カテゴリ:雑記( 55 )

今後の予定でーす。

今後の記事の予定でーす。てか更新遅れてる気がする!! ごめんなさい、記事の調整とかしているうちに色々タイミングを逃し修羅場ってます!! ……orz(←山積みの課題を思い出してしまったよの図)


まあ前からTwitterのことを書きたいと言っていたわけで、その準備をしていたわけですが。ぶっちゃけまして? 「また障害出しおった! ついたー氏ね!!」な状況なのです。
元々障害が多いところで、本社で開発を担当しているのって100人ちょっとだったかな? さらにサポート業務してるのは10人とかで、これで全世界のTwitterユーザーを支えているということになります。ここにさらに一般のユーザーが独自開発したものや、新しい使い方の提示とかが混ざってますし、委託して何か作ってもらうことももちろんあります。ようは――本社がわからないことが山積みになっているという?!
まあ今年の6月半ばに大壊滅をしてからそれがまだまだ続いているという感じですねー。それなりに安定はしてきていて鯨になる頻度は少なくなってきましたが(アクセス過多になると出る画像が鯨なのでこう呼ぶのです)、投稿のエラーとかはよく出ていて一進一退という感じ。はい、安定したと思ったら一気に崩れることがあるので平均したら「一進一退」が現状かと。

なのでー、もう安定するのを待ってても仕方がない気がしたので記事にしてしまおうかと!!
まあ元々取り上げようとしていたのはTwitterというソーシャルネットワークシステムの社会への影響という側面だったので、Twitterの機能に関してはそんなに知識は必要ないわけですねー。なので何とかなるだろうという判断。
ただし「まったく知らない」だと何を言ってるのかわからなくなると思うのでまずは基本的な知識からでしょうかね? 使い方をある程度覚えるまでにかなりの時間を要しますが(汗)

というわけでいくつかに記事を分けると思います。三つか四つくらい? まだ大まかな枠組みしか考えてないのでほとんど勘です。
また今回やろうとしているのはあくまで「社会的」なもの。使い方の解説ではないのであしからず(もうこれに関しては他の方がまとめられていたりしますし、正直使い方は人それぞれなので私は手をつける予定はなし)。
そんなわけでTwitter特集になるのかな? 色々思うところもあるので記事ももっと増えるかもしれないです。……そんなにたくさん考えてるからいつまで経っても記事がまとめられないのではないのだろうか?(滝汗)


Twitterの話をやった後はまだちょっと未定。とりあえずやりたいのは細胞分裂に関連する話。当初の予定ではまだいくつか他の記事と繋げてやろうかと思ってたものがあったのですけど、一度リセットするのもありかなと。
ただ完全にリセットして今までの記事を繰り返すのも変なので、そこはどう緩和するかですよねー。この辺りはうまく調整せねば。

…………調整ばっかりだなorz
by zattoukoneko | 2010-10-13 12:50 | 雑記 | Comments(1)

今回は雑談……?

今日は雑談~♪ 最近のことの報告でーす。
はーい、ぶっちゃけ次の記事が書けないんでーす♪ だから埋め合わせなのよ~♪

……………………はい、ごめんなさい音符マークとかつけて歌ってる場合じゃないですね。ごめんなさい。____orz(←地面に頭を擦り付けて土下座の図)

まあ書こうとしているものは決まっているのです。むしろ最近は話題に事欠かないくらいでして。なので書こうと思えば書けるわけです。
ただ何度か言ってますけど、ここのブログ記事っていくつも繋がっていたりして。また書こうとしているものも、それに興味を持ってもらい深い関心を持ってもらうためにはそれなりの予備知識も必要なわけです。表面的なことは書けるでしょう。が、それは私の伝えたいことを表現したものではないと思われます。またコメント欄にてTwitterに関しても扱いたいと述べています。が、ここが現在障害だらけでして……。元々そういうところなのですけど、それが拡大中。また新しいシステムとかも追加されていき――そしてさらに崩壊w いやあ、そこで生活してる人にとっては笑うしかないですよ、ホント。みんなで依存すべきではない、他のところで生活すべきとは言っているわけですけど、情報の伝達速度はひたすら早いし(そしてそれが問題だったりもするのでそれを記事の中には入れたいと思ってるんですけど)、そこにしか居場所のない人もいたりするのです。
この「そこにしか居場所のない人」というのは、ようは発言する場所を持たない人ということです。様々な理由で家から出られなかったり、自分の苦難を世に訴えることができない人が社会にはたくさんいるということです。私はここのブログで何か記事が書けるし、電撃文庫さんでありがたいことに掌編を掲載させてもらってたりする。でもこうした長い文章を書くことができる人ってやっぱり限られてる。またここへのコメントだって書くためには記事を読んで、それなりのことを書かないとならない。またすぐに返事が来るわけでもない。一方でTwitterというのは140字までという制限があります。ここで時間が合えばチャットのように会話ができる。また複数人集まって会話することもでき、話の中に割り込むことも可能。ようは井戸端会議をネット上でやるというようなものです。なので話がしやすい。この気軽さがTwitterのウリでもあるわけです。

でもこの気軽さをよくよく知らないと痛い目を見る。Twitterは「お遊び」でやりながら、でも「何かを訴える手段」となってきています。この二つのどっちをやっているのかわからなくなると簡単に誤解を生むし、そうすると不和を生んでしまう。結局は文字でのやり取りで相手の顔を見てなどの会話ではないのでこれはすぐに発生する。そして大事なこと。Twitterにいる人の中には「そこにしか居場所がない」という人が存在するということ。そうした人たちはそこでの繋がりをとても大事にしています。
ま、簡単に言えばTwitterにいる人の多くが精神を病んでる人たちということです。おかしくなってない人でこの世界にいることができるのは他のネット世界でも多い「荒らし」か、病んでる人も荒らしている人も全部受け止められるやたらと精神が強いかのどちらかです。実際荒らすだけ荒らして、きちんと物を言える人に反撃されるとアカウントを変えてまた荒らしを始めるとかいう人もいます。あるいは(本物かどうか知らないですよ、簡単に騙りができるのがネットですから)有名大学の教授とかプロフィールに書いて、人気を集めそれで自分の気に喰わない相手の言葉を捻じ曲げて自分の仲間に見せるというのができます。攻撃受けたら逃げるなんていうのはただの弱い人間なので私はどうでもいいと思うし笑ってればいいのですけど、後者は最低ですよね。すでにTwitter有名人になってるし、プロフィールが本物なら余計にややこしい。

まあ、それでもTwitterというのはこれからも残るだろうし、そうした方がいい気がしてきました。私としては本音としては「ついたー氏ね!」なのですが、というか頻繁にそうつぶやいてやってるのですが、ここでしか繋がれない人がいる。助けを求めている人がいるというのを知った。ならばここを正常な世界にしてやろうではないかと思うのです。
ただし「ついたー氏ね」は撤回するつもりはなし。実際海外の学者などもそんなこと『つぶやいて』います。そこには色々と事情があるのですけど、今回はそんな難しい話まではしないです。いくつか資料と予備知識を持ってもらわないといけないので。


