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氷の上はなぜ滑るのか?

氷ってつるつる滑りますよね? 私の実家があるところはど田舎で、一応道路は舗装されているものの、でこぼこで、冬にはそのくぼみにできた水溜まりが凍ってました。よくその上を滑って――そして何度も転んだものですw (でも東京に出てきてからはそういうのが道の上にあるのを見ないですね。せいぜい雪が積もり、雪かきされた後に若干凍っているくらい? でもあれも私の感覚では氷じゃないですからねぇ。今回の話題は現代の都会に住む人には実感わきにくいのかな? イメージしにくかったら机の上ででも氷の塊を滑らせてください)
で、氷の上は滑って当たり前と思う方もいるかもしれません。けれども他のもの、例えば塩素の氷(正確には、氷とは水の固体のことを指すので、ここでは塩素の固体と表現しないといけません。でも氷と言った方が伝わりやすいと思うので、以下の文章でもこのままいきます)は滑らないのです。普通の地面と一緒で、難なく上を歩くことができます。
一体水と塩素では何が違うのでしょう? 実はその原子間および分子間の結合と、それにもとづく結晶構造が異なっているのです。


さてまず原子間の結合について。
原子間の結合には大きく分けてイオン結合と共有結合、そして金属結合というものがあります。
イオン結合の場合、片方の原子から一つから数個の電子がもう一方の原子に奪われます。このことによって片方はプラス、片方はマイナスのイオンとなります。この場合、イオンになった原子は周りにいっぱい反対の電荷を持ったイオンを引きつけることによって安定化します。次は食塩NaClの結晶構造。
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なおこのとき周りにいくつ反対の電荷を持つイオンを引きつけられるかは、お互いの大きさによって決まります。それによってイオン結晶の構造には他にもいくつか種理があります(面心立方格子、体心立方格子、六方最密充填構造など)。これは、たとえばプラスのイオンがたくさんマイナスのイオンを引きつけたとしても、集まってきたマイナスイオン同士は互いに反発してしまうのです。だから限界がある。またマイナスイオン側にしてみればプラスのイオンをたくさん引きつけたいのです。だからお互いにバランスの取れる形を(瞬時に)見つけて結晶となります。
次に共有結合。これは片方の原子がもう一方の原子から電子を引きつけようとするものの、その力が足りなくて完全には奪いとれなくてできるものです。結果として原子はお互い分かれず、くっついてしまいます。そのときに電子軌道を共有するので、共有結合と呼ばれます。
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この共有結合によってできたものが分子です。イオン結合や金属結合によってできた塊は「結晶」という大きな塊になってしまいますので分子とは呼びません。
最後に金属結合。金属原子は最外殻にある電子を隣、さらに隣の電子へと、電子軌道をくっつけることでどんどん動かしていきます(まさに「自由」に動く電子なのです)。そのため金属原子はたくさん密集して金属結晶をつくります。なお金属が延展性、伸性、導電性、導熱性に優れるのはこの構造と自由電子の働きによります(この辺はセンターレベルの話ですので、理科系の高校生は自分で勉強しておいてください。今回は金属の話はあまりいらないので省略します)。
なお原子間の結合が上記の三つのどれになるかは電気陰性度(マイナスイオンにどのくらいになりやすいかの値)によって決まります。が、とりあえずはイオン結合の場合は金属原子と非金属原子、共有結合は非金属と非金属、金属結合は金属と金属でできると考えておけばしばらくはしのげます。さらにきちんと考えると、元素表で(左右方向に)離れているほどイオン結合に、近いほど共有結合になりやすくなります。これは右、上の方が電気陰性度の値が大きくなるためです(理屈は自学習してください。これもセンターのレベルです)。たとえばAgCl2は金属と非金属の結合ですが、むしろ共有結合に近いです(どのくらいの割合でイオン結合で、残りが共有結合なのかは双極子モーメントという概念を使って計算をします。一応高校の課程では外れていますし、大学の三年生くらいで習うものですが、難関校は平気で出すことがあります。一応説明つきですけれど)。ちなみに電気陰性度については大学受験で使うレベルではF>O>N=Cl>C>Hまで覚えておけば対応できるはずです。
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なおHの値が2.1となってますが、2000年かな? 2.2に改訂されました。

さて次に分子間の結合について。なお分子間力はその名の通り分子にのみ生じます。つまり共有結合してできたもののみです(イオン結晶や金属結晶はすでに「結晶」という大きな塊になるので存在しません)。
大体次のようなものがあります。強さの順番から言うと水素結合、極性引力、ファンデルワールス力、万有引力です。ただし万有引力に関しては原子は質量がとても小さいのでほとんど無視でき(大学では無視しませんが)、それよりずっと大きい電気的な力を主に扱います。(なお、高校の教科書ではファンデルワールス力と万有引力をまとめて「分子間力」と表記しますが、ファンデルワールス力は電気による力で万有引力は質量による力なので全くの別物です。また分子間力とは上に挙げたすべての総称です。つまり教科書は楽して説明していて、そのため高校生は余計に混乱するという事態を招いています。きちんとした参考書を買って自分の頭の中を整理しておいてください)
で個別の説明入る前に、分子間ではクーロン力という電気の力がメインとなるのでそちらの紹介から。
クーロン力は物理で習います(生物選択者でもクーロン力くらいは勉強しておくのが常識です)。式はF=k×q1q2/r^2。Fは力Force、kは比例定数で、q1、q2は互いの電荷。rは電荷間の距離です。つまり電荷の積に比例して距離の二乗に反比例するということ(これ重力と似てますね)。
で、個別の話に入るのですが、水素結合は今回の目玉なので後回しにし、まずは極性引力から。
極性引力とは極性分子間で働くものを指します。極性分子とは電荷に偏りが生じている分子のことで、上に描いた絵のもののような状態です。極性引力は次のように働きます。
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つまり負電荷を持つ側が別の分子の正電荷をもつ側に方向を向けてクーロン力を発生させます。この図では二分子ですが、(イオンのときと同じく)周りにはたくさんの分子が密集しています(ただしイオン結合などと比べてはるかに弱いので、結晶のような固体状態になるのは極低温でないとなかなか生じません)。
次にファンデルワールス力です。ファンデルワールス力もクーロン力によるものなのですが、極性分子、無極性分子どちらでも生じます。また力はとても弱いです。仕組みは少々難解なのですが……一応説明を試みます。
分子の中では絶えず電子が動きまわっています。そしてときには無極性分子であっても分子の内部で電荷の偏りが生じます。このとき近くに別の分子があると、それに引きづられて反対の電荷の偏りをつくります。このときに弱いクーロン力が働くのです。
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ただし、これはとても弱いものです。これから説明する水素結合はおろか、極性引力よりもはるかに小さいものです。
万有引力は――省略してもいいですよね。ニュートンでやりましたし。
最後に水素結合なのですが――今回は高校の内容で説明をします。大学では量子化学によるトンネル効果を用いて説明をするのですが、これは分子軌道の話であって高校の課程で習う原子軌道では説明がしにくいです。興味のある方は(あるいは難関校を受験する方は)大学の参考書などでざっと確認することをお勧めします。
さて水素結合はFH、NH3、H2Oで働きます(実際には他にもSO4,2-イオンなどでも働くのですが、こちらは無機などを詳しく勉強するときに随時追加していってください)。F、N、OはHとの電気陰性度の差がとても大きい原子です。そのため共有結合をして分子の形をとっているのですが、かなりイオンに近くなっています。つまりH側がら相当電子を引きつけているということです。そうするとHはもうほとんどH+イオンです。そしてH+イオンとはプロトン(陽子)そのものです。そのためめちゃくちゃ軽い。軽いということは多少の力で大きなエネルギーをもらえ、動きやすくなるということです。そのため近くに負電荷の大きい分子がくるとすぐにそっちへ向かって飛んでいってしまいます。
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ですが受け取った側は今度はプラスが大きくなってしまいます。なのですぐにH+を返してしまいます。そして返された方はまたH+を送りだします。そしてまた返されます。これを光速に非常に近い速度で繰り返します。ですのでほとんど結合してしまっている状態になるのです。なので分子間力でありながら原子結合にかなり近い。そのためこの力はとてつもなく強いのです。


さて原子間・分子間の力の働きに関してかなり説明がかかってしまいました。ですが化学においては基本中の基本ですので(でも整理できていない方が多いので)ざっと説明させてもらいました。
本題の氷の話に移りましょう。
水の氷は水素結合によってその結晶構造をつくります。これは上で述べたようにとても強い力で0℃なんていうとてつもない高温(化学では高温なのです)で固体になってしまいます。
ですが水の分子はちょっと湾曲しており(上の図で描きました)、このため結晶構造をつくるときにとても大きな隙間をつくってしまいます。この形はダイヤモンドや水晶と酷似しています。
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で、面白いのはこの隙間が大きいということです。
水で氷をつくると膨張すると思います。ですが基本的にあらゆる物資は温度が下がるほどその体積を減らしていきます。温度が下がるごとに分子は密集し、理論上は絶対零度0K=-273℃で体積は消滅してしまいます(人工的に絶対零度は現在つくれませんし、仮につくれたとして原子の大きさなどがありますから消えることはないと思いますが)。ですが氷は例外で、温度を下げると(ある程度までは)膨張するのです。これは結晶構造をつくる際に隙間の多い形をとるためです。
この氷を上から押して圧力を加えるとどうなるか。
氷としてつくりだした結晶構造が崩れてしまうのです。それは固体から液体、つまり水に戻るということです。そのときに生じた水が潤滑油のような働きをし、そして氷とその上に乗った人を滑らせてしまうのです。
一方で塩素の氷などは普通に温度が下がれば体積を減らします。ですから圧力を加えたところで液体には戻らないのです。ですから潤滑油のようなものは生じず、したがって普通の地面を歩いているときと同じで単なる固体の上を歩いている感じになります。ですから滑らないのです。


ちょっと本題より化学の基礎知識の方が多くなってしまいましたね。ただ化学ってこのように物理の知識とかがんがん使わないときちんと整理できない分野なのです。ですからかなり話が難しくなってしまいました。
まあ、でもとりあえずは最後の本題のところだけ理解してもらえれば他人に話せる程度にはなるかと。
一応化学関連では他にも色々な話ができますが、無機や有機の話をするときには理論の方をかなりのレベルまで理解していてもらわないといけないので、ちょっと悩みどころです。
今歴史とつなげた話で簡単に説明できるものを探しているのですが……今度は歴史の知識が必要になってしまうのですよね(フロギストン説とか、ソーダ・ポタシュとか)。なので化学関連の話はちょっとつくりにくいです。
あ、でもこれ教えて、とか要望がありましたらできるだけ応えるつもりでいます。化学の知識は(今大分抜けちゃってますけど)一応受験期に大学卒業レベルまではざっと勉強しましたので。高校生向けにもかみくだいて説明可能です(でも訊いてくれた方には場合によっては相当な予備知識を要求することになりますが)。まあ、ご希望がありましたら気軽にコメントください。私も記事が増やせて助かりますから。


であ、今回の化学の話はこれでおしまいということで。
一応もう春ですから氷はほとんどないと思いますが、一年後の冬には氷で転倒しないように気をつけてくださいね。そして何より受験で滑ることのないように……(私はセンター会場の氷で滑り、そのセンター試験でも滑りましたよorz 私の二の舞にならないように祈ります)。
次回はその受験で滑ってしまないように成績の伸び方についてのお話をします。
by zattoukoneko | 2010-03-30 06:50 | 化学 | Comments(4)

自転車は道路のどちら側を走らないといけないか

自転車に乗る方は結構いるかと思います。私は上京してきて以来駅まで徒歩で普通に行けるので乗っていないですし、高校の頃からすでにほとんど乗ってないのですが……(ただ私の実家はかなりの田舎にあって、電車はおろかバスもありませんでした。なので自転車かあるいは自動車が主な交通手段だったので、幼いころはよく乗っていました)。ちなみにこの前友人の自転車に試しに乗らせてもらったら――ガードレールに激突、電信柱にてようやく止まりました……。物の多い東京って怖えぇ、と思いました(いや、私が単純に乗れなくなっただけかもしれませんが)。
ん、ちょっと自分の話で長くなりました。本題の自転車は道路の右と左のどちらを走らないといけないかについてなのですが、これに関してはきちんと法令があるようです(ちょっとどこに書いてあるのかまでは確認をとっていないのですが)。
私の田舎なんかでは車なんて滅多に走っていなかったのでなーんにも気にせず、60キロくらいでかっとばしてましたが(自転車は市販されているものでも80キロくらいまでは出せるそうです)、まあ東京のような都会ではそんなことはできないですね。ある程度の速度を守りつつ、慎重に運転するんでしょうか。
で、この際に自転車は道路の左右のどちらを走らないといけないかが決められているのです。今回はそのお話です。


で、まあ答えが気になってしまうと思うので先に回答を提示すると、「左」を走らないといけないとなっています。つまり自動車と同じということです。
でもなぜ左でないといけないのでしょうか? むしろ右を走ったほうが前から車が来るのがわかって避けやすい気がしませんか? これには実はきちんとした理由があるのです。ここからは物理のお話です。

