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西洋医学と東洋医学は相容れない

パラダイム関連記事の総集編に相当します。今回はクーンらの述べていた「歴史を見ていくと出てくるパラダイムの違い」ではなく、『現代にも本当はあるパラダイムの違い』を見てみようと思います。それは色々な地域を比較することで見ることができます。ですがそれが最もわかりやすいと思われる西洋医学と東洋医学でそれを説明することを試みることにします。



まず西洋医学に関してですが、これまでの記事(数が多すぎるのでリンクは省略)で説明してきたように元々はギリシャ錬金術とアリストテレス哲学・スコラ哲学というパラダイムがあったところに中国の煉丹術などが入ってくることでイアトロケミスト(医化学派)というのが成立し、これが現在の西洋医学に繋がってくるわけです。
もちろん途中で化学革命や生物学革命がありました。ですからパラダイムは替わっているはずです(パラダイムとは全人類の模範とすべき基盤だということをお忘れなく)。けれど非常に狭くパラダイムを限定し、医学・薬学というもののみに適用すると、西洋医学のパラダイムというのはイアトロケミストの出現、および第一の科学革命によってできたパラダイムから今日まで変化していないだろうと考えることができるだろうと思われます。ここをざっと見ていきましょう。

西洋での錬金術は宇宙と生命を扱うものだということは前の記事で述べたとおりです。例えば宇宙のことをマクロコスモス(大宇宙)、人間の体をミクロコスモス(小宇宙)なんて表現し類比していました。例を挙げるとハーヴィという人物は血液循環説の代表的人物で、体内を血が「円を描くように循環している」というのを発見し、すなわち『天体の動きと同じである』としたわけです。
イアトロケミストもこれに従って医薬品をつくっていました。少し時代は後になってしまいますがデカルトが機械論を確立します。そして宇宙は時計のように精密な機械であるともされます。当然のように人間の体も「機械」であると考えられるようになりました。現在の生物学や医学で人体はどのように考えられているでしょう? 神経では電気信号として順々に伝わっていくとされ、それは細胞膜に埋め込まれているチャネルによって生み出される細胞内外のナトリウム・カリウムの濃度差によって引き起こされるとなっています。あるいは体内では様々な種類のホルモンが流れており、それが各種細胞の成長や活動を促す。筋肉はアクチンフィラメントとミオシンフィラメントの動きによって伸長をするのだし、DNAは自己複製や修復のために自らタンパク質をつくりだしてそれを行なう。
――と、高校の生物の教科書に並んでいるようなことをいくつか並べてみましたが。どうでしょうか? これって「機械」ですよね? デカルトの機械論のそのまま、近接作用によってすべて説明されています(ここpoint)。
また西洋医学における医薬品もこれに基づいてつくられています。特定の細胞や細菌に効くようなものを狙うようなものになっているわけですね。その場所に化学物質が実際に辿りつき、そこで物理的に接触、化学反応を誘発するというのが生物の体の中で起こっていることとなります。これはまさに機械のような仕組みです。


一方で東洋医学はまったく別のパラダイムの上に成立していると言えます。これを見ていきましょう。
まずはすでに説明しましたが中国の思想では陰陽というのが一つの重要要素です。中国でも宇宙と(錬金術に限らず)ほとんどの思想は繋がっています。中国にあるすべての思想・学問を説明するのはさすがに骨が折れますので割愛しますが、月は陰であり太陽は陽である、女性が陰で男性が陽であるなどと二つに大別することができました。つまり西洋ではアリストテレス哲学の四元素を基盤に、あるいはそれに反対しつつもパラケルススは三つの元素などに分けていたのが、中国ではまず大きく二つに分かれており、その中でさらに重要な要素として水銀(陰)とか硫黄(陽)とか細分されていったというわけです。中国では人体はこの陰と陽のバランスによって体調を崩すなどと考えられ、(またここは陰陽の中が細かく分かれていることがあり説明できないのですが)病を治すにはこのバランスを整えるため、陰が足りないならそれを補うような丹(今では漢方と呼称)を処方していくということです。まあここがとても複雑化しているので漢方薬というのは何万とかそれ以上の数あるのですが。
それともう一つ重要な要素として(広重徹の言葉のままに使えば)「パターン」というものを基盤にしつつ中国科学は成立してきている、もしくは西洋近代科学導入前まではそうだったということができます。この「パターン」というのは説明するのが難しいのですが“波”のようなものです。つまり万物は波によってできているというのです(こういうと何だか量子力学を実は前々から進めていたような感じすらしますが、量子力学の下にあるパラダイムは近代西洋科学の『機械論』なので混同してはなりません。まあ、専門家で結構有名な人の論文にゴニョゴニョ)。まあこれもなかなか難しいので省略しようと思います。そもそも中国科学が複雑ですしね。それらをただただ「パターン」という抽象的で私たちに馴染みのないもので説明していってもキリがないかなと。ということで以下では具体的でわかりやすい事例のみを取り上げましょう。
中国では気功などがありますが、体の中には気の「流れ」のようなものがあり、またそれを大きく司る部位として丹田や各部位にツボといったものがあるわけです。針治療や各種マッサージはこの気の流れを正常化し健康体にするというのが主軸となります。つまり「流れ」を扱っているので「パターン(波)」の一つということになります。で、これらの治療は実際に効くわけですね。たとえば逆子で産まれそうなんてときにはそれを解決するツボとかがあったりする。けれどこれは西洋医学の基盤となっている「機械論」では説明ができないことです。



さて、西洋医学と東洋医学を並べてみたわけですが、ここには大きな溝があり(私の説明力不足があって申し訳ないのですが)渡ることのできないものとなっています。つまり「通約不可能性」がここに見い出すことができるわけです。東洋医学と西洋医学ではそもそもパラダイムが違うというわけです。
が、残念なことに近年東洋医学、特に漢方を西洋医学が解読しようとメスを入れにかかっています。漢方の成分を分析し、それを新しい医薬品にしようとしているのです。これは実際成功を収めていますが数はまだまだ少数。むしろ「訳わからん」というものの方が圧倒的に多い。
それに私が思うに、この東洋医学と西洋医学のパラダイムの違いを無視してしまうのは一種の「侵略」ではないかと。仮にこれによって東洋医学のパラダイムが破壊され、西洋医学のパラダイムで埋め尽くされたとします。そうすると東洋医学の方でしか解決できていなかった難病とかが治療できなくなるのです。
一つの考えとしてこのようなものがあります。
「人間というのは結局自然の現象を説明しきるような理論は生み出せない」
科学の狂信者はこれに猛反対しそうですが、これは当たり前のことです。歴史が変われば社会が変わる。社会が変わって文化も人も変わる。こんな流動的なものに「これだ!」という理論を構築するのはまず不可能でしょう。そして“人も変わる”のです。だから見方が変わる。そうすれば当たり前のように『現象の見え方が変わってくる』のです。
これまで何度もパラダイムシフトの話をしてきましたが、そこで繰り返し述べてきたように変則事例というのがたくさん蓄積することで科学革命が起き、パラダイムシフトが起こる。ここではそれまでの思想体系は捨て去られる。まったく別物としての『科学』が誕生することになるのです。
こんなことを言うと、あたかも「科学なんて無意味だ」と主張しているように聞こえるかもしれませんが、当然のように人間は自分が生きている時代の中にしかいない。ほんの数十年も遡れば私たちには理解も、想像すら困難な世界が広がっている(日本人には簡単なはず。1940年代の日本を、それを経験してない人がどうして容易く語ることができるのか。そこに生きていた人たちの気持ちはそうやすやすとわかってしまうものでしょうか?)。現代の私たちにできることは『現代あるパラダイムというファクター』を通しての思想や自然現象の説明でしかない。そして未来の我々の子孫は『彼らのパラダイム』に基づいて物を見る。けれども西洋科学が(パラダイムが変わってはいるとしても)きちんと昔のものから引継ぎ、変革し、そうして今の形になってきたように、現代の私たちのやっていることは後々古くて大間違いだとされようとその考えを生み出すところまで繋がっているわけです。私はこう考えると現在行なわれているあらゆる学問はまったく無意味だとは思わない。価値あるものだと考えます。
ただし現在の流れとして西欧の勢力が強すぎる。これは学問に限らずです。だからもしかしたらとても意味のある活動・文化・生活を潰してしまっているかもしれない。今回出した東洋医学というのはそのたった一例であるということです。

締めとして。
ノーベル文学賞の川端康成の授賞式でのスピーチタイトルは「美しい日本の私」でした美しい日本の私 (講談社現代新書 180)。同じく今の人たちは他の自然科学の分野、社会科学の分野でも「日本人として」やはり活動している。それは果たして完全なる西洋近代科学のパラダイムに乗ったものなのか? 実は少し違っていて、なれば日本人としてしかできない研究もあるのではないかということです。で、それを考えるような記事はあちこちに散りばめてきたので探してくださいましw



さて? 最初に今回は「パラダイム関連記事の総集編」と言っておいたわけですが。
まあこれも何かのための伏線という(苦笑) これが予備知識としてこれから色々と記事が組まれていくのであります!
といってもそこまで難しい内容にする気はないですけどねー。というか毎回毎回こんな水準で書いていくと自分の方が限k(ry
by zattoukoneko | 2010-09-17 08:53 | 歴史 | Comments(1)

錬金術の発展

一つ前の記事で錬金術というのは全世界で独自に多発的に成立したものだと述べました。ただ研究の中心はやはり西洋の方でしたし、やはりその後の世界に大きな影響を与えたのがヨーロッパおよび大陸の方なので今回はそちらを中心に見ていこうかと思います。
(なお西洋科学がどうして世界の覇権を握ったのかということに関しては様々な議論がなされています。ただ単に知的・技術的水準が高かったからだというだけでは説明がつかないのではないかとされています。日本にだって和算とか本草学はあって高水準だった。伝統工芸だってあった。それらが捨てられたのは何故か? あるいは日本だけではなく他の国にも広まっていっているのは何故か? ま、この話は本当に専門的になるので紹介程度に留めます)



さてヨーロッパではまずギリシャ錬金術から始まったと考えておけばいいですかね? ここでは前回述べたように生命や宇宙と関連して錬金術は営まれていました。これはその後のヨーロッパにも受け継がれて蒸留酒spritsを発明することになりますし、アラビアの方や中国の方にも影響を与えたと考えられます。(そしてまたシルクロードなどを通ったり、ルネサンスによってヨーロッパに還ってくるわけですが)
さて錬金術で大事だったのは生命に関する部分です。金をつくるというのはむしろ二次的なものだったわけです。まあよく「金をつくれれば大金持ちになれるんだ!」と破滅していく術師の話を聞きますが、これは本当かも(苦笑) 金をそのまま売るという感じではないですが、何かきちんと成果を出さないと資金を得られないわけですから。

さてギリシャ(あるいはもっと古くから言えばエジプトとか)から始まった錬金術ですが、キリスト教や国土の拡大によってアラビアの方に移り、そしてそこで発展し中心地となります。そもそも錬金術のアルケミーという言葉自体アラビア語ですからね。なのでまずはここから見ていきましょう。
(ちなみにギリシャは大分話してきたから割愛。重要なのはアリストテレスらの原質とかプネウマです)
アラビアの錬金術は一つにギリシャからの影響であるアリストテレスらの「思想」と、二つにエジプトやメソポタミア地方から伝わってきた「技術」、三つ目に土着のグノーシス主義やヘルメス主義という「宗教的背景」があり、入り雑じっています。これらすべてについて語るのは大変ですからいくつか重要な部分だけ。
まず何と言っても一番の代表格はジャビール・イブン・ハイヤーン(ラテン語名ゲーベル)です。ただしジャビールは実在したかどうかは実は不明で(しかし現在では実在しただろうというのが通説)彼の著作も実は他の人々によって書かれ、編纂されたものが多いのです。中でも有名なのが純潔兄弟(ジャビールの編纂をした秘密結社集団のことで実際の兄弟に非ず)となります。ジャビールの思想は精神的なものが多く、金属と精神を結びつける傾向が強く見られました。また外にある物質と内にある精神を結びつけるのがアル=イクシール、すなわち哲学者の石というわけです。
一方で物質の方を重視する流派もあり、こちらは実験技術や装置を改良していきました。有名なのはアッ=ラーズィーという人物。著作に『秘密の書』というのがありますが、ここには様々な実験器具が記載されています。ビーカー、フラスコ、蒸留瓶などなど多数です。中でも蒸留が大事だったのはすでに述べたとおりです。この後も蒸留の技術は発展していきますが細かすぎるので省略しましょう。ま、あえて一つ付け加えるとするなら現在化学史の有名な機関誌であるAmbixは蒸留装置の頭部に相当し、完全な蒸留器具とされます。また『秘密の書』はとても化学の書という感じであって、溶解性や味などから物質を金属、礬(硫酸塩)、ホウ砂、塩、石などに分類しましたし、磠砂sal annmoniac(Na2SO4)が金属の着色(表面の色の変化)や溶解と研磨に役立つことを見い出します。
他にも塩酸や硫酸、王水などの重要物質を発見したのもアラビアの錬金術師たちの功績となります。
まあこのようにアラビア錬金術というのは複雑です。これが西洋に次第に翻訳されて伝わっていくわけですね。他にもアリストテレスの著作があったり、プトレマイオスやその後の数学の発展があったので、それらを受け入れるために大学の成立にも繋がるわけです。

さて次に中国の話。
中国ではすでに紀元前四世紀頃から錬金術が盛んで、老子がB.C. 600頃に創始した『道徳経』から大きな影響を受けています。ここでは道家の思想と哲学に重きが置かれていました。また道教では宇宙を二つの対立物、すなわち陽と陰で分けており、たとえば陽は男性、熱、明など、陰は女性、冷、暗などです。この二つの勢力の闘争が五つの元素である水、火、土、木、金属を生み出し、そこから万物がつくられると考えました。
中国は卑金属から金をつくること自体にはさほど関心がなく、むしろ不老不死の調合に関心を持っていました。これは神仙思想の影響を多分に受けていると考えられます。中国科学史の権威であるジョセフ・ニーダムによれば騶衍が不老長寿の薬をつくる「黄白の術」を創始したとされています。また体の健康を整えるための「丹」をつくるものとして、これは『煉丹術』と考えるのがよいでしょう。
画期的な書物は142年の魏伯陽の『周易参同契』で、儒教の易、道教の哲学、煉炭の術の三位一体を試みたものです。この中で煉丹術にっとては陽としての金と陰としての水銀が重要な要素であるとされます。
この影響は絶大で後に四世紀に入ると葛洪の『抱朴子』が出てきます。ここでは『参同契』を含めた初期の頃からの中国錬金術を集大成します。ここで重要になったのは朱色の辰砂(硫化水銀に相当)でした。これを熱して乾溜すると水銀を得られるのですが、これを硫黄と化合すると元に戻るわけです(これ、現代の私たちが「水銀」とか「硫黄」と言葉を使っているので当たり前のように感じるだけですからな? パラダイムの違いを忘れないように)。この変化と回帰の性質が水銀に注目を浴びさせることとなります。
また中国錬金術の(その後の世界にとって)最も大きな発明は火薬でした。ここの歴史はかなり長いので一気に割愛しますが、まあ硫黄はさっきから出てますし、また硝石を明確に見つけ出すことでそれら(とあとは炭)の混合によって火薬の発明に至ります。


