮こまり、まともに血が流れない。ようやく感覚の戻ってきた指先は痺れるように痛く、痒みすら伴っていた。
 柊は少し離れた場所でうずくまっている。近寄りながら安否を問う。髪に付いたままの氷を手で払い、霜だらけになった眼鏡を外しながら、彼女は答えた。
「別に命にまで別状はないわね。でも生まれて初めて霜焼けなんかになったわよ。わたし寒さには強いはずなのだけれど」
 立ち上がった柊は、サバイバルナイフを服の中にしまいながら言葉を続けた。
「結局怪を逃してしまった。わたしも今ではただの人だものね。ある程度の記憶や感覚が残っているとはいえ、取り憑かれていた頃のように動くことは出来ないし、怪そのものを相手にするのは難しいのかもしれない」
 口ではそう言うものの、彼女からは怪に直接対峙するという考えを改めるという気配は感じられなかった。憑かれている人を殺してでも、その醜悪な想いを止めなければならないと思っているのだ。
 けれどそれは思い込みだ。彼女の家庭環境を考えればそれも仕方ないのかもしれないが、想いというのはそんなに単純じゃない。柊は立花先輩をほとんど知らないが、俺は知っている。おかげで気付いたことがあった。彼女にそれを告げる。
「立花先輩は怪から柊の抱いていた想いを受け取ったかもしれない。でも先輩は先輩だ。柊とは別の想いを持っていて、だから怪とも違う付き合い方をしている」
「……どういうこと?」
「想いは積み重なるし相互に作用しあう。頭では理解していたつもりだったけど、実際に強いものを目の当たりにすることで、その意味がようやくわかった。喩えるなら絵具のようなものなんだ。同じ絵具でも、混ぜるものを別のものにすれば、作られる色は異なるものとなる」
 そして柊と立花先輩は真逆といってもいいくらいに異なっているのだ。柊は幼少期から抱えていた激情を、厚い殻で覆い冷やし隠そうとしていた。一方の立花先輩はともすれば諦めによって凍って動かなくなってしまいそうになる気持ちを、明るく振る舞うことで溶かそうとしていた。冷たいものが外にあるか内にあるか、そこだけに注目しても二人は全然違う。
「けれど立花先輩は現にわたしたちを怪の力でもって殺そうとした。意識も曖昧だったし、乗っ取られていると考えた方が自然だわ」
「それは違う。意識は確かに定まっていなかったようだけれど、きちんと自分の気持ちを口にしていた。それに殺そうとしたかどうかなんてわからない。むしろ俺たちは生きていることに注目すべきなんだ。怪に取り憑かれていた頃の柊だったら、身動きもまともに取れない俺たちを見逃したか?」
「それは……」
 俺の指摘に柊が言い淀む。殺人を繰り返していた彼女の姿を俺は知らないが、怪にまつわる言動をつぶさに観察していれば、そのくらいの推測は出来る。
 それに俺には立花先輩が怪に操られているわけではないという確信がもう一つあった。去り際に先輩は泣きながらありがとうと言ったのだ。あれが偽りの言葉だったり、別の誰かの気持ちだとは到底思えなかった。
 柊は唇に手を当ててしばらく考え込んでいたが、最後には頭を振った。
「確かに今の立花先輩は怪に意識を奪われていないかもしれない。わたしも両親を殺すまでは自分の意思で動いていた部分が強かったし。でも怪の想いはとても大きい。放置していれば、いずれ世界を冷たいものに変えようとするはずよ。御薗木くんの考え通りならば殺人によってではないかもしれないけれどね」
 その意見はおそらく正しい。先輩が俺たちに怪の冷気を向けたのは、そこに望んでいる温かさを垣間見たからなのだ。そういうものが近くにあると、どうしても自分の内にある冷たさを意識してしまう。だから防衛反応として周囲の温度も下げてしまおうとしたのだろう。怪の想いに先輩の意識が押し潰されれば、そのようなことを繰り返していくことになってしまうのかもしれない。
 でも先輩はそうならないようにしようとしている。おそらくは柊から持ち去られた想いから事件のことを知ったのだ。だから意識のあるうちに怪を封じようとしている。
「先輩は一人で冷たいところに行くと言っていた。それがどこかはわからないけど、そこで自分の想いごと凍らせて動けなくしてしまうつもりなんだと思う」
 結局諦めることにしたのだ。怪に縋っても、身体を丈夫にすることが出来なかったから。自分が死ぬことを受け入れて、それまで何とか温めようとしていた自分の気持ちを氷の中に封じ込める。もしかしたらそのときに怪の力を使うのかもしれない。希望をすべて捨て去ることは難しいし、苦しいことだから。
 ただそこまで追い詰められて、決意したという先輩のことを思うと、胸が締め付けられた。
「でも立花先輩がそうしてくれるのなら怪の脅威は収まる。自分でも酷いことを口にしている自覚はあるけれどね、でもわたしの望みは果たされる」
 柊を糾弾する気はなかった。元々怪を鎮めることを彼女は考えていたのだし、それに一瞬だけ揺らいだ瞳を俺は見逃さなかったから。
