2015年イグノーベル賞:あぁっ、ハチさんもっと俺のこと刺して……!

今年の記事は割とこじつけ。

さて、さる9月17日に2015年のイグノーベル賞の発表がありました。ノーベル賞とは違って笑わせてくれる研究に贈られるものとして、また日本人が続けて受賞していることもあって、報道も盛んにされているという印象があります。そしてこのブログでも主張してきたことでもあるのですが、イグノーベル賞はただのお笑いなんかではなく、その研究内容は注目に値するものだという声もちらほらと聞こえるようになってきました。研究成果そのものも素晴らしいものだし、その成果を導いた研究手法も見習うべきものと私は考えています。
当ブログでは研究手法や研究に対する姿勢に注目し、個人的な意見を述べてきました。なぜなら、成果について評価するのは大変だけど、方法論についてあれこれ意見を言うのは自由気ままにできるので現代社会において科学/技術は大きな力をもったものと見做されており、その在り方について考察することは今後ますます重要な意味をもつと思うからです。イグノーベル賞は、選考過程に同様の考えをもつ人が入っているのか、研究手法で受賞が決まったんじゃないかと思えるようなものが多く含まれています。
では今年はどうだったのか。単に笑って済ませるだけでなく、そこから見える研究手法にも意識を向けられたらと思って、私も発表を楽しみにしていました。
……なのですが、蓋を開けてみたら、今年はビミョーというか。研究成果自体は素晴らしいし、一般の人の目を向けるような見出しがついているのですが、どうにもお堅いイメージが拭えない。どうしたんでしょうか、世界中から注目されてしまって、イグノーベル賞選考委員会もはっちゃけることができなくなってきたんでしょうか? 少なくとも当ブログで取り上げてきたような、研究手法に関する面白味は薄いという印象でした。
ということで、冒頭の書き出しにあるように、今回はちょっとこぎつけです。正確に言うと、その研究内容・背景にまで踏み込んで書こうと思います。なんだよ気楽に書けないじゃん!


取り上げるのは、生理学・昆虫学賞に選ばれたマイケル・L・スミスの研究。自分の異なる部位をミツバチに刺してもらい、どの部位が痛みが小さいか、どの部位が痛みが大きいかを調べたというもの。どんだけドMなんだよっていうか、私が発表を聞いたときにまさかの想像で思い浮かんだ陰部まで刺してもらったというんだから、もう変態そのものじゃんと。その印象が強すぎて記事タイトルがこんなになったという次第です(けして私が変態ってわけじゃないんだよ?)。
しかし研究の背景にまで思いを巡らせると、この手法は実に理にかなったものという気もしてきます。そのことについて、今回は述べてみようと思います。

