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科学とは何か

科学であるとはそもそもどのようなことであるか、大まかに見てみようと思う。方向は三通りで、科学哲学の側面から、歴史および科学論の側面から、科学理論の側面からを考えている。
何故こういうことをするかというと、今ある科学(およびそうではないとされるものへの)批判の多くが、科学が何かを理解しないままになされていると感じるからである。理論の節で挙げる例だが、ホメオパシーに対する批判では「希釈しまくって有効成分なくなってるとか、それただの水だろ」は的外れにも程がある。私はホメオパシーを支持するわけではないが、批判をするのならばきちんとした方法論と手続きを取らなければならないと考える。さもなければ相手の間違いを指摘できないどころか、自分たちの支持する学問体系の在り方を傷つけることになってしまう。
東日本大震災以降、科学/技術の在り方を問うような姿勢が出てきたように感じられていたのだが、どうにも西洋科学パラダイムにどっぷりと浸かったまま支持なり批判を繰り返す人がなくならない。今一度、私たちがどのような基盤(=パラダイム)に乗って生活をしているのか、それを顧みるべきだと思い、ブログ記事タイトルを「科学とは何か」とすることにした。


この節では科学哲学の側面から科学とは何かを考察する。とはいっても本当にざっくりとしたものだ。
よく挙げられるのはカール・ポパーの反証可能性だ。これは科学の命題(≒仮説)は常に間違っていることを示せる状態にあらねばならないという主張である。
たとえば地球上での重力加速度は9.8m/s^2とされているが、それが真であるか偽であるかを私たちはいつでも確かめることができる(計測する機材を持ってないと当然難しいが)。旅行先で測ってみればよくて、ハワイで測ったり、アラスカで測ったり、行き帰りの飛行機内で測ったりすればよい。やってみると実は場所によって9.8m/s^2でないことがわかる。地球は自転をしているからその遠心力の分増減するし、地表から離れれば距離の2乗で減衰していく。
重力加速度はわかりやすいデータの例であったが、他にも生物は自然発生することはない、というものでも反証を試みることは可能だ。首長フラスコの中から液も空気も抜き取って、ずっと観察していればいつかは生物が生まれるかもしれないではないか。その可能性まで科学は否定していないし、それが起これば自然発生説が覆されるか、あるいは覆さないまま何故そうなったのかと新たな探求が始まる。
ここで重要なのは、科学の仮説は実験と観察によって反証が試みられるということである。実験や観察は正当な手順を踏んで為されたものであり、その手順に妥当性があると考えられるゆえに、反証をする力があるとみなされる。ようは命題や仮説は日常の経験から導いても構わないが、反証する際には『何となく違う気がする』では駄目だということである。夢の中で見たヘビの輪を事実ではないとほどきたいのなら、それ相応の手続きを踏まなければならない。
科学というのは命題を掲げると、それ以降ずっと反対意見に曝されることを受け入れる学問体系なのである。そしてその反対は、説得力ある方法によってのみ許される。説も手段も常に厳しく監視される状態にあるからこそ、それは確からしさを獲得するのだ――というのが反証可能性の立場である。


しかしながら、この反証を試みることが常に行われているかというとそうでもない。何せ科学の仮説は膨大にあり、そして複雑になっているからである。
たとえばある化合物の分子軌道を確かめるために描出しようとした場合、コンピュータなどにその構造を入力する。コンピュータの中では量子物理学に基づく計算がいくつも行われるわけであるが、私たちはその妥当性を疑うことをしない。見るのは描き出された分子軌道の在り方のみである。このように主要仮説を確認する際に私たちは補助仮説を正しいと決めてしまうことがある。この補助仮説の詰まったコンピュータ部分はブラックボックス化していると科学論では言う。科学の現場ではしばしばこうしたことが行われているのである。
これでは反証可能性にきちんと従っているとは言えないのではないか。それに答えるのが科学論や科学史である。ブラックボックス化した器具や理論体系を用いたとしても、その実験観察は一人だけでは成立しない。科学者は論文を学会に提出し、査読を受け、その正しさを吟味される。そしてそのような科学者の集いは、国や社会に認められるべきだと働きかけてきた。王立科学アカデミーがそのメルクマールであり、現代に至るまでこの努力は続けられてきている。
技術の方と混雑することを恐れずに言うと、特許制度などもそういう意味で重要だ。徒弟の中だけで受け継がれる秘術では、たとえそれがどんなに優れていようとも、社会的に認められる力は小さい。職人がどんなに良い工芸品や料理を作っても、その技を世界中に浸透させることはできない。ゆえに科学/技術に劣る(なお念の為付記しておくが、ここで述べているのは万人に納得してもらえる能力や方法についてであり、その芸や伝統に優劣を付けるつもりは私にはない)。
専門家集団をつくることが重要というのは、何も科学に限った話ではない。情報を開示・共有し、新しい説に対して批判を加える。それを行なうとして社会に認められる。これによって学問は正当なものになるのであり、ゆえに歴史学では学会の成立をその学問の成立の年と慣例的にしているのだ。
このようにして、いくらかのブラックボックスや“お決まり”はあるにせよ、多くの専門家に厳しく精査され、社会からも監視される立場に置くことによって、科学はその理論に力を持たせることができている。