――と、ここまでが予備知識(苦笑) さてはてこれらが結びついていきまーす。
ヨーロッパは中世に多くのギリシャの書物を失ってしまいます。残っていたのは少数のアリストテレスらの書物のみ。これをキリスト教と結びつけることでできてきたのがスコラ哲学です。ただ中世ヨーロッパは暗黒時代なんて呼ばれますが実際には中国などの方での発展が大きく、そこからの思想や技術の流入によって一気に変わるからそのように感じるだけで、中世は中世できちんとした学問体系をつくっていたと考えられており、現在研究が盛んに行なわれ始めています。まあ私は専門家ではないのでこれらの研究発表待ちです。
ここに12世紀ルネサンスによってアラビアの科学が流入してきます。大翻訳運動が起こりイタリアを中心に大学ができてきたというのはすでに述べたとおり。また10世紀頃のイブン・スィナー(ヨーロッパではアヴィセンナ)はアリストテレスやガレノスの主張をよく吸収し、昇華させた人物であるので特に大きな影響を与えました。こちらは錬金術だけではありませんけれど。
ただまだこの頃は卑金属から金属をつくることや、占星術的な関心が中心を占めていました。そしてその中心的な役割を果たすのが哲学者の石(エリクシール)だったわけです。ここはまだまだ中世の影響を引きずりながらのアラビアの科学の導入でしかなかったと言えるでしょう。
しかし13-4世紀に火薬が伝わってくると大砲の発明がなされます(ちなみに出費の方が大きかったことがわかっています。どうやら国王らがその大きな音などの派手さに大きな関心を持ち多額の投資をした模様)。また大砲ができてくると築城術なども発展してきます。初期の頃とかはわかりにくいと思うので15世紀くらいのイタリアのものを次に掲載。
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これをみると何だかトゲトゲと複雑な形をしているのがわかるかと。これは城壁に近づいてきた人間を多方面から弓矢や鉄砲で攻撃できるようにするためのものです。また城壁の前には堀が掘られておりここを渡るのに手間取るようにしたり、大砲などを近づけないように周囲をでこぼこにしていたりします。他にもいざ城壁を崩されたときの対応などもあるのですが築城術は複雑ですので割愛。
なお大砲の発明と改良によってヨーロッパの大航海時代は可能になったのだとC. M. チポラは主張しています(以前にも紹介してますが大砲と帆船―ヨーロッパの世界制覇と技術革新)。ただしすでに中国が宋の時代にアフリカまでは遠征しており、これだけでは説明できないですが。経済面や羅針盤や時計の改良など様々な側面を見ないといけないでしょう。
さて火薬の他にも中国からは印刷術や羅針盤、製紙術が伝わってきますね。先にも述べたように羅針盤なんかは大航海時代に大きな役割を果たしますし、印刷術はグーテンベルクによって改良され活版印刷術に。またこの頃には紙の値段も安くなっていたことで大量に本がつくられることとなりました。これによって最も人々の手に渡ったのが『聖書』であり、これによって聖書を教会の教義より重視するプロテスタントが誕生。宗教革命へと至るわけです(ただし近年の調査によりまだまだこのときの本は値段がとても高かったことがわかってきてます)。
と、錬金術とは若干離れましたが――と言ってもそのほとんどが錬金術の賜物なのですが――中国錬金術の影響を見ていくことにしましょう。
化学革命の話で触れましたが、ヨーロッパに煉丹術が伝わってくるとそれを取り入れイアトロケミストが出てきます。その代表格がパラケルススとなります。パラケルススはアリストテレス哲学やスコラ哲学に反対し、錬金術に基づく硫黄・水銀・塩を三つの重要な元素としました。また無機化合物を服用することで病を治すことができるとしましたし、彼の後継者たちであるイアトロケミストは実際に様々な医薬品(といっても当時は下剤がほとんどですが)が生まれます。代表的なのはグラウバーの塩Na2SO4で、後々ルブラン法で食塩からソーダNa2CO3がつくられるようになりますが、求められていたソーダよりもグラウバーの塩の方での収益が大きかったなんて話もあります。
また化学者として著名なジョセフ・ブラックは尿結石(一種の塩です)を塩酸などで溶かすことができることができるのではないかと、ようは塩に注目して研究をしていました。この他にもブラックは様々な塩について研究し、固定空気CO2など種々の気体を発見。空気とはけして一つのものからできているのではないのだとブラックの功績からわかり始め、そして空気化学が誕生します。ここにフロギストン説が重なり、またプリーストリの脱フロギストン空気O2の発見などによって最終的にラヴォアジェの化学革命に至るというわけです。
このようにそもそもギリシャの頃からの錬金術とアラビアや中国の錬金術がヨーロッパで融合し独自の発展を遂げることで、それまでのパラダイムを壊す化学革命が起こったということです。したがって近代化学が成立するには錬金術・煉丹術がなければならなかったということになります。
またイアトロケミスト(医化学派)はその後西洋医学(薬学)に繋がっていくわけですね。こちらの方でも錬金術は重要な役割を果たしているというわけです。



以上が錬金術の『ヨーロッパ』での発展ということになります。
中国などはこれとはまた別の道を歩んでいきます。ようは西洋医学と東洋医学は“まったくの別物”ということです。最近西洋医学が東洋医学などにまさにメスを入れようという暴挙に出ていますが(メスってどこの物ですかね?)、そもそもそんなことはできないということです。通約不可能性というやつです。
てなわけでして、次回はこれを説明します。そう、クーンは時代順にパラダイムが変化してきているのだと主張したわけですが、世界のあちこちを見れば現代ですらパラダイムが違っていると考えられる事例が散見されるということ。私には綺麗に説明することはできませんが、もしかしたらクーンが説明しきれなかったパラダイムの概念の理解の足がかりになるかもしれませんね。
…………ここまで辿りつくの長かったorz
by zattoukoneko | 2010-09-11 09:52 | 歴史 | Comments(1)

錬金術全般の基礎知識

錬金術の話をしたいと思うのですが、非常に多くの人がこれに関して誤解していると思います。例えばですけど、錬金術と聞いてまず最初に何を思い出しますか? おそらく多くの人は「賢者の石」とか、それの別名ですが「エリクサー」。あとは「金をつくるオカルト」という誤解と、最近では「等価交換」(苦笑)
まあ、この辺りを誤解していると今後の話が理解できないか、誤解したまま読んでしまうと思うのです。なのでまずはここをきちんと見ておこうかと思います。



前回のそもそも化学って何? という記事で書いたのですが、化学というのは専門職なのですよね。そこまでに歴史があって、それで社会的につくられたものなわけです。
ですが今回はそういうのを取っ払って、「性質を代えるもの」を化学とするとても広い意味で使ってみましょう。
このような場合、化学って実はとても昔からあるじゃないかということに気付かされるわけです。最初の化学とはすなわち「料理」だったわけです。
料理はさまざまな食材や調味料を加えることで食事をつくるものです。これはまさに化学そのものと言えるでしょう。しかもとても複雑です。構造としてとても簡単なはずの塩の歴史に関してすら日本ではまともに記述できている本や論文は現在のところ存在しません。海外ではNeptune's Gift: A History of Common Salt (John Hopkins Studies in the Hist of Tech , New Series 2)がありますが記述が途中で止まってますし日本のことはほとんど触れてません。素晴らしい出来なので塩のことを研究する人は必読の書ですが。(なお日本語で塩の世界史に翻訳されています。この訳は……正直私にとっては不満です。一般の人にもわかりやすく書いてくれているのだと思います。原著にはドイツ語とかも含まれているので。でもその訳した言葉が日本で使われている専門用語ではないのですよね。なので他の本と照らし合わせていく作業が後々必要に)。またもっと簡単な例を挙げましょう。ソースとかケチャップの原材料を見てみましょう。トマトとかリンゴとか入ってるわけですが……料理の専門家でない人たちはどうしてこれでソースとかができるかわかりますかね? あるいはこれを最初に発明した人はどのようにしてこれを思いついたのか想像できるでしょうか? 塩とか砂糖は元から自然界に存在するものですが、ソースとか、日本だったら醤油とか味噌とかは人間がつくり出したものなわけです。味噌とかは発酵現象を利用しているわけですがそもそも発酵なんて現象がわかったのはパスツールらが細菌学を立ち上げてからです。そういうのを知らずに経験的に作り上げていたわけですね。
ともかくこのような感じで広い意味での化学というのは(料理という形でとても顕著に見れるように)とても古くから、世界各地で行われていたということになります。現在の専門分化した狭義の化学は西洋由来のものであるわけですが、それを取っ払ってしまうと実はあちこちで化学が行われていたということになります。
そしてこのことがとても重要なわけです。すなわち――
   この原始的な化学から発展した錬金術も世界各地で個別に発生している。
ということになります。
以前はどこか(エジプトなりギリシャ)で最初に発生し、そこからイスラム圏や中国、そしてルネサンスによって再びヨーロッパに戻ってきたと考えられていました。ところが現在の認識では世界のあちこちの文化圏で、初期の頃に独自に生まれたと考えるのが自然であるだろうという考えに変わっています。もちろん大陸の方ではそれなりの交流はあり、実際に影響を受けてその後の変化が促されることはあるわけですが、ヨーロッパからは遠く離れたインドシナやアフリカ、南米でも錬金術と思しき痕跡は見られます。
また錬金術が生まれるのは自然なことです。人間は金属をとても重宝して使ってきました。金属は土の中にあり、それを掘り出したり加工して使うのは(文化圏によって差はあるとはいえ)当然の行為でした。これは冶金術となります。ここからさらに土の中でどうやら金属というのは変性するらしい(成長するとも言われました)ということが観察しているとわかる。また合金というものがつくれるのに気付くと、それを自分たちの手で行なうようになる。ここまで来ると錬金術と呼ばれるようになります。
ただ日本語訳が悪いのか、あるいはそれを盛り込んだ物語や噂が悪いのか、錬金術は「金をつくるもの」と誤解を受けています。これは大きな間違いです。むしろ錬金術は生命や宇宙の探求をする学問だったと言えます。
先ほど「金属は土の中で成長する」と考えられることがあると言いましたが、この「成長する」に生命を感じたということです。また宇宙との繋がりも考えられました。ここは文化圏によって違うのでまとまった説明をすることができないので一例。ギリシャ錬金術によって現在の曜日の名前が決定されました。次のがその表。金属と惑星(太陽含む)が繋げられているのがわかるかと。
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この中で一番わかりやすいのは水星と水銀ですね。英語だとどっちもmercuryですし。またもともとMercuryは神様の名前であり、神話とも繋がりを持つものでした。
このように錬金術というのは「金をつくる」というよりはもっと幅広い意味を持っていたということになります。

またこれがとても重要なのですが、「生命と繋がっていた」のです。中国の煉炭術なんていうのは顕著ですが、不老不死や長寿のために錬金術を用いようとしました。また非常に重要な要素として、錬金術では「蒸留」がとても大事な技術でした。操作としては気体を発生させるということなわけですが、この気体というのが精気と密接に関係しているのではないかとされたのです。
これに関してとてもわかりやすい例を。蒸留酒にはスピリッツspiritsと書いてあるかと思います。ギリシャ語ではプネウマpreumaですが、ラテン語にすればspiritius、英語であればspiritというようは「霊気」が蒸留酒の語源です。錬金術師たちは生命の源である精気は気体であるだろうと考え、それを取り出す作業を重視していたわけです。その過程で生まれたのがアルコールの度数を高めた蒸留酒spiritsというわけです。
またフランシス・ベーコンも錬金術の影響を受けていて、(その後錬金術からイアトロケミストに変化した部分の影響も受けてのことだと思いますが)アヘンopiumの蒸気を吸引することで長寿を得られないかと自分で実験してたことも明らかになっています。当時はアヘンは毒というより良薬だと思われていたということですね。


というわけで錬金術の中における「金をつくる」という行為自体はそれほど重要なものではないのです。むしろ腐敗しない金というものをつくりだすことで生命や宇宙の解明をしようとしていたということであり、そのための「錬金」という行為だったわけです。つまり言葉のままの「錬金術」はオマケとしての実験操作だったということです。


あとはよくある誤解としては錬金術師たちは暗号で文章を書いていたということですかね? これも違っていて、ようは近代科学・化学を身につけている私たちからすると書いてある言葉がわからないということです。実験操作も違いますしね。
でも再現実験を試みたことはあって、とある書物の中にあった「金の木」というのがひとつの抽象的な例えであり暗号だとそれまで思われていたのですが、実際に書いてある通りにやってみたら見事に「金の木」ができたという話があります。つまり当時の錬金術師は実は専門的な言葉(=みなに通じるように定義された言葉)を持たなかっただけで、見たままのものを記述していたということになります。ここで紹介した「金の木」は(私がそれをやったわけではないので詳しくわかりませんが)銀樹や銅樹のようなものかと考えられます。まあ、全部の錬金術の書物を調べたわけではないでしょうから中には暗号文もあるのかもしれません。その割合も調査されたという話は聞いたことがないですね。



というわけで今回は短めに錬金術の予備知識を。次回はヨーロッパの方の発展に焦点を絞ることにします。――といってもあそこは中国の影響とか受けているので説明が大変だという。現在できるだけわかりやすくするように調整中で、うぅっ!(最近記事を調整するのが大変で苦労しているのです……)
ん? 「等価交換」の話? そんなもの錬金術のどこを探してもないですよー。あくまであのお話はフィクションで他のと混ぜてるだけですから。というかここまでの説明ですでにわかってると思いますけど、錬金術と(狭義の)化学とはまったく別物で、革命が起きているのでそもそも各種元素とかと話が繋がるわけがないという。煉丹術の影響を受けずに化学ができているというのもおかしな話ですしね。火薬すら手に入らないはずですから。
とは言いつつ私は『鋼の錬金術師』の話は好きですよー。人物像とかよく描けているので。まあ考証が甘いところは見逃すということで。(というか完璧にやったらそれって歴史書になってしまうではないですか?)
by zattoukoneko | 2010-09-08 04:52 | 歴史 | Comments(1)

そもそも化学って何?

