【小説】交差日記(5/5)

 向かった先の総合病院は、さほど大きなところではなかった。もちろん個人でやっている医院よりは遥かに大きいのだけれど、設立が大分昔なのか、むしろ古いという印象の方が強かった。
 正面入り口から中に入ると、ロビーと売店を備えた休憩所が広がっていた。外来と思しき人たちが何人も座っているソファがあって、その向こうに総合受付があった。私はキリが脚に怪我をして、長いこと入院しているということしか知らない。他にも内科や外科の受付もあるようだけれど、キリがどこにいるかはわからなかった。総合受付でも、お見舞いに来た人などを案内するだろうし、対応してくれるだろう。そう考えて私がカウンターに向かうと、若い女性の看護師が要件を尋ねてきた。
「こちらにキリという名前の、十七歳の男の子がいると思うんです。脚に怪我をしていて、長いこと入院していると聞いています。病室を教えてもらえますでしょうか?」
 看護師は手元にあったキーボードを使い、慣れた手付きでパソコンに私の伝えた特徴を入力していく。それからしばらく画面を見つめ、首を捻りながらこちらに向き直った。
「検索したところ、そのような方は当院にはおいでにならないようです。もう少しお調べしようと思いますが、患者様の名字や、掛かっている担当医の名前などはご存知ないですか?」
 そこまで私はキリのことを知らなかった。彼は明るい性格だったし、自分の病気について話すことはほとんどなかった。だから担当医のことはおろか、病室や病院のこともきちんとは把握していなかった。
 もしかして入院先はこの病院ではなかったということなのだろうか。地元はこの町だとしても、設備の整ったもっと大きな病院に入院しているのかもしれない。
 そう少しの間思ったけれど、私は頭を振った。キリは確かに、病院で夏祭りのチラシを見つけたと交差日記に書き込んでいた。そして、またそれに参加したいと。この数日、何度も見直していたから、その文字ごと鮮明に思い出すことが出来る。
 ならこの町にある、他の病院ということなのかもしれない。私にはすぐに思い付かなかったけれど、数年の入院と手術を行なえる病院がどこかにあるかもしれない。あるいは一時的に退院しているのかもしれない。私はこの時期のキリのことについて何も知らない。そのいずれかでなかったら、十年とか数十年とか、そのくらいずっと先の未来にいるかだ。現在の時点でキリが入院していないのなら、私が彼をすぐに見つけることは不可能になる。でも他の病院にいるのだとしたら、できるだけ早くその居場所を特定しなければならない。件の手術が今すぐ行なわれるわけではないにしろ、何かが起きたのは確実なのだ。
「この町にある他の病院に問い合わせてもらえますか。キリはどこかにいるはずなんです。お願いします」
 私の懇願に、若い看護師は訝しげな表情をした。そして不審に思ったのかもしれない。事務的な言葉ではあったが、明確な拒否をしてきた。
「その方とはどういったご関係でしょうか? 申し訳ありませんが、患者のプライバシーに係わる場合、当院であっても他院であっても何もお教えすることはできません」
 どういった関係かなんて、そんなこと一言で片付けられるはずがない。私たちは交差日記を通じて、二人だけの会話をしてきた。ただの友人なんかじゃない。でもそれをどうやったら伝えることが出来るのか。
 気付いたら、私は受付カウンターのところで泣きそうになっていた。声が勝手に震える。私は持ってきたノートを取り出すと、受付の看護師に向かって哀願した。
「キリは、これと同じノートを持っているはずなんです。それ以上のことはわかりません。でも、とても大切な人なんです。だから、お願いします」
 涙声で訴える私に、けれど若い看護師は困った表情を返すのみだった。状況が芳しくないと判断したのか、受付の奥から年配の看護師がこちらに向かってきた。
「あたしが替わるわ。あなたは通常の業務を続けてちょうだい」
「あ、はい。では後は白石さんにお任せします」
「ええ。それと少し席を外すから。何か急用があったらコールをください」
 白石と呼ばれた看護師は、カウンターを少し回って、受付の中から出てきた。私の隣に並ぶと、声を落として伝えてきた。
「そのノートのことは知っているわ。持っていた相手は確かに十七歳の男の子で、でもキリという名前ではない。少し不可解な部分もあるけれど、とりあえずは事情を聞かせてもらうことにしましょう。ただあまり人の多いところで話せるようなことではないから」
 そう伝えると白石さんは、私を連れて休憩所に向かって歩き出した。売店の近くや窓辺の方には人が何人かいたけれど、案内された隅の方はひっそりとしていた。受付に患者の名前が呼ばれる声や、会話をしている人たちの声は届いている。でもそこだけ別の空間として切り抜かれたような、そんな感じがした。促されるがまま、丸い白テーブルの席につく。
「それで、あなたはそのキリ君とどういう関係なのかしら。話しづらいこともあるかもしれないけれど、あたしの知っている男の子もそれと同じノートを大事にしていて、毎日何かを熱心に書いていたのよ。何をしているのか教えてもらってはいないのだけどね。だからこそずっと印象に残っている男の子でもある。あなたがその子と関係があったのだとしたら、そのことについて話してもらいたいと思っている」
 白石さんの言っている相手は、キリで間違いないと思った。そう簡単には信じてもらえないことだろうとはわかっている。でも他にキリについての手掛かりがなかった。だから私はノートを通じて、空間も時間も越えたやり取りをしていたのだと正直に告白した。
 私とキリの交流を、白石さんは黙って聞いていた。そしてここにやってきた理由まで話し終えると、静かに頷いた。
「納得したわ。あなたの言ってることは突拍子もないことだけど、でもあたしの見ていたことと確かに合致する。そしてミサキさん、あなたは勘違いをしている。あなたが会話をしていたキリ君という人物は、未来にいる人間じゃあない。過去に生きていた人で、そしてもう何年も前に亡くなっている」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 私はキリが未来にいるのだと思っていた。でもそれを白石さんは思い込みだと告げた。そしてその証拠として、私の覚えているキリは、ノートを手に入れてまだ間もないと述べていたのでしょうと指摘してきた。でも今は冬だ。どんなに時間の差が短かったとしても、彼が交差日記を書くようになる夏まで半年もの差がある。だからキリが未来にいるのだとしたら、この時点で白石さんがノートの存在を知っているはずがないのだ。
 茫然自失としている私に、白石さんは当時のことを教えてくれた。
「医療ミスだったの。壊死は内臓の方にまで及んでいて、取り除く部位はそんなに多くはなかったんだけど、お腹の方も開いたの。手術の目的自体は完璧にこなせたのだけど、執刀した医師が一本メスを体の中に置き忘れてしまった。こう言っては何だけど、そういうミスは結構あって、だから術後には使った器具の数を確かめたりして早期発見に努めている。キリ君のときもそれでわかって、すぐに再手術となった。でも何度取り出そうとしても、どういうわけか見つけられなかったのよ。そして立て続けの手術によって体力が奪われて、それで亡くなられてしまった。結局メスが見つかったのはご遺体を火葬してからのこと。背骨のすぐ近くに、ぴったり寄り添うようにして埋まっていたみたいね。もちろんレントゲンで大まかな場所はわかっていたけど、レントゲン写真を見るのと実際に体の中を見るのとでは大違いだから」
 それから白石さんは私の知らないことをいくつか教えてくれた。キリというのは本当の名前でないことや、意識が戻ったときには必ずノートを眺めていたことなど。そして最後まで生きようとするのを諦めてなかったと。
 私はまともに返事すら出来ていなかった。白石さんは当時のことを語り終えると、気分が落ち着くまでここに居てくれていいからと告げ、仕事へと戻っていった。
 独りで残された私の目の前、いつもとは違うテーブルの上にあのノートがある。私はその最後のページを開くと、静かに眺め続けた。最後に残された二行は、未だに埋まっていない。そこにキリは何を書こうとしていたのだろうか。体内に残されたメスの痛みに耐え、生きようと懸命にもがきながら。
 このノートの先で、キリはまだ生きているのかもしれない。今まさに、手術のときの麻酔が切れて、目を覚ましているのかもしれない。このページを開いているならば、私のメッセージが届くかもしれない。
 けれど白石さんから教えてもらった内容を書くには、そのスペースは余りに狭すぎた。それにそこを埋めてしまえば、仮にキリが助かっても、会う方法を伝える場所がなくなる。もちろん彼が生きていてくれるなら、一生会えなくなっても構わないと思っている。ただいずれにしても、私はキリと別れなくてはならないらしい。
 いつの間に溢れていたのだろう。涙が雫となって、見つめていた先の空白の行を濡らした。結局私は、今回も何もできなかった。キリも失ってしまった。どうしようもない喪失感と、自分から行動をしようとしなかったことへの慨嘆と、すべてを知った今でも何も出来ないという無力感と、そうしたすべての気持ちがごちゃごちゃに入り乱れていた。涙がまた零れ落ちそうになっていた。鼻水もしきりに啜り上げていた。きっと私の顔は酷い有様だろう。でもどうすることも出来なかった。
 手の甲で溢れてきた涙を拭う。そうして見たノートの上で、さっき出来たばかりの濡れた皺がそっと拭かれた。まだ乾き切っていなかったのか、涙が伸びてページの横にある裏表紙の裏にまで皺が広がった。
 それをやったのは私ではない。一人しかいないこの場では、誰もノートに触っていない。唯一触ることが出来るのはキリだけだ。ノートの向こうの世界で、たまたま意識が回復していたのだろう。落ちた涙に気付いて、そっと拭いてくれたのだと思う。その彼の優しさが、今ばかりは、私の胸をきつく締め上げた。
 けれど悲しんでばかりではいけないと思った。キリがどのくらいの間意識を取り戻してくれているかわからないけれど、伝えることが出来るのなら、今のうちに私の気持ちをノートに綴るべきだと思った。たった二行しか書けなくても、何もしないよりはずっといい。
 シャープペンシルを手にすると、私はノートに向かう。
 そこでふと気付いた。涙の染みは、ページをはみ出して裏表紙の方にまで及んでいる。でもそれをやったのはキリだ。どうしてそっちにまで、彼は手を出せたのだろう。
 私もキリも、思い込んでいたのだ。確かにノートとして、罫線のあるページはもう終わろうとしている。でもこのノート全体に相手と交わる能力が備わっているとしたら? 表紙も裏表紙も、そしてこの染みが広がった裏表紙の裏さえも、言葉を伝える場所になり得るのだ。
 そのことがわかると、私は急いで文章を書き込んでいった。罫線もないところに文字を書いていて、綺麗な並びにはなっていなかった。けれどそれ以上に、思い付くままに書き連ねていく言葉が、滅茶苦茶だった。
「今あなたの病院に来ています。すでに死んでいることを知りました。手術の際にメスを体の中に忘れてきてしまったらしいです。私があなたより未来の時間にいて、そのおかげで原因を知ることが出来ました。そのメスは手術を繰り返しても見つけられなかったそうです。場所は背骨のすぐそばです。ぴったり寄り添っていて、そのせいで見つけられなかったようです。お願いです。そのことを誰かに伝えてください。そして生きてください。私はあなたに言わなければいけない言葉があるんです。伝えたい気持ちがあるんです」
 上手く事情を伝えられたかどうか、自信はない。私は実際に施術した医師ではないのだし、専門的な知識も皆無だった。そしてそれ以上に文章が乱れていた。それでも必要なことは書けた気がする。だから後は自分の気持ちを伝え、再度の手術が成功することを祈るしかない。
 でも私はそこで言葉が出てこなくなってしまった。相変わらず心の中はぐちゃぐちゃで、大事な想いを整理して伝えることなんて、とてもではないけれど出来なかったのだ。
 だから私はたった一行だけ、ずっと抱えてきたその言葉を書き込んだ。
「私を助けてくれたことのお礼を言いたいんです。だから生き続けてください、ユウキ」
 キリという人物が、私を事故から救ってくれたユウキ本人だと、ここに来て初めて知った。考えてみれば、この町で最初に救急搬送されそうなのは、この総合病院以外に思い付かない。脚を失ったユウキは、傷口から毒のようなものが回って、入院が長引くことになったと同級生から聞いていた。卒業までに学校に戻ってこれなかったことまでは知っていたけれど、その後何年も入院を続けていたとは想像もしていなかった。それにキリはお見舞いに来る友達なんていないと言っていて、それは私の記憶にあるユウキの姿とは重ならなかった。
 ユウキが交差日記で本名を使わなかった理由はわからない。でもそんなことはどうでも良かった。彼はユウキとして私を交通事故から救い、その後キリとして塞ぎ込んでいる私を救ってくれた。誰かに会いたいという気持ちを抱かせてくれたのはキリで、そして手術後に返事がないことにうじうじとしていた私を部屋から出させてくれたのはユウキに対して抱き続けていた想いだった。
 私はそのすべてに感謝の言葉を伝えたい。そしてずっと自分から行動せず、お見舞いに訪れなかったことを謝りたい。
 ノートに本当に最後のメッセージを書き込んでから、どのくらいの時間が過ぎただろうか。気付いたらすぐ隣に誰かがやって来ていた。
「あの、ミサキさんですか?」
 問いかけに、私は頷いて答える。その人は待ち続けていた相手では、なかった。
「初めまして。ユウキの母です。息子からあなたには大変お世話になったと聞いています」
 柔和な表情をしたその女性は、隠し切れなくなった白髪のせいで随分と高齢に見えた。ユウキと私は同い年のはずだから、うちの母とそう年齢は変わらないだろうに。よほどの苦労でもしてきたのかと、私がさせてしまったのかと、そう思わざるを得なかった。
 ユウキのお母さんは、それでも優しい笑みを湛えながら、私に語りかけてきた。
「わたしにも事情がよくわかっていないのですが、あなたを捜すように息子から言われていました。会えて良かったです」
 その息子を事故に遭わせ、そして死なせてしまったのは私だ。この人はそのことを知らないのかもしれない。なら私の罪を告白して、謝っておくべきではないだろうか。それで浄罪が出来るなどとは思っていないけれど。
 頭を下げるべく立ち上がった私に、ユウキのお母さんは笑みに少し困惑の色を混ぜつつ、言ってきた。
「会えたときには、まずこれを見せて欲しいとのことです。中を開いてはいけないと厳重に注意されてもいます」
 そうしてお母さんから差し出されたのは、灰色の表紙に金色の唐草模様が刺繍された一冊のノートだった。私とキリが交差日記にしていた、あのノートと同じものだった。
「ミサキさんを見つけるときには、このノートを目印にしてくれって言われてたんです。病院に同じものを持ってやって来ているはずだからって。日時も場所もわからないのに、必死になって頼んでくるんですよ。本音を言うと、そんな人はいつまで経っても現れないんじゃないかって、ちょっと疑ってました。でも会えたのだから、息子の頼みごとを聞いておいて良かったのでしょうね」
 私はお母さんがこちらに向けてくるノートを、震える手で受け取った。そうして表紙をめくってみた。
 二人で一緒に綴った交差日記の数々の文字は、そこには一つも書かれていなかった。ほとんどのページは真っ白で、代わりに最初のページにこんな文章が記されていた。
《やっぱりこのノートでも、謝ることから始めないといけないのかもしれない。ボクのせいでミサキにつらい思いをさせてしまった。それも、またってことになるんだろうね。前のノートでボクは名前を偽った。ミサキが先に書き込んでいた内容を見て、薄々ボク自身のことだと気付いていたんだ。だから余計なことは思って欲しくなくて、ただ君と会話をしたかったから名前を替えることにした。悪気はなかったんだけど、でも結局は嫌な思いをさせたことに変わりはないんだよね。だから、ゴメン》
 謝る必要はないのに。私もキリがユウキ本人だと気付いていたら、ちゃんと会話をすることが出来なくなっていたと思う。それにノートによって隔てられていて、確かに私とは違う別の人だとわかってはいたけれど、直接顔を突き合わせていなかったからこそ、私たちは交わることが出来たのだと思う。その距離が私たちには必要だったのだ。
 彼の言葉はその後も続いていた。それを読み終えると、すぐそばで待ってくれているお母さんに少し時間をくれるように頼んだ。それから再度椅子に座ると、ノートにいつもしていたように書き込んでいく。
《何も謝ることはないです。そうするのが自然だと思うし、それどころかおかげで私もキリから色々なものを貰えました。その後に書いてある提案にも賛成します。ただその前にやっておかないといけないことが私にはあります。一つはユウキに謝るということ。事故に巻き込んでしまってごめんなさい。そしてその後もお見舞いに行かなくて、本当に申し訳なかったと思っている。もしかしたらあなたは、そんなことは気にしなくていいとか、過ぎたことだからと私を赦そうとしてくれるかもしれません。でもキリとして私の想いを読んだなら、このこともわかってくれると思います。私の心はあの事故によって囚われていた。その後キリが前に進めるようにしてくれたけど、でも気になることに変わりはありません。だからけじめとして謝らせてください。ごめんなさい、そして助けてくれてありがとう》
 そこまで書くと、私はノートを閉じ、立ち上がった。何も言わずに待ってくれていたお母さんに問いかける。
「これをユウキさんに届けたいんです。すぐに会うことは出来ますか?」
 お母さんは本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、首を縦に振った。
「車椅子だから病院の中を一緒に歩き回るのは大変で。だからロビーの方で待たせてあるんです」
 私の書き込みは、ちゃんとキリに届いていたらしい。その後に受けた手術でメスは無事に見つかり、摘出された。ただ背骨の間近にあったメスは、そこに入り込むときに脊髄を損傷してしまった。そのため下半身不随になってしまったのだそうだ。
 ロビーに行くと、車椅子に座って待っている男の人がいた。ユウキの顔は知っているはずだけれど、当時の私はきちんと人と交わっていなかったから、本人かどうかわからなかった。ただお母さんと並んでやって来た私を見つけると、彼はすぐに嬉しそうな表情をして、そして恥ずかしそうにして、それから困ったように頭を掻いた。その感情を率直に出す様が、ノートに書かれていくキリの文字とそっくりで、私は小さく吹き出してしまった。
 ユウキの前に辿りついた私は、ノートをそっと差し出した。受け取った彼はそこに付け加えられている私の返事を読み、そしてシャープペンシルを取り出して文字を書き始めた。
 筆談になっているのにも理由がある。最初の事故のとき、ユウキは脚だけでなく声も失っていたのだ。入院してからしばらくの間はクラスメイトがお見舞いに来ていたようだけど、高校入試を経て進学をした彼ら彼女らは、会話が出来ない彼を置き去りにしてしまったらしい。だからキリとして私との会話を望んだ彼は、孤独な入院生活を送ることになっていたのだ。
 しばらくしてユウキが文章を書き終えた。受け取ったノートに目を落とす。
《ボクのことを許してくれてありがとう。それとミサキの謝罪もきちんと受け取ったよ。そして、このノートを新しい交差日記にしたいという申し出を受けてくれたことが、堪らなく嬉しい》
 このノートには空間や時間を越える能力はないらしい。ただ以前使っていたものと見た目が同じだけの、普通のノートでしかなかった。でもユウキは見た目が同じそのノートを用意してきて、新しい交差の場として使うことを提案してきたのだ。
 幸いこちらの声は聞こえるとのことだけど、彼は声を発することが出来ないし、ならば会話には手話や筆談が必要になる。その手段であり場所となるノートに、彼は交差日記と名前を付けた。前のノートとは違う。でも確かに交わることが出来るのだと感じられて、私はそれをとても気に入った。
 ユウキの書き込みにはもう少し続きがあった。目を通しながら、それは気になって当然のことだと、私自身も思う。
《ミサキは新しい交差日記を始める前にやっておくべきことがあるとして、事故に遭ったボクへの謝罪を書いている。でもそこに、一つは、とあった。他にも何かあるということ? ノートには書いてないようだけど》
 そう、彼の言葉の通り、私にはもう一つやらなければならないことがある。でも敢えてノートには書かなかった。その言葉を伝えるために、私はもうノートという媒介に頼っていてはいけないと感じていた。私はキリと直接会ってみたいと思ったときの気持ちを、まだ伝えていない。自分だけの想いなのだから、誰にも、何にも頼らず、自分の声で伝えよう。
「初めて人を好きになりました。よかったら私と交際をしてくれませんか?」
         締