 そこで思わず溜め息が漏れた。俺は自分を変えようとして、多少はみんなのことを知ることが出来た気になっていた。けれど結局のところは全然駄目だったということだ。知ったと思っていたのは表面的な部分だけ。本当はもっと深いところまで目を向けていて、それに気付いてすらいたのに、きちんと考え、受け止めることをしていなかった。今頃になってようやく自分の愚かさを知る。
 立花先輩は身体を丈夫にしたいという希望を口にしながらも、実際には周囲に取り残されていくことを怖がっていただけだった。所々で先輩はその本当の想いを口にしていた。今から振り返ればそのことに気付ける。
 柊も同じだ。怪のことなんて本当はどうでもいいはずなのに、自分の気持ちに嘘を吐いていて、そのために決着をつけなければならないことを見失っている。父さんに助けられて、多少は変わることが出来たのかもしれないが、見るべきものからまだ目を背けて続けている。
 俺はそこまで自分の中を整理すると、やるべきことを見つけ、決意を口にする。
「先輩を助けることにする。想いを知っておきながら、それを見捨てることなんて俺には出来ない」
「その辺り、御薗木くんは亡くなられたお父さんにそっくりね。でもどうやって助けるつもりなのかしら? 立花先輩に取り憑いた怪を引き離す方法は思い付いているの? 当てがないならわたしは止めるわよ。自ら凍りついて動かなくなってくれるのならそれで構わないもの」
「方法はある。それで上手くいくだろうという確信も持ってる。ただし一緒に柊の性根も叩き直すつもりだけどな」
 二人が自分勝手に行動するつもりなら、俺は俺のやろうとしていることにみんなを巻き込んでやろう。色が見えなくなって、単色の世界の寂しさを知っているからこそ、そうしてやりたい。
「意味がわからないのだけれど、一体何をするつもりなのかしら?」
 問いかけてきた柊に、俺は返事をする代わりに一つの質問をした。
「柊は女だよな?」
「……馬鹿にされているのかしら。あまりに冗談が過ぎると、怪の代わりに御薗木くんを刺し殺すわよ」
 眉間に皺を寄せている彼女に、心の中で冗談を言っているのはどちらかと苦笑する。
 でもそれでいい。俺は先輩が別れ際に口にした最後の言葉を思い出しながら、柊に気持ちを伝える。
「俺と付き合って欲しい。彼女になってくれないか?」
 直後に見た表情を、俺は一生忘れないと思う。あの柊でもそんな顔が出来るのだと知れて、堪らなく嬉しくなった。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:39 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』3-1-1


   三章


   一.


 想いというのは積もり積もっていく。そしてそれが凝集することで怪になるという。
 想像しやすく喩えるなら、家の隅に闇が集まって異様な雰囲気を出しているもの、それがさらに強くなったものが怪だ。
 ただ家の隅に漂う闇を子供が自然と畏れるように、人はそこに近付こうとしない。なら同じように怪にだって寄りつこうとはしないはずだ。
 にもかかわらず柊は怪に魅了された。立花先輩も手を伸ばしてしまった。それはどうしてなのだろうか?
「力があるように感じるのよ。わたしは自分の力ではどうしようもない窮地にまで追い込まれていたから、得体の知れないものであってもそれに縋った」
 立花先輩は変わろうとしていた。自分の身体が弱いことを気に病んでいて、それを改善しようと努力しているようだった。
 でももし体調の改善が望めないほど悪化していたとしたら? それを覆そうとして、結局絶望の淵に叩きこまれたとしたら?
「別に活発に運動ができなくてもいい。時々なら学校を休んだり早退してもいい。でも普通に自分の足で通えて、普通に友達とお喋りが出来て、それで可能なら好きな人と一緒に同じ時間を過ごせれば。アタシが欲しかったのはたったそれだけ……」
 さっきまで声を出すのすら苦しそうにしていて、激しい咳で身動きすら出来なかったのに。けれど今の先輩は自分の足で地面に立ち上がろうとしている。
「でもそんな当たり前のことですら、アタシには許されない」
 振り返った先輩の姿は幻想的ですらあった。口の端からは線が引かれ、腕はだらりと地面に向かって伸びている。ぼんやりとした視線が虚空に投げられ、凍りついた水蒸気が陽の光を反射してきらきらと輝く。世界を凍らす死の中で、先輩は目一杯の宝石に飾られていた。
 意識はあまりはっきりとしていないのかもしれない。でもその口から紡がれる言葉は立花先輩の本心で間違いないと思われた。
「アタシの周りにある世界は暑い。熱気に溢れていてみんなすごい速度で進んでいくの。そんな中でアタシだけが凍えてる。手足は悴んでまともに動かないけど、何とか追い付けないかと足掻いたこともある。でもなかなかうまくいかなくて、そういうものだと何度か諦めようとした。同時にその度にみんなに置いていかれることを想像してしまって、怖くなって堪らなかった。……そのうち気付いたら内臓まで冷たくなっていて、肺も心臓も止まりかけてた。そのまま死んでしまうのがイヤだったから、アタシは気持ちで温めて、それを何とか溶かそうと思った」