錬金術の話をする予定でしたが、これまでに「昔は科学者scientistなんて言葉はなかった」と言っていました。これよくわかってないかもしれないですね。錬金術師は化学者chemistsではありません。科学革命の起こる前だったからというのもありますが、そもそも化学者という言葉がなかったのです。制度とも関係あり、第二の科学革命 ともほぼ時期が一致します。
今回はこの辺りの話をば。



これまで何度も言ってきましたが昔は真理を探求する人のことをすべて「哲学者philosopher」と呼んでいました。中でも特に自然現象について探求する人を「自然哲学者natural philosopher」としていました。
現在の私たちが考える哲学者とはちょっと違いますね。今では哲学者とだけ言った場合は実在や時間などについて考察している人のことを指します。たとえば「数字って実際に存在するの?」とか。つまり数字は人が勝手に作ったものなのか、自然の中に元々あるのかということです。これ説明していくと大変なのですけど、簡単に言うと――
私たちは小学生のときに足し算を習うときに「リンゴ1個とリンゴ1個を足すとリンゴが2個になります」なんていうことで1+1=2を教わります。で、先進国である(正確に西洋化した)日本人はこれをすんなり受け入れてしまうわけですけど、少数部族のとこに行ってこれ説明するとこんな反応が返ってくるのがほとんどです。
  「このリンゴは熟してるけど、こっちはまだ青い。だから別のリンゴで二つになるとは意味がわからない」
またこんなのどうですか? 高校に入ると虚数iなんてのを教わります。その言葉のまま「虚」な数なので私たちにはどこにあるのかわからない数字です。でもこれがないと説明ができない現象がたくさんある。だから使ってるわけです。一方でやはりこの数は実在しているのか、ただ現象を説明するだけのものなのか気になるわけです。なので哲学者(数学をメインにしながら哲学やってる人もいます)はこういうことを考えるわけですね。
ちなみに余談ですが、『死に至る病』のキルケゴールは哲学者なんてされてますけど、これを本気で哲学やってる人に言ったら嘲笑受けるか、仮に生徒だった場合その場で捨てられるくらいなので。この人はただ単に「絶望が死を導く」と言っただけで哲学なんて何もやってないんです。実際には神学者。

さてともかく以前は現在で言うところの科学者というのは哲学者と呼ばれていました。ですが自然哲学者の地位が向上するにあたって、プロフェッショナルになっていきます。すなわち「専門化」が進みます。哲学者の中からさらに特別な存在になっていくわけですね。(ただし「プロ」という言葉には色々な意味があり、「アマチュア」と区別が難しいことがあります。たとえばアマチュア無線家は技術の面でも社会への貢献でもマルコーニ無線会社などの「プロ」を凌駕していました。現在ではその職で収入を得ていると「プロ」にされることが多いですが、どう考えてもコンビニのバイトの人とかプロとは思えない人多いですよねえ)
また以前にも述べたかと思いますが、自然の現象を研究していたのは上流階級の中でもさらにトップクラス。仕事をせずとも(現在の感覚では)数億するような実験器具をぽんぽん買えたりする。また仕事を他にやっていたとしても医者や神学者などの聖職者であって、昔の哲学部が神学部、法学部、医学部の下にあったのと同じでただの趣味のようなもの。職業はそっちではないわけです。またニュートンはケンブリッジ大学の数学教授でしたが、彼が教えていたのは昔ながらのユークリッド幾何学であって、流率法などは教えていなかった。また彼は専門的に研究していた力学や光学の実績でもって採用されたわけでもない。したがってこうした人々を「科学者」と呼ぶのは「科学」という言葉が生まれ、浸透した現在からの視点となります。

さて自然哲学者たちの地位が向上するのは制度が整ってくる19世紀前半です。つまり第二の科学革命が終わる頃。リービヒのresearch schoolも成果を出し始め、それまで上流階級に占められていた自然哲学の分野に庶民を送り込んだ。これによってそれまでとは異なる「科学者群」が出てきます。ドイツでの哲学部、そしてその中でも自然哲学研究者の地位と割合の向上と社会的認知、リービヒのプログラムの成功などの背景もあり、1833年にケンブリッジの数学者兼哲学者ヒューエルが「scientist」という言葉を使うことを提案します。このことによってそれまでのnatural “philosopher”とは別物になり、つまりその他の哲学者と分離・確立したものとなるのです。なおscienceの元々はラテン語のscientia(=知)となります。

なおちょっと先走りましたが、それぞれの学問を専門的にやっている人はいて、ヒューエルの前にすでにmathematician、chemist、naturalist、physicistなどはありました。しかしこれらすべてをまとめて呼称するような言葉はなく、あえていうならフランス語圏のphilosophe、savant、ドイツ語圏のNaturforscher、英語圏のphilosopher、natural philosopher、experimental philosopherなどでほとんどに「哲学者」と入っています。ヒューエルはすでに専門分化しつつあり、しかし一つの大きな分野ではある。かといってそれまでの哲学とも違うと考え、新しくscientistという言葉を考えたのです。(ちなみに元はscienceになるわけですからそのままならsciecistになるはずですが、scientistとしたのは芸術家や技芸家を指すartistから類推したのだそうです)


さてこのようにscientistもchemistも随分後になってから登場したものです。で、次回以降に錬金術関連が続くわけですが、つまり彼らは“化学者ではない”ということになります。化学革命というのが起こってそれまでとはパラダイムが変わったとも言えますし、そもそも哲学者に入れていいのかも疑問です。
というのは自然哲学者たちは基本的に実験や観測をしなかったのです。第一の科学革命 の記事で触れましたがフランシス・ベーコンが観測や実験による帰納法を提唱するまで哲学者は机上で理論構築をしていました(なおギリシャの哲学者の一部は除きますし、この頃天文学者などは哲学者に含められていなかったので)。有名なガリレオのピサの斜塔からの鉄球と羽根の落下実験や、斜面の台を使っての球体の転がり方の観測も実際には行なっていなかったことがわかっています。あくまで頭の中での思考実験です。(ついでに言うなら宗教裁判での「それでも地球は回っている」という発言もしてませんので。いまだに信じてる人が多いようですけど徐々に広まってきましたかね?)
またベーコンは実験や観測の重要性を説き、確かにそれは影響力をもちます。ですが帰納法の方はその後デカルトの演繹法によって打ち消されてしまいますね。結局その後帰納法がうまく働くのは生物学や地質学の分野でです。生物学などは博物学(日本では本草学ですが内容としてはちょっと別物)からスタートします。これは「博物館」なんてよく言うように世界各地の珍しいものを探し蒐集するものですね。で、そのうちある種の植物から薬や毒が採取できることがわかってくるわけです。日本の本草学も博物学にとても近いですが薬効目的が主軸に置かれてます。博物学はまず集めるとこが最初っていう違いがあります。博物学はとりあえず集めるだけ集めるのが始まりだったわけですが、これを分類しようという動きが生じ、有名なリンネの分類学が18世紀に出てきます。またチャールズ・ダーウィンが有名ですが進化論もありますね。ダーウィンは測量艦のビーグル号に乗せてもらって有名なガラパゴス諸島で色々と標本を集めてそれを整理することで彼なりの進化論を打ち出す――と言われているのですよね。実際には彼はこの時にはあくまで博物学・地質学のために動いています。実際ダーウィンは珊瑚礁の研究者として有名で、今もこの珊瑚礁の生成に関する研究がトップとされています。進化論はギリシャ時代にはすでにありましたし、ラマルクやチャールズ・ダーウィンの祖父であるエラスマス・ダーウィンがかなりのところまで進めてます。エラスマス・ダーウィンはこの言葉こそ使っていないものの自然選択の概念を出しており、チャールズ・ダーウィンが形を整えて『種の起源』として発表します。形を整えて、というのは家畜や農作物を人為的に配合することで新しい種を生み出すという「人間も世界の一部として関与している」としての自然選択と、ヘラジカなどのように生存のことだけ考えると不利なのに、それが淘汰されずに消えないで生き残っているというのは異性へのアピールになるからだという「性淘汰」を組み込んだことです。よく勘違いされてますが、進化論は今ようやくダーウィンに追いついたという感じです。誤解が広まってむしろ彼の主張から衰退し、そしてようやく20世紀も終わる頃に色々なもので確かにダーウィンの言う通りだとわかってきたというものになります(たとえばキャベツって葉っぱが丸まってますが、本来植物は光合成をするために葉っぱをできるだけ広げます。でもキャベツは逆。これは本来なら生存には不利なんです。ですが葉が丸まることによって中のほうの葉から必要のない葉緑素が抜け白く、そして糖分を貯めやすくなります。つまり人が美味しいと思ったからそれを選別して残しているということです。――ということでキャベツは真ん中が白いのが美味しいですよという豆知識でしたw)。このように生物学(および地質学)では色々なものをまず集めてからという帰納法によって発展するわけです。つまりベーコンの理念は19世紀に実際に実を結ぶということです。
まあダーウィンの頃にはまだ遺伝学なんて発展してなかったし、発生学も未熟です。これらが進むのはさらに20世紀。DNAの二重螺旋構造を提唱したワトソンとクリックがやはり有名ですし、その陰に隠れがちですがロザリンド・フランクリンがX線写真を撮影していてそれが二人に影響を与えています(ロザリンド・フランクリンについてはRosalind Franklin: The Dark Lady of DNA)。またその後細胞質遺伝(葉にある「ふ」とか、ミトコンドリアの母系遺伝とかです)や最近では細胞膜(血液型のような糖鎖や、最近では膜自身の研究が進みつつあります。細胞膜の説明は以前してます。ウイルスがメインですがとりあえずここがわかりやすいでしょうウイルス・細胞膜の構造)。発生学はレーウェンフックの精子の発見とかその後の展開まで見ていったら膨大になるので一気に飛ばしますが、シュペーマンのオルガナイザーの発見(1924年)が絶頂でしょうか。またフォークトのイモリの胚を染色してつくった1927年の予定運命図なんていうのも有名ですね。(なおこの「染色」はドイツの染料工業の発展の恩恵を受けています)
またパスツールやコッホ、日本人では北里柴三郎の微生物学研究や衛生学への貢献が19世紀に行なわれますね。なおこのときに人の平均寿命がようやく延びます(正確には昔の水準に戻るですが。正直なとここの生物学と衛生学の貢献で寿命が延びただけで、医学の貢献というのはないと言って過言ではないくらいです。この話はまた改めて)。
――と、何だか生物学の歴史の話が長く(汗) 全然「生物学革命」の話でもなんでもないのですが。この革命の話はもっとずっと長いので……。


さて科学・化学の話に戻るのですが、上で述べてきたのはヨーロッパの話ですね? でも「科学」は日本語です。これはどういう意味でしょう?
「科学」や「哲学」、「芸術」その他ほとんどの学問用語を邦訳・考案したのは西周です。「科学」の「科」は学科なんて言葉に出てくるように、“分化しているもの”を指す言葉です。すなわち西周は当時の西洋の諸科学が分かれていることを感じ、それで「科学」と名付けたわけです。事実最近になって環境問題などでは学問が専門分化していると解決できないということで様々な学問(自然科学に限らず社会科学も)融合していこうと今はされています。これを国際領域と言います。まあ、科学史や科学論、科学哲学もその一つなのですよね。当たり前の話として科学史やるには、科学、歴史、哲学、その他にどこに焦点をあてるかで重さが変わりますが、法学、経済学、社会学、文化史、経営史、民俗学などをその道の専門化と普通に議論できるレベルまでは到達しないといけないという、そういう学問です。他にも環境問題を取り扱う場合には、化学、物理学、工学、気象学、法学、社会学、経済学、応用倫理学、民俗学などができることが必須。後半の方のはつまりその国や地域のことを知らなければ対応できないということです。たとえば発展途上国は環境を破壊してでも先進国に追いつきたい。そこにさらに法律や風習・慣習がある。それを知らずに迂闊に手を出すことはできないということです。もしそれを無視すれば侵略行為ですからね。まあ、まさに日本が鯨や鮪で規制かけられてきてますが。鮭や鰯、烏賊、蛸、海老とかも候補に挙がってるんでしたっけ?
というのが「科学」について。で次にタイトルにもなってる「化学」についていきましょう。こっちは上で一般的なことを説明したので短いです。
日本では明治維新前から蘭学が盛んで、特に医学に役立つ化学に相当するものの研究が盛んでした。特に有名なのは宇田川榕庵の1837年『舎密開宗(せいみかいそう)』で、舎密とはオランダ語のchemie(ケイミー)から来ています。これはしばらく使われていて、明治期にも舎密局なんてのがあったりします。が、中国の方で「化学」と使われるようになってこちらの方が物質を変化させる学問としてふさわしいのではないかということで輸入されて今日に至るというわけです。



と、色々とごちゃごちゃしましたが、総括するとそもそも科学scientistや化学chemistというのは専門化が進みできたもの。また日本語でもわかる通りそれは細分化されています
したがって次回以降書くこととなる錬金術というのはこれのもっと前の段階のもので、哲学とも言えないようなものでした。なぜなら途中で述べたように哲学は机上でやるもの。一方で錬金術は実験をどんどんしてましたから、むしろ技術者だった。それに近代化学の成立とともにオカルトとされていきましたからね。ただしこれがなければ「化学革命」も起こらなかった。これについては化学革命の記事で触れたとおりです。次回以降でこれを細かく見ていくこととしましょう。


さて錬金術について先に予定を述べておくと二回には少なくとも分かれるはずです。
最初にもう一度錬金術とか関係なく「化学」だったものはいつ頃からあるのかを見て、そしてそれが古く当たり前だからこそ錬金術が世界中にあることを説明したいと思います。
その後特に重要な中国の錬金術・煉丹術とヨーロッパの錬金術を見ていくことにしましょう。
ということで今回はこのくらいでおしまい。……あれ、意外と難しい内容?(汗)
by zattoukoneko | 2010-09-03 11:07 | 歴史 | Comments(3)

第二の科学革命

今回は二つ目の科学革命とされるものについて書いていきたいと思います。
なおクーンなどの考え方によれば「科学革命」や「パラダイムシフト」は一度しか起こってないことになっています。ただし現在ではこれから説明する教育制度面での変革も大規模で、人々の生活も一変していると考えられるため「第二の科学革命」と呼ばれています。これについてはこの特集の初めのパラダイムシフトについて でもちらっと触れていますね。



では具体的な内容に入っていきましょう……と言いたいところなのですが、まあここも実はかなり複雑で。今回は教育「制度」に焦点を絞りますが、実際には学問内容も大きく変容しています。ちょっと簡単に並べてみますが――
数学:ニュートン・ライプニッツの微積がさらに進められラグランジュやモンジュらによって解析学に。
物理:カルノーらによる熱力学、アンペールらによる電気力学、フレネルらの光学の波動理論への転換。
工学:それまで高級職人によって使われるのが主だった製図を数学でもって整え、設計図の作成などが始まる。(これについてはとても読みやすい名著“標準”の哲学―スタンダード・テクノロジーの三〇〇年 (講談社選書メチエ (235))を参考するとよいかと)
化学:無機化学の発展、そして有機化学研究の誕生。
といったところです。項目は当たり前のように多いわけですが、内容も難しいです、というか私にも説明できません(汗) いやあ、能力不足だと痛感しているのですけど、日本で一応トップの方にいるとされている教授陣ですら説明できないですから。本当のトップクラスはきちんと説明できますが、それすでに世界のトップに食い込んでくるようなレベルなので。さすがにそれをやるのは無理、ということで却下です!
てなわけで教育制度の側面に入っていきましょう。なお今回は「第二の科学革命」の「教育制度」のみに焦点を当てますが、それよりもっと幅広くみたものとして科学の社会史―ルネサンスから20世紀までがあります。教科書に相当しますが、とてもよくまとまっているので論文など眺めてみると結構な率で参考文献に入っていたり。一冊持っておいて損はなし。


まず第二の科学革命はフランス革命を始まりとし、リービヒのresearch schoolの成功によって終わるとされるのが常です。私はここにもう少し付け加えたいところですが、大きな変革としてはこのくらいの時期に終わっていると考えていいでしょうね。

フランス革命の前として18世紀には「百科全書家」と呼ばれる啓蒙思想の持ち主がたくさん現れます。科学が真理を明らかにし、それが技術を促進。人々の生活を豊かにするという考えです。なお次のが『百科全書』の第一巻の口絵。
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中央にいるのが真理の女神で、そのヴェールを取られようとしています(=真理の探求)。で、下にいるのがその明らかにされた真理を眺めている技術者たちです。
この理念の下、フランスでは「アカデミー」がいくつもできます。地方でできてきたのが多く、例えばボルドーに1712年、リヨンに1714年、ディジョンに1740年など。王立科学・文芸アカデミーなどと訳されます(元はAcadémie Royale des Sciences et Belles-Lettres)。ここではデイヴィなんかが(上流階級の)一般大衆向けに化学の実験などをしてみせています。このようにまずは上流階級の方からですが科学の「大衆化」が進みます。それまでは上流階級の中でもさらにトップのレベルの人たちが使っても使ってもなくならないお金で科学をやっていたわけですが、そこに参入はできずともやってることを知り興味を持つということになるわけです。
(ちなみにですが。西欧では「科学」と「技術」はまったくの別物です。日本では「科学技術」なんて言葉がありますが、欧米人にScience-Technologyとか言ってもまったく伝わらないので。またこの啓蒙運動は「科学者側から」の一方的な動きで、技術者はそれとは別の道を歩んでいます。実際『百科全書』の中にはむしろ技術者の技術Skillを蒐集してまとめたものが散見されます。また後で述べるように技術Technikはまだこのときありません)

