【小説】『絶体零度』3-2-2
2011年 06月 23日3-2-2
写真を持つ雪奈の手がゆっくりと下がっていく。彼女がどんな表情をしているのか、私からは髪の毛が邪魔をしてよく見えなかった。
雪奈を世話していたという先生が変わらぬ様子で訊く。
「あら、覚えてなかったの?」
「……はい」
項垂れたまま返答する雪奈に先生はちょっとだけ唸り声を混ぜる。
「そっかあ。まだそういうところは直らないままなのね」
それはどういうことだろうか? 訝しく思って尋ねた私に、視線を向けた先生が誰何してくる。
どのように答えたらいいものかと悩んでいたら代わりに雪奈が返事をしてくれた。
「この方は飯田成明さんといいます。姉――櫻庭舞美さんと親しくされていた方なんです。でも櫻庭舞美さんの行方が最近わからなくなってしまったんです」
「あら、そうなの?」
「はい。それで櫻庭舞美さんの行方を追っているうちに私のことを知ったらしく、一緒に探しているというわけなんです」
彼女の説明は事実とはかなり食い違ったものではあるが、しかし私が舞美を殺したかもしれないなどとは話せないだろう。余計な混乱を招きかねない。
それから雪奈は施設を出所後に舞美と出会ったこと。ただ自分は姉だと思っていて、ここですでに面識があったことは覚えていないということを告げた。
「雪奈ちゃんのお姉ちゃんだというのは櫻庭さんの方から言ったのかしらね。あなた『舞美お姉ちゃん、舞美お姉ちゃん』と言ってずっと付いて回っていたから」
先生の話を聞く限り、雪奈はよほど舞美のことを慕っていたように思える。それにそれは中学の終わり頃の話だと先程述べていた。幼少期の記憶ということならともかく、その年齢の出来事をそう簡単に綺麗さっぱり忘れてしまうものだろうか。
私がそのことを訊くと先生は途端に歯切れが悪くなった。
「それはねぇ、雪奈ちゃんの場合にはちょっとした事情があるから……」
そう喋りながら先生はすぐ傍にいる雪奈の方をちらりと見た。当人に関わる、そして余り人前で話すべき内容ではないのだろう。
視線をもらった雪奈もそのことを理解したらしく、その上で頷き返した。
「話してもらって構いません。むしろ私自身も忘れているくらいですから話してもらいたいと思っています」
「そう。まあ忘れているのはうちらも把握していることではあるんだけどね」
先生は立ち話も何だからと近くの部屋に私たちを案内した。施設の子供たちは外で元気に遊んでいるようで、きゃいきゃいと騒ぐ声が屋内にも聞こえてくる。その子供たちの使っている物なのか、小さな椅子に座るよう私たちに勧め、その後自らも腰を下ろしてから先生は話を再開した。
「雪奈ちゃんは専修学校に進んだことは覚えているかしら?」
「はい、覚えています。ただきちんと修了はしていないとか。それは覚えていませんでしたし、それに在学中に櫻庭舞美さんのことを姉だと調べたのだと思います」
「なるほどね、雪奈ちゃんの記憶ではそうなっているわけね」
それはどういうことなのだろうか。確かに雪奈本人から聞いていた話と、先生や恭介の告げる事実はあまりにも喰い違っている。彼女が自ら記憶を書き換えてしまったということなのか。
「専修学校を辞めることになった理由の一つがそれなのですけどね」
先生は私にそう答えてから、当時の事情を語り始めた。
「雪奈ちゃんはご家族を事故で亡くしてる。原因はお父さんが飲酒した上での自動車の暴走運転だったわ。大きな事故だったから当時は全国紙にも掲載されたくらい。雪奈ちゃんは奇蹟的に助かったけれど、その時のショックからか頼れる人を作ることが出来なくなってしまっていた。とても内気で、一日に一度声が聞こえればいいかなというくらいの子供だった」
そのような雪奈の姿は今の様子からは思い浮かべることが私には出来なかった。彼女はきちんと喋るし、活発とまでは謂わずとも明るい女性に見えたからだ。