 独白が画材屋でした話とふと重なる。俺も色が見えないことを諦めていたことがあって、けれど絵具にあまりに多くの種類があることを知り、それが区別できないことを悔しく感じたのだ。それと似たように、立花先輩は周りで健康的に活動している人たちを羨望の眼差しで見つめ続け、もしかしたら嫉妬すらしたのかもしれない。
 そしてデートのときに明るく嬉しそうに振る舞っていた先輩の姿を思い出したら、無性に悲しくなった。吐血するほど身体が弱っていて、それにずっと気付いていなかったはずはない。俺と一緒にいるときもその恐怖に怯えながら、動きが止まってしまわないように大袈裟に感情を表現していたに過ぎなかったのだ。
 まだ焦点の定まらない立花先輩は、ふと何事かを考え始めたようだった。少しの間上空を見つめ、そして一つ頷いた。
「そうだね。みんなも冷たくしてしまえばいいのかもしれない。世界の動きが鈍くなるように……」
 瞬間俺の横を影が通り過ぎる。
 それが柊だと気付いた頃には、彼女は手にしたサバイバルナイフを立花先輩の喉目掛けて突き出していた。
 止める暇なんてなかった。血が飛び散り、柊が後退る。
 地面に落下したナイフは思いの外軽い音を響かせた。それが柊の手の甲を切ったこと、立花先輩までは届かず、突如出現した厚い氷に弾かれたこと、先の一瞬で起こったそれらを理解するまで大分時間がかかってしまった。その間に柊は再度刃物を拾い上げ、立花先輩の方を見据える。
「柊!」
 悲鳴とも怒声ともつかない俺の言葉に、彼女は押し殺した声で返す。
「あれはわたしの想いよ。世界から温もりを消そうというもの。そんなものの存在を、わたしは見過ごすことは出来ない」
「……」
 俺は柊を止めようとし、ふと彼女の主張の何かがおかしいことに気付いた。思い違いというか、思い込みをしている。
 けれどそれを説明する前に、立花先輩の方に更なる異変が見られた。未だ焦点の定まらない視線。それがこちらに向けられ、俺たちの姿が視界に収められる。そしてその言葉を吐いた。
「あなたたちを見るのが、とてもイヤ」
 言葉と同時に先輩の体から冷気が溢れだす。それは周囲の空気と水蒸気を氷に変えながら、吹雪となって俺たちを襲った。髪の毛が凍りつき、睫毛が氷柱となって瞼を重くする。
 吐く息は白く、体内に入ってくる空気が肺に突き刺さる。季節はまだ夏のはずなのに、周囲はすっかり真冬となっていた。
 歯をガタガタと鳴らす俺に、先輩は淡々と告げる。
「アタシには未来がない。もう内臓はボロボロになっていて子供を産むのもおそらく無理なんだって。原因も分からないから入院したところで治るかどうかもわからない。治療に専念するから延命は可能だろうけど、病院に入ってしまえば学校に通えなくなる。そうしている間にみんなはどんどん卒業して、大学に行ったり、就職して社会に出たりするの。恋愛もして、結婚もして、やがては家庭を築いていく。そして取り残されたアタシは忘れ去られてしまう。それがイヤだったからアタシは入院を拒否した。両親も渋々だったけど最終的には了承してくれた。でも……やっぱりみんなと同じようには歩めなかったよ」
 俺は先輩の具合がそんなに悪いということを知らなかった。向けられていた笑顔の下に、そんな辛い想いが隠されているとは気付けなかった。
 周囲の温度がまた下がった気がする。立花先輩が俺たちに冷えた視線を向けながら告げた。
「二人が羨ましい。美術室に見学に行ったとき、真剣に絵に取り組む姿がそこにはあった。それはアタシがいくら手を伸ばしても手が届かないものなの。だから壊したくなったんだ。仲良さそうにしているのをしているのを見たら、嫉妬するのも自然なことでしょ?」
 美術室にいた俺たちを襲ったのは立花先輩だったということに気付く。先輩は美術室で俺たちが近くで話しているのを見かけたと言っていた。偶然廊下から寄り添っているその姿を目撃し、誤解も含んでいたのかもしれないが、引き離したいと思ってしまった。それに呼応して怪の力が発動したということなのだろう。
 先輩は寒さで動けなくなっている俺たちからすっと視線を外す。そうしてゆっくりとした足取りで歩き出した。
「この世界すべてを凍らせてしまうのなんて無理だってことくらいわかってる。だからアタシ一人で氷に包まれたところに行くよ」
 去り際、一度だけ先輩は俺の方に視線を向ける。
 氷の微粒子が舞う中に少し大きな塊が流れ落ちた。
「御薗木君、世の中にはたくさんの色があるんだってことを教えてくれて、ありがとう」
 そして身動きの取れない俺たちをその場に残し、立花先輩は姿をくらました。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:37 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』2-4-2


