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小説『パラサイト・イヴ』紹介

今回と次回は『パラサイト・イヴ』に関して取り上げようと思います。今回は小説の方で、次回はスクウェア(現スクウェア・エニックス)の制作したPS用ソフトに関して取り上げることにします。
ま、最初の方は書評に近い書き方をするので普段より文体が堅苦しくなりますがご容赦をー。



小説『パラサイト・イヴ』は1995年に瀬名秀明が第2回日本ホラー小説大賞を受賞し、デビュー作となったものである。瀬名は受賞時東北大学薬学部の博士課程に在籍していた。ただし本人の話によると応募時は簡単に受かれると思っていた試験に失敗し、一年という浪人期間に書き上げたものだという。
薬学部は何も製薬ばかりをするわけではなく、化学や生物学の基礎研究も頻繁に行う。作中でも主人公である利明は薬学部で研究をしており、亡くなった妻の肝細胞を培養していました。これにはEve1という名前がつけられており……これが自分の意思を持って増殖するというのが物語の始まりとなります。
話の根幹にある科学理論は「利己的遺伝子」という考え方。リチャード・ドーキンスが提唱した考えです。本は科学系やっている人は必読。利己的な遺伝子 <増補新装版><増補新装版> ま、簡単に言ってしまえば生物は個体が中心となって生きていると思われているわけですが(人間は自分の脳で考え体の各部位に信号を送ってそこを動かしたりしますね)、実際のところ細胞というのは乗り物に過ぎず、遺伝子は自己を遺すことを考えておりそのために細胞やその他の隣接している細胞らと連携しているだけに過ぎない。その方が遺伝子を効率よく遺せるだけなのだという考え方です。
Eveもこの考えにしたがって自分の遺伝子を遺すために動こうとします。ただし通常の肝細胞であれば、元々は多細胞生物由来のものですし栄養を自ら摂取することは出来ず、当然そうなれば自己複製も出来ません。所詮は培養されているだけのものです。
ところがここでもう一つ重要な仮説が導入されます。それはミトコンドリアの遺伝子にも「利己的遺伝子」の考え方が適用されるだろうというもの。したがってミトコンドリアは細胞共生説に従えば、宿主細胞の中に組み込まれた一細胞小器官ですが別の生命体でもある。これは自らの遺伝子を効率よく増やし子孫を遺したいと考えているに違いないわけです。ただ単に真核生物の細胞のように、中に組み込まれてみたら思いのほか効率よく増えることができただけにすぎないというわけです。
ただしミトコンドリアも一つの生物である。したがってもっと効率のよい増え方を見い出すことができればそれを行なうだろうし、そして――もしかしたら宿主細胞と共生するときにすでにその計画を練っていたのかもしれない。すなわち『共生』しているという考え方は人間が勝手に思っているだけでミトコンドリアの本来の意図を見逃しているもので、実際には『寄生(パラサイト)』しているのではないかというのです。


と、ここで生物の話になりますが。
ミトコンドリアというのは(主に人間などの哺乳類では特に)母系遺伝です。つまり母親からのものが子供に受け継がれます。これは生殖細胞の仕組みを考えてくれればいいわけですが、受精する場合卵は染色体を除いてほとんど元の細胞と同じです。中にはミトコンドリアもあります。ですが精子の方は随分と形が変わっています。染色体を内包した頭部と、尾のように伸びた尾部、そしてその間にミトコンドリアの集まった中片部からなっています。
ミトコンドリアは元々エネルギーの通貨であるATPを合成する細胞小器官で、受精するために卵を目指すので運動しなければならず、尾部を動かすために中片部に密集しているというわけです。精子は卵に到達するとその細胞膜を溶かし頭部にある遺伝子のみを中に入れ、尾部などは切り離されます。
したがって受精卵の中にあるものは母親由来の卵に入っていたミトコンドリアのみが子供に伝わっていくというわけです。
この考えに従うとこのミトコンドリアの遺伝子のみを遡っていけば最初の人のミトコンドリアに辿りつけるということになり、それ(あるいはそれを持っている女性)のことを『ミトコンドリア・イヴ』と呼びます。これに関しては研究の結果アフリカにいた女性がそうなのではないかという話になりました。これは人類がアフリカ発祥であるという考えにも見事に一致する結果です。


で、小説『パラサイト・イヴ』はこうした考えに基づきミトコンドリア・イヴ(この場合は人間のものというより真核生物すべてにとっての最初のミトコンドリアと考えた方がいいと思いますが)が利己的に遺伝子を増殖することを考え人間などの細胞の中に寄生しているのであり、いつかは宿主細胞を支配しようという想像のもとにストーリーが組み立てられています。
主人公の培養していた肝細胞Eve1、正確にはその細胞のもともとの持ち主であった亡妻が異常な進化を遂げたミトコンドリアを所有していたということになり、自分を増やすために宿主細胞を乗っ取ります。
また重要なことにミトコンドリアはエネルギーの通貨であるATPを生成する細胞小器官です。したがって細胞をどんどんと増殖させることができる。細胞の核も支配することができれば、そこには肝細胞だけでなくありとあらゆる細胞をつくる遺伝子情報が入っているために生物体を再生することもできる。最初だけは主人公によって栄養を与えられなければなりませんが、次第に細胞が増えてくれば自分で活動ができるようになる。そして……ミトコンドリアによる反乱が起こるというのがこの物語の最初となります(と言ってもここまでで結構なページ数を消費してますけど。他の登場人物とかも出てきますからね)。

なおこのEve1はもともと女性の細胞だったこともあり、性染色体にY染色体を有していません。したがって雌雄のある真核細胞生物としてはそのままでは増えることができません。ミトコンドリア・イヴの目指すのは(生物として当然のことながら)自己の子孫を遺す能力に長けた強い生物たらんこと。したがって完全な生命体を目指してY染色体を手に入れるべく主人公を誘惑する。妻の幻影を見せながら――。


というのが小説『パラサイト・イヴ』のお話ですw この他の登場人物やラストはさすがに秘密です(苦笑) ま、でも最後もきちんと生物学の知識を用いながら綺麗に収めているということくらいは話しておいてもいいでしょうかね。
前回の記事でミトコンドリアは自分で異常に増殖できるわけではなく、共生というよりも宿主細胞にもはや乗っ取られているという話はしてしまっていますし、今から見れば結局は絵空事だったわけですが、でもそういうのがわかっていなければ本当にあり得たかもしれない話で。ほぼ同時期に話題になった『リング』や『らせん』(こっちもいくらか生物系の知識を使っている)は大して怖くないですねーw というか『リング』は映画で成功して、『パラサイト・イヴ』は映画で失敗しt(ry
なおAmazonさんで小説『パラサイト・イヴ』を購入する場合はこちら。パラサイト・イヴ (新潮文庫)



さてはて? 小説『パラサイト・イヴ』は主にミトコンドリアのエネルギー生成とそれに伴う細胞増殖の能力を扱っているわけですが。ミトコンドリアにはアポトーシスの能力もあるわけですね。またミトコンドリアを持っているのは人間だけではない。イヴが主導しありとあらゆる生物のミトコンドリアとともに反乱を起こすと――新しい生命体を想像することができちゃったりw これを取り入れたのがゲーム『パラサイト・イヴ』となります。
ちなみにこっちはゲーム性であまりウケなかったのか、ストーリーをきちんと把握できてなかったのか(おそらくゲーム性重視して購入した人が多くて話をきちんと理解している人が少なかったと思われますけど)レビューは低めですけど、実はこっちの方がさらに話が複雑化し、さらなる生物学・進化論の考えを取り入れていてそれをきちんと理解するとこっちの方が遥かに怖かったりしますw こっちの説明に関しては次回に回しましょう。問題は……どこまでネタバレしていいかですけど(汗)
by zattoukoneko | 2010-12-19 07:29 | | Comments(1)

『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ紹介

今回は『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの紹介……なのですが、まあ話が未完ですし続編が止まっちゃってるのできちんとした紹介ではないです。
むしろ「ねえ、みんなこれきちんと見てないでしょ?」というのを簡単に取り上げて説明しようかという試みです。ですので話の中身にはほとんど入りません。それにアニメ・劇場版の映像の方と、小説の方の区別もしません。それぞれ魅力があって、たとえば小説の方では一人称のみでやっていてでも主人公の名前が未だに出てこないとかなかなかありえないような点や、アニメの方ではキャラの細かな動きによる感情表現や音楽の選別なんかも魅力的なのですが、それらは逐一挙げることはしません。あくまでポイントとなるようなところですね。といっても全部挙げていったらキリがないのは当たり前。思いっきり絞ります。


