『世界を凍らす死と共に』3-3-1


   三.

 夏の季節、まだ夕暮れ時というには早い時間帯。それでも雨雲が太陽を隠してしまっているので周囲はかなり暗くなっていた。空から降ってきた雨粒が、氷に包まれた木々を叩いてきらきらと弾ける。凍りついた公園の中央、そこに膝を抱えて立花先輩がうずくまっていた。
 ここは外だけれど、式場でもある。俺たちは入り口で傘を置いた。柊の着ているウエディングドレスは、父さんが少ない貯金をかき集めて母さんのために買ったもの。そんな大事な形見を雨に濡らしてしまうことを申し訳ないと思ったが、これは自分たちの晴れ舞台なのだと気持ちを入れ替える。
 柊と腕を組み、立花先輩の前に進み出る。先輩は俺たちに気付くと、顔を上げて、目を見開いた。その反応からまだ心は冷え切っていなかったらしいと判断する。一先ずほっとする。
 先輩に向かって俺は粛々と宣言する。
「俺たち結婚するつもりでいます」
「……そっか」
 小さくつぶやいた立花先輩は、その後可笑しそうに笑みを浮かべる。
「でも御薗木君は年齢的にまだ結婚出来ないよね。そうやって冗談を言ってアタシをからかってるんだ」
「そうですね、まだ十八歳になっていないので法律の上では結婚は認められていません。だから『つもり』と言葉にしましたし、それに今の母さんは十五歳で式を挙げたんですよ? 本人たっての希望で、戸籍を入れるより早くそうしたんです。父さんは刑事として危険な仕事に就いていましたから」
「……」
 先輩はしばらく沈黙した。でも俺たちのことをどうしても認めたくない様子だった。
「やっぱり冗談だと思うな。こう言っちゃなんだけど、御薗木君は恋愛事に疎いもん。周りにいる女の子のことをあまり見てなかった気がする。アタシのこともそうだし、柊さんのことだってそうだったよ?」
「その通りだと思います。昨日までの俺だったらこんなこと考えもしなかったでしょう」
 けれど俺は変われた。俺に深く関わってくれた人がいたから。
「先輩が俺に世の中にはたくさんの色があると教えてくれたんですよ。これまでずっと俺は画材屋に並んでいる絵具のようなものしか見てなかった。でも色恋というように、人間関係の中にも色は存在する。考えてみれば当たり前のことですよね。色というのは現象の一つだし、となれば想いが相互に作用し合って色を生み出すことも自然なこと。そのことに目を向けさせてくれたのが、今日の先輩だったんです」
 だから俺はその色が見えるようになったことを先輩に知らせに来た。心を氷の中に閉じ込めてしまったら、それを感じることができなくなってしまうから。その前に伝えなければならなかった。
「この柊との交際も結婚も一時的なものです。彼女に対する想いに気付かせてくれた先輩に伝えるために急がせてもらいました。でも俺は真剣に交際しようかと考えています」
 直後、隣の柊が小さく身じろぎした。先輩には聞こえない程度の声で批難してくる。
「ちょっと、御薗木くん。これは立花先輩を救うための演技という話だったじゃない。あまり嘘を吐くと後で先輩を深く傷つけるわよ」
 その抗議を俺は無視することにした。確かに今はまだ俺も、柊も、心の整理が出来ていない。けれど想いが真剣であるのは本当のことだった。そのことを立花先輩だけでなく、柊にもしっかりと聞かせる。
「ずっと柊の描く絵に憧れていたんです。何度見惚れたことかわかりません。柊は表には感情を表わしませんが、けして心が冷たく凍りついているわけじゃあない。むしろ他の人より豊かなくらいなんです。ただそれを表現することをずっと抑えていて、絵にだけはそれを出すことが出来ていた。今後の柊は気持ちをもっと見せてくれるようになると思います。それを傍で見ていたいと、俺は考えているんです」
 柊が俺の腕をぎゅっと握りしめる。そちらを見たけれど、顔を俯かせているせいで、その表情を知ることは出来なかった。
「買い被り過ぎよ。わたしはそんなに器用じゃない。そんなにうまく変われる気はしない」
「別に何年かかったっていいさ。最初は父さんが柊の気持ちを冷たい底から引き揚げてくれたんだろうけど、その後を俺が引き継ぐ。柊も怪の一件を通じて変わることが出来たと言ってたじゃないか。その変化はまだ終わってなんかないんだよ」
「……御薗木くんも変わったわね。以前からあなたの姿勢は好意に値すると思っていた。自分の目に見えない色を何とか捉えようと頑張っている姿勢は素敵だったわ。少し逃げている部分があったけど、それはもうやめたのね。それどころかわたしの知らない色まで見つけてきた。そんな御薗木くんがこれからどんな絵を描くのか、とても興味がある」
 まだ少し不器用な印象は受けたけれど、それでも十分な答えを貰えた。二人で歩いていく道は、きっと鮮やかに彩られているはずだ。
 俺たちのやり取りを見ていた先輩が、悲しみに満ちた微笑を浮かべる。
「そっか。アタシが立ち止まっている間に二人は前へ進むんだね。仕方ないよね、アタシはまともに動けないんだもん」
 そうやって諦めることで先輩は心を閉ざそうとしている。気持ちを封じ込めてしまえば、辛いことを味わうこともなくなるから。
「でも本当にそれでいいんですか?」
「え?」
「先輩は自分の心を凍りつかせてしまえば辛いことを感じなくて済むと思っている。でもそんなことをしたら、周りの人たちは先輩を置いてもっと先に進んでしまうんですよ? それが嫌だったから先輩は身体を丈夫にしようと考えて、そして怪の力に縋ったんじゃないんですか?」