 柊は怪に取り憑かれた人間を殺すことが自身の歩むべき道だと考えている。そうすることで彼女から持ち去られた畏忌されるべき想いがこれ以上拡散するのを防ごうとしている。一方で俺は生きた絵を描けるようになることを目標にしていて、そのためには周囲での起こる出来事を仕方のないものと片付けてしまう悪癖を直さなければならない。そのことを隼人と話すことで明確に自覚することが出来た。俺たちの目指している終着点は、確かに異なる。
 けれどお互いに歩む道は交差させることは可能なはずだ。その結果最後に辿りつく場所は変わってしまうかもしれない。隼人は自分から人に関わることでそれを避けたが、俺にはそこまで他人から距離を置くことは出来そうになかった。
「柊は自分の忌み嫌う想いしか見ていないんじゃないか? 想いは積み重なって相互に作用するわけだし、そう考えれば柊と同じ行動を取る可能性は低い気がする」
「そうね。わたしと同じように殺人を起こすとは限らない。けれど御薗木くんが言っている通り想いは積み重なるのよ。その中にはわたしの気持ちも確実に入っている。それが新しく乗り移った人に対して悪い方向に働かないと、あなたは断言できるのかしら?」
 柊は悪いことが起こるのではないかと考えて行動している。最悪の事態を想定し、それを避けようとするのはけして悪いことではないし、むしろ一つの規範として重要視されるべきものだ。
 けれどそれは数あるものの中の一つでしかない。最大公約数的に良くなる方法を模索するというのもありだろう。それは全員が一番望む結果を得られないという結果にも繋がるけれど、だからといって俺は誰かが目の前で倒れているときに無視できるような人間でもない。
 そんな俺の考えに、柊は軽く笑みを浮かべた。普段表情をほとんど変えないから、そうした機微に触れるととても印象深く映る。彼女は淋しそうに笑っていた。
「血の繋がりを感じるわね。御薗木くんのお父さんも、死にそうなんだからわたしのことなんて構わなければよかったのに。そうすれば今でも青葉さんや御薗木くんのところで温かく幸せな家庭で暮らせていた。わたしを助けようとしたせいで、自分の幸せを逃したのだわ」
 柊の言葉に俺はすぐに首を振った。そんな風に父さんのことを思ってもらいたくなかった。
「それは違う。そうしたら柊が冷たい怪に取り憑かれたままだったんだろう? そんなこと父さんは望んでいなかったはずだし、助けられなかったらずっとそのことを悔いると思う」
「わかってるわ。ただの冗談よ」
 普段から多用するその言葉。しかし今回のそれは悲しげに響いた。もしかしたら柊も自分のやり方に疑問を持っているのかもしれない。ただ父さんのやったような他の方法が見つからないのではないか。これまで親とも友人とも交わってこなかったから。
 ……だとしたら俺がその橋渡しをしてあげるべきじゃないだろうか。もし仮に父さんが彼女に襲われた後も生きていたなら、きっと何らかの手を差し伸べていたと思う。
 ただ残念ながら今の俺には柊に差し出す手はなかった。彼女のことはいくらか知れたけれど、まだ整理できていないものがある気がしてならなかった。
 そんなときだった。柊が声を上げたのは。
「あら?」
 彼女の視線の先、閑散とした住宅地の細い通りに人がうずくまっていた。シャツブラウスを着た上半身に斜めに鞄をかけ、長い髪をアップにしている女性。
「――立花先輩!」
 気付いて、俺はすぐに駆け寄った。ほんの数時間前まで一緒にいたその姿を見間違えるはずがない。
「……は……ぁ。……っ!」
 体を抱いて腕の中で上向かせると、先輩は息がうまくできないらしく、苦しそうに喘いでいた。拳をぎゅっと握りしめ、胸の辺りで震わせている。きっと喘息の発作に違いない。以前からそうした症状を持っているとは聞いていた。
 後ろから覗き込む柊が問いかける。
「立花瑠美先輩といったかしら? この前美術部室に見学に来た人よね。大丈夫なの?」
「わからない。一応喘息の発作が出た場合の対処について、立花先輩本人から教えてもらったことがある。確か発作を和らげるために気管を拡張する薬があるはずなんだ。小さなスプレーのようなやつで、いつも持ち歩いていると言っていた。柊は鞄の中にそれがないか探してくれないか?」
 俺は先輩の体から鞄を取ると柊に手渡す。それから先輩の着ている服のボタンを首元から外していった。
「息をするのに苦しくないようにしますからね。先輩、俺の声が聞こえてますか?」
 立花先輩からは明確な応答はなかった。相変わらず浅い呼吸で、まともに空気を肺に入れられていない。
 それでも躊躇している余裕なんてなかった。先輩の負担にならないように慎重に、しかし迅速にボタンを外していく。下着が見えるところまでシャツの襟を開いたところで、柊が鞄の中から見つけたスプレー缶を渡してきた。俺はそれを受け取ると立花先輩に話しかける。
「先輩、薬です。吸引出来ますか?」
 スプレーを口元に当てると、先輩は僅かにではあるが、深く息を吸い込む素振りを見せた。それに合わせて薬を口内に噴射する。確か一回で二吸引をする必要があったはずだ。促すと、先輩はさっきよりもいくらか大きく深呼吸をし、俺は確認しながらプシュッとスプレーを押した。
 どうやら薬の効果があったらしい。間もなくして先輩の呼吸は深くなり、次第に安定していった。
