第二の科学革命

今回は二つ目の科学革命とされるものについて書いていきたいと思います。
なおクーンなどの考え方によれば「科学革命」や「パラダイムシフト」は一度しか起こってないことになっています。ただし現在ではこれから説明する教育制度面での変革も大規模で、人々の生活も一変していると考えられるため「第二の科学革命」と呼ばれています。これについてはこの特集の初めのパラダイムシフトについて でもちらっと触れていますね。



では具体的な内容に入っていきましょう……と言いたいところなのですが、まあここも実はかなり複雑で。今回は教育「制度」に焦点を絞りますが、実際には学問内容も大きく変容しています。ちょっと簡単に並べてみますが――
数学:ニュートン・ライプニッツの微積がさらに進められラグランジュやモンジュらによって解析学に。
物理:カルノーらによる熱力学、アンペールらによる電気力学、フレネルらの光学の波動理論への転換。
工学:それまで高級職人によって使われるのが主だった製図を数学でもって整え、設計図の作成などが始まる。(これについてはとても読みやすい名著“標準”の哲学―スタンダード・テクノロジーの三〇〇年 (講談社選書メチエ (235))を参考するとよいかと)
化学:無機化学の発展、そして有機化学研究の誕生。
といったところです。項目は当たり前のように多いわけですが、内容も難しいです、というか私にも説明できません(汗) いやあ、能力不足だと痛感しているのですけど、日本で一応トップの方にいるとされている教授陣ですら説明できないですから。本当のトップクラスはきちんと説明できますが、それすでに世界のトップに食い込んでくるようなレベルなので。さすがにそれをやるのは無理、ということで却下です!
てなわけで教育制度の側面に入っていきましょう。なお今回は「第二の科学革命」の「教育制度」のみに焦点を当てますが、それよりもっと幅広くみたものとして科学の社会史―ルネサンスから20世紀までがあります。教科書に相当しますが、とてもよくまとまっているので論文など眺めてみると結構な率で参考文献に入っていたり。一冊持っておいて損はなし。


まず第二の科学革命はフランス革命を始まりとし、リービヒのresearch schoolの成功によって終わるとされるのが常です。私はここにもう少し付け加えたいところですが、大きな変革としてはこのくらいの時期に終わっていると考えていいでしょうね。

フランス革命の前として18世紀には「百科全書家」と呼ばれる啓蒙思想の持ち主がたくさん現れます。科学が真理を明らかにし、それが技術を促進。人々の生活を豊かにするという考えです。なお次のが『百科全書』の第一巻の口絵。
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中央にいるのが真理の女神で、そのヴェールを取られようとしています(=真理の探求)。で、下にいるのがその明らかにされた真理を眺めている技術者たちです。
この理念の下、フランスでは「アカデミー」がいくつもできます。地方でできてきたのが多く、例えばボルドーに1712年、リヨンに1714年、ディジョンに1740年など。王立科学・文芸アカデミーなどと訳されます(元はAcadémie Royale des Sciences et Belles-Lettres)。ここではデイヴィなんかが(上流階級の)一般大衆向けに化学の実験などをしてみせています。このようにまずは上流階級の方からですが科学の「大衆化」が進みます。それまでは上流階級の中でもさらにトップのレベルの人たちが使っても使ってもなくならないお金で科学をやっていたわけですが、そこに参入はできずともやってることを知り興味を持つということになるわけです。
(ちなみにですが。西欧では「科学」と「技術」はまったくの別物です。日本では「科学技術」なんて言葉がありますが、欧米人にScience-Technologyとか言ってもまったく伝わらないので。またこの啓蒙運動は「科学者側から」の一方的な動きで、技術者はそれとは別の道を歩んでいます。実際『百科全書』の中にはむしろ技術者の技術Skillを蒐集してまとめたものが散見されます。また後で述べるように技術Technikはまだこのときありません)