こうした背景のもとでフランス革命が起こります。ですが政権を握ったジャコバン派はアンシャン・レジームancien régime(旧体制)の科学を壊してしまいます。前回の化学革命について の記事で出てきたラヴォアジェは徴税請負人をしていたこともあり、ギロチン台に送られます。大学やアカデミーも解体され、唯一残ったのは王立植物園Jardin Royal des Plantesだけという有様です。
この体制は1794年7月にテルミドールのクーデターによりジャコバン派の指導者であるロベスピエールが処刑され、11月に同派は解体されます。この後新しい科学体制がつくられることとなります。1795年には有名な国立学士院Institut National des Science et Artsが創立されます。
ですが科学/技術の面で重要であったのはエコール・ポリテクニクÉcole polytechniqueとなります(そんなに難しくないフランス語だと思いますけど一応。Écoleは「学校」でpolyは「たくさん」や「総合」、techniqueは「技術」です。日本の漢字表現に訳さないのが慣習なのでそのままカタカナ表記で)。
エコール・ポリテクニクの前身はエコール・サントラルÉcole Centrale des Travaux Publics(公共事業中央学校とでも訳しますか)で1794年の12月に発足しています。実は1793年に革命の波及をおそれてイギリスを中心にヨーロッパ諸国は反仏同盟を結んでいます。輸入することができなくなった重要な軍事物資である火薬やソーダ、鋼などの自給体制を確立するべく科学者・技術者を結集させたということになります。
しかし旧体制下の技術者の多くが亡命していたため道路や運河などの公共事業を担う工兵隊corpsが組織されます。この中から職人とは違う工学者ingénieurが生まれてきます。なお、ingénieur(アンジニュール)の語源であるラテン語のingenierius(インゲニエリウス)は「天才」意味で、元々はフランス語でもingénieur civilと「公共の」とくっついていました。彼らはあくまで軍事とかに係わる技術者集団ではなかったので区別していたわけですね。ただし後に公共事業に携わる人たちのことを「エンジニア」と呼ぶようになったのでcivilも抜かれます。なお工学者=エンジニアはもっと前から存在していて、むしろ起源はイギリスのスミートンJohn Smeaton(1724-92)で、Society of Civil Engineersを1771年に発足しています。Civil Engineerという言葉も彼の発案で先に述べたように軍事に携わる工学者と区別するためにつくったものです。エディストン灯台の設計をした人で有名。まあ、このエンジニアの人たちの詳しい話は割愛しましょう。長くなるので。
ともかくエコール・サントラルは急ぎで科学者・技術者を集めるためにつくられ、翌1794年にエコール・ポリテクニクと改称されます。ここではさらに科学と技術が密接に結びついていきます。
教授陣はとてつもなく豪華で、初代学長ラグランジュをはじめ、モンジュ、ベルトレ、ラプラス、フルクロア、フーリエなどフランスのトップが集められます。ここに入る学生は身分の差に関係なく入ることができました。ただしエコール・ポリテクニクは大学校ですし(日本の大学じゃないですよー?)、選抜試験は難しかったのでせいぜい裕福な中流階級くらいまでしか入れなかったことがわかっています。下層階級の職人や農民は極めて少数です。
画期的だったのは数学者のモンジュによって科学と技術を結びつけるようなカリキュラムを確立されたこと。これは啓蒙主義的科学観によるものです。前々からこのような試みはあったものの、技術教育の前に基礎科学教育(基礎といっても私たちの感覚で言うと大学から大学院レベルです)を学ばせたこと。特に解析学と画法幾何学(図学)は大きな影響を与えました。解析学は力学、そして機械技術に。画法幾何学は地図の作成や機械製図に繋がり土木や建築、機械製作に貢献していくことになります。
その後やや技術教育の面は衰退するものの、ナポレオンの後押しによって科学・技術の教育のメッカとなり多数の著名な科学者を世に輩出することになります。数が多いので相当に絞りますが、ビオ、ゲイ=リュサック、ポアソン、フレネル、コリオリ、カルノー、コント、ポワンカレなど誰もが一度は名前を聞いたことがあるような人物が並びます。エコール・ポリテクニクは他国からも注目されましたし、ここから輩出された科学者たちが19世紀前半の社会で科学活動することになるのです。

しかしナポレオンの後押しによって支えられていたエコール・ポリテクニクや、支援を受けてラプラスが立ち上げたアルクイユ会、ゆくゆくはフランスの科学はナポレオンの没落によって衰退することになります。これを他国、特にドイツが引き継いでいくこととなります。以下はドイツに話が移ります。


ドイツはフランスに攻め込まれることでその科学・技術の水準の高さ、さらには自国の後進性を痛感します。これによってフィルヒョーなどが中心となりドイツ自然科学者・医学者協会Gesellschaft deutscher Naturforscher und Ärzte(略称GDNÄ)の大会をドイツの各地で行ないます。第1回は1822年のライプチィッヒにおけるものです。
当時のドイツでは大学が衰退していました。古くからの神学・法学・医学を上級学部とするものが各領邦国家にばらばらに存在していました。いわばGDNÄはこれに叛旗を翻したものだと言えます。18世紀になってもドイツの科学の中心は大学ではなく未だに学会やアカデミーでした。
また後で述べることになりますが、GDNÄの大きな特徴はフランスのエコール・ポリテクニクの技術などの実用性・有用性のための科学とは違って、「学問としての科学」を強調したことです。

さて衰退していたドイツの大学は1810年のベルリン大学設立によって大きな転換を迎えます。創立の中心人物はヴィルヘルム・フンボルトという言語学者であり、二大原則として「教える自由Lehrfreiheit」と「学ぶ自由Lernfreiheit」を保証し、国家や社会から独立させました。またこのことによってWissenschaft(ヴィッセンシャフト=学問)の探求に邁進することができると強調しました。
またフンボルトはこの大学の「孤独と自由」な環境によってWissenschaftを探求することによって人間形成としての純粋学問の探求が可能になると述べています。これは18世紀以来台頭してきた実利主義的教育観やフランス・ナポレオンの国家主義的な科学体制への反動と考えられます。これはドイツ観念論へと繋がります。
ドイツ観念論に関してまで述べてたら話が終わらないし、哲学やったことない人にとっては退屈(というか苦痛)なだけでしょうから全部抜き取りますが、これが大学を研究志向のものへと変えます。
まず一番大きかったのは哲学部philosophische Fakulätの台頭です。哲学部は中世以降の学芸学部(日本では教養学部)のことです。ここで7自由学芸を学び、そしてその上の三つの学部のどこかに進学するという仕組みになってます(大学の起源については前にも紹介した大学の起源などを参考のこと)。ドイツではこの哲学部を上級学部に昇格させたのです。この哲学部の中に現在では「科学」と呼ばれる諸分野が含まれていました。ようは科学が大学の中で上の方の地位に昇格したということです。また所属している人たちの率を見るとむしろ哲学部、その中でも自然科学に相当する分野は従来の三学部すら超えたと言えるほどです。またWissenschaftの探求という理念も科学を純粋な学問として推進することとなりました。(なおWWIの頃や19世紀後半になると少し事情が変わります。簡単に後述します)
また現在大学に行った人の多くが経験したことがあるであろう少人数制の専門トレーニングであるゼミはこの時期のドイツの産物です。ゼミナールSeminarですね。
それとこれは古くからのものがうまく作用したわけですが、大学はギルドとして成立したものです。なので徒弟制度のようなものが存在します。それが(ドイツでは)正教授、員外教授、私講師といった階層。この下に学生らは徒弟としてくっつくわけです。これが先生らが弟子として生徒を育てるのに大きな働きをしたということになります。

さてこのような背景の下でリービヒという人物が出てきます。まあ小学校とかで「リービッヒ冷却管」とか聞いたことがあるはず。あるいは植物に必要な三つの栄養として「チッソ・リン酸・カリ」とも教わるかと。これ提唱したのリービヒです。他にも業績多数。化学の世界の超有名人です。
まあ化学の内容に入っていったらさっぱりわからなくなるとおもうのでやめておき、教育制度のほうで話を進めましょう。なおこれからするリービヒの教育制度research schoolに関する基本文献としてMorrell, J. B., “The Chemists Breeders: The Research School of Liebig and Thomas Thomson”, Ambix , 19 (1972) pp. 1-58というのがあります。科学史をいくらかでもやる人間なら読んでないと相手にされないほど初期に読むような論文です。そして当然のことながら後続の研究がありますので。まあ簡単だし構成も綺麗な論文なので手に入れられる人は読むとよいかと。
ともかくリービヒのやった教育制度の面での偉大な功績とは次のようなものでした。
   大学において実験と教育を結合
それまで実験は実験。教育は教育でした。現代の私たちにはイメージしづらいかと思うので何となくではありますが――小中高の授業ってほとんど講義で、それの中に時々実験がある感じだったかと思います。もちろんどっちも同じ科目の中で行なわれるわけですが、理科実験室に行くのと普段の教室でいつものように先生の話を聞いているのとは気分が違うかと。でも大学に行くと理科系の人は必ず実験をして卒業論文(学校によっては卒業研究)を書き上げて提出することで学位をもらえるし、文科系の人でも何か研究をして独自の論文を提出しないといけません。ですがリービヒ以前はこのシステムはなかったのです。
つまりリービヒがこの制度をつくったということ。
リービヒ以前にも実験はあったし、教育はありました。でも大抵は実験は個人的に持ってるラボラトリー。教育は大学などで行なっていて別物でした。中世の大学の医学部なんかでは解剖は行なわれていましたが、教授らはガレノスのテキストを読むのみで実際の解剖は理髪外科師の仕事。学生は見てるだけ。というか図で見るときちんと見てるかどうかすら怪しかったりする。これが近代に入ると人体解剖学の革新者とされるヴェサリウスなどによって自らの手で解剖を行い、ガレノスの主張が正しいのかどうか調べるし、学生もそれを見たりしてます。が、少なくとも『学生のほうから』解剖することはありませんでした。
一応大学の学生を自分のラボに招きいれて実験させることはありましたし、(先に挙げたMorrellの論文で出てくるトマス・トムソンなど)すでに大学で実験と教育を結び付けようとしていた人はいます。しかしリービヒがその中でも特に成功を収めたというわけです。(なおリービヒがドイツで自分も研究室を持とうとしたのは、フランスに留学時にゲイ=リュサックの私設のラボに入れてもらい、それをドイツでもやろうとしたのがきっかけだとよく言われています。ゲイ=リュサックは――さっきどこの出身か書いたはず)
まあこれの理由を説明しようと試みた金字塔がMorrellの論文ということです。リービヒはまだ化学の分野で確立していなかった化学分析、特にようやく研究が始まったばかりの有機化学の分野でその方法を確立しました。またそれを学生にしっかりと教え、それだけでなく実際に実験を行なわせることで研究者に育て上げました。このプログラムと分析方法は簡明でそれまでは限られた能力ある人間しか研究者になれなかったのが、平凡な学生でもそれなりの成果を出し科学者や技術者になれたということが一番大きなことでした。またPh. D.を授与したことも大きなことで、当時のドイツで学校の先生になろうとするとこれを持ってないといけなかった。またアメリカなどの後進国からの留学生にとっては勲章にもなった。
またリービヒは先に出てきたようにドイツの大学のWissenschaftを探求することに専念すべしともした人物であり、自分の弟子たちにけして応用の方に行くことのないようにと念を押した人物でもあります。
いずれにせよリービヒの下で育った弟子やその孫弟子たちは「使徒」として世界各地に広まります。ドイツ国内だけに収まるのではなく、フランスやイギリス、アメリカ、そして日本にすら来ています。現在大学では自分で研究をし、そこに教授陣らの指導・教育が入ることで学位なり修士号、博士号を取るわけです。ようは「大学に行って卒業してるような人は全員リービヒの弟子」なわけです。それくらいリービヒの行なった革新というのは大きなわけです。(ちなみにリービヒのいたギーセン大学は彼の功績を讃えて、現在ではユストゥス・リービヒ・ギーセン大学と改称しています。大学HPへのリンク(独文)
このリービヒのやった実験と教育を結びつけたresearch schoolというものの誕生でもって第二の科学革命がなされたとされています。実際フランス革命の前とresearch schoolの誕生後を比べると教育制度の面でパラダイムが変わっていると考えられます。大学へ行かない人でも、小学校などでカリキュラムに実験は入っていますし、何らかの事情で学校に行けない人以外はすべてこの第二の科学革命で起きた教育制度の転換を受けていると考えていいでしょう。

なお途中でちらりと触れましたがドイツはその後Wissenschaftの探求から離れていきます。一番大きな要素は合成染料の登場とその工業の隆盛です。
最初の合成染料はパーキンという人物のつくったモーヴという紫色のアニリン系の染料です。天然の紫は日本でもそうですが貝からつくります。古代エジプトでは乱獲しすぎて絶滅寸前に追いやられたほど。とても貴重な色ですのでこれはヨーロッパ全土で大流行。「モーヴ熱」という社会現象を引き起こします。ちなみにですが――パーキンはリービヒの高弟アウグスト・ホフマンによってロンドン王立化学校で指導を受けていた人物。コールタールから医薬品であるキニーネの合成が可能かどうかを試験するように言われていた最中に偶然紫色の沈殿を発見したのが始まりです。パーキンはこれを工業化・商業化することを望み相談しますが、ホフマンはリービヒの敬虔な使徒でもあったし、他国に簡単に追い抜かれるとして反対します。が、結局パーキンは離反して独自に工場を設立。成功を収めます。ただホフマンの予想通り見事に他の国でも合成染料の研究と工業化が始まりますし、特にリービヒの弟子たちのいるドイツでは紺色のインディゴなど新しい染料もできます。工場もたくさんできます。
また第一次大戦までにはフリッツ・ハーバーによる大気中の窒素を固定する(アンモニアに変える)ハーバー・ボッシュ法によって安価にNを含むもの、すなわち火薬を合成できるようになります。またハーバーは毒ガスの発明者でもあり、第一次大戦では最初にドイツが、そして次々と他国も真似をして毒ガス戦が始まります。このためWWIのことをChemical Warとも言います。
(余談。インディゴもハーバー・ボッシュ法もBASF(Badische Anilin und Sodafabrik)という会社が関係してます。ここの会社の沿革もなっがいので割愛。面白いんですけどね)


さて、第二の科学革命はリービヒのresearch schoolによって終わるとするのが大半ですが、実際にはもう少し制度面では続きます。リービヒほどではないのですけれど。
今度はアメリカに舞台が移ります。まあここも話し始めたら長いので詳細はアメリカの大学 (講談社学術文庫)に譲るとして、一番重要なのは1876年にジョンズ・ホプキンス大学に大学院が置かれたこと。それまで大学は教育が主軸であったのが、大学院はそれとは別に研究中心の機関となるわけです。
これも研究者にとっては大きな出来事となるわけですし、私が思うにこれによって大学の在り方も変容したと思うのですが、まあここは難しい議論になりそうです。でも少なくとも「大学はとりあえず行っておくもの」くらいの低い認識に最近はなっている気はしますが。