 俺は安心して緊張の糸を解いた。立花先輩を見つけてからはずっと緊張していたからか、途端に体が小刻みに震え始める。過って先輩を落としてしまわないように、抱える腕に力を入れ直した。
 そんな俺に柊が声をかけてくる。
「ねえ御薗木くん、これは何?」
 言われ、彼女の指差す先を見てぞっとした。喘息の症状ばかりに気が取られていて、そちらに視線が向いていなかった。スカートから覗く脚の上を、ねっとりとした液体が伝っていた。色が見えなくてもわかる。それは鮮血だった。
 月経によるものなんかじゃないだろう。あまりに血が多すぎたし、男の俺なんかより詳しいはずの柊も戸惑っている様子だった。
 そんな中、か細い声が鳴る。
「……御……薗木……君?」
 呼吸が安定したからだろうか。立花先輩が意識を取り戻した。なかなか焦点の定まらない視線でこちらを見てくる。
 そして傍らにもう一人いることに気付いて、そちらにも目を向けた。
「柊……さん?」
 先輩は一度目を見開き、それからすぐに苦しそうに呟いた。
「御薗木君は、今日アタシとデートしたはずなのに。なのに……どうして。どうして、柊さんが隣にいるの……」
 そこで急に立花先輩は体を捩って咳をした。慌てて口元を押さえるが、指の隙間から散る飛沫が着ている服に点々と染みをつくる。
 こんなに先輩の具合が悪いなんて知らないし、聞いてない。何が起きているのか分からず、ただ少しでも楽になればと体を寄せようとした。
 けれどそれを先輩は拒絶した。
「見ないで……!」
 俺の胸を押し、先輩は腕の中から道へと転げ落ちる。こちらの視界に入らないようにと背を向けるが、咳をするたびに大きく痙攣する体と、地面に零れ落ちる血は隠しようがなかった。
 しばらくして発作の少し収まった先輩が声を震わせる。
「こんなはずじゃ、なかったのに。アタシは……病気を治したかった。丈夫な身体を手に入れて、普通の生活をしたかった……だけ。そのためにこの力に縋った、のに」
 俺は急に後ろに引っ張られた。
 やったのは柊だった。彼女がすぐに異変に気付いてくれてなければ、俺は巻き込まれていたかもしれない。
 大気中の水蒸気が急に冷やされてきらきらと輝く。立花先輩の周囲が急激に冷えて、道や塀に氷を張り付かせる。
 俺は初めてそのような現象を見たけれど、事実として認めざるを得なかった。
 立花先輩に怪が取り憑いていたのだ。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:16 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』2-4-1


   四.


 丘の上の境内から下りてくると、険しい視線が俺を出迎えた。
「随分と仲良さそうに話していたじゃない」
 秋物というには薄手の軽い服装に身を包み、髪をポニーテールでまとめた柊がそこに待ち構えていた。視線がきついのは眼鏡をかけていないのも理由の一つかと思ったが、絵を描くとき以外は眼鏡を使っていると言っていたし、今日はコンタクトでもしているのかもしれない。
「コンタクトじゃないわよ。考え事をしながら歩いていたから、邪魔に感じて外していただけ。眼球に異物を直接付けるのなんて正気の沙汰とも思えないしね」
 柊はそう答えながらポケットから無造作に眼鏡を取り出してみせた。そのまま耳に掛けようとして、直前で止める。
「御薗木くんは眼鏡好きか何かなのかしら? わたしはそういう変態的な嗜好でもって視姦されるというのはイヤだから、そうだというのならこのままでいようと思うのだけれど」
「そういうのはないよ。というか本当にそういう趣味を持っている相手にそれを言っても否定されるだけじゃないのか?」
「それもそうね。でもそんな性癖をもっていながら、指摘されたときに隠そうとする相手とは良いお付き合いなんて続けられないでしょうけど」
 相変わらず言葉がきついというか、もう少しオブラートに包んだ言い方をすればいいのに。そんなことをようやく眼鏡を耳にかける柊に対して思う。
 顔を上げた柊は、レンズ越しでも相変わらずの視線だった。
「さてわたしの大嫌いな早乙女くんとどのような話をしていたのか、きりきり白状してもらおうかしら? 何か妙な企みでもしていたのなら、実行する前にここで殺してあげるわ」
「わざとそういう表現にしているというのはわかってるけど、柊が言うとあまり冗談に聞こえないのが困りものだな」
「冗談なんかじゃないわよ。これからわたしは再び殺人者になるのだし」
「……どういうことだ?」
 問いかけに柊はすっと目を細める。今回は俺のことを睨みつけているわけではない。少し遠いところを見ていて、決意を固めているような感じがした。
 視線をこちらに戻した柊は、けれど問いに答えてはこなかった。
「質問を先にしたのはわたしよ。まずはそれに答えなさい」
 俺は大きく嘆息した。どうやっても柊自身の話からしてはくれなさそうだ。仕方なしに彼女に従う。