今回は実は「雑談」じゃなくて、ひとつあることを「つぶやき」たかったのでこの記事を書いてみました。
    「私たちはTwitterという閉じた世界かもしれないけど、実際にここにいるよ?」
ということ。Twitterの中にはbotという自動的に反応するアカウントも存在しますが、それだって誰か“人”が作ったのです。私はTwitterというのはなくなってしまうか、もしくはきちんとシステムや法の整備がされなければならないものだと思っています。今は全員素人でその人たちが懸命にどう使うべきかを探っている段階。でもここの脅威は拡大中。開発者たちですらそれを理解できてなくて、良識ある人や知識人が警鐘を鳴らしているという感じです。
それでもさっきのつぶやきの持つ意味は重いと感じるのです。たった140字しか書けない世界。でもここの利用の仕方は何かあるはず。私はまだ「ついたー氏ね」とつぶやき続けますが、けれどここを離れずにいて最終的には「Twitterという世界があってよかった」とみんなで思えるようなものになることを望みます。



以上、140字を大きく超える『つぶやき』をしてみました。
by zattoukoneko | 2010-10-05 04:48 | 雑記 | Comments(1)

閲覧者数7,000件突破!!

さっき気付いたら閲覧者数が7,000を超えていました。パラダイム関連やるから報告できないと思ってたのに(笑)

パラダイム関連の記事は書き進めています。ただしかなり入り組んだ話となるので、それをいかに読みやすくするか(まだ全部は書き上げていないものの)全体のバランスをみて調整中。なのでちょっと時間がかかってます。

パラダイムの話が遅れて申し訳ないのですが、幸か不幸かそのおかげでこうして7,000件突破のお礼記事を掲載することができました。見てくれている方々に感謝です。


と、今回はついさっき気付いて書いたのでとても短め。
パラダイムの話は大体調整できたのですぐに出せるかと思います。(まあ、今日出すのはやめておいたほうがいいのかな? 出すとしても夕方になるだろうし連投は控えたいかも。せっかくのお礼なのにすぐに流れてしまうのもどうかと思いますので)
多分明日の朝にでも最初の記事は出すと思います。……断言できないのはやはり実際に文章に起こすと自分の意図していた通りには行かないことがあるからです(汗) 小説のようにキャラの影響なんてものは(書き手のもの以外)ないわけですが、書き足さないとやっぱり伝わりにくいとか出てきちゃうので。
ともかく近日中に公開予定です。

では、これまで見てきてくれた皆々様に感謝して、今回はおしまいにしたいと思います。
今後ともお付き合いいただけると幸いです。
by zattoukoneko | 2010-08-08 15:56 | 雑記 | Comments(0)

英訳してみた

今回は本当に雑記ですw 前みたいに重くないのでご安心を。最近あったことのお話です。

この前の雑記他人のことを理解することは可能か(言語編)で最後に触れてるのですけど、海外の方が私の書いた小説を読みたいと言ってくれていました。でもGoogleの翻訳にかけてみて全然読めないとすごく嘆いていたのですよね。(ちなみにその人の個人情報はさすがに明かせないですけど、研究者です。物理学関連のものを中心にメディアや文学、歴史に興味を持っておられます)
で、まあなんでそんなことになったかというと、私は日本にある四季や言葉・色から想起されるイメージというのを大事にしていて、それを物語の中に取り込んでいるのだと伝えたのです。で、そういうのって翻訳するのって難しいと思うんです、とこの前までの雑記の内容について語っていたんですよね。(ただし海外にいる方なのでメールでやり取り)
そうしたら逆に興味を持ってしまって。「日本の文化は今世界に広がりつつあるし、文学だって翻訳できるんじゃないか?」と。また「もし君の言うように日本特有のものがあって、それのせいで翻訳が難しいのかどうかぜひとも知りたい」と言われてしまいました。
そんなわけで――書いた小説を英訳してみた(苦笑)

まあ、突然愚痴ですけれど。
あのさあ、翻訳ってシャレにならないほど大変なんですけど? 最初から英語で頭の中で文章組み立てられるわけじゃないからとんでもないほど苦労します。それに(なんかすでに結論ですけど)やっぱり日本語から英語にするの厳しいです。
たとえば第8回電撃掌編王受賞作の『好き好き大好き、だから嫌い』では一人称をトリックに使ってます。(あー、見てない人いるかもしれないのでこれ以上はネタバレ禁止。知りたい人はここ見てきてください。『好き好き大好き、だから嫌い』山本辰則様からの質問 キャラクター・世界観設定 プロット説明 最終的な山本辰則様への回答
で、日本には一人称っていっぱいあるのです。いくつか例を挙げてみますね?
私:女性的、もしくは丁寧な感じ。
僕:男の子ってイメージ。優しさや、大人しめの印象も。
俺:青年の一人称。やや粗野なイメージがするかと。
わたし:私に近いけれど、さらにおしとやかな感じかな?
あたし:元気な女の子って感じがしますよね♪
これまだ一例。それぞれカタカナにするとまた印象変わります。他にも自分の名前を入れて話す人もいますよね。これは親しい友人らや恋人なんかと話すときにはいいかも(だれかれ構わず言ってるヤツ、正直イタい。というか先輩や先生にそれやるなとキレたことあり)。
でも英語の一人称って? 「I」しかないんですよね。だからこの微妙なニュアンスが出せない。
またこの「I」って大文字ですよね? 別に文の先頭になくても常に大文字(ただしスラングやネット用語では小文字になることあり)。これは何故かというと、「自分が絶対」だから。傲慢というわけではないのですよ? ただ自分たちのアイデンティティを絶対視する人たちですからね。ただそうなるとやはり日本人の奥ゆかしさとかが出てこない。一人称による区別もできない。ひたすら「I」しか使わないと男か女かすらわからないという始末。これ……論文とか読んでて、まとめたときに先生に見せたときに、「彼じゃない。彼女だ」と何度も注意された経験がorz