さてここまでで見たように、仮説と実験観察を軸にした反証可能性によって自らを縛り、専門家集団を作り上げることで、科学は科学となる。ではその条件をすべて満たしたものはすべて科学とみなされるのだろうか? 実はそうではないのである。
超心理学という学問がある。そこで行わる実験の例を書くと次のようなものになる。「完全に隔離されている実験室AとBがある。Aにいる被験者aに何枚かのイラストが描かれたカードを見せる。一枚選んでもらい、そのイラストを強く頭に思い浮かべてもらう。それに合わせて実験室Bにいる別の被験者bにもカードを選んでもらう。aとbが同じカードを選ぶかどうかを調べ、それを統計的に処理して有意な差があるかどうかを調べる」
これだけ見ると「なんだテレパシーか。オカルトじゃないか」という人もいるかもしれない。テレパシーなのは確かだが、オカルトかどうかになると話が違う。上記したように、超心理学者はテレパシー(すなわち遠隔的な思考伝達能力)が存在するという命題を証明するために、実験室をきちんと分け、そして数学的な手法として統計学を用いてその有意さを確認しているからである。すなわち科学的手法にきちんと則るべく、反証可能性を掲げ、正当な手続きを踏んだ実験と観察を行なっているのである。
それだけではない。超心理学者は自分たちが科学的な学問を営んでいるのだとし、大学内で研究室の獲得や学位授与を行なっている。規模は小さいが、科学たろうと努力しているとは言えるだろう。
しかしながらこれに対する風当たりは強い。その原因の一つが、先の「オカルトじゃないかよ」を、科学者らからも向けられていることだ。方法論も社会的立場も正当な手続きを踏んでいるにも関わらず、なぜ科学として認められないのか。そもそも『オカルト』とは何なのか。
オカルトとは、理論の側面から言えば、現在の西洋科学のパラダイムに乗っていないものとみなすことができよう。すなわち遠隔作用力によって物事を説明する立場のものだ。西洋近代科学は、デカルト以降近接作用力によってのみすべての事象を説明しようと試みてきている。昨年ヒッグス粒子の発見でノーベル賞が出たことは記憶に新しいが、これも重力の発生機構を近接作用力によtって説明しようとしてきた物理学者の努力の実りと見ることができる。宇宙は歯車が組み合わさってできた時計のごとく、隣接するものによってその動きが伝わっていく。体の中では様々な化学物質が行き来しており、その伝播と反応によって信号の伝達が行われる。粒子によってすべては繋がっているはずだ、というのが西洋近代科学の根本を成すのであり、そしてその思想が現代の私たちの生活を支配している。ゆえに遠隔作用や粒子以外による伝達を認めたがらない。
このようなことは超心理学だけであることではない。ホメオパシーなどもそうだ。ホメオパシーとは有効成分(時に毒物であることもある)を水によって何度も何度も繰り返し希釈し、有効成分が1分子すらないような薄い液(レメディと呼ぶ)を作って患者に投与し、治療をするというものである。有効成分がなければただの水じゃないか――というのは西洋科学パラダイムに乗った私たちの見方である。ホメオパシーでは物質はなくなったが特有のパターンは継承されていると考えており、それゆえに有効成分の毒性をなくしながらも、患者に影響を与えうるのだと主張をしている。なお、パターンというのはホメオパシー独自の概念ではなく、古くは中国科学で基にされていたものであり、波形の類似で物事を説明していく。
ホメオパシーは詐欺まがいの商法が出るなど実害が出ているが、それはそれだ(それは方法論や社会的な認知=制度に従っていないことになる)。今回述べている方法論や専門家集団の形成という点ではさほど西洋科学と差はない。あるとすればその基盤たるパラダイムが異なる。パラダイムが異なるのだから共役不可能性が出てくるのは当然であるし、よって超心理学やホメオパシーを西洋科学のパラダイムに乗ったまま批判するのは完全な誤りである。
またその存在を否定されこそしないが、西洋科学によって侵蝕されている学問分野もある。先程少しばかり触れたが、中国の東洋医学などである。東洋医学はそもそものパラダイムが西洋のものとは違っているのであり、その成分が体内でどう働くかなど考えていない。しかしながら現代の医療や製薬の現場では、その成分の抽出と患者への投与ばかりに目が行ってしまっている。漢方はその成分が複合されている状態だから効くのかもしれない。あるいは有効成分が働く部位とは別のところに、体のバランス(≒パターン)を変えることで影響を与えるものなのかもしれない(これは鍼灸の遠隔的な作用に基づく想像だ)。西洋医学のパラダイムのままでは東洋医学は理解できないし、もしかしたらいずれは同じ結果に辿りつくのかもしれないが非常に遠回りをすることになるのだろう。
以上のように、西洋科学はそのパラダイムに非常に固執しているのであり、そしてそれは現代の私たちも同じなのである。私たちは共通のパラダイムに乗って通常科学を日夜営んでいるのであり、別のパラダイムに乗ったものは方法論や専門家集団がどれほどしっかりしようとも排斥する。このようにして科学/技術というのはその存在を確たるものにしているわけである。