# by zattoukoneko | 2013-11-22 19:30 | 小説 | Comments(0)

【小説】交差日記(4/5)

   ♪ 4 ♪
 キリがノートに書き込みをしなくなった理由はわからない。紛失したとか、あるいは何らかの理由で書き込みが出来なくなったのかもしれない。でもそれを調べる術が私にはない。もしくはノートそのものから言葉を伝達する力が失われてしまったのかもしれない。もし力が残っているのなら、私が二行だけ書くことは出来る。でもキリとやり取りするには十分な量とは言えない。そもそもキリが書かないんだから、こちらの文字が向こうに見えていると返してくれる者がいない。
 私は、ただひたすらに待った。仕事のことなんてどうでもよくなっていた。今のこの世界は彩りに満ちて、華やいでいる。人と距離を置いていた頃のように、灰色がかって薄暗い世界ではない。でもそのことを教えてくれたのはキリで、そして彼がいたからこそ私の世界は色を持っていたのだ。だからただひたすらに、私は彼のことを待ち続けた。
 さらに一日が過ぎた。そしてもう一日が過ぎた。ノートには、文字が書かれることはなかった。
 次第に嫌な予感が頭の中を埋め始めた。それは元からあったのかもしれないけれど、ずっと意識しないようにしていた。もしかしたら、キリの手術は失敗してしまったのではないだろうか。そして体が動かせないとか、意識不明の重体が続いているとかで、ノートに向かうことが出来ない日々が続いているのかもしれない。死んでいるという想像だけは、浮かんできただけでも恐ろしく、耐え難かった。
 私は二人の文字で埋め尽くされたノートを見返し始めた。最後の二行ではなく、他の場所に書き込んだのかもしれない。そうする理由は思い付かなかったけれど、そのくらいしか賭ける場所はなかった。ページをめくるたび、懐かしい会話が出てきた。キリとの思い出がそこには詰まっていた。でも新しい書き込みも、どこか消されたり修正されたような箇所も見つけることは出来なかった。
 ノートの不思議な力は未だ健在なのかもしれないし、なくなってしまっているのかもしれない。けれどそれを私独りでは試して確認することは出来ない。もはやノートに頼っていてはどうにもならない事態が発生しているのだ。ノートの先にあったために見ることが出来なかったキリの姿を、私は確認する必要がある。
 でもそんなことは可能なのだろうか。キリは知らないかもしれないけど、私たちは同じ町に住んでいる。長期間に渡って入院し、満足な手術を受けられるような病院となれば、近くに総合病院が一つあるだけだ。だから私の方からキリに会いに行くことだけは可能だとわかっていた。けれどそれは会いに行くだけでしかない。私たちの間には、時間の差という、絶対的な距離があった。私は冬にいて、キリは夏の終わりを過ごしている。キリはおそらく未来にいるというので間違いないだろうけど、最短の時間差で考えた場合でも、この冬にいるキリは私との交流を始めていない。だから私がキリと出会えば、彼の意識は変化し、私と一緒になって交差日記に文字を書き込んでいく人物は未来からいなくなる。そうすれば私の過去がなくなる。それはタイムパラドクスと呼ばれるものだ。ただノートの存在がそもそも不思議なものだし、もしかしたら事実の上書きなどが行なわれるのかもしれない。その場合は、すでに事実を持っている私が上書きされることになるのだろう。
 結局、私は何もすることが出来なかった。日にちはさらに進み、そろそろ一週間が経とうとしていた。
 私は今日も朝からノートをめくる。すでにキリとの会話は丸暗記するほどに読み込んだ。本当に他愛のないお喋りばかりが並んでいるけれど、その時間が私にとって本当に大事で、幸せなものだったと感じさせられる。そしてこのまま会えなくなってしまうのではないかと思ったら、目の奥が潤んできてしまって、視界が少しぼやけた。
 そうして、私はノートの最初の方に辿りついた。まだキリとの交差日記になっていない頃の書き込みだった。中学のときに私を庇って事故に遭い、それっきり会っていないユウキへの想いが綴られていた。
 このノートは最初、ユウキへとのことを記すために使っていたのだと思い出す。彼に何もしてやれなかったことに対する後悔を、少しでも整理しようと書き始めたのだった。
 そこに書かれている自分の想いを読み返して、私は思った。今に至っても私は変われないままなのか、と。私はユウキに対して何らかの想いを抱いていた。それは好意だったり、恋愛感情ではないかもしれないけど、大事な気持ちだったはずなのだ。そしてそれを伝えられなかったから十年以上も後悔していたのではなかったのか。
 キリに対してはどうなのか。私には彼に伝えたい想いがあったはずだ。なのにキリが最後に大事なことを書いてくれるらしいと安心して、自分の心の内を伝えようとするのをやめてしまった。何て馬鹿なんだろうと思う。キリがしようとすることと、私が気持ちを伝えることに、何か関係なんてあるだろうか。すでに一度、私は失敗しているではないか。ユウキに言葉が伝えられなくて、ずっと後悔し続けてきたのではなかったのか。
 十年以上も経ってしまって、ユウキとのことは何も出来ないかもしれない。でも同じようなことを私は繰り返していいのか。何があったかはわからないし、何が起こるのかもわからないけれど、でもキリはまだいるはずなのだ。そして私は彼に会えるだけの材料を持っている。何より、直接会いたいという気持ちと勇気を、キリが与えてくれていた。
 私は大事なノートを掴むと、キリが入院しているはずの病院へと向かった。


5/5へ
# by zattoukoneko | 2013-11-22 19:28 | 小説 | Comments(0)

【小説】交差日記(3/5)

