【小説】『絶体零度』1-2-1


1-2-1

「成明~。こんな夜中に何の用があるっていうのさー?」
ふらふらとした声と足取りで店の敷居を跨いできたのは瑠璃と同じく大学時代からの友人である萩原恭介という男だった。撚れた背広姿で現れた彼に瑠璃が苦言を呈する。
「また随分と酒臭いね。噂で聞くところによるとここ最近毎晩のように飲み歩いているらしいじゃないか。仕事が終わったらさっさと家に帰ったらどうだい? 私たちと違って妻子持ちなんだし」
「妻子持ちだからこそ外で飲むんじゃないか。家に帰ったらせいぜい第三のビールを一缶でおしまいにされちゃうよ」
「贅沢すぎる悩みだね。体を悪くすることを心配してくれてるんじゃないか。まあ君の稼ぎも大したことないせいもあるだろうけどね」
 そう瑠璃は手厳しく言いながら、恭介が鞄から取り出したスポーツドリンクの入ったペットボトルを素早く奪う。そしてお茶を持ってくるべく店の奥へと姿を消した。
 彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認してから小声で恭介がぼやく。
「何で僕の飲み物を奪うかなあ。お酒じゃないんだから別にいいと思うんだけど」
「スポーツドリンクというものは体内に水分を吸収するのを促進するからね。入っている電解質がアルコールの吸収も手助けしてしまうのさ。スポーツドリンク割りというのもあるにはあるけどね、でも見たところ恭介はすでに酩酊期を越えて泥酔期という感じがする。二日酔いのときは脱水症状を起こしているからスポーツドリンクを飲むのもそれなりに効果はある。しかし今はまだ体内にアルコールが残っている状態だろうから、利尿作用の高いお茶などの方がいいのさ」
「ふーん、そういうものなのかー。みんな色々考えながら飲んでるんだなぁ……」
 恭介は語尾を虚ろなものにしながら目の前にあった小さなテーブルに身を突っ伏した。そしてそのまま寝息を立て始める。
 だがそんな彼の頭をお茶の入った湯飲みが小突いた。
「気持ちよく寝れるようなら寝かしてやりたいところだけどね。ただ今回は大事な用件があって呼び出したんだ。もうしばらく辛抱しておくれよ」
 そうして戻ってきた瑠璃は安っぽい、しかしきちんと茶葉の香りがする陶器を恭介の手にしっかりと持たせた。恭介は眠そうにしながらも素直に茶をすする。そしてほっと一息吐くと訊いてきた。
「それで僕に何の用? 明日も仕事だから今日は一緒に飲めないよー」
 瑠璃は「もうすでに飲んだくれているじゃないか」と呆れた声で言ってから、
「話は当事者本人から聞くのが一番だろう。……どうも今回はその当事者の記憶があやふやだが、そういうことも含めて本人にしか語れないこともあるものだからね」
 彼女はそう述べると私の方に顔を向けた。それに合わせて恭介もこちらを見やる。
「何かあったの?」
 先程よりは大分しっかりとしているがどうにも焦点の定まらない彼の視線を受け止めながら私はしばし考え込んだ。瑠璃も口にしたことだが私の記憶は曖昧のようである。一方で自分自身ではその自覚に欠けていて何がはっきりとした事実なのか明瞭でないのだ。そのためにどのように話をすれば恭介にうまく伝わるかわからない。
 結局端的に伝えるのが一番だろうと思い私は口を開いた。
「実は若い女の子を殺してしまってね」
 恭介は湯飲みを両手に持ち、手のひらに伝わる茶の温度を堪能してから、
「――え?」
 傍にいた瑠璃がこめかみを押さえる。
「飯田君。君は物の話し方というものをもう一度高校にでも入って勉強してくるべきじゃないかな? 事実をそのまま述べるだけでは相手が混乱するだけだぞ」
「瑠璃は難しいことを言うね。事実を述べるのが駄目だというのなら一体何を喋ればいいんだい?」
「事実を述べることが駄目だと言っているわけではないだろう。人の話をきちんと聞かないね、君は。相手には相手の予備知識や心構えというものがあり、それは人それぞれなのだからそれを考慮して話し方を変えろと私は述べているんじゃないか」
 彼女の言っていることはもっともである。しかしながらだ。彼女が重視することの多い感情や気持ちというものを頭の中で理解するのはとても難しいものであり、だからこそ実践するのも難しいと言えるのではないないかと私はいつも頭を悩ませるのである。
 だが幸か不幸か今回は瑠璃がいてくれたおかげで恭介も次第に事態が飲み込めたらしい。湯飲みを割らないようにゆっくりとテーブルに置きながら訊いてきた。
「成明が人を殺したって、それ……本当なの?」
 その問いかけに私が頷いて応えると、恭介は頭を両腕で抱えて机に突っ伏してしまった。
 しばらくしてよろよろとした口調で――それは酔いによるものではなく――さらに問いを重ねてきた。
「成明は僕が何の仕事をしているか知っているよね?」
「もちろんだとも。だから君を呼んだのさ」
 私の返答に恭介は肘をテーブルにつき、眉間を掴んで落ちそうになる頭を支えた。苦しそうに呻く。
「なら僕はその仕事をしなければならない。君が親しい友人だとしても例外はないよ。刑事が私情を挿むことは許されないことだから」
