筒井康隆『時をかける少女』紹介

今回と次回の二回に分けて『時をかける少女』について紹介したいと思う。
ただ以前やった『とらドラ!』紹介の記事とは違っていて、見方がまったく異なっていて、それぞれ別物として扱おうと考えている。
今回は原作である筒井康隆の『時をかける少女』について。
次回は細田守が監督した『時をかける少女』、一般に『時かけ』と略されるものについてである。
筒井康隆のほうの『時をかける少女』ではどちらかというと文学史の話になる。どのような文学の歴史の中にこの作品は置かれていて、そして筒井康隆は何をしようとしたのかを見る。一方で細田守の『時かけ』では演出を見る。こちらの方では歴史などは見ない。したがって両者は同じタイトルを冠してはいるものの、私は記事としては別にして扱うつもりでいる(ただし共通点もあるため、そこは適宜触れることになる)。


さて、まずは『時をかける少女』の基本情報から。

この作品は1965年に学習研究社から出ていた「中学三年コース」の11月号で連載が始まり、66年の「高一コース」の5月号まで続いた作品である。長さとしては中編小説に相当する。

主人公は芳山和子という中学3年生の少女。ある日理科室で掃除を行なっていた際に、誰かが隣の部屋にいると感じ忍び込む。そこでラベンダーの匂いを嗅ぎ、意識を失ってしまう。その後彼女は時間跳躍、作中で「タイムリープ」と呼ばれる能力を身につけることとなる。この能力を使いながら、事の発端になった理科室にいた人物を探し始める――
というのがあらすじとなる。話を知らない人のためにこれ以上は伏せておこうと思う。ここから先は読んでのお楽しみというものだ。

さて次に作者である筒井康隆について触れたいのだが――彼については語るべきところが多すぎる。とても多才な人物であり、小説だけでなく演者や評論などで活躍している。またその経歴も波乱万丈と言って差し支えないだろう。この人について語っていたら、それこそ本が一冊書けてしまいそうなので、今回は必要最小限のところに収めたい。
筒井康隆は日本を代表するSF作家の一人であり、小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも言われる人間である。(なお、今回は「SF」と簡単に表記してしまう。これはすでにこれに慣れ親しんでいる人が多いためである。が、本来SFは蔑称であって、程度の低いScience Fictionに対して用いられるようになったという経緯がある。日本ではあまり意識されずに輸入されてしまったようではあるが、筒井康隆は(かなり幅広いが)どちらかというと強固なサイエンス・フィクションを書いているので、私としてはSF作家などとは呼称したくないのだが、先の述べた理由からこのこだわりは捨てることにする)
彼はただただSF小説を書いているわけではない。ときには純文学の方に偏ったりもするし、かなりナンセンスと思えるようなものを入れてきたりする。筒井康隆という人物は自らどんどん様々な表現に挑戦していっている人物だと私は思う。


さて、ではそんな筒井康隆の書いた『時をかける少女』とはどのような小説だったのだろうか?
先程あらすじで述べたように、これはSFに分類されるだろう。だが“犯人探し”や“トリック”が含まれている。ようはミステリー要素も含まれているのである。
現在ではこれはたいして目新しいことではないが、当時としてはなかなかに斬新だ(まったくなかったとは言わないが)。ここにも筒井康隆なりのチャレンジ精神が伺えるような気がする。
次にこの小説は「ジュブナイル小説」に分類されている。現在の日本では「ジュブナイル」という分野はなくなってしまったが、70年前後に一時期だけ現れた文学作品群である。
ただしこの日本の「ジュブナイル」と欧米の「juvenile」は別物と考えるべきだろう。このことについては以前の記事でいくらか述べた(ただしここはまだまだ研究途上である。私自身の研究の途中経過も含めて説明する)。欧米のjuvenileとは19世紀半ば頃から20世紀の初め頃に確立された文学である。対象とされているのは“青少年期”の“男の子”で、『トム・ソーヤの冒険』などが代表的である。ここではいかに男らしく振舞うべきかというのが説かれている。つまり、これらの著者たちは当時普及していた、社会的につくられた「男らしさ」を青少年に啓蒙するためにこれらの本を書いていたことになる。
juvenileが19世紀の半ば以降に盛んに出てきたのには理由がある。西欧諸国で男らしさの概念が確立してきたのは18世紀で、これよりずっと前だ。ここにはタイムラグがある。では何故19世紀半ばになって世の作家たちはこんなにもjuvenileを生み出してきたのだろうか? 実はこの時期に一気に都市化が進んだのである。主な原因は鉄道の発達によると言われている。鉄道と、駅ができると、その駅を中心に百貨店や工場、そしてそこに勤める人々の住宅が密集した。だがこれが男らしさのためには天敵だったのである。というのも男らしさの中には「人間の力で自然を支配する」という概念が含まれていた(これは『ターザン』などを思い浮かべてくれればわかりやすいだろうか?)。しかし肝心の自然がなくなってしまっては支配も何もあったものではない。実際この頃の青少年はかなりのジレンマを抱えていたということがわかっており、いかに室内で体を鍛えるかという雑誌が発刊されていたりする。こうした背景があり、せめて小説の中でだけでも自然との闘いというのに目を向けさせ、男らしさに目覚めさせようと大人たちは考えたのだと思われる(ただし19世紀後半になるにつれまた事情が変わってくるのだが、ここでは省略する)。
このように欧米のjuvenileには青少年に男らしさを教えるという明確な役目があった。しかしながら日本にはそのような社会的につくられた「男らしさ」がどうもほとんどなかったようなのである(ここは誰も研究していない。以前少し触れたが、これを調べるには幕末から現代に至るまでのあらゆる分野を網羅的に調査しなければならない)。
では筒井康隆らの書いていたジュブナイルとは何のためにあったのか?
それは単純に中高生に小説の面白さを教え、ゆくゆくは大人向けの小説も読めるように誘うことであった。したがって筒井康隆自身、『時をかける少女』は“子供向け”に書いている。これは掲載されていた雑誌を見ればわかることでもあるし、話を読んでみて、彼の他の作品と比べれば簡単にわかることでもある。もし読む人がこれをプロットに直せるならばぜひ挑戦してもらいたい。極めて単純である(ただしだからと言ってこれをそうそう真似して話を書けるようなレベルでもないが)。

