「ソース出せ」というコメントは愚かしいということについて

ネット上で「ソース出せ」という批判を見かけ、不快な気分になられた方は多いのではないでしょうか? 後でもう一度述べますが、このコメントは喧嘩腰な印象を相手に与えるものですし、何より、すべての人にとってほとんど価値のないものだからです。
学会場などでは、さすがにこのようなコメントをされる方はほとんどいません(皆無、と言えないところが嘆かわしいところです)。今回は、なぜ価値がないのか、という説明を試みたいと思います。

そもそも「ソース出せ」というコメントが出てきたのは、20年ほど前に日本でディベート競技が流行ったこと(1996年、中高の全国大会が開かれるようになりました)が背景にあるのではないかと想像します。
日本におけるディベート競技とは、ある議題に対して競技者を賛成/反対に分け、立論・反駁を行った後、観客にどちらに説得力があったかを判定してもらうものです。この反駁の中で「ソース出せ」(とは流行った当時は言っていませんでしたが)と主張し、相手側が根拠を示すことができなければ、観客の中での相手の印象を下げることができるという非常に有効な手段とされていました。
これと同じノリのことを、ネット上に誰かが持ち込んだのではないかと思います。これこそソースのない、ただの憶測ですが。

しかしながら、これが有効であったのは、あくまで競技だからです。つまり、その場限りのお遊びでしかないからです。勝ち負けの判定員もなく、その後も議論の続いていく一般社会、とりわけ学術の世界では、悪い影響の方が大きくなると考えられます。

まず理由の一つに、学術の知識は所詮専門家集団による共通認識にすぎない、ということがあげられます。
根拠が(実験・観察の力によって)しっかりしていると思われている自然科学ですら、その知識は社会の影響を多分に受けていることが現在ではわかっています。根拠がはっきりとしない主張であったとしても、集団全体からそういうものだと認められれば、その説明は受け入れられます。あるいは逆に、どれだけ根拠を示そうと頑張った学説であっても、集団全体の認識に反していれば正しい説とは認められません(後者の一例となるテレパシーが科学とならない理由については、以前に「科学とは何か」という記事で紹介しました)。
したがって、ソース不足と感じられる説明であっても、その背景には社会・学会の共通認識という極めて大きなバックボーンがそびえている可能性があります。「ソース出せ」によって相手の言葉を詰まらせることができたからといって、競技のようにその場だけの勝った気分に浸っていると、いつの間にか集団全体からは厄介者扱いされていたなんてことにもなりかねません(実際、そうなってしまっている研究者に時折お会いしますよね)。
あるいはまた、根拠は実際にあるのだけれど、発表の場では時間や労力の都合上説明を省いてしまったということもあり得ます。このことは、学会発表や論文執筆を実際にされたことがある方には痛いほどわかる話なのではないでしょうか。発表内容を形作るよりも、引用文献をきちんと書いていくことの方が、時間も精神も削られる仕事です。原著論文や総説のようなきっちりした論文であればまだその作業にも我慢できますが、発表時間も極めて短い学会発表などではいい加減になってしまうところが、どうしても出てきてしまいます。
これに対し「ソース出せ」と批判することは、発表者の労力を膨大なものにするだけでしかなく、学術内容推進の場としての学会でやって褒められることではありません。
「ソース出せ」と言ってしまいたい衝動に駆られたときは、ぐっと堪え、相手が本当に検証不足だったのか、あるいは社会全体の共通認識が潜んでいるのか、慎重に見極めるだけの時間を取ることが肝要です。

そもそも学会(に限らず、議論)における批判というのは、発表者の意見を尊重し、その考えをより高みに押し上げるためにあるべきものです。批判者が自分の主張を声高に叫ぶことはあってはなりません(自分の主張をしたいのなら、自分が発表者になるべきです)。
したがって、根拠の説明が抜けていると感じられたとしても、それは時間等の都合であって、発表者は真摯に調べているはずだと看做して聴講するのがよいと考えられます。そうすることによって意識は論理展開の方へと向き、批判者は論理の飛躍を見つけ、そこを指摘することによって新しい課題を発表者または学会参加者に提示することが可能になります。
このような理念に対して、そもそも「ソース出せ」という言葉には、ディベートのルール紹介からもわかるように、「お前の言うことはそもそも信じられないんだよ! 根拠があるなら示してみろ!」という喧嘩腰なニュアンスが感じられます。つまり、相手を打ち負かしてやろうという意図があるのであって、発表者に貴重な時間を割いてもらった報告を台無しにしようとするものとなっています。言葉を向けられた発表者は、そりゃあ不機嫌になること間違いなしですし、周囲で聴講されていた方々も『ここにいたのは時間の無駄だったの?』とげんなりすることでしょう。
むしろ、こんな喧嘩腰の言い方をしてしまったら、本当は根拠がなかったとしても「○○はあります!」と意固地にさせてしまうかもしれません(もしかすると小保方さんもそんな心境だったのかなぁ……)。そうなってしまうと根拠の追及もうやむやになりかねません。学術ですら良好な人間関係の上に成り立っている、ということを肝に銘じておくべきです。