まず前回までのパラダイムシフトに関する記事を見てきて欲しいところです(難しくてすみませんorz)。実はハルヒシリーズにはこれが中に入っているのです。
とても人気のある口癖ではありますが、朝比奈みくるの「禁則事項です」というのがあります(このキャラは未来人)。言葉のまま受け取るならば「未来の法律か何かで喋ることが禁じられている」ということになります。で、まあ実際にその通りなのでしょうが、ここだけ見てると本質を見逃します。みくるについてはまた戻ってくるとして長門有希の方へとちょっと移ってみようかと。
長門有希は簡単に言うと宇宙人なのですが、正確には「情報統合思念体によってつくられた対有機体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」です。最近のSF小説を余り読んでない人にはサパーリかと思いますので簡単に説明すると。今は宇宙「人」として人のような形をしているものや、バクテリアなどの地球上の生物と同じものを『宇宙人』とするだけではダメではないかと(少なくとも作家の方では)考え始めていて、違う存在の仕方をしていて、私たちにとっての生物の概念とは違うけれども生命とみなしてもいいのではないかというものが存在するのではないかと変わってきてます。簡単な話、今までは水と酸素で生物エネルギーを得ていたとされているわけですが、他の環境で別の物質が多い星では違うものをエネルギー源にしてたとしてなんらおかしくないかと。で、さらに今では物質として存在してなくても脳神経のように情報伝達をして意思疎通をしているものも生命のようなものではないかと考える人も出てきた。その一つがこの「情報統合思念体」です。これは宇宙全体に情報網を張り巡らせている巨大な存在で、ようは宇宙そのものが一個の生命体です。で、気になるのがその情報網ってどんな仕組みなの?、ってことですが――「んなもの説明できるかああ!!」と長戸有希はいつも言うわけです。嘘です(普通にかわいい子なので。勝手に言葉を変えてしまってファンの方々には心からお詫び申し上げますm(_ _)m)。長門が説明できないのは私たち地球人には『そもそも理解できないから』です。私たちの持っている現代の科学概念とはまったく異なるものとして情報統合思念体は存在しています。そもそもこいつは言語なんて煩わしいものを使っていないので、言葉を使用している地球の人間に説明することなんてできるわけがないのです。
さて朝比奈みくるに話を戻すのですが。こっちも事情は似ています。彼女の言動をよくよく見てみるとわかるのですが、こちらも私たち現代人とは異なる思考を持っています。明らかに今と未来では科学も文化も異なっていると言及している部分もありますし、どうやら言語とはまた違った情報の伝達手段を持っているようです。また技術も機械技術から脱却した模様で、時空移動するときに使うTPDDというのは脳の中に無形で存在します。ええ、仕組みなんて説明できるわけなし。故の「禁則事項です」という言葉にもなるわけですね。単純に規制がかかっていて説明できないというだけではなく、それは元々説明不可能。あるいは万が一理解できるようなことがあるとその相手は現代の社会では生きられなくなるということです。周囲と認識が異なってしまうわけですからね、朝比奈みくるのようにそこに適合するように教育されていたら別かもしれませんけど。


――と、見てくるとどうでしょう? これってようは話の中に『パラダイムシフト』が当然のように入っている小説ということになります。
著者の谷川流がどこまでこれを意識していたのかはわかりませんが、私が呼んでみた感じでは相当に科学論も勉強しているのではないかと。他にも立派なSFとしてきちんと科学の方で先を見た叙述を行なっています。数が多いし短く説明できるものばかりではないので、すぐ終わるものを一つだけ。
『涼宮ハルヒの憤慨』所収の「ワンダリング・シャドウ」では珪素構造生命体共生型情報生命素子なんてのが出てきます。これ、何気なく読んでると軽くスルーしてしまいそうですが、珪素は炭素と同属なのでようは地球上の生命体と同じような構造を持っているということです。かつ珪素は半導体としてシリコンに利用されてますね。ということは機械に近いということでもあるということです。この存在をどう受け取るか難しいところですが、一つには私が先に述べたように環境が違えば生物として存在する仕方も当然違うということ、二つに機械でも生命体とみなすことができるという考え方ができるかと。(まあ、記述の感じからして前者の要素が強い気がしますけど)



という感じで実はかなり科学的な考証がなされており、とてもよく練られているのがこの『涼宮ハルヒ』シリーズということになります。

さて順番的には本来逆ですけど、作品の紹介。
著者の谷川流は第8回のスニーカー大賞にて『涼宮ハルヒの憂鬱』で大賞を受賞(ここは大賞は滅多に出ません)。2003年6月に文庫化します。受賞の大きな理由は一人称でありながら非常に巧みに描写しているということが大きな理由だったそうです。
これはアニメ化もされており、2006年4月から7月にかけて独立UHF局を中心に放映。本来であればテレビ東京で放送されるはずでしたが諸般の事情によりこのような形に。これがむしろ功を奏し、YouTubeなどで公開するとともにその話の難解さを解説するようなwebサイトが乱立。MADなども大量につくられ人気が爆発的に上昇します。というのも話の時系列をごちゃまぜにしていたからです。2009年4月から10月にかけては新作14話を加えた全28話(ただし時系列などを整えたもの)を放送します。また2010年2月からは『涼宮ハルヒの消失』が劇場版公開されています。
ただ話はまだ完結してないです。というか続編出てくれないですorz(巷では色々な噂や揶揄が飛んでるみたいですけどねー。ほっとんど見当外れなので無視!)
ま、話の続きが出てくれないことは確かなので本の紹介もほっとんどできないという。これから大きく動いてくれそうなんですけどねー。
ということで、まあ最初の一巻だけ紹介。でもこれだけじゃこの著者の力量はわからないよって伝えておきます。(ああ、「萌え」の巧みな扱いとか他の見所紹介できなかった……)
涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)
by zattoukoneko | 2010-09-26 13:26 | | Comments(1)

筒井康隆『時をかける少女』紹介

今回と次回の二回に分けて『時をかける少女』について紹介したいと思う。
ただ以前やった『とらドラ!』紹介の記事とは違っていて、見方がまったく異なっていて、それぞれ別物として扱おうと考えている。
今回は原作である筒井康隆の『時をかける少女』について。
次回は細田守が監督した『時をかける少女』、一般に『時かけ』と略されるものについてである。
筒井康隆のほうの『時をかける少女』ではどちらかというと文学史の話になる。どのような文学の歴史の中にこの作品は置かれていて、そして筒井康隆は何をしようとしたのかを見る。一方で細田守の『時かけ』では演出を見る。こちらの方では歴史などは見ない。したがって両者は同じタイトルを冠してはいるものの、私は記事としては別にして扱うつもりでいる(ただし共通点もあるため、そこは適宜触れることになる)。


さて、まずは『時をかける少女』の基本情報から。

この作品は1965年に学習研究社から出ていた「中学三年コース」の11月号で連載が始まり、66年の「高一コース」の5月号まで続いた作品である。長さとしては中編小説に相当する。

主人公は芳山和子という中学3年生の少女。ある日理科室で掃除を行なっていた際に、誰かが隣の部屋にいると感じ忍び込む。そこでラベンダーの匂いを嗅ぎ、意識を失ってしまう。その後彼女は時間跳躍、作中で「タイムリープ」と呼ばれる能力を身につけることとなる。この能力を使いながら、事の発端になった理科室にいた人物を探し始める――
というのがあらすじとなる。話を知らない人のためにこれ以上は伏せておこうと思う。ここから先は読んでのお楽しみというものだ。

さて次に作者である筒井康隆について触れたいのだが――彼については語るべきところが多すぎる。とても多才な人物であり、小説だけでなく演者や評論などで活躍している。またその経歴も波乱万丈と言って差し支えないだろう。この人について語っていたら、それこそ本が一冊書けてしまいそうなので、今回は必要最小限のところに収めたい。
筒井康隆は日本を代表するSF作家の一人であり、小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも言われる人間である。(なお、今回は「SF」と簡単に表記してしまう。これはすでにこれに慣れ親しんでいる人が多いためである。が、本来SFは蔑称であって、程度の低いScience Fictionに対して用いられるようになったという経緯がある。日本ではあまり意識されずに輸入されてしまったようではあるが、筒井康隆は(かなり幅広いが)どちらかというと強固なサイエンス・フィクションを書いているので、私としてはSF作家などとは呼称したくないのだが、先の述べた理由からこのこだわりは捨てることにする)
彼はただただSF小説を書いているわけではない。ときには純文学の方に偏ったりもするし、かなりナンセンスと思えるようなものを入れてきたりする。筒井康隆という人物は自らどんどん様々な表現に挑戦していっている人物だと私は思う。