 そう、恭介は刑事として働いている。ただよくドラマで耳にする捜査第一課に所属しているわけでもないし、鑑識をやっているわけでもない。仕事柄やっている内容を詳しく教えてもらったことはないが、生活安全課なるところに勤務しているそうだ。けれども所属は関係なく、そして本来ならば職業すらも関係なく、殺人を犯した者は警察に突き出されるのが通常のことだろう。
 恭介が自分の仕事を遂行するというのならばそれも仕方のないことだろう。私にも重罪を犯したのだという自覚はあるのだ。
「何を寝ぼけているんだい。君は自覚がうんぬんの前に記憶すら曖昧じゃないか。萩原君にしょっ引かれるにはちと早すぎるだろう」
 けれど瑠璃が心底馬鹿にしたような声音で注意してきた。恭介も重そうにしていた頭を持ち上げ、しかし眉間に深い皺を刻みながら尋ねてきた。
「どういうこと? 成明が人を殺したのかどうかわからないわけ?」
「飯田君本人は殺したと思っているようだけれどね。でも話を聞いても埒があかないのさ。だからそのことも踏まえて専門家である君を呼び出したわけさ」
「別に殺人が専門というわけじゃないんだけどなあ」
 恭介はそう一つぼやきを入れ、代わりに冷静さを少し取り戻したようだった。
「で、何がどうなってるの? 成明が殺人現場に出くわしたとかそういうことなのかな?」
 瑠璃が私の方を一瞥する。
「本人が話をすべきだと私は思うのだけれどね。しかし彼に任せておいても話が進まない気もする。私が代わりにあらましを説明するよ」
 そう断りを入れると彼女が恭介の問いに答え始めた。
「そういうのもわからないのさ。飯田君はどうも記憶が曖昧らしい。彼は自分の手で人の首を締め上げたと思っているようだが、よくよく話を聞いてみるとその直前に何をしていたのか実はわからない。私はその場に居合わせたわけではないし、だからまずは他の人にも相談しようかと考えたわけさ」
「なるほどね、それで僕が選ばれたと。一応『専門家』でありながら成明の『友人』でもある僕なら話を最後まできちんと聞くだろうと、そういうことだ?」
「萩原君は話がわかるね。本当かどうかは知らないが、警察というものはこうと決め付けたら意地でもそれを貫き通すところだという話も耳にするから念のためというやつさ」
 瑠璃の言葉に恭介は苦笑いを浮かべる。
「言われるほどひどくはないと思うけどなあ。むしろそれを刑事である僕に平気な顔して言う瑠璃が怖いよ」
 それから恭介はすでに温くなっていたお茶をぐいっとあおった。湯飲みを空にし、一息ついてから再び話し出す。
「じゃあ君らの言う『専門家』として、そして『友人』として話を聞いてみよう。職務としては公私混同はやっちゃいけないことだけど、見事に瑠璃にそんなことは無理だろうと先手を打たれちゃったことだしね」
 彼の言葉に瑠璃は満足そうに頷いた。そのやり取りを傍で聞きながら、そこまで考えて恭介を呼んだ瑠璃の思惑に私は舌を巻くしかなかった。
「だが私としては自分自身が経験した事実と、惚けている飯田君の代わりに彼から聞いたことを伝えるしかできないね。とりあえず二時間ほど前に飯田君が若い娘の死体を私のところに運んできたのさ。そこから話を始めようか」
 瑠璃は私がその死体の扱いに困って彼女の元を訪れたことや、その子の首を持っていた記憶はあるが肝心の殺したときの記憶がないこと。そしてやけに平静であり過ぎることを恭介に伝えていった。そして最後に恭介を呼び出す直前の出来事で話を終える。
「――というわけで私は飯田君に少しくらい記憶を取り戻すんじゃないかと死んだ娘の顔でも見て来いと言ったわけさ。ところがどうだい。彼が奥の部屋に行ってみたら死体がどこにもなかったのさ」
 話を聞き終えた恭介は、しかし最後の部分に首を傾げる。
「うん? 遺体がなくなってるって?」
 彼は瑠璃が首肯するのを確認すると、しばらくの間考え込んだ。その頃にはもう酔いも醒めていたように見える。
「確かに成明の言葉――と言っても瑠璃からの又聞きだけど、それを信じるなら彼が実際にその女の子を殺したかどうかははっきりとしないね。でも成明が嘘を言っている可能性もあるし、動機がよくわからないけれど瑠璃に殺した相手の遺体を見せてから隙を見てどこかに隠したのかもしれない」
「飯田君を死体のある部屋に向かわせたのは私だし、呼ばれて私が行くまでの時間から考えて彼がアレをどこかにやるのは無理だと思うけどね」
 言われて恭介は瑠璃の方を見やる。
「部屋に向かったきっかけは瑠璃の言葉かもしれない。しかしそれはきっかけなだけで他の機会を窺っていたという可能性はないかな? それに成明はここに何度も出入りしている。計画的なものだとすれば遺体をごく短時間でどこかにやる方法を考えていたかもしれない」
 恭介はそこまで述べると真剣な視線を私の方に向けた。そして確認するように告げる。
「友人としては成明のことを疑いたいわけじゃないけど、だからといって犯罪を見逃すわけにもいかない。まずは遺体が置いてあったという部屋などを見て、それから僕の動き方を決めさせてもらうよ」


