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2014年イグノーベル賞:バナナの皮を踏める人

さる9月18日、2014年のイグノーベル賞の授賞式がありました。
公式サイトで各賞の内容を見ていた私は、生物学賞の「犬はトイレをする際、地磁気の南北に体の軸を合わせようとする」というのを読んで、思わず『ワンコってクルクル回るよね><』と萌え萌えしてしまいました。萌え萌えするだけでなく、その行動に意味があるんじゃないかと研究された方は、きっとワンちゃんへの愛情が飛びぬけて深いのでしょう。私もそんな研究がしたいなって思うほどです。
ところで、筆名から察しが付くと思いますが、私は猫好きです。ですのでこの生物学賞の一つ上にあった公衆衛生賞の「猫を飼うと鬱になる」の項目は、全力で気にしないことにしたのは言うまでもありません。
結論:かわいければいいんだよ!

さて、ここのブログではしばしば「ノーベル賞は社会に貢献したという即物的な結果を重視してるけど、イグノーベル賞は科学の手法(≒科学論)の側面から興味深いと思われる研究に賞を与えている!」という旨の主張をしております。
と同時に、ここ数年イグノーベル賞は日本人が連続して受賞しているものでもあります。
この二点を合わせると、日本人の科学研究は(実績こそイマイチだけれど)内容は素晴らしいものなんじゃないか!?、という見解が出てくることでしょう。これが正しければ、日本の科学の未来も明るいと言えるでしょう。
ですが、実際にはビミョーな感じでして。これは私の主観を多分に含んでの感想ではあります。しかし海外の科学記事を見ても、日本人が獲ったものについては小さな扱いばかり。科学論的に重要というよりは、どちらかというと笑いのネタにされているのかなって印象を抱いていました(だからこのブログでは日本人受賞者は記事にしていない)。そもそもイグノーベル賞が笑いの要素を内包しているから、純粋に科学としてどうこうという評価はしづらいのですよね。

けれど今年物理学賞を受賞した馬淵清資さんらのバナナの滑りやすさの研究については、注目するに値する気がします。BBC ScienceやNew Scientistといった海外の科学記事もバナナの研究にそれなりの紙面を割いていました。ではどこにイグノーベル賞を与えるだけの価値があったのでしょう?

「よくお笑いのバナナを真剣に研究したな!」というのももちろんあるでしょう。馬淵さんは人工関節について研究していて、バナナの滑りやすさについて調査したデータがないと気付いたそうです。ここで想像してみて欲しいのですが、あなたが大学生だとして、ゼミで「なんでバナナって滑るんだろう……? 研究しようかな」と発言したとします。ゼミ生から嘲笑の的にされることは容易に想像がつくと思います。バナナは関節じゃないし、よしんば研究の役に立ったとしても寄り道だと思われるからです。馬淵は、その関心を真剣に受け止めてくれる方に恵まれていたのか、笑われても気にせず我が道を貫いたのか、はたまたそもそも他人に打ち明けなかったのか、その辺りの事情について私は知りません。何にせよ、その寄り道をしっかりやろうという馬淵さんの研究者精神は素晴らしいものだと思います。これは受賞者として選ばれるに十分値するものと考えます。

加えて、その研究の丁寧さも注目に値します。論文「バナナの皮の潤滑油効果」は発表された直後から割と話題になっていたように思います。テレビ(だったかな?)でも取り上げられることがあり、すでに内容を知っていた人も多いのではないでしょうか。
英文ですが、論文を読めるところを紹介しておきます。 Frictional Coefficient under Banana Skin(PDF)
バナナが滑るか否かを調査しようと思ったとき、それを調べるには何をすればいいでしょうか? とりあえずバナナを踏んでみる? 体育館に敷き詰めて、その上を走ってみる?
私が重要だと見るのは、先のリンク先のp. 149にある図表です。あるいはそれ以前にある摩擦係数の数値化。バナナを踏んで滑る体験をするだけでは、どこまでいっても科学知識になりません。数値化することで客観性を持たせ、他の材料と比較することで滑り「やすさ」を導く。この過程は科学(に限らず学術)研究では非常に重要なものです。
学術研究は主観性をいかに排するかの戦いとも言えます。実際にはどのような研究でも社会通念の影響を受けるとされているのですが(「科学知識の社会学」をご参照ください)、研究者は自分の主張がいかに万人に共通のものであり、地域や文化の壁を越えて普遍的なものであるかを読者に説明しようと試みます。その際に数量化は近代科学の重要なツールと見做されており、さらに現代では統計処理することで有意であることを見せようとします。
これは研究をしている者ならば呼吸をするかのごとく身に付いているべきこととされており、しかしながら実際には9割以上の人は出来ていないと嘆かれるものでもあります。投稿論文の途中過程を何らかの場面で見たことがある人は、この事情が納得できることと思います。査読者から「統計処理がなってない」とコメントが付いて戻ってきたり、それどころか投稿前に指導者から注意されているのを見たり。先行研究がないものになると、この傾向は加速します。あるいは人文科学になると統計処理が端から頭になかったりすることも(例えば、昔の医療の状況を調査しようとして、それは歴史学だからと史料を漁るだけで満足するなど。世界に一つしかない文献を調べられるのが歴史学的手法の強みですが、症例数のように多くのデータがある場合は、他地域・他時間軸と比較して有意差の有無を調べなければ怠慢以外の何物でもなく、主観が入り込む虞すら出てくるのです)。
馬淵さんらはバナナの皮という先行研究のないものに挑みながらも、日常的にやる科学の手法をきちんと踏襲していると言えます。Fig. 7に参考文献の注が付いているのも憎いですね。
私はこの実直な科学的態度が受賞につながった理由だと感じます。

馬淵さんらのバナナの研究は、派手さはあまりありません(比較するとするなら、昨年のタマムシ研究など。セレンディピティのような最近注目されている概念が受賞理由として垣間見れます。参考:昨年の記事水の上を走りたければ、月に行けばいいじゃない!)。それでも科学研究に誠実であること、その意義を伝えるものとして、研究者は見習うべき姿勢がそこにはある気がします。
道路に落ちているバナナを見たとき、何も気にせず通り過ぎるのではなく、社会的道徳観に則って拾ってゴミ箱にポイするのではなく、『これって踏んだら面白いのか?』と本当に踏んでみる。踏んだらその経験を他人に語り聞かせるために説得力を持たせようと考察してみる。それが出来てしまう人が如何に一握りの人間であるか。そのように考えると今回の受賞の価値がわかるのではないでしょうか。
by zattoukoneko | 2014-09-21 23:44 | 物理 | Comments(0)

水の上を走りたければ、月に行けばいいじゃない!

先日の9月12日に2013年のイグノーベル賞が決まりました。
今回はその中の一つである物理学賞を取り上げるのと、イグノーベル賞そのものについての私の見方など。

まず、イグノーベル賞とは「笑わせてくれ、考えさせられる研究・成果」に与えられる賞です。
ざっくり言ってしまえば、「いい研究だけど、これにはノーベル賞あげられねーw」というものに賞を与えます(ですのでノーベル賞では故人は受賞の機会がありませんが、イグノーベル賞では受賞資格がある)。中にはイグノーベル賞自身が“笑わせ、考えさせる”になっているのでは、と感じるものもあり、1991年に水爆の父エドワード・テラーが「平和のに身を考えさせることになったため」で受賞しているのが何だか皮肉っぽいです。
先の「ノーベル賞あげられねーw」の理由は様々で、声を大にして言いたくないなってものもあれば、社会の益にはならないからというものもあります。なおノーベル賞は社会の発展に寄与する(もしくは、寄与すると予見される)研究に与えられるものです。そう考えると、一見バカバカしいイグノーベル賞受賞研究こそが、純粋無垢な科学研究の姿なのかもしれないとも思えてきます。
イグノーベル賞と科学の関係については後述するとして、せっかくなので今年の受賞研究にも触れておこうと思います。

取り上げるのは物理学賞。「月面での重力下であれば人間は水の上を走れる可能性があることを実験によって示唆ことに対して」でAlberto Minetti、Yuri Ivanenko, Germana Cappellini、 Nadia Dominici、Francesco Lacquanitiが受賞しました。
受賞理由だけだとよくわからないので、簡単に解説。
トカゲは非常に短い距離であれば、水の上を走って渡ることができます。これを真似して、急いで左右の足を出していけば人間だって水の上を走れるはず――というマンガがあったような気がします。
では本当に可能かどうかを計算してみたところ、人の体重を水の上に乗せるにはとんでもない筋力が必要だとわかったのです(余談ですが、人が空を飛ぶとしたら、羽を動かすためには胸囲が3メートルくらいないといけないんだとか。それと似てますね)。
ですので人間が水の上を走るのは不可能――だったら、重力の少ない月で走ればいいんじゃね?
――ということで、これを実験しちゃったわけです。月面上と同じ重力下で試した結果、6人中4人が、水の上を10秒間走ることができたとか。
「そんなに水の上を走りたいなら、月に行けばいいじゃない!」→「(゜Д゜)?!」となったので、イグノーベル賞というわけ。
注。実際の考察はそんな言葉遣いしてませんでした。
社会の役に立つかどうかだけなら地球上では水の上を走るのは不可能とわかっただけで十分なのに(いや、そもそもそれを調べること自体が有益がどうかも疑問ですが……)、月ならばどうなのかという徹底した調査っぷりがいいと思います。
それは近い未来に人類が月で生活するから――ではなく。要請(=最初の仮定)から重力が大きな足かせになると出ているので、そもそもその前提が正しいのかどうかを調べたものだからです。仮に地球の1/6の重力しかない月面上でも水上走行が出来ないとなれば、重力や、それに抗う筋力だけが問題ではないとわかるからです。そうなれば更なる研究・調査が必要になりますね。
……もし月の重力でも走れなかったら、トカゲの体の構造から未知の部分が見つかることに繋がったり、不思議な力が仮説として出てきたりしたのかも? それだったらノーベル賞になったかもしれないけど、それ以前にSFですね。

物理学賞についての話はこのくらいにして。
このように見てみると、イグノーベル賞は科学者の活動について多くの示唆を与えてくれるような気がします。科学研究はどのように行われるべきか、そのお手本を示すような事例に賞を与えるようにしているのではないか――とも思います(他の例も挙げますが、話がごっちゃになりそうなので後回し)。
ただし『イグノーベル賞を通じて』と『実際の科学活動の場で』研究を見るのとでは、やはり大きく異なるものです。実験室研究などと呼ばれる、研究者と一緒に生活しながら、日常の発言まで記録しながら科学活動はどのようなものか調査するというものが一昔前には流行っていたこともあります。それによると「科学とはこういうもの~」という理論と実際とでは違ったとか。ラトゥールのアクター・ネットワーク理論とかその辺りだったと思うので、誰か説明してぷりーず!(マテ
いずれにしても、イグノーベル賞の目の向いている先が科学活動の考えさせられるものであるならば、それを足掛かりにして科学の在り方に思いを馳せることも出来るのではないでしょうか。