「転機になったのは櫻庭舞美さんがこの施設にボランティアでやってきたこと。彼女の高校でやっている慈善活動の一環だったのだけど、櫻庭さんはとても熱心で真剣に取り組んでくれたわ。彼女は雪奈ちゃんにも何度も優しく話しかけてくれて、そして雪奈ちゃんも『舞美お姉ちゃん』と言ってすごく懐いたの。うちら職員もそれを嬉しく思っていたのだけれど、今から考えてみればそれが事の発端だったのかもしれないわね」
問題が起きたのは雪奈が専修学校に通い始めてからだという。
「櫻庭さんも高校を卒業してしまったから施設には来なくなってしまった。彼女が来ていた頃よりはさすがに落ち込んでしまったけれど、でも雪奈ちゃんは大分明るくなったの。でも専修学校である日櫻庭さんに容姿がそっくりな先輩を見つけてしまった。雪奈ちゃん、あなたはその人を本人だと勘違いしてしまったの。後でうちら職員もその相手の写真を見せてもらったけれど、確かにそっくりだったし、思い入れの強い雪奈ちゃんならば勘違いしてしまうのも自然なことではないかと思ったわ。ただその人は櫻庭さんとは性格がまったく違っていた。雪奈ちゃんのことを冷たく突き放してしまったの」
相手がどのようなことをしたのか、具体的なことまで先生は話そうとしなかった。今すべきことではないと判断したのだろう。ただ過去の雪奈にとってそれはとても辛い出来事だったようだ。
「雪奈ちゃんは精神的に参ってしまった。とてもではないけれど学校に通い続けることができるような状況ではなかった。うちら施設の職員と学校側で話し合った結果、就学能力に難があるという理由で途中退学という処分にすることになったわ。その後施設の方できちんとしたお医者様に診てもらうことになるけれど、手続きをした時はまだ本格的に受診しているというわけでもなかったから体調不良などとは学校側でも書けなかったって」
診療を受けながら、十八歳になった雪奈は施設を退所した。制度としては理由があれば二十歳まで入所期間を延長できるのだが、その頃には雪奈は自分で仕事をできるようになっていたし、また医師の方でもそれに向けて彼女のことを診察していたようである。何にせよそれが数年前のことであり、そして――今の雪奈にはその記憶がない。
先生に別れを告げて施設から出る頃には空にも夕の色が映り始めていた。雪奈が自力で立って歩けるようになるまでそれなりの時間が必要だったのだ。
まだ椅子に座り込んでいた雪奈に先生はこんなことを告げていた。
「雪奈ちゃんは『お姉ちゃん』に依存しすぎていたのよね。本来頼るべき親御さんを失っている施設の子供たちにとって、信頼できる相手を見つけることはとても重要なことではある。でもそれと同時に自立する力も身につけていかなくてはならない。これは相反するものだからうちら職員にとっても大きな課題でもあるわ」
私の隣にいる雪奈は自分の足で地面に立っている。杖も使わず自分の二本の足でその場に立っている。
彼女は秋色から次第に色の変化していく空を遠く眺めながらぽつりと言った。
「私は姉に会いたい」
そして自分の想いを確実なものにするかのように言葉を紡ぐ。
「姉は私の本当の姉ではありませんでした。でも再会した私に優しく接してくれた事実は変わりようがありません。血は繋がっていなくともやはり私にとっては姉だった」
雪奈は私の方に顔を向けると一つの決意を口にした。
「私は姉を探します。そしてじっくりと話し合うことにします。今となってはそれだけが頼れる唯一つのことですから」
そう告げると雪奈は真っ直ぐに歩き出した。
しかし何故か私は彼女の後を追うことが出来なかった。雪奈と同様、記憶を失ってしまっている私には伝えるべき言葉が見つからなかったのだ。
人でごった返す横浜の街に雪奈の姿が消える。
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