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「問題提起」ノーベル賞受賞者中村修二さんを失った日本はダメな国なのか?

10月7日、ノーベル物理学賞受賞者の発表がありました。2014年は青色LEDの発明で赤崎勇さん、天野浩さん、中村修二さんの三人が選ばれました。
青色LEDに関しては、まさに科学の応用の側面を重視するノーベル賞だなって印象でした。震災以降安価なLEDが照明として大分普及しましたから、今回の授賞理由にピンと来る人も多いと思います。スマートフォンのライトとして常に身近にあるものでもありますし、また青色LEDの技術はblu-rayにも繋がったと聞けば、生活を変えた発明として納得でしょう。
それはさておき、受賞者のうち赤崎さんと天野さんは日本人ですが、中村さんは「元」日本人です。現在はアメリカ国籍を取得して、アメリカに住んでいます。というのも、青色LEDの発明に対して、満足な報酬が得られていないと不満を持ち、「日本の(司法は)腐っている」と言い捨て国外脱出してしまったのです(いわゆる404訴訟)。
これだけ聞くと、『なぁーんだ、日本はやっぱりダメなんじゃん』と思ってしまいそうです。実際国内外の大手メディアもさっそくその論法を使っているのが見受けられました。
でも、本当にそうでしょうか? 中村さんを含め、その腐った日本にいたからこそ偉大な発明ができた可能性はないのでしょうか?
今回は、その疑問を持ち上げはしますが、実際にどうなのかと掘り下げることはしません。調査するにはちょっと難しすぎるテーマなので。ですが、私が言いたいことは決まっています。先に言ってしまいましょう。
   発明したのは日本でじゃん! 日本の功績ってことでお祭りしようぜ!!
具体的にはクリスマスツリーを全部青色LEDでですね?(マテ
冗談はこのくらいにして、以下は疑問を投げることに専念します。

私が以前出席していた研究会で、次のような仮説を持っている方がいました。
「僕は日本の企業が研究者にまともな報酬を支払っていないからこそ、日本の中からモノヅクリのような素晴らしい成果が生まれてくるんじゃないかと考えているんです。例えば、小さな町工場は、技術的な成果によって生み出されるお金をみんなで分け合っています。また、時には特許もちゃんと取らないこともあります。技術に熱中する雰囲気がそこにはあるから成果が生まれるのであって、もし発明した人に相応の対価を支払わねばならないとなったら、町工場のようなところは消えてしまうと危惧します」
その方はその後このテーマで論文を発表していないと思いますし、(研究会中にも教授からの厳しい意見としても出たのですが)そのことをどう論証していくかを考えると、非常に難しいものがあります。
ただ、当時の私は似たような見解を持っていて、日本の企業は未成熟だからこそ、独自の成果を出せている可能性もあるのではないかと考えていました(以前のブログ記事 「携帯のバッテリーを見てください」の後半)。その方の意見は、見ている側面こそ違うものの、日本の未成熟を取り上げているという点で共感したものです。
未成熟であることはしばしば批判されるものですが、私はこの未成熟に鉤括弧を付けてもいいんじゃないかと思っています。というのは、未成熟というのは欧米の社会が基準だからです。
欧米の社会を採点基準にしているんだから、日本が未熟になるのは当たり前。
そうではなくて、未熟なら未熟で、その中に大事にすべき姿勢はないのかと考えるのが日本が生き残っていく道だと思っているのです。
中村さんが自身の発明に対して、正当な報酬を得ていないと考え、それを要求して訴訟を起こすのもアリでしょう。企業が大きな功績を出した者に対して、高額な褒賞を出すようになれば企業内での向上心や競争心が生まれるかもしれません。一方で対価や名誉には興味を持たず、技術開発こそが生きがいだという考えも同じくらい重要です。特に基礎科学/技術の分野は研究費を吸い取るばかりで企業に利益なんて生みません。安直に「利益を出せば企業も見合った対価くれる!」という風潮が出来てしまったら、日本の基礎研究はあっという間に潰えてしまいそうです(ベル研などに代表されるアメリカの企業内研究所は、基礎研究は大事だと惜しみなく研究費を与えたので、基礎研究も息がしていられる風土に育ったようですが。日本は基礎研究がちょっとでも利益になりそうな発見をしたら、即座に応用に転換させて息を詰まらせそうですよね。デュポンのカロザースのように……)。