   ♪ 3 ♪
 お互いが生きている時間を、私たちは知らないままにすることにした。最初は知ろうとしたのだけれど、キリが少し悩んでからこんなことを言ったのだ。
《ボクたちが、今は西暦の何年、と伝えたとき、その後でもこれまで通りにやり取りができるだろうか。何百年も離れているってことはないと思うんだ。そんなに違っていたら言葉も変わりそうだし。けど数十年だったらあり得るかもしれない。それを知ってしまったら、会話がぎくしゃくしちゃう気もするんだよね》
 もっともだと思った。私たちはお互いの顔も知らず、住んでいる場所も時間も知らず、ただノートによってのみ交差しているだけだ。けれど二人の間にある距離は、そんなに遠いとは思っていなかった。むしろ近いと感じていた。だからこそお互いに会話を楽しんでこれたのだ。その距離についての感覚は、もしかしたら間違っているのかもしれないけれど。
 例えば、お互いに対蹠地となる場所に住んでいるとしたらどうだろうか。私は日本にいるから、キリは反対側のブラジルとかその辺りからノートに書き込んでいるという想定だ。それを知ったらびっくりするとは思う。でもその程度で済むことでもある。航空交通機関の発達した現代でも、地球の真裏から旅をしてくるとなれば、かなりの時間は必要となる。でもその移動は不可能なことではない。
 一方で何十年もの時間差があったら、そのとき、私は大きなショックを受ける気がする。タイムトラベルの方法なんて確立されていないし、だから会えないことはないにしても、すぐにそれは叶わないところにいるのだと思い知らされることになる。それは地理的な隔たりよりもずっと大きくて、深いものに感じられることだろう。
 キリはそこまでは述べなかったけれど、同じようなことを考えたのだと思う。私たちは交差日記を通じて、今では本当に親しい間柄になっていたし、だからこそ距離があることを意識させられるのは嫌だった。
 そうした気持ちの変化は、実は私にとって、とても大事なものだったのだ。けれどこの時の私は自身の変化を意識できておらず、大分時間が経ってから気付かされることになる。キリの書き込んだ、何気ない言葉がきっかけだった。
《今日は、久しぶりに夏祭りにでも行きたいなって思った》
《夏祭り?》
 季節は移ろい行き、私の方ではすっかり冬になっていた。一方のキリの方でも、そろそろ夏が終わろうとしている頃だ。そんな時季に夏祭りとは珍しいと思った。でも、それは私の早とちりだった。
《病院にチラシがあったんだ。開催期間はもう過ぎてる。ただそれを見ているうちに、またそのお祭りに行きたいなとしみじみ思ったんだよね。入院してから何年もの間、友人と出掛けたことなんてなかったんだけど》
《私は友達とお祭りに行ったことなんてないわ》
 実際には何度かあった。私が人付き合いが苦手になって、自分から距離を置くようになるより、もっと前。小さい頃の私は、住んでいるところが近い子供と、それぞれの両親に連れられて商店街の出店を見て回っていた記憶がある。でもその思い出は古くなってくすんでいたし、相手の友達の名前もきちんと覚えてはいなかった。
 ノートの向こう、キリが慌てて謝ってくる。
《ごめん、イヤな思いをさせちゃったかな。ボクもそういうつもりじゃなくて、ただ久しぶりにそういう前向きな気持ちが湧いてきたってことを、ミサキに伝えたかったんだ》
 キリの性格がとてもいいということを、私は知っている。不快な気分にさせてしまったのは私の方だ。そして落ち着かない気分にさせ、あんなことを書かせたのも自分自身だ。
 頭を小さく振ると、心にわだかまる鬱念を追い払った。キリに訊く。
《キリの住んでいるところでは大きな夏祭りでもあるの? 花火大会とか》
《いや、地元ではそういうのはないよ。もちろん電車とかを使えば、花火大会をやっている会場にも行けるけど。商店街に出店が出るくらいかな。あ、それと小さなお神輿が担がれる。でも近くに由緒正しいお寺や神社があるわけでもないし、由来は聞いたことがないなあ》
《私のところも似たようなものね。大人になってから知ったけど、今の自治体が出来て何周年目かに、住民のふれあいを大切にしようと始めたのだとか。町興しとは違うけれど、似たようなものなのかもしれないわね。自治体や商店街の組合という、誰かが場を用意しないと地元の人であっても交流が生まれなくなってきているという、近頃の状況を表わしている一例なのかもしれない》
《そう考えると、お祭りも何だか淋しいものに感じるね。でもボクはそれでもいいかなって思うよ。開催期間は一日とか二日だけど、その前から商店街はずっと準備をしていて、少しずつ活気に満ちてくるし、何よりお祭りのときは出店が並ぶからね。割高なんだけど買わずにはいられないんだよな、焼きそば、たこ焼き、フランクフルト》
《食べ物ばっかりね、キリは。でもそれ、すごくわかる。お祭りで買う焼きそばって特別美味しいのよね。あの大きな鉄板が重要なんだって聞いたことがあるけれど、あんなもの家では使えないし、コンビニで売っている出店風というのもやっぱり違う。焼きそばの隣で別のものを焼いていたり、火力がまばらで焦げが入っていたり、その他にも色々と入っているのかもしれないわ》
《ミサキもお祭りの焼きそば大好きなんじゃないか。ボクばっかり食い意地が張ってるみたいに言ったくせに》
《名物の一つだもの、行ったら買うわ。でも私は食べ歩きよりは、ヨーヨー釣りとか、一つのお店でゆっくり遊ぶのが好き。金魚すくいも好きだけど、貰っても家では飼えないし》
《確かにそれはある。でもついやってしまうんだよね。それで、そう、出店の話。金魚すくいや食べ物のお店もそうだけど、お祭りだと特別な魅力があると感じる。ミサキは現代のお祭りは誰かが作った仮初めの交流の場だとしたけれど、ボクはそれでも町のみんなが活気に満ちていくのはいいことなんじゃないかなって思うんだ。交流としては確かに一時的なものだけど、でもそれは伝統あるお祭りでも大同小異だと思うし、何より参加することで元気になれる》
 キリの言葉はとても実直で、素直だ。だからこそ説得力がある。
 改めて私はお祭りに出掛けたときのことを思い出してみた。お祭り自体に、嫌な思い出はない。友人がいないこととか、それは私が勝手に付け加えたものだ。連想として繋がりやすいのかもしれないけれど、別々に捉えられるべきものなのかもしれない。
 そこまで考えて、私はふとあることに気が付いた。書き込んでいるノートのページを、少し前に戻ってみる。キリは、久しぶりに行きたい、と書いていた。きっと彼は入院してからお祭りに行けていない。そして行こうという気持ちにもなれなかったのだ。でもキリは何かがきっかけで変わることが出来て、だからそんな言葉を書いている。もしかしたら彼にも何か思い込みのようなものがあったのだけど、それを切り離してお祭りの楽しみそのものに目を向けることが出来たから、今回の書き込みに繋がったのかもしれない。
 キリが手にしたきっかけとは何だろう。そしてお祭りに何を期待しているのだろう。焼きそばだけが目的じゃないはずだ。
 そんなことを考えながら、私はページを先程のところへと戻した。その頃にはキリの新しい書き込みがあった。
《でもお祭りの準備期間はもちろん、開催しているときでさえ、商店街のあちこちが活気付いている中、一ヶ所だけひっそりとしている場所があったんだよね。あ、それが悪いって言いたいわけじゃないんだ。ただ印象的だったから、その場所をよく覚えているっていうだけの話。お店の種類も関係してるのかもしれないけどね》
 そのすぐ後に書いてある文字を見て、私は心臓を大きく跳ね上げた。
《古本屋なんだ。光明堂って名前なんだけど、いつも薄暗いんだよね》
 直観的に、棚がいくつも並んで薄暗くなっている古書店の店内が、脳内に浮かんだ。似たようなところ、同じ名前のお店は、全国を探せば他にもあるかもしれない。でも私は確信した。キリの言っているのは、私が十年以上通い続けたあのお店のことだと。
 キリは、この町に住んでいるのだ。
 私は彼に会いたくなった。誰かに会いたいだなんて、そんな気持ちを抱いたのは初めてのことのようにすら感じる。ずっと他人と交わることを避けていたし、それがいつの間にか普通になっていたから、私は常に独りだった。けれど不思議なノートを手にしたことで、私の世界にキリが入り込んできた。ノート越しのお喋りだったけれど、確かに彼は別の人格として存在していて、そうして私は独りではなくなっていた。それは大きな変化だったのだけれど、キリが自然に導いてくれたから、私は困難を感じることなく変わることが出来た。その結果として、私はキリに会いたいと思うようになった。
 いや、もっと単純なことなのかもしれない。私はキリに惹かれていた。だから私は彼に会いたいのだ。私はキリの筆跡だけはよく覚えている。文字の細かい癖だけでなく、書き順の間違えだって知っている。毎日、何時間も見続けてきたから、覚えてしまった。でもそれだけじゃ足りなくなっていた。キリがどんな顔をしているか、どんな声をしているか、私はそうしたことすら知らない。ノートを通してだと、それを知る術がなかった。
 意識をしたら余計に気になりだした。そして想いは募り始めた。私たちを結び付けたノートは、しかし今度は邪魔をすることになった。
 私とキリの間には空間と時間の隔たりがある。キリが同じ町の人間だったとして、入院している場所までみんなが利用する近くの総合病院とは限らない。冷夏というキーワードについても調べてみた。データを引っ張り出してきてみたら、やはりここ何年もの間、冷夏と呼べるような年はなかった。むしろ、平年と比べて気温は高い、と耳にする日が多かったように思う。続けて来年以降のことを調べようとしてみたところ、そうなるのではないか、という憶測の言葉は散見されたけれど、気象庁からはそんな先まで予報は発表されておらず、三ヶ月予報がせいぜいだった。私はキリと他愛のない話しかしていないけれど、それが問題なく通じるということは、どんなに幅があっても、ここ数年の間にキリはいると考えて間違いないと思う。でも人にとって、年単位の差は大きな障害になる。一番近い来年の夏にキリがノートに書き込みをしていると仮定して、晩秋から冬になったばかりの私が今すぐ彼の元を訪れても、そのときキリは私のことを知らないのだ。
 確実に私たちが、お互いのことを知っている状態で出会うためには、暮らしている時間と場所を知らないといけないということなのだ。ノートはその手間を省いてくれたけど、ならノートから離れようとするなら、その手順をきちんと踏まないといけない。
 それは私もわかっていたけれど、でもキリに交差日記を通じて訊くことはできなかった。キリと交わした、お互いの生きている時間を知らないことにしよう、という約束もあった。でもそれ以上に、ノートによる隔たりが重要なものだったと、直接会うことを考えているうちに意識してしまったのだ。
 キリに会うのが、私は怖い。彼が悪い人でないことなんて、ノートでのやり取りで十分知っている。書かれる言葉は偽りのないものだったし、実直で、ときに幼い子供のように素直なものだった。ただ私はこれまでのおよそ二十年間、きちんと他人と関わってこなかったのだ。どうやって話せばいいかなんて、とうの昔に忘れている。もしかしたらノートの中にキリが最初現れたときのように、彼は私を自然と導いてくれるかもしれない。私は対人恐怖症とかではなかったけれど、でも挙動不審にはなってしまうかもしれない。そのとき、キリは私と会話をスムーズにしてくれるだろうか。そのことを考えたら、堪らなく不安で、怖くなってしまったのだ。
 結局私みたいな人間には、ノートを挟んだくらいの距離がないと、人付き合いなんて不可能なのかもしれない。そんな諦観が出てくると同時に、本当にそれでいいのかという焦燥も心の内に湧いてきた。
 焦りは物理的なものによっても促進された。ノートに挟まれている紙は無限じゃない。私とキリが夢中になっていた交差日記は、気付けばもう少しで書く場所を失おうとしていたのだ。
《念の為に確認。ミサキのノートには残りはどのくらいある? ボクの方は見開きで三ページしか残ってない》
《その後に最後の一ページがあるのよね。私も同じよ。どうしよう、これじゃあ一週間もしないうちに使い切ってしまうわ》
 もしかしたらこのノートと同じ力を持ったものが世の中には存在するかもしれない。でも私もキリも、それに心当たりはなかったし、二人して入手できる確率なんて計算することすら出来なかった。私たちが会話を出来るのは、目の前にある、残りが少なくなったこのノートだけしかないのだ。
 残されたページは、私のためにあるのかもしれない。お互いに連絡先を教え合って、上手く出会えなかった時のために予備として残りを使う。これだけの量があれば、直接会うまでに十分なやり取りが出来るはずだ。
 そう思いはするものの、シャープペンシルを持つ私の手は動いてくれようとはしなかった。
 私が苦悩していると、キリがあることを告げてきた。
《実は言えてなかったことがあるんだ。そして残りのページをボクのために使って欲しい》
 それからキリは具体的な内容を書き込んだ。ともすれば忘れてしまいがちなこと。相手の姿が見えないから意識が不足していたけれど、でもそのことはキリがすでに述べていたことでもあった。
《数日後に手術があるんだ。あ、別に大手術ってわけじゃないよ。これまでも何度か受けているものと差はなくて、脚にある傷口付近から、壊死した組織を取り除くことになってる。命に係わるとかそういうことじゃないから、そこは心配しなくていいんだけど、ただ手術だからやっぱり体力は消耗する。麻酔もかけるしね。これまで何度か経験しているはずなんだけど、正直に言って、不安ではある。ミサキとこうして話をするようになったからかな。どうやらボクは弱くなってしまったみたいだ。だから元気に手術室に向かえるよう、今まで通りに会話を続けてくれないかな?》
 キリが望むならその通りにしてあげたい。でもノートは有限なのだ。手術が終わったら、ノートの残りもなくなって交差日記も終了する。私たちの関係も、おしまいになる。
《もちろんボクはミサキとの交流をこれからも続けたいと思ってる。勘違いでなければ、ミサキもそう思ってくれてる。だから、最後の数行だけ、それだけは残しておいて欲しい。手術が終わったら、その成功を報告したい。そしてこれからも交われるよう、書き記したいことがある》
 私はその言葉の真意を悟ると、頬が真っ赤に熱くなるのを感じた。
 今使っているこのノートの代わりを、キリが見つけたとか用意をすると、その最後の数行に書くわけではないはずだ。それが可能だったらすぐに伝えているのではないかと思う。
 キリは、私と同じ気持ちでいてくれたのだ。彼も私に直接会いたいと思っている。最後に書かれるのは、出会いを果たすその場所と時間なのだ。
 出会うためには手術を無事に終えていないといけないのも確かだ。数日後に迫っているとのことだし、私は彼を応援するためにノートの残りを使い切ろう。自分の気持ちを伝えるのは後でもいい。それにキリの方から出会う場所を指定してくれる。彼の方からやって来てくれる。私たちの間には時間の差があるから、もしかしたらそれは何年か先のことになるかもしれないけれど、心躍らせながら私は待とうと思う。
 そう決めると、私はなるたけ平静を装って、了承の返事を書いた。キリも薄々気付いてはいるのだろうけど、その私の返事を合図にいつも通りの他愛ないお喋りが始まった。
 それからキリの手術の当日まで、私たちは急き立てられるようにノートを文字で埋めていった。別に焦ることも切羽詰まるようなこともなかったのだけれど、しばらくの間は交差日記での会話が出来なくなると思ったら、書いておきたいことがたくさん出てきてしまったのだ。おかげでキリとの約束だった、最後の数行を空けるのに苦労した程だ。二人して文字がいつもより小さくなって、結局二行しか空けられなかった。
 キリはそれで十分だと告げると、手術前に最後となる書き込みをした。
《手術では全身に麻酔をかけることになっているから、目覚めるのは明日になると思う。そのときに約束の言葉を書くよ》
 キリのそばに手術室に運ぶためのストレッチャーが来たようだ。病室から移動する彼が見逃さないように、急いで頑張るようにと書き込んだ。
 私のシャープペンシルを持つ手が止まり、そしてキリの文字も止まった。そこでようやく自室の静けさに気付く。すっかり彼との会話に夢中になってしまっていて、まるで病院のベッド近くで話をしているような気分になっていた。
 手術が終わるのは深夜になるとのことだった。麻酔も効いて寝ているとのことだし、どんなに早くても明朝までキリからの書き込みはないだろう。
 そう考えることで、私は自分の気持ちを落ち着かせた。明日には最後の、けれどこれからも二人の関係が続いていくための、大事な書き込みがされるのだ。胸の高鳴りはそう簡単には静まってくれそうにはなかったけれど、私はノートをそっと閉じると、部屋の電気を消し、素直にベッドへと向かった。
 翌日の朝、私はいつもより早く目が覚めてしまった。机の上のノートを開くが、まだキリの書き込みはない。顔を洗い、朝食を済ませ、仕事に行くための身支度を済ませる。でもノートに文字が追加されることはなかった。
 朝も早いのだし、キリからの言葉はなくて当然なのだ。いつも通りに仕事に行って、帰って来てから確認すればいい。それはわかっていたのだけれど、結局家を出る直前になって欠勤の連絡を入れてしまった。キリが書き込んでも、余白はないから私から返事は出来ない。それでも彼の言葉にすぐ何らかの反応をしたかったのだ。机の上にノートを開くと、私は文字が浮かび上がるのを待つことにした。
 始業時間になって、お昼になって、夕方になった。仕事が終わり、普段帰宅する時間になっても、キリからの書き込みはなかった。
 夜になっても、日付けが変わっても、最後の数行は埋まることがなかった。
 私は机に向かってずっと待ち続け、いつの間にか朝を迎えていた。不思議な力を持っていたノートは、まるで何の変哲もないノートのように、ただそのページを開き続けていた。
 その日を境に、交差日記で私とキリが交わることは、なくなった。