で、話は戻るのですけど、その方がどうしても読んでみたいというので、「長いのはさすがに時間がなくて無理」と断って、最初に翻訳にかけたという『好き好き大好き、だから嫌い』を全文私が自力で(泣きそうになりながら)英訳しますた。
そしたら、「確かに伝わりきらないところがある」と言われました。代わりに英語の特性も活かさせてもらいはして、アレンジしたんですけど。たとえば「秋」はfallなので、葉っぱが落ちるときの動詞にもfallを使ったり。Ginkgo leaves leave into the place. とか書いてみた。
…………はい、ゴメンナサイ。ちょっとやりすぎな気がします(汗)
でまあ、これ終わったから「おしまいぷーん♪」とか思ってたら、日本の文化にさらに興味を持ってしまったようでして。ブログ右上にいる子は何って訊かれたから「Yuki-Onnna」とか答えたらwikipedia辺りで検索したらしくて、「一体どういうものなのだ」、と。「怪kai」とはまた別物なのか? 画像で見るともっと不気味なんだけど?、と質問攻め……。これ、すごい頑張って説明した。全部は説明しきれないけど、とりあえず、「日本は狭い気がするかもしれないけど地域差が大きいので同じ『雪』でも怖いと思ったり綺麗だと思ったりする。だから『雪女』も怖ろしく描かれたり、いいものとして書かれたり、千差万別」と説明。
子の中でさらに日本人の宗教観(というよりは道徳観に近いと私は思っているけど)としてある「八百万の神」とか「色に対する感じ方」とか説明してたら私への小説への興味がさらに大きくなったらしくて(汗) いや、いいことなのですよ。海外の方にも興味を持ってもらえるならそれはそれで嬉しいことだし、英訳すれば自分の勉強にもなるし。それに海外の方と話せば自分も見えてくるものですよ。(それに相手の方も理解しようとすごい努力してくださる方で。それはそれはよい交流でございました。というか続き中)
まあそんなことがありましたので、なら幽霊の出てくる第2回電撃リトルリーグの『卒業宣言』とかも訳してみようかと。あと日本語ではうまくタイトルに反映できなかった『最初で最後の甘いくちづけ』はタイトルを変えて、Sweet Kiss: The Sickness Unto Deathとさせてもらいました。ちなみにキルケゴールの『死に至る病』の原タイトルです。The Sickness Unto Deathは。

結果としてそれなりに満足してもらえたようで。わからないところはいっぱい残っているのだけれど、でも色々と興味を持ってくれたようです。
でも小説の翻訳はもう嫌です(泣) 正式な文書とかとは違って、ある程度崩さなきゃいけないし、先にも言ったように言葉を選ぶのが大変です。書く文章もできるだけナチュラルにしなければならないですし。(でもそんなものスラスラ書けるほど英語の小説読んでないですしねぇ。どうしても文章が堅苦しく、そして無理矢理崩そうとして文法がわからなく……)
でもいい経験になったことは間違いなし。何か英語でも小説書けるような錯覚を起こしたし!(錯覚と自覚してます、はい)
ちなみに一番人気は……『卒業宣言』を訳したDeclaration of graduateでした。なんか、やっぱり穂波と主人公のその後が気になるとか。
とりあえず――Imagine!!、と放り捨てておきました(ぇ
by zattoukoneko | 2010-08-04 09:25 | 雑記 | Comments(1)

閲覧者数6,666!!!!!!

閲覧者数が6,666件となりました! というかその瞬間を偶然にも見てしまった!!
しかもその瞬間にやっていたこと。

   ツイッター上で、作家として巨匠である団鬼六と話をしていた。

はい、「六」が入っております。びびっておりますww ここまで6が繋がると自分でも「こわひ! こわひよぅ!」と歓喜の悲鳴をあげております。(「喜び」なの「悲しみ」のどっちなの? 自分でもよくわからないですw)


ともかく6,666件ヒット御礼です。予告していた通りにやらせていただくことにしました。
なお私が6をあえて自分の数字をする理由に関しては、完全数とかピュタゴラス学派とか関係なく、「社会に流されて自分の居場所を見失いたくはない。むしろ『不吉』、『駄目』と言われているからこそそれを誇りに思い自分のアイデンティティとしたいと考えているから」です。
これについては6,000件突破のときに少し触れました。閲覧者数6,000件御礼
自分は自分。他の人と繋がりながらできているのだけれども、でも流されているだけではそこに自己が立つ位置はなくなってしまう。だからこそ私はあえて不吉だといわれている“6”を自分の数字としております。それは私にとって、きっと自分を見失わない柱の一つとなるだろうから。
この考えについては他のところでもいくらか述べています。場所が散逸していますのでリンクは割愛。


ということで短いですがご報告させていただきました。ちょうど7月の終わりですね。(あ、ここは6月にはさすがにならなかった……)
次回からはパラダイムの話ですかね? 他の記事も用意していたので――どうしよう? また調整ですかね。
なお次回の閲覧者数の報告は7,000なのかな? 7,777なのかな? パラダイムは長い特集となるので報告は途中で入れられないかと思います。御礼も述べたいですけど、ここは一気に繋げたいですので。
では少し調整してパラダイムの特集へ移りたいと思います。その後への繋がりも考えたいですしね。
ということで今回はこの辺りで。ではー。

ちなみに、これ6,666を確認したよってツイートで報告した瞬間。(ツイッター参加者じゃないと見れないのかな? 一応リンク)
6666の確認時ツイート
by zattoukoneko | 2010-07-31 21:15 | 雑記 | Comments(0)

人は他人を理解することができるのか③

さて、「人は他人を理解することは可能か否か」というテーマでの四つ目の記事となります。内容としては三つ目ですねー。今回は現在の国際情勢に関してとなります。
とは言っても世界は広い! とてもではないですけど全部の国を見ることなどできません。(←記事の分量の問題だけではなく、書き手の能力を軽くオーバーしております)
てなわけですので注目すべきところに絞るしかないだろうと思います。そうなると各国の思想が最重要テーマになるだろうと。日本では思想というと宗教と別にしがちですが、これが一番大きな要素となるのでここを中心的に見ていくことになるだろうと思います。(ちなみに日本だってきちんと宗教に基づいて今の国民性がつくられているのですよ、やっぱり。なのでこれについては後述します)