確かに自転車は右側を走ったほうが事故を避けやすいかもしれません。ですがいざ事故が発生した場合、そのとき事故に遭った人の怪我の具合や死亡率が全然違ってくるのです。
運動エネルギーというのは中学時代に習っているかと思います。E=mv^2という式ですね(あ、なお「^」は~乗という意味です。ウェブ上だときちんと表記されないことが多いのでこれ使わせてもらいます)。忘れている方へ補足しておくと、Eはそのまま(運動)エネルギーです。mは質量。vは速度です。つまり運動エネルギーは質量に比例、速度の二乗に比例するということです。
ここで事故が起こったときのことを想像してみましょう。式を簡略化するために自転車は時速20km、自動車は時速60kmで走るものとします(質量に関しては変わらないので今回は無視できます)。
で、まずは左側を自転車が走っていた場合です。自転車は後ろから自動車に激突されることになるわけですが、このときのvの値は(相対速度ということになりますので)40ということになります。したがってEはm×40^2となります。
対して右側を走った場合、今度は正面衝突することになります。相対速度はお互いの合計地ですからv=80となります。よってE=m×80^2。
40と80の二乗をそのまま計算して比較すると大変ですので、単純に比をとると1:2です。その二乗ですからEの比は1:4ということになります。
つまり右側を自転車が走っており、そして事故を起こした場合、左を走っていたときに比べて4倍もの衝撃(エネルギー)を受けるということです。質量とかもきちんと値を決めればエネルギーの量はきちんと算出できますが、そこまでやると少し難しくなってしまいますし、それがどのくらい体に損傷与えるかということになるとさらに難しい議論になってしまいますので今回は省略させてもらいますが、ですがこの4倍という値が相当なものだということは想像できるかと思います。ようは左側を走っていれば後ろ側から激突されても骨折くらいですんだかもしれないのに、右側を走っていて事故に遭ったら内臓ぐちゃぐちゃという可能性があるということです(下手したら死にますね、これ)。
したがってこの大きな被害になることを防ぐために法令で「自転車は左側を走るべし」と定められているわけです。


と、現役高校生や物理をある程度しっかり勉強した方は上の説明にもしかしたら疑問を持つかもしれません。というのは物理の問題で衝突を扱う場合、運動エネルギーE=mv^2ではなく運動量p=mvという式を使って答えを出すからです。なので衝突のことを考えるときはこっちの運動量を使うのであって、vは二乗にならないんじゃないの?、とそういう疑問を持つかもしれません。
でもちゃんと私の話は当たってます。ここからはやや難しい話になるので、わからないと思った方は軽く読み流してください(ただし早慶とか受けたいと考えている高校生は知っておくべきことなのできちんと読むように)。
確かに衝突の問題を解くときには運動量の方を使います。運動エネルギーの方を使ってしまうとちゃんとした答えが出ないのですね。衝突の場合は運動量の保存則というのがあるので、衝突前も衝突後もこの値は変わりません。だからこちらを使います。一方で運動エネルギーの方は衝突の場合「見た目の上では」変わってしまいます。なのでこちらは衝突した際に物体がどの程度動くかとかは正確に計算できないことになります。
が、物理の基本原則としてエネルギー保存則というものがあります。宇宙という閉じた系の中ではエネルギーは(宇宙が誕生してビッグバンが起きてからは)変わっていないことになっていますし、今後も変わらないはずです。なので衝突の際も運動エネルギーもきちんと保存されています。
では何故式の上では消えてしまったのでしょう? 実はこれは物理と化学の両方の知識が必要になってきます。
物体というのは原子が結合してできているものです。これに何かが衝突した場合、その結合によって形作られている構造が歪むことになります。ですが物体、化学結合は元の形に戻ろうとします。この際に受けたエネルギーを使って元に戻ろうとするのです。つまり衝突の際の運動エネルギーは互いの内部で消費されるということです。そのため式の上ではエネルギーが減っているように見えてしまうというわけです(この原子の結合の復元に使用されたエネルギーまで計算すればきちんとエネルギーは保存されているはずです。ただし話はとても難しくなりますし、衝突でどのくらい吹き飛ぶかなんて話だけをするだけなら余計な計算になってしまうので使わないということです)。
で、事故の話ですが、今回はどの程度吹き飛ぶかという話ではなく、どのくらい体に影響が出るかという話をしています。つまり「内部」の話なのです。体の中にどのくらいのエネルギーが与えられ、それを使って元に戻そうとするか(そして実際には完全には戻らなかったりするわけですが)という問題なので、運動エネルギーの方を使用するということになるのです。


さて、物理の話はこのくらいですが、最後に少しだけ法律の話。
多分、結構多くの人がこの「自転車はどちらを走るべきか」ということについて知らないと思います。またそれが法律で定まっており、実際に守っていないからといって捕まったり、警察から注意されることもまずないと思います。
実は法律は簡単にいえば「守らないといけないもの」と「守ったほうがいいもの」の二つに分けることができます。
前者は殺人とか放火とかですね。これは絶対にやっちゃいけないことです。
一方で後者の代表例は自動車の規定速度ですね。たとえば地面や標識に「40」なんて数字が書いてあったとしても空いていれば60キロで走っていても別に文句は言われません。高速なんかでも80とか書いてあっても100キロくらいはみなさん普通に出して走っているでしょう? むしろ80を厳守されると後ろがつかえて困るくらいです。ですので多少の速度オーバーなら許すし、むしろそうしてくれということです(ただし「出しすぎ」はさすがに捕まりますが)。……まあ、たまに警察は検挙率を挙げるために少しのオーバーでも取り締まることがありますけど(ちなみにうちの地元では道路わきに警察官が隠れていて、適当な車を見つけては先にいる警察官に連絡。そして連絡を受けた警官複数が車を止めさせてがんがんチップを切ってました。――いや、事故防ぎたいならその最初の警官が止めろよ、って思いましたが)。
ちなみに「守ったほうがいい」という法律は他にもいくつもあります。信号の無視(特に歩行者)とか、同じ信号でも自動車は黄色になっていても減速しなくて進んでしまっても捕まらないはずです。あとは未成年の飲酒や喫煙、成人雑誌の購入やアダルトサイトへの立ち入りもよっぽどのことがない限り黙認されます(というか知り合いに父親が警察官の人がいますが、中学生の頃から一緒にお酒飲んでたみたいです)。
あ、だからといって私は別にこれらの法律を破っていいとは言っていませんので。そして推奨もしません。特に販売する側には厳しい指導が行くので、相手方の迷惑になることがあります(近年コンビニやスーパー、居酒屋で年齢確認をされることがあるのはお店側が指導を受けてしまうからですね)。ですのでできるだけ守るように。
(まあ、法律もそうだし、私自身にも拘束力はないのでやる場合はこっそりやってください。それで捕まっても私は知ったこっちゃないです。自己責任でお願いします)


さて今回で物理関連の話はおしまいです。大分物理のカテゴリも埋められたかな。
次回は予告通り化学のお話で「氷の上はなぜ滑るのか」という話をします。これもそんなに難しい話ではないはずですが、興味のある方は水素結合とか思い出しておいてくれると読みやすいかと思います。
化学の話は――とりあえずこれ一つでしょうか。ちょっとどの話題が取り扱いやすいか悩み中です。面白く、かつ平易な内容ということになるとなかなか難しいですねえ……。ニュートンみたいに歴史の話と絡めることはできるのですが(錬金術の話とか)、ただそれだとまた特集みたいな感じでちょっと連続して投稿しなければならないので今のところは控えておこうかと。その前の予備知識も多分必要かと思うので。この辺は今記事の順序を考え中です。
次々回はブレイクスルーという成績の伸び方について話すと予告してましたね。受験生用のお話になります。今年受験生になる人や、来年に受験を控えている中高二年生は残り10カ月の学習計画を立てるのに役立ててください(あ、もう大学生の方とか、社会人の方にも使えるお話です。一応高校生を念頭に置かせてもらいますが、内容を把握していただければ応用可能なはずです)。なお大学受験を控えている方はすでに参考書の紹介記事がありますのでそちらも見ておくと計画はより立てやすくなるかと思います。
なんか、予告が長くなりました。もうおしまいにしますねー。ではm(_ _)m
by zattoukoneko | 2010-03-27 06:12 | 物理 | Comments(0)

日本の渋滞最長記録は154キロ!!

今回は物理の話ですが、大分簡単なお話です。ほんのちょっとした雑学程度ですので、酒の場ででもウンチクとして語ると面白いかも?
で、タイトルにある通りに日本において最も長かった渋滞の長さは1995年の12月27日に名神高速の秦荘パーキングエリア付近から赤塚パーキングエリアにかけて起きた154キロというとてつもない長さのものです。
私は普段車を運転することがないのでわからないですが――んー、一時間に仮に10キロ進めたとしても抜けるのに15時間以上かかるわけですね。……巻き込まれた方、大変でしたね、これ。

さてこれだけだとただの知識ですが、もう少し深めて物理の話と絡めていきましょう。
154キロなんてとてつもない長さの渋滞ですから、よっぽど大きな事故でもあったのかと想像されます。しかし実は事故なんて「一切」起きていません。つまりこれは自然渋滞というやつです。
この自然渋滞というのはよく起こるものですが、では何故そんなものが起こるのでしょう? 特に高速道路には信号なんてないのだから渋滞の原因になりそうなものはないように思えます。ですがきちんとメカニズムがあったのです。


車を運転する方は座席に座って実際に走っているときのことを思い返してくれればわかりやすいと思います(あるいは車を運転しない方、免許を持っていない方でも、親御さんや誰かしらの車に乗ったことは結構あるかと思います。それをちょっと思い出してみてください)。
自分が車を運転(あるいは同席)しているとします。前には一台の車が走っています。まあ、何もなければスムーズに進んでいくと思います。ラジオとかかけてると気分も楽ですねー。
と、急に前の車が一瞬急ブレーキをかけました! きっとあなたは反射的にブレーキを踏むはず。そうしなければ追突してしまうかもしれません。まあ、ちょっとイラっとしながらも前の車のブレーキランプが消えてきちんと進んでいることを確認してあなたは再加速するかと思います。
この一連の時間経過を考えてください。前の車は一瞬ブレーキをかけました。あなたはそれに直ちに反応してブレーキを踏み、速度を落とします。そして前の車がきちんと発射したことを確認してから、それでまたアクセルを踏むのです。ということは――前の車よりあなたが運転する車の方が長い時間ブレーキをかけて減速していませんか?
そしてさらに想像しましょう。あなたの車の後ろにはまた別の車があるのです。そっちの運転手だってあなたと同じことを考えることでしょう。そうするとその車の減速している時間はあなたのものより長くなります。そしてその車の後ろにはまた別の車があるのです。
もうここまでの説明でわかったかと思います。つまりブレーキをかけている時間は、最初はほんの短いものだったとしても、後ろに行くほど長くなり、ついには完全に停車してしまうわけです。
これが自然渋滞の主な原因です(これ一つではないですけれど)。後続車の速度がどんどん落ちていき、そして止まってしまう。また止まる時間もどんどん長くなります。この仕組みを「減速の波動」といいます。その名前のように減速が波のようにどんどん続いていくわけですね。
この「減速の波動」は別に自動車のみで起こることではありません(今は自動車での渋滞の話をしていましたし、もっとも顕著でかつ身近なのでそれで想像してもらっただけです)。例えば長めのエスカレーターを歩いて登っているとしましょう。関東は右側、関西は左側を歩くのがマナーとされていますよね(まあ、これは技術の面からみたらとても危険なもので、一方に大きな負荷がかかる分故障の原因になりやすいのです。デパートなどのエスカレーターにはきちんと中央に乗るように絵が貼ってあったりしますので、機会があったときに注意して見てみてください)。で、私たちは別に他に人もいなければ中央でも右でも左でも、好きなところを歩いていってしまいますが、混んでいるときはこのマナーに従います。ですが、エスカレーターに乗る直前や降りる寸前、人は歩幅を合わせるために少しタイミングをはかります。前の人がこれをやると、(車のときと同じで)後ろにいる私たちは「こんにゃろ」などと思いつつ止まってしまうのです。これは後ろの人へも伝わっていきます。ただ車の走る道路ほど長くはないですし、人も密集することは少ないので、「渋滞」みたいな感じでみなさないだけです。まあ、人の多く集まる駅なんかのエスカレーターでは完全に二列とも止まることもありますが。


さて自然渋滞の原因がわかったところで、高速道路での渋滞に戻りましょう。理屈は同じなのですが、ですが一番最初の車はなぜ減速したのでしょうか? 一般道では信号などもありますし、人が出てくることもありますが、高速では何に気を取られてブレーキを踏むのでしょうか?
結構多いのは風です。風にあおられてブレーキを踏んでしまったり、あるいはブレーキを踏まずとも減速してしまうのです。
またトンネルに出入りするときもブレーキをかけがちだそうです。あとはカーブなど。
他には東北の方などでは野生動物が道に出てきたしまったりすることもあるみたいです。結構大きな問題になっているとか。
では最大記録を出した名神は何が原因だったのでしょう。
実は、坂、でした。
しかも見た目にはまったくわからないほどの傾斜数度というものです。
「そんなものが渋滞の原因になるのか?」と思われるかもしれません。ですが見た目でわからないからこそ問題でした。
明らかに坂だとわかっていれば、ドライバーはアクセルを強く踏んでスピードが落ちないようにすることでしょう。ですが見た目でわからない坂ではそれをしません。ですがメーターを見れば確かにスピードが落ちていることがわかるのです。それはたったの1,2キロなんてレベルですが。
けれどこれだけの減速でも波動として伝わってしまうのです。最初はほんとに徐々に徐々にだっただろうと思われますが、それでも後続車が絶えることなく続けばその減速時間は大きくなるのです。その結果150キロを超えるような大渋滞を引き起こしてしまったわけです。
(なお、現在は車線を増やすなどの処置がとられて大分緩和したとは聞いています。どの程度変わったのかきちんとしたデータを持ってないのでわかりませんが)


こうした減速の波動による渋滞は気をつけようとしたって避けられないものですね(まあ事故による渋滞だって、その事故を起こした当事者以外にはどうしようもないですが)。すべてのドライバーがこの減速の波動について知ることや、仮に知ったとしても見てもわからないようなゆるい坂やカーブでの減速には気付かないものでしょう(メーターを常に見ていたらむしろ事故になっちゃいますし)。
現在は(先にも述べたように)道路の改善などが行われていて、渋滞は改善されつつあります。またドライバーの方でも渋滞情報などを手に入れられるように色々な手段が出てきました(まあ、それを使って脇道に入ったらみんながそれを使っていて余計に渋滞したなんて話もありますが)。こういう試みは各方面で今後進んでいくことでしょう。
(ちなみに小学生のころに、車が走る層と居住区の層を分けて、道路は全部真っ平らに日本全土に広がるようにしたらどうだろう?、なんてことを考えたことがありますが……むしろ事故が多発しそうですね。空飛んでくれた方が上下にも避けられて安全なのかな? でもその場合信号とか進む方向とか法令などを決めるの大変そうですねえ。軽いSFなんかでは昔からよく出てきますけど)