 これから口にする言葉はついさっき俺の想いを受け止めてくれた柊を傷付けることになるかもしれない。そうだとしても、俺は先輩を助けるために言わなければならない。すべて俺の我が儘だけれど、でも本心でもあるから。
「自惚れでなければ、先輩は俺のことが好きだったはずです。今日そう告白してくれたし、そうじゃなかったらそもそもデートになんか誘わなかったと思います。あのときの先輩は前に進もうとしていた。それに俺は心動かされもした。それだけ輝いていたし、可愛かったんです。その先輩が本当に望んでいたものは何だったんですか?」
「……」
「身体を良くしてみんなと同じ速度で動けること、それだけじゃなかったはずです。好きな人と一緒に街を歩くことや、知らない場所に出掛けること、そしていつかは結婚して家庭を持つことを夢見ていたんじゃないんですか?」
 立花先輩が顔を上げ、鋭い目付きできっと俺を睨みつけた。涙を流しながら悲痛な叫び声を上げる。
「アタシの身体じゃ無理なの! 肺も心臓も、胃も全部ダメになってる。子供を産むのはもう諦めてくださいって医者に宣告された。普通の家庭なんて持つことは出来ない。それに身体も次第に動かせなくなってきてる。手を伸ばしても届かないものだったのに、もうその手も持ち上げられなくなるんだよ? どうやって夢を叶えろって、御薗木君は言うのよ……」
「……先輩がどうやって夢を叶えるのか、あるいは可能なのか不可能なのか、それは俺にもわかりません。でも今日のデートで俺の目を先輩に向けさせたのは、服装や仕草だけじゃなくて、その向こう側に見えた先輩の想いだったんです。たとえその手足が動かなくなろうとも、その想いを向け続けてくれれば俺の横に立つのはもしかしたら立花先輩だったかもしれない」
 けれど先輩がここで心を止めるというのなら、俺たちは先に進むしかない。死んで冷たくなった人の想いをずっと抱えながら生きていくのは無理だから。想いは相互に作用するのだし、冷え切ったものを引きずったままではそのうち自分の心まで動かせなくなってしまう。だから先輩がここで凍るなら、俺たちは置き去りにしなければならない。
 しばらくの沈黙を挟んで、立花先輩がゆっくりと言葉を紡いだ。
「一つ、訊いていいかな?」
 自分の気持ちを確かめるように。氷の殻に閉じ込めようとしていたそれを、もう一度取り戻すように。
「御薗木君に対する想いを持ち続けたら、その隣にいる女性はアタシになる可能性はまだ残されているのかな? こんな病弱で脆い身体でも、温かい家庭を築くことが出来るのかな?」
「まだ柊とは仮の結婚ですからね。心を奪われたら相手は立花先輩にすると思います。身体のことも気にしなくていいです。他の人とは違う形になるかもしれないけど、ちゃんと家庭を持つことは出来るはずです」
「そっか……」
 呟いた先輩は涙を零した。それは氷になることもなく、滴のまま地面へと落ちる。気付けば先輩の周りにあったダイヤモンドダストのようなきらめきも消えていた。
 声を震わせながら、先輩が想いを口にする。
「そんな夢を見せられたら追いかけたくなるじゃない。こんなところで止まっていたくなんてない。アタシも、幸せになりたいもの!」
 そうして泣きじゃくる先輩の姿を、俺は愛おしいと感じた。これだけ熱い想いを抱いているのに、それを身体が弱いからと封じてしまうのは本当に勿体ない。俺はその純粋で活き活きとした心の動きをずっと見ていたいと思った。
 先輩とのやり取りを隣で聞いていた柊が、いつもの口調で俺のことを馬鹿にする。
「御薗木君は罪作りね。もっと端的に表わせば浮気者よ。女性の気持ちを弄んで、これからどうなるかわかっているのかしら」
「弄んでいるつもりはないんだけどな。全部正直な気持ちだし。でもふわふわと浮ついているってことは認めざるを得ない気もする。これから整理していかないと」
「そうね。先輩の身体のことも気になるし、青葉さんとのこともある。もちろんわたしとの交際を続けるのかどうかについてもきちんと考えてもらわないと」
 台詞は俺を批難しているものだったけれど、その口調はどこか楽しげだった。俺に無理矢理巻き込まされた柊は、きっと他のみんなの想いに触れることで世界が広がったんじゃないかと思う。これまでずっと自分の想いを閉じ込めていたから、他人の想いに触れることもほとんどなかったんだろう。それが変わりつつある。
 雨は降り続いているけれど、夏の雨はそこまで冷たくない。ずっと体を濡らし続けていれば凍えてしまうだろうけど、今は優しく俺たちを包み込んでくれているような、そんな感じがした。
 そしてそんな雨の中、とさっと軽い音がした。
 音の方をした方を向くと立花先輩が地面に伏していた。
「先輩!」
 慌てて駆け寄ると、先輩は浅い呼吸を繰り返していた。喘息の発作じゃない。体力を使い果たして、身体が軋みを上げているような感じだった。
「怪の力を使って無理に動いていたから、その反動が来たのかもしれないわね。元々身体が弱いかったのだし、命に係わるかもしれない。救急車を呼びましょう」
 そうして柊が少し離れる。それに合わせたかのように、立花先輩が微かに手を持ち上げた。俺はその手を迷わずに取った。
「御薗木くん、ありがとう。でもね、この冷たさを君は知らない。それじゃあダメだよ。だから……アタシから分けてあげる」
 次の瞬間、冷気に包まれた。体に当たる雨粒が弾けた瞬間に氷の欠片に変じる。
 芯の方まで体が冷えた頃になって、ようやく気付いた。消える直前の怪を立花先輩から移されたのだと。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:42 | 小説 | Comments(0)