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# by zattoukoneko | 2013-11-22 19:25 | 小説 | Comments(0)

【小説】交差日記(2/5)

   ♪ 2 ♪
 翌朝、目が覚めてからノートを開いてみると、昨晩の文字は相変わらずそこにあった。それどころか続きまで書かれていた。
《まずは、ごめん。君が書いている内容を勝手に読んでしまった。何を書くか悩んでいたノートに、気付いたら文字が書き込まれていたんだ。そのことに驚いて、そしてどうしたらいいのかわからなくなった。でも理由はどうあれ、盗み読んでしまった事実に変わりはない。だからまずは謝っておくべきだと思う。この文字が見えていればいいんだけど》
 私が寝ている間に両親が部屋に入ってきた気配はない。筆跡も別人のものだった。赤の他人が侵入して書き残したとも考えられるけど、昨夜目の前でノートに文字が浮かび上がっていく瞬間を目撃していたから、その可能性も低い気がした。
 俄かには信じがたい。けれど私はこのノートを知らない誰かと共有している、そう考えるより外はない気がする。
 私は返事を保留することにした。まだ戸惑いが大きかったし、仕事にも行かなければならなかった。ただそうやって時間が空くことで、日記に文字を書いた相手のことを考える余裕が生まれた。
 最初に出てきたのは怒りだった。私は自分の感情を表に出さないから、職場でも周囲の人たちは気付いていなかった。でも私自身ならわかる。パソコンのキーボードを叩くときや、書類のコピーを取る際に、機器をいつもより乱雑に扱っていた。そもそもあの日記は誰かに見せようと思って書いていたものではない。誰かに見られないと思っていたからこそ、私はずっと抱えていた大事な思い出を綴っていたのだ。それを勝手に読まれていたのは、それなりにショックなことだったのだ。
 でもお昼休みの時間になった頃から、次第に気持ちも変じていった。怒りという高いエネルギーを必要とする感情を持続していることは私には出来なかったし、悲しみも入り混じって少し落ち着いてきたような感じだった。今朝に付け加えられていた文章を思い出す。少なくともあの文からは、私のことを馬鹿にしていたり、嘲笑っているような印象を受けなかった。本当に自分のしたことを、素直に告白し、謝ろうとしていた。その言葉が届いて欲しいと願っている感じだった。
 何だか、不思議な感覚を覚えた。これまでの人生で、ああやって真摯に話しかけてきてくれた人というのは、初めてのような気がする。当然だけれど、ほとんど私が会話をしないとはいえ、皆無というわけではない。仕事上必要なコミュニケーションくらいはするし、多くはないものの職場の人たちと飲み会などをすることもある。それに両親や親戚など、身内の人たちもいる。だから相手から話しかけられたり、頼まれたりすることは今まで何度もあった。でもノートに文字を書いた相手は、自分のことを一所懸命に伝えようとしている感じがする。姿も見えない相手に、謝罪の言葉を述べようとしている。
 帰宅の途につく頃には、少なくとも反発する気持ちはなくなっていた。相手の人も書いていたけれど、急にノートに知らない文章が書き込まれていたら驚くと思う。私自身も驚いた。だからしばらくは様子を見ようとするだろう。それからノートを手放すなり、事態を把握しようと仕組みを解明しようとすると思う。そして今回の相手はこちらに言葉を伝えてみようと、そのために筆を手にするというアクションを取ったということになるのだ。
 その行動は尊敬できるものだと感じる。私ならきっと出来ない。どうやって相手の中に踏み込んだらいいのかわからなくて、ノートから距離を置いてしまうと思う。これまでの私がまさにそうだった。人と接することに慣れていない私は、接触を試みてきた人物を排除しようとしていたのかもしれない。そのために最初に怒りを覚えたのだろう。自分の領域に踏み込み過ぎだと感じたから。
 でも文章を書いた相手に悪気はなかった。突然の出来事に驚いて、だからしばらく様子を見ていただけ。そして勝手に日記を読んでしまったことを謝ることにした。それはとても真摯な態度で、責められるべきところはないと思う。
 ただだからといって、私が返事をするかどうかは別問題だ。悪い人ではなさそうだけれど、これまでみたいに日記を書いていくことはできないし、どう接していったらいいのか皆目見当もつかない。見えています、気にしないでください、とだけ書いて、その後はノートに触れないのが無難だろうか。
 家に帰ってきて、自室で部屋着に着替えても、まだきちんと答えは出ていなかった。机の上にあるノートの表紙に触れ、しばし躊躇してからページをめくった。開かれたノートには、さらに続きの文章が書いてあった。
《もしかしたら突然のことに戸惑っているのかもしれない。ボク自身そうだったし。もちろんこの文字が君に見えていないという可能性もあるんだけど。何にしろ、ボクの話もしないといけないよね。勝手に君の書いているものを読んでしまったということもあるけれど、まったく素性のわからない相手に話しかけるのは難しいと思うし。ボクの名前は、キリっていう。十七歳なんだけど、高校には通ってない》
 その後に続くキリの自己紹介を読んで、どうして彼が、君の書いているものを読んでしまったということもあるけれど、と書いているのかを知った。その部分はキリにとっても、そして私にとっても、実は重要な意味を持っていたのだ。
《高校に行ってないのはサボりとかじゃないよ。長いこと入院してるんだ、脚に大きな怪我をしてしまったから。その傷口から毒みたいなものが体に回っているらしくて、これまでも何回か手術をしている。容体が安定したらまた手術をするとか。正直憂鬱だよ》
 それはユウキの境遇に似ていた。実際には、私はユウキのお見舞いに行ったことがないし、具合がどのようなものだったのかきちんとは知らない。ただ脚を怪我していることや、それが原因となって入院が長引いているということはそっくりだった。もしかしたらこのキリという少年は、私の書くユウキに共感する部分があったのでないだろうか。
 ただしまったく同じというわけでもなかった。人気者のユウキと違い、キリには友人が少ないみたいだった。
《高校にも行ってないから見舞いに来てくれる友人もいなくて。病院なんて娯楽もないし、何か自分で作ってみようかと、ちょっと前にノートを親からもらったんだ。透かしが入っていたりして不思議な印象のするノートで、だから特別なことを書こうと考えていた。でも何を書いたら面白いのかさっぱりわからなくて、持て余してたんだ。そうしたらある日突然、開きっぱなしのノートに文字が書き込まれていったんだ。それが君の文章だった》
 そこでキリはまた謝っていた。勝手に私の書いたことを見てしまって申し訳ないと。私はすでに気にしていなかったのだけれど、返事をまだしていなかった。だから彼は気になって繰り返してしまうのかもしれない。
 私はキリに返事を書こうという気になった。一番大きかったのは、何度も謝らせていては申し訳ないと思ったからだった。しかしそれ以外の要素も複雑に絡み合っていると感じる。状況は違うのだけど、お互いに他人と話すことが出来ないでいる。ユウキを介して、脚の怪我のことを共有してもいる。そしてこの不思議なノートで巡り会ったことに、少なからず運命のようなものを感じていた。
《キリさん、文字は見えています。私も急に書き込まれたものだから、本当に驚いてしまいました。だから内容を読んでしまったことは謝らなくて大丈夫です。私はもう気にしていませんから》
 そこまでシャープペンシルを走らせたところで、私は次に何を書けばいいのかわからなくなってしまった。相手がいるということを意識したら、言葉が上手く出てこなくなってしまったようだ。
 こめかみの辺りに手をやって考え込み、ノートを見つめる。そうしたらいきなり、しゃっと短い、けれどはっきりとした線が引かれた。それからすぐに、慌てているのがわかる速度でもって、文章が書かれていった。
《ごめん。返事が来たのが嬉しくて、慌ててシャーペンを取ったら手が滑ってしまった》
 私はその一連の出来事に、思わず吹き出してしまった。キリの容姿を私は知らない。でもノートの前で慌てる彼の様子が目に浮かぶようだった。
 気付いたら、私はキリにさらなる返事を書いていた。
《私なんかの返事が嬉しかったんですか? もしかしてずっと待っていたとか?》
 キリの応答はすぐに返ってきた。
《嬉しいに決まってるよ。ボクが書いた文章が君に見えているという確証はないんだから。待っていたかどうかというのは、うん、待っていた。病院に入院していても暇でやることなんて何もない。だからノートを開きっぱなしにして何度も目を遣っていたよ。今から思えば、あれは期待してたってことなんだろうな》
 キリの言葉は、私の気持ちを明るいものにしてくれた。これまでの人生で、私の言葉をこんなに待ちわびてくれていた人がいただろうか。ノートによる特殊な事態も関係はしているけれど、でもキリの書く文章は率直に彼の心情を表わしているように感じられた。だから私も嬉しくなったのだ。
《ところでよかったら君の名前を教えてもらえないかな。何て話し掛ければいいのかわからないんだ。あ、それと敬語でないことを許して欲しい。年齢が書かれたことがあったから、ボクより年上だってことは知っているんだけど、いざ畏まった文章を書こうとしたら筆が動かなくなってしまって。実は一度それでミスをしてるんだ》
《私はミサキです。ミスというのはもしかして一度書こうとして、翌日に消してしまったもののことですか? 言葉遣いは気にしないでください。むしろそちらの方がキリさんの言葉が自然なものに感じられます。むしろ私が堅苦しい印象を与えていないかと心配なくらいです》
《あ、あの時の失敗はしっかり目撃されてたのか。言葉が思い浮かばなくて、最初の一画目だけ書いていたんだ。その日は頭を悩ませて寝てしまったから、消したのは次の日になったんだけど。でも見られてたとなると、明らかに不自然な汚れにミサキには映ったよね。そういえばミサキの文章もあの日は一行多めに空けられていたっけ。ああ、そんなことを書こうとしてたんじゃなかった。名前と言葉遣いのこと、ありがとう。それが言いたかったんだ。どうやらボクは書き言葉が得意ではない気がする。少しまとまりに欠けるね。今は興奮気味というのもあるんだろうけど》
《興奮気味?》
《うん。ミサキとこうして会話することが出来たから。非日常的な経験だというのも関係してるとは思う。ノートでチャットみたいな会話なんて普通はできないしね。このノートからは何かケーブルが出ている様子もないし。その理屈も気にはなるんだけど、それ以上にこうやって誰かと話せているというのが堪らなく嬉しい。もしよかったら》
 そこでキリの書いていた文章が止まった。続きがあるようにしか思えないのに、十分経ってもその後は白いままだ。もしかしたらノートにあるかもしれないケーブルが切断してしまったのだろうか。それともキリの方に何かあったのだろうか。そういえばキリは病人として入院しているのだった。
 心配が頂点に達し、私はノートを使って呼びかけようとした。シャープペンシルを走らせる直前、ようやくキリが戻ってきた。
《ごめん。夜の検査を受けて来なきゃいけないらしい。しかもそれなりに時間がかかるらしくて、だから今夜はもう書き込めないかもしれない。それで改めてさっきの続きなんだけど、もしよかったらボクとこうやって会話をしてくれないかな。時間のあるときに書き込んでくれればいい。後からになるかもしれないけど、ボクは必ずミサキの書いたものを読む。これも交換日記と呼べるのかな。実際にはノートはずっとお互いの手元にあるわけだけど。無理強いはしないけど、ただ断るにしても返事を書いておいて欲しい。実は迎えに来た看護師を待たせてあって、すぐに行かなくちゃならないんだ。それじゃ、返事待ってる》
 そこで今度こそキリの書く文字は止まった。彼の言った通り、検査のためにノートから離れたのだろう。キリが戻ってくるのは大分先のことになるかもしれない。でも私はシャープペンシルを取ると、すぐに返事を書きこんだ。
《正直、私なんかが話し相手として相応しいのか自信が持てません。でもキリが私でいいと言うのなら、喜んで交換日記をしたいと思います。いいえ、私からお願いしたいくらいです。よろしくお願いします》
 その日の夜、私は楽しい夢を見た。一人の少年と仲良く談笑をしている夢。相手はキリなのだと思う。会話の内容は、目を覚ましたら忘れてしまったのだけれど、誰かと同じ時間を明るい気分で過ごしている夢は初めてのような気がした。