「別に何か企んでいたというわけじゃないよ。隼人と会ったのも偶然だし。たまたまここで隼人を見つけて、俺の気持ちの整理に付き合ってもらってたんだ。そのときに柊の話も出たには出たけどね」
「早乙女くんがそんなことするなんて考えられないわね。でも御薗木くんに嘘を言っている様子もないから、本当なのでしょうけど」
 柊が隼人のことを嫌悪するのは、おそらく中学時代の出来事が理由なのだろう。彼女の家庭事情のことを察して話かけておきながら、助けを求めてきたら拒絶した。
「あら、そんなことまで話してたのね。無神経にも程があるわ」
 そう口に出しはするものの、柊はさして気にしていない様子だった。彼女自身の想いを吐露する。
「嫌うきっかけとして大きなものだったのは確かね。その頃は早乙女くんのこともほとんど知らなかったから。でも絵に向かう姿勢と同じで、人の気持ちをわかっておきながら、それに関わろうとしないところが堪らなくイヤなのよ。誰かの想いに触れれば、自分自身だって何かしら想いを揺さぶられるはずなのに。でも彼はそれをなかったことにする。まあ彼だけでなく、見て見ぬふりをされるというのは、中学のときに散々味わったのだけれどね」
 隼人は他人と想いを交わらせたくないと言っていた。想いは繋がり積み重なるものだから、それを余計に掻き乱したくはないのだと。それが彼なりのスタンスなのだと思うし、柊とは反りが合わなかったということではないだろうか。
 しかし柊の嫌悪感は相当なものであって、ただ相性が悪かったというだけでは説明がつかないとも感じる。それに彼女自身も心の内をすべて語っていないような気がした。それを俺はうまく捉えきることが出来なかったけれど。
 思索するのにしばし時間を取られていると、その間に柊は俺から離れて歩き去ろうとしていた。慌てて呼び止める。
「まだ何か話すことでもあるの? わたしにも用事というものがあるのだけど」
「いや時間がないというのなら今度で構わない。ただ俺も父さんの事件に向き合おうと思っていて、出来れば柊からもっと話を聞けないかと考えていたんだ」
 俺の言葉に、柊は少しの間考える素振りを見せた。そして答えを返すときにはすでに歩き始めていた。
「わたしは怪を探している途中なのよ。当てもないからぶらついているだけに近いけれどね。その探索に付き合いながらでいいというのなら、好きにしなさい」
 一応の許可は貰えたということか。俺は柊の後に従いながら、何から訊いていくべきか考え始めた。
「柊は怪を消したいんだったよな。でもどうやったら怪は消えるんだ?」
「怪の存在を完全になくすのは難しいわ。実体があるわけではなく想いの塊なのだから。一応人から引き離すことが出来るというのはわかってる。御薗木くんのお父さんがわたしに対してやってみせてくれたもの。あのとき怪は拠り所をなくして消えたのだと思ってたし、警察もそう判断していたようだけれど、実際には違ったみたいね。おそらくは青葉さんを一時的に経由して、今も誰かに取り憑いている。その相手を見つけ、もう一度引き離すということも可能なのかもしれない。でもそれは手間がかかる。怪の想いと取り憑かれている人間の想いを切り離す作業が必要になるためにね。ただわたしにはそこまで他人のことを考えている余裕はない。だからもっと手っ取り早い方法を使うわ」
 言って柊は俺の眼前で何かを閃かせる。
 鈍色に光るそれは刃渡りが十五センチはあろうかというサバイバルナイフだった。
「取り憑かれている人間を殺す。そうすれば怪はともかく人の想いは消えるもの」
 ナイフの刃先は真っ直ぐ俺の眼球を向いていた。意図してやっているのかどうかはわからないが、少なくとも彼女が本気であるということだけは伝わってきた。
「警察も間が抜けているわ。家の中も調べたはずなのに、事件の本質が怪とわたしの家庭にあるという先入観に囚われると、こういう物も簡単に見落とすのだから」
 柊が服の中にナイフを隠す。厚着をしているわけでもないのに、あれだけ大きなものがいとも簡単に見えなくなる。どこでそんな芸当を覚えたのか。
「怪はわたしから離れたけれど、その想いや経験は残っているもの。魅了され、操られている間に覚えたのじゃないかしら。ナイフも怪が購入したものだし」
「それはわかった。でも人を殺すのはいくら何でもやりすぎだろう。柊も今は怪に取り憑かれているわけじゃない。今度こそ本当の殺人者になるぞ」
「わかってないわね」
 立ち止まり、振り返った柊が俺を冷たい視線で射抜く。
「わたしはとっくに人を殺してるの。殺人者なのよ」
 とても冷たいその言葉に、彼女の決意は変わらないように感じられた。今でも怪に取り憑かれているのではないかと思うほど、彼女の気持ちは冷たく凍りついている。けれどどうしてそうなってしまうのか俺にはわからなかった。
「言ったでしょう。怪は想いそのもの。そして想いは積み重なるものでもある。だから取り憑いた怪は以前から備えていた冷たさをこの心に残し、そしてわたしの想いを持ち去って他の人に移っていったのよ」
 柊は回れ右すると再び歩き出した。そしてさらに詳しく説明をする。