こうした背景のもとでフランス革命が起こります。ですが政権を握ったジャコバン派はアンシャン・レジームancien régime(旧体制)の科学を壊してしまいます。前回の化学革命について の記事で出てきたラヴォアジェは徴税請負人をしていたこともあり、ギロチン台に送られます。大学やアカデミーも解体され、唯一残ったのは王立植物園Jardin Royal des Plantesだけという有様です。
この体制は1794年7月にテルミドールのクーデターによりジャコバン派の指導者であるロベスピエールが処刑され、11月に同派は解体されます。この後新しい科学体制がつくられることとなります。1795年には有名な国立学士院Institut National des Science et Artsが創立されます。
ですが科学/技術の面で重要であったのはエコール・ポリテクニクÉcole polytechniqueとなります(そんなに難しくないフランス語だと思いますけど一応。Écoleは「学校」でpolyは「たくさん」や「総合」、techniqueは「技術」です。日本の漢字表現に訳さないのが慣習なのでそのままカタカナ表記で)。
エコール・ポリテクニクの前身はエコール・サントラルÉcole Centrale des Travaux Publics(公共事業中央学校とでも訳しますか)で1794年の12月に発足しています。実は1793年に革命の波及をおそれてイギリスを中心にヨーロッパ諸国は反仏同盟を結んでいます。輸入することができなくなった重要な軍事物資である火薬やソーダ、鋼などの自給体制を確立するべく科学者・技術者を結集させたということになります。
しかし旧体制下の技術者の多くが亡命していたため道路や運河などの公共事業を担う工兵隊corpsが組織されます。この中から職人とは違う工学者ingénieurが生まれてきます。なお、ingénieur(アンジニュール)の語源であるラテン語のingenierius(インゲニエリウス)は「天才」意味で、元々はフランス語でもingénieur civilと「公共の」とくっついていました。彼らはあくまで軍事とかに係わる技術者集団ではなかったので区別していたわけですね。ただし後に公共事業に携わる人たちのことを「エンジニア」と呼ぶようになったのでcivilも抜かれます。なお工学者=エンジニアはもっと前から存在していて、むしろ起源はイギリスのスミートンJohn Smeaton(1724-92)で、Society of Civil Engineersを1771年に発足しています。Civil Engineerという言葉も彼の発案で先に述べたように軍事に携わる工学者と区別するためにつくったものです。エディストン灯台の設計をした人で有名。まあ、このエンジニアの人たちの詳しい話は割愛しましょう。長くなるので。
ともかくエコール・サントラルは急ぎで科学者・技術者を集めるためにつくられ、翌1794年にエコール・ポリテクニクと改称されます。ここではさらに科学と技術が密接に結びついていきます。
教授陣はとてつもなく豪華で、初代学長ラグランジュをはじめ、モンジュ、ベルトレ、ラプラス、フルクロア、フーリエなどフランスのトップが集められます。ここに入る学生は身分の差に関係なく入ることができました。ただしエコール・ポリテクニクは大学校ですし(日本の大学じゃないですよー?)、選抜試験は難しかったのでせいぜい裕福な中流階級くらいまでしか入れなかったことがわかっています。下層階級の職人や農民は極めて少数です。
画期的だったのは数学者のモンジュによって科学と技術を結びつけるようなカリキュラムを確立されたこと。これは啓蒙主義的科学観によるものです。前々からこのような試みはあったものの、技術教育の前に基礎科学教育(基礎といっても私たちの感覚で言うと大学から大学院レベルです)を学ばせたこと。特に解析学と画法幾何学(図学)は大きな影響を与えました。解析学は力学、そして機械技術に。画法幾何学は地図の作成や機械製図に繋がり土木や建築、機械製作に貢献していくことになります。
その後やや技術教育の面は衰退するものの、ナポレオンの後押しによって科学・技術の教育のメッカとなり多数の著名な科学者を世に輩出することになります。数が多いので相当に絞りますが、ビオ、ゲイ=リュサック、ポアソン、フレネル、コリオリ、カルノー、コント、ポワンカレなど誰もが一度は名前を聞いたことがあるような人物が並びます。エコール・ポリテクニクは他国からも注目されましたし、ここから輩出された科学者たちが19世紀前半の社会で科学活動することになるのです。

しかしナポレオンの後押しによって支えられていたエコール・ポリテクニクや、支援を受けてラプラスが立ち上げたアルクイユ会、ゆくゆくはフランスの科学はナポレオンの没落によって衰退することになります。これを他国、特にドイツが引き継いでいくこととなります。以下はドイツに話が移ります。