そうしたものとして興味深い受賞例を一つ。これは今年ではなく、2011年の生物学賞です(ブログ記事にしたつもりだったのに、あれー?)。
タマムシの仲間が、ビール瓶をメスと勘違いして交尾をしようとすることがある、という発見に対して与えられたものです。
これだけだと『なんだこりゃ?』とか『タマムシってバカなんだなw』で終わってしまいそうですが、この研究が示唆しているのは姿かたち(や、その他いくつかの条件)が似ていれば、本物でなくても異性と思って興奮する可能性がある、ということ。こういう事例は割とよくあるし(水族館のイルカに抱き心地の良いパイプを上げたり)、そうした勘違いが昆虫にもある、あるいは逆に高等生物でも同じ仕組みで起こっているのかもしれない、という具合に広がりが出てくるものです。なるほど、通りで日本人は二次元に以下自重。
研究成果そのものの広がりにも興味が湧きますが、ここではイグノーベルがこれに注目したということについて。
この研究で観察されていたのは、オーストラリアの砂漠にいるタマムシだそうです。ビール瓶はそこに転がっていたもの。イメージして欲しいのですが、あなたは砂漠の中を歩き回り、タマムシを探しています。陽の照る中、視線の先に黒っぽい、目当てのタマムシらしきものがいます。けれど近寄ってみたら、ただの空き瓶。『ハズレかよー』と溜め息を吐きながらよくよく見たら、瓶よりはちょっと小柄なオスのタマムシが。しかもそいつは交尾をしようと頑張ってる最中。あなたはきっと思うことでしょう。『こいつバカだなw』と。自分も間違えていることは棚に上げつつ。――イメージですよぅ!
ともあれ。砂漠の中に落ちているゴミ。そこに乗ってたタマムシ。交尾してるからといって、普通は『たまたまだなー』とか『そういうこともあるだろうな』と片付けてしまうのではないでしょうか?
受賞したD.T. GwynneとD.C.F. Rentzはこれを見逃さなかった。何かきちんとした理由があるのではないかと調査をすることにした。これが成果となって、(イグノーベル賞ではありますが)認められることになった。
こうした能力のことを「セレンディピティ」と呼んでいます。

セレンディピティについてちょっとだけ。
日本語に訳すのが難しい語のひとつとされていて、また概念としてもちょっと捉えにくい。誤解されている単語のトップ5に入りそうな気がします。
「失敗したときに成功への道を見逃さない能力」とか「幸福(な偶然)をつかむ能力」、もっと端的に「閃き」だと思われています。外れてはないのですが、他のものと混じりそうな気がします。成功失敗にかかわらず、本来であれば見逃してしまうようなものに目を留める能力、という感じです。なのでタマムシはその事例としてわかりやすい。
セレンディピティの有無は先天的なものだと言われています(ですので自己啓発本などに書かれているのはまず役に立たない)。それに加えて多くの経験を積むことが必要だとされ、そうした中から『こういうこともあるよなーw ……本当にそうか?』となるようです。この『……』のところがセレンディピティなんだろうというのが、私の捉えているところです。

イグノーベルに話を戻して。
セレンディピティが果たして本当に先天的なものかどうか――という議論も面白そうですが、少なくとも科学活動の中でそれが働いている場面というのは実は多いと思います。ノーベル賞などをもらって、社会的にまばゆいばかりのスポットライトが当たるのはその中の一握り(なお、ノーベル賞には「生理学賞」はあっても「生物学賞」はないので、そもそもこのタマムシ研究は受賞することはないです)。
科学活動とセレンディピティに関係については、今後さらに注目されていくだろうと感じています。そのときにイグノーベル賞受賞者に焦点を当ててみるのは、結構面白いんじゃないかと感じています。

以上、二つの事例を持ってきて、「イグノーベルは科学研究を考察するのに使えるんじゃないかなー?」と言ってみました。
他にも多くの受賞者がいるし、そもそも科学だけが賞の対象ではありません。また途中でもちらっと述べましたが、ここで話しているのは現場を見ないで、他の場所で考察されていることと照らし合わせただけ。あくまで「これって面白いんじゃあ?」という感想、よくて示唆です。
日本人の受賞者も出ているからか、社会的にも注目を集めつつあるようだし、対象となる研究がいわゆる科学の本筋とはちょっとずれてますが、いい研究・調査として……イグ科学論研究ってつかないといいなー?
by zattoukoneko | 2013-09-14 00:17 | 物理 | Comments(0)

2010年、ノーベル賞を逃した日本。

去年の2010年に日本人の根岸英一さんと鈴木章さんがノーベル化学賞を受賞しましたね。受賞の理由はクロスカップリング技術の開発に貢献したからですね。同時に受賞しているリチャード・ヘックという人物も同じですが、各人で手法は異なります。まあ内容としては大学の化学科に所属する学部生の教科書に載っているようなものなのでざっくりと述べますが――
そもそも「カップリング反応」というものの中の一つとなります。(有機)化合物の結合を行なう際に、同じ構造のものを結びつけるならホモカップリング。別の構造のものを結びつけるならヘテロカップリング、またはクロスカップリングといいます。
薬品の構造式を風邪薬などのCMなどで見たことがあるかと思いますが、大抵はベンゼン環が複数繋がっています。しかしながらこの反応を起こすのが難しく、様々な触媒を用いて成功させようとしていた時期があったのです(根岸さんや鈴木さんはこの触媒やそれを用いた反応に差があるということになります)。今では当たり前のように身の回りに安価に溢れている薬品ですが、これらはこのクロスカップリング反応の誕生がなければ成り立たなかったものなのです。ですからノーベル賞委員会は後世に多大な貢献をした研究として根岸さん、鈴木さんに化学賞を授与したのです。もともとノーベル賞というのは後世の社会福祉に貢献するような研究に与えられるものですからね。とても納得。

さて、これはとても喜ばしい報せではありますし、日本で「クロスカップリング」の言葉を知らない人が珍しいんじゃないかというくらいに話題になりました。ですが……先ほども述べましたがこの反応に関してはすでに大学の“教科書”に載っているようなもので、化学をある程度勉強したことのある人なら根岸・鈴木という名前は何度か耳にするくらい有名なのです。正直な感想としては、『あ、ようやく?』という感じです。今の化学はもっと先のことに着手していますし。
もちろん根岸・鈴木両名の功績は称えられるべきであり、その価値は揺るがないものです。しかしノーベル賞の問題点の一つとして“受賞させるまでに時間がかかりすぎる”という点があります。これは実際に社会に貢献があるかどうかということや、他の研究者から認められているかどうかということが勘案されるからです。
カップリング反応に関して熱心に研究が行なわれていたのは1970年代です。つまり40年も前。これでも受賞は早いほうだったりしますが、そのくらい時間がかかるのです。ちなみに1970年代だとようやく社会に「環境問題というのがあるらしい?」と認識され始めた頃。日本には72年に環境庁ができていますが、これは環境問題を扱うものというよりは公害や公衆衛生を扱う部署でした(一部の人物のみが世界的な動向を見ていたようではありますが、まだ酸性雨やオゾンホールなんて知られていない時期です)。現代では環境問題というものを目や耳にしない日はありません。ペットボトルはリサイクルしやすいように改良されてきましたし、ゴミの分別なんていうのも当たり前。車はどんどん低燃費になってCO2をほとんど出さないものなんていうものの開発にメーカーは力を入れています。そう考えるといかに時代が変わっているかわかりますよね。科学の世界も同様に新しい問題を見つけてそれに取り組んでいます。なので『あ、今頃クロスカップリングなんだ?』という感想になってしまうわけです。


一方、ノーベル物理学賞で名前が出てきたグラフェンは学会にセンセーションを巻き起こしました。何せこちらは注目されだしてからせいぜい10年での受賞なのですから。
グラフェンに関してはよくわからない詳細に述べるのがちょっと難しい感じです。見てみたらwikipediaにも項目がありましたので検索をかけて見てみるといいと思いますが――数式で頭が痛くなること間違いなしです(苦笑) ここでは本当にざっとした説明と、この受賞によって起こった、しかしほとんどの日本人が気付いていないことを述べるに留めようと思います。
グラフェンの画像を見たことのない人もいるかもしれないのでリンク。こんな感じです。グラフェン画像集このように蜂の巣構造をした薄いシートのようなものがグラフェンです。炭素原子から出来るものに黒鉛がありますが、あれはあの蜂の巣構造が幾重にも重なってできたものです。そういう意味では黒鉛などの他の同素体の基本構造とも言えます。
しかしグラフェンの大きな特徴として、とてつもなく薄いにもかかわらず不透明度が高いということ。これはもう一つの大きな特徴である電導性と関係があります。物質中を電気(物体としては電子)が移動するには低温の方がよいのですが、常温でも銀より抵抗が少ないくらいです(ちなみに電線は銅を用いていますが、効率としては銀を使ったほうがよいのです。金属の中では一番常温で電導性に優れていますから。実際に昔は銀を使用したこともあるのです。でもまあ銀ですからね、盗まれちゃうから銅に切り替えたというお話があったりします……)。その他量子力学のかなり難しい話になるのでざっくりカットですが、電子の振る舞いからエレクトロニクスの分野で使えるのではないかと考えられています。
どういうことかというと今まではケイ素からできていたシリコンを半導体として利用し、コンピュータや携帯端末を製造していました。けれども現在ここにグラフェンを利用できるのではないかと熱心に研究されているのです。これが実現すれば非常に軽量でありながらこれまで以上に電気信号を効率よくやり取りできるような電気素子がつくれるということです。またこの辺りは色々研究されている途中のようで、これは私も本当に詳しくないのですが、どうやらシリコンに比べてずっと軟らかいみたい? 指でつまんで曲げてみせている画像を見たことがありますが、こうなるともう『ハード』という感じではないですねー。……質感が人間そっくりのメイドロボへの布石か(ぇw
まあこんなのがグラフェンです。物質として実際に社会への貢献がすでに現れているというわけではないのですが、しかしその可能性の高さが評価され異例の早さでノーベル賞を受賞しました。これには科学者たちもびっくりです。何せ自分たちはまだそれより前のものを研究していたのですから。

