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【ショートショート】『最後のクリスマスプレゼント』

 サンタクロースとして毎年プレゼントを配ってきましたが、それもそろそろおしまいにすべき時期に来ているのかなと思い始めていました。相手の子も随分と大きくなったし、それに正直に申せば私自身が疲れてきていたのです。
 私は相手の子に随分と思い入れが強かったように思います。出会いも最初にサンタとしてプレゼントを配ったその時でした。私はとある病院へと派遣されたのですが、その時に結花という名の女の子に出会ったのです。プレゼントを配るのは当然夜も更けてからです。つまり結花は病院に入院していたということです。幼い彼女は不治の病を患っていました。
 私は彼女よりずっと長く生きるものですから、死の恐怖や病気の苦しみを知らず、想像したこともありませんでした。まだまだ未熟だった、そういうことです。ですから彼女が無邪気な顔で「プレゼントには病気を治してくれるお薬が欲しい!」と伝えてきたときに、「今はないけどそのうち持ってきてあげるよ」と安請け合いしてしまったのです。
 けれども人間の医者も馬鹿じゃありません。彼らはずっと懸命に治療法を研究し続けており、それでも彼女の病気は治らなかったのです。そのようなものを完治させるような薬なんて、いくらサンタクロースであろうと見つけ出すことは容易なことではなかったのです。そのため翌年に彼女の元を再訪した時も、さらに翌年に訪れた時も、別のプレゼントを渡しながら「薬は探している途中だよ。絶対に見つけるから頑張ってね」と声をかけることしかできなかったのです。
 あの最初の出会いから何年が過ぎたことでしょう。彼女はもはやサンタクロースを信じない年齢になってしまったのではないでしょうか。あるいはまだ信じてくれていても、愛想を尽かしているのではないでしょうか。でもそんなことは関係なく、私は彼女の病気を治してあげたかった。いつしかそのことが私の夢になっていました。
 けれど無情にも病魔は彼女の体を蝕み続けていました。会うたびに結花は痩せ細っていったのです。今年も彼女にサンタとして会いに行く時期が迫ってきていました。けれど準備をしている最中にそれを苦しいと思う自分がいることに気付いてしまったのです。私はその瞬間に彼女に渡そうと用意をしたプレゼントを手から落としてしまいました。そしてもう無理だと思ってしまいました。