では本論に移りましょう。
ここ最近の日本のニュースでは、ワールドカップ・梅雨前線による九州四国地方の土砂災害・参議院総選挙・口蹄疫・ついこの間は茨城を中心とした関東圏の雷雨・そして東北などにも消防庁より大雨に注意との報告が出されました。(え、予想タコのパウルくんによるロシアの大統領選挙予測? 知りたい人はググれ!)
日本だとやっぱり国内のものが中心ですが、他国の大手ジャーナリストたちは「ワールドカップ? 何それ、おいしいの?」と完璧スルーです(実際には少数ながら記事はあります。ただし政治と絡めてですね。「北朝鮮はワールドカップを利用して国内外に自国の力を見せようとしている」というのとか。そして実際にその通りで、大敗しそうだと感じた瞬間に見事に途中で国内での中継をやめたそうですが)。では何が今話題になっているかというと、一番多いのは中東関連です。未だにアフガンの方では様々な問題が起こっています。そこにアメリカがどう関わっていくべきかなんてことが各国メディアで論じられているところ。またメキシコの石油流出もかなり問題視されていますね。現在はBonnieが接近中ですか。これによる影響が懸念されています(なお速報。7月28日の夜に予期していたよりも被害は早く収まるのではないかという記事が出てきてます)。
Bonnieなんていうのは自然災害ですからこれに関してはここ数回のテーマとは外れますね。なのでここは飛ばします。見るのは中東やアメリカの関係についてです。
現在9.11テロ事件から中東の問題は発生したと考えられがちですが、実際にはずっと昔から根深い問題だったわけですよね。これに関してざっと触れていこうかと思います。
そもそもアメリカにはWASPなんて言葉があるくらいで、自分たちを絶対視する傾向が強いです。――と書くとアメリカの人に怒られそうですねw 別に彼ら彼女らは自分本位で自己顕示欲のかたまりなわけではないです(全員に当てはまらなかったりもするわけですけど……)。ただアメリカというのはコンプレックスという負の方向から自分たちのアイデンティティと国民性を形作っている節があります。アメリカはヨーロッパから移住してきた人々によってつくられていますし、国ができてからの歴史が浅いというのもあります。日本も明治維新Meiji Revolutionによって歴史が転換されたとされますが(Revolutionとはそれまでの歴史や社会が全部覆って新しいものになるという意味です)、よくよく調べてみると繋がっている部分が多いのですよね。ですから『革命』とは言いがたい。確かに和算とかは捨てられているわけですが、武家の血筋たちはその後政治家や科学者を目指すようになって、まだ階級の概念が残っています。今でも名家っていうのは実際にありますよね? また明治維新直後には様々な思想家が西欧の知識・技術を導入する際に日本人の思想は維持したままそれが可能なのかどうかを議論しています。日本の精神を維持したまま西欧近代科学/技術を導入する考え方のことを「和魂洋才」といいます。で、この反対に「洋魂洋才」(という言葉はないのですけど)を唱えたのがかの有名な福沢諭吉の『学問のすゝめ』となります。
えー、日本の話が長くなってきちゃいましたので軌道修正。
アメリカは移住してきた際に、では何を基盤としていたのか? さすがに何もない状態から始まるわけではないのです。移住してきた人たち、ということは元々どこかに住んでいたわけなので何らかの背景を持っていて当然だと言えるでしょう。ではそれはどんなものだったのか?
実は前にいくらか触れた記事があるのですよ。なのでそちらも参考に。数行にまとめたものも後で書きますけど。人権平等問題
この記事で述べているようにアメリカという国は「アメリカ化」というものによって成り立っているような国です。そしてそれによって他国へも「フロンティア」を広げているということになります。
また自分たちのアイデンティティを揺るがされると一致団結して暴徒化するというのは、9.11など以外でも時代を遡ればいくつも事例が出てきて、有名なのではKKK(Ku Klux Klan)なんていうのがあります。簡単に言うと白人至上主義を掲げた秘密結社のことですが、普段は黒人とかと普通に同じ街中で生活しています。が、黒人(後には他の有色人種や白人すら含まれます)が自分たちの暮らしを脅かすようなことをしたと感じると白い三角頭巾を被って集団で暴行を加えるという人々のことです。よくあるのは「ある黒人に白人の女の子が襲われた」なんて噂が流れると一気に結束します。
こういうのがアメリカという国の背負っているものとなります。ただし現在、いくらか変わりつつはあるのです。多文化主義や文化多元主義なんて考え方も出てきていますし、アメリカ化を試みた一世の日系人の孫たち(なので三世ですね)が自分たちの起源を探ろうと試みたりしています(なおアメリカ史に関してはこの本から注をひたすら辿っていくといいかと思います。アメリカ研究入門 あ、ちなみに全部で数百という文献がリストアップされます。これ「入門」と書いてありますし、文献の入手先なんかに関しても詳しく書いてあるのですけど、詳しく勉強するにはやはりそれだけの量をこなさないといけないということですね。まあ持っていて損はしないのでご紹介)。
でもまだ「いくらか」ですね。9.11のような大きな事件があると長いこと結束してしまいますし(反戦派の人たちがある程度の数になるまでどのくらいかかったか思い返してくれればよいかと)、現在でも中東や北朝鮮などとの問題を抱えたまま、しかも深刻化させていっているわけですし。
もちろん自分たちを防衛するというのは、人間として自然な感情です。攻撃・侵入をされたと考えば勝手に体や感情は殻をつくるなり針を生やして反撃することになります。ただそこに他の要因が絡んでくるとそれが過激になったり長引くこととなります。アメリカは先に説明したとおりですが、イスラエルの情勢なんていうのもこれに当てはまると考えられます。
これは単純な説明でありもっと多面的に見なければならないものなので、以下に紹介するのは一つの側面でしかないと思ってください。
エルサレムというのは多くの宗教にとって聖地となります。ユダヤ教、イスラム教、仏教など大きなものを見るとすべて聖地とされていますね。で、一番大きなのは「パレスチナ問題」などと呼ばれるやつですね。
エルサレムを首都とする(ただし国際的には認められていません)イスラエルは国連決議181によって、1948年5月14日に独立宣言を出してできた「ユダヤ人主導」の国家です。この「ユダヤ人」および「ユダヤ教」というのがとても重要なファクターとなります。
ユダヤ教というのはキリスト教の前身ですね(どうでもいいですけどキリストは当然キリスト教徒ではないです。ユダヤ教徒なので間違えないように)。ユダヤ教は紀元前1280年頃にモーセがエジプトの社会的な下層階級の人々(ヘブル人と呼ばれます)を国外へ集団脱出させる「出エジプト」と、その途中でシナイ山というところでヤハウェと「モーセの十戒」を結んだことによりできたものです。
「モーセの十戒」に関しては名前は皆さん聞いたことあると思いますが、中身は知らない方が多いでしょうね。十項目なので全部羅列してもいいのかもしれないですけど、重要なのは二つだけなのでそれのみ掲載しておきます。
1. 主(ヤハウェ)が唯一の神であること
2. 偶像を作ってはならないこと
この他に八つ項目があるわけですが、それらすべてを含んだ十項目を守れば永久に未来永劫――とは使ってはいけないので――永遠に民族は繁栄し続けるというものです。
モーセに率いられた人々はカナンという場所に安住の地(約束の地とも呼称)を得ます。しかし紀元前587年に新バビロニアによって滅ぼされ、これまた有名な「バビロン捕囚」が起こります。この後ユダヤ民族は安住の地から引き離され流浪の民となります。彼らは他の民族らから酷い差別を受けましたし(『ヴェニスの商人』など)、一番有名なのはヒトラーによる大虐殺ですね。
バビロン捕囚の最中からすでにユダヤ教徒は考えていたことですが、自分たちは戒律を破ったからこんな目に遭っているのだとそう考えるようになりました。
具体的にはユダ王国の国王らが戒律を守らなかったと考えています。有名なのはマナセ辺りでしょうか? 他の神を崇拝しましたし、偶像もつくってしまいました。これは先に挙げた二つの戒律に反しており、バビロン捕囚を起こすことになった張本人であるとすら言われています。
こうしたことがあった結果、ユダヤ教徒は新しく自分たちの信仰について考え直し、唯一神の信仰を必ず守るなど自分たちに厳しい縛りをかけます。そしてそれを守っていればいつかは安住の地へ帰ることができるのだと考えるようになります。
で、それが達成されたのが先に紹介した第二次大戦後の1948年のことなわけです。(途中シオニズム運動とかありますけど割愛)
しかしこれによって民族間の闘争が起こることになってしまいました。ユダヤ人たちを無理矢理押し込めた結果、そこに住んでいたアラブ人たちが追い出されます。これがパレスチナ難民と呼ばれているもの。彼らは反イスラエル主義となり過激派となります。これがパレスチナ問題。
そしてここにアメリカやらロシアやらがどんどん介入してきてるのですよね。戦争があれば国が儲かるというのは第一次世界大戦で消耗戦を経験するまで信じられていたことですし、アメリカもベトナム戦争で失敗するまでは勝ち続けだったわけです。そしてまだそれを信じる人もいるということですね。で、それら圧倒的武力に対抗する人たちは自爆テロをするということなのですよね。これ、『FINAL FANTASY X』の紹介で触れてますね。 前々から注目をしていた問題ということになるわけですねw FINAL FANTASY X 紹介(ネタバレ・注意)
ここまで書いてきた内容やFFXの紹介記事を見てきてくれると大体の宗教の状態とかわかるかと思います。これじゃ全然足りないのですけどね(汗)
ざっくりとまとめてしまえばそれぞれの思想を互いに理解するというのは難しいことです。ユダヤ教徒たちは一神教を絶対に守ろうとしている。ならば多神教の人々とはそうそう簡単には打ち解けることができません。不可能だと決め付けるには早急だと思います。ここでの論はまだまだ浅いですから。もっとじっくりやらなければならない。
ただここにさらにそこで生きてきた環境が個々人で異なるわけですから他人を理解するのはさらに難しいこととなるのかとも思います。ここには①と②で書いてきた内容も含まれますので後でもう一度まとめなおしましょう。
日本のことも気になりますよね? だって私たちはここ日本に暮らしているのですから。自分たちのことを知らずに(つまり自分がなくて)どうして他人を知ることができようか!、ということです。
ただこれに関してはお守りの話と結びつけて少し触れています。それがこれ。お守りの中はなぜ見てはいけない?
ここでいくらか触れていますが、日本人はありとあらゆるものに神性を感じ取ります。「八百万の神」というやつですね。つまり多神教に分類されます。ただこれは他のヒンドゥー教とかと違って明確な神がいるわけではありません(スサノオノミコトとかいるにはいますけど、今触れているのは別の「神」)。なのでこれを他の宗教観、特に明確な神を持っている人に理解してもらうのは難しいです。海外の人とかに説明すると一応興味は持ってくれるのですけどね、そこから先どこまで「理解」や「納得」になるのかは難しいところかなって印象をよく持ちます。(というか今の日本人でもそれが伝わらないことが……。特に都会育ちの子たちと話すと夜空の星を見上げたことすらないという)