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# by zattoukoneko | 2011-04-24 04:19 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-1-2


1-1-2

 瑠璃はひとしきり遺体のある部屋を見てから細くて長い煙を口から吐き出した。その先端がそう高くはない天井に届くのを待ってから彼女は私に質問を投げかけてきた。
「また何で君は人殺しなんてしたのかな? 見たところまだ二十歳かそこらの娘じゃないか。知り合いかい?」
 問いかけを受けて頭の中にあるであろう記憶の糸を探ってみる。だがそれは蜘蛛の糸よりあっけなく切れてしまい、だから私は肩を竦めて答える。
「知らない子だと思うけどね。でも曖昧だなあ。何せ殺したことすら覚えちゃいやしないんだから」
「……君は自分の言っていることがわかっているのかい?」
「わかっているつもりだけどね」
 私は手元にあるぷっつりと切れた記憶の糸をいじりながら言葉を続けた。
「気付いたら女の子の首を力いっぱい絞めていた。手首にすでに冷たくなった涎が垂れていて、それが夜気で余計に冷たくなっていたから我に返ったという感じかな。その後どのように片付けをしたらいいのかわからなかったからここに来たんだ。瑠璃ならそういうことも知ってるんじゃないかと思ってね」
 瑠璃がキセルを持った左手を眉間に押し当てた。
「やっぱりわかってないじゃないか。まったく君というやつは」
 彼女は眉間から離した手でキセルを教鞭に変える。
「普通ならね、人殺しなんて大層なことをしでかしたんだからその記憶は鮮明に持っているものだろう? いや私だって人殺しなんかしたことはないからはっきりとそうだとは言えないさ。でも誰か人を嫌ったり憎んだ記憶というものはそうそう消えないものじゃないか」
「確かに。人の憎悪というのはかなり根深く恐ろしいものだね。けれども実際の問題として記憶がないんだ。思い出せないんだよ」
 こればかりはどうしようもない気がする。瑠璃の言うように人殺しなんていうのはセンセーショナルな出来事だ。もしかしたら大量殺人をしているような人物なら一つ一つの人殺しの記憶は薄れていってしまうかもしれない。だがしかしながら私は殺人なるものを犯したのは今回が初めてなのだ。
「もしかしたら君にとってはセンセーショナル過ぎたのかもしれないね。それで無意識のうちに記憶を脳の奥底にしまいこんでいる」
 そこまで言って瑠璃は「いや」と言葉を挟んだ。
「その割には殺した直後のことはよく覚えているね。それにそこで我に返ったなら気が動転しそうなものだ。なのに君は冷静に自分が殺したことを認め、厄介なことに私が助けになってくれるのではなかろうかと考えてここを訪れた。今も落ち着いているようにしか見えないしね。もしかしたら人を殺したことうんぬんよりも……それに至った経緯や理由が君の記憶を蘇らせることを阻んでいるのではないかい?」
 なるほど、相変わらず瑠璃の分析は明晰だ。私はついに手を血で染めてしまったが、それ以前の私や瑠璃は殺人やその他の重罪を犯したことはない。だから所詮は小説やドラマからの類推でしかない。けれども何かの拍子に感情的に人を殺め、ふと我に返ったとするならば少なからず動揺するのは自然なことだと思われる。
「けれど瑠璃。計画的な犯行だとしたらどうだろうか? それならば動揺することもないのではないかと思うのだけれど」