 クリスマス当日、私は例年と同じように赤い衣装に身を包み、結花の病室を訪れました。彼女は私が来ると信じて待っていてくれたのでしょう。薄暗い個室で、ベッドの上にその身をゆっくりと起こしました。
 彼女は嬉しそうに目を細め、それから小首を傾げて訊いてきました。
「サンタさん、疲れてるの?」
 私はその言葉にどきりとしました。確かに私のやっている仕事は楽なものではありません。だから疲れているのは本当です。けれど彼女はそのことを言っているのではないとすぐにわかりました。
 困惑してしまった私は声に出して返事をすることも、首を振ることもすぐにはできませんでした。
 私が答えに窮しているのを見て、結花は悲しそうな笑みを浮かべました。そしてベッドの上で姿勢を正すといつもとは違った話をし始めたのです。
「ねえサンタさん。今年は私からプレゼントがあるの」
 言うとすでに枕元に準備してある箱を手にしました。ピンクのリボンで装飾されたとても可愛らしい小箱でした。
 私はその間に少し調子を取り戻すことができました。彼女の近くによると苦笑してみせます。
「プレゼントを渡すのはサンタクロースの役目だよ? これじゃああべこべだ」
「なら今年のプレゼントはサンタクロースの服をちょうだい。そうすれば私もサンタさんになれるでしょう?」
 彼女のおねだりに私は困惑してしまいました。出来ないことではあるものの、その言葉を発せざるを得ませんでした。
「……病気を治す薬じゃなくていいのかい?」
「うん。今年は私がプレゼントをあげたい気分だから」
 薄い月明かりに照らされて、けれど彼女の表情に揺らぎはありませんでした。
 告白すれば、薬をあげられないことに苦悩していた私はほっとしてしまいました。それがよくないことだとは重々承知しています。けれど結花の望みでもありましたし、それならば今回は彼女の願いを叶えてあげることにしようと自分を納得させたのです。
 ただ残念ながら女性物のサンタの衣装なんて持っていませんでした。そもそも他の誰かをサンタクロースにすることは聖夜の仕事の中に入っていませんでしたから。そこで私は一度彼女の部屋を退室すると、夜勤をしていた知り合いの看護師に赤い服を持っていないかたずねて回りました。再び結花の部屋に戻ったとき、私はサンタの服とはかけ離れてはいるものの、赤茶色のコートを手にしていました。
「ごめん、急なお願いだったからこのくらいしか用意できなかったよ」
「謝らなくていいよ、サンタさん。それで十分。じゃあ着替えるね?」
 そう告げるとコートを受け取った結花はベッドの周囲にあるカーテンを閉め、着替え始めました。衣擦れの音を聞きながら、私は彼女がサンタクロースになるのを待ちます。しばらくしてカーテンの中から現れたサンタクロースは、小さな体にだぼだぼのコートを身につけていました。
「サイズが合わないけど仕方ないよね。これ、大人の女の人の服みたいだし」
 寂しそうに笑う彼女に、私は何も言葉を返すことができませんでした。
 しかし服はただの飾りのようなものにしか過ぎません。結花は先程私に見せた小さな箱を手にすると、頬を朱に染めながら私に差し出してきました。
「サンタさん、いつも私のことを考えてくれててありがとう。これもらってください」
 申し出を断る理由なんてない。私は喜んで彼女からプレゼントを受け取った。箱はとても軽く、中に何が入っているのかはわからなかった。
「開けてみてもいいかい?」
 私の問いに結花はこれまで見たこともないくらいの勢いで首を振った。
「ダメ、絶対にダメ!」
 大きな声を上げて阻止する彼女を「夜の病院だから静かに」と落ち着かせる。それからいつなら開けていいのか訊いてみた。
「サンタさんがどうしても開けたくなったとき。あるいは……私が開けてもいいって言ったとき」
「それなら今すぐ開けてみたいな。初めて貰ったプレゼントだからね」
「今はダメ。それにそういう『開けたい』じゃなくて、どうしても中身が気になったときって意味」
 彼女の表現はどうも抽象的だ。考えていることは明確にあるように感じるのだけれど、それを言葉に表せないような印象を受ける。
 仕方なく私も抽象的に返した。
「浦島太郎の玉手箱みたいなものかな? プレゼントなんだけど開けてはいけないと」
「そう、そんな感じ。だからそのまま大事に持っておいて」
 なら言うとおりにしよう。中身が気になるのは確かだったけれど、プレゼントを彼女から貰えただけで私は嬉しかったし、それで十分だ。
 彼女と一緒にいる時間は幸せなものだったけれど、闘病している人間をいつまでも起こしているわけにはいかない。そろそろお別れの時間だ。
「じゃあ来年のクリスマスにまた来るよ」
「うん……。ばいばい」
 細い腕を小さく振る彼女に背を向け、私はその日のサンタクロースとしての役目を終えた。