さて今回は短めです。次回ももう一度物理の話でいこうかと思います。
以前コメント欄あたりに自転車は道路の左右のどちらを走らないといけないかと書いたと思いますが、それを物理(と若干化学)と絡めて理由をつけて話します。
あとは何故盗電が犯罪なのか(当たり前、と思うかもしれませんが、同じ電気を使ってつくったクーラーなどによる涼しい風にあたりにデパートに行くのはOKなんですよね? きちんと歴史的に議論されて決められた経緯があるのです)なんて話もありますが、あんまり物理の話ばかり続けても仕方ないかな、と思うので物理関連は次回でおしまいということで。次回記事も短いはずです。今回と比べるとちょっと難しい話も入ってしまいますけどね。
というわけでもう一度だけ物理のお話にお付き合いいただけると幸いです。ではでは。
by zattoukoneko | 2010-03-24 06:11 | 物理 | Comments(0)

ニュートンのリンゴの木

ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したといわれています。このリンゴ、おいしくないそうですw まあ彼の生きていた時代から相当品種改良されてますからね。それにサイダー(米語ではリンゴの汁からつくった炭酸の飲み物のこと。日本の三ツ矢サイダーとは別物です)はそもそもリンゴがおいしくないのでそういう風にして加工して食べるようになって発明されたと言われています。
ニュートンのリンゴの木は東京大学の本郷キャンパス内にあるそうです。んー、見に行ってみたい、というか食べてみたいです(笑) 本当においしくないんですかね? 全然甘くないって聞いたんですけど。
さて今回はニュートンがリンゴの木を見て万有引力を発見したのではない、という話をします。(ただしついこの間新しい史料が発掘されて、今後また議論になりそうです。私はそこまで変わらないだろうと思っていますが。これについては後で紹介しますね)


ニュートンはリンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力の発想に至ったのだと長いことされてきましたし、今でも一般的にはそう信じられています。これは日本だけではなく世界のあちこちでそうです。
ですがニュートンについての研究が進むにつれ(これはあまりに膨大な研究が出てます。全部見るなんて無理だし、有名なやつだけに絞っても数百件という文献が出てきます。私もそれは見れてないですし、科学史の論文とか読むことのない人には余計に無理だと思います。一応日本語でも結構いい本が出てますので本屋で探してみてください。――私も一冊定評のあるやつを買ったと思ったんですが、タイトル忘れちゃいました&今回も見つからないorz 本のタイトルに確かニュートンって入ってなかったんですよね。発売は2000年以降だったと思いますけど……)、ニュートンが万有引力を発見したのはリンゴを見たからではないことが判明してきました。
彼は万有引力の発見の時期にフックやホイヘンスといった人物と手紙のやり取りをしあっており、そこの中で引力に関する議論がなされています。そして万有引力の概念自体はフックの方がむしろ先に思いついていました。つまりニュートンは半ば盗作をしたというわけです(後にニュートンはフックに訴えられていますし、ニュートン自身も確かフックの先行権を認めていたのではないかと思います)。ただ確実にアイデアを盗んだかどうかはまだ疑問で、ほぼ同時に独立に思いついた可能性もまだあるようです。
ですがいずれにせよニュートンが万有引力という概念を導きだしたのは彼らとのやり取りや同時代、および前からの科学知識から生み出されたものであることは確実です。少なくとも木からリンゴが落ちるのを見て、それだけで無から万有引力の概念を閃いたというのは誤りだと考えられます。


ではなぜニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したと言われているのでしょうか?
実はニュートンについて書かれた最初の伝記の影響力が大きかったからです。
最初の伝記を書いたのはウィリアム・スチュークリという人物で、(ちょっと正確な発刊年を覚えてないのですが)ニュートンの死後すぐに出版されたものです。

ちなみに脇道にそれますが、日本では伝記というものが書かれるのが非常に遅いです。少なくとも該当する人物が死んでからではならないという暗黙のルールがあり、また詳しい伝記を好んで買う人も少ないです。一方でヨーロッパやアメリカでは伝記は山のようにつくられ、子供向け・一般向けから専門書まで次から次へと出版されています。また伝記もその人が生きている間にもう出版されちゃいます。悪口とか暴露話とかも結構平気でします。文化や習慣が違うと言ってしまえばそれまでなのですが、日本のこの遅さは私個人の意見としては問題かな、と思います。確かにその人のことを暴いてやろうとか、その本が出ることによる当人や身内の人々の立場はあるとは思いますが、一方で日本の科学者やその他の学問分野の著名人が世間に知られずに埋もれてしまっているのも実情です(例えば高柳健次郎という名前を一体これを見ている人の何人が知っているでしょうか? 八木秀次は? 長岡半太郎はさすがに知ってますよね?(中学ですでに名前を聞くはずですから) では菊池大麓なんてのはどうでしょうか? 山極勝三郎はすでに記事にしましたね。桜田一郎くらいは知っておかないと海外で日本の有名な科学者の名前を問われたときに困りますよ? ――ここに挙げたのはまだまだ有名な人物ばかりです。日本のトップ、あるいは世界でも通用するような人たちで、時代が時代ならノーベル賞にも手が届いたのではないかとされるくらいの人たちばかりです。またいずれも50年以上前の人物で、最近の著名人をどれだけの人が知っているでしょうか?)。この日本の風土はちょっと困りもので、私も近年のことを調べても明かせなかったりします。たとえばいまだにコンピュータゲームの歴史なんてのはきちんと明かされてないです。せいぜいNHKスペシャル 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防という本が出ているだけで、これも任天堂のファミリーコンピュータまで、しかも任天堂の視点ばかりでセガとか入ってないです。当然任天堂の悪口――というか問題点ですね――は述べてないです。またネット上を探せば一応昔からゲームをやっている人たちが「こんなことがあった」と書いていたりしますが、それは「研究」ではなくてまだ知識の羅列の域を出てないですし、もっと内情まで踏み込んだものはなかなか見つけられません(私とかも当時の出版物に載ったコメントとか、元社員の人とかに聞いて少しだけわかる程度です。任天堂の販売戦略とか、SUQARE ENIXのソフト開発がどう進められて、チームはどういう編成になっているのかとか知っている人は少ないと思います)。

――んー、脇道に逸れすぎました。戻りましょう。
スチュークリの伝記も執筆はニュートンの生きている間から始まっています。スチュークリはニュートン自身にも会って話をしていますし、ニュートンの妹からも兄のことを聞いていたりします。
そして彼が最初にニュートンの伝記を書いたというわけです。そしてこの中に「ニュートンはリンゴの実が木から落ちるのを見て万有引力を発見した」と書いてあるのです。そしてこの伝記が最も信頼に足るものだとされ(そりゃ本人に会って話を聞いてるわけですから、そう思うのも仕方ないことです)、そして世界各地でこれを参考資料として新しい伝記が書かれていったというわけです。そのため「ニュートンのリンゴの木」の話が世界的に有名となったのです。
スチュークリはリンゴの話をニュートンの妹から聞いたとされています(「いました」ですかね。これから変わるかもしれません。後述)。その妹は兄がそのように説明してくれたと語ってくれているようですが、ですが現在の歴史研究はそういう証言を信じません。前回の記事で述べたように科学者は社会の影響を受けていて当然ですし、また人間ですから記憶の間違いやあるいは例え話や嘘を言うこともあります(ちなみにガリレオの実験というのは人にわかりやすいように、「想像」して伝えた実験で、実際にはガリレオ自身は実験はしていないことが判明しています。これは一種の例え話で、これが史実として現代まで伝わってしまったわけですね)。
ニュートンの妹やニュートン本人がどのように考えてリンゴの話をしたのかはこれから解明されてくることでしょうが、しかしいずれにせよリンゴの木が万有引力の発想のすべてでないことはもうほぼ確定しています。先の繰り返しになりますが、ニュートンはフックなどの同時代の人たちと盛んに交流を持っており、また当時の時代背景(あるいは錬金術などの以前の思想背景)に身を置いていました。それらを無視して「万有引力はニュートンという天才が独りで生み出したものだ」という考え方をしてしまうのは問題があります。


さて、最初に述べた最近見つかった史料について触れて終わりたいと思います。
今年2010年の1月18日に(ニュートンが会長をやっていた)ロイヤル・ソサイエティがスチュークリの手書きの原稿を発見したとしてネット上で公開しました。これにはニュートンに直接会って「リンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力の概念を思いついた」という話を聞いたことが書いてあります。
英語のページですが一応リンクを貼っておきましょうか。ただし「手書き」ですから読みにくいです(まあ、まだ大分読みやすいものでしたが)。また英語も18世紀のものですから古いものです。それなりの知識が必要となりますので、参考程度にご覧になるのがよいかと。
The Royal Society HP History of Science
私もきちんと読んだわけではないので断言はできないのですが、一応きちんとした史料かと思います。この新しい史料の登場によってニュートンの研究者は議論を盛んに始めることでしょう。ただざっと見た感じ、これによってスチュークリの伝記は妹の話ではなくニュートン本人からの話を元にしている(あるいは両方)とうふうに説が変わることはあるかもしれませんが、だからといって「やっぱりニュートンはリンゴの木から万有引力を見いだした」と逆戻りすることはないでしょう。
まあ、私はニュートンの専門家でもないですし、研究をしているわけでもないので、他の人たちに結論を出してもらうのをみなさまと一緒に待つことにします。


さて次回の記事ですが、化学関連で「氷の上はなぜ滑るのか」という話題にしようと思っていましたが、もうちょっと物理で繋げてしまうことにしました。
前回や今回よりもずっとずっと簡単になる予定。テーマは「渋滞はどのようにして起こるのか」です。
そして連日の投稿になってしまいましたね(汗) ニュートンで続きものだしもともと早くupする予定でしたが、このペースはさすがにネタがなくなるw(まあ、それでも一応二、三年はもつだろうとは思うのですが……)
とかく3日くらいはあけるようにしないと私も自分の体を壊すかも、って感じがするので、次回やそれ以降はペースを落とすようにしますね。ご了承くださいm(_ _)m
by zattoukoneko | 2010-03-21 10:50 | 物理 | Comments(3)

ニュートンの万有引力は科学じゃない?

ニュートンといえば近代科学の父として有名です。彼は微積分を発明し(彼は流率法と呼んでいましたし、記号も現在のものとは全く違いますが)、万有引力という概念を導入することで惑星の運行を見事に計算してみせました。これによって地球中心の天動説から地動説へと完全に置き換わります。ここを境に明確に近代科学へと学問は変わります。ですからニュートンは近代科学の父と呼ばれます。
一方で近年の研究によって彼はその研究人生の大半を錬金術や神学に費やしています。神学はオカルトではないですが、錬金術は当時すでにオカルトとされていました。そのため今ではニュートンのことを「最後の錬金術師」と呼んだりします。
そして実際彼の考案した万有引力の法則というのは近代科学とは言い難いのです。むしろオカルトでした(実際それで当時は非難が集中したのです)。
今回は万有引力の何がオカルトなのか、何故近代科学には入れられないのか、ということを見ていきたいと思います。


まずニュートンが達成した天動説から地動説への転換というのは、何も彼一人の業績ではありません。1534年にコペルニクスが地動説を訴える『天球の回転について』を出版したところから始まったと記述されるのが一般的です。その後ティコ=ブラーエ、ケプラー、ガリレオ、デカルト、そしてニュートンと次第にその概念が変化され、新しい物理の概念なども導入され、最終的に1654年のニュートンの『プリンピキア』の出版によって地動説になりました。これを「科学革命」と呼びます。
ただし科学革命で起きたのは天動説から地動説への転換だけではありません。物理学も哲学も、宗教に対する考え方も、そして一般の人たちの自然への捉え方も、ありとあらゆるものが変わりました。このため科学革命は人類が経験したもっとも大きな革命であると言われています。
科学革命に関わった人々は上記の人々だけではありません。哲学や科学の方法論も大きく変わっており、それらすべてを記述することは大変な作業ですし、ざっと講義するだけでも通常大学1、2年生の一学期から二学期分を要します。つまり半年から一年かけて教えるということ。そしてそれもかなり表面をなぞっただけです。ですからこの記事内でそれを紹介することは文字数的に無理ってものです。
ですので今回はかなり焦点を絞ります。主にデカルトを中心に「機械論」というものを見ます。


デカルトは名前は有名ですね。「われ思う、ゆえにわれありcogito ergo sum」の言葉でよく知られているかと思います(ただこの言葉の意味をきちんと知っている人は少ないみたいですが。ここから彼の哲学・科学が始まるのであって、ただの決意表明にに近いものなのですが)。
デカルト以前から科学者(歴史的にはまだ科学者scientistという言葉はできていないので、自然哲学者と呼ばなければならないのですが、今回は科学者で統一します)は急速に発展してきた機械時計というものに興味を引かれます。
ギリシャ時代からの伝統でヨーロッパでは職人というのは差別されていました。一方で科学者というのは大抵が貴族で、働かないで遊び続けてもお金が尽きないような人たちでした。彼らは時間をたくさん持ってましたので、その間に知的探求である科学に莫大なお金をかけていったわけです。あるいはガリレオなんかは大砲や築城術で国王などに自分を売り込み、パトロンを得ます。どちらにしてもお金に不自由することなく、知的探求に没頭できたわけです。
ですが機械時計というのが発明され、それがどんどん緻密に、大がかりになっていくと職人たちの技術に興味がわいてきました。そして職人の工房などに入り込んでそれを科学的に研究しようという試みが始まります。初期のものとして最も有名なのはアグリコラの『デ・レ・メタリカ』です(これは――えっとラテン語はわからなくても英語がわかれば推測できると思いますが――冶金を中心としたもので、たくさんの絵とそこに書かれている人や道具の役割を記述したものです。日本語訳もされていて、かなりの数の大学が蔵書として持っているのを確認してます。というか私は一部コピーして持ってます)。
この頃はまだ職人の技術を科学の眼で探求しようというものでしたが、次第にそれが哲学や神学と結びついていきます。
デカルト自身はどこまで神学と結びつけようとしていたかとか、技術のことを意識してたのかは詳しくはわかりません(私はデカルトの著作を直接読んだことがほぼ皆無なので)。上で挙げた「われ思う、ゆえにわれあり」も「今までの科学・哲学は信じられないから全部捨てるよ」という背景があって、そこからじゃあ何なら確実に言えるの?、ということで出してきたのが「われ思う、ゆえにわれあり」という公理だったりします。そこから彼は自分の哲学・科学の体系を組み立てていくのですが――どう考えてもその一つだけから宇宙の仕組みや引力の働き方、生命の仕組みまで説明していけない気がします。またあまりにも同時代の考えと似ている部分が多いです(全部捨て去ったのならまったく別物が生まれてきそうなものですが)。