「計画的なものだったら殺人前の記憶もはっきりと持っているのが自然だと私は考えるがね。第一殺した娘のことを知らないと言っていたのは他ならぬ君自身ではないか。それなのに『計画的』だと言うのかい? 実際のところは君が忘れているだけで前々からの知人だったかもしれないが、そのことすら思い出せなくなるような理由があるんじゃないかと私は言っているんだよ」
 瑠璃はそこまで言うと私から視線を外し虚空をぼんやりと眺めた。目をやった先に何かがあるわけではないのだが、あえて何もないところを見ることで彼女は何事かを考えている様子だった。――いや、瑠璃は思考を重ねていくタイプの人間ではない。おそらくは自分の気持ちを探っているのだろう。何もないからこそ自分の内側に深く入ることが可能になるというのはよくあることだ。寝ようとして電気を消し、布団の中に入ってからアイデアがいくつも湧き出てくるように。
 ただそれらのアイデアはきちんとメモしないと纏まってくれないもので、しばらくしてから瑠璃の呟き出した言葉もはっきりとしないものであった。台詞の中に『君』と入っているものの、視線は相変わらず店の中空を向いており、私に話しかけているというよりは独り言に限りなく近かった。
「君が人を殺したというのは大変なことだと思うよ。けれどそれ以上にどうして君がそのようなことをしたのかが私は気になっているし、そしてほとんど気に留めていない様が心配なんだ」
 彼女のような人間が身近にいるというのはとても幸せなことなのだろう。芯が強く、そして周りの人を大事に思ってくれている。瑠璃の言葉は理屈で固められたものではないがけして揺らぐことがない。だから私は彼女を信頼しているのだ。
 瑠璃が目の焦点を私に再び合わせる。
「重罪を犯した君を社会のルールに従って警察に突き出すか、それとも私もその片棒を背負ってやるかについては少し考える時間をもらおうか。意外だろうが私だって少なからず動揺してるんだよ。対して君は気が動転していないのが不気味すぎる。今のうちに殺した相手のご尊顔でも拝んでくるといい。少しくらいは何か思い出すかもしれないしね」
 彼女の言葉ももっともだと思った。ただ『社会のルールに従って警察に突き出す』ということを瑠璃がすることはないだろう。彼女には彼女なりの守るべき規範があり、社会のルールなどという誰が作ったのかも定かではないものに盲従しない。今のところはその瑠璃自身の規範からしてどのような行動をすべきか『考える時間』が必要だということであり、そして同時に私のことも案じてくれているのだ。そのことがわかったから私は素直に古びた座椅子から腰を上げた。
 瑠璃の所有している店は自宅も兼ねている。ただ都内中心部に近いため坪面積は広いとは言えない。家屋のほとんどがガラクタ同然の品々が占拠する店に割り当てられており、その奥に和室が二つと手洗いがあるだけだ。風呂などという豪勢なものは存在しない。
 ともかく和室の一つは主である瑠璃の寝室になっており、もう一つの部屋が時折彼女や他の友人と飲むときなどに使われる。今はそちらの部屋に私が運んできた女の死体が横にされているはずだ。
 きしきしと軋む古い木製の廊下をほんの少し歩き、私は目的の部屋の襖を開けた。室内を覗き込み、そうしてから瑠璃を呼んだ。
 やってきた瑠璃も部屋の中を見回し訝しげな表情を浮かべる。
「……君がやったのかい?」
 彼女の言葉に私は首を横に振る。
 部屋にあるべきはずの死体は忽然と消えていた。