 翌年。年が明けてまだ数時間しか経っていないというのに枕元に置いてある電話が鳴り響いた。受話器を取り上げると仕事仲間が切羽詰まった声で私の名を呼んだ。
「高橋先生、八瀬さんの容体が急変しました。急いで病院に来てください!」
 その言葉で眠気など一瞬で吹き飛んだ。手早く着替えると車のキーを握りしめ家を飛び出した。
 深夜から早朝にかけてのこの時間、いつもなら道路は空いているはずだった。道交法の規則なぞ端から守る気なんてない。だが元日の朝という時間が災いした。道路は通勤時より遥かに混み合っており、まともに走ることなんてできなかったのだ。
 病院に着いたとき、ずっと担当していた私の患者はすでに息を引き取っていた。
 ――――
 自宅に戻ってきたとき、私の心は空虚そのものだった。
 何のために医者になったのだろう。これまでの人生の全てを賭したのに、それでも何もしてあげることができなかった。
 子供の時、課外活動の一環としてサンタクロースに扮して病院を訪れた。その際に出会ったのが八瀬結花だった。年齢も近く、しかし病院から出ることの叶わない彼女の境遇が私には不思議なものに思えた。最初はそれだけだった。ただ彼女と交わした「病気を治す」という約束が私の意識を強く引きとめ、結花のことを忘れさせることがなかった。私はその後も毎年サンタクロースとして彼女の元を訪れ、そしてその病を治すべく医師となった。
 彼女は長生きしてくれたと思う。いつ死んでもおかしくない身でありながら、成人し、さらには私が担当医になるまで生き長らえてくれた。これは天命だと思った。私が彼女の病を治すのだと。
 しかし結局彼女は逝ってしまった。もはやいつしか夢になっていたかつて交わした約束を果たすことはできなくなってしまった。
 力なくベッドに腰を落とす。そのときふと近くにある棚に、小さな箱が大事に置いてあるのに気付いた。それは結花からこの前のクリスマスにプレゼントとして渡され、毎夜眺めていた物だった。
「…………」
 私はそれを手に取ると、箱にかかっていたリボンをゆっくりとほどいた。
 結花はどうして急にプレゼントを渡そうなどと考えたのだろう。私は彼女の残り香を求めて箱を開けた。
 中からは数枚の紙。それ以外には何も入っていない。一枚は桃色の便箋で、短いながらも結花の想いが綴られていた。
『これはプレゼントではなくただのわがままです。だましてごめんなさい。小さい頃から私のそばにいてくれてありがとう。本当はずっと一緒にいたいけど、私も、それにあなたも疲れ果ててしまったと感じています。だからもう無理だと思います。ただ私の気持ちだけは死んでも変わらないだろうから、これからも隣に置かせてもらえませんか?』
 その手紙と一緒に入っていたのは婚姻届だった。いつの間に準備したのか名前も判もすべて揃っている。後は私が最後に同意の印を押すだけだった。
「ただのわがままなんかじゃないじゃないか。最高のクリスマスプレゼントだよ」
 自分の印鑑を棚から持ってくると、私はそれを朱肉に付けた。
 そして婚姻届を手にとった瞬間、零れ落ちた涙が二人の気持ちを紙に刻み込んだ。
by zattoukoneko | 2012-01-14 11:45 | 小説 | Comments(0)

「チュアブル通信vol. 3」

先日「チュアブルソフト『アステリズム』公式サイトオープン、また「震災設定と弊社の対応につきまして」」
で紹介したチュアブルソフト様のコメントも記載されている「チュアブル通信vol. 3」がweb上でもページをめくるように見ることができるようになったとのことでさっそく掲載してみることにしました。
画像もついてていいですね! なお最後の一ページでは震災当時の大変さが垣間見えます(そしてイシダさんの顔が目立っています……)。

転載に関しましては簡単にではありますが可能かどうかお聞きしてあります。許可を頂きありがとうございました。
なお公式サイトへは次のバナーをクリックすることでもいけます。
チュアブルソフト公式WEB
名月お姉さんかわいいですね!(さて一通り見たところ高島先生が載っていなかった気がするので、そんなはずはないと隅から隅まで見てきますか……)
by zattoukoneko | 2012-01-13 19:39 | ゲーム | Comments(0)