炭素の同素体として注目を浴びていたものが最近いくつかありました。炭素の同素体としては「黒鉛」「ダイヤモンド」「不定形炭素」そして数年前に高校の教科書にも追加されましたが「フラーレン」と「カーボンナノチューブ」があります。ここに新しく「グラフェン」というのが付け加えられたということになります。研究が熱心にされていたのはフラーレンとカーボンナノチューブとなります。
フラーレンは英語では俗にbuckyballとも呼ばれます。サッカーボールそっくりの形をしているのですね。中は空洞で、反応をうまくやると中にナトリウムやバリウムなどの小さな金属を入れることができました。これをやると超高温(といっても化学での話なのでマイナス数十度とかですが)で超伝導が観測されました。なので超伝導の素材として熱心に研究されていたわけです。ま、他にも活用法はあるとは聞いてはいますが細かい話は省略。というか研究している人のものを暴露できない(苦笑)
カーボンナノチューブは円筒形のとても細い管状の物質です。使い方は様々ですが期待されていたものを。一つはそれを束ねるととてつもなく強固な素材になるということです。これは簡単に実験できるのでやってみて欲しいのですが、チラシをくるくるっと細長い筒にします。これは一本だけだと小さな力で曲がってしまいます。ですがこれを何本もまとめると相当な力を入れても曲がらなくなります。これを利用したのが実はダンボールだったりします。中空なので力が分散されやすく、そのため紙であってもやろうと思えば単純な塊でしかない鉄よりずっと強固になるのです。この紙の管は細ければ細いほどよく――つまりはカーボンナノチューブなんていうナノ単位のものでつくればもっと頑丈になるのです。また中空ということはその分軽いので航空機などに利用しようという案もありました。あとこれは実現するかどうかさすがに微妙ではないかと個人的には思っていたのですが、地球から月までのエレベーターをカーボンナノチューブでつくろうなんていう話もあります。そのくらい頑丈になると理論上では計算結果が出る。
もう一つ面白く、そしてこれはほとんど実現間近であったものが、水素燃料を蓄えるのに使うというアイデアです。水素は非常に爆発性が高い物質です。小学校の実験で金属を塩酸で溶かして水素を発生、それを火に近づけてポンッと音を鳴らせるなんていうのがありますが、あれは試験管に収まるくらいの少量だからあのくらいで済むのですよね。テレビなどで言われている水素燃料自動車とかになると大量に水素を積み込むことになります。まあ、これに火がついたら車なんて軽く吹き飛びます。
ですがカーボンナノチューブの直径がちょうど水素原子を綺麗に収めてくれる幅だったのです。なのでこれを束にして集めれば水素を安全に(すなわち他の物質と反応させることなく)保存しておくことができるのです。なので水素自動車などに利用できるのではないかと考えられていたわけです。
ただカーボンナノチューブで問題になったのは……発癌性があったのですよね。これは随分最近になってわかったことなのですが。なのでそこは取り扱いに慎重にならないといけないという。

でもこれらは非常に面白い物質であることは間違いなく、熱心に研究がされていました。軽い、丈夫、電導性で興味深い、などなど。しかし…………ここにグラフェンが唐突に現れてしまったわけです。それぞれ違うものではありますからね。これまでの研究が水泡に帰したということはありませんが、しかしグラフェンの方にかなり移行することを迫られているのも実際のところだと言えるでしょう。科学研究の価値としてはフラーレンやカーボンナノチューブよりグラフェンの方がずっと高くなった感じがします。多くの人が知っていると思いますがNature誌やIEEE(米国電気電子技術学会)では続々とレポートが集まっているようですし。


で。ここ日本人にとって重要。
「カーボンナノチューブの発見者は誰ですか?」
答え。日本のNEC筑波研究所に勤務していた飯島澄男さんです。1990年代の最初の頃でしたね。
カーボンナノチューブはその構造の特異性から基礎の分野でも注目を集めましたし、上記のように応用の面でも非常に価値がある。これから先、科学にも社会にも大きく貢献するだろうと考えられていました。
ですが去年一足飛びにグラフェンが受賞してしまった。ということで飯島さんのカーボンナノチューブによるノーベル賞受賞はなくなったというわけです……。日本は手に入れるのがほぼ確実ではないかと思われていたものを一つなくしたことになるわけですね。
と、まあちょっと悲観的に言ってみましたが。今後カーボンナノチューブでの研究で大きな功績が上がれば再評価されて受賞する可能性はあるかと思います。グラフェンももしかしたら時期尚早で大した成果が挙がらないかもしれませんしね。…………まあ、ノーベル賞は一度出たらそうそう自分たちの評価を覆しませんけどねorz(ちなみに参照。ノーベル賞最大の汚点・山際勝三郎について


ま、何にせよこの50年くらいで見つかった新しい炭素同素体のフラーレン・カーボンナノチューブ・グラフェンは今後研究が発展していく分野だと思います。専門書はさすがに難しいですが、そのうち一般書とかも出るのではないですかね? 見かけたら手にとって見るといいと思いますよー。
ということで今回はこの辺で~。ではではー。
by zattoukoneko | 2011-02-13 02:26 | 物理 | Comments(1)

タイムトラベルって可能?

今回は久々に物理のお話です。といってもそんなに難しくはならないは、ず……。
えー、初っ端から心挫けそうな筆者ですが?! 何とかなるさ、書いてみよう!!


というかいきなり答えですけど。
「無理ぽ」
タイムトラベルというのはできません。これは次のような簡単な思考実験によって説明可能です。

まずあなたAが過去にタイムトリップすることによって、あなたAが生まれる前の親Bを殺したとします。その場合あなたAはこの世に生まれなくなります。したがって親Bを殺す人Aがいなくなります。したがって親Bが死ぬという歴史はないことになります。

これ「親殺しのパラドックス」と言われており、タイムトラベルについて論じられていた初期の頃から提示されていたものです。これによれば過去に行って歴史を改変することはできないということです。


でもこれは「過去へ」の話です。「未来へ」行くことについては実は――可能なのではないかと言われています。これについて説明していきましょう。

まず予備知識が必要になり、アインシュタインの特殊相対性理論について知ってもらわないといけません。
なーんてことを言うと「ええええええ?!」と思う方も多いと思いますが、実は話はそんなに難しくありません。歴史を追っていくと実は内容はとても簡単です。(一般相対論は難解ですが)特殊相対論は四則演算しか使いませんしね。今回はそれすら使いませんし、お話として見てくれればよいかと。
そもそも光に関する研究は古くからありました。毎度毎度科学の歴史を振り返ると出てくる名前ですがアリストテレスが光と色に関して論じていますし、ニュートンがプリズムを使って光を虹色に分けたりしました。ニュートンはどのような立場をとっていたのか明言していないようですが粒子論だろうとされています。なお粒子論や機械論については以前出した記事を参考までに。ニュートンの万有引力は科学じゃない?
ニュートンの影響力が大きかったのでやや隠れていますが、実際には彼と同時期にフックやホイヘンスという人物が波動論を出しています(注:波動論も機械論の中に含まれます。粒子論は機械論の中のまた別のもの)。この波動論は1800年にヤングによって復活させられ、フレネルによって数学的に整備されました。この際に波動は(当然何かを媒体として伝えないといけないので)エーテルという目には見えないが空間を満たしている物質によって伝播されるとされました。なおここで言っている「エーテル」とはアリストテレス哲学や近代以前に出てくる天体をつくるエーテルとは別物なので注意。
さてこれと並行してマクスウェルによって電磁気の理論が整備されるにあたり(電磁気学の発展は数式かそれなりの説明が必要になってくるので割愛)、光と電磁波の速度が同じであり、光も電磁波であることを示しました。これヘルツによって実験的に証明されます。
以上のような流れから光の波動性が強調されるようになってきて、それはエーテルという物質を介して伝わるものだとされたわけです。(ちなみに20世紀に入るとさらに粒子性もあるとして二重のものだとされ量子力学によって解決されるのですが、ここも話が長い、
というか難しいので割愛します)
で、光が波だというなら当然それは他の波と同様に静止している人と動いている人にとって見え方は異なるはずだろうとなるわけです。波だとわかりにくいかもしれませんのでボールで説明しますが――ある位置から特に動かずにボールを投げると放物線を描いてそれは移動します。一方でそのボールと同じ方向にまったく同じ速度で動いている車から見ると放物線というわけではなく、上がっていって下がるだけという運動に見えます。逆に車に乗ってる人がボールを投げたとき、(空気の抵抗を考えなけば)その人にとっては放物線に見えますが、静止している人にとっては車の速度分加速したボールの運動が観測されます。これは「それぞれの系にいる人にとって、他の系にいる観察者から見ると動きは別に見えるが、同じ運動法則が適用される」というガリレオの相対論と呼ばれるものです。で、これと同じことが光でも起きるだろうとされたわけです。
ところがこれを実験したところそうはならなかったのです。これは有名な実験でマイケルソン‐モーリーの実験と呼ばれています。実際の実験とは異なりますがここはわかりやすさを優先させてもらいます。ある動いている船から光を発しました。それとは別の止まっている船からも光を発しました。ガリレオの相対論に従えばお互いに観測する光の速度は異なっているはずです。ですが実際に観測された光の速度は同じだったのです。

まあ、ここでみんなしてアインシュタインの相対論を嫌いになる事例をw というか何で一般向けの科学雑誌にはこんな風にわざと難しくわかりにくく書いてあるのかわからないのですが(苦笑)
動いている電車があります。ここに乗っている運転手Aがランプを点灯させたとします。その光は同じ電車に乗っている乗客Bには当然光の速度で届くわけですが、近くの道で立ち止まっていた人Cには電車の加速分は含まれず同じように光が届きます。また電車と並行し、しかしそれよりは遅く走っていた車の運転手Dには電車と車の速度の差分が生まれて到達するはずなのにやっぱり速度は同じなのです。つまり何が起こるかというと、次の図のようなこと。
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――絵心ないとか言うな!! 気にしてるんだからorz(実際にはPCで何をどうやったら描画できるのか知らないのです、というかそれはそれでダメな気がしますorz)
えー、ともかくして。Aから出された光は他のB、C、Dに届くわけですが、普通に考えて届く順番(光が見える順番)はB、D、Cだと思われます。ですが実際にはBもDもCも同時にAの行った光の点灯を観測します。
「ねー? 意味わからないでしょー?」 ← これがそこらにある一般向け科学雑誌の説明。明確にはこう言わないだけで、『お前の自慢がしたいだけかぼけえええ!!』と常々思っている私がいたりする。

