【小説】『絶体零度』2-2-2


2-2-2

 私はどうやら見逃していたらしい。今回の一連の事件で、実は瑠璃がとても大きな衝撃を受けていたのだ。確かに彼女は大きな動揺を表に出すことをしないが、思い起こせば必要以上に私のことを気にかけ心配してくれていたではないか。それは私のことを大事に思っていてくれているからというのもあるが、自分の立ち位置を見失いかけていたことも同時に意味する。彼女にとって私たちとの関係はけして壊したくないかけがえのないものだったのだ。
 これは一般的に言えることだと私は考えるが、友人関係というのは綱渡りのようなバランスの上に成り立っているのだろう。普段は大きな揺れがないために自分たちが歩いているのは細い綱の上だということに気付かないが、それは知らず知らずにお互いにどの位の距離を保ちながら身を寄せ合っていればよいかを覚えたからに他ならない。そのような綱の上で誰かが予想外の動きをすれば、他の人はそれを何とか修正しようと試みるだろうし、転落の虞に苛まれることすらあるだろう。これが私と瑠璃の間に起こっていることなのだ。
 瑠璃が項垂れたまま言葉を続ける。
「君が今日白樺という女の子と出かけてきたときの様子を聞いていて、そのうち君が自身の妹のことを持ち出して来すぎだと気付いた。だからさっきのような推測に至ったんだよ。君が妹の姿をその娘や殺した姉に重ねているのではないかとね」
 そこまで言うと瑠璃は頭を上げて、私の方を見た。
「すまなかった。些か感情的になり過ぎてしまったようだね。君が話したくないのだというのならそれで構わない。私はあまりに一方的過ぎた」
 そうかもしれない。瑠璃は不安定になっていた綱のバランスを取ろうとして私のことを揺らそうとした。それは余計に危険な行為であったことは否めない。
 しかし、なら私は瑠璃が謝ったということで何も話さなくていいのだろうか。彼女が不安に思っているという現状は打開できていない。
「瑠璃。君が心配してくれているということはわかった。私も話せることがあるなら出来るだけ話そう。ただ自分でも整理できていないことがほとんどだけれども」
 私がそう述べると、瑠璃が小さく「ありがとう」と口にした。彼女に対して私は答えていく。
「君は私が妹の姿を雪奈の中に見ているのではないかと言った。そのように考えるのも仕方のないことだと思う。私自身、彼女は妹に似ているところが多々あるなと感じてはいたからね」
 昼前に待ち合わせ場所に来た雪奈の姿を見たとき、あれは妹の服装に似ていると思った。物を食べるときに髪を耳にかける様はそっくりだったし、妹と同じように大学で遊ばないのは損をしているのではないかとも言った。
「でもそれは『似ている』だけだと私は重々わかっているよ。雪奈と妹は別人さ。それとお姉さんの方に関してだけれども、そちらについては何とも言えないな。何せ当人のことを全く覚えていないんだから」
 姉妹ということなのだから見た目や性格に酷似している部分はあるかもしれない。しかしながら似ていない事だって十分あり得る。したがって雪奈が私の妹に似ていることが、即ち姉の櫻庭舞美も妹に似ていることにはならない。
 と、そこで恭介が少し別の見方をしてきた。
「でも僕も瑠璃も成明の妹さんの顔とか知らないんだよね。話は聞いているけどさ。まあ僕も家族の写真を二人に見せたりしているわけじゃないけど。でも印象に残っている割にはその顔も知らないってちょっと奇妙な感じもするかな。もしかしたらそのせいで瑠璃の不安が増長されていたりするのかも?」
 恭介はそう口にしてから、さらに別のことにも思い当たったようだった。
「そういえばここ数年は妹さんの話を聞いてない気がするな。最近は会ってないの?」
 言われて記憶を探る。確かに近頃は連絡すらしていなかったかもしれない。最後に会ったのはいつだったろうか? 普段の多忙さにかまけて放っておいてしまっていた気がする。
「君が多忙という言葉を口にするのもおかしな感じがするけれどね。確かにまともに仕事もしていない私なんかよりはずっと忙しいだろう。下っ端とは謂えど記者なんてやっているわけだしね。でも頻繁に私のところに出入りしているのも事実さ」
 少し調子を取り戻した瑠璃がそのような皮肉を口にする。それから極めて短い息を吐き、改めて真剣な様子で話を始める。