【ショートショート】『鏡像異性体』

 星のない都会の夜の下、月よりも明るい蛍光灯に照らされながら彼女は言った。
「こうやって手を繋ぐことはできるのにね」
 彼女は、寒さをしのぐために僕が手を入れていた右ポケットへと自身の手を潜り込ませてきた。冷たくなった指が絡まってくる。僕がそれを受け入れると、彼女は「温めてね」と微笑した。その仕草と表情が堪らなく愛おしい。
 彼女はさらに肩を寄せ、体を密着させながら、しかし寂しげな響きの言葉を紡ぐ。
「わたしたちはL体とD体みたいなものだから、だから体を結び付けることはできてもまったく同じものとして重なることはできない」
「L体とD体?」
「うん。わたしたちはお互いに向き合って右手と左手を重ねることはできるけど、でも右手と右手は重ねられない。同じ方向を向いてればできないこともないけど、やりにくいよね」
 彼女の話は抽象的で、何より僕の知識不足のせいで何を言っているのかきちんと理解することができなかった。頭を悩ませているうちに気付くと彼女の家の近くまでやってきてしまっていた。
 左手を小さく上げて「バイバイ」と言ってくる彼女に、僕はいつも通りに手を振り返しながら見送った。その姿が家の中に消えてから、ふと彼女は右利きだったことを思い出す。もしかしたら彼女はずっと僕に合わせて左手で接してきてくれていたのではないか。いや、おそらくはその通りなのだろう。別に手を振るのなんか利き手じゃなくたって構わない。でも先程の彼女の言葉が関係しているような気もして、だから僕は妙に引っかかってしまった。
 帰る途中で僕は深夜まで開いているスーパー内の本屋に立ち寄った。彼女の言っていたL体とかD体という言葉をそもそも知らなかったので、国語辞書を引っ張り出して調べる。けれど記載はなかった。仕方なしに携帯からネット検索してみると「鏡像異性体」という用語が出てきて、どうやら化学で使われているものらしいとわかった。今度は化学の参考書の棚の前に行き、どうせならと一番分厚いやつを手にして索引から記載のあるページを探りだす。読んでみて、細かいところまではわからなかったけれど、普段は重ならないが鏡に映すと重なる構造を持っている物質のことを鏡像異性体と呼ぶらしい。その説明のところに手のイラストが描いてあって、別の呼び方では対掌体というとの文字を見つけて納得した。僕と彼女が手を重ねるときは右手と左手だ。だから彼女はそのことを『L体とD体』と表現したのだろう。
 お互いとても似ているのに実は別のものと思うとちょっと寂しくなった。彼女もこんな気持ちだったのだろうか?
 僕は参考書を本棚に戻すと自分の右手と左手を重ねてしばしの間物思いに耽った。


 彼女は何気なく鏡像異性体の話を出したのだと思う。でもだからこそ普段から考えていることなのだろうなと感じられた。
 あれからずっと考え続けていたからだろうか。次のデートの日、駅前の広場で出会った彼女に僕はいつも通りの笑顔を向けることができなかった。
「寝不足……かな?」
 そんなふうに彼女はこちらの顔を上目遣いに見て訊いてくる。僕は何とか笑いながらそうだと頷いて答えたけれど、その後黙ってしまった彼女に、誤魔化し切れていないのだろうなと思った。
 デートをするといっても特別どこかに出掛けるわけではない。付き合い始めて間もない頃は色々な場所に行きはしたものの、若い僕たちは毎回遠出をするほどのお金を持っていなかったし、何より二人で様々なお店を回るだけでも十分に楽しいと思い始めたのだ。その日も彼女の好きな本屋や雑貨屋、僕の好きなCDショップなんかを適当にぶらつく予定だった。
 歩き出すタイミングをどちらともなく見計らって、僕たちはいつも通りに手を繋いだ。
「……」
 いつもと同じはずなのに、でも何だかその手はぎこちなく結ばれたように感じられた。
 その後いつも通っている彼女の好きな雑貨屋へ行った。店主を含め数人のデザイナーが手作りしている小物が陳列されている。手作りだから一つ一つの商品で色や柄が不揃いで、その中から自分好みの品を探し出すのが二人の共通の楽しみだった。
 でもその日僕はそれを楽しむことができなかった。一組のスプーンとフォークを見つけ、そこに描かれているウサギが微妙に異なっていることが気になって仕方なかった。
 この前彼女が言っていた鏡像異性体が頭を離れなかった。そんなこと気に病んでも仕方のないことだとはわかっている。世間一般のすべての人たちはL体とD体の関係にあって、それでもみんな幸せそうに生きている。それは自然なことで、それに心を痛めても現実は変わらないのだから。
 けれど一度巣食った心の病はなかなか消えてはくれず、次に訪れた本屋で僕は上の空だった。隣にいる彼女が「どうしたの?」と心配そうに声をかけてくれたとき、たまたま焦点を結んだ先に箱根を取り扱った旅行雑誌が置いてあった。僕は咄嗟にそれを手にし、彼女に向かって提案した。
「ねえ、今度旅行でも行かない?」
「え、旅行? 箱根は新宿からロマンスカーも出てるし、行きやすいけど、でもどうして急に?」
「少し前から二人で旅行したいなとは思ってたんだ。でも遠くまで行くとなると何泊もしなくちゃいけないし、どこか近場に日帰りで行けるところはないかなって探してたところだったんだよ」
 旅行のことを考えていたなんていうのは嘘だ。ただ今日会ってからのこのたった数時間ですでに僕は息苦しさを感じていた。これを取り払うには今までのデートとは違ったことをしないといけないのかもしれない。すでに行った水族館や動物園とは違い、自然の景色を二人で眺め歩くなんていうのはどうだろうかと思う。
 彼女はしばし逡巡した後、僕の申し出を受け入れてくれた。
「わたしも行ってみたいな。上手くお母さんに交渉すれば一泊くらいできちゃうかも」
 最後にそんなことを言いながら、彼女は僕をどきりとさせた。


