お守りの中はなぜ見てはいけない?

お守りの中って見てはいけないとよく言われますよね? そして開けちゃった人は私だけではないはずw
中見た人は知ってると思いますけど、入っているのは大抵ただの木の板です(いや、一応御祈祷してもらってるはずですから「ただの」は失礼ですが)。
でもどうしてこれを見ちゃいけないんでしょう? 確かに中身が木の板だと知ったらがっかりはしますが、でもきちんと神社でつくられたものなのだから御利益は変わらない気がしませんか?
実は中を見てはいけないのはきちんとした理由があるのです。今回はそのお話。


人は大きな木や石を見つけたとき、そこに神秘的なものを感じるようです。これは世界中あちこちでそうですが(エアーズロックとか)、こと日本人においては顕著な気がします(八百万の神なんてのが出てくるのはそれが理由なのか、もしくはそれらの神々が信じられているから色々なものに神性を見出すか、それはわかりませんが)。
たとえば屋久杉なんてのは現在でも観光スポットになってます。もしくは次みたいな木を見つければ結構な数の人が何らかのものを感じるかと思います。
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で、日本人の面白いのはここからです。
大木はこのままでもとても神秘的です。ですがここに一工夫するとさらに神性が増した気がしてくるのです。
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つまりしめ縄とか、そういうものをくっつけるのです。そうすることで見た人は「ああ、この木には何かあるんだ」と思ってしまうわけです。なかなか不思議なものですね。
ですがこれからさらに神性を増す方法があります。それは――
   切っちゃうことです。
つまりなくしちゃうということ。代わりに切り株の前に鳥居を立てたり、あるいは最終的には周りを小屋で囲んでしまいます。外から見えなくしてしまうのです。
するとこれまた不思議なもので、「この中にはよっぽど大事なものが祀られているんだな」と思ってしまうわけです。これが神社というものです(もちろん神社のすべてが切り株を奉納しているわけではありません。鏡や剣を祀っているところもありますし、天皇の御霊など最初から目に見えないものを御神体にしているところもあります)。
神社の社の中には一般の方は入れないのが通常ですが、実は上のことが理由だったりします。つまり中は何もない。外から見てるだけだったら神秘的だったのに、中を見てしまったら「なあんだ」と思ってしまうわけです。その瞬間神社に対して感じていた神性はそぐなわれてしまうのです。

これがお守りにも言えるわけです。
「見てはいけない」と中身を隠されるからこそ、それを持つ人はそこに神の力を見出します。しかし中を見てしまえばそれを信じる力がなくなってしまうわけです。いくら祈祷を受けた木の板(この木の板も厳選されて選ばれているものです)が入っていようと、それに対する信仰心が薄れてしまえばお守りの効果を期待しなくなってしまいます。ですから「中は見てはいけない」と言われ、それを守るようにとされているのです。


さて、中を見てはいけないのは何もお守りや神社の社殿だけではありません。代表的なものが日本には一つあるのです。
それは「皇室」です。
私たち一般の人間は皇室の方々がどのような暮らしをしているのかあまり知りません。多少ニュースなどで流れてきはします。ですが普段どんな本を読むのかとか、どういう勉強をしているのかとか、あるいはどんな悪事を働いているのか、なんてことは流れてきません。特に一番最後のスキャンダルに該当するものはまったくといっていいほど世間に知らされることはありません(知っている人はもちろんいますし、私自身も昔のことならちょっとだけわかります)。
このような体制が取られているのは日本だけです。イギリス王室なんかはどんどんスキャンダルが報じられ、本にされて出版されています。パパラッチなんてのがよく王室の人間を追い回してますよね? そして浮気の現場なんてのを写真に収めては世界中にばらまいています。
しかし日本にはそれがない。右翼の人たちが怖いから――というのも少しはあるみたいですが――というのがすべての理由ではありません。日本人にとって皇室、およびその中の人たちというのはお守りや神社の中身に相当しているわけです。