さてそろそろ全体のまとめ。
人には人の背負っている社会・文化・歴史・道徳観というものがあります。それは主に育った環境に影響を受けてくるものだと考えられています(遺伝の要素もあるのがわかっていますけれど今回は省略します)。大きくは国などが関係するのでしょう。あるいは故郷や家庭。それらの影響を大きく受けつつ、さらに個人は個人でやはり別の人生を歩んでいます。そうなればあたりまえのようにお互いの意見や立場は違うはず。
ただだからといって私は個人主義を勧めたいわけではない。むしろ反対をする。個人は「“個別”の人」という意味ではない。「“各々の個=アイデンティティ”を持っている人」という意味である。そしてだからこそ他人とぶつかるし、その上でお互いを尊重して意見交換をすることができる。それができれば人は、苦しみつつではあるが、きちんと成長することができると私は考える。
まあ、ただ残念ながら今の人たちの多くは肝心のアイデンティティがなかったりしますけど。気付くと周りの意見に流されて、自分の立ち位置から浮いちゃってしまう人もいます。本来なら“流される”ときでもそこには何かしら自分の心の揺れがあるはずだし、そしていくらか考えるのだと思うのですけどね。それに気付けない(というか気付くのを放棄しちゃった)人がたくさん出てきてるようです。こういう人には何でもいいから感動したものがあったらまずそのときの気持ちを大事に抱えておいて欲しいなと常々思います。考えるのはその先。まずは人間としての心をしっかりと持つのが重要なのだと考えています。
ということで記事タイトルの「人は他人を理解することができるのか」に対して答えをば。
   ぶっちゃけ不可能じゃないとは思うけど、めっさ難しいっす。
おおぅ……ここまで内容をひたすら難しく書いてきたのに一気に台無しに(汗)
いや、オチではありません。ここまでの記事を頑張って読んできてくれた方にはわかるかと思います。つまり「ここに書いている人がいます」って気付いてもらえたでしょうか? この人は何を考えてるの? それ以前に何を感じてるの? そういうことを考えることが他人を理解するということだとここまでで頑張って書いてきたわけです。もちろんいきなりそんなものを読みとこうなんてのは難しいことだと思います。焦ると心を忘れ、頭で考えるだけの機械のようになってしまいますから。
ですので何でもよいのでまずは感じるところから。「何やら考えてる人がいるなあ」とか「おかしなこと書いてる人間だなあ」でもよいわけです。そこに『人』って入ってるでしょ? それがきっと他人を理解するための第一歩であると信じて結びとしたいと思います。

ちなみにオチはコメント欄にて(ぇ? オトすの?
by zattoukoneko | 2010-07-29 07:52 | 雑記 | Comments(1)

人は他人を理解することができるのか②-2

「人は他人を理解することができるのかどうか」というテーマの言葉に関して二つ目の記事となります。
前回の記事の内容を簡単に振り返っておくと――全世界の人に見えるように空にいくらでもメッセージが書けると仮定。この際に(内容も大事ではあるのですが)何語で書くことにしましょう?――というのがまとめで、導入となります。
では本論となる今回の記事を書いていくことにしようかと思います。



まず真っ先に考えそうなのは、やはり全世界の人が見るのであれば(誰か個人宛でないのならば)多くの人が読める英語を使うことなのだろうと思います。
まあ、この記事を読んでる人のほとんどが日本人だと思います。(実は時々海外の方も見にきているらしく、そして読み解くのできないよ、とコメントいただきました。えっと……翻訳してくれと言われてもそれはちょっと厳しい(汗))
となると英語で書くのは厳しいだろうなと感じるかと思います。かくいう私もその一人。いや、いくらかは書けます。ですけど後々述べるように中途半端だからこそ難しいとより感じています。
英語がまったく書けないという人(いあ、実際にはThis is a pen.くらいは書けるでしょ?)はとりあえず文法はしっかりしていて、単語も辞書を使えばいけるだろうというレベルにあると想定しましょう。さてこのレベルで実際に海外の人に自分の気持ちをきちんと伝えることができるでしょうか?