「私も動転ばかりしていては駄目だね。萩原君の論にも一理あるかもしれない。良ければ前回君が妹に会ったときの話を聞かせてくれないか?」
「妹にこの前会ったときか。あれはもう何年前になるのかな……」
 当時は私がまだ会社に勤めだして間もない頃。慣れない仕事にとても手間取っていたのを思い出す。妹はまだ大学生だった。
「妹は地元から私のところに遊びに来たんだ。渋谷に行きたいと突然言い出してね。でも今思えばそれは口実だったという気がするよ。実際には私がきちんと社会人としてやれているか心配になって来てくれたんだろう」
 季節はちょうど今くらいだったろうか? 東京にいると周囲の景色から時節を判断するのが難しくなる。周りの木々は色付いていなかったようにも思うが、風はすでに冷たくなっていた。
「着てきた秋物のコートが紅葉を思い起こさせたのをよく覚えているよ。私は渋谷なんて詳しくなかったし、妹も下調べをしてきたわけじゃなくて結局適当にぶらついていただけで終わってしまったんだ。せっかく上京してきたのにまともに食事もさせてあげられなかったな」
 私がそう思い出を語っていると、恭介と瑠璃が互いに顔を見合わせた。
「何だか今回の雪奈ちゃんとの話に似てない?」
「私もそう思っていたところだよ。違いと言えば食事のところくらいだね。まあこれまでも飯田君と彼の妹がどこかで食事をしてきたなんて話は聞いたことがないけれど」
「そういえばそうだね。大学時代には結構頻繁に妹さんと会ったなんて報告を聞いてたけど、でもどこか一緒にお店に行ったことはないんだね……」
 恭介が不思議そうに考え込む。そして唐突に訊いてきた。
「そういえばさ、僕たち成明の妹さんの名前知らないよね。何ていうの?」
 問いかけがあまりに唐突だったので私は答えるのに詰まってしまった。一瞬の間隙を挟んでから応答する。
「――刹那」
 口にしてからはっと気付いた。その響きは雪奈にとても似ている。何故今まで何度も雪奈の名前を聞き、自分からも発していたのに思い至らなかったのか不思議なくらいに。
「それは違うね、順番が逆転しているよ。本来ならば『雪奈』と聞いたときに君の妹の名前である『刹那』を思い浮かべるはずだろう。それに私に言わせてもらえばその二人の名前はそこまで似ているようには思えない」
「僕は微妙なところかなー。似ているといえば似てるけど、でも他の人の名前でも同じようなことはあるんじゃないかなという気もするし」
 そうだろうか? 私自身には二人の言っていることがいまいちよくわからない。
 瑠璃がキセルを咥え、そしてすぐに刻み煙草がなくなっていることを思い出して手放した。諦めて言葉を紡ぐ。
「どうにも私にはよくわからない。君は妹に似ているから白樺雪奈という娘に惹かれていやしないか?」
「それはさっき瑠璃の言った『妹の姿を彼女たちの中に見ている』ということかい?」
「いや、それとは別だね。君はきちんと区別が付いていると自分で述べていたし、先程は私も動転していた。君の中で区別が付いているならそれでいいのだが、でもまだ私は君が若い娘と一緒に並んでいるということに違和感を覚えて仕方なくてね」
 それで瑠璃は妹に似ているから親しくしているのではないかと述べているわけか。元々は雪奈の姉のことを知りたくて私から接触したわけだからそれは明らかに間違っている。ただ彼女が妹に似ていてそこが気になっているというのは正しいかもしれない。今日の昼間に雪奈と出歩いたときの感覚はそれ以外にどのように説明したらよいのか私自身わからないのだ。
「なら本来の目的のためにも君は今以上に妹と白樺雪奈をきちんと区別して会わないといけないと私は思うね。あくまで知りたいのは彼女の姉である櫻庭舞美の方なのだから」
 確かにその通りだ。私は今日のように雪奈に気を取られていてはいけない。収穫が何もなかったのもそのせいではなかろうか。
 そう考えて私は再び雪奈を呼び出した。今度はもっと直接姉のことを知ることができる場所に連れて行って欲しいと伝えながら。
 ただ結局のところそれは雪奈を頼ることに変わりないものだった。だからこそ私は雪奈のことももっと見なければいけなかったのだと後々気付くことになるのだ。


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by zattoukoneko | 2011-05-26 22:49 | 小説 | Comments(0)