以上のように、「ソース出せ」という批判では、長期的な視野で捉えたときに学会・社会全体にとってあまり役に立たないのです。
議論をする際には、発表者に対する敬意が絶対に必要です。時には、論拠としている考えが馬鹿馬鹿しいと感じられることもあるでしょう。それでも(相手はあえてそのような馬鹿をやることに意義があると考えているのかもしれませんから)前提は前提として一度受け入れ、説明の運びがきっちりしているかに注目すべきです。そして批判を重ね、最終的に論が破綻したとなれば、そのときようやく「(やっぱり)根拠がおかしかったんじゃないですか? ソースを検討し直しましょう」ととどめを刺せることになるわけです。

もちろんのことながら、「ソース出せ」は有効な批判であることは忘れられてはなりません。それを何の検討もなしに、いきなり言い出すことは害が大きいということを今までは言ってきたつもりです。どうしても言わなければならないときには、その批判を用いることも重要となります。
つまり、実験をした形跡がそもそも見られない、結果に不自然な点があり研究不正が疑われる、などの場合です。
しかしこれらであっても、ある程度の検討がなされた上で提出されるはずのものです。また、このような不正行為は普通は起こらないはずのものです。
ですので、どうしてもソースを出してもらいたいときには、学会の質疑応答の時間にではなく、発表終了後にこっそり相手を捕まえて、「すみません、不勉強なもので○○がわかりませんでした。参考となる文献や実験結果がありましたら、ご教示いただけませんでしょうか?」などと言葉も選びつつ質問の形とするのがよいでしょう。それであれば発表者も気分を害することがなく、それどころか学生を教える気分で嬉々として後日メールで連絡をくれるかもしれません。もしくは根拠に薄かったとはっとして、いい指摘をくれたと思ってくれるかもしれません。
学会も社会である、人付き合いという政治の世界なんだとわきまえることで、学術発展が摩擦なく促進できるのです。

ここまで、学問の世界を思い描きながら、「ソース出せ」は愚かしいという話をしてきました。
しかしながら、このことは学問に限らず、一般社会やネット社会でも同様であるはずです。何か主張をしている方は、それが思い込みであったとしても、何かしらの根拠をもって話を組み立てているはずです。その思い込みを「くだらない!」と一蹴してしまうのは簡単なことですが、それで得られるのは一時的な勝った負けたの感覚だけです。相手にとっても、周囲の人にとっても、何ら建設的ではありません。時間はかかってはしまいますが、相手の議論をしばらくは発展させてあげて、そのうえであらためて主張に価値があるのかないのか検討するのが理想的と言えるでしょう。
また、一般社会には元よりソースを出すことをその役割としているような記事もあります。新聞記事や行政などが出している資料がその代表ですし、個人の方でも情報提供や解析をメインに記事を出されている方がいらっしゃいます。その場合には「ソース出せ」という批判が、学術よりも早く出しやすくはなります。
相手が何を意図して話をしているかをまず読み取る姿勢が、学術を想定しながら説明した内容に加えて必要になってきそうです。

何かしらの意見を見たときには慎重に相手の意図を見極めること、批判とは相手の考えを発展させるものである、人間関係を意識し一時の勝ち負けに囚われないようにする、といったことが身についていくと、おのずと「ソース出せ」がくだらない批判だとわかってくるのではと思います。

Commented by zattoukoneko at 2018-07-01 20:22
このような記事を書こうと思ったのは、もう何年か前になりますが、参加した学会の場でまさに「ソース出せ」をされた方がいらっしゃったのが一つにあります。
その時の発表は、私自身も根拠に薄いとは感じたものの、それはデータ解析の手法が発表者に身についていないからだろうと考えていました。問題はその伝え方なのですが、件の方はわりと直接的に「そんなデータはないんじゃないの?」と指摘してしまったという次第です。
そのせいで、会場からは共同研究者による怒鳴り声が飛ぶなどしてしまい、お互いに主張を撤回することも発展することもない無為な時間となってしまいました。
このような事態は非常に見苦しく、避けるようにしてほしいという希望がありました。

加えて、当ブログも閲覧者の方に幅が出てきたようで、おそらくは一記事だけさっとみてコメントを残されているだろう方も散見されるようになりました。
ここで改めて述べておくと、当ブログは読者を中高生~大学生と想定しており、内容の正確さよりも興味を持ってもらいその後の思考の足掛かりになることを意識しています。
そのため議論や根拠に不足が多々ありますし、時には間違っていると知っていながらも話の面白さ優先で書いていることすらあります(山極ノーベル賞の話など代表例)。
その意図もきちんと汲みながら記事を読んでもらいたいと思っていますし、私だけでなく他のネット記事に関しても同様の悲しみを感じることが多々ありました。