以上のことをまとめると「科学とは、科学的方法論を順守し、専門家集団として社会に認知され、みなと共有するパラダイムに乗って行われる営為」ということになる。これを踏まえて科学/技術とはどう付き合うべきか、私なりの考えを以下に記したい。
まず、私たちは西洋科学パラダイムに乗っていると自覚することから始めるべきだと考える。少なくとも科学/技術に対しては、私たちは近接作用を軸とした西洋科学の様式に則った説明を求める傾向にある。であるならば、その立場にあると常に意識しながら、自分たちの支持や批判が正当であるかどうかを吟味しなければならない。
次に、パラダイムが異なるものに関しては、思考様式がまったく違うのだと認めるべきであると考える。特に西洋医学と東洋医学の関係は、このままでは残念なことになるのではないかと心配する。確かに私たちは他国の言語を学ぶとき、母国語ならどう言うのかと考えてしまいがちだ。しかしその言語をマスターするには母国語を基盤にしたままでは理解できない。ずっと辞書を片手に東洋医学の翻訳を続けているのが、現在の西洋医学なのだと感じる。
最後に、方法論、集団、理論によって科学/技術が自らを成り立たせていると自覚すべきだと考える。今はまだ批判ばかりの時代だが、いずれは科学/技術の成り立ちをもきちんと理解して、支持するか否かを考える時代になると思う。どうにも出てきた結果ばかりに逐一反応して賛成や反対をしているように思えてならないのだが、方法論に間違いがあったのか、組織内の手続きに不備があったのか、そもそも理論や思想体系に誤りがあったのか、そのどこに注目しているのかに関して自分の立場を明示すべきではないだろうか。
震災以降、科学/技術そのものの在り方を問う気運が起こった気がするのだが、いつまで経っても日本における公害のような、結果に対する企業や国への批判ばかりが先行しているように感じる(それはそれで重要なのは認めるが)。大きな転換点になり得たはずのものを逃さないよう、私たちが一体何を意識しているのかを再度見つめ直すべきだと感じる。その最も大きなものとして「科学とは何か」を、ここで改めて記すことにする。
by zattoukoneko | 2014-01-01 19:29 | 社会・経済 | Comments(3)


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