確かに戦後の憲法で天皇も一般の人と同じ人間であるとされました。それだけ見ると天皇からは神性が取り払われてしまったかのように思えます。
ですが同じ憲法に、天皇は日本人すべての象徴である、と書かれています。つまり人でありながらまだ神聖さを保っているということです。
――と、こんなことを言うと左翼寄りの人たちが「じゃあ皇室の中を暴こう」なんて言い出しそうです(そして実際にやっている人たちがいますが)。昔の悪しき日本を引きずってる!、なんて言いながら。
ですが元々戦後の日本国憲法の草案は日本人が書き、GHQによって手直しが加えられたものです(以前ちょっと触れました)。このときにGHQ側から要求されたのが天皇を以前と同様に高い位置に置くということでした。
GHQは日中戦争、太平洋戦争、大東亜戦争でぼろぼろに疲弊した日本の状況を見て、ここに住む人たちの支えとなるようなものを置かなければならないと考えたのです。さもなければ日本国はアイデンティティを失い、国としての形を失うだろうと考えたのです。
支えとするのは天皇でなくてもよかったかもしれません(そして草案を考えた日本人自身は天皇のことを省いていました)。ですが復興を急がねばならず、そして特定の強い宗教を持たない日本においてはそれまで使われてきた「天皇」が据えるのには早かったわけです。
こうした経緯から天皇・皇室は日本国の象徴に配され、そしてその中身を見ることを禁じられました。一般の人間ではありながら、しかしそこに神性を保たせたというわけです(まるでただの木の板をお守りと言っているのと変わらないではないですか)。

皇室の方々はこのような難しいことを要求されています。普通の人間だと言われながら、神性も保たないといけないわけです。それはそれはとても窮屈な生活でしょう。生まれながらにしてそうした生き方を強いられ、それを守ってきている彼ら彼女らには敬意の念しか表わすことしかできません。
――と、私は皇室に対して思っているわけですが、現在の日本人にどれだけこういう思いの人がいることでしょう?
皇室なんてどうでもいいや、なんて感じている人がかなりの数にのぼるかもしれません。それは右翼の人にも言えることのような気がします。
私はまだ幼かったけれど、昭和天皇が危篤になり、お亡くなりになる前のメディアの報道はひどいものでした。「何時何分に下血」なんていうのを逐一ニュースにしてたわけです。心配しているからそういう話を流すんだ、と言うかもしれませんが、そこには皇室が守り続けてきた神性がない気がします。右翼の人たちはあのとき各テレビ局を襲撃すべきだったんじゃないでしょうか?
(特に昭和天皇は「天皇」という立場を最初から最後まで貫いた人物でもあります。神性を守るためにか、その伝記などは書かれていませんが、第二次大戦に突入するときは帝国憲法の定めに則り、議会の決定に従い参戦を認めました。しかし昭和天皇本人は反戦派だったことは有名です。でも「天皇」だから議会の決定を優先し、私情を消したのです。そうしなければ憲法に違反することですから――なおこれに対して明治天皇は私情を貫こうとして何度も議会と衝突しています。そして終戦の際にポツダム宣言を受け入れるかどうかを問われ――議会で決められなかったので――ここで唯一自分から戦争を終わらせるという決定を下します。そして玉音放送が行われました。終戦後は象徴天皇とされ、また重要な任務を背負わされるわけです。昭和天皇は生物学の研究者でもあったので、そちらの側面で一般の学者のように振る舞いたかったかもしれません――これは私の想像ですが。けれどそれに不平を洩らすことなく人生の最後まで「天皇」として生きた人物なのです)


さてお守りの話が随分と大きな話になってしまいました。
けれど一度考えてみるといいのではないかと思うのです。私たち日本人はまだきちんと「お守り」を持っていますか?、ということを。
Commented by zattoukoneko at 2010-03-16 07:28
日にちの感覚が狂ってました。
なんと連日の更新。二日くらい空けたつもりでいたんですが、ほとんど休んでないので今が何日かわからなくなってました。
そしてもう16日?
やばい、三月中にあげないといけない論文がΣ(= =)!!
by zattoukoneko | 2010-03-16 06:52 | 社会・経済 | Comments(1)