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# by zattoukoneko | 2011-04-20 23:40 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-1-1


1-1-1

 「寒さ」というものはそもそも何だろうか?
 私たちは常日頃から寒いだの暑いだのと言っている。仮に「北海道は東京より寒いというのは真である」というような命題を立てると大抵の人は「真である」と言って頷くことだろう。しかしだ。「寒さ」というのは体感するものである。ならば気温を見ただけではどちらが寒いかなど正確には答えられない。湿度や風をその身に実際に受けなければわからないことのはずである。現代社会では東京と北海道を行き来するのはさほど大変ではなく、せいぜい数時間の差だ。現地に行けばこの「寒さ」を比較できると主張する人もいるかもしれない。だがこの数時間に東京で感じていた「寒さ」は変化してしまうかもしれないのだ。したがって『比較』によって「寒さ」というものを知ることは私たちにはできないということになる。
 ならば科学的に考察してみよう。温度が低くなれば分子の動きは鈍くなる。これにより人の肌に分子が衝突する頻度は落ち、したがって神経が温度を感知することも少なくなる。そして神経を伝わって電気信号が脳に送られ熱を認知し、認識する。このようにとても機械的で単純な説明で「寒さ」を説明しようとするのが科学という得体の知れないものだ。ではその科学をもう少しやってみよう。絶対零度の環境に人間を置いてみたと仮定しよう。絶対零度ではすべての分子は動きを停止する。このとき人の肌に衝突する分子はない。したがって神経がその存在を感知することはない。そして重要なことにその神経すら動くことはない。脳は温度だけでなくありとあらゆるものを認知・認識することができない状態にある。これで果たして「寒さ」という感情に根ざしたものを知ることができると言えるだろうか?
「つまり何かな? 君はそこに転がっている少女が今寒いと感じてはいないんじゃないかと言いたいのかな?」
 古ぼけた骨董品店の椅子に座って思案していた私に対して店主である夜柄瑠璃は面倒くさそうに問いかけてきた。ろくに掃除もせず埃の積もった商品と同じくフケを乗せてぼさぼさになった髪に、さらに咥え煙草から立ち上らせる紫煙を浴びせながら彼女はこちらを見ている。黒曜石のような瞳の色は、もしかしたら身なりを整えれば年相応の若さと他人より優れた美貌を齎すかもしれないとも思わせるのであるが、異性である私の前でも肩の半ばまではだけさせている着物の襟がそのようなことは実現するはずがないと如実に物語っていた。それに大学で知り合ってもう二十年以上の付き合いをしている私にとってそれはどうでもいいことでもあった。
「別にそういうことではないさ。ただふと気になってね。それでちょっと思案してみただけのことだよ」
「そうかい。私はてっきり何かの厭味かと思ったところだったね。何せ君が突然持ってきたアレに『寒そうだから』と毛布をかけて帰ってきてみたら、当の本人はぶつぶつと何やらご大層なことを考えておられる。しかも内容が内容だ。疑いたくなる私の気持ちもわかるってものではないかい?」
 瑠璃はキセルを指に挟み口から離すと、溜め息と共に煙を盛大に吐き出した。狭く薄暗い部屋の視界がさらに悪くなる。それでもくっきりと見える瑠璃の眉間の皺に私は肩を竦めた。
「瑠璃だって私とは長い付き合いじゃないか。ふと思いついたことを場所も時間も問わずに哲学するのはいつものことだろう」
「君のは『哲学』とは言わないよ、ただの妄想さ。実際に哲学をやっている人間が聞いたら激怒するか鼻で笑うだろうね」
 そう一通り貶すと、一転して思案する表情になった。口に愛用のキセルを戻すと、右上方を眺めやる。そのままぼんやりと喋り始めた。
「だがちょいと私もその妄想、良く言って哲学もどきをやらせてもらうことにしようかね」
 それから訥々と、まったく慣れていないことがすぐにわかる口調で話を進めた。