ちょっと難しい話が雑じりますが――
和英辞書で「安心」が何という英単語になるのかちょっと検索してみてください。私はとりあえずジーニアスを使いますね? 以下出てきた単語。
relief: 苦痛などが去った後の解放による安心感
ease: 精神的な気楽さ
rest: 平静
security: 安全・無事
となります。
この中に私たち日本人の「安心」は見当たりますでしょうか?
ぱっと見るとreliefとeaseは近い感じがしますね。ただしreliefは「大変な目に遭ったけど、何とか凌げてほっとしたー」という“安心”で、easeは「まあ、なんとかなるっしょ!」という安楽的な気持ちを表現します。(なおrestは「(主に時間的に)余裕があるなー」という感じで、securityは「害がないと思う」という意味です)
確かに私たちの使う「安心」はこれらの意味を含みます。ですから英語に訳す場合にはこの中から適当なものを選べばよいだろうと単純には考えられます。
ですが英語圏の方が「安心」という日本の単語を見たとき、それは自分たちの使っているどの単語に相当するのかは前後の文脈から判断することになるかと思います。これは相当に日本語に堪能な人でなければ悩むところだろうと。そして逆もまた然りなのですよ。私たちも英語を読むとき、それが何を指しているのか悩むことがあります。何か簡単な単語でいきましょう。enoughというのはなんでしょう?
これは中高で「十分」って意味だと習ったことだと思います。まあ、その通りでそのまま訳せば何とか意味は読み取れます。では日常会話でいきなり、
“Enough”
と言われたら? あるいはもう少し丁寧に書くとThat’s enough.ですね。
これは直訳すると「もう十分だ」となり、感情をこめて訳すと「もう飽きてきた。もうそれ以上は要らない。これでおしまいにしよう」という負のイメージです。正の方向の感情で「十分だ」と伝える場合には”All right”や”Okay”などです。略記する場合には”OK”ですけど、スラングに近いので目上の人には使えません。
と、ここに並んでる単語たちって中高ですでに知ってるようなものばかりですよね? でも今書いたように読み間違えたり、あるいは軽い気持ちで”OK”などと言おうものなら一気に嫌われるということです。
さて英語での意思疎通が難しいことがこんな簡単な単語ですらいくらかわかってきたのではないかと思います。さてはて今度は日本語を伝えましょうか。さっき取り上げていた「安心」という単語について。
実は一つ大きな意味・感情が英語にうまく訳せないのです。それは「安心して暮らせる」というようなときに使うものです。
さっき並べた単語と照らし合わせると、easeが近い気がしますが、これは“楽観的”という意味合いが強くなります。ですがよくさっきの意味で使われるのは原発などの建設に反対するときに「安心できない」と言うときです。つまり“負の感情が付きまとっているから何とかしてくれ”という訴えです。となるとreliefが近いのでしょうか? いや、今苦痛を感じているわけではないのですよね。このときに言う「安心できない」は気持ちのざわつきが抑えられないという意味合いを含んでいます。これを解消してくれということになりますが、このような心の乱れが取り除かれたときに使われる英単語は実は見当たらないそうです。つまり『よっぽどうまくこの気持ちを丁寧に伝えないと「安心」という言葉とそこに含まれる感情を伝えられない』ということです。そして風土が違いますからその気持ちの“ざわつき”を伝えることはさらに難しいこととなります。(さあ、「ざわつき」を和英辞書使って英単語にしてみませう! 何か適切な単語は見つかりましたか?)

ちょっとここらで原発の話が出てきたので、建設者側が反対住民にする説得の一例を挙げましょう。大体こんなことを言うわけです。
「この設備は安全であり、事故が起こる可能性は極めて低いものです。ですから安心してください」
これ間違いだろってすぐにつっこめますか? 「安全」だから「安心」できるわけではないのですよね。反対住民が言っているのは「それは過信ではないか」「予期できていないトラブルだってあるんじゃないのか」そしてこれはなかなか口にする人が少ないですが「事故の起こる確率が低いとしたって、一度事故が起こればその被害は甚大じゃないのか?」です。
実は建設者側はリスク論というのを使って話をしています。簡単にリスク論について説明しますね。リスク論では次のようにリスク(=被害)を計算します。
  リスク=事故の発生確率×その事故による被害
となります。
たとえば原発に大きな事故が起こる率を100年に1度としましょう。その事故による死亡者数は10万人だとします。となると一年に死ぬのはたった1,000人。だから原発側は「安全」と主張するわけです。
ちなみに交通事故による一年間の死亡者数は現在5,000人とかです。多いときは10,000人超えてる年もあります。まあ、参考資料出しときましょうか。
交通局交通企画課資料(pdf)
リスク論によれば、交通事故なんかと比べて原発の被害なんてものは大したことがない。したがって安全であり、住民は安心して暮らすことができるだろうという論法となります。でもこれって(英語が細かく分かれてますし、リスク論自体欧米圏でできたものなのでそれで表わしますが)securityなのですよね? 住民が求めてるのと全然違う。反対住民が思うのは、「その事故はいつ起こるか知らないが、明日かもしれないし、子供や孫の世代かもしれない。だがいつにしたってそのときに生きている人間が10万にも死ぬってことじゃないのか? それを受け入れろってことか?!」ということでしょう。だからこそ「安心できない!」と訴えているわけですね。この両者が考えている「安心」が異なっているため、論争はいつまで経っても平行線というわけです。仲介しようと名乗りを挙げているSTSの分野もどちらかというと学者寄りですし(だって科学を市民に啓蒙しようという考えを軸にしている人が多いですから)。
さて、原発の話などにも触れてしまって小難しくなって来た気がしますが、それでよしw それだけ難しい話ということです(苦笑)

ここからまとめを始めようかと思います。
言語は一対一には対応していません。これはそこの言語圏に生活している人たちの文化から多大な影響を受けているからです。「安心」という言葉は実は日本以外では見つけることが困難なようです。すなわち日本という国の風土がつくってきたものであり、そして他の国では育まれなかったものなのです。これを伝えるためには非常に多大な労力を必要としますし、お互いに理解しようと歩み寄らなければなりません。そしてそれはとても難しいことです。
たとえば四季があり、そしてそれに風情を感じる日本人はそれを利用した文章を書きます。これは昔からですね。和歌や短歌なんてものがありますし、小説などでも四季を扱います(電撃掌編王にもお題として「春夏秋冬」が入ってましたしね)。ですがこれを四季に特に風情を感じない、そもそも四季がない人たちにどう伝えればいいのでしょう? 考え始めると難しいと思えてきませんか?
またリズムという問題もあります。専門書などは意味が伝えることができれば十分に役に立つでしょう。ですが小説や詩などでは文体や音によって魅せるということもあるのです。
有名なベートーヴェンの第九より。第四楽章:Prestoにある合唱部分の歌詞を抜き出してみましょう。
O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern lasst uns
Angenehmere anstimmen,
und freudenvolle.

