【期間限定公開】『雪の音に沈む街』オマケエピソードPart. 7

 今日は朝早くからお母さんとお散歩です。空は突きぬけるように青く、気持ちの良い晴れでした。陽が昇る頃にはきんと冷えた空気で満ちるほど気温は下がっていたのですが、今ではそれを感じることもありません。
 ただお母さんにとっては日差しが強すぎるのも困りものです。雪女でしたし、常に体を冷やし清めていなければなりませんでした。
 でも今日のお母さんは大丈夫そうでした。それに何か考えがあるようです。
 向かった先は鏡の湖でした。
 お母さんは湖の縁でしばらく何かを確認していましたが、やがて岸から湖面へと体を移してしまいました。
 湖の上からお母さんが呼びます。
「水が凍っているから乗っても大丈夫よ。この上なら涼しいし、ずっと一緒に居られるから」
 雪音はなるほどと思いました。氷の上ならば、下から反射した冷気を体に感じることができます。太陽の光は熱いままで、それほど澄んだものにもなりませんが、地面の上にいるよりは大分ましだと感じます。
 けれど雪音はなかなか下りることができませんでした。岸から足を伸ばしはするものの、湖面に付く前に引っ込めてしまうのです。
 いつもなら元気に、臆することなく、山を駆け回っている雪音です。お母さんは疑問に思い、それから理由に気付きました。
「大丈夫よ。お母さんも乗っているでしょう?」
 言いながらお母さんはぴょんと跳ねたというか、体をちょっと伸び縮みさせました。どうやら跳び上がるのは得意ではないみたいです。
 雪音は以前この湖に落ちて溺れたことがあるのです。お母さんのことは信じています。けれどどうしても怖かったのです。
 それにお母さんはすごく体重が気がします。ほっそりとしていて、色も透き通るように白くて。雪女であっても体重は人と同じようにあるのですが、お母さんの漂わせる儚さがそう思わせるのか、持っているはずの体重もほとんどない感じがします。
「むー」
 雪音は一つうなった後、意を決して飛び下りました。さすがに子供の自分の方がお母さんより軽いことはわかっています。だからあとは気持ちの問題でした。
 急に人が乗ったからか、湖面が揺れた気がします。けれど雪音は溺れることなく、きちんと氷の上に立つことができました。
 お母さんに手を引かれながら、雪音は湖の中央まで歩いていきます。周囲は広くなり、また足の下にある湖は深さを増していきます。鏡の湖は水が綺麗でしたから、氷も透き通っていて本当にあるのか不安になるほどでした。足にはしっかりとした感触が伝わってきてるのに、まるで水の上を歩いているようでした。
「怖い?」
 あまり雪音が足元を見ていないことに気付いて、お母さんが声をかけてきます。雪音は素直にうなずいて応えました。
「氷の先の湖は綺麗よ。一度見てみるといいわ。氷は丈夫だし、もし万が一にでも落ちてしまったらお母さんがすぐに助けるから」
 お母さんなら信じられます。氷よりもお母さんの決意の方がずっと固いことを知っていますから。
 雪音は繋いでいた手を離すと、そっと氷の上に屈んで四つん這いになりました。
 視線の先、湖の中が良く見えます。それは岸の近くとはかなり違った風景でした。湖底はずっと先の方にあります。生えているいくつかの枝は、どこからか流れてきたものでしょうか。小さな魚が手の届きそうな距離で泳いでいるのも見えます。まるで自分は宙に浮いているかのようでした。
「……あれ?」
 そこで雪音は不思議なことに気付きます。目の前にいる魚は動いていないのです。
「氷に閉じ込められちゃったみたいね」
「死んじゃってるの?」
「大丈夫よ。冬眠をしているようなもので、氷が融ければまた元気に泳ぎ出すわ」
「じゃあ、今のうちに捕まえて食べる?」
「えっと……氷の中だから掘り出すのは難しいかしら……」
 不思議なものを見たと思いながら、雪音は立ち上がります。普段と違う湖の姿は神秘的でした。でもやっぱりお母さんのそばの方がいいです。
 雪音は母に駆け寄ろうとして、しかしそこで思いっきり足を滑らせてしまいました。
「雪音!」
 勢いがついていたこともあって、雪音はそのままつるつると滑っていってしまいます。お母さんは自分まで転倒してしまわないようにしながらも、急いで娘の元へと向かいました。辿りついた先、雪音はきょとんとしています。不安になって声をかけようとしたら、大きな声で笑い出しました。
「面白ーい!」
 それから今度は自分の力で体を押し、氷の上を滑走し出しました。
 取り残されたお母さんは目をぱちくりさせます。
「えーと……」
 そういうことをしに来たわけではないのだけれど、怖がることもなくなったし、良かったのかしら?
 その答えはすぐには出そうにありません。
 とりあえず向こうの方まで行ってしまった娘を追いかけることにし、頭の中から疑問を振り払いました。

   *おしまい*
by zattoukoneko | 2012-09-16 21:26 | 小説 | Comments(0)