「君は認知やら認識がどうこうする前に、神経が外界からの影響を受けて興奮するとか言っていたね。この考えが合ってるかどうかなんてのは私にはわからないが、まあそんなことはどうでもいい。ともかくこれを前提として話を進めようじゃないか。君は突然に物思いに耽るという悪い癖を持っている。しかし先の論に従うならば物事を空想でもいいから考え始めるには何らかの刺激となる材料が必要ということになるのだろう? まあそれはそれまでに読み聞きして習得した知識だったり経験したことだったりするのだろうさ。だけどね、私が思うに人の覚えている経験なんてものはよっぽど印象深いものでないとすぐに消えちまうもんさ。殊更にだね、君のような突発妄想癖のある人間にとって使われる経験というのは本当に近々のものではないかと、そんなふうに考えるんだよ」
 なるほど彼女の考えももっともらしい気がする。何かを思索する場合には色々な引き出しからアイデアを出してはしまい、出してはしまいを繰り返すのは確かだ。だがそのそもそもの最初はどのようにして起こるのか。しかもそれが突発的な思い付きから始まるものの場合、そこにはどのようなメカニズムが働いているのだろうか。無から有が生まれるなどありえるはずがない。
 しかしながら近頃は秋もめっきりと深くなり、夜や早朝には冬の気配すらする。私の生まれ故郷であればそろそろ近所にあった防水用の溜め池に薄い氷ができる時節である。そのことを考えれば私が「寒さ」なるものに思索を巡らせて何もおかしいことはないと思える。
「本当にそうかね?」
 だが瑠璃は私をしかと見つめ問いかけてきた。
「どういう意味だい、瑠璃?」
 私の先程の考えは何か間違っていただろうか。それとも瑠璃の考えを読み間違えてしまっていただろうか?
 問い返した私に瑠璃はキセルの雁首を真っ直ぐに向ける。それを教鞭のようにしながら彼女は説教を始めた。
「飯田成明君。君は一流の大学を卒業して、今ではジャーナリストとして立派に働いている身ではないか。まあ話を聞いている限りだと仕事内容はただの雑用のようなものばかりのようだが、けれど私のように落ちぶれた人間じゃない。きちんとした思考能力と洞察力を持っていると思っているのだが、どうもそれを駆使する力にかけているようだ。ついでに言うなら判断力もないね、理由は自分でもよくよくわかっていると思うけれども」
 この人物は物事を考えるのはどうも苦手なようだが、他人に厳しく物を言う能力には長けているのは確かだ。しかもそれが正鵠を射ているものだから人が周りに寄りつかないときた。彼女の忠告をきちんと聞こうとする人物でないと長い付き合いには発展しない。
 しかしながら私はその類稀な人間ではあるわけで、それは瑠璃との付き合いの年月を数えれば自明というものだろう。ただし彼女の忠告を未だに活かせないから何度も説教を喰らい、付き合いが終わらないのだとも言えるだろうが。
「まったくもってその通りだね。君はその時々に急に考え出すことはあるが、それを持続させることや後々使うことが少なすぎる。だから大きな成功を収められないし、過ちを犯すこともある」
 瑠璃はそこで説教を中断すると、吸い口と共に話を元の場所に戻した。
「君はこれまでの人生で何回の秋や冬を過ごしてきたのかな? 寒い時期なんて幾度となく繰り返しているじゃないか。にも拘らず『寒い』ということに関して考えるのは今回が初めてとでもいうことになるのかな? それは私のでっち上げた論からすればとても奇怪なことのように思えるのだが?」
 なるほど確かに瑠璃の言うとおりだ。私はこれまで特別『寒い』ということが何なのか考えたことはなかった。単純に時期的な寒さからだけでそれを考えようと思ったということではないという証である。
 では他の何が要因だというのか?
 瑠璃がその問いに一つの可能性を提示する。
「だから話は最初に戻るのさ。君は……やっぱりアレのことを考えていたのではないのかい?」
 言いながら顔の向きを変え店の奥にある住居の方を眺めやった。ここからは壁があるために見えないが、とある一室に一人の若い女性が横になっている。
 私が殺してここに運んできたものだ。


