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何故西洋科学が覇権を握れたか~中国科学との比較~

近代科学は西洋由来のものを指しますが、自然の認識体系という意味での「科学」はあらゆる文明圏にあったと考えられます。しかしながら世界中に広がり、覇権を握ることができたのは西洋科学のみでした。一つの見方として西洋科学は普遍性、ないしは汎用性を獲得することでそれを為し得たのであり、他の科学は独自な領域で留まったと言うことができるでしょう(他にも地理的な理由などに帰着させる議論もあります)。
ではどこに覇権を握る要素があったと考えられるでしょうか。様々な文化圏における科学活動の在り方に関して研究されていますが、ここでは最も盛んに調査が行なわれ、また西洋とも歴史的に並べることが容易な中国科学を取り上げながら(残念ながら量が多くなってしまうため詳述はできませんが)見ていきたいと思います。


一つには数学的言語(もしくは人工言語などとも呼ばれます)が科学に使用されたことが大きかったと考えられています。これに関しては「数量化革命」と名前も付けられ研究がなされています。精神史となりますがクロスビーという方が書いた『数量化革命』が有名です。
クロスビー著『数量化革命』の内容を簡単に説明しておきます。著者の主張は西洋社会が覇権を握るに至った理由は人々の世界観が数量化することによって起こったのだというものです。第一部では必要条件として数量化(メートル法の制定などにより体など個人によって差が出ない尺度が決められ、その絶対的な数値によって計測がされるようになる)が進められていくことを挙げており、第二部では十分条件として視覚化(製図などに数量化によって絶対的なものになった数値・尺度が使われるようになり、また図を描く際にもそれらを意識するように技法が変わっていった)が挙げられています。つまり数量化がまず起こり、実際にそれが計算や計測だけでなく、製図や絵画からも見い出せると主張することで一般の人も数量化された世界観を手にしたと論じているわけです。
確かにTO図などを思い起こすと、世界地図をしっかりした計測でもって描くようになったのは大きな変化だと思われます。日本でも世界地図を輸入したという話がありますが、それだけの説得力を持ってもいた。そしてそうした変化の素地に「数量化」があったということなのです。
科学にも数量化の波は押し寄せてきており、クロスビーも取り上げている製図や、原子量の特定などに重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
一方で中国科学では数学的言語は用いられませんでした(ただし一時期はある程度の「数量化」は起きています。けれどすべての時期ではなかったし、また徹底されたものでもなかったとは言えそうです)。中国科学では言語の特性が認識に大きな影響を与えたと考えられます。最も分かりやすいのは陰陽の捉え方。「陰」に分類されるものは口を開かずに発音するもの、「陽」に分類されるものは口を開いて発音するものと区分されています。例を挙げると基本の陰はYīnで、陽はyángとなります。また女Nǚと男Nánの区別や、地Deと天Tiānも発音によって分かれている。このようにして世界の構成を認識・把握する際に言語の特性が大きく関わってきた。このことは中国科学が劣っていることを直ちに指すものではありません。言語というものは世界の把握と密接に結びついているのが通常であり、それによって体系付けられた世界観も正しいと言える。けれどその言語がわからなければその科学は地域特有のものとなってしまい、西洋科学のように覇権を握るほど世界中に分布することは出来なかったということになるのです。

さて先の数学的言語のところでも少し出てきましたが、製図などに見られる存在と認識の結び付きも大事です。
目に写る対象を精密に描写することは高級職人と呼ばれる芸術家によって達成されていきました。ギルド的な徒弟制度から抜け出し、宮廷の庇護を受けながら活動したので中世の芸術家と区別してそのように呼称されています。レオナルド・ダ・ヴィンチなどがこの高級職人です。高級職人は精密な絵のために解剖に実際に立ち会って自分の目で対象を確かめましたし、また描画する際にも数学(幾何学など)を取り入れていきました。有名なのは透視図法(遠近法のこと)ですね。これによって被写体と描き手、あるいは被写体同士の絶対的な距離を平面に表わすことが出来るようになりました。
さらにフランス革命後の動乱の時代に技術者養成のためエコール・ポリテクニクが設立されます(この辺りは以前書いた第二の科学革命 の中でちらっとだけ触れています)。エコール・ポリテクニクは技術者養成機関でしたが、モンジュが中心となって科学と技術を一貫して教えるようなカリキュラムが組まれます。また高級職人が半ば独占していた製図法を整え画法幾何学として基礎教育の中に取り入れます。画法幾何学は重要なことに設計図を描くという習慣を生み出します。むしろそれ以前まで設計図なしで建築物や道具は作られていたということが驚きですね。前は「設計図」は絵画がその役割を果たしているか、あるいは職人が弟子たちに口頭で教えていくのが通例でした。しかし(今では私たちも小学校で習いますが)正面・上・横から平面で捉えて図を描き、その際には長さなどもきちんと記入をするというのが始まったのは18世紀も終わりになってからのことだったのです。
設計図はその後の技術躍進に大きな役割を果たします。一つは標準化することで部品に互換性を持たせることが可能になりました。例えば以前は砲弾ですらそれぞれの大砲によって大きさがまちまちで、大砲が壊れれば残りの砲弾は一切使えなかった。それを統一することができるようになるために詳細な寸法の書かれた設計図が重要な働きをしたのです。この標準化の技術は西洋では廃れていってしまうのですが、米英戦争を経験したアメリカがこれに目を付けます。そして国として敷地と莫大な資金を投入することでアメリカン・システムと呼ばれる生産体制として確立させていくのです。また部品が交換可能になったということは、それぞれの部品を別々に作り、後から組み立てて製品を仕上げるという分担・流れ作業が可能になります。これがフォードのT型車となって大量生産が誕生するのです。(この歴史については“標準”の哲学―スタンダード・テクノロジーの三〇〇年 (講談社選書メチエ (235))にとてもよくまとめられていて読みやすいです。また詳細に論じたものとしてはアメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932があり、最初は銃火器から始まったものがシンガー社ミシンに取り入れられて完成していく様子が描かれています)
このような設計図は中国にはなかったとされています。建築物として優れたものもありますが、西洋の技術書を翻訳する場合にはそのメカニズムは文字通り雲などで曖昧にされていたり、滑車同士が繋がっていないことも多々あります。これはその機械装置を実際に製作していないか、あるいは作ったとしてもそれを紙にきちんと描けなかったことを示していると考えられる。また中国で作成された『設計図』を見てみると建築物を見たものをそのまま潰すような感じで平面の紙に描いている。これは西洋とは違って対象を認識する際に、数学的な要素が入らず、人の意識が大きく介在していたことを示していると見做せます。そのため他人に伝達する術としては西洋で発達した設計図の方が優れていたとされます。