痛みというのは、私たちにとって非常に身近なものです。転んでひざをすりむけば痛いし、足の小指をタンスにぶつければ目から火が出るように痛いし、悪いもの食べちゃってお腹を下してるときなんて神に日頃の行いを懺悔し許しを乞うことすらあります。そのくらい痛みというのは日常のそこかしこで経験するものです。
一方、医学の分野では痛みというのは非常に扱いに困るものと見做されています。痛みを散らすということも大変なことですが(痛みを訴える患者を救済するため鎮痛剤を処方する、手術を受ける患者の苦痛を軽減するため麻酔を使ったり不安を取り除くセラピーを行うなど、様々な場面で直面する問題です)、それだけでなく、それ以前の問題として痛みを測るということが難しいからです。
私たちは普段から痛みと簡単に言ってしまっていますが、その性質や原因は多種多様です。鋭い痛み・鈍い痛み、肉体的な痛み・精神的な痛み、損傷した体表面にある痛み・漠然とこの辺が痛いとしかわからない内臓の痛み。どこが痛いのか、どのように痛いのか、何故痛いのか。これらを明瞭かつ簡明に説明できる患者はまずいません。医者であっても、患者の側になってしまうと、その痛みを説明できないことを経験すると聞いたことがあります。
なお余談ですが、私は体があまり丈夫ではないらしく、胸やお腹の痛みを訴えて病院に行くことがあるのですが、そのたびに「どこがどう痛いのかな?」と訊く医師を満足させられる言葉を返せないというイヤな思いをしてきました。ちなみに私の返答例は「『ぬーべー』っていう漫画に悪魔の手というのが出てくるんですけど、いやわからないなら薔薇の蔓を巻き付けた手をイメージしてくれればいいんですけど、その手に心臓を包まれているような感じの痛みです。いや、握りつぶされているような感じじゃなくて、周りを包んでいるだけで、だから心臓が動くたびに痛いんです。……いや、だからチクチクとか、そういんじゃないんですって」とか。これはさすがに私が悪い気もする(・ω・`) でも当時は、どうしてきちんと説明してるのにわかってくれないんだ、と思ったのです。後に医師と仲良くなってこの体験について語ったことで、この背景にある問題を知り、謎が解けたように感じました。当たり前の話ですが、医師は患者の感じる痛みをすべて実体験したことがあるわけじゃないのです。そのような医師がどうやって痛みの種類を区別するかというと、教科書などに先人がまとめてくれた知識を使うしかない。書かれているのは「チクチク」とか「シクシク」とか「差し込むような」とかであり、実はその言葉も医学的に洗練されたものだというのです。そのため一般の人が感じ表現する痛みと、医者が文字で勉強した痛みの表現に乖離が生じている。そのため勉強で得た知識を患者の訴えとすり合わせる経験を積んでいない医者に当たってしまうと、患者の言葉は的外れだと見做して、あまつさえ「それって差し込むような痛み?」と医学の言葉で尋ねることさえあるのだそうです。そのような医者にたくさん当たってしまった私は、医者になろうとする者には現場の倫理をもっと学ばせるような教育体制をつくらなければいけないのではないか、と常日頃から思っているわけです。
脇道が長くなりすぎました。そろそろ戻ります。
痛みの評価が難しくなるのは、内臓痛のように患者自身が評価に難渋していることもありますし、また痛みというのは極めて主観的な感覚だからです。我慢強い人はちょっとやそっとの痛みではそもそも訴えを述べませんし、あるいはその痛みを感じているときの状況によってもその痛みの大きさは変わることがわかっています。楽しく笑っているときにはあまり痛みを感じないけれど、落ち込んで病気のことばかりに頭が行っているときには苦痛も大きくなるといった具合です。そしてさらに、落ち込んでいると精神的な苦痛も上乗せされるため、それを肉体的な痛みと分けて申告してもらうのは難しくなっていきます。
そうした事情から、痛みの評価というのはまだまだ発展途上の分野とも考えられ、様々な評価方法が考案されています。これを痛みの評価スケールと呼んでいます。いくつか例を出すと、一つはvisual analogue scale(VAS)というもの。これは、一本の直線を患者に見せ、その一方を「痛みなし」、もう一方を「耐えられない痛み」「想像しうる限り最も大きい痛み」とし、患者にその時感じている痛みはどこに位置するかと指差してもらうという方法です。そして、痛みなしから指してもらった場所までの長さ/直線全体の長さ、という数値にして評価する方法です。このVASをもっと患者にも理解しやすくしたものにnumerical rating scale(NRS)やface scaleなどもあります。前者のNRSはVASの直線に目盛りを入れておき、痛みが該当する数字を申告してもらうようにしてもらったもの。後者は直線ではなく痛みを表した顔の漫画を患者に見せて選んでもらうもので、これは小児などによく用いられているそうです。
ここで紹介した評価スケールは極めて単純なものです。患者に感じている痛みの程度を教えてもらうことはできますが、その痛みの種類には触れられていないし、生活上感じる困難なども考慮されていない。いわば一元的な痛み評価です。内臓痛のような痛みそのものを感じにくく、しかし症状などが出て不安になりやすいものにどう取り組んでいくのか。あるいは損傷した体の部位によっては日常生活動作にさほど支障が出ないため、患者が痛みを小さく評価・申告してしまう場合はどう見抜いたらよいのか。そういった課題がまだまだ残っています。