「早乙女くんからどこまで聞いているのかはわからないのだけれど、わたしの家庭環境が劣悪だったということくらいは耳にしているでしょうね。端的に言えば両親は人を売り買いしてお金を稼いでいたの。生きている人間も死んでいる人間も扱っていたわ。一緒に暮らしていた祖母はわたしが小学校に上がった頃に首を吊って自殺したのだけれど、その体も切り刻んで金銭に換えてしまった。そういうのがなされていたのがわたしの家で、そしてわたしの目の前だったのよ」
 彼女の両親がいつからそのような仕事をやり始めたのかは知らないらしい。ただ自ら命を絶ったというお祖母さんが生前そのようなことはやめてくれと懇願し、それに対して殴打で返す両親の姿が網膜に焼きついているという。
「幼いながらにそういう話は外でするものではないとわかったけれど、ただ隠そうとするだけでは何の解決にもならないし、余計に状態を悪くしてしまうのね。そこまではさすがにわからなかった」
 話を聞いて何故一見すると柊は冷たい印象なのに、その内部には熱いものがあり、時に過激な行動に出るのか分かった気がした。沸騰しようとしているお湯に蓋をすれば余計に温度が上がって煮え滾る。それをさらに押さえ込もうとすれば全体を厚く覆わなければならないし、それでも隙間を見つけて蒸気が噴き出す。周りにいる人間はその鍋をいつも見ているわけではないし、触っているわけでもないからなかなか気付かないだけなのだ。
「わたしを見つけた怪は、隠している熱を冷やしてあげようと囁いた。限界を感じていたわたしはその誘惑に喜んで飛びついたわ。そして両親をこの手で殺したの」
 怪はまず火の元を消したということなのだろう。もしかしたら柊自身もそれを望んでいたのかもしれない。彼女は口にこそしなかったものの、幼少期から積もらせてきた両親への憎悪は相当なものになっていたに違いない。
 柊の激情の原因である両親はいなくなったが、それでも彼女の中には煮えて熱くなったものが残っていた。だから怪は離れなかったし、柊も引き剥がそうとはしなかった。
「今では思い込みだと分かっているけれど、当時は家族というものが人を狂わせる根本原因になると考えていた。そんな狂った世の中を、わたしは変えようとした。だから家族連れや恋人を見つけるたびに襲撃していったの。苦しみが生まれる前に壊してしまえばいいと、そう考えてね」
「……それで俺の父さんと母さんが襲われたのか」
 俺の漏らした言葉に柊は顔をこちらに向けようとし、目が合う前にやめた。
「御薗木くんのお父さんには感謝してもし足りない。息を引き取るまでのほんの短い間に、如何に自分が家族の愛に恵まれていたかを語ってくれた。そうすることでわたしの世界観を変え、怪を引き離してくれたんだもの」
 そんな父さんに接したから、怪は母さんに乗り移ったのではないかと最初考えたのか。死ぬ直前に冷たい想いを抱いていない様子だったのに、あれだけ公園が凍りつくのは不自然だと、そう考えたのなら納得がいく。
「まあこの前御薗木くんの家にお邪魔させてもらって、あなたと青葉さんを見ていたら邪推だったと気付いたけれどね。お父さんの言っていた通り、温かい家庭だと思ったもの。少しの間なら怪は青葉さんに憑いていられたかもしれないけれど、あの場に留まることは出来なかったでしょうね」
 一度俺の父さんや母さんの話題を出したからだろうか。柊は一度そこで言葉を区切り、短く息を吐いた。そうして再び声を冷淡なものに変える。
「怪は想いの塊であり、想いは蓄積する。今の怪はわたしが抱え込んでいた想いを持っているのよ。取り憑かれたからといって必ずしも同じように殺人に走るとは限らないけれど、あの苦しみを他の人に渡して使わせるようなことはしたくない」
「だから怪に魅了されて狂う前に、その人を殺してしまおうって柊は考えているのか?」
「そうよ。わたしは御薗木くんのお父さんのおかげで変わることが出来た。だけどまだあとに残されたものの整理が済んでない。それをやるのは務めだと思うから」
 それはおかしいと思う。怪の備えていた冷たさや柊が溜め込んでいた情火から起こるものではないにせよ、事が起こる前に壊して止めようとする行為は以前とやっていることが変わらない気がする。
「そうかもしれない。けれど御薗木くんはわたしの想いにも、怪の想いにも直接触れていないから、そのように気楽に言えるのよ」
 そして次に続いた言葉を聞いて、俺は自分の無力さを感じた。
「これはわたしがやらなければいけないこと。他の誰かに任せてはならないし、わたしだけしか歩んではならない道」


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:15 | 小説 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』2-3-2


「どうして隼人が怪のことを知ってるんだ?」
 隼人は確かに怪と口にした。けれど母さんらの話ではまだ未知の部分が多いため、世間一般には知らされていないということだった。実際俺も先日までその名前を耳にしたことすらなかった。
 なのにどうして隼人はその存在を知っている?