さて、ではそんな筒井康隆の書いた『時をかける少女』とはどのような小説だったのだろうか?
先程あらすじで述べたように、これはSFに分類されるだろう。だが“犯人探し”や“トリック”が含まれている。ようはミステリー要素も含まれているのである。
現在ではこれはたいして目新しいことではないが、当時としてはなかなかに斬新だ(まったくなかったとは言わないが)。ここにも筒井康隆なりのチャレンジ精神が伺えるような気がする。
次にこの小説は「ジュブナイル小説」に分類されている。現在の日本では「ジュブナイル」という分野はなくなってしまったが、70年前後に一時期だけ現れた文学作品群である。
ただしこの日本の「ジュブナイル」と欧米の「juvenile」は別物と考えるべきだろう。このことについては以前の記事でいくらか述べた(ただしここはまだまだ研究途上である。私自身の研究の途中経過も含めて説明する)。欧米のjuvenileとは19世紀半ば頃から20世紀の初め頃に確立された文学である。対象とされているのは“青少年期”の“男の子”で、『トム・ソーヤの冒険』などが代表的である。ここではいかに男らしく振舞うべきかというのが説かれている。つまり、これらの著者たちは当時普及していた、社会的につくられた「男らしさ」を青少年に啓蒙するためにこれらの本を書いていたことになる。
juvenileが19世紀の半ば以降に盛んに出てきたのには理由がある。西欧諸国で男らしさの概念が確立してきたのは18世紀で、これよりずっと前だ。ここにはタイムラグがある。では何故19世紀半ばになって世の作家たちはこんなにもjuvenileを生み出してきたのだろうか? 実はこの時期に一気に都市化が進んだのである。主な原因は鉄道の発達によると言われている。鉄道と、駅ができると、その駅を中心に百貨店や工場、そしてそこに勤める人々の住宅が密集した。だがこれが男らしさのためには天敵だったのである。というのも男らしさの中には「人間の力で自然を支配する」という概念が含まれていた(これは『ターザン』などを思い浮かべてくれればわかりやすいだろうか?)。しかし肝心の自然がなくなってしまっては支配も何もあったものではない。実際この頃の青少年はかなりのジレンマを抱えていたということがわかっており、いかに室内で体を鍛えるかという雑誌が発刊されていたりする。こうした背景があり、せめて小説の中でだけでも自然との闘いというのに目を向けさせ、男らしさに目覚めさせようと大人たちは考えたのだと思われる(ただし19世紀後半になるにつれまた事情が変わってくるのだが、ここでは省略する)。
このように欧米のjuvenileには青少年に男らしさを教えるという明確な役目があった。しかしながら日本にはそのような社会的につくられた「男らしさ」がどうもほとんどなかったようなのである(ここは誰も研究していない。以前少し触れたが、これを調べるには幕末から現代に至るまでのあらゆる分野を網羅的に調査しなければならない)。
では筒井康隆らの書いていたジュブナイルとは何のためにあったのか?
それは単純に中高生に小説の面白さを教え、ゆくゆくは大人向けの小説も読めるように誘うことであった。したがって筒井康隆自身、『時をかける少女』は“子供向け”に書いている。これは掲載されていた雑誌を見ればわかることでもあるし、話を読んでみて、彼の他の作品と比べれば簡単にわかることでもある。もし読む人がこれをプロットに直せるならばぜひ挑戦してもらいたい。極めて単純である(ただしだからと言ってこれをそうそう真似して話を書けるようなレベルでもないが)。

『時をかける少女』は人気を博し、その後何度も何度も映像化されたり漫画化されたりしている。またこの名前を借りた作品(小説に限らず、楽曲も含む)も多数出ている。
しかし筒井康隆自身はこの作品を書いてみて、自分には向いていないと感じたようである。彼がこの作品にどの程度満足しているかどうかはわからないが、少なくとも「書くのが苦痛でしかなかった」と述べてはいる。
その後、この作品は何度も何度も映像化されているが、原作者の筒井康隆は満足していたのだろうか?
私はあまり納得がいっていなかったのではないかと思っている。というのは、次回紹介する細田守の『時かけ』の舞台挨拶上で「本当の意味での第二の『時をかける少女』だ」と述べているからであり、またこのときには自身の小説も宣伝するほど上機嫌であったからだ(ただし『時かけ』は原作とは主人公などが異なっているので、そういう意味で「第二の」と言ったのかもしれないが)。

さて、もう一度文学の歴史に戻ることにしよう。
日本においてジュブナイルは本当に一時的なものだった。現在はいくらか学研の「科学と学習」などに似たようなものが残っているくらいだろうか?(漫画の形になっていたりするが)
代わりに日本ではライトノベルが進出してきた。これはエンターテインメント色が極めて強く、また内容としても児童文学と大人向けの文学の中間的なものが多かった。
しかしこの影響力は大きすぎて、ライトノベルから他の文学へ目を向けない人も多数出てきてしまった。これは読み手だけでなく、書き手の方でもどうやらそのようだ。ライトノベルという枠組みの中でだけに収まり、新しい挑戦をしようとする作家がなかなか出てこない状態が続いている。
もちろん、優れた作家はどんどん色々なことに挑戦している。神坂一の『スレイヤーズ!』でキャラクター偏重に傾いてしまったところに、上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』を出してきた。この前や間、後にも様々なライトノベル作家がその枠組みを壊そうともがいている。
だが実際問題として、ライトノベルの頂点は電撃文庫であり、そしてそこに上遠野浩平がいる。彼を抜き去る作家はまだ出ていないということになるのだろう。影響を受けた作家というのはたくさんいるのだけれども……。
もちろん文学はライトノベルだけではないし、物語も小説に限られたものではない。様々な分野で各人が戦っていくのが望ましいと私は思っている。事実、上遠野浩平やその他のトップレベルの作家陣は様々なものをみて自分の領域で勝つことができないかと考えているようであるから。ライトノベルもあえて“ライト”ノベルという汚名を受けておこう。その中でできることは多分たくさんあるはずだ。ジュブナイルに代わるような、あるいはそれを越えるようなものになることが望まれているだろうと思う(このことは電撃文庫の最後にある角川歴彦の言葉を是非とも読んでもらいたい)。



さて、『時をかける少女』自体の紹介というよりは、その背景やその後の話のことのことが多くなってしまった。今回触れようと思ったのがそちらがメインだったのでご容赦願いたい。
だがやはり最後は『時をかける少女』で締めなければならないだろう。
この作品は(筒井康隆本人があまり納得がいっていないとしても)長いこと愛されてきた作品であり、それだけの理由がある。またジュブナイルとして中高生向けに書いたのだとしても、だからといって大人が読んで面白くないというわけでもないと思う。他の筒井康隆作品に比べれば表現や構造は単純だが、だからといって彼の力が活かされていないとも私は思わなかった。純粋に楽しく読ませてもらった、とても印象に残るいい作品である。

さて『時をかける少女』は現在角川つばさ文庫でいとうのいぢがカバーイラストを担当したものが一番新しいようだが、私としては『時かけ』とぜひとも繋げたいので貞本義行がイラストを書いた文庫のほうを紹介しておくことにする。『時かけ』は貞本義行のイラストを元にしているし、話がいくらかリンクしているので――
時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)
by zattoukoneko | 2010-05-19 09:56 | | Comments(1)

『とらドラ!』紹介(本)

今回は電撃文庫から刊行されている『とらドラ!』の紹介です。本の終了とアニメの終了が重なっていたこともあって、同時に説明しようと考えていたのですが、それではこの作品の凄さが見えてこないと気付いて二つに分割することにしました。映像の『とらドラ!』については後日紹介します。もしかしたら(私と同じく)同時に並行しながら二つを見ていくと楽しいかもしれないので、購入する気になった方は次の記事をupするまでの数日だけ待ってみてください。どっちも面白いので。


さてまずは基本情報。
作者は竹宮ゆゆこ。単行本や電撃文庫MAGAZINEの方でよく「美味しいものを食べて文章する作家」と言われていて、実際作品中によくご飯の話が出てきます(そしてあとがきでも出てきます。本当に好きなんですね、タラコスパ……)。
第一巻が刊行されたのが2006年の4月10日かな?(初版発行は三月の末になってますが、電撃文庫は毎月10日発売ですので) そして最終巻である10巻目は2009年の3月10日に発売されています(アニメの方はこの月の終わりで完結)。
で、本編はこの10冊なのですが、これの他に『とらドラ・スピンオフ!』というのが出ています。こっちは短編集で、本編とはあまり関係ない話(でも読んでおくとより深くわかる話)が収録されています。アニメ放送時は2巻だけしか出ていなくて、これは『電撃hp』および『電撃文庫MAGAZINE』の方で掲載されたものが収録されています。ですが『とらドラ!』は他のグッズとか、特集号とかにも短い話を載せていて、こっちはもう手に入れることはほぼ不可能です(ネットとかで数万円でオークションにかけられてたりして、それでも手に入るだけマシというレベルでした)。ですがこの間の4月10日に『スピンオフ3!』が発売されて、ここに(多分)全部収録されたのだと思います。後から追いかけ始めた私としては嬉しい限り(感涙) そしてそれまで無理して払ったお金はどこへ(嘆涙)
と、このように全部で13巻出ていますね。アニメの方はスピンオフの3巻目には基本的にノータッチです。