 箱根への旅行は次の週末に決まった。ガイドブックも購入したけれど、具体的にどこに行こうということは決めなかった。いつものデートみたいに思いつくままぶらぶらと、ただ人工のものではなく自然を眺めて歩くのが僕たち二人の性には合っているんじゃないかと感じたからだ。
 当日ロマンスカーを利用して僕たちは箱根湯本に降り立った。温泉街として街並みは綺麗に整備されていると感じた。近くにはいくつかの歴史的な名所もあるとのことだったけれど、僕たちはそういうものよりはほとんど人の手の付いていない場所へ足を運ぶことにした。
 僕たちが目指したのは鞍掛山だ。登り始めて最初の頃は天気も良く、街の様子や箱根山を一緒に形成する山々を一望することができた。けれど僕たちは知らなかったのだが、どうやら霧が発生しやすい地形だったらしい。登頂し終わるよりもずっと早くに周囲を濃い白に包まれてしまった。
「……寒い」
 隣を歩く彼女がそうつぶやく頃には、僕たちはすっかり道に迷ってしまっていた。
 僕は彼女の肩を抱きながら、安心させようと声をかける。
「歩いている道はしっかりしてるし、人が頻繁に出入りしている場所なんだってわかる。だから遭難とか大事には至っていないよ。ただ体が冷えてきたし、どこか休めるような場所があるといいんだけど」
 そう言って僕が周囲を見渡すと、濃霧の中で黒く口を開いている場所が近くにあることに気付いた。どうやら自然にできた洞穴のようだ。外で冬の風に当たっているよりはましかもしれない。僕は彼女を連れてその中へと入って行った。
 洞穴の中は、外がまだ昼間だからなのか、それほど暗くはなかった。入口付近は狭く寒かったものの、少し奥に進むとちょっとした池がある広場に辿りつき、外からの冷たい風も吹きこんでこなかったので僕たちはとりあえず一息つくことができた。
 体の凍えもなくなったのか、彼女は広場中央の池を覗き込み始める。
「綺麗な水。水面に顔もはっきり写って、何だか鏡みたい。どこかからの湧水かな?」
 僕も隣で膝をついて同じように池を覗き込む。
「水が流れ込んでいる様子もないね。ずっと溜まっていたにしては透明度が高すぎるし、どこか底の方で地下水道と繋がっているのかも」
 答えながら僕も水面に自分の顔を映す。視線の先にいる僕の隣には彼女の顔。
 二人で並んだ鏡の中の姿を見つめながら、僕はこれまで何か大きな誤解をしていたような気がし始めた。水面には僕と向きが正反対になった僕がいる。そして同じく向きが逆転している彼女がいる。なら僕と彼女は――
 そこまで考えたとき、突如水面の中に黒く蠢くものが現われた。その存在に気付いた次の瞬間にはそれは水面下一杯に広がり、そして飛び出してきた触手が隣にいた彼女を池の中へと引き摺り込んでしまった。
 池に落ちる彼女に手を伸ばすだけの余裕もなかった。それどころか水上に現れた触手は洞穴の広場一杯に広がり、僕をも狙い始めた。情けないことに、出来ることは精々そこから急いで離れ洞穴の外に逃げ出すことしかなかった。