「……もしかして隼人に怪が取り憑いているのか?」
 一つの可能性。ただの思い付きでしかなかったが、問われた相手は否定することもせずに訊き返してきた。
「仮にそうだとしたらどうする?」
 隼人は視線でこちらを捉えたまま離そうとしない。ともすれば思考が凍りついて停止してしまいそうになるのを感じ、俺は必死に足掻いた。
「怪に取り憑かれて柊は連続殺人事件を引き起こしてしまった。そんなものを見逃すわけにはいかないし、消し去らないと――」
「どうやれば怪は消えるんだい? その方法を鏡夜は知ってるのかな? そもそも怪に取り憑かれると人は悪さをするというような物言いだけど、本当にそういうものだと君自身は考えているのかな?」
「……」
 立て続けの問いに俺は何一つ答えられなかった。姿勢を改めると誓ったのに、結局ここ数日で俺は何も知ろうとしていなかったということか。
「それは違うよ、鏡夜。勘違いしちゃいけない」
 諫める言葉を発した隼人は、そこでどう説明をするかしばし考え始めた。ぽりぽりと頭を掻きながら「長々と説明するのはボクの性分じゃないからなぁ」などとぼやく。
「さっきの怪を消そうというのは紗樹ちゃんの想いだよ。鏡夜のじゃない。ただ同じ事件を共有しているから誤って想いを重ねてしまったのさ」
 それから急に話を変え、火を掻き回すのに使っていた枝で街並みを指し示した。
「この丘からは周辺がよく見渡せるだろう? 怪のことや事件のこと、最近の鏡夜の周りで起きていることを知っていたのはだからだよ。って、これじゃあわかりにくいか。つまり想いを敏感に察知していたってことなのさ。人間でも人間じゃなくても常に想いを発しているし、それは自然と渦を巻く。その中から見たいものを見分け、どう流れを形成しているかを把握できれば、大まかな事情くらいならわかるのさ」
「流れている想いから事情を把握するって、それはさすがに人間の能力を超えてるだろ」
「ああ、うん。もちろん想いからだけじゃダメだね。ボクは紗樹ちゃんのことを以前から知っていたから、その後怪に取り憑かれて想いが混乱する様子を察知することが出来た。強烈な想いだったから只事じゃないことはわかったし、そのうち怪の存在も知り得たけど、でもどうやって怪を祓うのかまではボクには思い至ることが出来なかった」
 だとしてもそれは稀有な能力だ。実際にはもっと独自に調べようと動き回っていたのかもしれないが、隼人はそこまでは口にしなかった。そしてまた頭を掻きながら「そういうことを話そうとしてたんじゃなかった」と考えを整理し始める。
「とどのつまり、鏡夜には鏡夜の目的がある。それを他人のものと混ぜてはいけないんだ。一方で周囲にいる人間から受ける影響は、どんどん取り入れて自分の糧にしないとならない。だけど今の鏡夜は周りの人たちの想いをきちんと汲み取れないままになっているし、ともすれば流されて、自分自身の目的を忘れそうになってる。きっかけは一連の事件で、そこには様々な人の想いが渦巻いているわけだけど、そこから自分の取り出したいものを掴まないと飲みこまれて終わるだけだよ。そういうことを言いたかったんだ」
 そこまで述べてから、隼人は改めて俺に目的は何かと尋ねてきた。ここまで話をしておいてまったく知らないということもないだろうが、素直に答えることにした。
「これまで俺は『仕方ない』と様々な事情を片付けてきてしまっていた。でもそれは自分から物事を知ることを放棄する行為だと気付いて直そうと考えた。特に父さんも巻き込まれた連続殺人事件について何も知ろうとしていない。だからまずはそれを深く知ることから始めようとしている」
 俺は嘘偽りなく答えたつもりだった。しかし隼人は首を横に振る。
「違うよ。それじゃない。それは手段であって目的じゃないんだ。最終的に鏡夜はどうなりたいのか、それを聞きたいんだよ」
 最終的な目標なんて考えていなかった。俺はただ目に付いたから自分の姿勢を変えようと思うようになっただけだ。
 でも問われて自然とその答えがふっと湧いてきた。出てきたままに口にする。
「絵を描きたい。それも彩色されたものを」
 柊が怪に襲われたその日の夜、俺は母さんの顔を描いた。あそこには母さんの気持ちが映し出されていて、そういうものをこれからも描いていきたい。そして本当にそれに取り組むためには色が扱えないとならない。
 俺の答えに今度こそ隼人は満足げに頷いた。
 しかしすぐに彼は苦笑を浮かべ自嘲する。
「性に合わないことしちゃったなぁ。ボクは人とあまり関わろうとは考えてないんだよ。想いは繋がって積み重なるものだから、それを余計に掻き乱すようなことはしたくない。ただ今回は周りの人たちがずっと言ってくれているのに、自分の気持ちすら把握できないでいる鏡夜をまどろっこしく感じちゃってね」
「バカにされてる感じもするけど、事実その通りだから反論できないな。助かったよ。隼人の助言がなければ、ずっと自分の想いにすら気付けないままだった」
「助けたなんて思って欲しくないなぁ。さっきも話した通り、ボクは他人と想いを交わすのは極力避けたい。それに今はまだ自分の気持ちを知っただけに過ぎなくて、何も変われていない。そのことは鏡夜本人が一番わかっているだろうけどね」
 隼人の言う通りだ。俺はこの世界に溢れる想いを、色を使って表現できるようになりたい。でも今の俺に色覚は戻っていないし、隼人が街並みを眺めながら口にした想いの渦のようなものも感じ取れていない。父さんの事件も含め、俺は多くのものを受け止めて整理していかなければならないのだろう。
 そんなことを考えていたら、隼人が小さく「あ」と声を漏らした。視線を遣ると、彼は煙の向かう空を見上げていた。
「どうも雨が降るみたいだなぁ。それまでに全部燃え終わってくれてればいいけど」
 雨の気配は俺にはさっぱりわからなかった。丘にはほとんど風が吹いていないし、湿気っぽさも感じない。
 ただ一つだけ気にかかることがあった。
「隼人は人と想いを交わすのを避けたいと言ったけれど、教科書を燃やしているのもそれと関係があるのか?」
 俺と柊の類似性など、教科書で喩えながら隼人は説明した。そして教科書にも人と同じく想いがある。それをわかっていながら燃やして捨ててしまう行為には、何か意味があるような気がしたのだ。
 隼人は問いに明確に答えることはしなかった。そして代わりにこんな質問をしてきた。
「ボクにはこの教科書たちの間にある結び付きを見つけ、その絡まりを解くことが出来なかった。そんなに執着もなかったからこれ以上探す気もなくなってしまったしね。でも鏡夜、君にならそれが出来るかい?」


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:14 | 小説 | Comments(0)