とりあえず紹介はしましたけどこれはスルーで。大事なのはただ単に「どうやって動いていても光の速度が同じに見える」ということです。
これをアインシュタインは「え、じゃあそういう実験結果出たんだったらそれ決まりにしちゃおうよ」と言って“光速度一定の原理”とニュートン力学では含められなかった波動に関しても“どの系でも同じ物理法則で物事が記述できる”としたわけです。この後者のことを一般相対論と言います。これだけ。
まあ実際にはここで放置してたらただの言いっぱなしなのでw アインシュタインはここから出発していとも簡単に他の現象を説明してみせるのです。この際に出てきたのが『動いていると空間や時間が歪む』というものでした。これによって光の速度は常に一定ということが保たれるのです。(なおよく光の速度は超えられないというのがありますが。これは運動速度が速くなればなるほど質量が増し、時間が歪んで遅くなるという理屈によります。計算してみると光速と同じになったときの物体の質量は無限大になるのでようは動けなくなるというそういうことです)
またアインシュタインの相対論によれば時空が歪むということで、エーテルの存在も特に要らなくなり空間自体にそういう媒体としての性質があるとしました。
ま、これがアインシュタインの特殊相対性理論というやつです。おかしな説明とか省くとわかりやすくなるかと思います。


で。話は戻ってタイムトラベルに。
ここで重要なのは「動いている物の時間は遅くなる」ということ。これは実際の生活ではまず経験できません(何やら動き続けてると長生きできるとかいう教えが色々なところであるようですが、普通の動きではまず意味がない上にその運動の時間分損をしているという?)。これは光の速度は秒速30万kmとかいうとてつもない速度だからですね。しかし仮に光の速度にとても近い速度で運動できたとして、(地球上では7回転半してしまうので)宇宙空間に向かって飛んでいきそして地球に帰ってくるとします。その人にとってはたかだか3年とかの宇宙旅行だったのが、その人の時間の経過は遅れているので地球に帰ってくると80年とか経っていたという『ウラシマ効果』というものが起こります。その旅行者は77年先の未来の地球に行けたということですねー。
…………まあ、最初に言いましたけど過去には戻れません。ついでに言うならその人も3年は宇宙旅行してる必要があるわけで、私たちの思い描く「タイムトラベル」とは違いますね(汗)
ただしこれは技術的には大分可能性が出てきました(やり方はずっと前から言われていたんですけど)。宇宙には太陽風という太陽からの電磁波が溢れています。これを傘のように開いたもので受けて推進力にしようという計画です。これはNASAなどの宇宙技術を開発している機関が進めており、実は方向転換まではもうできちゃってます。まだまだ光速に近いものにするのには時間がかかりそうですが、コールドスリープによる擬似的なタイムトラベルよりは現実味が出てきましたね。



さて、ここまでが“古め”のタイムトラベルの話。次にもう少し新しいものに。
実は素粒子レベルでは『ホール』というものが見つかっており、これを使うと瞬時に別の場所に出現することがわかっています。ただこれはまだ素粒子なんていうとても小さいレベルでしか見つけられていないのですが、仮にこれが人や人の乗った宇宙船も通れるようなものが見つかれば「ワープ」が可能。当然光速すら超えられます。今実はこれを探していて、理論的にありえるのではないかとも言われてます。まあ、まだここは議論の途中。



ではでは? 最新のタイムトラベルの話いきましょうか。
ま、これらは物理の方ではなくSFの方から出てきてるのですけれどね。前々回簡単に紹介した『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズでも未来人が出てきてます。また他の作品でもタイムトラベルによる過去の改変をうまく説明するような案が出てきているのです。
まだまだこれらは空想上のお話。でもそもそも「タイムトラベル」を打ち出したのは『人類以前のパリ』Paris avant les homesなどのSF作品であることをお忘れなく。ま、どれが最初の作品であるかはまた色々文学史上で議論があるようですけど、そっちは物理以上に混沌としてるので省略です(苦笑)




以上のような感じで現在「タイムトラベル」というのは論じられています。
物理学の方では過去には行けないが未来には行けるだろうとされていて、それが現実味を帯びてもいます。ただしそれは一方通行です。
文学の方ではまだまだ空想の域を出ていませんが、『もしかしたら実際にあるかもしれない』というような説得力あるものもいくつか出てきました。これはそのうち本当に実現するかもしれませんね。何せ「パラダイムシフト」がある可能性がありますから。
by zattoukoneko | 2010-10-09 04:53 | 物理 | Comments(1)

自転車は道路のどちら側を走らないといけないか

自転車に乗る方は結構いるかと思います。私は上京してきて以来駅まで徒歩で普通に行けるので乗っていないですし、高校の頃からすでにほとんど乗ってないのですが……(ただ私の実家はかなりの田舎にあって、電車はおろかバスもありませんでした。なので自転車かあるいは自動車が主な交通手段だったので、幼いころはよく乗っていました)。ちなみにこの前友人の自転車に試しに乗らせてもらったら――ガードレールに激突、電信柱にてようやく止まりました……。物の多い東京って怖えぇ、と思いました(いや、私が単純に乗れなくなっただけかもしれませんが)。
ん、ちょっと自分の話で長くなりました。本題の自転車は道路の右と左のどちらを走らないといけないかについてなのですが、これに関してはきちんと法令があるようです(ちょっとどこに書いてあるのかまでは確認をとっていないのですが)。
私の田舎なんかでは車なんて滅多に走っていなかったのでなーんにも気にせず、60キロくらいでかっとばしてましたが(自転車は市販されているものでも80キロくらいまでは出せるそうです)、まあ東京のような都会ではそんなことはできないですね。ある程度の速度を守りつつ、慎重に運転するんでしょうか。
で、この際に自転車は道路の左右のどちらを走らないといけないかが決められているのです。今回はそのお話です。


で、まあ答えが気になってしまうと思うので先に回答を提示すると、「左」を走らないといけないとなっています。つまり自動車と同じということです。
でもなぜ左でないといけないのでしょうか? むしろ右を走ったほうが前から車が来るのがわかって避けやすい気がしませんか? これには実はきちんとした理由があるのです。ここからは物理のお話です。

確かに自転車は右側を走ったほうが事故を避けやすいかもしれません。ですがいざ事故が発生した場合、そのとき事故に遭った人の怪我の具合や死亡率が全然違ってくるのです。
運動エネルギーというのは中学時代に習っているかと思います。E=mv^2という式ですね(あ、なお「^」は~乗という意味です。ウェブ上だときちんと表記されないことが多いのでこれ使わせてもらいます)。忘れている方へ補足しておくと、Eはそのまま(運動)エネルギーです。mは質量。vは速度です。つまり運動エネルギーは質量に比例、速度の二乗に比例するということです。
ここで事故が起こったときのことを想像してみましょう。式を簡略化するために自転車は時速20km、自動車は時速60kmで走るものとします(質量に関しては変わらないので今回は無視できます)。
で、まずは左側を自転車が走っていた場合です。自転車は後ろから自動車に激突されることになるわけですが、このときのvの値は(相対速度ということになりますので)40ということになります。したがってEはm×40^2となります。
対して右側を走った場合、今度は正面衝突することになります。相対速度はお互いの合計地ですからv=80となります。よってE=m×80^2。
40と80の二乗をそのまま計算して比較すると大変ですので、単純に比をとると1:2です。その二乗ですからEの比は1:4ということになります。
つまり右側を自転車が走っており、そして事故を起こした場合、左を走っていたときに比べて4倍もの衝撃(エネルギー)を受けるということです。質量とかもきちんと値を決めればエネルギーの量はきちんと算出できますが、そこまでやると少し難しくなってしまいますし、それがどのくらい体に損傷与えるかということになるとさらに難しい議論になってしまいますので今回は省略させてもらいますが、ですがこの4倍という値が相当なものだということは想像できるかと思います。ようは左側を走っていれば後ろ側から激突されても骨折くらいですんだかもしれないのに、右側を走っていて事故に遭ったら内臓ぐちゃぐちゃという可能性があるということです(下手したら死にますね、これ)。
したがってこの大きな被害になることを防ぐために法令で「自転車は左側を走るべし」と定められているわけです。


と、現役高校生や物理をある程度しっかり勉強した方は上の説明にもしかしたら疑問を持つかもしれません。というのは物理の問題で衝突を扱う場合、運動エネルギーE=mv^2ではなく運動量p=mvという式を使って答えを出すからです。なので衝突のことを考えるときはこっちの運動量を使うのであって、vは二乗にならないんじゃないの?、とそういう疑問を持つかもしれません。
でもちゃんと私の話は当たってます。ここからはやや難しい話になるので、わからないと思った方は軽く読み流してください(ただし早慶とか受けたいと考えている高校生は知っておくべきことなのできちんと読むように)。
確かに衝突の問題を解くときには運動量の方を使います。運動エネルギーの方を使ってしまうとちゃんとした答えが出ないのですね。衝突の場合は運動量の保存則というのがあるので、衝突前も衝突後もこの値は変わりません。だからこちらを使います。一方で運動エネルギーの方は衝突の場合「見た目の上では」変わってしまいます。なのでこちらは衝突した際に物体がどの程度動くかとかは正確に計算できないことになります。
が、物理の基本原則としてエネルギー保存則というものがあります。宇宙という閉じた系の中ではエネルギーは(宇宙が誕生してビッグバンが起きてからは)変わっていないことになっていますし、今後も変わらないはずです。なので衝突の際も運動エネルギーもきちんと保存されています。
では何故式の上では消えてしまったのでしょう? 実はこれは物理と化学の両方の知識が必要になってきます。
物体というのは原子が結合してできているものです。これに何かが衝突した場合、その結合によって形作られている構造が歪むことになります。ですが物体、化学結合は元の形に戻ろうとします。この際に受けたエネルギーを使って元に戻ろうとするのです。つまり衝突の際の運動エネルギーは互いの内部で消費されるということです。そのため式の上ではエネルギーが減っているように見えてしまうというわけです(この原子の結合の復元に使用されたエネルギーまで計算すればきちんとエネルギーは保存されているはずです。ただし話はとても難しくなりますし、衝突でどのくらい吹き飛ぶかなんて話だけをするだけなら余計な計算になってしまうので使わないということです)。
で、事故の話ですが、今回はどの程度吹き飛ぶかという話ではなく、どのくらい体に影響が出るかという話をしています。つまり「内部」の話なのです。体の中にどのくらいのエネルギーが与えられ、それを使って元に戻そうとするか(そして実際には完全には戻らなかったりするわけですが)という問題なので、運動エネルギーの方を使用するということになるのです。