ちょっとデカルトの時代の前後を見てきて、彼の後まで少ししゃべってしまいました。デカルト本人に焦点を絞ります。
彼は自分の自然観を構築する際に、「機械論」という考え方を明確に打ち出します。機械論というのは時計の歯車のようにすべての物質は(目に見えなくとも)たがいに接しながら作用を及ぼし、大きな力として現象を引き起こすのだという考え方です。
デカルトは復興しつつあった原子論をさらに進めて粒子論によって世界の仕組みを説明しようとします(厳密に原子論と粒子論を区別するのは大変で、かつ文字数も取られるので一言で片づけてしまいますが――原子論は原子というやや大きめの物質の最小単位があって、それで世界が構築されているというもの。粒子論はもっと物質は細かいところまで分解できるんだという考え方で、原子だと大きいものなので真空ができてしまいますが、それだとデカルトの考えるような力の働きがうまくいかなくなっていまうので、真空をなくすほどにとても小さな粒子で宇宙全体が満たされているというものです。……一言じゃなかったorz)。で、デカルトは本当に見事なまでにありとあらゆる現象を粒子の作用で説明していきます(ただし粒子にも何種類かあって、働きも違うのですが細かすぎるので省略)。引力は星の周りに渦を巻いている粒子の力によって引き起こされるとしますし(これは水の渦のうえに木の板や船を乗っけると中央に引っ張られる現象から考えたものだと思われます)、生命も空気中からある種の粒子を吸い込んでそれが肺から心臓、脳へと入り込み、神経に入ることで生理現象を起こすと説明しています。今の私たちから見ると思弁的すぎるものですが、当時は実験して検証するなんて習慣がないですし(ガリレオが坂から球を転がしたとか、ピサの斜塔から鉄球と羽根を落としたという話は、実際にはやっていなかったと言われています。望遠鏡をのぞいたのは確かですが)、仮に実験・観察したとしても目に見えないほど小さな粒子の話なのですから確認のしようがないです。
むしろ注目すべきはデカルトの思弁的な部分や古い部分ではないです。彼がやった「機械論」での説明の徹底ぶりです。(私はデカルトを直接読んだわけではなく、それについて触れた本や論文を読んだだけですが)彼の見事なまでの説明の整合性には舌を巻くしかありません。そして私だけでなく、後世の人に彼の「機械論」は受け継がれていきます。そしてこれが基礎に置かれてできたのが近代科学でした。


と、ここでいきなり現代の私たちの科学知識について。
高校の物理の教科書などを見ると、近接作用と遠隔作用という二つの力の働きに分かれています。前者は物を手で押したときなど直接物体に力を及ぼしたときに使用されます。一方で後者は磁力や重力のように間に何もなくても力が働くときに使われます。つまり高校の物理では二種類に力が分類できると述べているわけです。
これ、大間違いです。書いている人はわかりやすくするためにこう書いているのだと思います(というか信じます)。が、こんな考えのままある程度の理科系の研究者になろうとしたら馬鹿にされます。まずこの時点で大学院すら行けないでしょう(まあ、最近は先生方もきちんと勉強してない方多いですけど。大学一、二年生のときに何度間違ってると本を持って指摘しに行ったことか)。
重力に関してはちょっと置いておきますが、磁力や光――すなわち電磁波ですね――はきちんと近接作用として説明されています。またそうしようと昔から様々な科学者たちが理論を組み立てようと努力してきました。当初はエーテルという物質が空間を満たしていて、それによって電磁波が伝わると考えられていました。波である以上(これはニュートン以降、光や電波が波であることは実験などで経験的にわかっていました)それを伝える媒質がないといけないのです。それは音が空気を揺らしながらその振動として伝わるのとほぼ同じ理屈です。これに関して最終的に答えを出すのがアインシュタインです。彼はエーテルというものは存在せず、空間そのものに波を伝える性質があるとします。これがアインシュタインの特殊相対性理論です。そして空間および時間は歪むんだということを提唱します。(アインシュタインの相対性理論に関しては説明してると長くなるのでやめます。興味のある方は一般向けの科学誌『Newton』などで特集が組まれてますので、そちらを見ればちょっとはわかります。ただ書き方がむしろ小難しく、間違いとも思えるものも含まれています。アインシュタイン以前の科学、電磁気学の歴史について多少知っているなら大学2、3年生向けの参考書のほうがはるかにわかりやすいです。……一般相対性理論の方は難しいですが。えーと、私が勉強した本が歴史のことも触れていて、かつ正確。内容も平易で値段も手頃と良い本だったので紹介しようと探したのですが――四時間かかって見つかりませんでしたorz 東大出版会だったような気がするんですが、アマゾンにも東大出版会HPにも載っていないのでわかりません。表紙は次のやつに似てるんですが、違ったらすいません。見つけたら修正します。相対性理論の考え方 (物理の考え方)
では先ほど置いてしまった重力はどうなのでしょう?
実は――今でもなんだかよくわかっていないのです。
一応アインシュタインが一般相対性理論(特殊の方は光とか電磁波に限られてたのですが、一般のものは重力も含めたすべての物理現象に相対性原理が働くという意味で「一般」とついています)で、重量のあるものは空間を歪めると説明しており、これによってその歪みに物が落ちていくような感じで重力が発生すると考えられています。そして二つの物体(これは仮の想定)は互いに自分の周りの空間を歪めあっているので、たがいに引き合い、万有引力が生じるとされています。これは一応理に適った説明で、近接作用と見なせます。
ですが現在はその先に進んでおり、すべての物理の力というのは素粒子によって形成されるとされています。光の光子(フォトン)や原子核をつくるクォークは有名だと思います(まあ、クォークには八種類あって、原子核ではアップクォークとダウンクォークの二種類の組み合わせです。陽子がup, up, downで中性子がup, down, downです。電荷は電子を-1とするとupが+2/3でdownが-1/3となっています。組み合わせると確かに陽子が+1で中性子が0の電荷になっていると思います)。で、重力に関与しているとされているのが重力子(グラヴィトン)です。が、こいつはいまだに見つかってません。発見できれば確実に歴史に名前が残るのですが(ノーベル賞は発見だけだと難しいでしょうけど)、誰も成し遂げておらず、世界中で先行権争いをし続けているものです。こいつが発見できれば重力や万有引力もようやく近代科学に仲間入りを果たせるのですが、まだ数年、下手したら十年はかかるんじゃないかなあというのが私の予想。


さて現代からもう一度ニュートンの時代へとタイムスリップ。
現代ですらよくわかっていない重力や引力の仕組みですが、ニュートンはどう考えていたのでしょう?
先に述べたように近代科学は機械論というものが根底にあって、現代まで受け継がれてます。遠隔作用というのはオカルトの類とされて排斥されています。デカルトは間違っていたとはいえきちんとその近代科学の基本を守ろうとして、それで自分の自然観を組み立てています。
ではニュートンはデカルトのようにきちんと仕組みまで考察していたのか?
実はなーんにも考えてないのです。ニュートン先生のありがたいお言葉。「だってあるんだからいいじゃん。神様がつくったんでしょ」だそうです(もちろんこんなふざけた言い方はしてないですけどw)。
ニュートンは近代科学の父であると同時に最後の錬金術師であるということは述べました。どうも彼はオカルトとされていた遠隔作用を認めたかったようです。また万有引力の着想もどうやら錬金術やその他のオカルトへの傾倒が関係しているようです(リンゴが落ちるのを見たからというのは、だから間違いなのですね。これは次回の記事でさらに詳しく見ます)。さらに神学者としても熱心だった彼は、神の御業を称えたかったようで、万有引力を説明できないことを神がつくったものなのだから今の私たちに理解できなくても当たり前と考えたようです。
これに対しては当時の科学者から相当非難の声が上がっています。ニュートンは科学を前時代のものへと逆戻りさせるのか、と。
ただ彼の計算は見事で、その後行われた天体観測で彼の計算に基づいた予想が当たっていることが判明します。これによって万有引力という曖昧な概念を含んだ近代物理学は認められざるを得なくなっていくのです(まあ、他にもニュートンがイギリスにあったロイヤル・ソサイエティという学会の初期のものの会長をやっていて、彼が個人的に気に入らない研究は論文として世に出させなかったことも今はわかっています。ニュートンがいなかったら科学はもう20年早く成長していたのではないかという研究者もいるくらいです)。
この近代科学といいながらその基本を無視している万有引力はその後も何とか科学にしよう、つまり近接作用で説明しようと試みられていき、ようやくアインシュタインで一応の決着を迎える、ということです。


以上のようなことからニュートンの考案した万有引力は正体不明のオカルトの力だったということです。彼がつくりだした近代科学は、しかし近代科学の大原則を守っていなかったということになります。
それとこれはニュートンの万有引力の話とはずれてしまいますが、後々科学革命とかパラダイムシフトの話をするときにそちらの分量を減らすため、先に機械論についてもう少し。
機械論はデカルトによって明確に打ち出され、科学の守らなければならない大原則となります。それは現代でも変わっていません。ですがニュートンの頃にはデカルトの考えから少し変わっています。
それはキリスト教と強く結びついたということ。当時の科学者は敬虔なプロテスタントが大半でした。キリスト教にとっての神とは唯一のもので絶対、全知全能の存在です。以前「人権・平等問題」の記事で触れたかと思いますが、プロテスタントたちは全知全能の神が何か誤りをおかしたり、後で世界を修正することはないと考えていました。それと世界をどう見るかを考えたとき、科学者の頭に思い浮かんだのが機械時計でした。神は宇宙を機械時計のように緻密で寸分の狂いもなく創っただろうと考えるようになりました。その機械の仕組みを究明するのが科学者としてキリスト教に貢献することだと考えられるようになります。そして聖書Bibleは二つになります。一つはもちろんのこと新約聖書。そしてもう一冊が宇宙でした。この二冊を熱心に読み、神の御業を知ることが人間のなすべきことだとされるのです(実際フックやボイルといった人物は宇宙や自分たちの探求する世界をBibleと述べていますし、当時の科学書には科学の力によって神の成したことを解き明かそうという挿絵が入っていたりします。画像を掲載しようと思いましたが……これも行方不明。見つけ次第upします)。この動きは次第に啓蒙主義運動と重なり激しさを増していくこととなります。


さて以上は歴史的な観点から見てきました。(いくつかの点で簡略化していますが)これは間違ったものではありません。
ですが科学哲学(あるいは科学論)の側面から見ると別の解答を得ることができます。(ただし科学史も科学哲学も互いに影響し合っているので、どちらかが正しいとか、より良いとかではないです。いうなれば歴史の方は史実を重視し、哲学の方はそこから導かれた思想を大事にします。重点の置いているところが違うというだけです)
科学哲学の方は基礎知識が相当必要ですので思いっきり簡略化します。
現在科学哲学や科学論では科学者やその集団、そして科学そのものも社会の影響を受けているのだとされています。
……えーと、何を当たり前のことをと思った方は、申し訳ないですが科学に対する社会の考え方からまず知ってもらわなければなりません。最近「科学って中立だよね」と言ってもわからない若い人が多いので(私自身中高生に勉強を教えることがありますが、その合間にそんな風に振ってみると『わけわからない』という顔されるんです)。
そのまず最初の段階でつまずいてしまった方へ。簡単に説明します。多分次に言うことは納得できると思いますが、どうでしょう?
まず科学というのは日々進歩しており、次々に新しい発見がなされ、そして理論がつくられていっています。そしてその理論は前段階の観察や実験にミスがなかったり、科学者自身の能力の不足やある考えへの傾倒(宗教など)がなければ、きちんと正確なものがつくられるだろうと考えられます。後々間違っているとされたら、その当時にはまだ観察できなかったことがあったのだとされるでしょう(たとえば昔は望遠鏡や顕微鏡がなかったので精確な観測ができませんでした)。そしてそういう性質のものだから「中立」であり、文学や法学と違って世界中で同じ科学の理論・法則で物事の説明ができ、様々な技術や兵器がきちんとつくれるわけです。どこかの土地や文化に固着のものだったら他の場所へは科学/技術は持ちこめませんよね?
今の説明に「そうだね」と思ってくれたでしょうか? 思ってくれたなら第一段階クリアです。
次いきます。
今思ったこと――全部間違いです。
「何言いやがる!」とか怒らないでください。特に科学に重点を置いている方々はそう思われるかもしれません。が、実際に歴史を振り返ってみるとそうではないことがどんどんわかります。
一番大きいのは科学革命ですが、これは大きすぎるので後々きちんと取り上げます。今回はいくつかの事例だけ挙げます。
まず一つにもうニュートンの話はしましたね。彼は錬金術というオカルトに偏っていたからこそ万有引力なんて怪しいものを平気で出しちゃいました。
また生物学では生物は自然には発生しないということをパスツールが実験をして証明してみせます。これは高校の生物の教科書や参考書にも載っています。次みたいな首長フラスコと呼ばれるものをつかって実験を行いました。
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パスツールは空気中から微生物が入ってくるのではないかとして、フラスコ内に培養液を入れたのち、その首を捻じ曲げて微生物が入らないようにし、その上で加熱して殺菌。そうするとフラスコの入り口付近には細菌が発生するものの、中には発生しないことを見いだします。これによって自然発生は否定されたということになります。
が、同じ実験をプーシェという人物が追試しています。そして細菌が発生することを見いだします。このプーシェは実験に失敗したのでしょうか?
実は違います。実験として正しいのはプーシェです。今の私たちが同じ実験をすると細菌の発生が確認できます。実は100℃(水の沸点)では死滅しない菌がいるのです。枯草菌の仲間です。プーシェは自分の実験から自然発生があると結論します。この結論自体は誤りですが、実験はきちんとしたものでした。
ですが彼の実験結果は無視されてパスツールの意見が世間に認められます。その理由は簡明で、キリスト教が後押ししたからです。キリスト教では神が世界創造の最初の7日ですべてを創りだし、その後は何も創っていないとしています。この教義を覆す自然発生説は邪魔ものでした。そしてパスツールを支持します。またパスツール自身が敬虔なカトリック教徒でした。
つまりパスツールによってなされた自然発生説の否定は(現代でも通用していますが)宗教の影響を思いっきり受けているということです。
――二つの例だけでかなり長くなりましたね。他にも山のようにあります。原子物理学の研究は原爆開発のために急速に進められた、なんてのもわかりやすいですね。これは政治などが関係してます。
このように科学というのは、人物もその理論自体も社会や宗教の影響を相当に受けているということです。
そして――これで最後にしますが――昔の科学と今の科学とどちらが進歩しているかというと、別に何も変わりません。これは科学革命やパラダイムシフトの記事を書いたときに説明しますが、乗っかっている土台(これをパラダイムと呼ぶのですが)が違うのです。
科学革命以前は別の考え方をしていたのであり、それに間違いを見つけることはできません。むしろとてもよくできており、物体の移動などについてアリストテレスをはじめ様々な哲学者がきちんと論理的に、かつ整合性を持った形で示しています。
現代に生きる私たちが彼らに間違いをつきつけるとしたら、最新鋭の望遠鏡でものぞかせることでしょう。データの面では確かに私たちに分があります。けれど私たちが説明できないこと――たとえば重力など――を彼らはいとも簡単に説明します(ただ乗っかっている土台が違うので納得するのは難しいですが)。
ようは古代の科学と現代の科学、乗っかっているものが違っていて、そしてどちらの説明も正しいのです。そして今後第二の科学革命が起きれば、私たちの科学は全部捨て去られます。今の科学者がやっていることは全部水の泡というわけです(まあいくらかは受け継がれるかもしれませんが、望み薄です)。すなわち私たちが乗っている土台の上では知識や理論は発展しているように見えます。が、土台を切り替えたらそれらは全部意味をなさないということです。
――――しまった。簡略化してるのにすでにもう長い!
えっとさらに駆け足になりますが、
科学というのが社会の影響を受けている以上、それが認知されるのも社会の力によってです(パスツールが一番わかりやすい例)。つまりその科学が正当なものかどうかは社会に認められなければならないということです。
もちろん科学者は自分たちに一定のルールを課しています。たとえば機械論に従わなければならない、など。ですがニュートンもパスツールもそういうのを無視して、社会に認められてしまったので「科学」になったのです。
したがってこの視点からすると、ニュートンの万有引力は正当な科学だと言えてしまうのです(ただ納得していない人たちがいたから、後世になって見直されるわけですが)。