さて具体的な内容に入るのですが、その前に――
恋愛小説ってそもそもどういう構造をしているかみなさんはご存知でしょうか?
これを知っておいた上で『とらドラ!』および竹宮ゆゆこという人物を知ったほうが、この人の格の違いがわかるはずです。

これ(名前忘れちゃいましたが)恋愛小説の大御所のお言葉です。
「恋愛小説なんて男と女が出会って、最後にくっつくか別れるかすればいいだけ。途中は適当に読者をひきつけておけばいいんだよ」
だそうです。
これ聞いたときは愕然としてしまいました。そんな適当なものなのかと。
ちょっと私自身信じられなくて、何冊も恋愛小説を実際に読んでみました。すると――これ、本当なのですね。特に純文学の方や軽いエンターテインメントで終わってる作品に顕著です。もちろん中には素晴らしい書き手もいました。でも文章の綺麗さだけで魅せていたり、あとは性描写を適当に入れておくだけっていうのがたくさんあります。試しに小説をプロットに直せる方はやってみてほしいのですが、余分なとこばっかりになります。中身スカスカ。特に性描写はひどくて、物語ともキャラとも無関係なものが乱立しています。もう、これほとんどレイプしているようなもんです。
まあ、こんなわけで私は数年恋愛小説を読んだだけで、(お気に入りの作家は時々チェックしてましたが)もう読む気をなくしてしまったという次第です。
これを修正してくれたのが『とらドラ!』です。本気で書けば恋愛小説もすごく立派なものになるのだと思い知らされました。
以下、どのようにすごいのか見ていこうと思います。

まず主人公について紹介しておきます。
一人は高須竜児(たかすりゅうじ)で高校の二年生ですね。目つきがやたらと怖くヤンキー面。そしてそのため周りから超怖がられてる。でも本当はとても優しい人物で、家事から炊事から全部完璧。特に掃除が大好きで、汚いところを見つけると鼻息が荒くなる変態ですw
対してもう一人の主人公は逢坂大河(あいさかたいが)で同じ二年生。すっごく小柄ででも超美人。そして――キレるとマジで怖いww そのため「手乗りタイガー」なんて二つ名まで持っていたりします(名前が「たいが」なので)。でも好きな人の前では声すら出せなくなる、ようはツンデレキャラです(ただし最初はこう思って読んでくれていいと思います。竹宮ゆゆこのキャラクター造形はそんな甘いものじゃなかったと後で思い知って愕然と、そして感動すると思いますから)。
で、この高須「竜」児と逢坂「大河」がメインの二人ですので、「とらドラ」とタイトルがつけられています。
で、普通の恋愛小説だったらこの性格が対になっている二人が衝撃的な出会いをして、そしてすぐにお互いを意識するという展開になることでしょう。
確かに出会い(直接会話をするきっかけのとこですが)は衝撃的です。大河が木刀持って竜児の家に襲撃に来ますから(笑)
でも普通と違うのは、この二人、お互いのことが好きなわけじゃないんです。竜児の方は櫛枝実乃梨(くしえだみのり)という大河の親友を、そして大河は北村祐作(きたむらゆうさく)という竜児の親友のことが好きなのです。つまりお互いは別に恋愛感情を持っていません。
この二人が並んで物語を進めるのは、二人で協力して互いの恋を成就させようという、すなわち協同戦線を張ることによります。
もうこのアイデアだけで面白いですよね? 恋愛小説なのにメインの二人がお互いのことを好きじゃないんですから。自分たちの叶えたい恋は別の人物に向けられているものになっています。
この二人の恋愛が成就するかどうかは――さすがにネタバレですから言わないでおきましょうか。ただ一言だけ記しておくとすれば……とても感動的なラストを迎えますよ(アニメの方とか最後の方に来るとOP観るだけで泣いてしまうくらいにw)。


では物語のラストや核心に触れることはできないのですが、でもどこがすごいのか見ていくことにしましょう。

まずキャラクターのつくりこみです。最初の方はなかなかわかりませんが、竜児も大河も、そして実乃梨や祐作。あと途中から加わってくる川嶋亜美とかそれぞれ個性的なだけではなく、きちんと何故そういう性格なのかというところまでつくりこまれています。家族のこととか自分の心の変化とか、あるいは夢や希望など。みんな違う。そうした彼ら彼女らが密接に関係していきながら物語が展開していきます。
また先のキャラの簡単な紹介で説明しましたが、普通に考えてこんな人間いませんw でもその心の内とかはきちんと練りこまれているため、彼らの動きは自然なものに見えます。これってすごいことで、一言でいえば竹宮ゆゆこという作家は「普通じゃないことを普通に書ける」作家ということになります。(ちなみに文章も普通じゃないですw 担任の恋ヶ窪ゆりのことはずっと「三十路」とか「独身」って書いてて、名前出てこないですからねぇ。あ、あとご飯ネタですぎw)

そしてもう一つすごいのは伏線の入り乱れよう。これ全部プロットに書きなおすの、私にはほぼ不可能です(一応のものはできますが、それでも相当な量になりますね。因果関係とか矢印で繋げていったら最終的に何が書いてあるのか見えなくなりそうです。本編の10巻全部でやろうとしたら――部屋いっぱいの紙に書いていっても足りなくなるかもしれませんね)。
しかもキャラクターのつくりこみがすごいので、表面上見えてくるプロットには彼ら彼女らの心情がガンガン入ってきます。また一言一言の台詞や描写もすごく後になって使われていたりして、全部把握するのはなかなかに大変です。もちろん読み進めていって大抵のものはわかるのですが、かなり細かいものもありますね。
ああ、もちろん起承転結とかしっかりしていて、かつそこに各キャラの起承転結(竜児・大河・実乃梨・祐作はもちろんこと、竜児の母親の泰子とかも含まれてます)が入り乱れています。当然ストーリーの表面だけ見れば一本道です。が、その中で各キャラが成長していって、そしてみんなで納得できる結論を導いていってます(だからめちゃくちゃ感動的なのですね。みんな最後には救われますから)。

ただ物語の構成や伏線に関しては回収できていないものもあります。あまりにも多すぎましたし、またアニメ制作が最終巻と同時進行しましたので、そこは別々のラストを選ぼうかとか、色々な相談もあったと思います。なのでアニメの方に譲った伏線などもありますね。また物語を長く書き続けていれば後から思いつくものや、特に「これが伏線に使える!」と辻褄合わせのように気付くものもあります。それに読者からの要望や、編集者との打ち合わせもありますしね(実際、第6巻は書き終わってから担当の方から全部書き直すように言われたらしいですよ? でもそのおかげか、この巻の話の人気は半端なく高いですね。アニメの方でもここを扱ったところはすごい反響が来てました――これ、当時にネット上でラジオが流されていて、そこで見ていた人たちの声から知ることができます。DJCDというのが出てるので、相当カットされてますけどそこで確認できたと思います)。

というわけで伏線の回収などに関してはやや不満が残るかもしれません。特にアニメの方は後から製作しているわけですから、好きなとこをピックアップできるので、そっちの方が回収率は高くなってます。だからそっちと比べてしまうと劣ってしまうかもしれません。
ですがこれは「小説は映像に勝てない」ということを意味してないと思います。(これは私自身が最初に小説を書くかどうするか悩んだことなのですが)アニメや漫画ってどうやったってキャラクターの心情とかの表現に限度があります。もちろん演出などで工夫はされています。けれど地の文がある小説の方が圧倒的に踏み込めるのですよね(私はこう思ったから物語は小説で書こうと決めたのですけど)。実際アニメの方だけ見てるといくつか細かいところがわからないところがあります。「その台詞が出てくる背景・心理って何?」とかですね。
というわけで、アニメの方をこれから観ようと思う方(あるいはもう観たけど本は読んでいないという方)は小説の方も読んでみることをお勧めします。
(あ、ちなみに逆に「アニメは小説より劣っている」とも言いませんよ? 映像作品には映像作品の利点があります。これに関しては次回触れるということで)

以下、『とらドラ!』の小説に関してAmazonへのリンクです。あえて本編とスピンオフは分けてません。発刊された順序です。アニメと同時並行で読み進めていくとしても、スピンオフの方も読んでおくとより裏側がわかると思いますので。
とらドラ!1
とらドラ〈2!〉 (電撃文庫)
とらドラ〈3!〉 (電撃文庫)
とらドラ! 4 (電撃文庫 た 20-6)
とらドラ・スピンオフ!―幸福の桜色トルネード (電撃文庫)
とらドラ! (5) (電撃文庫 た 20-8)
とらドラ! (6) (電撃文庫 た 20-9)
とらドラ!〈7〉 (電撃文庫)
とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)
とらドラ!〈9〉 (電撃文庫)
とらドラ・スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋 (電撃文庫)
とらドラ10! (10) (電撃文庫)
とらドラ・スピンオフ! 3 (電撃文庫 た 20-15)