さて、物理の話はこのくらいですが、最後に少しだけ法律の話。
多分、結構多くの人がこの「自転車はどちらを走るべきか」ということについて知らないと思います。またそれが法律で定まっており、実際に守っていないからといって捕まったり、警察から注意されることもまずないと思います。
実は法律は簡単にいえば「守らないといけないもの」と「守ったほうがいいもの」の二つに分けることができます。
前者は殺人とか放火とかですね。これは絶対にやっちゃいけないことです。
一方で後者の代表例は自動車の規定速度ですね。たとえば地面や標識に「40」なんて数字が書いてあったとしても空いていれば60キロで走っていても別に文句は言われません。高速なんかでも80とか書いてあっても100キロくらいはみなさん普通に出して走っているでしょう? むしろ80を厳守されると後ろがつかえて困るくらいです。ですので多少の速度オーバーなら許すし、むしろそうしてくれということです(ただし「出しすぎ」はさすがに捕まりますが)。……まあ、たまに警察は検挙率を挙げるために少しのオーバーでも取り締まることがありますけど(ちなみにうちの地元では道路わきに警察官が隠れていて、適当な車を見つけては先にいる警察官に連絡。そして連絡を受けた警官複数が車を止めさせてがんがんチップを切ってました。――いや、事故防ぎたいならその最初の警官が止めろよ、って思いましたが)。
ちなみに「守ったほうがいい」という法律は他にもいくつもあります。信号の無視(特に歩行者)とか、同じ信号でも自動車は黄色になっていても減速しなくて進んでしまっても捕まらないはずです。あとは未成年の飲酒や喫煙、成人雑誌の購入やアダルトサイトへの立ち入りもよっぽどのことがない限り黙認されます(というか知り合いに父親が警察官の人がいますが、中学生の頃から一緒にお酒飲んでたみたいです)。
あ、だからといって私は別にこれらの法律を破っていいとは言っていませんので。そして推奨もしません。特に販売する側には厳しい指導が行くので、相手方の迷惑になることがあります(近年コンビニやスーパー、居酒屋で年齢確認をされることがあるのはお店側が指導を受けてしまうからですね)。ですのでできるだけ守るように。
(まあ、法律もそうだし、私自身にも拘束力はないのでやる場合はこっそりやってください。それで捕まっても私は知ったこっちゃないです。自己責任でお願いします)


さて今回で物理関連の話はおしまいです。大分物理のカテゴリも埋められたかな。
次回は予告通り化学のお話で「氷の上はなぜ滑るのか」という話をします。これもそんなに難しい話ではないはずですが、興味のある方は水素結合とか思い出しておいてくれると読みやすいかと思います。
化学の話は――とりあえずこれ一つでしょうか。ちょっとどの話題が取り扱いやすいか悩み中です。面白く、かつ平易な内容ということになるとなかなか難しいですねえ……。ニュートンみたいに歴史の話と絡めることはできるのですが(錬金術の話とか)、ただそれだとまた特集みたいな感じでちょっと連続して投稿しなければならないので今のところは控えておこうかと。その前の予備知識も多分必要かと思うので。この辺は今記事の順序を考え中です。
次々回はブレイクスルーという成績の伸び方について話すと予告してましたね。受験生用のお話になります。今年受験生になる人や、来年に受験を控えている中高二年生は残り10カ月の学習計画を立てるのに役立ててください(あ、もう大学生の方とか、社会人の方にも使えるお話です。一応高校生を念頭に置かせてもらいますが、内容を把握していただければ応用可能なはずです)。なお大学受験を控えている方はすでに参考書の紹介記事がありますのでそちらも見ておくと計画はより立てやすくなるかと思います。
なんか、予告が長くなりました。もうおしまいにしますねー。ではm(_ _)m
by zattoukoneko | 2010-03-27 06:12 | 物理 | Comments(0)

日本の渋滞最長記録は154キロ!!

今回は物理の話ですが、大分簡単なお話です。ほんのちょっとした雑学程度ですので、酒の場ででもウンチクとして語ると面白いかも?
で、タイトルにある通りに日本において最も長かった渋滞の長さは1995年の12月27日に名神高速の秦荘パーキングエリア付近から赤塚パーキングエリアにかけて起きた154キロというとてつもない長さのものです。
私は普段車を運転することがないのでわからないですが――んー、一時間に仮に10キロ進めたとしても抜けるのに15時間以上かかるわけですね。……巻き込まれた方、大変でしたね、これ。

さてこれだけだとただの知識ですが、もう少し深めて物理の話と絡めていきましょう。
154キロなんてとてつもない長さの渋滞ですから、よっぽど大きな事故でもあったのかと想像されます。しかし実は事故なんて「一切」起きていません。つまりこれは自然渋滞というやつです。
この自然渋滞というのはよく起こるものですが、では何故そんなものが起こるのでしょう? 特に高速道路には信号なんてないのだから渋滞の原因になりそうなものはないように思えます。ですがきちんとメカニズムがあったのです。


車を運転する方は座席に座って実際に走っているときのことを思い返してくれればわかりやすいと思います(あるいは車を運転しない方、免許を持っていない方でも、親御さんや誰かしらの車に乗ったことは結構あるかと思います。それをちょっと思い出してみてください)。
自分が車を運転(あるいは同席)しているとします。前には一台の車が走っています。まあ、何もなければスムーズに進んでいくと思います。ラジオとかかけてると気分も楽ですねー。
と、急に前の車が一瞬急ブレーキをかけました! きっとあなたは反射的にブレーキを踏むはず。そうしなければ追突してしまうかもしれません。まあ、ちょっとイラっとしながらも前の車のブレーキランプが消えてきちんと進んでいることを確認してあなたは再加速するかと思います。
この一連の時間経過を考えてください。前の車は一瞬ブレーキをかけました。あなたはそれに直ちに反応してブレーキを踏み、速度を落とします。そして前の車がきちんと発射したことを確認してから、それでまたアクセルを踏むのです。ということは――前の車よりあなたが運転する車の方が長い時間ブレーキをかけて減速していませんか?
そしてさらに想像しましょう。あなたの車の後ろにはまた別の車があるのです。そっちの運転手だってあなたと同じことを考えることでしょう。そうするとその車の減速している時間はあなたのものより長くなります。そしてその車の後ろにはまた別の車があるのです。
もうここまでの説明でわかったかと思います。つまりブレーキをかけている時間は、最初はほんの短いものだったとしても、後ろに行くほど長くなり、ついには完全に停車してしまうわけです。
これが自然渋滞の主な原因です(これ一つではないですけれど)。後続車の速度がどんどん落ちていき、そして止まってしまう。また止まる時間もどんどん長くなります。この仕組みを「減速の波動」といいます。その名前のように減速が波のようにどんどん続いていくわけですね。
この「減速の波動」は別に自動車のみで起こることではありません(今は自動車での渋滞の話をしていましたし、もっとも顕著でかつ身近なのでそれで想像してもらっただけです)。例えば長めのエスカレーターを歩いて登っているとしましょう。関東は右側、関西は左側を歩くのがマナーとされていますよね(まあ、これは技術の面からみたらとても危険なもので、一方に大きな負荷がかかる分故障の原因になりやすいのです。デパートなどのエスカレーターにはきちんと中央に乗るように絵が貼ってあったりしますので、機会があったときに注意して見てみてください)。で、私たちは別に他に人もいなければ中央でも右でも左でも、好きなところを歩いていってしまいますが、混んでいるときはこのマナーに従います。ですが、エスカレーターに乗る直前や降りる寸前、人は歩幅を合わせるために少しタイミングをはかります。前の人がこれをやると、(車のときと同じで)後ろにいる私たちは「こんにゃろ」などと思いつつ止まってしまうのです。これは後ろの人へも伝わっていきます。ただ車の走る道路ほど長くはないですし、人も密集することは少ないので、「渋滞」みたいな感じでみなさないだけです。まあ、人の多く集まる駅なんかのエスカレーターでは完全に二列とも止まることもありますが。


さて自然渋滞の原因がわかったところで、高速道路での渋滞に戻りましょう。理屈は同じなのですが、ですが一番最初の車はなぜ減速したのでしょうか? 一般道では信号などもありますし、人が出てくることもありますが、高速では何に気を取られてブレーキを踏むのでしょうか?
結構多いのは風です。風にあおられてブレーキを踏んでしまったり、あるいはブレーキを踏まずとも減速してしまうのです。
またトンネルに出入りするときもブレーキをかけがちだそうです。あとはカーブなど。
他には東北の方などでは野生動物が道に出てきたしまったりすることもあるみたいです。結構大きな問題になっているとか。
では最大記録を出した名神は何が原因だったのでしょう。
実は、坂、でした。
しかも見た目にはまったくわからないほどの傾斜数度というものです。
「そんなものが渋滞の原因になるのか?」と思われるかもしれません。ですが見た目でわからないからこそ問題でした。
明らかに坂だとわかっていれば、ドライバーはアクセルを強く踏んでスピードが落ちないようにすることでしょう。ですが見た目でわからない坂ではそれをしません。ですがメーターを見れば確かにスピードが落ちていることがわかるのです。それはたったの1,2キロなんてレベルですが。
けれどこれだけの減速でも波動として伝わってしまうのです。最初はほんとに徐々に徐々にだっただろうと思われますが、それでも後続車が絶えることなく続けばその減速時間は大きくなるのです。その結果150キロを超えるような大渋滞を引き起こしてしまったわけです。
(なお、現在は車線を増やすなどの処置がとられて大分緩和したとは聞いています。どの程度変わったのかきちんとしたデータを持ってないのでわかりませんが)


こうした減速の波動による渋滞は気をつけようとしたって避けられないものですね(まあ事故による渋滞だって、その事故を起こした当事者以外にはどうしようもないですが)。すべてのドライバーがこの減速の波動について知ることや、仮に知ったとしても見てもわからないようなゆるい坂やカーブでの減速には気付かないものでしょう(メーターを常に見ていたらむしろ事故になっちゃいますし)。
現在は(先にも述べたように)道路の改善などが行われていて、渋滞は改善されつつあります。またドライバーの方でも渋滞情報などを手に入れられるように色々な手段が出てきました(まあ、それを使って脇道に入ったらみんながそれを使っていて余計に渋滞したなんて話もありますが)。こういう試みは各方面で今後進んでいくことでしょう。
(ちなみに小学生のころに、車が走る層と居住区の層を分けて、道路は全部真っ平らに日本全土に広がるようにしたらどうだろう?、なんてことを考えたことがありますが……むしろ事故が多発しそうですね。空飛んでくれた方が上下にも避けられて安全なのかな? でもその場合信号とか進む方向とか法令などを決めるの大変そうですねえ。軽いSFなんかでは昔からよく出てきますけど)