この先の評価スケールに関してはその道のプロが書いた著作物に譲るとして、イグノーベル賞の話に戻りましょう。
痛みの評価のところでちらっと述べましたが、痛みというのは部位によって感じ方が異なるものです。非常にわかりやすい例を出すとすると、蚊に腕を刺されて痒いときと、まぶたを刺されて痒いときとでは、その痛みには雲泥の差があるわけです。腕なら「かゆい……うま……」とぼりぼり掻くだけで済みますが(注:その台詞はなんか違う)、まぶただと「痛いし、煩わしいし、掻けないし、もぉおおお!」と発狂モノです。この蚊の例は経験則として(あるいは実体験したものからの伝聞として)非常に馴染みのあるものです。
『じゃあ、実際に部位ごとに違うっていうその痛みの評価をしたことってあるの?』と過去の研究を探してみると、当たり前すぎるせいなのか、全然見当たらないわけです。当たり前と思われることでも、先行研究がないなら、それを調べれば価値ある研究になります。というわけで、調べてみようと思い立ったのが受賞者のマイケル・L・スミスというわけです、蚊じゃなくてミツバチですが(論文Abstractより引用「However, the question of how sting painfulness varies depending on body location remains unanswered」)。
ただ調べようと思うのはいいにしても、克服すべき問題があります。すでに述べたように、痛みというのは主観的な側面が多分に含まれます。そのため、ミツバチに腕を刺された人と脚を刺された人とに痛みを報告してもらったとして(ここでは理解をスムーズにしてもらうために、先述のVASで申告してもらったと仮定しましょう)、その数値は単純に比較できるものではないと考えられます。
ではどうするか? 同じ人に痛みの数値を報告してもらえば比較は容易になりますが、そんな何度も刺された経験のある人なんて見つからないでしょうし、実験するにしてもさすがに被験者が嫌がって集まらなさそうです。実験することすらできないのでしょうか?
……自分が刺さればいいんじゃね?
というわけで、そう思って本当にやってしまったのが、マイケル・L・スミスというわけです。いやぁ、本当に変態、もとい科学者の鑑ですね。
なお、このマイケル・L・スミスが本記事で紹介したような痛みの評価の問題点、痛みの主観的な側面を意識して研究に臨んだということは、彼の論文に明確に書かれています。Abstractにも「…in one subject (the author)」と書かれていますし、Introductionでも研究の背景として痛み評価について触れられています(興味ある方は、Honey Bee Sting Pain Index be Body Location. PeerJ homepage から読まれるとよいと思います(リンク先英文))。


さてはて、記事内でもタイトルでも著者を変態であるかのように書き、というか本当に自分でやってしまったことにドン引きしまくりの私ではございますが、そのように研究しようと考えるに至った背景と過程には非常に納得ができると感じました。痛みをどう評価するか、研究はどうやっていけばよいのか、さすがにこの著者の真似をする人はそうそういないと思うものの、その他の研究者に注目されるには足るものだったのではと思います。
ドMな研究者がイグノーベル賞を受賞したとして終わるのではなく、痛みの評価、研究の難しさに目が向くことで、今後この分野が発展していくことに繋がればと思います。
願わくば、私のような病弱人が医者と痛みについて話し合うとき、気分よく言葉のやり取りができるような医療現場にならんことを。


オマケ
昨年のバナナの研究 も、一昨年の水の上を走ろうとする研究 もそうでしたけど、イグノーベル賞は『思い付きはするけど、本当にやる?!』って思っちゃうような研究が好きなのかもしれませんね。
細かなところでは違うとは感じますが、研究者として真摯であることを、この選考委員会は愛すべきものと見ているのかもしれません。
by zattoukoneko | 2015-09-24 02:32 | 生物・医療 | Comments(0)