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# by zattoukoneko | 2011-04-17 05:32 | 小説 | Comments(0)

小説書くよー。

ブログ更新めっさ止まっているぅぅぅうううう!!!
とまずは叫んで始めて誤魔化してみる。はい、ダメですね。ごめんなさい<(_ _)>
何気に忙しく、単発ネタもなかなか思いつかなかったので更新が滞っていました。長くなりそうなものはいくつか案があったのですが、次にやりたい企画物の開始が遅くなると自分の首をさらに締め上げそうだったので止まっていたという感じになります。
で。その次にやりたいものというのが――
   「小説書くよー」
だったりするわけです。

実はネット上での小説公開に関して私はあまり乗り気ではなかったのですが、なかなか会えない友人や先輩から「やれや、ゴラァ!」という脅しを受けまして泣く泣くやることに(涙) はい嘘です、ごめんなさいm(_ _)m
まあけれど実際に長い小説を読みたいというありがたいお言葉はいくつももらっていまして、ありがたいことに海外の方まで私の掌編を読もうと奮闘してくれたそうな(“読めた”ではないところにGoogleの翻訳機能の限界を一緒になって感じたという……)。
ただネットで書くとほとんどは横書きになってしまいますよね。それにブラウザによって表示も変わってしまうという罠があったり。結構どのように文章が見えるのか気にする人なのでかなりそこは悩むのです。またブログの性質上『文章は上から下に読んでいくのに、一つ一つの記事は下から上に積み重なっていく』というのが一番大きなトラップ!! 声を頂いている長めのものとなると一つの記事には収まりませんからね。なので気が進まないという。ちなみにHPとかはさらに管理が面倒なのでやる気はありませんことよ?!(ぇ