さて今回は短めです。次回ももう一度物理の話でいこうかと思います。
以前コメント欄あたりに自転車は道路の左右のどちらを走らないといけないかと書いたと思いますが、それを物理(と若干化学)と絡めて理由をつけて話します。
あとは何故盗電が犯罪なのか(当たり前、と思うかもしれませんが、同じ電気を使ってつくったクーラーなどによる涼しい風にあたりにデパートに行くのはOKなんですよね? きちんと歴史的に議論されて決められた経緯があるのです)なんて話もありますが、あんまり物理の話ばかり続けても仕方ないかな、と思うので物理関連は次回でおしまいということで。次回記事も短いはずです。今回と比べるとちょっと難しい話も入ってしまいますけどね。
というわけでもう一度だけ物理のお話にお付き合いいただけると幸いです。ではでは。
by zattoukoneko | 2010-03-24 06:11 | 物理 | Comments(0)

ニュートンのリンゴの木

ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したといわれています。このリンゴ、おいしくないそうですw まあ彼の生きていた時代から相当品種改良されてますからね。それにサイダー(米語ではリンゴの汁からつくった炭酸の飲み物のこと。日本の三ツ矢サイダーとは別物です)はそもそもリンゴがおいしくないのでそういう風にして加工して食べるようになって発明されたと言われています。
ニュートンのリンゴの木は東京大学の本郷キャンパス内にあるそうです。んー、見に行ってみたい、というか食べてみたいです(笑) 本当においしくないんですかね? 全然甘くないって聞いたんですけど。
さて今回はニュートンがリンゴの木を見て万有引力を発見したのではない、という話をします。(ただしついこの間新しい史料が発掘されて、今後また議論になりそうです。私はそこまで変わらないだろうと思っていますが。これについては後で紹介しますね)


ニュートンはリンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力の発想に至ったのだと長いことされてきましたし、今でも一般的にはそう信じられています。これは日本だけではなく世界のあちこちでそうです。
ですがニュートンについての研究が進むにつれ(これはあまりに膨大な研究が出てます。全部見るなんて無理だし、有名なやつだけに絞っても数百件という文献が出てきます。私もそれは見れてないですし、科学史の論文とか読むことのない人には余計に無理だと思います。一応日本語でも結構いい本が出てますので本屋で探してみてください。――私も一冊定評のあるやつを買ったと思ったんですが、タイトル忘れちゃいました&今回も見つからないorz 本のタイトルに確かニュートンって入ってなかったんですよね。発売は2000年以降だったと思いますけど……)、ニュートンが万有引力を発見したのはリンゴを見たからではないことが判明してきました。
彼は万有引力の発見の時期にフックやホイヘンスといった人物と手紙のやり取りをしあっており、そこの中で引力に関する議論がなされています。そして万有引力の概念自体はフックの方がむしろ先に思いついていました。つまりニュートンは半ば盗作をしたというわけです(後にニュートンはフックに訴えられていますし、ニュートン自身も確かフックの先行権を認めていたのではないかと思います)。ただ確実にアイデアを盗んだかどうかはまだ疑問で、ほぼ同時に独立に思いついた可能性もまだあるようです。
ですがいずれにせよニュートンが万有引力という概念を導きだしたのは彼らとのやり取りや同時代、および前からの科学知識から生み出されたものであることは確実です。少なくとも木からリンゴが落ちるのを見て、それだけで無から万有引力の概念を閃いたというのは誤りだと考えられます。


ではなぜニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したと言われているのでしょうか?
実はニュートンについて書かれた最初の伝記の影響力が大きかったからです。
最初の伝記を書いたのはウィリアム・スチュークリという人物で、(ちょっと正確な発刊年を覚えてないのですが)ニュートンの死後すぐに出版されたものです。

ちなみに脇道にそれますが、日本では伝記というものが書かれるのが非常に遅いです。少なくとも該当する人物が死んでからではならないという暗黙のルールがあり、また詳しい伝記を好んで買う人も少ないです。一方でヨーロッパやアメリカでは伝記は山のようにつくられ、子供向け・一般向けから専門書まで次から次へと出版されています。また伝記もその人が生きている間にもう出版されちゃいます。悪口とか暴露話とかも結構平気でします。文化や習慣が違うと言ってしまえばそれまでなのですが、日本のこの遅さは私個人の意見としては問題かな、と思います。確かにその人のことを暴いてやろうとか、その本が出ることによる当人や身内の人々の立場はあるとは思いますが、一方で日本の科学者やその他の学問分野の著名人が世間に知られずに埋もれてしまっているのも実情です(例えば高柳健次郎という名前を一体これを見ている人の何人が知っているでしょうか? 八木秀次は? 長岡半太郎はさすがに知ってますよね?(中学ですでに名前を聞くはずですから) では菊池大麓なんてのはどうでしょうか? 山極勝三郎はすでに記事にしましたね。桜田一郎くらいは知っておかないと海外で日本の有名な科学者の名前を問われたときに困りますよ? ――ここに挙げたのはまだまだ有名な人物ばかりです。日本のトップ、あるいは世界でも通用するような人たちで、時代が時代ならノーベル賞にも手が届いたのではないかとされるくらいの人たちばかりです。またいずれも50年以上前の人物で、最近の著名人をどれだけの人が知っているでしょうか?)。この日本の風土はちょっと困りもので、私も近年のことを調べても明かせなかったりします。たとえばいまだにコンピュータゲームの歴史なんてのはきちんと明かされてないです。せいぜいNHKスペシャル 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防という本が出ているだけで、これも任天堂のファミリーコンピュータまで、しかも任天堂の視点ばかりでセガとか入ってないです。当然任天堂の悪口――というか問題点ですね――は述べてないです。またネット上を探せば一応昔からゲームをやっている人たちが「こんなことがあった」と書いていたりしますが、それは「研究」ではなくてまだ知識の羅列の域を出てないですし、もっと内情まで踏み込んだものはなかなか見つけられません(私とかも当時の出版物に載ったコメントとか、元社員の人とかに聞いて少しだけわかる程度です。任天堂の販売戦略とか、SUQARE ENIXのソフト開発がどう進められて、チームはどういう編成になっているのかとか知っている人は少ないと思います)。

――んー、脇道に逸れすぎました。戻りましょう。
スチュークリの伝記も執筆はニュートンの生きている間から始まっています。スチュークリはニュートン自身にも会って話をしていますし、ニュートンの妹からも兄のことを聞いていたりします。
そして彼が最初にニュートンの伝記を書いたというわけです。そしてこの中に「ニュートンはリンゴの実が木から落ちるのを見て万有引力を発見した」と書いてあるのです。そしてこの伝記が最も信頼に足るものだとされ(そりゃ本人に会って話を聞いてるわけですから、そう思うのも仕方ないことです)、そして世界各地でこれを参考資料として新しい伝記が書かれていったというわけです。そのため「ニュートンのリンゴの木」の話が世界的に有名となったのです。
スチュークリはリンゴの話をニュートンの妹から聞いたとされています(「いました」ですかね。これから変わるかもしれません。後述)。その妹は兄がそのように説明してくれたと語ってくれているようですが、ですが現在の歴史研究はそういう証言を信じません。前回の記事で述べたように科学者は社会の影響を受けていて当然ですし、また人間ですから記憶の間違いやあるいは例え話や嘘を言うこともあります(ちなみにガリレオの実験というのは人にわかりやすいように、「想像」して伝えた実験で、実際にはガリレオ自身は実験はしていないことが判明しています。これは一種の例え話で、これが史実として現代まで伝わってしまったわけですね)。
ニュートンの妹やニュートン本人がどのように考えてリンゴの話をしたのかはこれから解明されてくることでしょうが、しかしいずれにせよリンゴの木が万有引力の発想のすべてでないことはもうほぼ確定しています。先の繰り返しになりますが、ニュートンはフックなどの同時代の人たちと盛んに交流を持っており、また当時の時代背景(あるいは錬金術などの以前の思想背景)に身を置いていました。それらを無視して「万有引力はニュートンという天才が独りで生み出したものだ」という考え方をしてしまうのは問題があります。


さて、最初に述べた最近見つかった史料について触れて終わりたいと思います。
今年2010年の1月18日に(ニュートンが会長をやっていた)ロイヤル・ソサイエティがスチュークリの手書きの原稿を発見したとしてネット上で公開しました。これにはニュートンに直接会って「リンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力の概念を思いついた」という話を聞いたことが書いてあります。
英語のページですが一応リンクを貼っておきましょうか。ただし「手書き」ですから読みにくいです(まあ、まだ大分読みやすいものでしたが)。また英語も18世紀のものですから古いものです。それなりの知識が必要となりますので、参考程度にご覧になるのがよいかと。
The Royal Society HP History of Science
私もきちんと読んだわけではないので断言はできないのですが、一応きちんとした史料かと思います。この新しい史料の登場によってニュートンの研究者は議論を盛んに始めることでしょう。ただざっと見た感じ、これによってスチュークリの伝記は妹の話ではなくニュートン本人からの話を元にしている(あるいは両方)とうふうに説が変わることはあるかもしれませんが、だからといって「やっぱりニュートンはリンゴの木から万有引力を見いだした」と逆戻りすることはないでしょう。
まあ、私はニュートンの専門家でもないですし、研究をしているわけでもないので、他の人たちに結論を出してもらうのをみなさまと一緒に待つことにします。


さて次回の記事ですが、化学関連で「氷の上はなぜ滑るのか」という話題にしようと思っていましたが、もうちょっと物理で繋げてしまうことにしました。
前回や今回よりもずっとずっと簡単になる予定。テーマは「渋滞はどのようにして起こるのか」です。
そして連日の投稿になってしまいましたね(汗) ニュートンで続きものだしもともと早くupする予定でしたが、このペースはさすがにネタがなくなるw(まあ、それでも一応二、三年はもつだろうとは思うのですが……)
とかく3日くらいはあけるようにしないと私も自分の体を壊すかも、って感じがするので、次回やそれ以降はペースを落とすようにしますね。ご了承くださいm(_ _)m
by zattoukoneko | 2010-03-21 10:50 | 物理 | Comments(3)

ニュートンの万有引力は科学じゃない?