ということで今回はこのくらいでおしまいです。
日本の大学制度の話とかもあります。明治維新以降、使節団が世界各地に送られてどのような教育制度にすべきか学ばれてきますし。ただし日本の大学がどこの国のものをモデルにしたのかは現在議論中。というか再燃中です。色々な史料が見つかってきて、憲法などもどこがモデルなのかという問いに色々な説が飛び交っています。私なりの意見もありますけど、話し始めたらキリがないですし整理もしきれてないので省きます。


てなわけで「科学革命」に関するお話でした。一応科学史の分野では基本中の基本なんですけど――難しかったですかね(汗) そしてここからさらに難しくします……(滝汗)
by zattoukoneko | 2010-08-29 14:28 | 歴史 | Comments(1)

科学革命の仕組み②

前回の続きとなります。クーンの説明したかったパラダイムシフトを、今回は化学革命という具体例でもって説明しようかと考えています。
ただし革命以前のパラダイムに関しては前回ざっと説明したアリストテレス哲学・スコラ哲学となります。ここを繰り返しているとまた長くなるので省略します。一つ下にある記事を参照してくれるようお願いします。
また今回は「説明がしやすいから」この化学革命を出しますが、これは第一の科学革命Scientific Revolutionの中の一つと考えるのがいいかと思います。時期的にもパラダイムとしてもそうなので。(ただしクーンはコペルニクスからの近代力学の転換Copernican Revolutionのみを科学革命としているようです。これは間違ってはいないもののクーン自身の意図したものからは拡大した解釈だということに留意)



さて何が変則事例になったのかが大事なわけです。実は「フロギストン」というのが鍵となりました。これを見ていこうと思います。
まず化学革命によって近代化学が誕生するには錬金術の下地がとても重要でした。錬金術の話は後になってしまいます。その方がどうしても繋がりがよいので。今回はざっとだけ見る感じにします。
まず錬金術というのは金を生み出す技術だと思われがちですが、実際には違います。確かに金をつくろうという試みは古くからあって、古代エジプトでは電気分解による金メッキなどが施されていました。ツタンカーメンの黄金の仮面とかよく見ると思いますし、電池もすでに発明されていて使われていたことがわかっています。
錬金術の基本は合金をつくることと蒸留でした。また染色なども重要です(ただし「金属の」染色なので、現在の染料による服飾の色染めとは異なります。Sal Annmoniac=NH4Clとかを使うんですよね)。合金は水銀などを使うとやりやすく、簡単に他の金属に変えられて金色のものができるから。蒸留はそこから出てくる気体が精神物質(プラウマ)ではないかと考えられておりそれがエリクシール(賢者の石、正確には哲学者の石)をつくるのではないかと推測されたからです。染色はそのまま色を変えることです。現代の私たちからすればそれは金じゃなくて偽物だと考えてしまうかもしれませんが、当時は物質の変化の概念が私たちと違うことを忘れないように。彼らには彼らのパラダイムがあったのです。通約不可能性を忘れないように!
さて錬金術は中国において飛躍的に成長をとげます。それは煉丹術の発展です。これは錬金術によって生み出されたものを体内に取り込むことで不老長寿が得られるのではないかというものです。神仙思想も絡んでかなり早い時期から発達を始めます。金は永遠に錆びないですから、これを服用することで永遠の生を手に入れることができるようになると考えられたのです。
やはり重要だったのは(金は当然のこととして)水銀でした。中国最古の錬金術書とされるのは142年の道士の『周易参同契』であり、ここでは金を太陽を象徴する陽、水銀を月とする陰としていました。次に重要なのは4世紀頃にでた葛洪の『抱朴子』ですね。この著作の中ではそれまでの伝統を集大成して、理論整備したものです。この中でも金と銀が重要視され、それらが丹薬の重要成分とされたのですが、丹砂(朱色をした物質で、今でいうところの硫化水銀に相当)に特に注目。ここから乾溜によって水銀が得られ、それを硫黄と化合すれば元に戻るという回帰の現象が特に重要だとされました。また硫黄の方も結構重要で、火薬の発明に繋がっていきます。
なお楊貴妃(および国王などの重要人物)が水銀中毒で死んでたりするのは有名。ようは水銀からつくった金に似た丹を飲み過ぎたということです。

さてこの煉丹術は西洋に伝わってきます。火薬・紙・羅針盤がよく重要だとされて、実際にその通りなのですがこの煉丹術もとても重要でした。(ちなみに紙や羅針盤については論文などでの発表がメインなのでちょっと紹介できず。火薬に関して有名なのは大砲と帆船―ヨーロッパの世界制覇と技術革新戦争の世界史―技術と軍隊と社会火器の誕生とヨーロッパの戦争あたり。『戦争の世界史』はどちらかというと経済史で、築城術や編隊の仕方などにも詳しい)
煉丹術を西洋ヨーロッパで最初に導入したのはパラケルススです。ガレノスの本を焼き捨てたというので有名な人(ガレノスはアリストテレスと同じく基本とずっとされ続けてた「パラダイム」に相当。体液学説という血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁のバランスによって体の具合が変わるのだとされていました。なので血液が多いときには潟血治療などをしていたわけです)。ガレノスはこの伝統を捨て、錬金術・煉丹術を取り入れ、無機化合物が医薬となると打ち出した人です。つまり現在にまで残っている西欧医学の薬学療法はこれに由来します。パラケルススの弟子らはイアトロケミスト(医化学派)と呼ばれ、その後グラウバーの塩(Na2SO4)など重要な薬を発見していきます。これは下剤ですね。当時の西洋の人は大分便秘に悩んでいたらしくロングセラーになります。また飲泉の習慣も早くから根付き、ミネラルウォーターに繋がっていきます。で、パラケルススに戻りますが彼は水銀・硫黄・塩を三大元素としました。これはアリストテレス哲学・スコラ哲学の火・空気・水・土という四元素にも反対してますし、ガレノスも「四つ」体液を出していますが、この数字にも反対しているということになります。
(なお、イアトロケミストの考えていたのは「無機」物質で、「有機」物質が医薬品になるのはもっと後です。リービヒの頃ですかね)

ガレノスやイアトロケミストの話は今回は置いておくとして、フロギストンの話へ。
まずガレノスにベッヒャーという人物が反対し、空気・火・水を元素とし、中でも地下の物質=無機物質は土性として土をさらにterra vitrescrible, terra pinguis, terra fluidaという三つに分けました(なおパラケルススに反対していますが「三」は同じなのですよね)。この中で特に注目を集めたのがterra pinguisで「油性の土」などと訳されることからわかるように燃焼に関わるものでした。これは1667年の出版『地下の自然学』の中で論じられています。これに影響を受けたのがシュタールという人物で、terra pinguisを「フロギストン」名前を変え、特に金属の燃焼に関してこれを用いて論じていきます。(なおシュタールは土の元素としていましたが、ルエルによって火の元素の一種と変えられます)
金属には元々金属灰とフロギストンが含まれているとされ、燃焼によってフロギストンが追い出され金属灰に。またフロギストンを多く含む木炭と一緒に金属灰を燃焼させると金属に戻るということを説明しました。またフロギストンは金属にとって重要な物質であり、延性などの性質もこれによるとされました。
ルエルによって火の元素とされたフロギストンは、その後自然哲学者らを燃焼の現象に注目を浴びさせることとなります。

しかしここで問題が生じました。
金属を燃焼させた場合、質量が増加します。一方で木などを燃焼させると質量が減少するのです。このままではわかりにくいかと思いますので現代の概念で説明しましょう。金属は燃焼させると酸素と結合して酸化金属となります。この結合した分だけ重量が重くなる。一方で炭素を含む木などはCが酸素と結合してCO2となって大気中に出て行ってしまうため重量が減るわけですね。
またシュタールらのフロギストンは負の重量を持っているということになります。先に説明した金属は金属灰とフロギストンからできているという考えに則れば、燃焼後にできる金属灰は重量が増えていますのでフロギストンの重量はマイナスということです。これは当時の人々にも理解しがたかった。このときのパラダイムはまだアリストテレス哲学・スコラ哲学です。重いものが地面に落ちる。しかし「負」とは何なのか?
結局このフロギストン説では説明がつかなかった。また元素もアリストテレスらの言っているような四つなどでは説明がつかないことがわかってきた。イアトロケミストらの研究によってさまざまな塩(現在日本で「えん」と発音するものに相当)が見つかった。火薬などに窒素酸化物は必要だし、硫黄も混ぜる。鉛室法によって硫酸も大量につくれるようになり様々な物質に酸を加えて反応させることができるようになりました。この際に様々な気体も発生します。それらの捕集なんかも始まった。
つまりそれまでの元素の概念では説明できないほどの化合物が大量に出てきたというわけです。
これらが変則事例になったというわけです。またプリーストリが脱フロギストン空気、今で言うところの酸素を発見したことを受け、ラヴォアジェが酸素(酸の素)と名付け、それを中心に新しい燃焼理論を整備。また『化学命名法』を1787年にベルトレ、フルクロアと協力して発刊。これが現代まで続く体系的な命名法となっています。これによって化合物を記号で表わしやすくなります。ただしこのときはまだ記号は整備されきれていません。またラヴォアジェの頃はまだまだ未知の物質の方が多いですし、最終的に元素表を今の(教科書に載ってるような)形に整備するのはまずドルトンが1803年にすべて円形の記号で元素を整備し、さらに1813年にベルセリウスがアルファベット記号で表わすようにして今日に至るという感じです。
ただまだこのときは有機化学は未発達で、ヴェーラー・リービヒ・ケクレなどによって本格的に始まりますし(19世紀半ば)、原子の構造に関してはJ. J. トムソンによって1897年に電子が陰極線の中から発見されたのを皮切りに、同じくトムソンが1903にぶどうパンモデル。1904年に長岡半太郎が土星型モデルを提唱。ただし長岡のものは現在のものに非常に近かったものの、原子核部分が大きかったのと近代力学でそれを説明しようとしたためうまくいかず世界的な評価を得るに至りませんでした。その後ラザフォードが有名な金箔にα線をぶつけることでそのα粒子散乱状況を見て、原子核はとても小さいことを発見(1911)。これにマックス・プランクの量子仮説を適用して説明しきったのがニールス・ボーアとなります。これが1913年。(なおボーアは前期量子論を確立した人物ですね)
この後も量子論や相対論が生まれて研究は進みますし、核分裂や新しい元素の発見・発明もありますね。特に核爆弾の発明に繋がるキュリー夫人・フェルミ・アインシュタインらの核分裂とその連鎖の発見、マンハッタン計画なども重要ですし。
――と、そんなことを言ったらニュートンのときに完成したとされる近代力学の誕生に関する第一の科学革命すらまだ終わってないことになってしまいますね(苦笑)
ともかく化学革命はフロギストンとそれによる燃焼による様々な実験による変則事例によってパラダイムシフトが起きました。そして革命に終止符を打ったのがラヴォアジェということになります。



と、今回はこのくらいにしようと思いますが、実際には語ってないことがいっぱいです。元素の考えもどのように変遷し、機械論哲学などの影響をどのように受けているのか説明していないですし(原子論や粒子論などルネサンス期に復興しているのです)、錬金術や自然魔術のことも説明不足ですね。このあたりは分量の都合ということでご容赦を。
なお、錬金術に関してはまた説明します。医学史と繋げるためにですね。最終的には西洋医学と東洋医学を比較します。クーンは時代の違いによるパラダイムの差異を提唱しましたが、実は西洋医学と東洋医学は現在においても違うパラダイムに乗っていると考えた方がよさそうなのです。ここが最終目標。
まあそれはまだ先の話で科学革命の話はまだ続きます。次は第二の科学革命と言われるもの。主に教育制度の変革について見ていこうと思います。
by zattoukoneko | 2010-08-25 04:28 | 歴史 | Comments(1)

科学革命の仕組み①

今回は科学革命というのがどのようにして起こるのかについて説明していこうかと思います。
取り上げるのは前回、前々回と取り上げてきたクーンの言っている近代力学の誕生にまつわる科学革命Scientific Revolution(中でも特にコペルニクスから始まったとするときには「コペルニクス革命Copernican Revolution」と言います)と化学革命について取り上げたいと思います。(と、説明を補足していったらやたらと長くなったので化学革命は次回に……)
とは言うもののいきなり具体例を挙げて説明していっても理解が追いつかないかと。ですのでまずはざっと基本を見ていってしてしまおうかと思います。具体例を見たときに「ああ、確かに」と納得してもらえるように。



まずおさらいとしてパラダイムというのはその社会に住む人々、少なくとも科学者集団が基盤としているものとなります。その上で科学者たちは「通常科学」を発展させていきます。あくまでそのパラダイムから外に出ていくことはありません。よく「科学技術は発展してきているんだ」というのは、このパラダイムの上での蓄積に他なりません。
ですがその基盤としているパラダイムでは説明ができないものがいくつも出てくることがあります。それを「変則事例」と呼びます。ただ普通はこの変則的な事例は通常科学の枠組みの中で何とか解決しようと試みます。これは至極当然のことで、自分たちがそれまで疑いすらしていなかったものに対立するものをそうそう簡単に認めて、じゃあ自分たちの理論を変えようか、なんてことにはすぐになるわけがありません。何とか自分たちの持っている理論枠組みの中で解決を試みます。
ですが変則事例は徐々に溜まっていきます。ここの説明はやや困難ですが、実験や観測によるデータが多くなればその中には説明不可能なものがたくさん出てくるというわけです。ただし実験や観測というのが盛んに行なわれるようになったのはかなり後のこと。明確にこれの重要性を打ち出したのはフランシス・ベーコン。1680年刊のノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)なんていうのは総合大学であれば確実に所蔵されているようなものですし、必読のものと言えます(意味がわかるためにはその前後まで調べないといけませんけど)。ベーコンが打ち出した理念は数多くあり、後世への影響は計り知れないものがあります。彼自身のことも科学革命に関わった重要人物の一人として本当は入れなければなりませんが、説明の簡便化のために省略させてもらおうと思います。また機械論哲学を打ち出したデカルトに関しても省略をさせてもらいます。なおデカルトの機械論については以前少し触れてますのでそちらを参考にしてください。デカルトの機械論  ――と、実験や観測の話から随分脇道にそれてしまいましたね(苦笑) 戻ります。ベーコンは、科学理論というのは膨大なデータの蓄積によって生まれるのだという「帰納法」を考え出しました。デカルトなんかは演繹法ですし、帰納法によって理論が確かにうまくつくられるとわかったのはもっと後の時代の生物学などの分野でですね。ただ実験や観測をすることなどの重要性を明確に打ち出したのは確かに彼の業績と言えます。
(その他には後にRoyal Societyが発足されますが、このときにメンバーが目指したのはベーコンの理想とした「ソロモンの館」というものです)
なおベーコンに関しては近年また盛んに研究が進められてきたようですが、とりあえず第一に読むべきはパオロ・ロッシの魔術から科学へ (みすずライブラリー)でしょう。論文とかはスペイン語とかがメインで邦訳もされてないので読むならこれしかないでしょうね。
また実験や観測と理論の結びつきには様々な議論がなされています。ベーコンによれば純粋な観測データが理論を生むということでしたが、しかし科学者は何らかの仮説をすでに持っていることもある。また先に理論ができているときもあります(例えばアインシュタインはブラックホールの存在を予言し、そして後に実際に見つかりました)。このように実は結構複雑だし、議論も盛んにされています。これについては教科書としてイアン・ハッキングの表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義などがお奨めです。…………教科書ですよ?
さて、変則事例は少数であればそこまで大きな問題とはなりません。ですがこれはどんどん溜まります。そうするとそれまでの通常科学では扱えなくなってきます。変則事例は「革命的事例」などとも呼ばれることがあり、これの蓄積がパラダイムを揺るがすこととなります。そして科学革命が起こるというわけです。
(ただし今回は一番の基本となる変則事例による科学革命の起こり方のみを見ていっています。途中で触れたようにベーコンやデカルトの影響などは省いていますね。その他にも大学や学会など制度上の変革もあります。これらについては次のようなものがわかりやすく、基本的な文献となります。科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで「科学革命」とは何だったのか―新しい歴史観の試み物理・化学通史―自然哲学から巨大科学まで (放送大学教材)など。…………はい、ここに挙げたの基本中の基本です。ここに書いてあるような内容はすらすらまとめられないと科学史とかやれないです。(ちなみに広重徹の言葉。「数学は学問の女王とされるが、科学史をやるにはあらゆる科学、歴史、哲学などを習得していなければならない。だから科学史は『学問の王』である」)