ドイツはフランスに攻め込まれることでその科学・技術の水準の高さ、さらには自国の後進性を痛感します。これによってフィルヒョーなどが中心となりドイツ自然科学者・医学者協会Gesellschaft deutscher Naturforscher und Ärzte(略称GDNÄ)の大会をドイツの各地で行ないます。第1回は1822年のライプチィッヒにおけるものです。
当時のドイツでは大学が衰退していました。古くからの神学・法学・医学を上級学部とするものが各領邦国家にばらばらに存在していました。いわばGDNÄはこれに叛旗を翻したものだと言えます。18世紀になってもドイツの科学の中心は大学ではなく未だに学会やアカデミーでした。
また後で述べることになりますが、GDNÄの大きな特徴はフランスのエコール・ポリテクニクの技術などの実用性・有用性のための科学とは違って、「学問としての科学」を強調したことです。

さて衰退していたドイツの大学は1810年のベルリン大学設立によって大きな転換を迎えます。創立の中心人物はヴィルヘルム・フンボルトという言語学者であり、二大原則として「教える自由Lehrfreiheit」と「学ぶ自由Lernfreiheit」を保証し、国家や社会から独立させました。またこのことによってWissenschaft(ヴィッセンシャフト=学問)の探求に邁進することができると強調しました。
またフンボルトはこの大学の「孤独と自由」な環境によってWissenschaftを探求することによって人間形成としての純粋学問の探求が可能になると述べています。これは18世紀以来台頭してきた実利主義的教育観やフランス・ナポレオンの国家主義的な科学体制への反動と考えられます。これはドイツ観念論へと繋がります。
ドイツ観念論に関してまで述べてたら話が終わらないし、哲学やったことない人にとっては退屈(というか苦痛)なだけでしょうから全部抜き取りますが、これが大学を研究志向のものへと変えます。
まず一番大きかったのは哲学部philosophische Fakulätの台頭です。哲学部は中世以降の学芸学部(日本では教養学部)のことです。ここで7自由学芸を学び、そしてその上の三つの学部のどこかに進学するという仕組みになってます(大学の起源については前にも紹介した大学の起源などを参考のこと)。ドイツではこの哲学部を上級学部に昇格させたのです。この哲学部の中に現在では「科学」と呼ばれる諸分野が含まれていました。ようは科学が大学の中で上の方の地位に昇格したということです。また所属している人たちの率を見るとむしろ哲学部、その中でも自然科学に相当する分野は従来の三学部すら超えたと言えるほどです。またWissenschaftの探求という理念も科学を純粋な学問として推進することとなりました。(なおWWIの頃や19世紀後半になると少し事情が変わります。簡単に後述します)
また現在大学に行った人の多くが経験したことがあるであろう少人数制の専門トレーニングであるゼミはこの時期のドイツの産物です。ゼミナールSeminarですね。
それとこれは古くからのものがうまく作用したわけですが、大学はギルドとして成立したものです。なので徒弟制度のようなものが存在します。それが(ドイツでは)正教授、員外教授、私講師といった階層。この下に学生らは徒弟としてくっつくわけです。これが先生らが弟子として生徒を育てるのに大きな働きをしたということになります。