『時をかける少女』は人気を博し、その後何度も何度も映像化されたり漫画化されたりしている。またこの名前を借りた作品(小説に限らず、楽曲も含む)も多数出ている。
しかし筒井康隆自身はこの作品を書いてみて、自分には向いていないと感じたようである。彼がこの作品にどの程度満足しているかどうかはわからないが、少なくとも「書くのが苦痛でしかなかった」と述べてはいる。
その後、この作品は何度も何度も映像化されているが、原作者の筒井康隆は満足していたのだろうか?
私はあまり納得がいっていなかったのではないかと思っている。というのは、次回紹介する細田守の『時かけ』の舞台挨拶上で「本当の意味での第二の『時をかける少女』だ」と述べているからであり、またこのときには自身の小説も宣伝するほど上機嫌であったからだ(ただし『時かけ』は原作とは主人公などが異なっているので、そういう意味で「第二の」と言ったのかもしれないが)。

さて、もう一度文学の歴史に戻ることにしよう。
日本においてジュブナイルは本当に一時的なものだった。現在はいくらか学研の「科学と学習」などに似たようなものが残っているくらいだろうか?(漫画の形になっていたりするが)
代わりに日本ではライトノベルが進出してきた。これはエンターテインメント色が極めて強く、また内容としても児童文学と大人向けの文学の中間的なものが多かった。
しかしこの影響力は大きすぎて、ライトノベルから他の文学へ目を向けない人も多数出てきてしまった。これは読み手だけでなく、書き手の方でもどうやらそのようだ。ライトノベルという枠組みの中でだけに収まり、新しい挑戦をしようとする作家がなかなか出てこない状態が続いている。
もちろん、優れた作家はどんどん色々なことに挑戦している。神坂一の『スレイヤーズ!』でキャラクター偏重に傾いてしまったところに、上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』を出してきた。この前や間、後にも様々なライトノベル作家がその枠組みを壊そうともがいている。
だが実際問題として、ライトノベルの頂点は電撃文庫であり、そしてそこに上遠野浩平がいる。彼を抜き去る作家はまだ出ていないということになるのだろう。影響を受けた作家というのはたくさんいるのだけれども……。
もちろん文学はライトノベルだけではないし、物語も小説に限られたものではない。様々な分野で各人が戦っていくのが望ましいと私は思っている。事実、上遠野浩平やその他のトップレベルの作家陣は様々なものをみて自分の領域で勝つことができないかと考えているようであるから。ライトノベルもあえて“ライト”ノベルという汚名を受けておこう。その中でできることは多分たくさんあるはずだ。ジュブナイルに代わるような、あるいはそれを越えるようなものになることが望まれているだろうと思う(このことは電撃文庫の最後にある角川歴彦の言葉を是非とも読んでもらいたい)。



さて、『時をかける少女』自体の紹介というよりは、その背景やその後の話のことのことが多くなってしまった。今回触れようと思ったのがそちらがメインだったのでご容赦願いたい。
だがやはり最後は『時をかける少女』で締めなければならないだろう。
この作品は(筒井康隆本人があまり納得がいっていないとしても)長いこと愛されてきた作品であり、それだけの理由がある。またジュブナイルとして中高生向けに書いたのだとしても、だからといって大人が読んで面白くないというわけでもないと思う。他の筒井康隆作品に比べれば表現や構造は単純だが、だからといって彼の力が活かされていないとも私は思わなかった。純粋に楽しく読ませてもらった、とても印象に残るいい作品である。

さて『時をかける少女』は現在角川つばさ文庫でいとうのいぢがカバーイラストを担当したものが一番新しいようだが、私としては『時かけ』とぜひとも繋げたいので貞本義行がイラストを書いた文庫のほうを紹介しておくことにする。『時かけ』は貞本義行のイラストを元にしているし、話がいくらかリンクしているので――
時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)
Commented by zattoukoneko at 2010-05-19 09:59
いくらか文章がかたいですかねえ?
まあ扱っている分野がそういうことだったということで。
次回の『時かけ』は……ちょっとだけ軽くなる予定です、ハイ。
by zattoukoneko | 2010-05-19 09:56 | | Comments(1)