【小説】『絶体零度』1-2-1
2011年 04月 24日1-2-1
「成明~。こんな夜中に何の用があるっていうのさー?」
ふらふらとした声と足取りで店の敷居を跨いできたのは瑠璃と同じく大学時代からの友人である萩原恭介という男だった。撚れた背広姿で現れた彼に瑠璃が苦言を呈する。
「また随分と酒臭いね。噂で聞くところによるとここ最近毎晩のように飲み歩いているらしいじゃないか。仕事が終わったらさっさと家に帰ったらどうだい? 私たちと違って妻子持ちなんだし」
「妻子持ちだからこそ外で飲むんじゃないか。家に帰ったらせいぜい第三のビールを一缶でおしまいにされちゃうよ」
「贅沢すぎる悩みだね。体を悪くすることを心配してくれてるんじゃないか。まあ君の稼ぎも大したことないせいもあるだろうけどね」
そう瑠璃は手厳しく言いながら、恭介が鞄から取り出したスポーツドリンクの入ったペットボトルを素早く奪う。そしてお茶を持ってくるべく店の奥へと姿を消した。
彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認してから小声で恭介がぼやく。
「何で僕の飲み物を奪うかなあ。お酒じゃないんだから別にいいと思うんだけど」
「スポーツドリンクというものは体内に水分を吸収するのを促進するからね。入っている電解質がアルコールの吸収も手助けしてしまうのさ。スポーツドリンク割りというのもあるにはあるけどね、でも見たところ恭介はすでに酩酊期を越えて泥酔期という感じがする。二日酔いのときは脱水症状を起こしているからスポーツドリンクを飲むのもそれなりに効果はある。しかし今はまだ体内にアルコールが残っている状態だろうから、利尿作用の高いお茶などの方がいいのさ」
「ふーん、そういうものなのかー。みんな色々考えながら飲んでるんだなぁ……」
恭介は語尾を虚ろなものにしながら目の前にあった小さなテーブルに身を突っ伏した。そしてそのまま寝息を立て始める。
だがそんな彼の頭をお茶の入った湯飲みが小突いた。
「気持ちよく寝れるようなら寝かしてやりたいところだけどね。ただ今回は大事な用件があって呼び出したんだ。もうしばらく辛抱しておくれよ」
そうして戻ってきた瑠璃は安っぽい、しかしきちんと茶葉の香りがする陶器を恭介の手にしっかりと持たせた。恭介は眠そうにしながらも素直に茶をすする。そしてほっと一息吐くと訊いてきた。
「それで僕に何の用? 明日も仕事だから今日は一緒に飲めないよー」
瑠璃は「もうすでに飲んだくれているじゃないか」と呆れた声で言ってから、
「話は当事者本人から聞くのが一番だろう。……どうも今回はその当事者の記憶があやふやだが、そういうことも含めて本人にしか語れないこともあるものだからね」
彼女はそう述べると私の方に顔を向けた。それに合わせて恭介もこちらを見やる。
「何かあったの?」
先程よりは大分しっかりとしているがどうにも焦点の定まらない彼の視線を受け止めながら私はしばし考え込んだ。瑠璃も口にしたことだが私の記憶は曖昧のようである。一方で自分自身ではその自覚に欠けていて何がはっきりとした事実なのか明瞭でないのだ。そのためにどのように話をすれば恭介にうまく伝わるかわからない。
結局端的に伝えるのが一番だろうと思い私は口を開いた。
「実は若い女の子を殺してしまってね」
恭介は湯飲みを両手に持ち、手のひらに伝わる茶の温度を堪能してから、
「――え?」
傍にいた瑠璃がこめかみを押さえる。
「飯田君。君は物の話し方というものをもう一度高校にでも入って勉強してくるべきじゃないかな? 事実をそのまま述べるだけでは相手が混乱するだけだぞ」
「瑠璃は難しいことを言うね。事実を述べるのが駄目だというのなら一体何を喋ればいいんだい?」
「事実を述べることが駄目だと言っているわけではないだろう。人の話をきちんと聞かないね、君は。相手には相手の予備知識や心構えというものがあり、それは人それぞれなのだからそれを考慮して話し方を変えろと私は述べているんじゃないか」
彼女の言っていることはもっともである。しかしながらだ。彼女が重視することの多い感情や気持ちというものを頭の中で理解するのはとても難しいものであり、だからこそ実践するのも難しいと言えるのではないないかと私はいつも頭を悩ませるのである。
だが幸か不幸か今回は瑠璃がいてくれたおかげで恭介も次第に事態が飲み込めたらしい。湯飲みを割らないようにゆっくりとテーブルに置きながら訊いてきた。
「成明が人を殺したって、それ……本当なの?」
その問いかけに私が頷いて応えると、恭介は頭を両腕で抱えて机に突っ伏してしまった。
しばらくしてよろよろとした口調で――それは酔いによるものではなく――さらに問いを重ねてきた。
「成明は僕が何の仕事をしているか知っているよね?」
「もちろんだとも。だから君を呼んだのさ」
私の返答に恭介は肘をテーブルにつき、眉間を掴んで落ちそうになる頭を支えた。苦しそうに呻く。
「なら僕はその仕事をしなければならない。君が親しい友人だとしても例外はないよ。刑事が私情を挿むことは許されないことだから」