あ、ついでに。
竹宮ゆゆこが『とらドラ!』の執筆を始めた頃に、担当の方から「何冊で終わりますか?」と訊かれたそうです。そのときに「10巻ですね」と答えてるみたいです。どこまでこのときに確信をもって返答したかはわかりかねますが、でも実際に10巻で終わってるんですからねえ。この時点でかなり練りこまれてたんじゃないかと私は想像してます。
by zattoukoneko | 2010-04-24 07:23 | | Comments(2)

私の読むマンガの話

これまでここのブログ内では小説や映像、ゲームなどは紹介してきたのですけれど、「マンガ」って一つも紹介していないですよね?
今回は雑談がてら、そこらへんの事情のお話と、ちょっとだけ何作か触れておきたいと思います。


私が漫画の紹介をしていないのは、実はそもそも漫画をほとんど読まないからです。
別に嫌いというわけじゃないです。むしろきちんと小説などと同じ物語の一種ですからその技法について勉強したり、気になったものは読むし、買っていたりします。
でも他の方々よりバックグラウンドが違うという理由から控えてました。
まずはこの辺りから説明していったほうがいいでしょうかね。

私の生まれはとてつもないど田舎で、村の中に信号とかなかったです(今は申し訳程度にいくつかついたみたいですが)。当然のことながら電車なんて通っていないですし、最寄りのバス停まで2キロほどあります。そして――私、この村のどこに本屋があるのか知らないです。
いや、いくつかはあるのでしょうけれど(実際漫画とか買ってた友人がいましたから)、私の家の近くにはないのですね。それで場所を知らなかったのです。
ですので私がイメージする本屋は地元の小さな本屋ではなく、もっと大きな町にあるデパートの中とかの本屋なのです。
で、ここに行けば当然漫画はあります(実際私はそういうところで小説を買っていったわけですし)。が、ここにもう一つ自身の背景が重なってきます。
それは父親がひたすらにマンガ(漫画およびアニメの両方を含む)を毛嫌いしていたのです。そのため私がそれらを見ることを許さなかったのです。
これだけ言うと厳格な父みたいなイメージですが、そうではなくて、他人、とくに偉い人の言うことを鵜呑みにする(というかそれしかできない)人間だったのです。私が小さい頃、あるいは父が育ってきた時代はまだまだマンガに対する理解が全然ない時代で(かつ父も同じど田舎の出身で)、そのため『マンガは子供の教育には悪影響しか及ぼさない』という言説を信じ込んでいたみたいです。
実際、この父は「推薦図書」なんかは買ってくるのですね。そしてそれを無理矢理に読ませる、と。私、このときに強制されたのとその本がつまらなかったために読書嫌いになったくらいです。小学校に上がるか上がらないかの頃から、再び小説の面白さに目覚める小学校の四年生まで一切小説読んでないです。
で、マンガですが。普通にテレビですら観てると殴りかかってくる父親だったので、漫画本なんて部屋に置いておけるわけがないです。またお小遣いなんてのも中学に直前までまともにもらってないので、そもそも買えないのです(いくらかもらっていたお金は全部小説の方に使いました)。アニメは父が帰ってくる五時半とか六時くらいまでならこっそり見れますけど、それも父が帰ってきたら即刻テレビを消して逃げなきゃいけないので、全部一通り見たアニメとかって実はなかったんですね(中学に入って、ビデオ録画を覚えて、そこでようやくまともに観れました。ビデオテープはもちろん自分のお金で、録画や保管もこっそりです)。
というわけで、他の方と比べて圧倒的にマンガというものに関して私はバックグラウンドが少ないのです。
(一応親戚の子が、私が訪れる盆や正月頃を見計らってジャンプとか何冊かためておいてくれたり、ドラゴンボールとかの単行本も見せてくれましたけど、これも断片的ですよね)


さて、こんなわけで私はマンガの方はほとんど知らないで中高時代を迎えてしまったわけですが、アニメの方はエヴァとかスレイヤーズとか出てきましたね。これはどんどん観ることができたので、今これらは紹介できます。
でもこの当時のほとんどはライトノベルとかが原作ですね。なので漫画の方はよく知らない、ということになります。
一応中学からは多少お金の工面ができるようになったので、何冊か単行本を買ったりしてますが、基本的には前に親戚の家で見たことのある漫画を集めてみるとかそういう感じでした。あるいは時々ジャンプを買ってみたりですね。
そんなわけなので、私が一番最初に買った漫画とか何だったか覚えてないです(汗) 特別意識して購入したわけではないので。

ただ自分で物語とか書き始めると意識も変わってきて、漫画の読み方とかも変わってきます。技法や演出の勉強もしましたしね。
そうなってきて、一番最初に意識して「これは買おう」と決めたのは森田まさのりの『ROOKIES』です。
漫画の方を読んだことのない人は絶対に読むべきだと思いますが、この人の技術力は半端じゃないですね。私は野球のルールとか全くといっていほど知らないのですが、それでもとてつもなく楽しく読めるように工夫されてましたし、またコマの配置や、その中の構図とかも徹底されてます。
簡単にしか説明しませんが……日本の漫画は右上から読んでいきます。そのため吹き出しとかの配置はそれを意識して自然と読める場所に置いていきます。これを森田まさのりはキャラクターの配置とかでも利用しているのですね。印象的でわかりやすいのはボールが転がっているコマ。単純に考えて四角いコマでは左右と前後、あと右前、右後、左前、左後と八方向にボールを転がすことができるわけですが――これを森田まさのりは明確に意識して使い分けてます。例えば、ボールがこちらから向こうに転がっていくようなシーンの場合は左後の方に転がしてます。これは右から読み手は見ていくからと、後ろ(コマの中では上)に転がせば自分からあたかも離れていったように印象付けられるからです。この技法はボールだけでなく人間でも使われてますし、それぞれのコマで何故そういう人の配置になっているのかとかきちんと理由があります(私は漫画家ではないので全部説明できないですけれど)。これに気付いたときに、『この人は化け物だ』と思いましたね。
それ以降ジャンプを毎週買っていって(ようは『ROOKIES』のためだけに買ってたわけです)、単行本も集めて何度も何度も読み直して勉強しました。もちろん、その作品の掲げるテーマとかも魅力的だったですしね。(なお、こうした技法をきちんと意識的に守れる方は他にもいます。同じジャンプ内であれば小畑健とかもそうですね。まだ連載持ってますから、興味のある方は『どうしてこのキャラはこっち向きなの?』とか考えてみるといいかもしれません)

で、まずは『ROOKIES』から私は漫画に入ったわけですが、その後同じジャンプ内で久保帯人の『BLEACH』が始まりましたね。この人はその前に短い期間『ゾンビパウダー』というのを連載してました(単行本では三巻出てるのかな)。このときにすでにテーマ性とかで抜きん出ていたのは知っていたので、よく覚えていたのです。『ゾンビパウダー』の方は残念ながらすぐに終わってしまいましたが、『BLEACH』で見事にその力量を見せつけてくれましたね。今はジャンプの看板の一つにまでなってます。
この人もテーマ性だけではなく、演出もめちゃくちゃうまいですね。森田まさのりとはまた少し違いますが、基本は基本できちんと守り、その上でオリジナルの演出まで出してきていて、こっちも『ああ、化け物二人目だ』と数話目にして思いました。
これ以降『ROOKIES』と『BLEACH』のためにジャンプを買い続けていったようなものです(本は大事なものですから他の作品もきちんと読んでますよ。でも圧倒的にメインはこの二つです)。


さて、ジャンプばかりで話を進めてきてしまいましたが、これは私が最初に目を向けたのが『ROOKIES』で、その後も購読していったからですね(あるいは昔に親戚が見せてくれたのがジャンプが多かったせいもあるのかも?)。他の雑誌に掲載されている漫画で好きなものも挙げてみましょうか。
上記のような理由で、ジャンプを中心にして漫画に目を向けるようになったわけですが……当たり前の話としてそんなレベルの高い作家がごろごろしているわきゃないです。これはどんな世界でも同じこと。ですからジャンプ以外と制限をかけるとなると――

ぱっと思い浮かぶのは藤島康介『ああっ女神さまっ』、石川雅之『もやしもん』、伊藤理佐『おいピータン!!』およびその中で時々特集的な感じで入れられる『おいクロタン!!』ですか。このどれもがお金を払って損をすることはないと太鼓判を押しておきます。
これらについて順を追って説明していきましょうか。