さてでは科学革命の具体例を見ていきましょう。長くなると思うので所々で「これが変則事例」とかは特に入れません。ご容赦を。
まず近代力学の誕生に関する革命の方から。
この革命以前のパラダイムはアリストテレス哲学、およびそれをキリスト教と融合させたスコラ哲学でした。この上で中世ヨーロッパの思想家たちは通常科学を組み立てていました。ただしよく中世が「暗黒時代」と言われるように、ここでの発展を説明するのは難しいものがあります。
ヨーロッパではまずギリシアで哲学・科学が花開きます。最初の哲学者と言われるのはミレトスのタレス。「万物は水からできている」という考えを最初に出した人です。今の私たちからすると何を言ってるんだろうという感じですが、この人が“最初の哲学者”とされるのは「すべての物には元となるもの(元素)」があると主張したからです。それまでは水は水だし、土は土だと思われていたわけです。ですがタレスはそれらすべてには元になるものがあって、それは水であると主張したわけです。またこの説明もそれなりに説得力があります。ミレトスというところは三角州のよくできるところでした。つまり川の水の中から土が埋まれて土地ができていくというのをタレスは見ていたわけです(現代の私たちは水には岩などを削ったり、土砂を運ぶ、沈殿させる作用があると習っていますが、それは『私たちのパラダイム』なのでそれでもってタレスを否定しないように。彼の生きていた時代に入り込み、その思考を理解しようという努力をしなくてはなりません)。その後タレス以降に様々な学者が新しい元素を付け加えたり、なくしたりします。が、ここは説明していくと長くなるので省略。アリストテレスの採用する四元素説はまずエムペドクレスという人物によって提唱され、これらが「愛」の力で結合、「憎」の力で分離することで物質を構成するのだと言いました。これをさらに他の哲学者の意見を取り入れ、矛盾なくまとめあげたのがアリストテレスとなります。
また(すでに取り上げましたが)天体の動きに関してもアリストテレスは理論体系を綺麗に形成しました。月下の世界では四元素による物質の生成消滅が起きており、それより上での世界ではエーテルという物質により不変の世界ができている。そこでは星を運ぶ天球が回転しているだけというわけです。
アリストテレス以降さらに学問は発展します。が、東ローマ帝国の滅亡によりほぼこの伝統は消えます。また学問の中心もイスラム圏(アラビア)に移ります。アカデミーの初期のものであるプラトンのアカデメイアはアテナイに、ローマ帝国は領土を拡大しエジプトにアレクサンドロイアという中心都市を形成します。学問もここで発展します。しかしローマ帝国が東西に分裂。東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスはアカデメイアを閉鎖し、学者らは亡命しますし、さらに東ローマ帝国も滅亡したことで学問の中心はヨーロッパではなくアラビアの方に移っていくわけです。残ったのはアリストテレスの著作の断片でした。この上に解釈を加え、キリスト教との融合を果たしたのがスコラ哲学となります。中でもトマス・アクィナスは有名。
スコラ哲学ではキリスト教との融合が目指されたため、その後の科学に宗教の色が強く出てきます。現代の私たちは宗教が科学の中に入っているとおかしなものと考えがちですが、人間何かしらの思想を持っているのは当たり前のことであり、またキリスト教が近代科学の成立に大きな貢献をしたのも確かです。今回は触れませんが機械論哲学というのは「自然は神が造った精密時計である」として、第二の聖書として自然を研究するのが神の所業を理解し、敬虔なキリスト教徒であると科学者たちを駆り立てました。また機械論の重要性についてはすでにリンクをはったデカルトの機械論についてで簡単に説明しています。
しかし12世紀に入ると次第にアラビア科学の知識がヨーロッパに流入してきます。そこには(言語は変えられていたけれども)アリストテレスやプトレマイオスらの著作もあった。それをラテン語に翻訳する運動が起こります。これが12世紀ルネサンスです。
さらに14世紀に入るとイタリア・ルネサンスが起こります。ここではアラビア語にされているものではなく、原典からラテン語に翻訳し始めます。
特に翻訳の場となったのは大学です。現在はUniversityは総合大学のことを指しますが、元々のラテン語であるウニヴェルシタスuniversitasとは教師と学生のギルドを指します。彼らは翻訳という作業を行なうのでその言語に通じた移民が大半を占めていました。そのため差別対象とされます。彼らは有権者である教会などに庇護を求めます。教師が聖職者などとされるのはこうした理由によります。
ともかくこうして本当のアリストテレス哲学や、その後のプラトンやプトレマイオスといった人々の思想が大量流入してくるわけです。それはスコラ哲学とは反する部分も多かったし、疑問も投げかけることとなりました。また異端とも言える思想として新プラトン主義やヘルメス主義といったものも入ってきます。ちなみにコペルニクスはヘルメス主義に偏っています、太陽を崇高なものとする思想です。(コペルニクスはこれによって太陽中心説を思いついたのだとする説が有力です。ただし彼の計算しているノートなどの分析も進み、その要因は小さいのではないかとも最近ではされています。まだここは議論途中)


さてともかくこのようにして中世・近世ヨーロッパではアリストテレス哲学とスコラ哲学がパラダイムとなっていたわけですが、ルネサンスにより新しく流入してきた知識に対してそれでは理解できない不可解な部分を多々見つけることになります。これを自分たちのパラダイムの中で何とか処理しようと、通常科学として探求することとなります。
特に一番不可解なのは「エカント」と呼ばれる概念でした。これはプトレマイオスによって導入されたものです。(何かわかりやすい図を持ってこようとしたのですが見つからず……。ここでは言葉だけの説明で行くので、わかりにくい場合はweb検索などしてください)アリストテレス哲学によれば地球が宇宙の中心であったわけですが、その周りにある天球と周点円の動きだけでは惑星の動きを綺麗に説明しきることができませんでした。そこでプトレマイオスは離心円とエカントという概念を導入します。離心円は地球とは少し離れたところにある点Xを中心として回っています。しかしこの離心円の中心に対して惑星は等速円運動をするわけではなく、Xを挟んで地球の反対側にあるエカントと呼ばれる点から見て角速度一定で動いています。
…………あー、ややこしいですね? これに「そんなわけわからんもの使ってられるかあ!」とぶちキレたのがコペルニクスということになります(ぇ?
まあ正確に言えば――プトレマイオスのは「数学上の道具」だったわけですね。なので実際に星の運行がどうなっているのかというのは無視されていました。コペルニクスが不満を持ったのはここということになります。
ここの説明において「コペルニクスは太陽崇拝のヘルメス主義者であった」とか「アリストテレスらが“完全な形”としていた円や球を取り戻したかった」、あるいは最近では「計算方法を改良していく中で、太陽中心にすると簡単な形にすることができると気付いた」なんてのがなされています。それぞれ説得力があるのでこれからさらにどうコペルニクスの評価が変わっていくのか気になるところですが、いずれにせよ共通しているのは『コペルニクスは数学上の道具としてではなく、哲学(=実際に存在する現象を具体的に説明する)として地動説を提唱した』ということです。
コペルニクスはカトリックの神父をしながら天文学をやっていた人物です。天文学はあくまで星の運行を計算する数学。自然現象について探求し、実在を明らかにするのが哲学です。コペルニクスは『哲学として』地動説を打ち出しました。これが1543年の『天球の回転について』です。
コペルニクスは明らかに哲学として地動説を出していました。彼は友人らに『コメンタリオルス(要項)』というのを以前から配っていましたが、それが好評でレティクスという人物に勧められ、『天球の回転について』を出版しました。
ガリレオの宗教裁判を想起してくれればわかる通り、本来ならばこれは異端です。実際ガリレオの時に一時的に禁書とされましたし。ですがコペルニクスはこの出版の直後に他界しているのと、何よりオシアンダーという人物が“勝手に”序文に「これは数学上の道具である」と書き足してしまったからです。なのでコペルニクスの意図していたことはほとんどの人に伝わらなかったということになります。
(なおよくある誤解としてコペルニクスの地動説は「精確だったから受け入れられた」というのがありますが、実際にはプトレマイオスの方が精密な値を出すことができ、ただコペルニクスの方が単純で大まかな計算でよければそれで十分だっただけです)

ただしそれをきちんと受け取った人物もいる。それがケプラーでした。彼は最終的には楕円軌道を採用しますが、コペルニクスと同様太陽中心説を採っています。ちなみに次の画像はケプラーが最初の著作で発表したもの。惑星の位置関係を正多面体を用いて綺麗に表すことができるのだとしたものです。『宇宙誌の神秘』という著作に掲載されています。
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と、コペルニクスの前に二人ほど大事な人物を出さなければなりませんね。
まずはケプラーも彼の元で働いていたのですが、ティコ・ブラーエ。プラハで組織的な観測を行なった人物で肉眼での観測としては最も精密なデータを蓄積した人物です。彼はその観測の中で新星の爆発を見つけます。その当時には新星爆発なんて概念はなかったでしょうが、少なくともそれまで不変とされていた恒星の天球の中で実は変化が起こっているのだということを発見します。また彼以外にもこれは見ていましたが、彗星が観測されています。彗星はアリストテレスらの時代にも見い出されていましたが、大気圏内での現象としていました。が、ティコ・ブラーエは精確な値をとり、それが月よりはるかに遠くにあることを確認しました。これらはアリストテレス哲学やスコラ哲学では説明できない現象でした。なお、ティコ・ブラーエはコペルニクスには反対し、地球中心で太陽がその周りを回転し、その太陽の周りを惑星が回っているという「折衷案」を出しますがそれは広くには受け入れられませんでした。重要だったのは彼が観測した諸現象と、そして蓄積したデータをケプラーに譲り渡したということです。ケプラーはそのデータを基にして彼の体系をつくるので。
さて二人目の人物は当然のごとくガリレオですね(というかここではガリレオと日本でよく使われているほうで表記しますけど、普通に考えてガリレイの方が整合性がある気が……)。ガリレオはイタリアで望遠鏡が発明されたと聞くと、自分でもそれを組み立てます。そして重要なことにその望遠鏡を『夜空へと』向けました。それまでの望遠鏡はただ遠くにある地上の物を見るだけでしたが、ガリレオはそれを天体観測に用いたのです。そして有名な月の凹凸や太陽の黒点を観測するわけです。これによって月や太陽は綺麗な球形でないことなどもわかりましたし、黒点観測によってどうやら周期的に回転しているらしいこともわかりました。
このようにコペルニクスの地動説以降にさらに従来のスコラ哲学では説明できないような現象が出てくるわけです。またティコ・ブラーエによる膨大な観測データがさらなる宇宙の形に関して修正を迫りました。そしてこれをある程度まで達成するのがケプラーとなります。
ケプラーはコペルニクスの地動説を発展させ、太陽を焦点の一つとした楕円軌道を提唱します(ケプラーの第一法則)。また惑星は面積速度、太陽とその星を結んだ線が掃く面積が一定になるような速度で動くというものです(ケプラーの第二法則)。第三法則は……書くときっと混乱さてしまうので割愛! というか特に今回は必要ないし!(ちなみにわからないわけではないですよん? 「T^2/R^3=一定」というやつです)
ただケプラーの説明し切れなかったのはどのような力で惑星が動いているかです。ケプラーはアニマ(霊魂)によると当初説明し、後にウィリアム・ケプラーの『磁石論』(地球は大きな磁石であるなど、いくつかの磁気に関してまとめた著作)に影響を受け、アニマを磁力に置き換えます。
さて、最終的にこのケプラーの新しい体系をきちんと数学・力学の側面から説明したのはニュートンです。彼以前にガリレオによる円慣性やデカルトの慣性の法則、また同世代のフックらの影響による万有引力の着想と利用はなかったので、そこまで本当は見ていかないといけないといけないのですが(もうすでに相当長いですし)割愛します。ニュートンは微分積分(彼の言葉では流率法で、微積という言葉や現在私たちが使っている記号を整備したのはライプニッツとなります)を考案し、先に挙げた慣性の法則や万有引力の概念を用いて惑星の動きを見事に説明してみせます。これが1654年刊の『プリンピキア』となり、クーンらのScientific Revolutionはここで完成するという形となります。
ただし実際にはその後論争は続きます。万有引力は機械論に反する遠隔作用力でしたし。結局はニュートンの予想していた通りに星が見事に動くので受け入れられることになりましたが。(なおその後の宇宙観はハーシェルやハッブルなんて人たちがさらに発展させますし、引力に関してもアインシュタインなどによってさらに説明されることになります)



と、以上が近代力学の誕生による科学革命Scientific Revolutionのざっとした説明となります。途中でも言いましたが、機械論哲学などの思想は抜いてありますし、大学や学会などの制度の側面も見てません。今回はあくまでクーンの伝えたかったパラダイムシフトを具体例を持って説明するというそれだけのものです。
また今回のはちょっとわかりにくかったかと思います。変則事例だけで説明できるほど単純ではない時代なので。
ということで、次回はもっとわかりやすい「化学革命」を具体例として出します。……これの説明がまた長くなるのですよねorz
by zattoukoneko | 2010-08-16 05:23 | 歴史 | Comments(2)

パラダイム概念の曖昧さについて

今回はクーンがパラダイムの説明をするにあたって非常に苦労し、そしてついには周りを納得させられなかった部分について見ていきたいと思います。
主にThe Road Since Structureを使っていきますが、これは論文集で長い時間経過してますし、説明の仕方もどんどん変えています。なのでそれ全部をまとめることはできません。何せ著者のクーン自身がうまく説明できていなのですから。したがって今回は重要だったり特に問題だと私が考えている部分に関して絞ろうと思います。その他の部分に関しては上記の著作や、読みやすくかつよくまとまっている科学論の現在辺りからどんどん読む本を増やしていくのがいいと思います。(ただし悪書も多いので選ぶ際には注意です)