そう、恭介は刑事として働いている。ただよくドラマで耳にする捜査第一課に所属しているわけでもないし、鑑識をやっているわけでもない。仕事柄やっている内容を詳しく教えてもらったことはないが、生活安全課なるところに勤務しているそうだ。けれども所属は関係なく、そして本来ならば職業すらも関係なく、殺人を犯した者は警察に突き出されるのが通常のことだろう。
恭介が自分の仕事を遂行するというのならばそれも仕方のないことだろう。私にも重罪を犯したのだという自覚はあるのだ。
「何を寝ぼけているんだい。君は自覚がうんぬんの前に記憶すら曖昧じゃないか。萩原君にしょっ引かれるにはちと早すぎるだろう」
けれど瑠璃が心底馬鹿にしたような声音で注意してきた。恭介も重そうにしていた頭を持ち上げ、しかし眉間に深い皺を刻みながら尋ねてきた。
「どういうこと? 成明が人を殺したのかどうかわからないわけ?」
「飯田君本人は殺したと思っているようだけれどね。でも話を聞いても埒があかないのさ。だからそのことも踏まえて専門家である君を呼び出したわけさ」
「別に殺人が専門というわけじゃないんだけどなあ」
恭介はそう一つぼやきを入れ、代わりに冷静さを少し取り戻したようだった。
「で、何がどうなってるの? 成明が殺人現場に出くわしたとかそういうことなのかな?」
瑠璃が私の方を一瞥する。
「本人が話をすべきだと私は思うのだけれどね。しかし彼に任せておいても話が進まない気もする。私が代わりにあらましを説明するよ」
そう断りを入れると彼女が恭介の問いに答え始めた。
「そういうのもわからないのさ。飯田君はどうも記憶が曖昧らしい。彼は自分の手で人の首を締め上げたと思っているようだが、よくよく話を聞いてみるとその直前に何をしていたのか実はわからない。私はその場に居合わせたわけではないし、だからまずは他の人にも相談しようかと考えたわけさ」
「なるほどね、それで僕が選ばれたと。一応『専門家』でありながら成明の『友人』でもある僕なら話を最後まできちんと聞くだろうと、そういうことだ?」
「萩原君は話がわかるね。本当かどうかは知らないが、警察というものはこうと決め付けたら意地でもそれを貫き通すところだという話も耳にするから念のためというやつさ」
瑠璃の言葉に恭介は苦笑いを浮かべる。
「言われるほどひどくはないと思うけどなあ。むしろそれを刑事である僕に平気な顔して言う瑠璃が怖いよ」
それから恭介はすでに温くなっていたお茶をぐいっとあおった。湯飲みを空にし、一息ついてから再び話し出す。
「じゃあ君らの言う『専門家』として、そして『友人』として話を聞いてみよう。職務としては公私混同はやっちゃいけないことだけど、見事に瑠璃にそんなことは無理だろうと先手を打たれちゃったことだしね」
彼の言葉に瑠璃は満足そうに頷いた。そのやり取りを傍で聞きながら、そこまで考えて恭介を呼んだ瑠璃の思惑に私は舌を巻くしかなかった。
「だが私としては自分自身が経験した事実と、惚けている飯田君の代わりに彼から聞いたことを伝えるしかできないね。とりあえず二時間ほど前に飯田君が若い娘の死体を私のところに運んできたのさ。そこから話を始めようか」
瑠璃は私がその死体の扱いに困って彼女の元を訪れたことや、その子の首を持っていた記憶はあるが肝心の殺したときの記憶がないこと。そしてやけに平静であり過ぎることを恭介に伝えていった。そして最後に恭介を呼び出す直前の出来事で話を終える。
「――というわけで私は飯田君に少しくらい記憶を取り戻すんじゃないかと死んだ娘の顔でも見て来いと言ったわけさ。ところがどうだい。彼が奥の部屋に行ってみたら死体がどこにもなかったのさ」
話を聞き終えた恭介は、しかし最後の部分に首を傾げる。
「うん? 遺体がなくなってるって?」
彼は瑠璃が首肯するのを確認すると、しばらくの間考え込んだ。その頃にはもう酔いも醒めていたように見える。
「確かに成明の言葉――と言っても瑠璃からの又聞きだけど、それを信じるなら彼が実際にその女の子を殺したかどうかははっきりとしないね。でも成明が嘘を言っている可能性もあるし、動機がよくわからないけれど瑠璃に殺した相手の遺体を見せてから隙を見てどこかに隠したのかもしれない」
「飯田君を死体のある部屋に向かわせたのは私だし、呼ばれて私が行くまでの時間から考えて彼がアレをどこかにやるのは無理だと思うけどね」
言われて恭介は瑠璃の方を見やる。
「部屋に向かったきっかけは瑠璃の言葉かもしれない。しかしそれはきっかけなだけで他の機会を窺っていたという可能性はないかな? それに成明はここに何度も出入りしている。計画的なものだとすれば遺体をごく短時間でどこかにやる方法を考えていたかもしれない」
恭介はそこまで述べると真剣な視線を私の方に向けた。そして確認するように告げる。
「友人としては成明のことを疑いたいわけじゃないけど、だからといって犯罪を見逃すわけにもいかない。まずは遺体が置いてあったという部屋などを見て、それから僕の動き方を決めさせてもらうよ」
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