ニュートンといえば近代科学の父として有名です。彼は微積分を発明し(彼は流率法と呼んでいましたし、記号も現在のものとは全く違いますが)、万有引力という概念を導入することで惑星の運行を見事に計算してみせました。これによって地球中心の天動説から地動説へと完全に置き換わります。ここを境に明確に近代科学へと学問は変わります。ですからニュートンは近代科学の父と呼ばれます。
一方で近年の研究によって彼はその研究人生の大半を錬金術や神学に費やしています。神学はオカルトではないですが、錬金術は当時すでにオカルトとされていました。そのため今ではニュートンのことを「最後の錬金術師」と呼んだりします。
そして実際彼の考案した万有引力の法則というのは近代科学とは言い難いのです。むしろオカルトでした(実際それで当時は非難が集中したのです)。
今回は万有引力の何がオカルトなのか、何故近代科学には入れられないのか、ということを見ていきたいと思います。


まずニュートンが達成した天動説から地動説への転換というのは、何も彼一人の業績ではありません。1534年にコペルニクスが地動説を訴える『天球の回転について』を出版したところから始まったと記述されるのが一般的です。その後ティコ=ブラーエ、ケプラー、ガリレオ、デカルト、そしてニュートンと次第にその概念が変化され、新しい物理の概念なども導入され、最終的に1654年のニュートンの『プリンピキア』の出版によって地動説になりました。これを「科学革命」と呼びます。
ただし科学革命で起きたのは天動説から地動説への転換だけではありません。物理学も哲学も、宗教に対する考え方も、そして一般の人たちの自然への捉え方も、ありとあらゆるものが変わりました。このため科学革命は人類が経験したもっとも大きな革命であると言われています。
科学革命に関わった人々は上記の人々だけではありません。哲学や科学の方法論も大きく変わっており、それらすべてを記述することは大変な作業ですし、ざっと講義するだけでも通常大学1、2年生の一学期から二学期分を要します。つまり半年から一年かけて教えるということ。そしてそれもかなり表面をなぞっただけです。ですからこの記事内でそれを紹介することは文字数的に無理ってものです。
ですので今回はかなり焦点を絞ります。主にデカルトを中心に「機械論」というものを見ます。


デカルトは名前は有名ですね。「われ思う、ゆえにわれありcogito ergo sum」の言葉でよく知られているかと思います(ただこの言葉の意味をきちんと知っている人は少ないみたいですが。ここから彼の哲学・科学が始まるのであって、ただの決意表明にに近いものなのですが)。
デカルト以前から科学者(歴史的にはまだ科学者scientistという言葉はできていないので、自然哲学者と呼ばなければならないのですが、今回は科学者で統一します)は急速に発展してきた機械時計というものに興味を引かれます。
ギリシャ時代からの伝統でヨーロッパでは職人というのは差別されていました。一方で科学者というのは大抵が貴族で、働かないで遊び続けてもお金が尽きないような人たちでした。彼らは時間をたくさん持ってましたので、その間に知的探求である科学に莫大なお金をかけていったわけです。あるいはガリレオなんかは大砲や築城術で国王などに自分を売り込み、パトロンを得ます。どちらにしてもお金に不自由することなく、知的探求に没頭できたわけです。
ですが機械時計というのが発明され、それがどんどん緻密に、大がかりになっていくと職人たちの技術に興味がわいてきました。そして職人の工房などに入り込んでそれを科学的に研究しようという試みが始まります。初期のものとして最も有名なのはアグリコラの『デ・レ・メタリカ』です(これは――えっとラテン語はわからなくても英語がわかれば推測できると思いますが――冶金を中心としたもので、たくさんの絵とそこに書かれている人や道具の役割を記述したものです。日本語訳もされていて、かなりの数の大学が蔵書として持っているのを確認してます。というか私は一部コピーして持ってます)。
この頃はまだ職人の技術を科学の眼で探求しようというものでしたが、次第にそれが哲学や神学と結びついていきます。
デカルト自身はどこまで神学と結びつけようとしていたかとか、技術のことを意識してたのかは詳しくはわかりません(私はデカルトの著作を直接読んだことがほぼ皆無なので)。上で挙げた「われ思う、ゆえにわれあり」も「今までの科学・哲学は信じられないから全部捨てるよ」という背景があって、そこからじゃあ何なら確実に言えるの?、ということで出してきたのが「われ思う、ゆえにわれあり」という公理だったりします。そこから彼は自分の哲学・科学の体系を組み立てていくのですが――どう考えてもその一つだけから宇宙の仕組みや引力の働き方、生命の仕組みまで説明していけない気がします。またあまりにも同時代の考えと似ている部分が多いです(全部捨て去ったのならまったく別物が生まれてきそうなものですが)。

ちょっとデカルトの時代の前後を見てきて、彼の後まで少ししゃべってしまいました。デカルト本人に焦点を絞ります。
彼は自分の自然観を構築する際に、「機械論」という考え方を明確に打ち出します。機械論というのは時計の歯車のようにすべての物質は(目に見えなくとも)たがいに接しながら作用を及ぼし、大きな力として現象を引き起こすのだという考え方です。
デカルトは復興しつつあった原子論をさらに進めて粒子論によって世界の仕組みを説明しようとします(厳密に原子論と粒子論を区別するのは大変で、かつ文字数も取られるので一言で片づけてしまいますが――原子論は原子というやや大きめの物質の最小単位があって、それで世界が構築されているというもの。粒子論はもっと物質は細かいところまで分解できるんだという考え方で、原子だと大きいものなので真空ができてしまいますが、それだとデカルトの考えるような力の働きがうまくいかなくなっていまうので、真空をなくすほどにとても小さな粒子で宇宙全体が満たされているというものです。……一言じゃなかったorz)。で、デカルトは本当に見事なまでにありとあらゆる現象を粒子の作用で説明していきます(ただし粒子にも何種類かあって、働きも違うのですが細かすぎるので省略)。引力は星の周りに渦を巻いている粒子の力によって引き起こされるとしますし(これは水の渦のうえに木の板や船を乗っけると中央に引っ張られる現象から考えたものだと思われます)、生命も空気中からある種の粒子を吸い込んでそれが肺から心臓、脳へと入り込み、神経に入ることで生理現象を起こすと説明しています。今の私たちから見ると思弁的すぎるものですが、当時は実験して検証するなんて習慣がないですし(ガリレオが坂から球を転がしたとか、ピサの斜塔から鉄球と羽根を落としたという話は、実際にはやっていなかったと言われています。望遠鏡をのぞいたのは確かですが)、仮に実験・観察したとしても目に見えないほど小さな粒子の話なのですから確認のしようがないです。
むしろ注目すべきはデカルトの思弁的な部分や古い部分ではないです。彼がやった「機械論」での説明の徹底ぶりです。(私はデカルトを直接読んだわけではなく、それについて触れた本や論文を読んだだけですが)彼の見事なまでの説明の整合性には舌を巻くしかありません。そして私だけでなく、後世の人に彼の「機械論」は受け継がれていきます。そしてこれが基礎に置かれてできたのが近代科学でした。


と、ここでいきなり現代の私たちの科学知識について。
高校の物理の教科書などを見ると、近接作用と遠隔作用という二つの力の働きに分かれています。前者は物を手で押したときなど直接物体に力を及ぼしたときに使用されます。一方で後者は磁力や重力のように間に何もなくても力が働くときに使われます。つまり高校の物理では二種類に力が分類できると述べているわけです。
これ、大間違いです。書いている人はわかりやすくするためにこう書いているのだと思います(というか信じます)。が、こんな考えのままある程度の理科系の研究者になろうとしたら馬鹿にされます。まずこの時点で大学院すら行けないでしょう(まあ、最近は先生方もきちんと勉強してない方多いですけど。大学一、二年生のときに何度間違ってると本を持って指摘しに行ったことか)。
重力に関してはちょっと置いておきますが、磁力や光――すなわち電磁波ですね――はきちんと近接作用として説明されています。またそうしようと昔から様々な科学者たちが理論を組み立てようと努力してきました。当初はエーテルという物質が空間を満たしていて、それによって電磁波が伝わると考えられていました。波である以上(これはニュートン以降、光や電波が波であることは実験などで経験的にわかっていました)それを伝える媒質がないといけないのです。それは音が空気を揺らしながらその振動として伝わるのとほぼ同じ理屈です。これに関して最終的に答えを出すのがアインシュタインです。彼はエーテルというものは存在せず、空間そのものに波を伝える性質があるとします。これがアインシュタインの特殊相対性理論です。そして空間および時間は歪むんだということを提唱します。(アインシュタインの相対性理論に関しては説明してると長くなるのでやめます。興味のある方は一般向けの科学誌『Newton』などで特集が組まれてますので、そちらを見ればちょっとはわかります。ただ書き方がむしろ小難しく、間違いとも思えるものも含まれています。アインシュタイン以前の科学、電磁気学の歴史について多少知っているなら大学2、3年生向けの参考書のほうがはるかにわかりやすいです。……一般相対性理論の方は難しいですが。えーと、私が勉強した本が歴史のことも触れていて、かつ正確。内容も平易で値段も手頃と良い本だったので紹介しようと探したのですが――四時間かかって見つかりませんでしたorz 東大出版会だったような気がするんですが、アマゾンにも東大出版会HPにも載っていないのでわかりません。表紙は次のやつに似てるんですが、違ったらすいません。見つけたら修正します。相対性理論の考え方 (物理の考え方)
では先ほど置いてしまった重力はどうなのでしょう?
実は――今でもなんだかよくわかっていないのです。
一応アインシュタインが一般相対性理論(特殊の方は光とか電磁波に限られてたのですが、一般のものは重力も含めたすべての物理現象に相対性原理が働くという意味で「一般」とついています)で、重量のあるものは空間を歪めると説明しており、これによってその歪みに物が落ちていくような感じで重力が発生すると考えられています。そして二つの物体(これは仮の想定)は互いに自分の周りの空間を歪めあっているので、たがいに引き合い、万有引力が生じるとされています。これは一応理に適った説明で、近接作用と見なせます。
ですが現在はその先に進んでおり、すべての物理の力というのは素粒子によって形成されるとされています。光の光子(フォトン)や原子核をつくるクォークは有名だと思います(まあ、クォークには八種類あって、原子核ではアップクォークとダウンクォークの二種類の組み合わせです。陽子がup, up, downで中性子がup, down, downです。電荷は電子を-1とするとupが+2/3でdownが-1/3となっています。組み合わせると確かに陽子が+1で中性子が0の電荷になっていると思います)。で、重力に関与しているとされているのが重力子(グラヴィトン)です。が、こいつはいまだに見つかってません。発見できれば確実に歴史に名前が残るのですが(ノーベル賞は発見だけだと難しいでしょうけど)、誰も成し遂げておらず、世界中で先行権争いをし続けているものです。こいつが発見できれば重力や万有引力もようやく近代科学に仲間入りを果たせるのですが、まだ数年、下手したら十年はかかるんじゃないかなあというのが私の予想。