さてこのような背景の下でリービヒという人物が出てきます。まあ小学校とかで「リービッヒ冷却管」とか聞いたことがあるはず。あるいは植物に必要な三つの栄養として「チッソ・リン酸・カリ」とも教わるかと。これ提唱したのリービヒです。他にも業績多数。化学の世界の超有名人です。
まあ化学の内容に入っていったらさっぱりわからなくなるとおもうのでやめておき、教育制度のほうで話を進めましょう。なおこれからするリービヒの教育制度research schoolに関する基本文献としてMorrell, J. B., “The Chemists Breeders: The Research School of Liebig and Thomas Thomson”, Ambix , 19 (1972) pp. 1-58というのがあります。科学史をいくらかでもやる人間なら読んでないと相手にされないほど初期に読むような論文です。そして当然のことながら後続の研究がありますので。まあ簡単だし構成も綺麗な論文なので手に入れられる人は読むとよいかと。
ともかくリービヒのやった教育制度の面での偉大な功績とは次のようなものでした。
   大学において実験と教育を結合
それまで実験は実験。教育は教育でした。現代の私たちにはイメージしづらいかと思うので何となくではありますが――小中高の授業ってほとんど講義で、それの中に時々実験がある感じだったかと思います。もちろんどっちも同じ科目の中で行なわれるわけですが、理科実験室に行くのと普段の教室でいつものように先生の話を聞いているのとは気分が違うかと。でも大学に行くと理科系の人は必ず実験をして卒業論文(学校によっては卒業研究)を書き上げて提出することで学位をもらえるし、文科系の人でも何か研究をして独自の論文を提出しないといけません。ですがリービヒ以前はこのシステムはなかったのです。
つまりリービヒがこの制度をつくったということ。
リービヒ以前にも実験はあったし、教育はありました。でも大抵は実験は個人的に持ってるラボラトリー。教育は大学などで行なっていて別物でした。中世の大学の医学部なんかでは解剖は行なわれていましたが、教授らはガレノスのテキストを読むのみで実際の解剖は理髪外科師の仕事。学生は見てるだけ。というか図で見るときちんと見てるかどうかすら怪しかったりする。これが近代に入ると人体解剖学の革新者とされるヴェサリウスなどによって自らの手で解剖を行い、ガレノスの主張が正しいのかどうか調べるし、学生もそれを見たりしてます。が、少なくとも『学生のほうから』解剖することはありませんでした。
一応大学の学生を自分のラボに招きいれて実験させることはありましたし、(先に挙げたMorrellの論文で出てくるトマス・トムソンなど)すでに大学で実験と教育を結び付けようとしていた人はいます。しかしリービヒがその中でも特に成功を収めたというわけです。(なおリービヒがドイツで自分も研究室を持とうとしたのは、フランスに留学時にゲイ=リュサックの私設のラボに入れてもらい、それをドイツでもやろうとしたのがきっかけだとよく言われています。ゲイ=リュサックは――さっきどこの出身か書いたはず)
まあこれの理由を説明しようと試みた金字塔がMorrellの論文ということです。リービヒはまだ化学の分野で確立していなかった化学分析、特にようやく研究が始まったばかりの有機化学の分野でその方法を確立しました。またそれを学生にしっかりと教え、それだけでなく実際に実験を行なわせることで研究者に育て上げました。このプログラムと分析方法は簡明でそれまでは限られた能力ある人間しか研究者になれなかったのが、平凡な学生でもそれなりの成果を出し科学者や技術者になれたということが一番大きなことでした。またPh. D.を授与したことも大きなことで、当時のドイツで学校の先生になろうとするとこれを持ってないといけなかった。またアメリカなどの後進国からの留学生にとっては勲章にもなった。
またリービヒは先に出てきたようにドイツの大学のWissenschaftを探求することに専念すべしともした人物であり、自分の弟子たちにけして応用の方に行くことのないようにと念を押した人物でもあります。
いずれにせよリービヒの下で育った弟子やその孫弟子たちは「使徒」として世界各地に広まります。ドイツ国内だけに収まるのではなく、フランスやイギリス、アメリカ、そして日本にすら来ています。現在大学では自分で研究をし、そこに教授陣らの指導・教育が入ることで学位なり修士号、博士号を取るわけです。ようは「大学に行って卒業してるような人は全員リービヒの弟子」なわけです。それくらいリービヒの行なった革新というのは大きなわけです。(ちなみにリービヒのいたギーセン大学は彼の功績を讃えて、現在ではユストゥス・リービヒ・ギーセン大学と改称しています。大学HPへのリンク(独文)
このリービヒのやった実験と教育を結びつけたresearch schoolというものの誕生でもって第二の科学革命がなされたとされています。実際フランス革命の前とresearch schoolの誕生後を比べると教育制度の面でパラダイムが変わっていると考えられます。大学へ行かない人でも、小学校などでカリキュラムに実験は入っていますし、何らかの事情で学校に行けない人以外はすべてこの第二の科学革命で起きた教育制度の転換を受けていると考えていいでしょう。

