【小説】『絶体零度』3-3-1


3-3-1

 会社を出ると外はすでに夜になっていた。大した仕事はしていないとはいえ、一応記者なんてものをやっているためその他の会社員よりは帰りが遅くなるし、不定期だ。すっかり冬の気配に変わってきた風が首筋を撫でて過ぎる。
 すっかり藍色に染まった空の下、それより深い濃紺の着物で佇む瑠璃を見つける。
 別に待ち合わせをしていたわけでもない。人通りもそれなりにあるのだが、彼女はよく目立つから自然と目がいった。
「やあ、瑠璃がわざわざ外に出掛けてくるなんて珍しいじゃないか。しかも私を待っていたのかい? そんなこと今までしてくれたことなどなかったように思うが」
「大事な用事があれば外にくらい出るさ。ひきこもりじゃないんだからね。しかし待っていると伝えるべきだと思ったよ、こんなに遅くなるならね。君は連絡でもしようものなら仕事を抜け出すかもしれないと思ったから控えたのだけど」
 瑠璃もこちらを待っていた様子ではあったし、気付いておきながら無視するわけにもいかずに話しかけた私に対して瑠璃はそう答えた。そしてやや開けた着物の裾を持ち上げ肩を窄めた。
「しかしもう冬だね。肌寒くて敵わないよ」
「瑠璃の着方がだらしないのがいけない気もするけれどね。和装は日本の気候に合っているものだとも聞くし」
「それは昔の話だね。都市部はおかしな近代化をやられたせいで夏には湿気が籠もるし冬には温かみのない刺すような風が吹き荒ぶようになってしまったよ」
 私の小さな皮肉に瑠璃は真面目な言葉を返してきた。そしてそのまま話が続かなくなって沈黙が落ちる。
 彼女と大学で知り合ってから長い付き合いになる。しかしこんなにも何か話し辛そうにしているのを見るのは初めてだった。そして私自身も話を切り出しにくく感じていた。瑠璃が何の用事があって会いに来たのかはわからなかったが、しかし私の方には彼女に話すべきことがあって、それを自覚しているだろうに。
「まあいつまでもこんな場所でだんまりを決め込んでいても仕方がないね。行こうか。萩原君には別の場所に来るように伝えてある」
 恭介も来るということはやはり雪奈たちに関わる話なのだろう。瑠璃たちも心配していてくれたことに気付かないほど私は人間の感覚を鈍くはしていない。
 ふぅと一つ強めに息を吐いた。心を整えて私は話し始めた。
「実はこの前雪奈と一緒に横浜まで行ってきたよ」
「横浜というと白樺雪奈が孤児として育ったというところかい?」
「ああ、養護施設を訪れて詳しく話を聞いてきた。恭介が調べてきたように雪奈は舞美の妹ではなかったようだ」
 そこで私は瑠璃に詫びる。
「この前はすまなかった。恭介の持ってきた話を信じたくないということではなかったんだよ。信じられてしまったからこそ私はどう自分の感じているものに折り合いを付けるべきかわからず混乱してしまったんだ」
 少し前を進む瑠璃は、こちらを振り返ることなく頷いて返した。
「そうなるのは自然なことだとも思う。君は変化していこうとしているのだから苦しみを大きく感じることもあるだろう。そしてあまりに痛いから無意識に逃げようとしてしまうこともある。でもそれをさせていては成長したいと望んでいる君のためにはならないと思ったから私はきつくそのことを指摘した。気分を害するのは自然なことだよ」
 瑠璃はそこまで喋って、また口を閉ざしてしまった。そのまま数十メートルを歩いていく。何を話すべきか彼女も迷っているような感じがしたので、私はそのまま黙してついていくことにした。
 瑠璃が口を開くと、しかしその言葉はとても短いものだった。
「君は変わろうとしていた。それであれから今日までで何か変われたと思うかい?」
 今度は私が沈黙してしまう番だった。胸を張って私は成長したのだと言えるような証拠を提示できない。
 瑠璃が小さく息を吐く。嘆息という感じではなかったが。