まず藤島康介『ああっ女神さまっ』ですが、ここではテーマとして設定されるのが綺麗な話なのですね。心温まる話、という感じです。
それに合わせて(初期の頃はそこまで意識されてないですが)全体的に余白が多かったり、コマ割が大きかったりします。そのためとても「白い」漫画です。これは『BLEACH』が「黒い」漫画になってるのと対になってるような感じですね(やっていることや扱っていることが完璧に真逆という意味ではないです、お互いのテーマカラーが違うのですね)。
こうした理由から私は『BLEACH』を「黒い漫画」の代表として、『ああっ女神さまっ』を「白い漫画」の代表として捉えています。
……まあ、最近このコマ割が大きいせいか話がなかなか進んでくれなくて読み手としてはちょっと困っているのですが(でも最近BLEACHも話の展開のペースが落ちてますね。この辺りはもしかしたら編集者の方から「もっと長く儲けたいので、引き延ばしてくれ」とか言われている可能性もあります。もしそうだとしたら作者がどうその意見を捉えているのか気になりますが……これだけ力があればむしろ早く今の作品を終わらせて、次回作でさらに売り上げ増を狙った方がいいんじゃないかとも思います。確かに次も必ずヒットするとは限らないわけですが――でもだからといって今の作品で手を抜かせていて、それで読み手が離れてしまったら、今のも次のも潰れちゃいますよね。作家殺しの販売戦略だと私は思うのですけれど)。

次に石川雅之の『もやしもん』行きましょうか。
これ、作者本人も言ってますが「テーマとか別にない」漫画です。
と、いうことになっていますが、この人の他の作品を読めばわかりますが、物語の基本構造である起承転結とか、オチとか、とても上手く使える人だし、テーマもきちんとしているのですよね。
だから正確には「『もやしもん』のテーマは他の作品とは違うところにあって、重点を置いているのもテーマじゃないよ」ってことになるんだと思います。
話を知らない人に簡単に設定を説明しておくと、
主人公の沢木直保は細菌が肉眼で見えるという特殊能力を持っています。会話したり、操ったりすることもいくらか可能な模様。この能力をある程度中心に置きながら、細菌学や発酵(お酒とか)の話をしていっている漫画です。
で、この主人公の見える細菌ですが――めちゃくちゃかわいいww
なんだこいつら(←Love)、って感じです。でもきちんと顕微鏡写真とかをある程度元にしているのですよね。普通顕微鏡とかで見た細菌なんて幾何学模様にしか見えないのですが、これをここまでマスコットにできるのはすごいですねえ。これらの画像に関しては(ここで掲載していいかわからないですから)ネットで検索したり、漫画本体を手にとって確認してみてはどうでしょう?
で、このかわいい菌たちがページを遊びで彩りながら、細菌学のこととかとても丁寧に紹介しているのです。さすがにごく最近の研究までは触れられないでしょうが、でもそこらの入門書なんかよりずっと詳しく、かつわかりやすく書いてあります。
生物系の学問、特に農学に関心のある人はこれ読んでおくととても役に立つと思いますよ。

えっと、あと残っているのは伊藤理佐ですか。
『おいピータン!!』の方は大森さんというのが主人公ってことになってますが、毎回ショートエピソードで中心に据えられる人物は変わります。
この漫画もすごいと思うのですが、起承転結とかオチとか完璧です(そして時々くずしてくれたりします)。その上で毎回毎回うならされるような作者の様々な着眼点を見せてくれるのですね。この作者の意見は、ただの一個人の意見というよりは、「実はみんなもそう思ってるよね?」って感じのことを選んできてます。でもそこに普通の人は気付けないから、この漫画を読んで「ああ、あるねえ」なんてうならされたり、笑わされたりするのです。ここ毎回毎回話が変わるのに持ってこれる引き出しの多さには脱帽です(この引き出し見せていただきたいですよ。あるいはその能力ってどうつけるもんなんですか、教えてくださいw)。
また話の多くに料理が絡んできたりするんですよね。これってかなりの縛りだと思うのですが、それでもきちんと話が進むのですね。これもお見事です。
さてこの『おいピータン!!』の連載の中で時々『おいクロタン!!』というのが掲載されることがあります。
こっちはメインを大森さんが飼っているクロという猫にしていて、それで色々なお話をしています。
テーマや着眼点は上と同じで「ああ、そうだねw」って思うようなものになっているのですが……
このクロという猫、ほんとに猫っぽく見えるんです!
これ、「何を当たり前のことを」と思う方もいるかもしれませんが、そうそうできることじゃないです。普通に人間書くときでも気をつけてないと『つくられたもの』という印象にすぐなっちゃいます。そして実際に(名前を出すのは控えますが)猫を扱った漫画で、きちんと猫が描けてないものはたくさんあります(私の筆名も「猫」と入っていますが、私自身猫好きで、実家で飼ってたりしたのです――名前の由来は猫好きから来たわけじゃないのですが。そういう本当に猫好きな人から見れば、その作者が勝手に猫をいじくっているかどうかわかります。ただのキャラクターでしかなくて、別に犬でもネズミでもいいだろ、ってやつがあります。ただ猫が描きやすかったり、売り上げに繋がるから使ってるだけのただの「形」なんですよね。事実、友人が勧めてくれた猫漫画で、私はどう考えても『これ猫じゃない』と思って、友人に「この人猫のこときちんと見て描いてないよ」と言ったことがあります。そしたら――作者本人が「猫は飼ってるけど、漫画描くときには参考にしてない」と後で告白してくれちゃいましたね。こういう人もいるということです)。
で、『おいクロタン!!』なのですが、こちらはきちんと猫を見て、猫を描いています(作者自身も実際にクロという猫を飼っているそうです)。
でもこの作者のすごいところはそれだけじゃなく、このクロという猫――
二足歩行とかしますw
これ確実に猫じゃないんですけど、でも読んでると猫にきちんと見えるんです。さっきこの伊藤理佐という人の洞察力の高さについては触れましたが、これを利用して実際の猫をよくよく観察して、その上でアレンジしているのですね。だから現実的にはありえない動きをするのですが、でもきちんと「猫」という範疇に入っているのです。これすごい不思議な感覚ですけど、私も頭の片隅では「こんな動きするわけないじゃんw」と思っているのですが、また別の片隅で「もしかしたらこの人の猫は本当にこういうことするおかしな猫なのかもww」と思うのです。
もう一個例を出してみましょうか?
このクロは――
「ホンドヴォー」と鳴きます(笑)
いやいや、あり得ないだろと思うのですが、でもそういう猫ももしかしたらいるのかもしれないですよね?(実際うちの猫――奇しくも同じ「クロ」ですが――は「ヘッキャー」と鳴いてましたw) さすがにホンドヴォーはないと思うのですが、でも猫って結構変な鳴きかたするので、ただただ「ニャー」しか描いてない漫画より現実味があったりするのです。これは猫好きな方にはよくわかるかと。
――あ、伊藤理佐が他の人より長くなってしまった(笑) 私もやっぱり猫のことが好きなんですねえw


さて他にも面白い漫画はありますけど、とりあえず今回はこのくらいの紹介ということで。
もしかしたら漫画についてもきちんと紹介するようになるかもしれません。上にすでに挙げた作品でも語り足りないですから。
とりあえず、表紙とか見てみたいでしょうから一巻目だけAmazonへのリンクを貼っておきますね(ここのブログ、アマゾンの商品バナーが出せないんですよね……出せたらいいのに)。
ROOKIES (1) (ジャンプ・コミックス)
BLEACH (1) (ジャンプ・コミックス)
ああっ女神さまっ(40) (アフタヌーンKC)
もやしもん(1) (イブニングKC)
おいピータン!!(1)[改訂版] (ワイドKC)
おいクロタン!!(1) (ワイドKC)
(リンクを貼って気付きましたが、『もやしもん』は表紙ではかわいい菌たちが確認できないですね。ご容赦ください。あと『ああっ女神さまっ』は連載がとても長くて、絵が随分と変わっているので新しい方でリンクつくりました。こっちの絵の方が馴染みやすいでしょうから)
by zattoukoneko | 2010-04-12 08:44 | | Comments(8)

『ブギーポップは笑わない』と現象学

さて今回は『ブギーポップは笑わない』と現象学というテーマで書いてみたいと思います。

まずは現象学というものについて馴染みのない方も多いと思うので、そちらのほうから説明したいと思います。ただ、私自身深くやったことがない上に、ここではかなり簡略化しますので、間違いなどはあると思いますがそこはご容赦ください。
さて、現象学というのは哲学の一分野です。特に科学のあり方・方法論として今は考えておいてもらっていいかと思います。
現象学の根本にある考え方は、人は観察対象の本質の部分(内実といいます)を直接知ることはできず、そこで起こっていること(すなわち現象)しか認知することはできない、というものです。
たとえば花の色を考えてみましょう。私たちには花の赤や黄、白といった色を観察することができます。ところが、これを見たところで私たち人間は花の(色の)何を知ったことになるのでしょう? 花の本質・内実とは何なんでしょう?
つまり私たち人間は、花の色を次のように認知しています。まず花に光が当たり、そこで吸収されずに反射された波長の光を網膜に受けてそれを感知します。それは視神経を通りデータとして脳へと伝わり、解析されどのような色かを認識するということになっています。
ところがご存知の通り、人間の感じ取れる波長域には限界があります。赤外線や紫外線は見ることができず、非常に限られたものしか感知できません。それに対しヘビなどは赤外線を感知できますし、逆に犬のように白黒しか見えない生物も存在します。
すなわち人間はたまたま色というものが(ある程度)感知できる生物だったというだけの話であり、その人間が「花の色とはこういうものである」と内実に関してそのまま説明できるというわけではないということです(他にも見ているのは反射された光であり花そのものではないということや、脳でのデータ処理が適切がどうかという議論もできます)。
いずれにせよ私たち人間は、身の回りで起きていることに関して、現象という認知システムを通して処理されたデータしか得ることができず、本質・内実を直接理解することはできないということです。
ではどうするか?
現象学ではまず人間の認知には限界があることを理解した上で、その現象(観察データ)を集めていきます。それらは観察対象の内実を取り巻くものでしかないわけですが、それらのデータ蓄積によって内実の理解へとつながるのではないか、と現象学では考えます。
――なんだか難しかったでしょうか? ようは人は物の本質を直接は知ることができず、周囲の出来事を色々と見ることで本当のことを知るということです。