なお途中でちらりと触れましたがドイツはその後Wissenschaftの探求から離れていきます。一番大きな要素は合成染料の登場とその工業の隆盛です。
最初の合成染料はパーキンという人物のつくったモーヴという紫色のアニリン系の染料です。天然の紫は日本でもそうですが貝からつくります。古代エジプトでは乱獲しすぎて絶滅寸前に追いやられたほど。とても貴重な色ですのでこれはヨーロッパ全土で大流行。「モーヴ熱」という社会現象を引き起こします。ちなみにですが――パーキンはリービヒの高弟アウグスト・ホフマンによってロンドン王立化学校で指導を受けていた人物。コールタールから医薬品であるキニーネの合成が可能かどうかを試験するように言われていた最中に偶然紫色の沈殿を発見したのが始まりです。パーキンはこれを工業化・商業化することを望み相談しますが、ホフマンはリービヒの敬虔な使徒でもあったし、他国に簡単に追い抜かれるとして反対します。が、結局パーキンは離反して独自に工場を設立。成功を収めます。ただホフマンの予想通り見事に他の国でも合成染料の研究と工業化が始まりますし、特にリービヒの弟子たちのいるドイツでは紺色のインディゴなど新しい染料もできます。工場もたくさんできます。
また第一次大戦までにはフリッツ・ハーバーによる大気中の窒素を固定する(アンモニアに変える)ハーバー・ボッシュ法によって安価にNを含むもの、すなわち火薬を合成できるようになります。またハーバーは毒ガスの発明者でもあり、第一次大戦では最初にドイツが、そして次々と他国も真似をして毒ガス戦が始まります。このためWWIのことをChemical Warとも言います。
(余談。インディゴもハーバー・ボッシュ法もBASF(Badische Anilin und Sodafabrik)という会社が関係してます。ここの会社の沿革もなっがいので割愛。面白いんですけどね)


さて、第二の科学革命はリービヒのresearch schoolによって終わるとするのが大半ですが、実際にはもう少し制度面では続きます。リービヒほどではないのですけれど。
今度はアメリカに舞台が移ります。まあここも話し始めたら長いので詳細はアメリカの大学 (講談社学術文庫)に譲るとして、一番重要なのは1876年にジョンズ・ホプキンス大学に大学院が置かれたこと。それまで大学は教育が主軸であったのが、大学院はそれとは別に研究中心の機関となるわけです。
これも研究者にとっては大きな出来事となるわけですし、私が思うにこれによって大学の在り方も変容したと思うのですが、まあここは難しい議論になりそうです。でも少なくとも「大学はとりあえず行っておくもの」くらいの低い認識に最近はなっている気はしますが。



ということで今回はこのくらいでおしまいです。
日本の大学制度の話とかもあります。明治維新以降、使節団が世界各地に送られてどのような教育制度にすべきか学ばれてきますし。ただし日本の大学がどこの国のものをモデルにしたのかは現在議論中。というか再燃中です。色々な史料が見つかってきて、憲法などもどこがモデルなのかという問いに色々な説が飛び交っています。私なりの意見もありますけど、話し始めたらキリがないですし整理もしきれてないので省きます。


てなわけで「科学革命」に関するお話でした。一応科学史の分野では基本中の基本なんですけど――難しかったですかね(汗) そしてここからさらに難しくします……(滝汗)
Commented by zattoukoneko at 2010-08-29 14:36
次回をどうするか実は悩み中。
他の細かい「科学革命」を取り扱っても面白いかなあと。生物学とか地質学とか。あるいは“環境問題”なんて概念がいつできたのかとか(ちなみに日本以外に「公害」という概念はなかったりします)。
ただ――長くなりそうですねえ。それぞれ数行というわけにもいかず、かといって記事を一つ一つ作っていったらどれだけの量になることやら……。
当初の予定では次は錬金術ですかね。まあ当然のように「等価交換」なんて出てこないのです(苦笑)
ま、ちょっと調整しまーす。錬金術の話もどこまで踏み込むか悩みどころなのでー。
by zattoukoneko | 2010-08-29 14:28 | 歴史 | Comments(1)