 すっきりと気分よく目覚めた私は、机に歩み寄り、ノートを開いた。そこには深夜にキリが書き込んだのか、交換日記を始められることを嬉しく思うという言葉と、それに慌てて付け加えられた検査の報告が記されていた。すべての検査結果が出るのは少し先になるとのことだけど、昨夜わかった分に関しては良好とのことだった。
 キリの具合が良いらしいと聞いて安心した。けれどそれ以上に、ノートの先に私とはまったく性格の違う、生きている一人の人間がいるのだと知れて、そのことが無性に嬉しかった。
 私たちの間で始まったやり取りは、交換日記と呼べるのか少々怪しいものではあった。時間が合えばチャットのように会話を楽しんだけれど、一方で私には仕事があり、キリには検査や病院で決められている消灯時間があったから、そのときには交換日記に近いものになった。ただ何にせよ、その形式が私には助けになった気がする。本当の交換日記だったら、何か面白いことを上手にまとめて書かなければいけないと力んでしまって、うまく文字を綴れなくなってしまったと思うのだ。リアルタイムで交わされる会話があったからこそ、私はキリとの交流を続けられたし、そしてキリは私から言葉を引き出すのが上手だった。
 そんな感想を伝えたら、キリはこう返してきた。
《そうかな? ボクは特に何かを意識して話しているわけではないからよくわからない。むしろ病院生活は変化がなくて退屈なものだから、ミサキに飽きられてしまわないかと不安なくらいだよ》
《意識していないからいいのだと思う。それに病院での生活も、何もないからこそ、安心して話せる気がする。変に身構えてしまう必要がないもの》
《確かにそうだね。よく考えてみたら病院で何かがあるって一大事だし。それなら退屈な方がいいや》
 キリのその言葉に、ノートを前にしていた私は笑ってしまった。自分が病人であるという意識が、彼からは抜けている気がする。
 頬を緩ませながら、改めて私は筆を走らせる。
《さっきの身構えてしまう必要がないというのは、私の方の問題なのよ。私は病院にも入院してないし、元気に普通の生活をしている。なのに日々に何の変化もない。キリに話して聞かせるような楽しい話題を用意することが出来ない。けれどキリが自然体で接してくれるから、無理して話題を探す必要がないんだって、そう気持ちが楽になるの》
《無理して話題を作っても駄目だよね、上手く話せなくなってしまう。ボクはミサキとはノートの中で出会ったら挨拶をするように会話が自然と出てくる関係でいたいと考えてるし、だから日々の生活に変化があるかどうかなんて気にすることはないと思うよ》
《それならキリも病院での生活に変化がないなんて嘆く必要はないわね。こうやって何気ない会話をしているのがいいのでしょう?》
《ミサキは痛いところを突くなあ。その通りだね、ボクも自分の生活が退屈なものだなんて考えは捨てることにするよ》
 キリとの会話は、とても楽しかった。普段まったく喋ることのできない私が、彼を相手にするとすらすらと言葉が出てくるのだ。これまで友人と会話をしてこなかった長い年月を埋め合わせるかのように、私はキリとの交流に夢中になった。
 でも同時に、この交流が上手く成り立っているのは、間にノートがあるおかげだとも強く感じていた。実際にキリを目の前にしたら、話が出来ないと思う。私はそこまで器用な人間じゃない。
 それでも誰かと話が出来ているという感覚を持てたことは、私にとって大きな前進だったのだ。ある日の夕方、母の料理を手伝っていると、急にこんな指摘を受けた。
「珍しいわね、ミサキが鼻歌なんて。職場でいいことでもあった?」
 言われるまで気付かなかった。まったく意識なんてしていなかった。何か特別なことがあったわけではない。キリとの会話もこれまで通りで、お喋りをしているだけに過ぎない。だからいいことがあったわけではない。ただ、日々の出来事を敏感に感じ取れるようになったと、そのようなことは思った。
 これまで何百回も歩いている通勤の道も、日によって見え方や感じ方が違うのだということを知った。それはとても当たり前のことなのだけれど、今までただ歩くことしかしていなかったから、そうした日々の変化に鈍感になっていたのだ。
 家に帰った私は、さっそくノートを開いて書き込む。
《今日は風が強くて、寒かった。季節が一つ先に進んでしまったのかと思ったわ》
 そこまで書いて、ひどく手がかじかんでいることに気付いた。ペンを上手く動かせない。温かい飲み物でも持ってこようと、一階にあるリビングに向かう。冷蔵庫からミルクを取り出すと、マグカップ一杯分のココアを作った。それを手に、自室に戻る。それほど時間は経っていなかったはずだけれど、ノートにはしっかりとキリの返事が書き込まれていた。
《ボクは室内に籠もりっぱなしだったからわからなかったな。でも寒いと感じるなんてよっぽどだね。確かに例年よりは気温が低いって聞いてるけど、冷夏とはいえ夏だし》
 そのキリの言葉を、私は訝しく思った。マグカップを机に置くと、すぐに書き込む。
《もう秋も終わる時季だわ。冷夏って、一体いつの話をしているの?》
 書きながら、私の頭には一つの推測が浮かんできた。俄かには信じられないことだけれど、でもキリは嘘を言ったり、冗談を言うようなタイプではないことはこれまでのやり取りから知っている。
《もしかして、私たちの過ごしている時間には差があるということ?》
 私はずっと、キリとは同じ時間を過ごしているものだと思っていた。チャットをしているのと同じで、お互いに居る場所こそ違えども、日付けや時間は変わらないと。でもこのノートはパソコンとは違う。理屈はわからないけれど、私たちが書いた文字を、空間を越えて運んでいる。空間を越えられるなら、時間だって越えていてもおかしくないのではないだろうか。
 キリは私の推測を認めつつも、一つの疑問を呈してきた。
《ミサキは秋を、ボクは夏を過ごしている。とりあえずだけど、ミサキが未来にいると仮定しよう。そうすると、どうしてミサキの書いた文字がボクに見えるんだろうか? 過去にいるボクが文字を書けば、それがミサキに見えるのは自然なことにも思えるけど》
 キリの仮定は残念ながら間違っている。私の過ごした今年の夏は猛暑だったし、冷夏と呼べるようなものはもう何年も訪れていない。おそらくキリが未来にいるということで間違いないだろうけれど、その場合、今度はキリの文字が私のノートに写し出されるのが不思議ということになる。
 けれど私たちが持っているノートが別の物だとしたらどうだろうか。ただ空間や時間を越える能力は同じで、二つのノートに同時に文字を写し出しているという考え方だ。
《それはボクも考えた。パソコンで例えると、お互いに見ている画面の表示は同じだけれど、ディスプレイが違うということだよね。同一の物を異なる二人が違う場所で所有しているというのも奇妙だし、こうやって文字を書き込んで最初の使っていない状態から変えているなら尚更にね。どうやって最初のノートを手に入れたんだって話になるし。でもそうだな、今書いているページの右上の方、ボクのノートにはそこに細くて黒い汚れのようなものがある。ミサキの方はどう?》
《糸くずのようなものがあるわ。消しゴムでも消せないし、ボールペンとかのインクでもないみたい。おそらく透かしを入れる紙の間に挟まっているのだと思う。でもこれってキリが出来ることではないわよね。本当に私たちは、一冊のノートを別々の場所で同時に持っているということなの?》
《そう考えるしかないと思う。その場合、どうやってボクとミサキの二人が未使用のこのノートを手に入れたのか、それが一番の疑問になるけど》
 私たちのノートは、瓜二つだけれど、やはり別の物ということだろうか。文字を行き来させているくらいだから、体裁が似ているくらいはあり得る気がする。もしくは二人ともが文字を書き込んだことで、時間が二つに分岐し、並行世界が生じたのかもしれない。突飛な考えではあるけれど、そもそもこのノートの存在自体が摩訶不思議なのだ。そのくらい飛躍した思考をしないと、理屈を知ることなんて出来ないのではないだろうか。
 問題のノートを前に、私が頭を抱えていると、キリが新たに書き込みをしてきた。
《まあ、あまり気にしても仕方ないし、どうでもいいことかもね》
 彼の言葉に、思わず私は呆気に取られてしまった。そんなに簡単に放り出していいことなのだろうか。もしかしたら私たち自身に重大な影響を与えているのかもしれないのに。
《だからこそ、かな。ボクたちにとって大事なのは、こうやって話が出来ていることなんだと感じるんだ。ノートの存在や仕組みじゃない。今まで深く気にせず会話を楽しんできたし、これからもそうしていけばいいんじゃないかな》
 目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだと思った。ノートの不思議さに気を取られ、いつの間にか私はフィルターをかけていたらしい。チャットや電子メールを使うとき、私たちはその理屈を気にしたりはしない。大事なのはそこに書かれている内容であって、そしてキリはそれと同じだと言っていた。
《ただこれくらいは言えるかもしれない。確かにボクたちは時間も空間も違う場所にいる。時空を別にしていながらも、でもこのノートの上では交わることが出来ている。そういう意味でこのノートは特別なものだし、大事なものではあると思うよ》
 それからキリはこんな提案をしてきた。
《これまで何となく交換日記としていたけど、違う言葉の方がいいかもしれないね。だってノートはずっと手元にあって、交換なんてしていないんだし。そうだな、さっきまで話していた異なる時空に住む二人が交流している場ということを踏まえて、交差日記なんて呼び方はどうだろう?》
 私はその名前が気に入った。すぐにキリにそう伝える。
 時間や場所の隔たりはあるかもしれない。それでもキリという一人の人間と確かに交われているのだと感じられて、それがとても嬉しかったのだ。



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# by zattoukoneko | 2013-11-22 19:24 | 小説 | Comments(0)

【小説】交差日記(1/5)

   ♪ 0 ♪
 生まれて初めて人を好きになった。
 最近の調査に拠ると女子の初体験の年齢は、平均すると十五歳くらいになるらしい。どこが出しているデータで、信頼に足るものなのか、そこまでは私にはわからなかったけれど、それでも、自分は遅れてるんだな、と思わせるには十分なものだった。
 別に無理をして人を好きになる必要なんてないと思う。自分の本心を偽って恋愛してみたところで、得るものなんてないと考えてる。だから好きになれなければ自然と好きだという感情が生まれるのを待てばいいし、それがおばあちゃんになって初めて得られたとしても、その恋に夢中になれたら幸せなんじゃないだろうか。
 ――それこそ、自分を偽ってる言葉だ。
 恋愛したいに決まってる。無理にする恋は駄目だとは確かに思っている。けれど、好きになる、というのはどういうことか。自ら誰かを好きになるように行動をしなかったら、そもそもそんな気持ちは生まれないのではないか。パスツールは微生物の自然発生説を否定した。宇宙に満ちている素粒子だって宇宙が誕生して間もない頃にその性質や数が決定し、それ以来宇宙を形作ってきた。喩えが変かもしれないけど、そういう小さくて基本的なものですら、自然に生み出されることはないのだ。なら気持ちというのも自然発生なんてしないのではないだろうか。だから、人は誰か好きになるという気持ちが生まれる環境を整えなければ、それを持つことも出来ないのではないかとも思うのだ。
 悲しい気持ちや怒りの感情だって、勝手に生じるものではない。部屋に独りでいるのが淋しいなら、それは独りであることを悲しむ土壌が育っているということ。同じように急に怒り出す人というのもそういう素地を抱えているからそうなる。日常生活のイライラが溜まっていたり、過去の経験から琴線のようなものが内にあって、それに触れるような出来事が発生すると怒鳴り散らしてしまうのだ。
 私はようやく人を好きになった。それまでずっと人を好きになろうという姿勢になれなかった。これまでの間、無理に恋愛して失敗するよりマシなんだと言い聞かせ、さらに自分の心を封じ込めてきた。本当は誰かを好きになることはそんなに難しいことじゃなかったんだ。とっくに第二次性徴は現れていたし、体は恋愛する準備を整えていた。後は心の成長だけ終えればよかった。異性の存在を意識することだけできれば、自然と好きになる感覚を覚えていたと思う。ただ私は自分の心を封じ込めていたから、この年齢まで初恋を経験することが出来ていなかったに過ぎない。
 私はすでに二十五歳になっていた。