だいぶ長く、そして小難しくなってしまいましたかね。これでも科学史とか科学哲学の分野だと学部生向けの教科書のほんの最初のレベルだし、それをさらに私がかみくだいたのですが……。
まあともかくタイトルの通りニュートンの提唱した万有引力というのは近代科学の基本原則からすると科学ではないわけです。ですが社会に受け入れられてしまったので、彼は「近代科学の父」となったということになります。


さて次回はニュートンのリンゴの木の話。こちらは今回よりもずっと楽な話ですので(になると思います(汗))、今回の記事で諦めずについてきてくれるとありがたいです。
by zattoukoneko | 2010-03-20 09:16 | 物理 | Comments(3)

日本は模倣するだけの国か?

今回の記事の予定は「ニュートン」でしたが、前回「お守り」という日本の文化の話をしましたので、それと繋がりのいい話に切り替えることにしました。


さて、よく「日本は模倣をするだけの国だ」とか「日本人は真似をするのがうまい」ということを言われます。
確かに日本語の文字(今ここに書いているものも)は中国由来のものです。また稲作も弥生時代に大陸から入ってきたものです(ただしこのときには人種そのものが変わりますので妥当なものかは疑問ですが)。また近代の方に移っていけば明治維新によってそれまでの幕府による体制は一気に廃止され、それまで行われていた日本の国学や和算などは消えていき西洋近代科学へ切り替えられます。憲法もドイツが主(と言われているが、まだ議論の途中)でつくられていますし、大学の制度もドイツの博士号を与えるものを導入したりアメリカでできたばかりの大学院というものを取り入れてきます。また現代でも海外の言葉をそのまま使っていたりします。
これだけ見ると確かに日本は国外から導入したことばかりでできている気がします(確実な例外は鎖国していた江戸時代の日本画くらいのものでしょうか?)。ですがそれらをきちんと検討せずに「日本は模倣しかしない」と結論してよいものでしょうか?
今回は上で挙げた事例(稲作は除きます)について少しずつ触れてきたいと思います。


まず日本の文字についてです。
確かに私たちが使っている漢字は中国でつくられてそれを使っています。
ですが「ひらがな」はどうでしょうか? あるいは「カタカナ」は?
中学くらいで教わっていると思いますが「カタカナ」や「ひらがな」は平安時代に女性貴族の手によって考案されたものです。元々は漢字から来ていますが、そこには明らかに日本人の手による介入が見られます。
また漢字には「音読み」と「訓読み」があります。音読みは(時代によって種類がいくつもありますが)中国の読み方をある程度そのまま使ったものです。対して訓読みは文字が伝わってくる前から使われていた日本語の発音を当てはめたものです。すなわち意味が近いものにそれまで口にしていた音をあてたということになります。つまり日本人は中国の文字をそのままの形で導入しつつも、その読み方には自分たちの流儀をある程度貫いたと言えます。
また中高で漢文を習うと思います。このときに「レ点」とか「上下点」なんてのを教わったかと思います。あれは元々の中国語の語順(英語のSVOCに近い)では日本語に当てはまらなかったため、自分たちの語順に合わせるように入れていったものです。これは日本人の工夫であり、そのまま中国語に移行しようとしていなかったという明確な証拠となります。
同じようなことが英語に対しても言えます。日本人は漢文の例で見られるように他国の言語に対して研究熱心だったようです。英語でよく言われるSVOC(これの並びによって英語の文の基本構造がわかるというもの)は日本人たちが生み出したと言われています。昔の日本人たちなりの、英語をいかに上手く解釈しようかという努力の成果です。
(ちなみに余談ですが、欧米の人が中国語を本格的に学ぶためにはまず日本語から学ぶ必要があるそうです。それは中国語の最も優れた辞書が日本人の手によって日本語で書かれているためです。そのため中国語の漢字を理解するためにはその辞書を使わなければならない。そしてそれを読むためには日本語が必要ということです)


次に明治維新以降の日本の近代科学の導入について見てみましょう。
明治維新がなぜ起こったのかについてはまだまだ議論の余地がありますが、単純に言ってしまえば「西欧諸国が怖かったから」です。
ペリー来航によって明確に日本と西欧文化圏の技術レベルの格差が見せつけられました。当時の日本人には鉄が水の上に浮くとは考えられなかったことです(まあ、黒船の大半は木造船を黒く塗っただけのもので、全部が鉄の船ではなかったわけですが)。
これに危機感を覚える武士たちが多数出てきたというわけです。このままではいずれ日本は攻め入れられ、占領されてしまうと考えたわけです。だからこそ日本は開国し、西欧の技術を取り入れなければならないと考えたわけです。
そして明治維新が起こるわけですが、技術を導入する際にその根幹には西洋近代科学があるのではないかとされました(ただし科学が技術に明確に貢献したと言えるのはWWIからです。WWIで毒ガスがつくられ、WWIIでは原子爆弾がつくられました。それを象徴してそれぞれChemical War、Physical Warと呼ばれます。国益に科学が役立つとしてできたドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所も1911年の設立です)。
日本人(の武士たち)は科学に自分たちの生きていく道を見いだそうとします。その際議論になったのが、西洋の科学は、科学「だけ」日本に持ち込めるかということでした。
科学の根幹にはキリスト教の影響が非常に大きく見られます(これはそのうち記事にしましょうか)。となれば自分たちもキリスト教の教義に染まらなければ西洋近代科学を身につけることはできないのではないかと考えたわけです。これに対して日本人は自分たちの道徳を貫いていいんだという和魂洋才という考え方と、(こういう言い方は見たことがないのですが)洋魂洋才が対立しました。後者はとても代表的な人物がいますね。『学問のすすめ』を著した福沢諭吉です。
これに関しては現代の私たちを考えてみればどちらがとられたかすぐにわかるかと思います。少なくとも日本人のすべてはキリスト教の信者ではないはずです。また過去の方をきちんと調べてみても(キリスト教に宗旨替えした科学者は確かにいますが)キリスト教の洗礼を受けた学者でリストのすべてを埋めることはできません。
このように日本人は西洋の科学をそのままただ真似るだけではなく、きちんとその際に議論をしているのです。また日本人固有の研究も多数なされています。たとえば旨味成分のもとがL-グルタミン酸ナトリウムであると発見した池田菊苗なんてのが代表的でしょうか。あるいは日本で流行していた脚気の研究で病気がビタミンの欠乏によっておこることがあると解明した鈴木梅太郎なんかも有名です(ビタミンという命名は結局日本人の手柄にはなりませんでしたが)。
また現代のほうに行けば技術面では日本の町工場は世界的に有名です。PCのファンはほぼ100%日本製ですし、携帯のバッテリーのプレスの技術は日本人の手によるものです(こちらは特許を取らずに惜しみなく公開してしまいましたが)。また科学実験の際に使われる地面に水平で、真っ平らな作業台は日本人が手作りしてます(この人、私が知ったときにはもう大分ご高齢でしたが、今もご健在なのでしょうか?)。あとはパンの生地などを練り上げる流動科学の知識が必要な大量生産機械をつくったのも日本人が初ですね。他にも……まあきりがないのでこの辺にしときます。こうした町工場は(もちろん西欧の技術なんかも取り入れていますが)独自に試行錯誤して製作していったものです。西欧の後追いをしているどころが、圧倒的に抜きん出ていさえします。
このように西欧の科学/技術を導入した日本は、けれども独自の歩みをきちんとしているというわけです。


憲法や大学の制度も同じです。岩倉使節団などが西欧諸国を巡ってきて、そしてそれを日本風に「アレンジ」します。けしてどこかの国一つだけのものをそのまま持ち込んだわけではないのです(だからこそどこが一番主なものなのか議論がされ続け、そして答えが出ていないわけですが)。
特に法学や文学においてはそのまま西欧のものを持ちこめないと外国へ留学した日本人の多くが感じてます。夏目漱石なんかは英文学から文学の本質を見いだそうとして失敗し、「夏目狂セリ」なんて手紙が日本に送られてきてるくらいですから。


現代の日本人が使う西洋語はどうでしょう?
これも大分日本人によってアレンジされてますね。Japanglishなんて言葉があるくらいで、日本人の感性のまま英語やその他の欧米語を混ぜてつくられた造語の類です。
あとJapanglishではないですが、「科学技術」という語は日本人の発明で、アジア諸国には伝わりますが、西欧の人には伝わらないようです。西欧では元々科学と技術は全くの別物として育ってきて(たまに影響しあうことはありますが)、そのため今の人たちも別物としか思えないようです。そのため学者間では上で書いたような「科学/技術」という表記が時々用いられます(「/」の意味はその前後で切っても、繋げてもいいですよ、という意味です。つまり「科学/技術」とかけばそれ一つで「科学」、「技術」、「科学技術」を指すことになります)。
またそのまま外国語のまま表記しなかったり、中国や韓国のように無理矢理自国の文字で当てはめないところも面白い特徴です。これはカタカナという便利な道具があったことも関係しているでしょう。原音にできるだけ近い文字を当てはめながら、一般の人にも伝わりやすいように工夫されています。上で挙げてきた例や宗教(神学)といい、日本はかなり柔軟な国のようです。これは日本に固定したアイデンティティがないということではなく、むしろその対応の早さこそが日本人の特性だとみなすべきだと考えられます。



さてはて日本ばかりが「模倣する国」と言われますが、じゃあ他国はどうなのでしょう?