さて、私が思うにクーンが一番苦労していたのは「パラダイム」というものがどうやって“全人類”に受け入れられるのかという点かと。なのでここに焦点を当てて見ていきます。
現代の私たちはニュートン力学以降の近代科学をパラダイムとして持っているということになります。ですが単純に考えてどれだけの人が「ニュートン力学」や「近代力学」を知っているのでしょうか?
ニュートンは天体の動きを説明するために、彼の力学と微積(正確にはニュートンは流率法と呼んでいたし、今の記号とも違います)を考案しています。つまり彼のつくった近代科学を理解するには少なくとも高校の数学と物理くらいは修得していけないというわけですね? あるいはニュートン以降に微積学や解析学を発展させたオイラー、ラグランジュ、モンジュ、フーリエなんていう人々の成果も基礎となるのですが、まずほとんどの人は知らないですよね? ここのブログでは表記できないようなものが多数なので、例えば……これとか。
  e^iθ
とりあえず基礎中の基礎を。こういうのが私たちのパラダイムというわけです。

と聞くと「いやいや、そんなの知るわけないじゃん!」と反発が来そうですね。実はクーンが悩んだのはここなのです。
単純に考えて生まれて間もない子供がニュートン力学などを知っているわけがない。もしかしたら胎内にいるときに何らかの影響を受けた可能性はありますが、そもそも親が近代科学を知っていようはずもない。そうなると胎児にそれらの教育なんていうのはまず無理でしょうね。
クーンが悩み、指摘を受けたのはまさにここだと言えます。
社会で生活する分にはニュートン力学の詳しいところまでは知らなくてもいいかもしれない。でも地球は太陽の周りを回っているのだという地動説は常識であるといえます。中には知らない人もいるかもしれないですが、先進国である欧米諸国や日本では知らない人は非常に稀だと思われます。ということは少なくともこれが私たちのパラダイムということになります。または「魔法なんていうのは御伽噺の中の存在」なんていうのもパラダイムといえるでしょうね。これに関してはこの記事を参照。現代の私たちは近接作用力しか正統な科学として認めないのです。ニュートンの万有引力は科学じゃない?
こうしたものは気付いたら私たちの生活の基盤(=パラダイム)になっています。ですがパラダイムシフトは起こる可能性はあり、これから遠隔作用が認められれば私たちの生活は一変します。単純な想像ですが、遠隔作用力が使えるということは魔法が使えるということです。その魔法がどれほど強力なものかわかりませんが、それなりの殺傷力があれば刃物や拳銃なんて必要ありません。そしてそうなると法律が当然変わる。魔法を使いたい人だってたくさん出てくるだろうから学校とかもどんどんできて教育制度も変わる。こうやって社会は根底から覆されるわけです。(なんかライトノベルの多くとか適当なファンタジー小説では、現代の社会の中に好き勝手に魔法を入れてますけど、やるとなったらこうしたことを徹底的に考えないといけないのですよ? 正直考証が甘すぎて笑い話にしか思えないものたくさん。というか笑えてるのならまだマシ)
前回記事の繰り返しとなりますが、パラダイムシフトというのはこれだけ大規模なものなのです。一度起これば前の社会のことなど忘却の彼方へと飛ばされてしまうというわけ。だから下手な評論家が「これでパラダイムシフトが!」なんて言ってると、笑うどころか一気に冷めてしまうのですよね。その作品の価値を一気に格下げされてしまった気すらしますよ、私は。
さて、クーンの悩みに戻りますが、彼はこのパラダイムをどう人々が習得するのかの説明に非常に頭を悩ませました。私が一番これが説得力があるかなと思ったのは生まれてからの親の教育によるというものです。実際には他にも学校教育とかもあるでしょうけど、クーンは大学(学校の始まりは大学です。詳細はこちらをどうぞ。大学の起源)がない時代のことも視野に入れていたでしょうからこういう表現になったのではないかと思います。現代の私たちは学校に行くのが義務だし、さらには本や新聞、TV、ネットなんてものも普及して色々なところから情報が入ってきますし、それらの影響もあることでしょう。また都市化が進んで他人と接する機会が増えたのでそうした人々との関わりなんていうのも大きいでしょう(最近の都市部では関係性が希薄だとよく言われますが、それこそある種の「関係」であることを忘れずに)。こうしたことを考えるとクーンの説明にはそれなりの説得力がある気がします。
しかし曖昧でもあります。先に言ったように「影響を受けるのは家族だけではない」のです。またその家族の持っているパラダイムとは本当に他の人と同じパラダイムなのでしょうか? 人は感じ方がそれぞれ違う。言葉も違えば伝え方も違う。反対意見を述べてきた人や、ラジカルに拡大解釈をしてしまった人々はそこを突いてきたのです。反対派は「それでは普遍的なパラダイムなど伝達されないだろう」と、自称後継者らは「なら個人個人でパラダイムは違うはずだ」としてしまったわけです。
この自称後継者らのせいで個人主義が台頭。現在あらゆるところで「パラダイム」が非常に限られた領域で使われてしまっているのはそうした理由によります。…………いや、何も知らずに使っている人の方が多そうだけれども(汗)
ただクーンはこうした個人主義に断固として反対しています。そして最終的に嫌になって論争から撤退するわけです。
これは私の推測だけれども、クーンはうまく言葉にできなかっただけで実際にはパラダイムの概念をきちんと把握していたのだと思います。彼の著作や、パラダイムの概念をしっかりと理解している人々の本を読むとパラダイムって何のことかわかってきます。ただクーン自身も認めたように曖昧(私の言葉にすると感覚的にしか把握的ないので言語による説明が困難)なので、きちんと勉強しないと何がなんだかわからないまま終わってしまうということですね。ある程度理解できるようになるのはブレイクスルーを起こしたときだと思います。私の経験上ですが。(ブレイクスルーについて知らない人はこちら。ブレイクスルーについて ) まあ、四年くらい勉強すれば意味わかるようになるんじゃないでしょうか? よほど頭がよくて勉強熱心な人でも一、二年はかかると思います。

なお前回と今回はパラダイムに注目して話を進めてきました。ただクーンはアメリカ人だし、その後の論争もアメリカ中心で行なわれました。
日本においては東京大学に科学史・科学哲学教室ができたのが、科学史や科学論の始まりですが、その設立や知識の導入に貢献した伊藤俊太郎や村上陽一郎なんていうのはアメリカからそれをやっています。つまり日本の科学史研究もアメリカ式です。
一方でヨーロッパの方ではまた別の考え方が使われており、認識論的切断なんていう概念が用いられています。こちらはパラダイムシフトより軽い概念ですね。Ah Experienceやゲシュタルト転換よりはもっと重厚なものを指しますが(ちなみにAh Experienceやゲシュタルト転換についてはこちら。アハ体験の間違い )。パラダイムシフトにかなり近いのですが、仕組みは結構違いますね。後の記事で書きますが、パラダイムシフトが起こるにはそれまでの思考体系では説明のできない「変則事例」の蓄積があり、それによって思考の枠組みすべてが変わるというものです。なお科学革命の記事で詳しく触れますが、このパラダイムの変換によって変わるのは「思考体系だけ」であり、「変則事例をうまく説明するためのもの」です。ですから以前の科学(正確には哲学や思想)とを直接比較することはせきません。これは通約不可能性といいます。一方で認識論的切断というのはどちらかというと個人の話に近いです。その意味ではAh Experienceに近いのですが、もっと広い分野のことを深く探求しており、その上でうまく説明できなかったものに関して唐突に新しい思考枠組みで説明できると気付くというものです。この後ろの方の意味ではパラダイムシフトにとても近いですね。ただかなり分野が限定されてしまっていて、その後科学者集団にその成果を認めてもらうなどの作業が必要なので(ここは科学哲学の分野でかなり難しく長い話となるので省略させてもらいます)完璧な個人ではなくある程度幅を持っていますが、クーンの言っている社会全体の転換という大きな意味はなくなります(ということで今までただ有名だからというだけで「パラダイムシフト」と使っていた人はせめて「認識論的切断」と言葉を変えることとしましょう)。
ちなみに認識論的切断などの言葉をつくったのはバシュラールです。クーンの方は邦訳が使い物になりませんが、バシュラールの方はしっかりとしているので日本語で大丈夫だと思いますよ。ここら辺でいいかと思います。新しい科学的精神 (ちくま学芸文庫)

ただしクーン自身もパラダイムという言葉があまりにも広すぎる範囲を指しすぎると考えていましたし、マスターマンなどといった人物にもそれを指摘されていたので、パラダイムという言葉を撤回して専門母体disciplinary matrixなどと言葉を替え、これは科学者集団に適用されるものなのだと範囲を狭めています。
ですがその後の彼の論文を追っていくと、やはり社会全体のことを捉えている節がありますし、そのように考えたほうがいいのではないかと私は感じています。またそうでなければ科学革命Scientific Revolutionの歴史的な偉業を説明できないので。
ただ繰り返し言うようにクーン自身はそれをうまく説明できなかったし、周囲の人との論争や誤解・拡大解釈に疲弊してしまったように感じます。現在はクーンの主張は見直されつつありますので、きちんと解説したものを探して読んでいくといいかと思います。
まあ、ここの記事は「パラダイムってそんな簡単には理解できないし、使える用語じゃないよ?」という注意喚起程度のものです。閲覧者の皆様がこれで興味を持ってさらに勉強を進めてみたり、あるいはそこまで行かずとも「ああ、そんな難しい概念だったんだ」とだけでも思ってもらえると嬉しいです。



さて、次回は科学革命の話をします。
ですがここでは近代力学の誕生を指すScientific Revolutionに限らず、化学革命などにも触れる予定です。私は化学革命の方はそこまで『革命』だとは思っていないのですけどね。でも綺麗に説明ができるので入れようと思ってます。
他にも生物学革命・地質学革命・聖俗革命・環境革命など色々と提唱されていますし、現在は実は量子力学革命の真っ只中にいるのかもしれないなんていう人もいますが、これについては割愛。説明できないことはないですが、普通に先の二つだけでも一つの記事に収まるか自信ないくらい膨大な量書くので。
また二つ目の科学革命とされているエコール・ポリテクニクの誕生からギーセン大学のリービヒによるResearch Schoolの普及までも見たいですね。
ただこれ全部書くと確実に一つの記事に収まらないのではないかという(汗) また説明もわかりやすくしないといけませんしね。現在調整中です。次回掲載までも少し時間をもらうかもしれませんが、そこは何卒ご理解とご容赦を。
ということで今回はここまででーす。
by zattoukoneko | 2010-08-13 06:08 | 歴史 | Comments(1)

パラダイムシフトについて

今回からはパラダイムやパラダイムシフト、そして科学革命などの概念と、そこから発展して出てくる話なんかをしようかと思っています。また途中でちょっと脱線しますが錬金術の話なども。でもこれも関係する話ですので。
と、ここまで書いた内容を見てもらえばわかるように、今回の特集はとんでもなく複雑になります(苦笑) ただし最初のパラダイムの概念はやや哲学よりですが、その後出てきた論争についてまでは触れないつもりでいます。ここは本気で難しい内容になりますし、まだ議論途中だったりする。私自身もどう考えるべきか迷っているところもある。なのでこれについては触れるとしたら別の機会に。今回の流れとしては錬金術とかから現代の西洋医学と東洋医学の比較をするところに流していきたいので歴史よりな話にしたいと思います。
――というか、私としては「パラダイム」の概念をつくったトマス・クーンを科学『哲学』をやっていた人間にしたくないので(笑) 彼はあくまで科学史家だと私は思ってます。パラダイムの概念を説明するために哲学の用語を使っていますし、その後の論客が哲学者が多かったのでそう誤解されてるだけ。概念を作り出したのも科学史研究の中で着想を得たからだし、最終的にはその後の「自称クーンの後継者」たちに嫌気がさして黒体輻射に関する著作Black-Body Theory and the Quantum Discontinuity, 1894-1912を書いています。これは完全に科学史の分野ですからね。

さてパラダイムとかパラダイムシフトなんて概念がいまだによく出てきます。評論家とか大好きですねえ。学者ですらも平気で使う。いやいや、クーンの本なんて数冊しかないんだから読もうよ、といつも苦笑しておりますw
実際読めばいいのは次のものだけでいいと思います。
The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought
The Structure of Scientific Revolutions
The Essential Tension: Selected Studies in Scientific Tradition and Change
The Road Since Structure
ま、たったこれだけ。用語に難しいものがありますが英語ですからね。そんなに苦労せずに読めるかと思います。(なお楽をしようとして日本語に翻訳されたものを買わないようにw 特に一番の根幹となるはずの『科学革命の構造』はどこが間違っているか解説本が出てるくらいですからw)

さてパラダイムの概念について説明しようかと思うのですが……私には説明しきるのは無理ですw
いや、能力不足というのではなくそもそもパラダイムの概念を提唱したトマス・クーン自身が説明しきれてないからです。またその後の(自称)後継者もそれを見事に説明できた人はいない。むしろ解釈を拡大・歪曲、あるいは誤読してしまった感じがあります。現在様々な分野で「パラダイムの転換が――」なんて言ってしまっているのもその一例。これは完全に意味の取り違えですね。
ということでどうやったって説明は完全にはなりません。その代わりクーンの伝えたことには遡ることはある程度可能だと思われます。ただし本人ではないですし、その周りの人々の交流はすべて調べられるわけではないですから、それらの要素まで入れて考えることはできません。そこはこれからどんどん研究されるべきでしょう。私はただただクーンの著作のまとめを今回することとします。