   ♪ 1 ♪
 元々、私は人付き合いがあまり得意ではなかった。引っ込み思案とか、人に接するのが怖いとか、そういうわけではない。ただ唐突に襲ってくる疎外感が嫌だった。学校の教室、みんなでそれまで普通に話していたはずなのに、急にその輪に加われなくなることがある。昨夜観たテレビ番組の話とか、発売されたばかりの漫画雑誌の話とか、それを見ていないと喋りたくても何を言えばいいのかわからなくなって、そうすると笑みを浮かべながら黙って楽しそうな友人らを眺めているしかなかった。みんなは共通の話題を持っている。でも私はそれに触れたことすらない。知らないところで仲間外れになっていたんだと知り、同じ空間にいるはずなのにすごい距離を感じた。そして小学校の高学年になった頃からそれは顕著になっていった。
 みんなが好きな人は誰かという話をするようになったのだ。私がその輪から外れるのは、あっという間のことだった。
 それより前から女子の友達でも距離があると感じていたのだ。同じ話題を持ってない。そのことが私をみんなから遠ざけていた。女子同士ですらそれなのに、男の子のことなんて知るはずもなかった。私が知っているのは出席番号と氏名と、それによって浮かぶ容姿だけ。最初のうちは何とか話の輪の中に加わろうと努力した。秋本君はほっそりした顔で全体的に整っているのだけど目が細くてぱっとしないだとか、柳沢君は背も高いし運動神経も抜群だけど成績は悪いとか。でもそれって表面的なことだと思う。お喋りとしては軽い悪口を言い合うだけでよかったのかもしれないけれど、じゃあ誰が好きかと問われたら、私は答えることができなかった。そのときに人気があった男子生徒の名前を挙げてはぐらかし、そして自分の中に広がる困惑に耐え切れなくなって逃げ出した。私は恋愛話をしているときにはみんなに近寄らないようにし、結果としてどこの女子グループからもあぶれてしまった。いつの間にか、休み時間も、放課後も、一人だけで過ごしていた。
 放課後は学校に残っていてもやることがなくなってきた。女子たちはお喋りの続きをするためにあちこちで輪を作っていたし、男子は校庭で野球やサッカーをやったり、あるいは誰かの家でゲームをしようと相談していた。中学、高校に進むと、みんなは部活に熱中するようになったが、その頃には私は完全に仲間外れになっていた。結局、私はそのどこにも加わることができなかった。
 かといって家に帰ってもやることはない。両親は共働きだったし、兄弟もいなかった。けして大きな家ではないけれど、一人でいたら孤独を感じるのに十分すぎる広さがあった。むしろそのことを強く意識してしまうから好きではなかった。
 そんな私には、たった一つだけ寄り道をできる場所があった。商店街の通りにある小さな古本屋だ。光明堂というのだけれど、その店名にそぐわず、いつも薄暗い。店内にはいくつもの本棚が並べられているから、陽が出ている時間帯でも、そこまで明るくならないのだ。棚と棚の間は人が何とかすれ違えるくらいの幅しかなく、そもそもすれ違うために頻繁に体を移動させるほど、客の入りは多くはなかった。奥にあるレジにお婆さんがいつもいたけれど、何時間立ち読みしていても文句の類は言われず、好きなようにさせてくれていた。そんな適度な狭さと距離感が、私にとってはとても居心地が良かったのだ。
 古本屋の存在は中学に上がって間もない頃に知った。その後高校に進んでも、大学に入っても、そして五時にはきっちり終わる事務仕事に運良くありつけてからも、私は帰りにその店に通い続けた。人付き合いもその間に多少は変わったが、根本の部分がどうにもならなかった。そんな私を迎えるように、古本屋の佇まいはずっと変わらぬままだった。
 その日もいつもと同じように店へと足を運んだ。学校に通っていた頃よりは帰りは遅くなっていたけれど、それでも両親が帰宅するには時間がある。その時間を潰すべく、私は本棚を眺め始めた。秋の夕陽が、本の背表紙に茜色を差している。
 何年もここには足を運んでいるけれど、並んでいる本はハードカバーがメインで、小説に限らず専門書も多かった。そのせいか、開いてすらいない本がまだたくさんある。今日はどれを読んでみようかと、棚に並べられた本の背表紙を順に見ていく。
 そうしていて、ふと、奇妙なことに気付いた。分厚い専門書の間、ほんのわずかな隙間がある。目を凝らしてよくよく見てみると、隙間が空いているわけではなく、薄い本が挟まっているのだとわかった。引き抜いてみると灰色の冊子が出てきた。背表紙はおろか、表紙にもタイトルはなく、何か説明文のようなものもない。本来は何かカバーでもあったのかもしれない。そう思いながらページをめくると、中は罫線が引かれているだけで、あとは何も書かれていなかった。それはただのノートだったのだ。
 どうしてこんな古本屋にノートがあるのだろうと訝しく思う。と同時に興味も惹かれた。
 一般的なキャンパスノートとはかなり違っていた。灰色の表紙には刺繍のような見た目の金色の唐草紋様が描かれている。中のページは何枚か毎に糸で束ねられており、それを集めて一つのノートにされていた。ページの一枚一枚にも結構な厚みがあって、普段使うものの二倍以上はある。その白い紙の上を指先で軽くなぞりながら観察していたら、ぼんやりと何かの絵があることに気付いた。一枚だけ指に挟んで店内の照明に翳してみると、透かし絵が浮かび上がる。他のページも確認してみると、すべてに透かしが入っていた。確か透かしを入れるには複数の紙を重ねる必要があったはずだ。だから自然と各ページに厚みが生まれているのだろう。
 可愛い類のものではない。機能的に特別優れている様子もない。けれど私は手にしているノートに得も言われぬ魅力を感じていた。見た目が他のノートとかなり違っていたということは一つの要因だったと思う。特に透かしの存在は大きかった。透かし入りのノートというものがあるという話は聞いたことがあったけれど、実物を手にしたことはなかった。でもそれだけではこんなにも惹かれなかったと思う。普段から通っているこの場所に、こんなノートが置かれていたということが、何よりも私の心を動かしていた。
 レジに向かいながら、このノートは売り物だろうかという不安を覚えた。古本とは言えないと思うし、どうして専門書に挟まれて置いてあったのか。その不釣り合いな感じが、私に疑念を抱かせていた。しかしそれは杞憂だったらしい。店の奥にいたお婆さんは自然な手つきでレジを打ち、百三十円だと告げてきた。高すぎも安すぎもしない、その普通の値段に拍子抜けしながら、代金と商品の受け渡しを済ませる。それから外の商店街に通りに出てから、ようやく気付いた。
 私がこのお店で買い物をしたのはこれが初めてだったのだ。こんなにも長い間通っていたというのに。
 帰宅すると、家にはまだ誰も戻っていなかった。私は二階にある自室に向かうと、買ってきたノートを机の上に置く。ただそれだけのことなのに、昔から使っている勉強机の雰囲気ががらりと変わった。改めてそれは特別な何かなのだと感じる。少なくともただのノートとして使おうという考えは私にはなかった。その装本に相応しい、大事なことを書こう。
 けれどいざノートを開き、まっさらなページを目の前にして、私は頭を抱えてしまった。具体的に書くことを決めていなかったからだ。私の日常なんてありふれたものでしかない。それどころか人と接することが少ない分、他の人より何事も起こっていない。文章を書いたり、絵を描くのも得意ではなかったから、創作するというのも無理な話だ。ノートに写すだけの価値を、私は持っていない気がする。
 でもこのノートは誰かに見せようと思って買ってきたものではない。私だけのものとして買ってきた。だったら価値があるかどうかはわからないけれど、自分にとって大事なものを記せばいい気もする。文章として形にしていくことで、自身の気持ちの整理くらいはできるかもしれない。
 そう考えたら自然と頭に浮かんでくることがあった。随分と昔の出来事で、ふとした拍子に思い出してしまうこと。今でも気にかかっているその内容を、このノートに書き綴ってみるというのはどうだろうか。文章も誰かに聞いてもらうような形にするのが良いかもしれない。実際に相手がいるわけではないけれど、話し言葉にすれば心の内を吐き出しやすくなるように思う。ただその話は長くなりそうだし、毎日少しずつ書いていくようにしよう。現在の出来事ではないけれど、これも日記と呼べるのかもしれない。
 一番の軸となる内容が固まったら、他のことも次々と決まっていった。いざ書き出そうとシャープペンシルを手にしたところで、母が階下から呼ぶ声がした。考え込んでいる間に帰宅していたらしい。夕飯の準備を手伝ってくれるように言っている。私はそれに了解の返事をすると、忘れないうちに決めたことをノートに書き留めておくことにした。
《今日からずっと気になっていることを書いていこうと思います。中学校三年生の冬の出来事です。私には話し相手がいないので、これまで打ち明けることが出来ないままでいました。交通事故に巻き込まれそうになった私を助けて、代わりに大怪我を負ってしまった男の子の話です》
 そこまで書くと私はノートを閉じ、母の手伝いをすべく部屋を出た。
 次の日から私は寄り道をしなくなった。ノートに自分の気持ちを書いていくことに、次第にのめり込んでいったのだ。文字を綴っていると不思議な気分になる。本当に誰かに話を聞いてもらえているような、そんな感じがする。元々話し下手だったせいか、書いていく順序はバラバラだ。全然時系列に沿っていなくて、でもそのおかげで自分の気持ちに素直に書くことが出来た。
 あの事故は私自身の注意不足で起こった。横断歩道の信号が青に変わり、私は車道へと足を踏み出した。自動車が猛スピードで近付いてきてることに気付いていなかった。悲鳴のような甲高いブレーキ音に振り向いたとき、運転手と目が合った。そのくらい接近されていた。直後に私は吹き飛ばされる。でもそれは自動車にではなく、同じ中学の制服を着た男子生徒にだった。
 男子生徒の顔は知っていた。クラスが同じだった。私が起き上がったとき、彼は血溜まりの中にいた。片方の脚が自動車のタイヤに巻き込まれている。本来ならあり得ない方向に曲がっているとか、そんな生易しいものではない。駆けつけた救急隊員は脚を引き抜くことは無理だと判断し、その場で切断していった。救急車に乗せられクラスメイトが運ばれていく。そしてそこに至ってもなお、私はその彼の名前を思い出せずにいた。
 学校に行ったら事故の話で持ちきりだった。相手の男子生徒は人気があったらしい。私はみんなから距離を置いていたから、その彼がユウキという名前だとそれまで知らなかった。誰かが言った。ユウキが事故に巻き込まれたのは私のせいだと。正確には違う。でも否定は出来なかったし、私はみんなと話をしなかった。それまで気にも留められていなかったのに、疎ましがられ、あからさまな嫌がらせも受けた。そのことが嫌じゃなかったと言えば嘘になる。でもそれ以上にユウキの方が苦しんでいたと思う。事故現場で切断した脚の傷口からよくない菌が体に入ったらしく、入院が長引くことになったらしい。そんな話を虐めてくる女子生徒から聞いた。そして、結局ユウキは卒業までに学校に戻ってこれなかった。
 私がユウキのことを気にかけ始めたのは、事故前だったのか、事故後だったのか、正直わからない。普通に考えれば事故後ということになると思う。それまで名前も知らなかったのだから。でも助けてもらったときに知ってる顔だと気付いたのだ。他のクラスメイトだったら、きっとそれすらわからなかった。だから前々から意識していたのではないかとも思うのだ。ただそれは恋愛感情とかではなく、教室で人気の彼を羨ましく感じ、知らず知らず目で追っていたということなのだろうけど。
 お見舞いに行かなかったことを今でも悔やんでいる。いつしか私は、中学を卒業してしまったから、それも仕方がないことと考えているようになっていた。そうやって自分を納得させようとしていた。でも母校に行って担任の先生に連絡先なり入院先を教えてもらえばよかっただけのことだし、卒業アルバムにだって住所が載っていたはずだ。中学にいる間に病院を訪れなかった理由にもなっていない。結局、私は話をする勇気も、そのための行動力も持ってなかったということなのだ。
《私はずっと過去のその出来事が気にかかっています。もう二十五歳にもなって、取り返しがつかないのに。もし時間を巻き戻すことが出来たなら、私はユウキにお礼を言いに行きたいと思います。ただ実際にその状況に置かれたら、意気地無しの私は動けなくなってしまうかもしれません。そんな自分がとても嫌いです。こんな私に何ができるでしょうか》
 そこまで書いたところで、私はシャープペンシルを机の上に置いた。日記を書き始めてそろそろ一週間が経とうとしている。想いをしたためることで、自分の抱えていたものの正体に気付けてきた。元々の私は、自分から距離を置いて、みんなから離れていった。話が合わないとか、そのことによって感じる疎外感が嫌だからという理由で。でもユウキの件があって、私は本当に人と接するのが怖くなってしまったのだ。どんな顔で彼に会えばいいのかわからない。お礼なり謝りの言葉を伝えたところで、ユウキが許してくれるかどうかは別だ。自分から心を近付けようとして、それを拒否されたらと怖くなってしまったのだ。その気持ちを私は今に至るまでずっと引きずっている。あの一件で私の中身は大きく変わってしまったのだと、しみじみと感じた。
 その気付きを今のうちに日記に書いておくべきだろうか。今日の分と合わせると随分と長くなってしまうかもしれない。悩みながらノートに視線を落とし、そして私はおかしいことに気付いた。
 開いているページの隅の方、そこに皺が寄っている。普通のノートだったら気にもならなかったかもしれない。ただ日記に使っているこのノートは、一枚一枚がかなりの厚みを持っていて、だからちょっと手を置いたくらいではそんな皺なんて出来っこなかったのだ。
 最初は両親かと思った。私の知らないうちにノートに触ったのではないかと。ノートはどこかに隠したりはしておらず、机の上に置きっぱなしだったから、部屋に入ってくればすぐに見つかるだろう。でも二人とも無断で私の部屋に入るようなことはしない。それに今日の分を書き始めたとき、そこに皺なんてなかった気がする。
 何だか不気味な感じがした。先程気付いた自分の抱えているものは明日書こう。そう決めるとノートを閉じた。
 次の日の夜。不思議なことはまた起こった。書き始めようとノートを開いたら、昨日書いた文章のすぐ下に短い線があったのだ。そんなものはなかったはずだ。よくよく見てみると、シャープペンシルの線らしいとわかった。ノートを閉じるときか、開くときに、誤って引っかいてしまったのだろうか。私はノートを綺麗に使いたかったので、力を入れすぎないように注意しながらも、消しゴムをかけた。でも何度擦ってもその線は消えてくれなかった。
 実際にはシャープペンシルの跡ではなく、ノートの紙の中に何かが入っているのだろうか。そして私はそれに気付いていなかった。透かしが入っている分ノートのそれぞれのページは複雑になっているし、作る過程で何かが混入していたとも考えられる。昨日まで気付かなかったことを訝しく思ったけれど、そう考える以外にないような気がした。私は頭を切り替えると、その汚れがあるところを空行にして、今日の分を書いていった。
 そしてさらに翌日。ノートを開いた私は、思わず声を上げてしまった。
「そんな、どうして昨日の跡が消えてるの?」
 昨夜、私はノートにあった細い線を避け、数行空けて文章を書いていた。だからその文章のすぐ上にはあの汚れがあるはずなのだ。だというのに、今見るとそこには何もない。まるで私が空ける行数を間違えてしまったかのようだ。
 私はシャープペンシルを手にすると、問題の線があった場所を思い出し、そこに重なるように一本の線を引いた。当たり前のように引かれる黒鉛の線。それから消しゴムでそれを消してみた。私の書いた線はあっという間に薄くなって、完全になくなってしまった。
 意味がわからない。シャープペンシルで線が引けることや、消しゴムでそれを消すことができるのは当たり前のこと。でも私が直面している現象は何だというのか。勘違いとか、気のせいで片付けることができるのだろうか。
 眉根に深い皺が寄っているのを感じる。私は力を抜いて、体を椅子の背もたれに預けた。
 その目の前で、また不思議なことが起こった。シャープペンシルを手にしている私は、ノートから手を離している。なのに白い紙面の上に線が引かれていったのだ。
《この文字が君には見えている?》
 明確な意識を持ったその線に、私は怖くなった。慌ててノートの表紙を閉じると、今日の日記を諦めて、ベッドの上で丸くなった。


