【ショートショート】『外へ行こう』
2012年 08月 08日それを見送りながら、僕のすぐそばで古びた金属製のバッドを片手にぶら下げた少女は残念そうにぼやいた。
「あーあ、打ち上げちゃった……」
ミディアムショートの髪型でボーイッシュな印象の彼女に、僕は仕方ないんじゃないかなと告げた。ちらりと下に向けた視線が、フルスイングをしたときもほとんど動かせないでいた左脚を捉える。
彼女の脚には悪性の筋肉腫があった。名前を彼杵美紀という。
美紀は自らの口から言うことはないけれど、やはり痛みがあるのか、バッドを杖のように地面についてこちらを振り返る。それから心底悔しそうに述べた。
「飛ぶことは飛んだし、半年前ならホームラン確定だったと思うのに。わたしの作る綺麗なアーチをあんたにも見せたかったんだけど、これじゃあダメね」
僕は野球というのを見たことがない。病院にあるテレビに時々映っているけれど、映像がすぐに切り替わるからホームランというのが実際にどのような軌跡を描いているのか僕は知らなかった。
そのことを聞いた美紀が僕にホームランを見せてあげると言って、病院の隣にある人気のない土手に半ば強引に連れてきたのだ。
「ゴメンね。入院前みたいにはいかなくても、打球が空に吸い込まれていく様を見せてあげたかったんだけど。あ、ボールじゃなくて打ったのは小石だけどさ」
謝る美紀に僕は笑顔を向けた。彼女の打ったのはホームランではなかったかもしれないけれど、青い空に物が吸い込まれていく様子は感動的だったから。
僕の言葉に美紀が困惑半分、照れ半分といった曖昧な表情で頬を指先で掻いた。
「んー、やっぱりあんたは外のことを知らなさ過ぎると思う。あのくらいで感動しててどうすんのよ。世の中もっとすごいものや綺麗なもので溢れてるのよ?」
美紀は度々そうやって外の世界の美しさを教えようとしてくれる。けれど彼女がこの病院にやって来るよりずっと前から僕はここにいて、だから想像することすら上手くいかなかった。
「……一度だけでいいからあんたを病院の外に連れ出してあげたいな」
その思いは素直に嬉しいと感じる。でも生まれてすぐにこの病院に縛り付けられた僕には到底無理なことでもあったんだ。
美紀と最初に出会ったのはもう半年以上前のことになる。その頃はまだ検査入院で、脚に時折走る激痛の原因を調べていた。けれど検査入院はそのまま美紀を病院に留まらせることとなり、彼女は進級を断念せざるを得なくなった。
病気を治すことは難しいらしい。手術の成功率も低いし、そして成功したとしても美紀の脚には消えない傷痕が残ることになる。
そのことを知っていたから彼女の口から出た言葉は当然だと思った。
「手術したくないんだ……」
先日、美紀は担当医からこのままではもう長くないと宣告された。放置すれば次の夏は迎えられないだろうとのことだった。
病院にくる前の彼女のことを僕は知らない。ただ聞いた話によると運動が得意で、とても活発な女子生徒だったそうだ。
そんな話をしていたのは見舞いに来た美紀の同級生だった友人たち。でも今では誰一人として病室を訪れることはなくなっていた。推測だけれど、学年が変わって、周囲の環境が変わって、そして取り残された美紀のことを考えている暇はなくなってしまったんだろう。
「わたしは病気のせいで色々なものを失った。それを取り戻すことはできないし、そして今ではさらに失うことが怖くなってる」
さらに失うものとして想像しているのは自分自身の命だろうか? 僕が尋ねると美紀は首を縦に振った。切ない笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「自分の命と、そして未来と。失ってばかりだったから、手術も失敗して死ぬんじゃないかって弱気になっちゃってるんだよね。それに成功したとしても今度は長い時間をリハビリに使わないといけない。その間、次にわたしは何を失うのかな? そういうのさ……考えるとどんどん怖くなってくるんだよね」
なら美紀は手術を拒否して死ぬつもりなんだろうか? そう直接問いかけたら口をつぐんで下を向いてしまった。
彼女だって死にたくないはずなんだ。ただ今は自信が持てなくなってる。希望が見い出せなくなってる。なら――
それなら僕がそれを与えたいと思った。
美紀は手術やその後のリハビリで確かに多くのものを失うかもしれない。けれど生きてさえいれば、彼女なら外の世界で新しいものを取りに行ける気がするんだ。実際に入院する前に彼女はたくさんのものを持っていて、その美しさをここから出られない僕に伝えようとしてくれていたじゃないか。
美紀はこの病院に縛り付けられている僕とは違うのだ。外の世界を知らない者の言葉が、彼女の復帰に対してどのくらい手助けとなるかはわからない。けれどそれが僕の精一杯の言葉だったし、本心だった。
「……」
聞き終わった後も美紀はしばらく黙ったままだった。長い時間をかけて何事か考えている素振りを見せ、それからぽつりと、
「あんたは――」
何かを言いかけて首を振った。
「これはわたしの問題だもんね。……もう少し考えてみる」
その台詞が口にされて数日後。
僕は彼女が手術を受けることを決意したと聞かされた。
美紀を乗せたストレッチャーが手術室に向かう。僕は彼女が運ばれている間ずっと付き添っていた。そんな僕に向けて横になった姿のまま美紀が気丈に語りかけてくる。