さて『ブギーポップは笑わない』について説明していきたいと思います。
小説界に多大な影響を与えた作品ですので名前くらいは知っている方が多いかと思いますが、この作品は1997年に上遠野浩平(かどのこうへい)が第4回電撃ゲーム大賞(現在の電撃大賞小説部門)の大賞に選ばれた作品です。
ストーリーの面白さはもちろんのこと、何より目を引いたのはその書き方でした。
主人公はブギーポップということになります。事件を最終的に解決するのもこの人物ですし。ところが物語中でブギーポップ自身に焦点が合わせられることはまったくといっていいほどありません。各章はそれごとに各人の体験したことが描かれているだけであり、何の事件が起こっているのかすらさえわからないと言えます。
これは通常の物語の描き方からすれば異常なことです。本来ならば主人公に焦点が当てられ(その事物に読者を感情移入させながら)、主人公がどのように事件に巻き込まれ、何を感じ、どうやって解決していったのかを書くことになります。『ブギーポップは笑わない』はこのやり方に真っ向から対立しているわけです。
こうした作品は奇をてらっているとは思われるかもしれませんが、普通は受賞できません。やはり読者は事件そのものを知りたいし、主人公の活躍を見たいわけです。
それなのに上作品が受賞し、さらには社会にも大きく受け入れられた理由としては、主人公や事件について直接触れていないのに、それでも読後その本質が見えるから、です。
前記した現象学のことを考えてみましょう。人は物事を直接理解することはできません。理解できたと感じているのは人の傲慢といってすら差し支えなく、見えたのはその事件の表面上のことでしかないわけです。
上遠野浩平はあえて事件に直接触れることをやめました。そして事件の周囲にいた人たちばかりを見ていくことによって、事件の内実を読者に感じさせようという手法をとったわけです。
これは見事に成功し、大賞にいたったわけです。


ただし上遠野浩平が現象学をどの程度意識していたのかは不明です。というのは『ブギーポップは笑わない』や上遠野の初期の作品は上で言ったような事件の周囲を書く、ということをやっているわけですが、後々は事件そのものに焦点を当て、時系列順に追っていく、という割と普通の小説と同じ書き方に変わります(ただし、依然としてブギーポップ自身には焦点を当てられなかったり、事件に関してもあえて踏み込んで見せていないという感じがあり、そこが上遠野浩平の独自性であり、面白いところだとは思いますが)。


さてはて、今回は『ブギーポップは笑わない』と現象学を絡めてみましたが、そんな小難しいことを抜いても面白い作品です。特に上遠野浩平の着眼点・発想力には毎度驚かされます。まだ手に取ったことのない方はぜひどうぞ(特にブギーポップシリーズの二作目『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』が私は好きなので、できればこの巻までまとめて見てほしいところです)。
Amazonでブギーポップシリーズを購入する
by zattoukoneko | 2009-12-15 06:45 | | Comments(0)

久しぶりの更新

今回紹介するのは、

竹宮ゆゆこ著「とらドラ!」

です。(本当は違う予定だったのですが、原稿が書き終わりません……)

とらドラ!は、「目つきが悪いが普通の高校生:高須竜児」と「体のなりは小さいが、怒らせると怖い美少女:逢坂大河」がひょんなことから互いの恋愛を成就させるべく手を組む、という内容のお話です。
2009年2月現在、本編が9冊、スピンオフ小説が2巻出ています。またアニメも放送されていて、話もだいぶ佳境に入ってきた感があります。

とらドラ!の魅力……というよりは竹宮ゆゆこ先生の魅力は、キャラクターの心情を深く深く掘り下げて心理描写を行うというところでしょうか。これによって個性的なキャラクターの、個性的な言動が自然な反応のように見えます。
(こちらは後々紹介する予定ですが)直木賞作家でもある村山由佳先生が「自然なことを自然に描ける」作家なのに対し、竹宮先生は「自然でないことを自然に描ける」作家と言えると思います。
そのためキャラクターへの感情移入が自然で、違和感なく読み進められます(これは竹宮先生の文章力も大きく関係していると思いますが)。

とらドラ!は個性的なキャラクターたちが描く恋物語です。普通ではなくて、それなのに自然な恋物語。みなさんも一度手に取ってみてはいかがでしょうか?


とらドラ!をAmazonで購入する
by zattoukoneko | 2009-01-30 18:20 | | Comments(0)

気付くともう2月……

1月中には更新したいなあと思ってたんですけどねぇ……。なかなか予定通りにはいかないものです。

さて今回紹介するのは、

神坂一『闇の運命(さだめ)を背負う者』

です。


神坂氏といえば『スレイヤーズ』というイメージがあるかと思います。いまだに刊行が続いている作品ですし、確かに人気も出ました。かくいう私も好きです。
ですが他の作品はあまり注目されていません。せいぜい『ロストユニバース』くらいでしょうか。
では他の作品は面白くないのか? そんなことはないのです。そのことを言うためにもあえてスレイヤーズ以外の作品を紹介してみたいと思ったわけです。

ちなみにスレイヤーズはそのキャラクターと読みやすい文体で人気が出たと考えられています。それらの要素が大きいことは否定できません。それなくしてあれほどのヒットはなかったでしょう。
ですがそれ以外の部分、つまりストーリーやテーマが他の著者よりも劣っているかというとそうではありません。むしろ抜きん出ていると言えるのではないでしょうか。考えてもみてください。キャラクターがいいから、読みやすいから、それだけでは何冊もシリーズを買い続けないでしょう? ストーリーやテーマもきちんと整っていなければ本を投げ出してしまうはずです。
つまり神坂氏はストリーテラーとしてもかなりの力を持っているということです。スレイヤーズ(の特に長編)では毎巻おもしろい話を書いていました。そんな人が書いた別の話が面白くないなんてことがあるでしょうか?


さて、闇の運命~の話に移りましょう。

この話は転生によって闇(ガイア)の力を背負うことになった者と、光(ヴァルハラ)の力を背負うことになった者が互いに戦っているという背景設定です。
でも闇側の転生戦士である主人公の国間仁はその運命を受け入れようとしません。そんな誰が決めたかもわからない運命なんぞに従えるか!、と普通の高校生として生活しようとしています。
もちろんそう簡単にいくわけないのですが……。
と、内容の紹介はこのくらいにしておきましょう。話の展開はかなり読者を裏切る形で進んでいきますので、それをばらすわけにはいきませんから。

この話はその展開の面白さもとてもよいのですが、私はそれよりもテーマの方に注目してみたいと思います。
上の簡単な内容紹介でもわかりますが、主人公は運命を受け入れようとしません。運命なんて信じるか、自分は自分の道を行く、という感じです。ここからわかるように著者は運命というものについて懐疑的な立場でいることがわかります。そしてストーリーを通じて運命というものについて考えてみようとしているのだとわかります。
神坂氏は、神とか運命とかを頭っから信じてしまっている宗教の人に反発を覚えた、というようなことをあとがきで述べていますが、まあライトノベルのあとがきなので話半分に受け取ることにしましょう。そのあたりから着想を得たのは確かかもしれませんが、宗教を否定したいとか関係者と戦いたいという意図はないと全体を読んだ感じ思います。
それよりは、やはり運命というものについて小説を書くことを通じて考えてみたい、というのが本音だと思います。
運命には従わなければいけないのか、運命に抗うことは愚かなことなのか、運命というものに人はどう向き合っていけばいいのか。
ストーリーをすべて書き終えたところで神坂氏は自分なりの答えを導いたようです。そこまで読み進めた人はその一文にうならされることでしょう。


テーマ性に関しては神坂氏の作品の中でこれが一番抜きん出ていると思います。ストーリーも抜群ですし、一度手にとってみてはいかがでしょうか?