2/5へ
# by zattoukoneko | 2013-11-22 19:23 | 小説 | Comments(3)

水の上を走りたければ、月に行けばいいじゃない!

先日の9月12日に2013年のイグノーベル賞が決まりました。
今回はその中の一つである物理学賞を取り上げるのと、イグノーベル賞そのものについての私の見方など。

まず、イグノーベル賞とは「笑わせてくれ、考えさせられる研究・成果」に与えられる賞です。
ざっくり言ってしまえば、「いい研究だけど、これにはノーベル賞あげられねーw」というものに賞を与えます(ですのでノーベル賞では故人は受賞の機会がありませんが、イグノーベル賞では受賞資格がある)。中にはイグノーベル賞自身が“笑わせ、考えさせる”になっているのでは、と感じるものもあり、1991年に水爆の父エドワード・テラーが「平和のに身を考えさせることになったため」で受賞しているのが何だか皮肉っぽいです。
先の「ノーベル賞あげられねーw」の理由は様々で、声を大にして言いたくないなってものもあれば、社会の益にはならないからというものもあります。なおノーベル賞は社会の発展に寄与する(もしくは、寄与すると予見される)研究に与えられるものです。そう考えると、一見バカバカしいイグノーベル賞受賞研究こそが、純粋無垢な科学研究の姿なのかもしれないとも思えてきます。
イグノーベル賞と科学の関係については後述するとして、せっかくなので今年の受賞研究にも触れておこうと思います。

取り上げるのは物理学賞。「月面での重力下であれば人間は水の上を走れる可能性があることを実験によって示唆ことに対して」でAlberto Minetti、Yuri Ivanenko, Germana Cappellini、 Nadia Dominici、Francesco Lacquanitiが受賞しました。
受賞理由だけだとよくわからないので、簡単に解説。
トカゲは非常に短い距離であれば、水の上を走って渡ることができます。これを真似して、急いで左右の足を出していけば人間だって水の上を走れるはず――というマンガがあったような気がします。
では本当に可能かどうかを計算してみたところ、人の体重を水の上に乗せるにはとんでもない筋力が必要だとわかったのです(余談ですが、人が空を飛ぶとしたら、羽を動かすためには胸囲が3メートルくらいないといけないんだとか。それと似てますね)。
ですので人間が水の上を走るのは不可能――だったら、重力の少ない月で走ればいいんじゃね?
――ということで、これを実験しちゃったわけです。月面上と同じ重力下で試した結果、6人中4人が、水の上を10秒間走ることができたとか。
「そんなに水の上を走りたいなら、月に行けばいいじゃない!」→「(゜Д゜)?!」となったので、イグノーベル賞というわけ。
注。実際の考察はそんな言葉遣いしてませんでした。
社会の役に立つかどうかだけなら地球上では水の上を走るのは不可能とわかっただけで十分なのに(いや、そもそもそれを調べること自体が有益がどうかも疑問ですが……)、月ならばどうなのかという徹底した調査っぷりがいいと思います。
それは近い未来に人類が月で生活するから――ではなく。要請(=最初の仮定)から重力が大きな足かせになると出ているので、そもそもその前提が正しいのかどうかを調べたものだからです。仮に地球の1/6の重力しかない月面上でも水上走行が出来ないとなれば、重力や、それに抗う筋力だけが問題ではないとわかるからです。そうなれば更なる研究・調査が必要になりますね。
……もし月の重力でも走れなかったら、トカゲの体の構造から未知の部分が見つかることに繋がったり、不思議な力が仮説として出てきたりしたのかも? それだったらノーベル賞になったかもしれないけど、それ以前にSFですね。

物理学賞についての話はこのくらいにして。
このように見てみると、イグノーベル賞は科学者の活動について多くの示唆を与えてくれるような気がします。科学研究はどのように行われるべきか、そのお手本を示すような事例に賞を与えるようにしているのではないか――とも思います(他の例も挙げますが、話がごっちゃになりそうなので後回し)。
ただし『イグノーベル賞を通じて』と『実際の科学活動の場で』研究を見るのとでは、やはり大きく異なるものです。実験室研究などと呼ばれる、研究者と一緒に生活しながら、日常の発言まで記録しながら科学活動はどのようなものか調査するというものが一昔前には流行っていたこともあります。それによると「科学とはこういうもの~」という理論と実際とでは違ったとか。ラトゥールのアクター・ネットワーク理論とかその辺りだったと思うので、誰か説明してぷりーず!(マテ
いずれにしても、イグノーベル賞の目の向いている先が科学活動の考えさせられるものであるならば、それを足掛かりにして科学の在り方に思いを馳せることも出来るのではないでしょうか。

そうしたものとして興味深い受賞例を一つ。これは今年ではなく、2011年の生物学賞です(ブログ記事にしたつもりだったのに、あれー?)。
タマムシの仲間が、ビール瓶をメスと勘違いして交尾をしようとすることがある、という発見に対して与えられたものです。
これだけだと『なんだこりゃ?』とか『タマムシってバカなんだなw』で終わってしまいそうですが、この研究が示唆しているのは姿かたち(や、その他いくつかの条件)が似ていれば、本物でなくても異性と思って興奮する可能性がある、ということ。こういう事例は割とよくあるし(水族館のイルカに抱き心地の良いパイプを上げたり)、そうした勘違いが昆虫にもある、あるいは逆に高等生物でも同じ仕組みで起こっているのかもしれない、という具合に広がりが出てくるものです。なるほど、通りで日本人は二次元に以下自重。
研究成果そのものの広がりにも興味が湧きますが、ここではイグノーベルがこれに注目したということについて。
この研究で観察されていたのは、オーストラリアの砂漠にいるタマムシだそうです。ビール瓶はそこに転がっていたもの。イメージして欲しいのですが、あなたは砂漠の中を歩き回り、タマムシを探しています。陽の照る中、視線の先に黒っぽい、目当てのタマムシらしきものがいます。けれど近寄ってみたら、ただの空き瓶。『ハズレかよー』と溜め息を吐きながらよくよく見たら、瓶よりはちょっと小柄なオスのタマムシが。しかもそいつは交尾をしようと頑張ってる最中。あなたはきっと思うことでしょう。『こいつバカだなw』と。自分も間違えていることは棚に上げつつ。――イメージですよぅ!
ともあれ。砂漠の中に落ちているゴミ。そこに乗ってたタマムシ。交尾してるからといって、普通は『たまたまだなー』とか『そういうこともあるだろうな』と片付けてしまうのではないでしょうか?
受賞したD.T. GwynneとD.C.F. Rentzはこれを見逃さなかった。何かきちんとした理由があるのではないかと調査をすることにした。これが成果となって、(イグノーベル賞ではありますが)認められることになった。
こうした能力のことを「セレンディピティ」と呼んでいます。

セレンディピティについてちょっとだけ。
日本語に訳すのが難しい語のひとつとされていて、また概念としてもちょっと捉えにくい。誤解されている単語のトップ5に入りそうな気がします。
「失敗したときに成功への道を見逃さない能力」とか「幸福(な偶然)をつかむ能力」、もっと端的に「閃き」だと思われています。外れてはないのですが、他のものと混じりそうな気がします。成功失敗にかかわらず、本来であれば見逃してしまうようなものに目を留める能力、という感じです。なのでタマムシはその事例としてわかりやすい。
セレンディピティの有無は先天的なものだと言われています(ですので自己啓発本などに書かれているのはまず役に立たない)。それに加えて多くの経験を積むことが必要だとされ、そうした中から『こういうこともあるよなーw ……本当にそうか?』となるようです。この『……』のところがセレンディピティなんだろうというのが、私の捉えているところです。

イグノーベルに話を戻して。
セレンディピティが果たして本当に先天的なものかどうか――という議論も面白そうですが、少なくとも科学活動の中でそれが働いている場面というのは実は多いと思います。ノーベル賞などをもらって、社会的にまばゆいばかりのスポットライトが当たるのはその中の一握り(なお、ノーベル賞には「生理学賞」はあっても「生物学賞」はないので、そもそもこのタマムシ研究は受賞することはないです)。
科学活動とセレンディピティに関係については、今後さらに注目されていくだろうと感じています。そのときにイグノーベル賞受賞者に焦点を当ててみるのは、結構面白いんじゃないかと感じています。

以上、二つの事例を持ってきて、「イグノーベルは科学研究を考察するのに使えるんじゃないかなー?」と言ってみました。
他にも多くの受賞者がいるし、そもそも科学だけが賞の対象ではありません。また途中でもちらっと述べましたが、ここで話しているのは現場を見ないで、他の場所で考察されていることと照らし合わせただけ。あくまで「これって面白いんじゃあ?」という感想、よくて示唆です。
日本人の受賞者も出ているからか、社会的にも注目を集めつつあるようだし、対象となる研究がいわゆる科学の本筋とはちょっとずれてますが、いい研究・調査として……イグ科学論研究ってつかないといいなー?
# by zattoukoneko | 2013-09-14 00:17 | 物理 | Comments(0)

国語「主人公の気持ちを答えなさい」

国語の記述式問題は、採点の際の基準が非常に細かく設定されています。
必要な要素が入っているか、本文中にある言葉を抜き出せているか、それを既定の文字数に収められているか、です。
特定の問題を例として持ってくることは難しいのですが――主人公が嬉しいと感じていることを書けているか、それを端的に表す言葉が本文にあるならそれを抜き出せているか――といった具合です。
また問題で指定されている文字数というのは、この必要な要素を入れると大体ぴったりになるように設定されていて、解く側が自由に文字を埋めたり削ったりする余裕はありません。というか増減できる時点で解答として間違っています。

国語の採点をしてことのある人にとっては当たり前の話なのですが、「子供の自由な発想を妨げている!」と感じる人もいるのかも。
けれどその意見は的外れで。
小説であろうが随筆であろうが、国語の問題は厳密に作られています。解答はみなが納得できるものとなっていて(一応補足。納得できるというのは「大多数の人が」ではなく「万人が」という意味です)、なぜなら論理的に導けるか、その前後にはっきりと書いてあるからです。
すなわち解答者が想像する余地などそもそもないということ。
そうした理由からか、現代文で感情移入しちゃう人ほど、点数が悪かったりします。読めていない部分を自分の想像で埋めてしまっているためですね(なお、きちんと読み取ったうえで感情移入している場合もあり、なのでより正確に言うなら、「感情移入しがちな人は国語の点数がテストによって差が激しくなりがち」となります)。