 外に出ると霧はほとんど晴れていた。洞穴の入り口に立ち入り禁止の看板を見つけるも、僕に出来るのはそれに向かって悪態をつくことだけだった。
 ただ彼女を見捨てるという選択肢はあり得なかった。洞穴の中には得体の知れない化け物がいる。対抗策はわからないが、それでも彼女を助け出さないとならない。
 一度ここに詳しい人を探しに山を下りて町の人に訊くべきだろうか。しかしそうしている間、彼女の命の保障はない。
「……よし」
 僕はもう一度洞穴の中に飛び込む決心をした。具体的に何か案があるわけではなかったが、いてもたってもいられなかったのだ。
 一つ息を吐いて僕は入口に向かって足を一歩踏み出す。
 と、その時、中からも地面の石を踏み締める音が聞こえてきた。その足音の主の姿はこちらからは見えないが、明るいところにいるためか向こうからはこちらが見えるらしい。はっきりとした声が聞こえてきた。
「あ、よかった。ここにいたんだ」
 それは愛しの彼女の声そのものだった。
 僕は彼女が無事であったことに心から安堵し、そして迎えるべくこちらからも歩を進める。そして彼女の姿も陽の光に照らされて見える場所で――
 ――足を止めた。
「わたし、池の中にいる神様の力であなたと一緒になれる姿を手に入れたみたい。まさかこんなことがあるなんて」
 彼女は嬉しそうに右手を振りながら僕に言った。それはいつもとは反対の手だ。彼女はいつも左手で僕に応じていた。
 けれど彼女は単純に鏡映しの姿になったわけではなかった。彼女は彼女自身の鏡像異性体になったのではなく、『僕に』重なることのできるような姿になっていたのだ。
 洞穴の池に顔を映しながら感じた違和感はこれだったのだ。僕と彼女は鏡像異性体の関係なんかにない。あくまで鏡に映った自分自身としか異性体の関係にはなれない。
 彼女はそのことをきちんと理解していたのだろうか。その上で喩えとしてL体とD体という表現を使ったのかもしれない。実際彼女は鏡像異性体とは似ても似つかない姿になっていた。体のあちこちが捩じれ、凹み、歪んでいる。
 僕は思わず踵を返した。その異形の姿を見ていることができなかった。
 けれどすぐそばに来ていた彼女がすかさず僕の手首掴んだ。そして身長差のあったはずの彼女が僕の耳元で囁く。
「ねえ、一つになろう?」
 ぐんにゃりとした、やたらと絡みつく彼女の手がけして僕を離そうとはしなかった。
by zattoukoneko | 2012-01-09 06:55 | 小説 | Comments(0)

2011年、革命の年

昨年の2月27日に「いつ21世紀になったのだろう?」 という記事を書きました。この中で価値観の変化が世紀の切り替わりと考えることもできるのではないかと述べ、一つの事例として阪神淡路大震災について触れました。よもや半月後にあのような大きな地震が発生するとは思ってもいませんでした。
このことは大きな衝撃を与え、3月にはブログの更新を止める旨を伝える記事を書いています。実は2月中にはブログ上で中篇程度の小説を連載形式で書くことができないかと考えており、内容や文章としてやっていけるかどうか実際に筆を動かしてみている時期でもありました(このことは「【小説】『絶体零度』あとがきもどき」 でも触れています)。4月17日から実際に掲載を始めましたが、これを書くまでの間に私自身ショックから立ち直る必要がありました。自分の書いた記事が引き金になったとまではさすがに思いませんでしたが、今でも心に傷を負っている方の多い阪神淡路大震災を取り上げ、その直後に東日本大震災があったものですから、どうしてもその関連性を想起してしまったのです。今思えばブログ更新を止めることを告げる記事は『このまま阪神淡路大震災の記事を一番上に出しておくわけにはいかない』という焦りから書いたものだったのかもしれません。
2012年と年が改まり、これで昨年の震災が片付いたとはけして思いませんが、上記のような私の中での葛藤についてブログ記事でも一度けりをつけるべきだと考えました。それが今回の記事の内容となります。