Freude! Freude!
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elzsium
(以下略)
となります。まあ、ちょっとした雑学を入れておくと最初の四行のとこのみベートーヴェンの付け加えた歌詞で、元々はフリードリヒ・フォン・シラーという文学者の詩に曲をつけようというのが第九の誕生に繋がってくるわけです。Freude!の部分からはシラーのものとなります。
で、注目すべきはベートーヴェンが最初に書いているFreundeとシラーのFreudeですかね。前者は日本語訳すると「友」で後者は「歓喜」です。日本語にしちゃうと音がまったく合いません。ですがドイツ語のほうはうっかりすると読み間違えそうなくらいそっくりな単語です。音は――まあ、第九のCDの一枚くらい持っておきましょう!(だって文字じゃ表現できかねるじゃないですか?!)
まあこのように詩なんていうのは訳すのが困難なものの一つというわけです。

もう一つくらい例を挙げておきましょう。ちょっと時事ネタですが。
少し前にトヨタのプリウスでリコール問題が発生しました。このとき豊田章男社長が会見に際してまず“謝罪”を行なったそうです。が、これが問題視されました。一つに欧米圏、特にアメリカから「その発言はつまり自分たちの非を認めているのだ」とされ、悲しいかな日本でも「経営者の責任能力が欠けている」と言われてしまいました。
確かに英語圏の人にすぐに謝ってはいけないなんて話をよく聞きます。彼らは責任の所在を明らかにしたがる傾向がありますからね。(あ、別に私はこれを非難するつもりはないですよ? そういう歴史をこれまで積み重ねてきたわけですから。ただそれに固執して他者を理解しようとしない傾向が強いとは感じてますけど)
ですが(まあ本人に直接訊いたわけではないですからわからないですけど)豊田社長としては不具合による被害者の方々に“お詫び”を言いたかったのでしょう。彼ら彼女らのことを心配しての発言だと考えられます。しかしこれが他国には伝わらなかった。(あ、ちなみにすぐに「詫び」って和英辞書で引きました? 全部謝罪の意味になってると思いますよ)

このように言葉の伝達というのはすごく難しいわけです。政治なんかでは通訳なんてのがついていきます。政治家には英語の能力がないわけではなく(と信じたい)、より正確に意図を伝えるために専門家を用意するというわけです。
(あ、なお通訳の職につくのって超難関です)



大分長くなりました。language(発音による言葉のみに限りません。ここにある文字も含みますし、ボディ・ランゲージのことも考えています)による意思伝達というのは難しい。そこにある社会背景を知らないとならないし、時にはその人個人のことさえ理解する努力をしなければなりません。このように単純に言葉を切り替えればそれで済むという話ではないわけです。
ならば現代の社会はそれができているでしょう? 今回トヨタの話題を出したのでもう予想はついているとは思いますけど、次回記事にて現代社会の状況や宗教などに関して簡単に触れようと思います。
ということで今回はここまで!

余談:ここのブログに私の掌編が掲載されています。たとえば、第8回電撃掌編王受賞作『好き好き大好き、だから嫌い』 をGoogleの翻訳にでもかけてみてください。途中で触れた海外の方ですけど、これやって――さっぱり読めないと嘆いていました(汗)
by zattoukoneko | 2010-07-26 06:24 | 雑記 | Comments(1)

人は他人を理解することができるのか②-1

「人は他人のことを理解できるのどうか」というテーマでの記事二つ目です。
前回記事のコメント欄で述べたように、これってそうそう簡単に書けるような内容じゃないよなあ、と思いながら書き進めていくところです。



今回は国際交流、特に言語に焦点を当てて論を進めようかと思います。
と言いつつ、いきなり問いかけ。というか想像してもらいたいこと。ではいきましょう。

想像してください。今あなたは空というキャンパスに、海というインクを使って好きなように文字を書くことができます。あなたはここに何と書きますか?

…………なんかの心理テストみたいですけど、全然違うので。普通に問いかけです。
というのもこの問題は私が小学校5年生のときから考え続けているものだったりします。これはかなり難しく、重要なものなのではないかと。
ちょっとどこが重要なのかの解説は置いておき、せっかくカテゴリを「雑記」にしているので昔話としてどうしてこれを考え始めるに至ったかについて触れてみようかと思います。というかそれを話していったほうが私の考えてることがわかりやすいのではないかと。
きっかけは『クレヨン王国 月のたまご』でした(この中のPart. 3?)。ヒロインのまゆみ(に限らずですが)はよく詩を書いている、というか歌っているのですけど、その中に離れた場所にいる好きな三郎に宛てて「もしこの空というキャンパスに海のインクを使って手紙を書くことができたなら」というようなものがあったのです。これだけ見ると壮大なラブレターなのですが、ふと『空に書くってことは他の人も当然見るよなぁ?』と思った瞬間にこのラブレターという制限が外れまして。それをまとめるとこうなるのだろうと。

今あなたが書こうとしている文章は全世界の人が見ることができます。その状態であなたは誰に宛ててどのようなメッセージを、何語を使って書きますか?

今回のテーマだと“何語を使って”というのが一番重要になるわけですが、ちょっとそれは置いておき、これは結構重要だと思うのでもう少し考えてみようかと。
『クレヨン王国 月のたまご』のまゆみは世界の中からたった一人の大事な人に向けてこれを使おうと考えたわけですが、これはこれで確かにありだとも思うのです。たった一人だけを全世界の人の中から選び抜けるというのは素晴らしい力だろうと。
一方で、やはり全世界の人が見るのだから、とも思うわけです。ただしまゆみのように誰かのためだけに力を尽くすのだって、それを見た多くの人には何か大きなものを感じさせることだろうと考えます。だから彼女のことを否定できないし、するつもりもない。そしてだからこそ難しいとも感じるわけですw まゆみは完璧なまでに一人に相手を絞っているし、何か書いたらそれで他の人に影響を与えることすらできる気がします。しかし(これを文章書いてる人間が言ってはならない気がしますが)それだけのことは簡単にはできないだろうと。まゆみ自身ですら結局「これを書く」とは明確には言ってないですし。かといって全世界の人に伝えるべき(たい)ことってなんなんでしょうね? これは次回の現在の国際情勢なんかを見つつ再考したいところ。