肝心のヨーロッパ諸国は中国から火薬・印刷術・羅針盤と持ちこまれてきており、後々改良が加えられるとはいえ、それまではほとんど変わっていません。火薬は部屋に糞尿をためて壁に付着した結晶を取るという方法がしばらくは用いられますが、これはヨーロッパ独自のものではなく、江戸の日本でも花火用の火薬は似たような形でつくられていました(花火は火薬の製造技術が廃れるのを防ぐために幕府が推奨したものです)。ようはヨーロッパの独自性は薄いということ。最終的に大航海時代を迎えてチリ硝石という鳥の糞が年月をかけて火薬となった層を見つけるまではこの方法で火薬はつくられます。
印刷術、および製紙技術は中国から伝わってきたものからやはりあまり変わりません(伝わってきたのは11~12世紀頃)。これは木版印刷という木の板を使う――ようは版画です。あとはレオナルド・ダ・ヴィンチなどの高級職人と呼ばれる科学者に近い技術者たちが自分たちの絵をするときには銅版を用いたくらいでしょうか。最終的にはグーテンベルクがアンチモンとスズの合金を利用した活版印刷技術が発明され、それで本が安価になって広まるわけですが、この発明は1445年頃とされますからそれほど技術の革新が早いわけではないですね。
羅針盤については――技術の内容が細かすぎるので割愛します。書いても理解しきれる方は少ないと思われるので。
(なお、中国とヨーロッパの科学/技術の水準についてはジョセフ・ニーダムという中国科学史の大御所がやっています。大学に通った方なら名前は一度は必ず聞くというくらい有名な人。この人によればヨーロッパが中国を抜くのは産業革命から科学革命(終わりはニュートンの『プリンピキア』出版の1654年とされるのが通例)の辺りで一気に行くみたいですね)

じゃあ中国はどうでしょう? 自ら世界の中心であると名乗っている「中華人民共和国」です。
中国は確かに昔はまさに「中華」でした。上記の三大発明も中国における錬金術などから生まれたものですし、朝鮮半島や日本には稲作や仏教などを伝えています。
ですが16~17世紀にはヨーロッパに抜かれ、19世紀にはアメリカにも抜かれます。そして子分だったはずの日本には日清戦争で敗れます。このときには(少なくとも科学/技術の面では)後進国になっていました。
現在も――日本のことを敵視しながら――どうすれば日本のように学問の世界でトップ争いをできるか模索しています。実際中国で一流の研究者になろうとする人は日本をはじめとした他国に博士号を取りに行きます。中国内でとっても認めてもらえない状態です(これは明治・大正の日本でも同じことですが)。
どうやらいま中国内部は自分たちのアイデンティティを守るのと、一方で他国の模倣をしなければならないというジレンマでいっぱいのようです。

中国以外のアジア諸国はどうでしょう?
東南アジアは中国や韓国、台湾よりもずっと遅れています。先進国の支援を受けながら発展していこうという段階で、まだまだ自分たちのオリジナルというものが出てくるのはまだ先のことになりそうです。
また言語に関してはマレー語が世界で二番目に使われている言語ですが(一番はもちろん英語)、現在は文字は英語のアルファベットを用いてますね。発音もほとんどローマ字読みで簡明です(マレーシアとインドネシアではいくらか発音や単語が違うものがあるみたいですが、まあ日常的に使う分には問題ないはずですね)。英語のアルファベット文字を使うようになったのは、おそらく植民地時代の影響でしょう。現在でもマレー語も英語も、あといくらか日本語も混ざって看板などには表記されていて、話せる方は多いですし。ただそれまで使っていたサンスクリット文字から割合簡単に移行してしまったみたいですね。


まあ他にも南米やアフリカ、あととても大きいロシアの話とかもありますけど、比較として出すのは上のもので十分でしょうね。
こうした国々と比べてみると日本は特別「模倣する国」とは言えなさそうです。
むしろ頑固な西欧諸国と比べてしまうと、日本独自の「柔軟性」が軟弱なものに見えてしまうということのような気がします。それが「模倣するだけだ」と言われてしまう理由なのでしょうね。
私としてはその「柔軟性」こそが日本の独自性な気がします。(前回の記事と無理矢理結びつければ)それが八百万の神の住む日本の姿だなと感じます。
by zattoukoneko | 2010-03-18 02:55 | 社会・経済 | Comments(0)

お守りの中はなぜ見てはいけない?

お守りの中って見てはいけないとよく言われますよね? そして開けちゃった人は私だけではないはずw
中見た人は知ってると思いますけど、入っているのは大抵ただの木の板です(いや、一応御祈祷してもらってるはずですから「ただの」は失礼ですが)。
でもどうしてこれを見ちゃいけないんでしょう? 確かに中身が木の板だと知ったらがっかりはしますが、でもきちんと神社でつくられたものなのだから御利益は変わらない気がしませんか?
実は中を見てはいけないのはきちんとした理由があるのです。今回はそのお話。


人は大きな木や石を見つけたとき、そこに神秘的なものを感じるようです。これは世界中あちこちでそうですが(エアーズロックとか)、こと日本人においては顕著な気がします(八百万の神なんてのが出てくるのはそれが理由なのか、もしくはそれらの神々が信じられているから色々なものに神性を見出すか、それはわかりませんが)。
たとえば屋久杉なんてのは現在でも観光スポットになってます。もしくは次みたいな木を見つければ結構な数の人が何らかのものを感じるかと思います。
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で、日本人の面白いのはここからです。
大木はこのままでもとても神秘的です。ですがここに一工夫するとさらに神性が増した気がしてくるのです。
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つまりしめ縄とか、そういうものをくっつけるのです。そうすることで見た人は「ああ、この木には何かあるんだ」と思ってしまうわけです。なかなか不思議なものですね。
ですがこれからさらに神性を増す方法があります。それは――
   切っちゃうことです。
つまりなくしちゃうということ。代わりに切り株の前に鳥居を立てたり、あるいは最終的には周りを小屋で囲んでしまいます。外から見えなくしてしまうのです。
するとこれまた不思議なもので、「この中にはよっぽど大事なものが祀られているんだな」と思ってしまうわけです。これが神社というものです(もちろん神社のすべてが切り株を奉納しているわけではありません。鏡や剣を祀っているところもありますし、天皇の御霊など最初から目に見えないものを御神体にしているところもあります)。
神社の社の中には一般の方は入れないのが通常ですが、実は上のことが理由だったりします。つまり中は何もない。外から見てるだけだったら神秘的だったのに、中を見てしまったら「なあんだ」と思ってしまうわけです。その瞬間神社に対して感じていた神性はそぐなわれてしまうのです。

これがお守りにも言えるわけです。
「見てはいけない」と中身を隠されるからこそ、それを持つ人はそこに神の力を見出します。しかし中を見てしまえばそれを信じる力がなくなってしまうわけです。いくら祈祷を受けた木の板(この木の板も厳選されて選ばれているものです)が入っていようと、それに対する信仰心が薄れてしまえばお守りの効果を期待しなくなってしまいます。ですから「中は見てはいけない」と言われ、それを守るようにとされているのです。


さて、中を見てはいけないのは何もお守りや神社の社殿だけではありません。代表的なものが日本には一つあるのです。
それは「皇室」です。
私たち一般の人間は皇室の方々がどのような暮らしをしているのかあまり知りません。多少ニュースなどで流れてきはします。ですが普段どんな本を読むのかとか、どういう勉強をしているのかとか、あるいはどんな悪事を働いているのか、なんてことは流れてきません。特に一番最後のスキャンダルに該当するものはまったくといっていいほど世間に知らされることはありません(知っている人はもちろんいますし、私自身も昔のことならちょっとだけわかります)。
このような体制が取られているのは日本だけです。イギリス王室なんかはどんどんスキャンダルが報じられ、本にされて出版されています。パパラッチなんてのがよく王室の人間を追い回してますよね? そして浮気の現場なんてのを写真に収めては世界中にばらまいています。
しかし日本にはそれがない。右翼の人たちが怖いから――というのも少しはあるみたいですが――というのがすべての理由ではありません。日本人にとって皇室、およびその中の人たちというのはお守りや神社の中身に相当しているわけです。

確かに戦後の憲法で天皇も一般の人と同じ人間であるとされました。それだけ見ると天皇からは神性が取り払われてしまったかのように思えます。
ですが同じ憲法に、天皇は日本人すべての象徴である、と書かれています。つまり人でありながらまだ神聖さを保っているということです。
――と、こんなことを言うと左翼寄りの人たちが「じゃあ皇室の中を暴こう」なんて言い出しそうです(そして実際にやっている人たちがいますが)。昔の悪しき日本を引きずってる!、なんて言いながら。
ですが元々戦後の日本国憲法の草案は日本人が書き、GHQによって手直しが加えられたものです(以前ちょっと触れました)。このときにGHQ側から要求されたのが天皇を以前と同様に高い位置に置くということでした。
GHQは日中戦争、太平洋戦争、大東亜戦争でぼろぼろに疲弊した日本の状況を見て、ここに住む人たちの支えとなるようなものを置かなければならないと考えたのです。さもなければ日本国はアイデンティティを失い、国としての形を失うだろうと考えたのです。
支えとするのは天皇でなくてもよかったかもしれません(そして草案を考えた日本人自身は天皇のことを省いていました)。ですが復興を急がねばならず、そして特定の強い宗教を持たない日本においてはそれまで使われてきた「天皇」が据えるのには早かったわけです。
こうした経緯から天皇・皇室は日本国の象徴に配され、そしてその中身を見ることを禁じられました。一般の人間ではありながら、しかしそこに神性を保たせたというわけです(まるでただの木の板をお守りと言っているのと変わらないではないですか)。

皇室の方々はこのような難しいことを要求されています。普通の人間だと言われながら、神性も保たないといけないわけです。それはそれはとても窮屈な生活でしょう。生まれながらにしてそうした生き方を強いられ、それを守ってきている彼ら彼女らには敬意の念しか表わすことしかできません。
――と、私は皇室に対して思っているわけですが、現在の日本人にどれだけこういう思いの人がいることでしょう?
皇室なんてどうでもいいや、なんて感じている人がかなりの数にのぼるかもしれません。それは右翼の人にも言えることのような気がします。
私はまだ幼かったけれど、昭和天皇が危篤になり、お亡くなりになる前のメディアの報道はひどいものでした。「何時何分に下血」なんていうのを逐一ニュースにしてたわけです。心配しているからそういう話を流すんだ、と言うかもしれませんが、そこには皇室が守り続けてきた神性がない気がします。右翼の人たちはあのとき各テレビ局を襲撃すべきだったんじゃないでしょうか?
(特に昭和天皇は「天皇」という立場を最初から最後まで貫いた人物でもあります。神性を守るためにか、その伝記などは書かれていませんが、第二次大戦に突入するときは帝国憲法の定めに則り、議会の決定に従い参戦を認めました。しかし昭和天皇本人は反戦派だったことは有名です。でも「天皇」だから議会の決定を優先し、私情を消したのです。そうしなければ憲法に違反することですから――なおこれに対して明治天皇は私情を貫こうとして何度も議会と衝突しています。そして終戦の際にポツダム宣言を受け入れるかどうかを問われ――議会で決められなかったので――ここで唯一自分から戦争を終わらせるという決定を下します。そして玉音放送が行われました。終戦後は象徴天皇とされ、また重要な任務を背負わされるわけです。昭和天皇は生物学の研究者でもあったので、そちらの側面で一般の学者のように振る舞いたかったかもしれません――これは私の想像ですが。けれどそれに不平を洩らすことなく人生の最後まで「天皇」として生きた人物なのです)


さてお守りの話が随分と大きな話になってしまいました。
けれど一度考えてみるといいのではないかと思うのです。私たち日本人はまだきちんと「お守り」を持っていますか?、ということを。
by zattoukoneko | 2010-03-16 06:52 | 社会・経済 | Comments(1)

三月後半の記事予告

昨日まではチュアブルソフト様の紹介を立て続けに行いました。一月前以上から構成を練っていた、まあ結構大きなプロジェクトでした。実際記事数やその量も多くなりましたし。
今回チュアブルソフト様には画像の利用を許可していただきました。問い合わせのメールにも懇切丁寧に対応していただきました。改めて非常に良心的なソフト会社様であると感じました。この記事内にてお礼を申しあげておきたいと思います。
なおチュアブルソフト関連の記事をupしてからの訪問者数はのべで450を超えました(普段の8倍ほど)。私は特に更新PINGなどを多くのところに送信しているわけではありません。それでもこれだけの数を記録したということはチュアブルさんへの関心がかなり高いということでもあると思います。

さてちょっとビッグプロジェクトをしたのでさすがに疲れました(笑) 構成を練るのにも半月時間をかけましたし、画像の編集なども普段することではないのでそれにかなり時間がかかってしまいました。文章を書くこと自体は大した労力ではないんですけどね。
まあそんなわけで疲れましたので三月の後半は少し軽く書けるような内容にしたいと思います。本とかの紹介は骨が折れるので勘弁してくださいw
一応考えているのは、今右にあるカテゴリに物理と化学があると思いますが、これが一つも入っていないんですよね。ですのでこの辺りを埋めておこうかと。
物理については「ニュートンの万有引力は科学ではない」という話と、(こちらは歴史のカテゴリに入れちゃうかもしれませんが)ニュートンがリンゴを落ちるのを見て万有引力を発見したという話はデマだということ(ただしそれだけではつまらないのでなぜそれが広まったのかについても触れます)。
化学については……どうしましょう? 話がないことはないのですが、求められる基礎知識がかなり高くなってしまうのですよね。一応閲覧者は高校生やあるいは高いレベルでも高校の課程を修了している人を想定しています。ヨウ素デンプン反応の起こる仕組みとか色のつき方の違いとかが面白かなと思ったんですが(小学校の頃からヨウ素とデンプンの反応の話は教わりますし)、でもそのためには励起状態とか混成軌道とか当たり前のように知っていてもらわないといけないのですが……ここまでくると早慶受験者のレベルですからねえ。困ったものです。
あ、急に思いつきました。「氷はなぜ滑るのか」なんてどうでしょう? 実は他の気体や液体、たとえば塩素の氷(正確には塩素の固体)の上は滑らないんです。水だけの特徴なんですね。これの説明なら水素結合の知識だけで事足りますし。よし、これでいこう!
あとは(物理・化学ではないですが)前にちょいと触れた「お守りの中はなぜ見てはいけないか」というのが面白そうです。ゲームや物語の話からいきなり理科系の話に移ると内容が変わりすぎる気もしますのでこれを最初にしましょうか。(でも絵があったほうがわかりやすいんですよね……私、上手く描けないや……)
それと大分前に来年度の受験生用に参考書の案内も書きました。あそこからもう参考書を集め始めた現在の高校二年生はあと10カ月の受験の計画を立てないといけませんね。そのための助けとして、どのように成績とは伸びるのかについて、ブレイクスルーというものについて紹介しとこうかと思います。
それ以外には何か何があるかなあ……。
ああ、先日『サマーウォーズ』のblu-rayを買いました。劇場に足を運んではいなくて、でも『時をかける少女』は面白かったので期待して予約しといたんです。まあまだ観てないんですが(苦笑) ただその中に入っていた「ART BOOK」に、氷川竜介さんですか、この人が論評を書いているのですが、文章中に「パラダイムシフト」なんて平気で書いていて、思わず「あほか!」と大声で叫んでしまいました(上の階の人ごめんなさい……)。この「パラダイムシフト」という言葉はちょいと前まであらゆる分野で何も考えられずに使われていて、せいぜい価値観の転換くらいの意味だと思っている人がたくさんいるみたいですね。でもパラダイムシフトが(確実に)起きたと考えられるのは人類の歴史上たったの1回しかないんです。どれだけパラダイムという概念が難しくて大きなものを指すのかわかってないんですからねえ……(提唱者のトマス・クーンの著作全部読めばすぐわかるのに。せいぜい英語で5冊くらいなんだし。日本語訳は使い物にならないと有名なのでもちろん読みませんけど)。まあこのパラダイムの話は今月中にやるかどうかはさておきとりあえず保留ということで。
他には何を予告してましたっけ?(今、昔の記事を見直し中) 医療関係は――長くなりそうだなあ。Ah Experiments(「アハ体験」とか呼ばれてたやつ)の正しい解釈とかはすぐ終わりそうですね。他にはジブリ・宮崎駿監督作品の解釈について? ――ってこれは物語の話だからなかなかに重いですね。まあ彼の作品は割合簡単だからすぐに書けますけど。
ま、とりあえず「お守り」、「万有引力」、「ニュートンのリンゴ」、「氷」は決定して、この順番でいくとします。これらを書いているうちにその後の予定も決まってくることでしょう。