ただせっかく要望の声ももらっていることですし、ぶっちゃけますとネット上で小説を公開している人で何人かとても面白いものを書いている人を見つけたので対抗心を燃やしたという(ぇえ?
まあ半分くらいは本当にその通りだったりするのですが(半分?)見ているうちに色々と考えさせられまして。このブログに書ける一つの記事の文章量に限界があるというのは逆に楽しめるのではないかと。
つまり新聞などにも小説の連載などがありますが、ああいう感じになるのかなーと考えたわけです。ただし新聞の連載より遥かに一つの記事が長いですが。
現在その細切れになることを意識しながらの小説連載を企画しています。長めの小説を考えているのですが、一つの記事に書ける分量とそれの更新間隔を考え中編くらいがいいかなと思っています(原稿用紙換算で150枚程度を予定。更新間隔は週に二回程度かなぁ……)。
今はざっとした案を出して『これでいけるかなー』という段階です。ただこういう形式は初めてやる上に、どうせやるなら普段書かないような内容のものを――などと考えてしまったために苦戦しているというorz


ということで。
   言ってしまったらやるしかなくなるよね!?
と自分を追い詰めてみる記事なのでしたーw
# by zattoukoneko | 2011-04-13 07:36 | 雑記 | Comments(2)

上を向いて歩こう?

「上を向いて歩こう」という歌があります。坂本九の大ヒット曲ですね。でもこの言葉を聞いて私は毎回思うのですけれど――

   上を向いて歩いてると工事で開いてた穴に落ちますよ?(ぇ

でも足元が疎かになるのは確かだと思うのです。ですが下ばかり見ていてもダメだと思うのです。だって――

   電柱に気付かずぶつかってしまいますよ?(ぇ

結局のところ私が思うのはきちんと前を向きましょうということです。上とか下ばかり見ていたらきちんと歩くことができないと思うのです。
もちろんこれは喩えです。最初に取り上げた「上を向いて歩こう」というその時代に合わせた歌詞だと思うので(私個人としてはあまり好きではなかったりするのですが……)その背景を鑑みればこれがヒットしたのも頷けるなと。でも今の時代に必要なのは「前を向くこと」ではないかと私は思っているのです。

上とか下とかを見ているのは、『今やっていること』の苦労に耐えているとか集中していることを意味すると思うのです。これは当然大事なことです。しかしながら自分の向かっていく先のことも見据えていないといけない時代になってきているという気もします。
現代の社会はとても混沌とした状況にあります。何を模範としてよいのかわからず、自分の軸とすべき倫理や哲学がなくなりつつあります。自分自身を強くすることも一つの解決策であり、重要なことです。しかしながら自分を強くする際には先々のことも考えるようにしないとなかなか強くもなれない。その時々のタスクばかりやっていたのでは後々どう動いていいのかわからなくなる可能性がありますから。(先のことばかり考えていると地に足がついていない状態にもなりかねませんが……)
結局のところ自己の形成をするにあたって、色々と見なければならないと思うのです。上も下も、後ろも前も見ないといけない。そうしなければなかなか自分の立ち位置を社会の中に見つけることができないのではないでしょうか? その色々見る方向の中でも「前」を見ることを私は特に重視したいという立場。自分のやりたいことや将来に希望を見いだせていればかなり強く、歩を進めていけるのではないかなと。そんなふうに思うのです。

ただし。
人って前を見ているときでも、いくらか横が見えますよね? そこに一緒に歩いてくれる人の姿があったら、それもきちんと視界の中に捉えておきましょうね。困ったときに支えてくれるでしょうし、逆にその人が困っているときに気付かないのはダメだと思うので。
# by zattoukoneko | 2011-03-19 21:37 | 雑記 | Comments(1)