このようなことから、一度しっかり「そのコメントはお互いにとって損ですよ?」と書いておきたかったというわけです。
Commented by zattoukoneko at 2018-07-01 20:38
なお、本記事においても、意識的に根拠不足による「論理の飛躍」を織り交ぜています。
最後の方に、「しかしながら、このこと(「ソース出せ」は愚かしいこと)は学問に限らず、一般社会やネット社会でも同様であるはずです」と書いた辺りなどです。
ここの議論は明らかに不足しています。筆者(つまり私)は、学問の世界も一般の世界も、議論・批判のあるべき姿はきっと同じはず、という信条をここに隠しているのでしょう。
しかしながら、本当に同じなのかどうかは、きちんと検討してみないことには厳密には言えないことです。もしかすると精査を重ねたことによって、学術に貢献できる議論の形、一般社会に貢献できる議論の形がわかってくるかもしれません。
しかし、その検討は本記事の目的ではなく、私のやりたいことではなかったということです。ですからその課題は、閲覧者の中に疑問に感じられた方がいたら、その方にお任せをしたい。そしてその成果をいつか見せてほしいと期待しているというわけです。
Commented by zattoukoneko at 2018-07-02 11:21
書き忘れていました……。

少し前にこのブログで、脳死と死生観についても扱いました。
脳死移植推進派は、移植を是とする目的のために、西洋の死生観を根拠なしにでっちあげることをしました。それは反対派を「ソース出せ!」に巻き込むための巧妙な罠だったとは記事で述べたとおりです。
この事例のように、学術の世界であっても、目的のために根拠や論理をあやふやにするというテクニックが使われることがあります。
ですので批判者は、相手の真意が何なのか、しっかり見極めたうえで反論する必要があるわけです。

――と、up直後にコメントで追記する意図も一つにあって脳死の記事も書いたのに、すっかり忘れてました(汗)
Commented by zattoukoneko at 2018-07-02 11:35
早々にネタバレしておくと、本記事でも、目的のために根拠や論理をあやふやにすることをしています。

この記事では「ネットでも建設的な議論がされるべき。学会のように!」という前提で話を組み立てています。
しかし、「荒らし目的の人にとっては、攻撃できれば楽しいんじゃね?」という真っ向から対立する前提も想定することが可能です。そしてそれに基づいて議論を組み立てれば、本記事とはまったく異なる主張ができあがることでしょう。
しかし、私はこの前提の是非について、そもそも検討をまったくしていません。

それは、「ネットも建設的に」という前提を広めることが、本当の目的だったからです。
根拠や議論の微細を検討してもらうことはなく、それを読んでもらって「やっぱりそうだよね!」と閲覧者に思ってもらうことが意図でした。
ですから「みんなも不快に思ってるよね!」と冒頭で同意を促すことで、前提の検討についてうやむやにしているというわけです。

私はこういうテクニックが得意ではないのですが、脳死の件のように、本当に言葉巧みな論者の方もいらっしゃいます。批判者が失敗に気付くまで十年もかかっているわけですからね。
やろうと思えば悪用することだってできるのでしょうから、批判の目を持つとは、根拠や議論の筋道を検討するだけでは足りないと肝に銘じておくべきかと思います。
Commented by 568369 at 2018-07-27 01:15 x
よくぞ言ってくれました!
本当、近年は「それは何を見て言っているんですか?」と、恥ずかしげもなく発言する若者がいて困るんだよ!
かと思えば、妙に大人しくしてるなと思ったら、学会場に勉強しにきてる奴とかな、、、

願わくば、どの段階で「こいつは原著をちゃんと読んでないな?」と疑わしく思うのか、詳しく書くことも試みてほしい。
本文では「批判を繰り返すことによって、最終的には根拠の吟味に戻る」ようなことを書いているけれど、我々はもっと早い段階で見抜いているはずと思う。
でないと、学位審査会の時間内などに、そこを指摘できないはずだからね。
Commented by zattoukoneko at 2018-07-27 03:00
568369さん、コメントありがとうございます。

ああ、おっしゃられていること、よくわかります。
確かに、極めて早い段階で「ソース不足」とわかってしまうことがありますね。
しかし……それについてまとめるのは、ちょっと難しいかもです。

どうやって見抜いているのかは様々で、例えば、
発表者がその部分で言い淀んでいる=誤魔化しているのが態度でわかる、みたいに人を見ているときもあるでしょうし、
引用文献を見たとき、著名な論文の記載すら間違っていることから、怪しいと思うこともあるのではないでしょうか?
あるいはそもそも、「論拠にしていることが、あまりに勉強不足すぎる!」と、いきなり切り捨ててしまいたくなることもあるでしょうし。

うーん、ご指摘の点についてまとめるのは、今後の課題とさせてもらってもいいでしょうか。
ひとまず今回は、「批判は相手のためにしよう」という理想を伝えることを目的としておきたいです。
「こうすればソース不足は簡単に見抜ける!」を下手にやってしまうと、その主軸がブレてしまいそうなので。
by zattoukoneko | 2018-07-01 20:08 | 雑記 | Comments(6)