「あんたの言葉、きちんと受け取ったから。その上で自分なりに考えることがあってわたしは手術を決意した」
その後に続く言葉はまるで宣戦布告のようだった。
「色々なものを失ったわたしに対し、あんたは元気になって外の世界に出ればまた新しいものを手に入れることが出来るって言ったよね。でもそもそもあんた自身は何も失ってないじゃない。手に入れてすらいないじゃない。ずっとこの狭苦しくて消毒液臭い病院の中にいたんだもの。だからわたし以上にあんたはこれからたくさんのものを得る可能性があるのよ」
美紀は空にはたくさんの色があるのだと語った。そして海には複雑に重なり合った音があり、山には渦を巻いて生き物を飲み込んでしまうような静けさがあるのだと。そうしたものをあんたは知らないでしょうと、そう指摘した。
「わたしは手術を成功させてここから抜け出してみせる。だから……あんたもいつか外の世界においで。見せたいものがたくさんあるんだから!」
僕は彼女のその言葉に笑って頷いた。それは無理なことだと本当は互いに知っている。そんな簡単に僕はこの病院から抜け出すことはできない。けれど希望を持つのは悪いことじゃないはずだから。だから僕は彼女の思い描く夢の中に一時的にでも住まわせてもらうことにしよう。
そして美紀の姿が手術室の向こうに消える。さして重くもないだろうに、閉ざされた扉が絶対的な隔壁となって僕たちを分かつ。
僕は手術室の前にある安っぽいソファに腰を下ろした。大きな手術になることはわかっていたけれど、何時間であろうと待ち続けるつもりでいた。間もなくして施術が始まったことを示す赤いランプが頭上で点灯する。
美紀なら絶対に元気になって帰ってくる。僕はそう信じて疑わなかった。
ただ一つだけ気になったことがあった。美紀は僕と共に外の世界に行くことを胸に抱いて手術室の中に入っていった。仮初めの夢で、一時的な約束だというのはわかってる。けれど一度交わした約束は僕の気持ちを縛り付けた。想像せざるを得ないんだ。美紀と一緒に見渡す限りの青空の下で走り回っている様を。
でもそれはどうやったら叶う? 美紀の病気は難しいとはいえ治る見込みがある。それに対して僕は――
その瞬間、扉の向こうから鼓膜を引き裂くような絶叫がこだました。
僕が美紀の病室に訪れたとき、すでに彼女の意識は回復していた。ただいつものような元気はなく、僕が隣に行くと小さな声で漏らした。
「ゴメン。手術失敗した……」
視線を彼女の顔からずらして体の下の方に移す。腫瘍があったはずの左脚。シーツがかけられたその部分は、けれど一切の膨らみを持っていなかった。
「腫瘍どころか脚ごと持っていかれちゃったよ」
無理して美紀が笑おうとする。けれどすぐに双眸に涙が溢れて表情を保っていられなかった。
僕は何て声を掛けたらいいのかわからなかった。手術は失敗したのかもしれないけれど、美紀はまだ生きている。だから何かを伝えたかった。
結局僕が頭の中から単語を掻き集めている間に美紀が口火を切った。
「あんたがここから出れないのをわたしは知ってた。それでも一緒に外を歩けたらこれまで以上に綺麗なものをいっぱい見つけられるんじゃないかって期待して、それで手術を受けることにした。わたしは……あんたに縋ってた」
それは僕もわかってた。無理だと美紀も知っていることも把握してた。それでも手術の短い間だけでも力を与えてくれるんじゃないかと期待してた。
けれどそれがいけなかった。
「麻酔が効いて朦朧とした意識の中、ううん、あれは夢だったのかもしれない。ともかくわたしは考えちゃったんだよね。もし手術に成功して、いずれわたしだけが退院することになったら。そのときあんたはどこにいるんだろうって。そして最初に出会ったときみたいに病院の片隅でぼんやりしている姿が思い浮かんだ瞬間、体に異常が出た」
その結果何が起こったのかはわからない。僕も美紀の悲鳴しか耳にしていない。ただそのときに大きな神経や血管を損傷してしまって、やむなく脚ごと切断せざるを得なくなったとのことだった。
「ほんと、ゴメンね? 手術に絶対成功して、そして一緒に外の世界を歩こうって約束したのに。なのに……わたしは歩くための脚をなくしちゃったよ」
その言葉を最後に美紀は嗚咽を堪え切れなくなったらしい。顔をくしゃくしゃにして大きな泣き声を上げ始めた。
謝るのは僕だ。僕のせいで美紀は手術に対して拒否反応を起こしてしまったのだから。
手術室に向かう彼女に仮初めの希望しか与えなかった自分が悔やまれる。あのときからはっきりと美紀は自分の夢を伝えていたのに、それにはっきりと答えてあげなかったから不安にさせてしまったのだ。
目の前で美紀は泣いている。さめざめと、自分の夢は叶わなくなってしまったと、そのことを悲しんでいる。
でも生きてはいる。左脚を失ったことへのショックは大きいと思う。でも外に出られないと決まったわけじゃない。大変かもしれないけどリハビリをすれば、外の世界にまた飛び出せると思うんだ。
そして今度こそ僕は過ちを犯さない。歩けなくなってしまった美紀と一緒に、共に歩き出すための一歩を踏み締めようと思う。
方法はまだわからないけど、僕もこの病院に縛り付けられている状態から抜け出そう。そして美紀と一緒に外の世界に出よう。
僕がそう決意を伝えながら手を差し出すと、彼女は驚いた顔をして、それからさっきまでとは別の種類の涙を流した。そして手を重ねようとして、直前で苦笑した。
「どうやって手を繋げっていうのよ。あんた地縛霊じゃない」