さてはて以下余談。ブログらしく日記風に近況報告。

先日囲碁四段の免状をいただきました。これ90,000円します。
最初「なんだこのバカ高いの」と思ってたんですけど、受け取ってみたら確かに「こりゃ高いわ」ってものでした。全文手書きだし、有名棋士三名の署名も入っていますし。(画像は載せていいものかわからないのでupしません) 個人的にはその棋士の中に依田紀基九段の名前が入っていたことが嬉しい。この人の書いた本でかなり勉強しましたからねえ。まあ一番好きな棋士は趙治勲なのですがw(今はもう25世本因坊治勲として名前が通っているみたいですね。私が囲碁を勉強したときはまだ趙治勲と表記されてたのに)
なおアマチュアは八段まであります(その上にプロの初段)。ネット上なんかで審査してもらえるのは六段までなのですが、碁会所などでプロ棋士などから認めてもらえれば申請できるみたい? ただしこのときの免状料は1,700,000円以上します。別に数字は打ち間違えてないですよ? 日本棋院さんの公式HPで確認してますし。これ、認定してもらってもおいそれと出せる額じゃないですね……。

あとは最近割合と時間ができてきて(サボっているとも言う)、久しぶりにきちんと料理なんかをちょくちょくするようにしました。一応和風きのこのスパとか簡単なものは作ってたんですけど、みじん切りとかやるのめんどくさくて時間のかかるものは二年ほどやってませんでした。でも、まあ一応やればなんとかなるもんだ。調味料の量とかどのくらい入れるものか勘が鈍ってましたが、体がきちんと覚えてくれてました。
ちなみに今日は肉入りオムレツ(というか肉の上にオムレツが乗っかったもの)とコンソメスープを製作。みじん切りとかは毎日やるのはめんどくさいので4、5日分まとめて作りました。次のが完成図。
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でもたったこれだけつくるのに1時間半かかるとは……。昔の三倍かよ……。
卵はきちんと半熟ですよー。でも欲を言えば、切ったら中から半熟の卵が!、っていうのがつくりたいのですが、(方法は知ってるのですけど)上手くできないorz なのでこれは手抜きver.
なおついこの間は唐揚げをやろうとしたら揚げ物用の鍋が錆びてました(というか腐ってたに近い)。買わないといけないなあ。
あ、ちなみにアサヒのスーパードライがお酒の中で一番好き。昔友達と「日本人の生み出した最高の酒」と意気投合しました。ドイツのビールが世界一というけど私には合わないなあ。確かドイツってエールビールですよね? エールは日本人には合わない気がするんですけど。(なお二番目に好きなお酒は出羽桜という日本酒。本当に花の香りがします。でも数年前に体調を思いっきり壊してから日本酒飲むと次の日に高確率で二日酔いなんですよね……)

その他には何かあったかなあ?
この半月はチュアブルさんの紹介に結構時間を割いてましたけど、ちゃんと自分の執筆もしてました。大体400枚くらい書いたかな? ちなみにA4で、です。原稿用紙換算にすると×4より少ないくらいになるんですかね。行変えとかありますし。ま、これはちと書きすぎ。またアウトプットするためにインプットに戻らないといけません。ドイツ語……読みたくねえよう(/ ;)

まあともかく何とか何とか生きてるって感じです。ブログの方も週に2~3の割合で更新していく心づもり。
でわでわ今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m

追記:右上のキャラに自己紹介させてみました。名前を書いた記事が大分流れたので。この子は私が大分前に書いた小説の主人公。でもお前「雪音」じゃなくて、そこから派生した「雪音っち」じゃんとつっこんでみる。
by zattoukoneko | 2010-03-15 00:51 | 雑記 | Comments(2)

チュアブルソフト紹介最終回②

さてチュアブルソフトさんを紹介するにあたって私は今まで、「チュアブルソフトさんの概要」、「各作品、『Pure×Cure』、『あまなつ』、『Sugar+Spice!』、『恋文ロマンチカ』の紹介」とやってきました。
ですがこれはすべてチュアブルさん「だけ」しか見てこなかったものです(多少他のところの話も触れてはいますが、でもそれも本当に少しだけでした)。
「チュアブルソフトとは何者か」ということを考えたとき、その見方だけでは偏ったものになります。ゲームソフトメーカー、あるいは物語製作者のすべてを見た上で、その中のどこにチュアブルソフトが位置するのかを見て、ようやくその価値がわかるというものです。
ただしすべての文学・ゲームの歴史や現状については触れることができません。私自身にそこまでの知識がありませんし、また現在大手のメーカーさんとして活動しているところでは明かせない内部事情もあります(私が知っていてもあまり大っぴらにできないことがあるのです)。それに何より数が大きすぎます。
ですので今回は日本におけるゲームや主にライトノベルの歴史を簡単に見ることしかできないと思います。それぞれについての詳細は後々書くかもしれません。
なお、ライトノベルも一般の文学も、そしてゲームも全部影響を与えあっているものです。かなり複雑な過程を経てきており、これまた全部を説明することはできません。今回はできるだけわかりやすく記述したもので、あえて誤りや抜けを含んでいる部分もあります。その辺りはご容赦ください。


さて日本には純文学とエンターテインメント小説というものがあります。これは世界的に見て奇妙なものです。純文学は文章の語りや人間の心情にこだわったもの、エンターテインメント小説はともかく読者を楽しませ、驚かせるものと考えられています。現在は芥川賞が純文学の新人に贈られるもの、直木賞がエンターテインメント小説の新人に贈られるものと区別されています。
しかしこれは奇妙な話です。純文学は人を感動させるような話は無視していいのでしょうか? あるいはエンターテインメント小説は文章をおざなりにしていいのでしょうか?
少し考えてみましょう。芥川龍之介は純文学の人間でしょうか? エンターテインメント小説の人間でしょうか? どちらかというと後者に入れられるような気がします。
また川端康成なんてのはどちらですか? ノーベル賞を受賞した彼はその日本の風情を表す文章や物語に大きな評価をもらいました。が、彼は物語の構成(「行きて帰る物語」や「喪失とその回復」)もきちんと遵守した人間でもあります。そして話も実際に面白いのです。
もっと昔までいってみましょうか? 夏目漱石は純文学ですか? エンターテインメント小説ですか? 『こころ』なんてのはタイトルの通り人の心に深く踏み込んだもので、書いてある文章の約半分が主人公の遺書だったりします。かと思えば『吾輩は猫である』なんてのは猫の視点から描くという当時としては斬新なエンターテインメント小説でした。
このように考えると純文学とエンターテインメント小説という区別は奇妙な気がしてきます。

さてもう少し文学の話です。ちょっとミステリーの方に偏ります。
京極夏彦は1994年に講談社に大量の原稿枚数におよぶ作品を持ちこみ、『姑獲鳥の夏』でデビューします。また彼のような既存の応募要項に当てはまらない作品群を募集するためメフィスト賞が設立されることとなりました。このため京極夏彦は「第0回メフィスト賞受賞者」などと呼ばれることがあります。
京極夏彦のこのデビュー作によって「新本格ミステリー」という分野が確固としたものとなったと考えることができます(それ以前から新本格の波はありましたが)。
新本格とは簡単に言ってしまえば謎ときに力を入れたものです。新本格以前はミステリーの謎とき・トリックはほとんど固定してしまっていました。火曜サスペンス劇場なんてのを考えてみればいいと思います。登場人物が変わるだけでトリックは大したものではありません。ただちょっと既存のものに手を加えただけの、消費されるだけのものでした。それも仕方ないかもしれません。トリックなんてそうそう思いつくものではないですから。だからキャラクターに個性を持たせるくらいしかできなかったと思われます。
ですが新本格は昔のように謎ときに力を入れました。新しい知見や著者の考えを導入することによって非常に読者を驚かせるトリックをつくってみせたのです。
また京極夏彦で顕著ですが、トリックだけにこだわったというわけではありません。彼の作品を実際に読んでもらえればわかりますが、そのキャラクターは非常に個性的で魅力的です。この点は新本格以前のキャラ偏重のものを取り込んだとも考えられますし、むしろライトノベルに近い節すらあります。『姑獲鳥の夏』の登場キャラは超能力なんて持ってますし、京極堂は陰陽師です。ミステリーでありながらファンタジーの要素も持っています。
ただキャラクターに魅力を持たせ、かつトリックも大事にした作品は新しいものではありません。「新」本格という言葉がそもそも間違っている気がします。江戸川乱歩なんてのはそのキャラクターにとても魅力を持たせていましたし、またコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』や『アルセーヌ・ルパン』だってキャラクターに人気が出たのではないでしょうか?(実際ホームズvsルパンの本が企画されたことがありますが、どちらかが勝つと片方を負けさしたことになり、引き分けにすればどちらかに愛着を持っている読者からは「そんなはずはない!」という反発を買うことが予想されたため、この案はなくなりました) このように考えるとミステリーはそもそもキャラクターをとても重視していた文学作品群でした。新本格はそれの復興を行い、そして現代風に大きく改定したものと考えられます。

さて京極夏彦よりは少し後ですが1994年に上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で第4回電撃ゲーム大賞大賞でデビュー、1996年に乙一が『夏と花火と私の死体』でジャンプノンフィクション小説大賞大賞でデビューしました。いずれもライトノベルレーベルですが、この二人は文壇に大きな波紋を呼びました。特に上遠野浩平の登場はそれまでのライトノベルでは富士見ファンタジア文庫が優勢だったのを、一気に電撃文庫を主流にするくらいの衝撃がありました。
彼らは(京極夏彦と同じく)様々なジャンルを掛け合わせたような作品を世に送り出しました。一見するとミステリー。でも『ブギーポップシリーズ』には超能力のようなものがあってファンタジーでもあり、SFの要素も含んでいました。乙一もミステリーが主体でありながら、どこかそれだけでは括れないものを含有していました。
京極夏彦によって設立が決まったメフィスト賞ではこうした三人の影響を受けた人物がかなり受賞していきます(メフィスト賞だけではないですが)。こうしたいくつものジャンルを内包し、既存のものに当てはめられないものを講談社では新伝綺(俗にファウスト系)として次世代を担うものとして売り出そうとしています。奈須きのこや西尾維新、竜騎士07なんかはこれに含められたりします。
ただ京極夏彦や上遠野浩平、乙一は個人のテーマを打ち出そうとしていたように感じられます。特に上遠野浩平はあとがきなんかを見れば一目ですね。それがそれ以降の作家たちには残念ながら受け継がれなかったようです。ただ読者を驚かせることに特化し、テーマがおざなりになってしまいました。もちろんそれはそれで面白いです。でもエンターテインメント小説に逆戻りしてしまった感があります。京極夏彦や上遠野浩平、乙一は純文学ともいっていいほど表現に力を注ぎ、純文学とエンターテインメント小説の融合が果たされようとしたのに、です。これはいささか残念なところです。

さて、上の純文学とエンターテインメント小説の話とも関係ありますが、ライトノベルの歴史を見てみましょう。
日本には元々ジュブナイルという分野ができそうになり、そして消えてしまった歴史があります(これは「バック・トゥ・ザ・フューチャーのテーマ」の記事内で触れました)。日本では児童文学と大人向けの一般小説しかなくなってしまいました。その間を埋める役割を果たしていたのがジュブナイルだったのですが。
そうした背景のもとライトノベル(当時は挿絵などが入っていたことからマンガ小説などと呼ばれてました)が生まれてきます。
この発生とその後の経過はかなり複雑なので、以下は相当単純化して描いていきます。
まず角川スニーカー文庫がこの分野を確立していきました。と同時に富士見ファンタジアの方で水野良らによってアメリカなどではやっていたTRPG(このときはDungeons and Dragons)を日本に紹介する試みがなされました。TRPGは『指輪物語』の影響を大きく受けてできました。つまりファンタジーが主軸ということ。このTRPGを実際にプレイしているところを記事にしていくという形で『ロードス島戦記』は始まります。そしてこれが人気を博していきます(ただしTRPGの形式から通常の小説へと移行します)。したがってこれによってライトノベルという分野ではファンタジーが主流となったというわけです。
ただまだまだ『ロードス島戦記』は昔ながらの固いファンタジーでした。これらが深沢美潮の『フォーチュンクエスト』などによってキャラクターが印象的で、若い読者にも馴染みやすいものになっていきます。特に『フォーチュンクエスト』の主人公たちは普通の中高生たちとさほど変わらない、つまり特殊な能力なんて持たない人間でした。タイトルにあるとおり、運でクエストをクリアしていくわけです。
こうした流れを受けて1989年に第1回富士見ファンタジア小説大賞で神坂一が『スレイヤーズ!』で準入選し、その後シリーズ化されるや爆発的なヒットをします。神坂一の各キャラは現実世界にはありえないほど飛びぬけていて、それでいて親しみの覚えるものとなっていました。この影響力は大きく、以降ライトノベル=キャラクター小説となったほどです。またキャラ造形はどんどんと深められ、(前々から生まれつつはありましたが)「燃え」という日本特有の新しいキャラクターへの愛着が誕生していきます。今では「萌え」と表記されるものです。
「萌え」の誕生は文学の世界において良い面と悪い面を生みました。
良い面とはそれまでキャラクターは心理学のような難しい背景知識や実体験からつくりあげられてきました。しかし「萌え」は心理学の性格を単純化・記号化します(たとえばツンデレなど。元々心理学ではきちんと分類されていた性格の一つです)。また眼鏡や制服、ツインテールといったような「萌え属性」という細かいカテゴリもつくっていき、それらを組み合わせるだけで簡単にキャラクター造形ができるようになりました。「萌え属性」は(万人受けではないですが)受け手に単純に魅力を伝えることができるため、人気も取りやすくなりました。
悪い面は「萌え」に偏りすぎたことです。小説においてキャラクターは大事だということは神坂一によって明確に示されました。しかし大分前に『闇の運命を背負うもの』を紹介したときに書いたように、神坂一はテーマもとても大事にしていました。同時期にライトノベルの地位をかっこたるものとしたあかほりさとるなんかも同様です。表面的には明るい文章、キャラクターですが、その背後のテーマはかなり重厚でした。ですがそれをきちんと受け継ぐ作家陣はほとんど出てきませんでした。書き手ですらそれですから読み手も同じです。ただキャラに魅力があれば売れるという状態を招いてしまいます。(またライトノベルが隆盛を迎えたことで、出版社は人材確保のため同人の世界から多くの人間をプロにします。ですが彼らはせいぜいキャラしかつくれないような人ばかり。あっという間にライトノベル界は揺らぎます)
ここに出てきたのが上遠野浩平でした。彼は(キャラも尊重しながらも)いかに物語をきちんと描くことが大事かを示します。だからこそ揺らいでいたライトノベル界は電撃文庫によって主流をとられるわけです(が、まだまだ「萌え」の悪い影響は残っていますが)。