さて現代からもう一度ニュートンの時代へとタイムスリップ。
現代ですらよくわかっていない重力や引力の仕組みですが、ニュートンはどう考えていたのでしょう?
先に述べたように近代科学は機械論というものが根底にあって、現代まで受け継がれてます。遠隔作用というのはオカルトの類とされて排斥されています。デカルトは間違っていたとはいえきちんとその近代科学の基本を守ろうとして、それで自分の自然観を組み立てています。
ではニュートンはデカルトのようにきちんと仕組みまで考察していたのか?
実はなーんにも考えてないのです。ニュートン先生のありがたいお言葉。「だってあるんだからいいじゃん。神様がつくったんでしょ」だそうです(もちろんこんなふざけた言い方はしてないですけどw)。
ニュートンは近代科学の父であると同時に最後の錬金術師であるということは述べました。どうも彼はオカルトとされていた遠隔作用を認めたかったようです。また万有引力の着想もどうやら錬金術やその他のオカルトへの傾倒が関係しているようです(リンゴが落ちるのを見たからというのは、だから間違いなのですね。これは次回の記事でさらに詳しく見ます)。さらに神学者としても熱心だった彼は、神の御業を称えたかったようで、万有引力を説明できないことを神がつくったものなのだから今の私たちに理解できなくても当たり前と考えたようです。
これに対しては当時の科学者から相当非難の声が上がっています。ニュートンは科学を前時代のものへと逆戻りさせるのか、と。
ただ彼の計算は見事で、その後行われた天体観測で彼の計算に基づいた予想が当たっていることが判明します。これによって万有引力という曖昧な概念を含んだ近代物理学は認められざるを得なくなっていくのです(まあ、他にもニュートンがイギリスにあったロイヤル・ソサイエティという学会の初期のものの会長をやっていて、彼が個人的に気に入らない研究は論文として世に出させなかったことも今はわかっています。ニュートンがいなかったら科学はもう20年早く成長していたのではないかという研究者もいるくらいです)。
この近代科学といいながらその基本を無視している万有引力はその後も何とか科学にしよう、つまり近接作用で説明しようと試みられていき、ようやくアインシュタインで一応の決着を迎える、ということです。


以上のようなことからニュートンの考案した万有引力は正体不明のオカルトの力だったということです。彼がつくりだした近代科学は、しかし近代科学の大原則を守っていなかったということになります。
それとこれはニュートンの万有引力の話とはずれてしまいますが、後々科学革命とかパラダイムシフトの話をするときにそちらの分量を減らすため、先に機械論についてもう少し。
機械論はデカルトによって明確に打ち出され、科学の守らなければならない大原則となります。それは現代でも変わっていません。ですがニュートンの頃にはデカルトの考えから少し変わっています。
それはキリスト教と強く結びついたということ。当時の科学者は敬虔なプロテスタントが大半でした。キリスト教にとっての神とは唯一のもので絶対、全知全能の存在です。以前「人権・平等問題」の記事で触れたかと思いますが、プロテスタントたちは全知全能の神が何か誤りをおかしたり、後で世界を修正することはないと考えていました。それと世界をどう見るかを考えたとき、科学者の頭に思い浮かんだのが機械時計でした。神は宇宙を機械時計のように緻密で寸分の狂いもなく創っただろうと考えるようになりました。その機械の仕組みを究明するのが科学者としてキリスト教に貢献することだと考えられるようになります。そして聖書Bibleは二つになります。一つはもちろんのこと新約聖書。そしてもう一冊が宇宙でした。この二冊を熱心に読み、神の御業を知ることが人間のなすべきことだとされるのです(実際フックやボイルといった人物は宇宙や自分たちの探求する世界をBibleと述べていますし、当時の科学書には科学の力によって神の成したことを解き明かそうという挿絵が入っていたりします。画像を掲載しようと思いましたが……これも行方不明。見つけ次第upします)。この動きは次第に啓蒙主義運動と重なり激しさを増していくこととなります。


さて以上は歴史的な観点から見てきました。(いくつかの点で簡略化していますが)これは間違ったものではありません。
ですが科学哲学(あるいは科学論)の側面から見ると別の解答を得ることができます。(ただし科学史も科学哲学も互いに影響し合っているので、どちらかが正しいとか、より良いとかではないです。いうなれば歴史の方は史実を重視し、哲学の方はそこから導かれた思想を大事にします。重点の置いているところが違うというだけです)
科学哲学の方は基礎知識が相当必要ですので思いっきり簡略化します。
現在科学哲学や科学論では科学者やその集団、そして科学そのものも社会の影響を受けているのだとされています。
……えーと、何を当たり前のことをと思った方は、申し訳ないですが科学に対する社会の考え方からまず知ってもらわなければなりません。最近「科学って中立だよね」と言ってもわからない若い人が多いので(私自身中高生に勉強を教えることがありますが、その合間にそんな風に振ってみると『わけわからない』という顔されるんです)。
そのまず最初の段階でつまずいてしまった方へ。簡単に説明します。多分次に言うことは納得できると思いますが、どうでしょう?
まず科学というのは日々進歩しており、次々に新しい発見がなされ、そして理論がつくられていっています。そしてその理論は前段階の観察や実験にミスがなかったり、科学者自身の能力の不足やある考えへの傾倒(宗教など)がなければ、きちんと正確なものがつくられるだろうと考えられます。後々間違っているとされたら、その当時にはまだ観察できなかったことがあったのだとされるでしょう(たとえば昔は望遠鏡や顕微鏡がなかったので精確な観測ができませんでした)。そしてそういう性質のものだから「中立」であり、文学や法学と違って世界中で同じ科学の理論・法則で物事の説明ができ、様々な技術や兵器がきちんとつくれるわけです。どこかの土地や文化に固着のものだったら他の場所へは科学/技術は持ちこめませんよね?
今の説明に「そうだね」と思ってくれたでしょうか? 思ってくれたなら第一段階クリアです。
次いきます。
今思ったこと――全部間違いです。
「何言いやがる!」とか怒らないでください。特に科学に重点を置いている方々はそう思われるかもしれません。が、実際に歴史を振り返ってみるとそうではないことがどんどんわかります。
一番大きいのは科学革命ですが、これは大きすぎるので後々きちんと取り上げます。今回はいくつかの事例だけ挙げます。
まず一つにもうニュートンの話はしましたね。彼は錬金術というオカルトに偏っていたからこそ万有引力なんて怪しいものを平気で出しちゃいました。
また生物学では生物は自然には発生しないということをパスツールが実験をして証明してみせます。これは高校の生物の教科書や参考書にも載っています。次みたいな首長フラスコと呼ばれるものをつかって実験を行いました。
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パスツールは空気中から微生物が入ってくるのではないかとして、フラスコ内に培養液を入れたのち、その首を捻じ曲げて微生物が入らないようにし、その上で加熱して殺菌。そうするとフラスコの入り口付近には細菌が発生するものの、中には発生しないことを見いだします。これによって自然発生は否定されたということになります。
が、同じ実験をプーシェという人物が追試しています。そして細菌が発生することを見いだします。このプーシェは実験に失敗したのでしょうか?
実は違います。実験として正しいのはプーシェです。今の私たちが同じ実験をすると細菌の発生が確認できます。実は100℃(水の沸点)では死滅しない菌がいるのです。枯草菌の仲間です。プーシェは自分の実験から自然発生があると結論します。この結論自体は誤りですが、実験はきちんとしたものでした。
ですが彼の実験結果は無視されてパスツールの意見が世間に認められます。その理由は簡明で、キリスト教が後押ししたからです。キリスト教では神が世界創造の最初の7日ですべてを創りだし、その後は何も創っていないとしています。この教義を覆す自然発生説は邪魔ものでした。そしてパスツールを支持します。またパスツール自身が敬虔なカトリック教徒でした。
つまりパスツールによってなされた自然発生説の否定は(現代でも通用していますが)宗教の影響を思いっきり受けているということです。
――二つの例だけでかなり長くなりましたね。他にも山のようにあります。原子物理学の研究は原爆開発のために急速に進められた、なんてのもわかりやすいですね。これは政治などが関係してます。
このように科学というのは、人物もその理論自体も社会や宗教の影響を相当に受けているということです。
そして――これで最後にしますが――昔の科学と今の科学とどちらが進歩しているかというと、別に何も変わりません。これは科学革命やパラダイムシフトの記事を書いたときに説明しますが、乗っかっている土台(これをパラダイムと呼ぶのですが)が違うのです。
科学革命以前は別の考え方をしていたのであり、それに間違いを見つけることはできません。むしろとてもよくできており、物体の移動などについてアリストテレスをはじめ様々な哲学者がきちんと論理的に、かつ整合性を持った形で示しています。
現代に生きる私たちが彼らに間違いをつきつけるとしたら、最新鋭の望遠鏡でものぞかせることでしょう。データの面では確かに私たちに分があります。けれど私たちが説明できないこと――たとえば重力など――を彼らはいとも簡単に説明します(ただ乗っかっている土台が違うので納得するのは難しいですが)。
ようは古代の科学と現代の科学、乗っかっているものが違っていて、そしてどちらの説明も正しいのです。そして今後第二の科学革命が起きれば、私たちの科学は全部捨て去られます。今の科学者がやっていることは全部水の泡というわけです(まあいくらかは受け継がれるかもしれませんが、望み薄です)。すなわち私たちが乗っている土台の上では知識や理論は発展しているように見えます。が、土台を切り替えたらそれらは全部意味をなさないということです。
――――しまった。簡略化してるのにすでにもう長い!
えっとさらに駆け足になりますが、
科学というのが社会の影響を受けている以上、それが認知されるのも社会の力によってです(パスツールが一番わかりやすい例)。つまりその科学が正当なものかどうかは社会に認められなければならないということです。
もちろん科学者は自分たちに一定のルールを課しています。たとえば機械論に従わなければならない、など。ですがニュートンもパスツールもそういうのを無視して、社会に認められてしまったので「科学」になったのです。
したがってこの視点からすると、ニュートンの万有引力は正当な科学だと言えてしまうのです(ただ納得していない人たちがいたから、後世になって見直されるわけですが)。



だいぶ長く、そして小難しくなってしまいましたかね。これでも科学史とか科学哲学の分野だと学部生向けの教科書のほんの最初のレベルだし、それをさらに私がかみくだいたのですが……。
まあともかくタイトルの通りニュートンの提唱した万有引力というのは近代科学の基本原則からすると科学ではないわけです。ですが社会に受け入れられてしまったので、彼は「近代科学の父」となったということになります。


さて次回はニュートンのリンゴの木の話。こちらは今回よりもずっと楽な話ですので(になると思います(汗))、今回の記事で諦めずについてきてくれるとありがたいです。
by zattoukoneko | 2010-03-20 09:16 | 物理 | Comments(3)