とりあえず以下ではまゆみのように一人に絞った場合ではなく、あるいはすべての人が想定して話を進めていこうかと思います。この場合伝えたい内容もそうですが、使う言語も大事になってくるだろうと。今回はこの言葉の方に関して取り扱おうと思います。
――という感じなのですか、すでに導入にして長いという(汗)
これから先は区切るのにちょうどいい場所がなさそうなので、いったんここで投稿。続きはまた後日upします。
(むう、何やら書き終わる気配がしなくなってきたぞ?)
by zattoukoneko | 2010-07-25 04:57 | 雑記 | Comments(1)

人は他人を理解することができるのか①

今回は雑記として、最近頻繁に考えることについて書いてみようかと思います。タイトルにあるように「人は自分以外の他人のことを理解することができるのかどうか?」というテーマで。
これは実際には前々から思っていたことではあるのですが、ほんとここ最近――せいぜい半月くらいかな?――でとみに考えるようになったテーマです。
ただこれに関して私はここの記事で何かの答えに辿りつこうとは端から考えていません。これは難しいテーマであり、そうそう簡単に答えが出たとは思ってはいけないもの。じっくりと、そして丹念に考えていかなければならないものだと思います。
ま、平たく言えば、ですよ。「そんな簡単に答えが出たらみんな対人関係で悩まねえじゃん?」てことです。私一人があれこれ考えたところで、それはそれで『私だけ』の意見なので意味がないわけですよ。それなりに説得力を持たせたところで、他の人が自分の意見に昇華してその上で賛成・反対を言ってくれるようにならなきゃならないだろうと、そんな風に思います。

さて、何やら雑記のくせに出足から重たいぞw 気付いてはいるけどこのテーマじゃ軽減するの無理w ということでこのまま突き進みまーす。



まず歴史の研究の仕方からいきましょう。
歴史学において「昔より現代の方がより優れている。人間は進歩してきているんだ」という考えをホイッグ主義と呼びます。これは歴史研究をする人間にとても嫌われるものです。(と言いつつ、科学者あがりの歴史研究者にとても多いのですけど)
昔の人のこと(あるいは人ではなくて物や思想でもいいのですけど)を調べる場合、重要なのは「その人が生きていた時代があるだろう」ということ。その人は『その時代』の『そのときの文化』や『そのときの宗教観・道徳観』、また『物質文明』や『技術』、さらには『家庭環境』に影響されているだろうということです。私たちがそれらの背景をしっかりと考えることなく、「ああ、この人はいい人or悪い人」とか「私たちより劣ってる」なんて決め付けるのは強引すぎるのです。私たちはきちんとその人たちの生きていた、そして周りを取り囲んでいた環境や背負っていた背景を知らなければならないのです。
こうした考えは歴史学の中でも特に科学史の分野で盛んです。というのは科学論・科学哲学で一気に議論がなされてそれが波及したからという経緯があるからです。これは――いやあ、説明していったらきりがないので割愛です。大学生が二年かけてようやく片足浸かれるかどうかというレベルなので。私なんかが説明できるわけな、ゲフンゲフン!
ということですのでここは省略しますが、興味のある方へ教科書を紹介しておこうかと思います。良著を二冊。順番に読むのがいいです。科学論の現在サイエンス・ウォーズ
で、この二冊からさらに参考文献をたどったり、注目されてる人物の著作を読んでいくとようやくそれなりに語れるようになる、と。…………うん、二、三年じゃ終わらないね?
まあ、とかく紹介だけはしときまーす。いい本であることは間違いないので手元に置いておいて損はなしです。
さて歴史研究というのはこれを踏まえた上でなされます。まあと言ってもこれ全部やってたらむしろそっちの専門家になるのでざっと目を通す感じですが。(ただし研究者の“ざっと目を通す”は普通の人のそれとは違うので注意)
これを言い出すとやはりきりがないのでもう端的に表わしてしまいますが、「その人自身も、文化も社会も、技術も、そして思想や科学理論も周りのものから多大な影響を受けている」ということです。最後の方の「科学理論についても影響を受ける」というのはSSK(科学知識の社会学)というやつで、以前少し触れた記事があります。ニュートンの万有引力は科学じゃない? ここではちょうど科学史・科学論全体のことも見てますね。駆け足過ぎますけど(汗)
まあこんな理由により歴史学の分野ではいかに相手の時代・文化の中に入るかが重要な鍵となります。
ただし反射性という概念もあります。当然のことながら歴史研究をしている人も「その人の時代背景を背負って」います。例えば今生きている人は“現代”から離れることはけしてできません。だから昔の人をできるだけ当時の目線で見るようにしながらも、そこには“現代”というフィルターが必ず入っているということを知っておかなくてはなりません。
…………まあ、この辺に歴史学や哲学の面白さと無意味さを感じますよねー。これらの学問はその時代のために何か役立つだろと考えて働き、そしてそれは将来また新しい歴史家によって「ああ、この時代はこうだったのねー」と研究されるとわかっててやってることなわけです。まあ、現代から将来は繋がっているわけですし、現代を変えようと思うことは将来を変えようと思うことでもありますね。私たちが“過去”という歴史の上にある現在で生きているのと同じようにです。



と、ここまで書いてみて思いましたが、一つの記事に収まらない気がしてきました(汗) 内容も読みにくいものだと思いますし。
…………一つの記事に収まると思ったんだけど、テーマが重すぎたか。見誤りました。
この後「言葉の壁」についてと「現代社会」について触れる予定でいます。書き進めてはおくのですけど連投するかはわからないです。内容的に一日二日は空けたほうがいいのかな? それとも連日更新にするか。
まあとりあえずここまでを掲載です。続きはもうしばしお待ちくださいm(_ _)m
by zattoukoneko | 2010-07-23 04:18 | 雑記 | Comments(3)

閲覧者数6,000件御礼

閲覧者数が昨日の時点で6,000件を突破しました。最近一ヶ月程度で1,000ずつ増えているので報告するのはどうしようかと迷ったのですが、やはりここはお礼を述べるのは大事なことだと考え、記事にすることとしました。
普段から閲覧してくれてる方、そこまで頻繁ではないけれど、何かの拍子に目を留めてくれた方、本当にありがとうございます。

次回の報告は6,666のときですね!
いや、私のプロフィールのとこにもあるように、6や13という数字が気持ち悪いほど付きまとうのですよ。というか他人から「怖い!」と言われるほどに本気で6と13が私の数字と化しています。
まあどちらも不吉な数字と言われていますが、宗教や文化が変われば概念も変わる。これを個人にまで広げて個人主義となることには私は反対ですが(何故なら多くの人と関わりながら生きているのが人間であり、その背景には自分の育ってきた環境があるのですから)、でも確固たる個人の意見はその人のアイデンティティでもある。
私としては以上を踏まえた上で――6が私の数字であると考えておりますので、6,666突破でぜひとも報告しようかと考えています。

では今回は短い挨拶ですが、今後ともこのブログのご愛顧のほど、よろしくお願いします。
……ふぅ。これで記事が一個埋まったな。(ぇw
by zattoukoneko | 2010-07-20 06:15 | 雑記 | Comments(3)