今回は問題提起だけなのでこのくらいで。元々青色LEDが極めて応用に近い研究なので、報酬がどうのって話に結び付きやすい気がします。なので、今回触れた基礎研究とか報酬の少ないことこそが~という話をしようとすると、どこかで無理が出てしまう気がします。掘り下げるとしたら、どの点なら調べられるのか、冷静に選り分けてからになりそうですね。

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2014/10/08 12:35追記
今回のブログと似たような趣旨のことを,まったく異なる立場から説明を試みた撃壌さんという方をご紹介します。
リンク先はtogetterという外部サイトで,結構重いので注意。
ノーベル賞の中村修二氏が捨てた日本社会・企業はそんなに糞なのか?-Togetterまとめ

私もコメントを残してみましたが,まとめ主である撃壌さんは「集団の中の個人」を尊重する立場を取っておられます。先人の発見・発明や,企業や社会という集団による貢献を重要視するものです。
一方で,私はここのブログでもちょっと触れているのですが,「個人そのもの」を尊重する立場です。発見者や発明者の独自性を重要なものとする考え方。いつか伝記を日本で流行らせたいなんて夢を持っています。
歴史や社会という背景を捉えることはとても重要なことで,それを主に取り上げるのは外的歴史(エクスターナル・アプローチ)と呼ばれており,科学史の分野では1970年代以降主流なものとなってきました。個人の背景を取り上げるのもエクスターナル・アプローチの一種で,より新しい傾向なのですが……今は深く突っ込まないことにします。
ともかく,このような研究が大きくなるにつれ,ある反対意見が出てくることになります。
「じゃあ,アインシュタインは相対論を発表するのが他の人より早かったというだけなのか? 同じテーマを研究していれば,いつかは他の人が相対論を発表できたということか?」というものです。
あ,前言撤回。この反論は個人の偉大さが消えてしまうのではないかという危惧から生じた意見なのですが,それを救済しようというのが,個人に注目するという新しい科学史の流れです。と,ちょっと触れておくことにした。
今回の記事でも触れていますが,日本では「集団の中の個人」という意識が強いように思います。そして私はそれこそが発見・発明には重要だった可能性はないか?,と疑問提起しました。いわば,個人を評価するために,その背景にある集団の価値を見極めようというもの。
紹介した撃壌さんは,「集団の中の個人」という見方から,「では実際に利益は正当に分配されていないのか? 集団のために個人は潰されたのか? その逆はないか?」と問題を出し,ひと通りの解答を導き出しています。集団そのものを取り上げているわけですね。
さて,ここからは想像ですが,中村修二さんは個人を重要視したいという立場なのではないでしょうか? アメリカンドリームに代表されるように,アメリカは歴史的に科学者・技術者をヒーローに仕立て上げてきました。中村さんがヒーローという個人が好きなら,そりゃあアメリカの環境は素晴しいと喧伝して何ら不思議はないでしょう。そして,一方で集団を大事とする日本には,嫌悪感すら抱くかもしれません。結局のところ,反りが合わなかったというだけではないでしょうか?
もちろん,日本は本当に集団重視の研究環境なのか,アメリカは個人重視なのか,といった疑問も出るでしょうし,ここで書いたような線引きはとても粗いものです。それでも,中村さんの言葉だけをとって日本を評価するのは,ちょっと危険だとはいえると思います。
by zattoukoneko | 2014-10-07 22:15 | Comments(1)