「気持ちの整理がついていたら君はすでに何食わない顔をして私の店にやってきただろうね。それがなかったということはまだ自分の抱えているものを自覚できていないということなのだと思う」
 そこで瑠璃は私の方をちらりと見遣るように頭を動かした。はっきりと視線を交わらせることはなかったけれど。
「君は白樺雪奈と横浜に行ってきたと言っていたね。そこで君が『感じたこと』を教えてくれないか? 『知ったこと』ではなく、ね。もちろん多少はそれにも触れるだろうけれど」
 彼女の求めていることはとてもよくわかった。瑠璃はずっと私の心のことを気に掛けていたようだったし、知識としてなら恭介の分で事足りているだろう。
 私は帰り際に感じたちょっと不思議な感覚を中心に話していく。
「雪奈が舞美のことを姉だと思っていたのはどうやら彼女の過去に原因があるらしい。家族を強く求めてしまう気持ちがあったんだろうと私は推測しているが、生まれて初めて優しく接してくれた舞美を本当の姉だということにしてしまった。そんな事例は極めて少ないということはわかっているよ。ただ実際にそうなっていたということは、雪奈はそれだけ深く心に傷を負っていたんだ。そしてそう思ったからこそその後の彼女の立ち直りの早さに違和感を覚えてしまった」
 小さく頭を振りながら私は続けた。
「どうしてあんなに簡単に割り切れる? すでに私から話を聞いていたとはいえ、実の姉だと思っていた人物がただのボランティアで来てくれただけの女子高生だと判明したんだ。そのときに受けたショックが小さいわけはない。それに以前に私に話してくれた内容と施設の先生が話してくれた内容はまったく違っていた。それはおそらく精神的な疾患が続いていたからということになるのだろう。ならば今の彼女は突き付けられた事実をどう解釈したのか。彼女の病が続いているとしたらと私は咄嗟に考えて、そして何故か言葉を掛けられなくなってしまった」
「……」
 瑠璃が神妙な面持ちで私の話に耳を傾ける。そして一つ寂しそうに苦笑を漏らした。
「君はやっぱり馬鹿だな。私は自分の気持ちを語ってみせろと言ったのに、どうして話すことは白樺雪奈のことばかりになるのかね。まあ、今回はいくらか自分の気持ちを吐露してくれたように私には思えたけどね。君は気付いていないのかもしれないが」
 ここがいつもの店だったら瑠璃は愛用のキセルで私を鞭打っていただろうか。彼女は私の曖昧にしていた箇所を指摘してくる。
「君自身も記憶を失っているじゃないか。だから同じ境遇にある白樺雪奈に声をかけることができなかった。いいかい、ここが重要なんだよ。記憶を失っているという事実が共通しているだけなら君は特に気に留めることはなかっただろう。でも今まで気にしているということはその内部の機構まで同じということになるのさ」
「つまりはこう言いたいのかい? 私は自分の心に傷を負っていてそれが原因で記憶を消してしまったと?」
 首肯してから瑠璃はこちらを振り返った。ちょうど一つの安物の喫茶店の前だった。
「そういうことだね。君が記憶を曖昧にしていたのは心の内側に大きな傷を抱えていたからに他ならない。白樺雪奈と同様にその傷に関してはほとんど忘れているようだけれど、実は今まで何度も口にしていたことだったんだよ」
 話をしていた私たちのもとに一人の人物が近付いてきた。時間は遅くなっていたが東京では電灯など持たずとも相手の顔がきちんと判別できる。
 喫茶店から出てきた恭介が沈黙したまま一枚の紙を持ち上げ、とある箇所を指差した。それは妹の刹那の名前が載った戸籍の写しだった。
 恭介の指差している事項欄には冷たい文字でこう綴ってあった。
『死亡』
 と。


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by zattoukoneko | 2011-06-26 19:49 | 小説 | Comments(0)