闇の運命を背負う者をAmazonで購入する
by zattoukoneko | 2008-02-01 15:50 | | Comments(0)

大体月1の更新になりそうですね

今日はこのブログを始めるにあたって、ぜひ紹介したいと思っていた本についてです。
児童文学からの紹介で、タイトルは、

クレヨン王国 つきのたまご Part1

です。
この本はPart1とあることからもわかる通り、続編があります。
Part8までで一区切りで、その後さらに続きが出されています。
しかし元々作者の福永令三さんは、この一冊で話を終わらせるつもりでした。
それが続くこととなったのには理由があります。
作者が話が思いついたから……ではありません。
読者からの続編希望の声がとても大きかったのです。
しかしその希望は単純に話が面白かったから起こったものではありませんでした。

今日はその続編希望がなぜ起こったのか。それについて話をしてみたいと思います。
まずはあらすじを見てください。若干のネタバレになります。ご容赦ください。
話は中学受験に失敗した星野まゆみが、不思議な青年と出会いクレヨン王国に迷い込むところから始まります。
その青年はクレヨン王国ではサードと呼ばれ、国王を育てるという重要な人物でした。
ただサードはまゆみには「三郎」と自分のことを呼ぶよう伝えます。
地位など関係なく一人の人間として相対してほしいという彼の願いでしょう。そしてさらに裏には、自分の特殊な能力を見てほしくないという彼の儚い希望もあったのでしょう(彼の能力については今ここでは伏せておきたいと思います)。
三郎は月のたまごを救出するという任務にこれから向かうところでした。
月のたまごとは、新しく世界を照らし、平和をもたらすようにと産み落とされた第一の月のたまごです。
その月のたまごの生存が何らかの理由で確認できなくなったのです。
クレヨン王国はこれに危機を感じ、数々の冒険をこなしているサードこと三郎に救出任務を任せることにしたのです。
その三郎についてきたまゆみは、まだ受験のショックから抜け出せず日常に帰りたくないことと、また三郎に惹かれ始めていたこともあって、その過酷な冒険の旅に同行することにします。
救出の旅は、個性的なキャラクターである豚のストンストン、鶏のアラエッサも加わり、苦しいながらもにぎやかに進んでいきます。
彼らのにぎやかさは旅に不可欠なものでした。なぜなら旅の道中には人の苦しみや怨念のような負の部分が詰まっていたからです(ここに原爆に対する考えなど、著者福永氏の隠れたテーマもうかがえます)。
彼らは様々な人の苦しみを見つめながらも、何とか月のたまごのある場所までやってきました。
たまごは人の助けを求めています。しかしそれは三郎とまゆみに過酷な選択を強いることになるのです。
たまごは周りを人を老化させる物質で覆われていました。常人ではたまごにたどり着くことはできても帰ってはこれません。
しかし三郎にはそれができました。三郎は人の三倍の寿命をもつという特殊な人間なのでした。それがサードと特殊な呼称で呼ばれるゆえんです。
三郎は自分がたまごの元へと行くことを決めました。それしかたまごを救うすべはありません。
しかし同時に恐怖も感じました。戻ってきたとき、三倍の寿命を持つ自分でもさすがに老人になってしまいます。そんな姿を愛するまゆみに見られたくない。
三郎はたまごの前に行く前にまゆみと別れることを決意します。元々行きずりでここまで連れてきてしまったのです。彼女には帰るべき世界があります。
まゆみは強い抵抗を見せながらも、しかし最終的に元の自分の世界へ戻ることにしました。愛する三郎と別れて。
そうして元の世界へと帰ってきたまゆみは、広島で発見されます。彼女はクレヨン王国での出来事をすべて忘れていました。ただ、三郎への愛は心のどこかで感じながら……。

以上が月のたまごPart1のあらすじです。
これだけ書いてもすべて伝えきれたわけではありません。著者の隠れたテーマや、余韻、そういったものが私にはまだまだお伝えできていません。
このあらすじを見て面白そうだと思った方は、ぜひご購入を。

さて、問題となるのはこれがハッピーエンドなのかそうでないのか、ということです。
まゆみは三郎と別れなければなりませんでした。しかも記憶まで失ってしまいます。
これは一見バッドエンドのように見えます。
しかしこれを初めて読んだ私は(小学校5年生でした)、考えたのです。
本当にそうなのだろうかと。
勘でその疑問を持ったというのもあります。しかしもう一つ理由があります。
著者の福永さんは、ハッピーエンドになるものを心がけている方です。ハッピーエンド以外に読者に伝えるべきものはないとすら考えている節すらあります。
そんな人が悲しいだけの物語を書くだろうかと。

文学への勘が働く方なら上のあらすじを読んですでに答えを見出しているでしょう。
まゆみは任務を果たし、元の世界へと戻っている。だからハッピーエンドなのです。
実はこれは「行きて帰る物語」の構造を忠実にとっているのです。
(小学生の私はそんなこと知りませんでしたが、一年近く考えてそうなのではないかと同じ答えにたどり着けました。だから大人になった今でも深く心に残っていて、ここで紹介なんかしてたりするわけです)
行きて帰る物語とは、ジブリ作品などにもよく見られる、物語としては一般的な構造です。
主人公は日常世界とは異なる別世界へと迷い込むことから始まります。その世界から元の世界へと帰るためには、そこで何らかのミッションをクリアーして見せる必要があります。その過程で主人公は心身ともに成長し、そして元の世界へと帰っていくのです。

月のたまごのお話は、まさにこの構造に則っています。そう考えると、まゆみは元の世界へと帰らなければならず、三郎とは別れる運命だったのです。
(あるいはこんな構造論をとらずともこう考えてみましょう。著者が月のたまご目前での試練をなくし、安易に三郎とまゆみを結びつけていたとしましょう。一見ハッピーエンドです。しかし本当にそうでしょうか? まゆみのお父さんやお母さんは悲しまないのでしょうか? また受験失敗という現実逃避から愛を得た、なんて物語が本当によいお話でしょうか? こんな安易なハッピーエンドの作り方は、素人がやる下手な物語作りのよくある例でしかありません)

さて、ハッピーエンドだったはずの『月のたまご』は、しかし読んだ人々から「三郎とまゆみを再会させてほしい」の声を多数生み出すこととなりました。
これには著者の福永さんも驚いたことでしょう。
自分はハッピーエンドを書いたのに、もしかしたら読者にとってはそうではなかったのかもしれない。そう思ったかもしれません。
きっと多くのことを考えて、福永さんは続編を書き始めることにしました。

ではこのときの読者の声とは何だったのでしょう?
みな、ハッピーエンドだと見抜けなかった、つまり安易なハッピーエンドを求めた読解力のない読者たちだったのでしょうか?
私は違うと思うのです。
本当はみな、物語上そうならなければならなかった、と無意識にでもわかっているのでしょう。
その上で更なる幸せはなかったのか。どうにか三郎とまゆみの二人を結びつける解決はなかったのか。そんなことを読者も色々考えさせられたに違いないのです。
そしてその葛藤が、声となって福永さんの元へと押し寄せたのです。

私はここに、物語の構造論を超えた、何かがあると思いました。
つまり、『月のたまご』というお話は、単なる一つの物語を超え、生きた物語となったのです。
形而上的な話になちゃってますね。
でも物語にはそういうことが稀にあると思うのです。
読んだ直後、一日二日で感動が消えてしまうのではなく、
物語のキャラクターが読者の心の中に息づいて、語りかけてくる。
これはキャラクターが良いからなのか、テーマが良いからなのか、物語が良いからなのか、あるいはそういったものを超越する何かによって引き起こされるのか、私にはわかりません。もしかしたら読者の感受性も重要かもしれません。
理由はわかりませんが、そういった心に訴える物語は確かに存在します。そして『月のたまご』はその数少ない物語の一つなのです。

月のたまごPart1は、読者に色々なことを考えさせました。
特に三郎とまゆみに幸せのこと、それについて考えさせました。
ときには物語の構造を超えることも必要なのかもしれない。そのことを福永さんは考えたかもしれません。そして続編へと話は続いていくのです。

私が今回、Part1だけお勧めする理由、ここまで読んでくれた人にはわかってるかもしれません。
つまり、一冊の独立したお話として読むことで、皆さんには当時の読者と同じ視点で色々考えてみてほしいのです。
「続きがあるから」と思っていては、三郎とまゆみはおそらくあなたの中で生活を始めないでしょう。
「これで終わりでいいのか?」という疑問が、きっとあなたを内なる三郎とまゆみへと視線を向けさせます。
だからまずは一冊だけ、手にとってみてください。
そして読み終わったら、あなたの心の赴くままに、余韻に浸ってみてください。
それがある程度消化できたと思ったら、Part2から先を手に取ることもいいでしょう。
そこではさらなる試練が三郎とまゆみを待ち受けています。

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by zattoukoneko | 2007-09-03 19:00 | | Comments(0)