このように数学による認識の絶対化が西洋科学がその他の文化圏に広がる上で大きな要素だったと考えられています。
しかしながらこれに対しては反対意見もあります。以下ではそれを紹介しましょう。
中国における建築物の『設計図』ですが、これはきちんとその役割を果たしていたことがわかっています。現代の私たちは小学校の頃から正面・上・横を別々に描く見取り図(あるいは遠近法を用いた西洋由来の絵画)に慣れ親しんでいるので違和感を覚えるのですが、中国の『設計図』はある観察点から見た対象を“そのまま”描いているのです。ですから建築物の正面だけでなく脇も当然見えていて、それを紙に描くという自然な行為をしている。また西洋のように絶対的な尺度でもって長さを記入することはなかったけれども、図はきちんと描かれており、別の場所と比較することで長さを知ることができました。ですので建物を建てる場所と観察点、そして基準となる物の長ささえわかれば他の人にも十分伝わる内容となっているということです。
また中国ではないですが他の文化圏では特殊な文字を用いて計算や記録をしていた例があることもわかっています。有名なのはインカ族のキープというものです。インカ帝国には私たちが文字と言われてイメージするものは存在していませんでした(そのためどのようにして栄え、文明を築き、そして衰退していったのかがなかなかわからないのです)。インカでは紐によって記録を行なっていました。簡単なものでは結び目で数字を表わすというもの。さらに複雑になるとこの紐をいくつも組み合わせ、また染色することで対象を指していたと考えられています(ここの記述だけではわかりにくいかもしれません。画像はいくつものサイトで見れるようですのでそちらでご覧ください。かなり大がかりなものです)。このような記録媒体を「結縄文字」と呼び、日本では藁算というものが戦後も沖縄で使用されていました(参考全国竹富島文化協会HP内竹富の文化・藁算 )。これらは数字の計算だけでなく様々な情報を伝える手段として使われていたと考えられています。残念ながらキープの解読はまだ途上であり、どの程度人の意識から乖離した数学的言語となっていたかに関しては断言できませんが、言語の性質だけに西洋科学が覇権を握った理由を帰着していいのか疑問を呈することができそうです。少なくとも『設計図』のことも合わせて考えるとクロスビーの述べているほど強くは主張ができないかもしれません(ただしクロスビーの主張は説得力のあるものでもあり、それを踏まえた上でどのような切り口を探れるかを考えるのがよいでしょう)。


大分長くなってしまいました。今回は数学的言語を中心に二つしか話題に出せませんでしたが、この他にも機械論の誕生に理由を求めたり、科学的な方法論、制度化に注目する考えもあります。おそらく西洋科学が覇権を握れたのはこれらいくつもの要素が重なってのことなのでしょう。
また地理や社会構成に原因を求める論もあります。有名なのはチポラ著大砲と帆船―ヨーロッパの世界制覇と技術革新でしょう。これは大砲の技術革新を大きく取り上げ、大航海時代がどうして西洋からなされたのかを論じるものです。ただし西洋ほどではありませんでしたが中国でも大航海時代がありました。明の時代に行なわれたアジア・アフリカへの遠征です。これは実際に成功を収めていたのですが、財政難と国内の動乱によって外洋への航海が禁じられてしまいます。船も外海用と内海洋では大きさや構造がまったく異なるため、遠征用の船は製造できなくなったというのも大きな要因だったと考えられます。

ということで今回はやや中途半端ですがこのくらいで。先ほど述べた地理の話や技術の側面から見た場合というのはいずれやるかもしれません。あるいは科学知識の体系として中国は理というもの(英語にするとややわかりやすいのですがパターンとなります)を使っており、自然現象を波形として捉え、分類していました。この話も面白いかと思いますのである程度まとめられそうだったら改めて書くことにします。
by zattoukoneko | 2012-05-08 14:27 | 社会・経済 | Comments(1)