2011年3月11日14時46分に東北地方太平洋沖地震が発生しました。さらにそれに続く津波や余震によって被害はさらに大きなものとなりました。私はこのことによって日本人はもちろんのこと、世界中の人の価値観ががらりと変化したように感じます。今でも地震による揺れに私たちは敏感に反応し、緊張し、慌てふためきます。今年になってすぐにまた大きな地震がありました。01日14時28分頃鳥島近海で発生したマグニチュード7.0の地震です。日本列島のおよそ半分を揺らしましたし、久しぶりに大きな地震だったので驚かれた方も多かったかと思います。実は海外メディアもこれに関して記事を書いており、ロイターやAP通信が地震発生の速報を、日本時間での夜になってもCBSやWSJといったところがこのことを伝えていました。海外の方々もまだ日本の状態に注視しているということでもあり、そして地震に敏感になっている証でもあると言えるのではないでしょうか? また阪神淡路大震災と大きく異なる点は原発事故が伴っていたことであり、科学/技術と社会の在り方について疑問が投げかけられることとなりました。体制などにも批判の目が向けられ、確かにそれらは改善されていくべき事柄であるとは思うものの、一方でこれまで科学/技術ときちんと向き合ってこなかった私たち自身の姿勢を変える努力をしなければ、この価値観の変わった中に新しい社会を構築することは難しいようにも思います。そうした考えから(内容は少し難しくなりますが)「東日本大震災で見直されるべきもの」 という記事を書いてみました。
しかしながら震災のショックから立ち直れていない方もまだまだ大勢いるようです。私自身もそうなのではないかと思います。まだ地震があるとかなりの恐怖を感じ、ともすれば身動き取れなくなってしまうかもしれません。今回の震災による被害は物理的なものに留まりません。心理面でも被害は甚大かつ複雑であり、そのケアが今後の課題となるでしょう。冒頭の文章から、当時の私は今回の東日本大震災と阪神淡路大震災を結び付けて考えていたことがわかるかと思います。この現象は他の方にも少なからず起きているようで、中には阪神淡路大震災の経験がフラッシュバックしてしまう方もいるようです。ですがこの二つは別物であり、分けていかなければなりません。しかし精神科医やセラピストですら混同し、本来であれば以前からあった心の傷を治さなければならないのに、今回の震災のこととして対応してしまっている方がいると聞きました。このように精神的にまだ生活がつらいと感じている人たちに、私は鞭打つことはできません。ただ身近な人が助けを求めていたらそれに手を差し伸べたいですし、それならばこの先少なくとも十年はこの震災のことを真剣に考え続けようと考えています。

2011年は私自身も精神的に落ち着かなかった一年でした。また現在でも本調子ではないと言わざるを得ないと思います。幸運にもそんな私を支えてくれた方が何人もいます。お互いに声を掛け合うことで、それが日常の他愛のない会話であっても、大分救われました。そのことに私は感謝しつつ、同時に自分も相手をちょっとでも元気づけられていたら嬉しく思います。大変な年ではありましたが、そうした何気ない日常の大切さを感じさせられた一年でもありました。
年が明けて2012年となりました。まだまだ大変な時期が続きそうです。皆様にとってよい年になることを祈りつつ、しかし無理せず一歩一歩確かな日常を歩いていってもらえたらなと願っております。
by zattoukoneko | 2012-01-02 09:29 | 雑記 | Comments(1)