「萌え」の概念を大きく導入したのは小説界だけではありませんでした。ゲームソフトの製作者、同人で活動する者たちに広く受け入れられました。何せつくりやすいですから。そして特段物語に興味のない人たちにはそれで満足だったわけですから。
そして同人からアダルトゲームメーカーとしてプロの商業界に出ていく人たちがたくさん出てきました。現在のアダルトゲームメーカーの乱立している状況はこれが理由です。当然のことながら彼らの多くには力がありません。せいぜい性描写をいれて、萌えを入れて、それで買ってくれる人に小規模に活動していくだけで(自己)満足していたというわけです。当たり前のように彼らは任天堂やセガ、スクエニといった大手に敵うわけもありません。エニックスは元々アダルトゲームを製作していましたが、『ドラゴンクエスト』などによってきちんと大きな会社へと成長します。この当時に今のようなアダルトゲームメーカーが出てくれば即刻潰れたことでしょう。けれど運が良かったのか悪かったか、出来損ないでも構わないと思ってしまう人たちがすでにたくさん出てきてしまっていました。それは大きな市場であり、「アキバ系」というおかしな世界をつくってしまいました。「アキバ系」は一般の目からもまた内部の人間からも外の世界とは別物とされてしまいました。そしてそれが当たり前のように思われています。確かにマンガやゲームはサブカルチャーですが、「アキバ系」はその中のさらにサブカルチャー(どころか差別対象)に貶められています。――自覚を持っている人は少ないのでしょうけれど。
ですが本来であれば同じ物語、ゲームの製作者として大手の企業と競争すべきであり、そしてそうすることでもっと飛躍できるはずなのです。


ではチュアブルソフトさんは上のような社会的背景を踏まえたうえでどのような立ち位置にいるのでしょう?
チュアブルさんは「Medicine」をつくろうというきちんとした独自性、テーマを抱えています。またキャラクターの造形に相当な力を入れており、「萌え」を利用しつつもそれだけに流されない魅力ある、自然な人物像を描いています。物語の構成も抜群です。これらは新伝綺やただ驚かせればいいと考えているエンターテインメントに特化したものとは違っています。
また細かなところに配慮するなど大手のゲームメーカーとも競合できるような見どころをたくさん抱えています(まだ人材や資金などの物理的規模の差が大きすぎるのでその差は大きいですが)。『Sugar+Spice!』ではゲーム性も大きく向上させてきました。
チュアブルソフトさんは今はアダルトゲームメーカーで、対象にしている市場も一般のゲーム会社のものとは異なっています(市場に関しては社会が二分されているのだから仕方がないです)。今後チュアブルさんがどのような方向を目指すかはわかりません。アダルトゲームメーカーから脱して大手ソフトメーカーと戦い始めるかもしれませんし、ADV以外のものに挑戦するかもしれません。あるいは今の路線のままで育っていくかもしれません。(今すぐ大手と戦うのは厳しいでしょうが)どちらの道を選んだとしても大きく発展する可能性を秘めたメーカーであると見ることができるかと思います。


さてはて以上がチュアブルソフトさんの現在の立ち位置かと思います。今後どうなるのかというのは非常に興味深いところがあります。(そして私はそう思ったからこそ前々から応援しているという次第です)
チュアブルさんは現在新作の製作に取りかかっています。『Sugar+Spice2』だそうです。キャラは違っていますが、タイトルからすると『Sugar+Spice!』のシステムにかなり近くなるのか、あるいはその発展形をつくるんでしょうか? 物語構成は『恋文ロマンチカ』で大分完成しましたが、その上を提示してくれるんでしょうか?
いずれにせよ今後の動向が楽しみなメーカーさんだと言えると思われます。
チュアブルソフト公式WEB
by zattoukoneko | 2010-03-14 12:12 | ゲーム | Comments(7)

チュアブルソフト紹介最終回①

今月の半分を使ってチュアブルソフトさんのことについて書いてきました。今回はそのまとめを行いたいと思います。
ちょっと振り返ってみると最初にチュアブルソフトさんについて触れました。そして各作品の紹介、『Pure×Cure』、『あまなつ』、『Sugar+Spice!』、『恋文ロマンチカ』と四つの記事に分けてみてきました。
それぞれの記事は独立のものとして読めるものとして書いたつもりです。と同時に繋がりのあるものとしても記述しました。それは「チュアブルソフト」というものがどういう歩みをしてきたのかをそこから見えるのではないかと考えたからです。
今日upするチュアブルソフトさんの紹介、最終回は、それを整理するためのものと、そしてチュアブルソフトさんをあらゆる文学やゲームの中のどういう位置づけであるかということを考えてみるという意味合いがあります。そのためあえてその二点について記事を分割しました。
今回、私ちょっと本気で書きたいと思います(別に今まで手を抜いてきたというわけではないですが、頭の回転具合がそれなりに違うという意味です)。かなり難しめになるかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。


さてチュアブルさんの過去作品を見てくる中で多くのものがわかってきました。変わらずあるもの、そして変わったところ。それをまとめていきましょう。

まずチュアブルさんの送る作品は『Medicine for your mind.』を強く意識したものだということ。これは設立当初から現在に至るまで変わらなかったことです。
「Medicine」であるためそのストーリーは受け手にすんなりと受け入れられやすいものとなっており、そして心を揺さぶってその感受性を喚起するものとなっています。現代社会のように頭で、理屈で、物事を考える割合が多くなっているところに、心や感情の大事さを思い出させてくれる、人間としての大事なものを思い出せてくれる、だから私たちはチュアブルさんの作品で癒されるのです。
そのような作品であるためストーリーの展開はとてつもなく突拍子のないものを描くことはありません。これはまとめのもう一つの記事で書きますが、現在日本(いや、かなりの先進国)の多くの物語がいかに読者を驚かせるかに偏ってきています。そして受け手もそれに慣れつつある。しかしオーソドックスなストーリーでもそれをきちんと深く、鮮やかに描くことで人を感動することはできます。むしろその方が人の自然な感情を揺さぶってくれるようにも私は思います(たとえばお笑いでもベタなものでも使い方やリズムによって、すごくこだわってつくられたものより笑えるはずです)。
確かに展開も受け手にまったく予想もつかないものになって、それでも「Medicine」となるのならそれに越したことはないでしょう。しかしそれはとても難しいもの。チュアブルさんはどちらかしか選べないとしたら「Medicine」であることを選択するでしょう。また私自身がそうであってほしいと思います。それがチュアブルソフトとしての個性なのですから。

物語の構成については各作品紹介で毎度見てきました。
チュアブルさんは
①主人公は序盤で何かを喪失する(あるいはしている)。
②主人公に課題が提示される(チュアブルさんでは主に恋愛)。
③主人公が課題に取り組むとともに、喪失していたものに目を向けることになる。
④課題を克服する。と共に、喪失していたものを取り戻したり、代わりのもので埋め合わせる。
という物語の基本構造をしっかりと守っています。
特に『あまなつ』以降では主人公の喪失が過去とも深く結びついていて厚みを増す傾向にあります。
さらに一番新しい作品である『恋文ロマンチカ』ではこの喪失の克服(上の④)がこれまでの作品のなかで一番明確に描かれました。つまりこの四作目にして上記の構造を完璧なものにしたと考えることができます。
後々ジブリ、宮崎駿監督作品についての記事を書く予定でいますが、彼も上の構造と大分近いものを使用しています。が、彼もこれをきちんと扱えるようになったのは『もののけ姫』かあるいは『千と千尋の神隠し』からで、『ハウルの動く城』で確実に意図して使ってみせました。つまり日本を代表するようなクリエーターである宮崎駿ですらこの構造を扱いきれていなかったということです。(村上春樹は『ねじまきクロニクル』でようやくって感じでしょうか?) ですからチュアブルさんが特別これを習得するのが遅かったということではありません。むしろそれを意識して使おうとしていたという点で他の作家よりもかなり進んだ立ち位置から始まったと言えるかと思います。

さて構造については先の節で述べたとおりですが、それを守れば良い作品ができるわけではありません。宮崎駿もおそらく一人ではここまで世間に受け入れられることはなかったでしょう。彼の作品を彩る絵や音楽が彼の世界観を見事にひきたてているのです。
チュアブルさんはぎん太さんというとても透明感のある、そして雰囲気を見事に描き出す原画家を抱えました。また音楽の面でも主にけんせいさんが担当し、素晴らしい楽曲を提供しています。これらがなければストーリーを統括する草壁よしおさんもその物語を活かすことはできなかったことでしょう。
それと『恋文ロマンチカ』の記事で述べたように、チュアブルさんはキャラクターの心情を深く掘り下げ、それによって物語を展開していっています。この点に関しては私がこれまでに紹介してきた、『スレイヤーズシリーズ』著者神坂一、『クレヨン王国』著者福永令三、『ブギーポップシリーズ』著者上遠野浩平、『FINAL FANTASYシリーズ』や『キングダムハーツシリーズ』のSUQARE ENIXさん、あるいは今後取り上げるつもりでいるジブリの宮崎駿、『夏と花火と私の死体』などの著者乙一、『京極堂シリーズ』著者京極夏彦、そのどれよりも優れています。(ただしこれはチュアブルさんが物語の奇抜さよりもキャラクターの心情に重きを置いているからと考えることができ、他の作家が劣っているということを私は意味していません)

ここからはゲームとしての側面に主に焦点を当てていきます。

チュアブルさんはADVを中心に制作しています(まあ製作者の人数からしてRPGなどはきつそうです)。
『Pure×Cure』や『あまなつ』はオーソドックスなADVで、選択肢などによるエンディングの変更などもほとんどありませんでした(各ヒロインへの個別ルートに入る選択肢はもちろん大きく作用しますが)。
これは第三作目の『Sugar+Spice!』で転換期を迎えます。ショートエピソードを自分で選ぶ形式をとることで『Sugar+Spice!』では「オトメカイセキ」を進めたりエピソードの回収というゲーム性が増しました。『恋文ロマンチカ』でも同じ形式が採用されており、「オトメカイセキ」はなくなったものの、エンディングが複数用意されるなどの工夫が見られます。
メインストーリーに割かれる割合が減った分、物語としては落ちてしまいましたが、ゲームとして考えるならば大きな前進です。(今後チュアブルさんはゲーム性も意識しつつ、物語をさらに深めていくことになるのでしょう)

また小物にこだわったり、画面の端々に細かい遊び心があるのも特徴です。
実は『FFIII』では各ゲーム会社が同じようにSQUAREさんのそうした遊び心を研究したという歴史があります。まだまだドット絵で画像の荒い中、それでもSQUAREさんはキャラの動きなどにこだわり、その動きのかわいさに各ソフト会社さんは度肝を抜かされました。また『FFV』キャラクターに喜怒哀楽の表情を取り入れましたし、『FFX』などではバックの植物が風になびいていたりします。また『FFVII』のスノーボードゲームのようにミニゲーム単体ですら一本のソフトとして販売できるのではないかというものも盛り込んでいます。
チュアブルさんは製作者の数や機材、資金の面でSQUARE ENIXさんのようなハイレベルなものまでは作れていません。が、細かいところにこそこだわりを持つべきだという姿勢は全く同じなのです。立ち絵や服装が豊富なのがもっともそれがわかる点でしょう(ストーリーを伝えるだけならあれだけの数はなくてもいいはずです)。


以上が大まかなまとめとなるでしょうか。
チュアブルさんはまだ規模として小さい会社です。ですがそのかしこに今後発展していくのではないかと予見できるものがあります。
今後どのような方向に向かっていくかはわかりません。エニックスさんのようにアダルトゲームメーカーからRPGなどを中心とした会社になるかもしれませんし、あくまでADVにこだわるかもしれません。会社の人数や機材も大手ゲームメーカーさんのように揃えてくるのかどうかはわかりません。この辺りはスタッフさんの意向によるでしょう。けれどもどのような道に進もうとも「チュアブルソフト」は確固たるブランドとなるだろうと私は思っています。
(まあ世の中世知辛いですから、いきなり人気がなくなるなんてこともあり得ますけど。特に小規模のメーカーさんは一作駄作を作ってしまえばそれだけで倒産だってしかねませんし)


さてまとめの①はこのくらいでおしまいにします。
続けて②を書いていきます。数時間後にはupすることでしょう。この記事よりもはるかに難しい内容にしますが、お付き合いいただけると幸いです。
チュアブルソフト公式WEB
by zattoukoneko | 2010-03-14 09:37 | ゲーム | Comments(0)