国語教育(に限らずですが)に求められているのは、論理的な思考と相手の見解を聞く姿勢を持つことだと思います。
筆者の思想に追従しろということではなく。その人がどういう前提に立っているか、そこからどのように結論を導いているか、それをきちんと読み取れるようにする訓練をしています。小説であれば、その相手が筆者ではなく登場人物に変わるだけ。
言い換えるなら「相手の言ってることをまず聞こうぜ!」です。ですから「子供の自由な発想を妨げている!」は的外れだとしました。他人の言うことを聞かずに自分の考えだけを述べる人って鬱陶しいじゃないですか……。
実際の日常生活では他人の気持ちを知るにあたって、相手の表情や仕草も見ています。言葉はその中の一つ。国語はその重要な一つをきちんを受け取れるように教えていると見れると思います。

記述式ではなくセンター試験ですが、私の知ってるエピソード。
たまたま聴いていたラジオのパーソナリティだかゲストが作家だったらしく。またその年のセンター試験にその方の文章が使われていたそうです。問題はありがちな「筆者はここで何を考えていたか?」というもの。
試しに解けるかと問題を見せられたのですが、その方は「え、ここ書いたとき何も考えてなんかなかったよ」と言いました。
ここまでなら「答えは『何も考えてなかった』じゃん。国語の問題なんてあてにならねー」となりそうですが、この方はCM(が挟まれたと記憶)の間に文章を読み直していて、正しい答えを選びました。
問題作成者は筆者があまり意識せずにいた部分まで読み取ったのかもしれません。でもそれは筆者も納得するものであり、また他の受験生にとっても同じであった。
このエピソードはとても興味深いと思って、今でも覚えているものです。

「問題」である以上、解答があり、それを導くプロセスがあるはずです(そうでなければ問題作成者が叱責される……)。日頃読む文章の中には(筆者の考えがまとまっていないのか何なのか)曖昧なものもありますが、そういうのは問題として設定されることはありません。学者が議論しているようなものもならない――とは言わないですが、せいぜい大学生になってから。
国語は小説を取り上げていて、また読んだ人の印象に残りやすいのは小説だからか、物語の登場人物や読者である生徒の気持ちを入れてしまいがちのように感じます。国語は「読み書き+論理問題」で、少なくともテストではそう割り切るべきものだと思います。
――どうせ読むなら、ついつい感情移入しちゃうような文章がいいですけどね。
# by zattoukoneko | 2013-08-19 18:34 | 受験関係 | Comments(1)

縦書きブログ始めました

――なんてタイトルにしておきながら、この記事は横書きなんですけどね!
まあ、その理由は後述するとして。今までアップロードしたものの一部(小説のカテゴリで、数回分の長さに及ぶもの)を縦書きにしてみました。
サンプル;『絶体零度』

HTMLを利用していて、上手く表示されるのはIEだけかな?
やり方は、
<DIV style="WRITING-MODE: tb-rl; WIDTH: 100%; HEIGHT: 500px; OVERFLOW: auto;" >ここに文章を入れるだけ</DIV>
です。
他にもたてぶさんや、縦書きブログさんなどがあります。

縦書きブログは増えつつあるようで、見かける機会が多くなってきました。出版業界を中心にさらに増えそうな予感。
縦書きを想定して書かれている文章は当然読みやすくなりますし、レイアウトにこだわることでブログを綺麗にすることも出来そうです。
一方でこれまでに普及しているブログが横書きなので、サイトを移ったときにちょっと戸惑うことも。また、私が縦書きに変更したのも小説の一部で、これは普段の記事やショートショートだと逆に読みづらくなると感じたことによります。
読みづらさの原因は、ウェブページ自体が上下にスクロールして見るものだからだと思います。本のページを繰るのとは方向が違う。なので話の展開は下に向かった方がぱっと見で読みやすく、結論やオチは最下部にあった方がよいのでしょう。
(補足ですが、人は文字を読むとき、一文字ずつ追っているのではありません。読んでいるところの周囲の文字も視界に収め、あらかじめ理解すること読解をスムーズにしています)
こうした理由から、長編小説のような長い文章の場合には縦書きの見栄えを重視し、短い文章では読みやすさを重視するのがよいだろうとしました。なのでこの記事は普段通りの横書きとなっています。
まあ、それだけではなく、タグを途中に入れたからというのも大きい理由なのですが。

ただ実際に縦書きにしてみて思ったのは『やっぱり紙に印刷したのとは違うなー』ということ。当たり前ですが。
単に縦書きにしただけでは、小説などがそれっぽく見えるという程度。ページをめくっていくのとはかなり印象が違います。横スクロールがその役割を果たすと思ったし、ある程度はその効果もあるとわかったのですが……ウェブの上下のスクロールと混じっているからか、あるいはページ間のタイムラグがないからか、感じ方が変わってしまいました。
実はこの記事を書く前に、このブログの看板娘をやってくれている雪音の小説を縦書きでアップロードしてみてました。ページをめくっていくのが遊びになっているものなのですが、それが上手く表現できていないような気がして、結局2時間程度で削除してしまいました。
縦書きブログは面白そうではあります(なので私もたまには利用してみようかなと)。けれどその魅力を引き出したサイトはまだないと感じる。
「簡単に気軽に投稿できるブログ」という場に「見栄えのよい縦書き」を使えるようにすることで、「すでにあって、内容を把握しやすい横書き」を超える付加価値を生み出すことができるのか。気にかけておいてもいいテーマではないでしょうか?
# by zattoukoneko | 2013-07-20 05:23 | 雑記 | Comments(7)

方程式を見つけた八百屋さん

魚屋だったかもしれません(ぇ
これはちょっとした「お話」で、次のような内容になります。

***

昔、小学校を出て家業の八百屋を継いだおじいさんがいました。
おじいさんは収支の計算を何十年も続けるうちに、ふとあることに気付きます。
自分の発見は素晴らしいと思ったそのおじいさんは、それを整理し、ついに大学の数学教授に成果を見せに行くことにしました。
八「求めたい値を甲と書き、等号で式を作ります。この後数を左右で入れ替えることで、甲の値を求めることができるんです」
教「すごいですね。これをお独りで発見されたんですか?」
八「はい、そうです」
おじいさんは数学史上に残る大発見をしたと思っていました。さぞや立派な賞をもらえるに違いないと期待していました。
数学教授が、おじいさんに“教え”ます。
教「これは方程式と呼ばれ、16世紀頃に成立したと考えられています。未知数はxで置くのが一般的ですね。今では中学校で教えられているものです」

***

当然ですけど、おじいさんは何も賞はもらえませんねー。
一見するとダメなおじいさんですが、私が聞いたものには後日談があり。
教授に出会ったことで数学の面白さに目覚め、大学の授業に参加することを認められます。そして中高に通っていないことや、年齢を感じさせない早さで内容を習得していったとか。

様々な捉え方ができる深い話だと私は思っていて、中学三年生~高校一、二年生を対象に使わせてもらうこともあります。
ストレートな受け取り方をすると「中高の勉強は大事!」になるのかな。
もう少しひねると「先人はすでに多くの業績を生んでいるから、まずは学びに行こう」となる気がします。年齢重ねると、自分でうだうだと考えてしまって、他人に聞くことをしなくなりがちですし。
だたもう一つの捉え方も重要だと思っていて、それは「そもそも考えることをしていなかったら、はたしてこのおじいさんは数学を学び取ることができただろうか?」というもの。これは後日談まで含めるとより実感が湧くし、教授の「すごいですね」という言葉も皮肉ではないとわかる。授業に参加しているだけで成績が伸びるなら、誰も苦労しませんからね。

どのような捉え方をするか、重きを置くかは、聞いた人の資質に拠る気がします。ただ学ぶ姿勢を考える上で、とても面白い話だと思っていて、だから私は中高生相手に披露しています(私自身、最初に聞いたのがその頃だったというのもありますが)。
上記した以外の捉え方もできるかと思います。小話として使うのもありかもしれませんね。時には「方程式ってなんだっけ?」と返ってくることもありますし(いや、ホントに)。
# by zattoukoneko | 2013-05-11 10:38 | 受験関係 | Comments(0)

『世界を凍らす死と共に』4-4-2


 放課後の美術室で俺が絵を描く準備をしていると、遅れて柊がやって来た。彼女は俺が引っ張り出してきている画材を見て少し驚いた表情をしてみせたが、ある程度は予想していたのではないかとも感じた。
 俺は手元にあった絵具を一つ取ると、それを柊に示しながら告げる。
「コンクールへの出展も考えると今から油彩の勉強をしている時間はないし、今回は水彩画にしようと思う。一応小学校の頃にやっていたからある程度覚えているとは思うんだけど、実際に絵具を混ぜて色を変えるのは久しぶりだし、彩色するのもそのときのレベルで止まってる。だから指導をお願いしてもいいかな?」
 それを柊は承諾してくれたのだろう。ただ確認のためか違う言葉で尋ねてくる。
「結局鉛筆画や木炭画はやめることにしたのね」
「まあな。柊には駄作だと評価されていたし、俺も今ではそう感じてる。それに描きたい対象も出てきて、それには色があった方がいいと思ったから変えることにした」
「そう。なら御薗木くんの好きなようにすればいいと思うわ。描きたいものを我慢して他の絵に手を付けても、そうそういいものは生み出せないから」
 自分のキャンバスを引き出してきて椅子に座った柊は、眼鏡を脇に置く。しかしすぐには作業には取りかからず、俺と話をすることにしたようだった。
「それで題材は決まっているのかしら? コンクールへ出展するのなら急がないといけないわけだけれど」
「実はまだ悩んでいる途中なんだ。具象画にするか抽象画にするかも決まってない。まあコンクールはいざとなったら諦めるよ。絵を描く以外にもやらないとならないことがあるし。推薦してくれた顧問の先生や、枠を譲ってくれた他の部員には頭下げなきゃならなくなるけど、仕方ない」
 それを聞いた柊は、絵のことよりも別のことが気にかかったようだった。
「時間がないというのは立花先輩のお見舞いに行くからかしら。面会時間を考えるとここにいる時間はほとんど作れなくなるわね」
「それは大丈夫。特別に時間外でも先輩の病室に行っていいという許可を貰えたんだ。どうやら立花先輩が押し切ったみたいなんだ。手術は受けることにしたけど、代わりに俺に会えるようにしろって。以前の先輩だったら考えられない行動力だと感じるよ」
 もしかしたらまだ虚勢も含まれているのかもしれない。でも表面的なものだけだった頃とは違っていた。昨日も会いにいったのだけれど、入院している身とは思えないほど生気に満ち満ちていた。
 俺はそのことを嬉しく思いながら報告したのだけれど、柊は視線を鋭くしてこちらを睨みつけてくる。
「仮初めのものだったとはいえ、わたしたちは付き合う約束をしたほどの間柄なのよね。あまりに浮気が過ぎると、夜道で急に刺したい衝動に駆られるかもしれないわ」
「……もしかしてまだ危険なナイフを持っていたりするのか? それと目付きが怖い」
「冗談よ。ナイフももうないし、人を襲うなんてことしない。何かあれば御薗木くんが相談に乗ってくれるそうですもの。あと前にも言ったはずだけれど、目付きは眼鏡を掛けていないせいよ」
 俺は思わずこめかみを押さえてしまった。柊も大分感情を表に出してくれるようになったけれど、表情はあまり変わらないままだし、そのせいで冗談だとわかっていても冗談に聞こえないことがある。
「まあ立花先輩との面会は約束していたことなのだし、守らないといけないでしょうね。けれどいくら許可を貰ったとはいえ、あまり遅くに会いに行くのも失礼だわ。そうなるとやはりコンクールに絵を間に合わせるのは難しくなるかしら」
 そこまで話した柊は、急に内容を変えて知らせてくる。
「ところでわたしが少し遅れてここに来た理由なのだけれど、実は早乙女くんを顧問の先生のところに案内していたのよ。急にコンクールに自分も作品を出したいなんて言い出して、けれど顧問が誰か知らないから教えてくれなんて、呆れるにも程があるわよね」
「ちょっと待った。隼人がコンクールに出展するのか?」
「その交渉をしているところよ。いくつかデッサンを見せたら顧問の先生もその力量は認めていたようだし、御薗木くんがリタイアするということになれば早乙女くんが選ばれることになりそうね。他の部員も描きあげられたものを見たら渋々でも納得するでしょう。だから穴が開くことは気にしなくていいんじゃないかしら?」
「むしろそれを聞いたら隼人に負けたくないという気分になるよ。この前は完敗したけど、今の俺はあのときと違うわけだし」
「あらそう。なら精々頑張ることね」
 それだけ告げると柊は自分の絵に向き直った。どうやら彼女なりの応援だったらしいとそこで気付く。ずっと面倒を見てきたわけだし、今回の件でも深く関わった。その分柊は隼人よりも俺に期待しているのかもしれない。
 なら俺も出来得るだけのものを絵で表現しないとならない。柊には題材は決まっていないと言ったけれど、本当は描き方が決まっていないだけで、何を主題にするかは決まっていた。
 それは今回の一件で見た想いの渦だ。みんなの想いが絡み合い、それぞれ向いている方向は異なっていながらも、最終的に一つの現象を生み出していく様を表現したい。それは彩りに溢れていたから、だから木炭画や鉛筆画ではなく水彩画にすることにしたのだ。油彩画のように重ねることで想いの蓄積を表現することは出来ないが、代わりにお互いに融け合って新しい色を生み出す様子を表現するには水彩画の方が適している気もしていた。
 問題は構図だ。しばらくの間白いキャンバスを眺めながら今回のことを振り返る。そうしながら、結局俺は俺としてこの件に関わっていたのだよなと結論付ける。なら少なくとも中央に描かれる対象は決まった。
 まだ気が早いけれど色を塗ることにすでに胸が躍っている。その高揚を楽しみながら俺は下書きを始めた。

   了

# by zattoukoneko | 2013-05-07 05:50 | 小説 | Comments(0)


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