ではまずどのような経緯でパラダイムシフトという概念が生まれるに至ったかから見てみようと思います。
トマス・クーン(1922-96)はハーバード大学で物理学を専攻し博士号を取得。また物理学史の講義をするうちに科学史の方に転じた人物となります。
クーンはアリストテレスの力学について講義をすることとなり、その著作を読み進めました。それをやっているうちに感じたことがあります。それは「このアリストテレス哲学も実はとても説得力があるのではないか?」ということでした。
アリストテレス哲学によれば、地球が中心でありその周りで月が天球と呼ばれる目に見えないエーテルという物質でできたものに乗って回転しており、またその外に太陽の天球や惑星の天球、そして一番外には恒星の天球があるとしていました。また惑星には逆行(本来ならば一日毎に同じ角度分だけ進んでいくはずが後戻りする現象)などがありましたので、それを説明するために周点円という概念を導入しています。これは天球の中に埋め込まれているもので、球の中にあるさらに小さな球です。この球の上に乗って惑星が回転しているので(ただしそれは目に見えないので)観測されるような星の動きになるのだというのです。
また月より外側の世界はエーテルという不変の物質によってできているけれども、月下の世界では土・水・空気・火という物質があり、それらが場所を移動したり性質を変えることで非常に劇的な変化が起きているのだと説明します(性質の変化は乾と湿によってなされるとアリストテレスは説明しますが、広い意味での「アリストテレス哲学」とするとこれは絶対的ではないですし、説明が煩雑になるので割愛)。また先の四元素は土が一番重く、火が一番軽いものとなります。火についてはイメージしにくいと思うので、煙が空に昇っていくのを想像してくれればよいのではないかと。
また軍事などはやはり昔から大事で、投石器(後には大砲など)の弾道の計算というのは重要なものでした。アリストテレスの時代には慣性の法則なんてものはありません。慣性の法則を思いついたのは、まずガリレオ・ガリレイが円慣性、ルネ・デカルトが現在のような慣性の法則に変えました。アリストテレスはではどうやって弾が飛んでいくのを説明したのか? 彼は、弾が進むときに空気を掻き分け、その空気は弾の後ろに回り込むことで推進力になるというものです。
今ではアリストテレス哲学は間違っているような感覚を覚えるかもしれません。例えばロケットに乗って宇宙の中を突き進めるし、恒星も実は不変じゃなくて超新星爆発なんて起こしたりしますし。それらを考えると不変のエーテルによる天球なんていうのは存在しないと思えます。元素なんていうのも今では100種をゆうに超えますしね。
でもさっきの弾の推進力の説明って納得できたりしませんか? むしろ今ある慣性の法則(=物体はそのままの状態を保とうとし、動いているものはそのまま動き続けようとする)なんていうものこそ理解しにくいと思うのですが、どうでしょうか?
また当時の観測できる限度とかも考えなければなりませんね。望遠鏡の発明は(諸説あり増すが)1608年頃にオランダの眼鏡師であったリッペルスハイによるもので、そのときはまだ遠くのものを見るくらいにしか使われていませんでしたが、ガリレオなどによって天体観測に用いられるようになったものです。ガリレオが月の表面は実はでこぼこであるということを発見したのは有名すぎる話。この前にも様々な器具の開発によって天体観測はされてますし、中国の方が近代に入るまでは発展していて大規模な水時計を使用した天体観測は世界的に見て圧倒的なまでに高い水準を誇っていました(なお、星の観測は毎晩毎晩続けるので精確な時計が必要だということです。そのための時計)。
クーンはこの辺りから疑問を持ち始めたわけです。それまでの歴史記述の多くは科学(本当は哲学と言うべきですね。科学は哲学の一つなので)というものは次第に発展してきたとしている。またクーンの前ではバターフィールドが「近代科学の誕生はキリスト教出現以来最も画期的な出来事」としてこれを『科学革命』と呼んでいます。(科学革命についてはまた別の記事で)
この科学革命(クーンらは1543年のコペルニクスの『天球の回転について』から1643年のニュートンによる『プリンピキア』の出版までをこの時期とし、頭文字を大文字としScientific Revolutionとします)によってすべての知識や理論は変わったとされている。けれどそれは前のものがまったく駄目だったから全部捨てたということなのだろうか、というのがクーンの疑問であり、そして思ったのが「実際に現代のことなどを忘れてその当時に入り込むと見事なまでに整合性をもった思想体系ができている」というものでした。
クーンはこれによってパラダイムと、パラダイムシフトという概念を生み出すことになります。

パラダイムというのは英語でparadigmと書き「模範」といった意味です。
クーンが考えたのは、近代科学の誕生まではアリストテレス哲学を「模範」、「基盤」として科学や思想が発展してきており、あくまでその枠の中で社会の人すべてが動いていたということです。この一番の大元になっているのがパラダイムとなります。しかし近代科学の誕生の際にこのパラダイムが切り替わった。すなわち――
   全人類の思想・生活様式が変化した。
ということになります。これをパラダイムシフトといいます。
これがどのようにして起こるのかについては科学革命の記事に回すとします。今注目すべきは「全人類の生活が変わった」という点です。これにはもしかしたら西洋諸国と限定を入れなければならないかもしれませんが、しかしそれまでとは考え方がまったく変わってしまうという点が重要なのです。
クーンは近代科学以前のアリストテレス哲学にも十分な整合性と説得力があると考えました。理由があってパラダイムシフトが起こるのだけれども、だからといって前のものは今のパラダイムに乗りながらでは測ることはできないとしたのです。考えるときにはその当時に入る努力をしなければならないと。これに関しては以前から述べていますね。歴史をやる場合には基本的な姿勢となります。人は他人を理解することができるのか①
したがってパラダイムというのはとてつもなく大きなものを指します。何せ「全人類の基盤」ですから。なのでそこらの評論家が「この作品によってパラダイムシフトが起きた」なんて言っていたら笑っておいてあげてくださいw 「いやいや、そんなたかだか一分野の狭い話もされてもw」とか、「そもそもお前はどうしてその“革命”を感じられるよ? 必死になって前後を照らし合わせないとよくわからないと提唱者か言っているのに」と言っておくのがいいかと(笑)
後々科学革命の記事を書きますが、明確にこのパラダイムシフトが起きたと言えるのはこの近代科学の誕生のときのみ一回だけです。他にはある程度分野を絞るなどするといくつか出てきますが、一番多く数えている人でも四つから六つとかになるんじゃないでしょうか?(ちなみに村上陽一郎が多め)
私は二つとしてますかね? 一個目はもちろんクーンの言っているScientific Revolutionのことです。もう一つは教育制度の変換に関するエコール・ポリテクニクの誕生からギーセン大学でのリービヒによるresearch schoolの成功と研究学派の形成までの時期ですかね。ただし二つ目に関してはあくまで教育という側面なのでどこまで“全人類”としていいのかは疑問です。まあ、少なくとも大学に行ったような人は全員リービヒの孫々弟子とかになるので問題ない気がしますけれど。
まあ、この辺りの科学革命の話は、そのときの記事で書くことにしましょう。

ただクーンはこの後論争に巻き込まれることになります。というのも彼自身がパラダイムという概念を世に打ち出すときにあまりにも哲学の用語で解説しようと試みてしまったため。そのせいで哲学者たちと戦わなければならなくなったわけです。
様々な分野の用語や考え方を用いて自分の論に説得力を持たせようとするのは研究者として当然のことですが、しかし論争はあまりにも哲学に偏りすぎていました。クーンにとっては畑が違うのです。そんなところで戦うなど厳しすぎるというもの。またそもそもが歴史研究の中で出てきたものです。それを他の分野の用語で説明し、そしてその分野の人たちに納得させるというのは難しい。
結局クーンはうまく説明しきることができませんでしたし、また彼の後継者を名乗る人たちがあまりにも拡大解釈してしまった。エディンバラ学派のストロングプログラムやSSKといったものです。クーンはこれに反対していたのですけど、むしろ後継者を名乗る彼らに猛反発されてしまって疲弊しまったという感じです。
結局は説明がうまくできないまま、本来の物理学史である黒体輻射の研究に移り、そこでまたクーンは「あまりにも普通すぎる!」なんて批判を受けることになるのですが。


さて、クーンの努力とどこが特にうまく説明できなかったのかを紹介したいのですが、ここまでで大分長いですし、分割しようかと思います。
なおクーンがどのように意見を変えていったかについては論文集である、The Road Since Structureを読んでいくとわかりやすいかと思います。
実際にこれは読むべき著作だと思いますが、私が特に重要そうなところだけ引き出して次回記事にてまとめようかと思います。特に「どうやってパラダイムなんてものが人の中に定着するのか」にクーンは力を注いでいますし、その辺りでしょうか? ただし全部書いていったら相当な量になるので略記しますけど。他は「パラダイム」という言葉も広すぎるし曖昧すぎるとして後々「専門母体disciplinary matrix」という言葉に替えていますが、こちらは定着していませんし触れない予定。
ということで次回はクーンの説明できなかった「パラダイム概念の曖昧さについて」という記事で書きたいと思います。
by zattoukoneko | 2010-08-09 05:43 | 歴史 | Comments(1)

エジソン発明会社の没落

エジソン話、最終回です。なんとか三月中に間に合った感じですかね。
なお今回の記事のタイトルは次の著作から借用しています。
エジソン発明会社の没落
専門書ではありますが、一般の方でも容易に読めるかと思います。また日本語訳も丁寧でわかりやすいのでお勧めの一冊です。(ただし今回の記事はこれ一冊だけからソースを得ているわけではありません。ご容赦ください)


さて、一回目の「エジソンは悪い人」の中で少し触れましたが、エジソンは白熱電球や蓄音機、映画といったものを発明していますが、それらの発明よりもそれらを商業として成り立つまで発展させていったということにむしろ功績があります。(また彼は昔ながらの職人気質の体制を取り入れながらも、自身の研究所・会社に科学者をどんどん登用していっています。エジソンの発明とされるものの多くは彼らの科学的知見なしには生み出されなかったものでした。そういう意味では他の研究所・企業の先駆けであったともいえます(前回の記事で触れたように科学者・技術者が本格的に企業の中に飲み込まれるのは20世紀に入ってからです))
エジソンの商業面での貢献なしには配電設備や蓄音機や映画はこれほど早く世に普及しなかったでしょう。ですが当のエジソンはこれらのことごとくの事業で失敗してしまいます。
電流に関する争いはすでに見たとおりです。直交論争においてテスラとウエスティングハウス社に敗れたエジソンは、そのエジソン電気会社をジェネラル・エレクトリック社に吸収されてしまいました。
ですが面白いのは蓄音機や映画の話の方です。今回はこちらに焦点を当てていきたいと思います。

まず蓄音機ですが、皆さんが思い浮かべるのはレコード盤のものだと思います。が、これはエジソンの発明したものではありません。エジソンが発明したものはロウ管と呼ばれる円筒の周りにワックス(ロウに錫などを混ぜたもの)を塗ったものを使用しています。
下に画像を掲載してみますが……わかりにくいですかね?
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ロウ管の使用法としては、まず録音の際には音が出るラッパ状の発音機に声や音を吹き込みます。するとその奥にある膜が振動し、それにくっついている針が振動します。これに合わせてロウ管を回転することで、針によって穴があけられていきます。逆に再生する場合にはロウ管を回すとそこに刻まれた傷によって針が振動し、膜が震えることで音となるという仕組みです。
当初使っていたワックスは非常に脆く、あまり耐久性のないものでした。10回も再生できればいいというくらい(代わりに一度ロウを溶かせばもう一度使えるのですが)。これは後に改良されてかなり丈夫なものができます(これはエジソンのもとで働いていた科学者の働き)。
このエジソンのつくったロウ管の蓄音機は品質的にとても優れていたものでした。少し前まではレコード盤の方が音質が良いとか、収納に良いとか言われていましたが(というか今でもウィキペディアはこの情報のままなのですね……)、実際にはロウ管の方が優秀でした。
レコード盤はエジソンも蓄音機の発明の際に一度案として出しています。しかしこれを採用しなかったのは音質がとても悪かったからです。
少し考えてみればわかると思いますが、レコード盤は針が外周から内側へと向かって少しずつ移動していきます。すると(回転速度を変えるのは困難ですから)針の移動速度が速まっていくということになります。このため再生される音声は次第に加速していくということです。また溝をつけるのも大変で、良い音声は得られませんでした。一方で円筒形のロウ管であれば針の速度は常に一定ですし、再生できなくなっても溶かして再利用できるという利点もありました。また音質もとてもよかったのです。
ではなぜエジソンのロウ管蓄音機は廃れ、レコード盤が残ったのか?
実はエジソンの発売したロウ管による音楽に弱点があったのです。
蓄音機は当初とても好評でした。ただ高かったために買えるのは富裕層でしたので、エジソンはバーなどにコインを投入すると音が聞こえるようなものを置いて稼ぎます。物珍しさもあってたくさんの人が集まりました。ですが同じ音楽ばかりではすぐ人々は飽きてしまうものです。エジソンはどんどんと新しい音楽を提供せざるを得なくなりました。
そのエジソンが製造していたロウ管には、昔ながらの民謡や童謡が録音されているものでした。歌い手も特別な歌手というわけではありません。
これに対抗してきたのがビクターでした。ビクターはエジソンの特許を避けるためにレコード盤蓄音機を採用します。が、もちろん音質の悪いレコード盤では勝ち目はありません。そこで考えたのが録音する音楽を大衆好みにすることでした。選ばれた音楽は当時流行っていたものや人気のオペラなど。歌い手も大金をはたいて有名歌手やオペラ歌手を採用します(当初彼ら、彼女らは自分の歌声が安価に売られることで自分の劇場に来てくれなくなるのではないかと渋ったものでした。これを口説くには大変な根気と費用が必要だったことでしょう)。このビクターの試みは見事に成功します。音質は確かに悪いけれども、人気歌手の歌が何度も自分の家で(ようは劇場まで遠出をしないでも)聴けるということが好評だったのです。(なお似たような現象はラジオなどの際にも現れます。19世紀に富と余暇を得てきた中流階級にとって、しかし劇場はまだまだ高嶺の花。それが自分の家で視聴できるのですから飛びつかないわけはありません。一方でラジオ番組などに出ようとする大物俳優などはなかなか現れなかったのですが)
エジソンはこのビクターに対し、あくまで自分のやり方を変えませんでした。意固地な人間だったのかもしれません。結局このため蓄音機はレコード盤にその座を譲ることとなります。

次に映画に関して見ていきましょう。
映画は実は最初はトーキー(音声付き)だったのです。これはエジソンが蓄音機と写真のコマ送りを同時に行うことでつくったものです(写真のコマ送りによって物が動いて見えるようなことを発見したのはエジソンではないですし、これを最初に実用化したのも別人なので、この点はエジソンの盗作ですが)。
エジソンは蓄音機を発明してわりとすぐに映画の着想を得ます。蓄音機を回すのに合わせて写真が切り替わってくれればいいわけですから、構造は単純でした。
エジソンは蓄音機と同じような販売戦略をとります。劇場のようなものはやはりまだまだ高嶺の花でしたし、蓄音機と一緒に映像を流すと再生時間は5分程度ととても短かったので、それ単本での上映は無理だったとも考えられます(現代のような長いフィルムが考案されるのはもっとずっと後のことで、私たちが知っているフィルム横に移動させるための穴があいているものを発明したのは前回出てきたデ・フォレストです)。結局蓄音機と同じようにコインを投入すると視聴できる機体をあちこちに置いていくわけですが、やはりこの際にも続々と新作をつくりだす必要がありました。彼は「ブラックハウス」と呼ばれる撮影小屋まで建造します。ただ……エジソンにはやっぱりというか何というか、ソフト開発には向いていなかったみたいです。最初こそ物珍しさで人は集まります。それしか映画はありませんし。ですが内容はとてもつまらないもので、ただ町の人がたむろしておしゃべりしている映像だったりします。エジソンのつくった映画は次のサイトにて無料で観れますので参考までに紹介しておきます。
Edison Motion Pictures
エジソンのつくる映画に対して、彼の部下たちは次第に愛想をつかしてしまいます。そしてユダヤ系の人々が中心となってエジソンのものを離れ、自分たちの映画製造会社――というか町をつくってしまいます。これがかの有名なハリウッドです。
これによって良質の映画が量産されるようになり、次第にエジソンは映画産業からも足を引かざるを得なくなっていきます。


他にもエジソンのつくった会社のことごとくは失敗し、他の会社に吸収されていくのですが、細かくなるので割愛します。
上で見てきた蓄音機や映画の話からするに、エジソンはハード開発に関してはとても優れた力を持っていたと言えます。またそれを商業に仕立て上げるところまでの起業家としての力も存分に持ち合わせていました。ところが企業家としてその産業で生き残っていくだけの力はなかったと言えます。特にソフトの開発に関してはまったくの力不足でした。

このハードとソフトのどちらが重要かという問題は技術史などの分野で大きな関心事となっています。現代の私たちはすぐに「そりゃソフトの方が重要だろう」と答えてしまいそうですが、優れたハードがなければよいソフトも生まれてこないというものです。(スクウェアがFFVIIをPSで発売を決めたのだって、任天堂のこだわっているカセットロムでは表現に制約がかかりすぎると判断したものですし)
今はblu-rayやらPS3などの新しい記録媒体やハードが次々に生み出されてきています。この辺りの動向を追っていくとなかなかに面白そうですね。
by zattoukoneko | 2010-02-27 14:23 | 歴史 | Comments(1)