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【小説】『絶体零度』4-4-2


4-4-2

 「寒さ」というものは何だろうか?
 人間に限らず生物というものは皮膚上にある温点・冷点で周囲の温度の高低を感知する。周りにある空気の温度とはすなわち気体分子の運動エネルギーの高さであり、どの程度激しく運動していて衝突するかという機械的な刺激によって温度を知るのだ。それは電気信号となって神経を通り、脳に至るとその情報が解析され知覚する。そこまでではまだただの情報の域を出ないが、それがどういうものであるかを理解することで認識に至る。
 私は長らく「寒さ」というものを知らなかった。認識するところまで至らなかったからだ。当然生きているのだから神経は自然と励起され電気信号を流すのだが、それを知覚することは出来ても理解することはできなかった。殊更に「寒さ」というのは「冷たさ」と違って感情に根差したものだ。だから心の動きの鈍い私は認識できないまま、そして「寒さ」をきちんと理解できないまま今に至ってしまったのだ。
 けれど今ならわかる気がする。だから――「寒さ」とは一体何だろうか?
 ――――
 私にはあまり多くの友人はできなかったけれど、とても仲の良い親友は出来た。瑠璃は厳しくも優しく私のことを叱咤激励してくれた。恭介はゆったりと自分のペースを崩さずに、そしてそのおかげで場を取り持つ役割を担ってくれていた。
 今回の件で二人には多大な迷惑をかけてしまったし、そして舞美を殺したのが私だとわかった以上、さらに厄介事を押しつけてしまうのは間違いない。私は何度も何度も頭を下げながら、助力を求めていくのだろう。彼ら彼女らとの関係をこれからも続けていきたいから。
 それと舞美の肉親ともきちんと和解しないといけないだろう。私は彼女から身内の話を聞いたことはないけれど、彼女を殺してしまった責任は負わないといけない。もちろん刑事事件として法律できちんと裁いてもらうことも考えている。ただ法よりも人との関係が大事だと思うからそれとは別に自分なりにやれることはやりたいと考えている。
 雪奈もこれから大変だと思う。彼女は自身の手で私を刃物で刺してしまったし、舞美の遺体を自分の部屋に隠匿していた。彼女の精神はとても不安定な状態にあったということが考慮されるだろうが、まったくの無罪になるのは難しいだろうし、そうなれたとしても判断にはかなりの時間がかかるだろう。
 また彼女を支えてあげる人間が必要だろう。ようやく世界は舞美だけで構成されているわけではないと知ることができたわけだが、独りだけの力で歩いていくのはまだ難しいと思われる。どんなに成熟した人間だって挫けるのは普通のことだし、立ち直れるだけの気力がなければそのまま沈んだ底から這い上がれなくなる。そのような時に傍にいてくれる人間の存在が彼女には必要不可欠だ。肉親を失くし、信じることすら出来なくなってしまった彼女にはそれに代わる人が要るはずなのである。
 ――――
 私は暗澹とした視界の中でそのようなことを考えていた。空からはまだ冷雨が降り続いているはずで、肌にはその感触を確かに覚えているのだが、何故かその滴の形をきちんと捉えることはできなかった。
 季節は秋から冬になり、本来であれば寒いと感じるはずなのだと思う。しかし私は体の内から熱が生じるのを感じていた。むしろ暑いとすら感じる。結局のところ「寒い」だの「暑い」だのというのは心に深く根付いているものだということだ。
 もちろん機械的な作用など一切関係ないと主張するつもりはない。ただそれによって誘起されるのは神経の興奮だけであり、せいぜい脳内でのデータ処理にまでしか至らない。人の心や脳は簡単にその情報を無視したり、改竄してしまうものなのである。それを考慮することがようやく認識や認識している対象が何かを知る一歩となる。
 私は随分と長いこと心を無視して生きてきたから自分の周囲にあるものをきちんと認識することが出来ないでいた。だから私の住んでいる世界に色はなかったし、風が吹いていることも実感できなかったのだ。ただ他の人から『こうである』と言われることを盲信し、自分の体験とすることができなかった。あるいは刹那や舞美のような人間を通じて憧憬を抱くだけで、それは旅行雑誌の紹介写真や文章を読んで想いを馳せるだけの行為と何ら変わらないものだった。
 私は記者として文章を書いてそれを他人に読ませて生活の糧を得ているし、東京という大都会に住居を構えている。田舎の出身としてはこの地の自然の少なさを淋しく思うこともあるが、だからといって田舎や自然を賛美すべきだと主張するつもりはない。私の周りには都会育ちでもきちんと心豊かに生活している人がいたのだから。そして逆に私は心を失って生きていたのだから。
 結局のところ心をきちんと持てるかどうか、そしてその上で物事を把握して考えていけるかどうかが大事なのだ。私のように思考するばかりで感情の伴わない論は、瑠璃の言葉を借りれば所詮『哲学もどき』に過ぎない。
 私が雪奈や自分の今後のことを心配する気持ちはけして『哲学もどき』ではない。心が伴っているから「温かい」と感じているのだ。これが机上ででっち上げたものではない証になるだろう。
 ……どのくらいそのようなことを思っていたのだろう。時間の感覚がもうなくなっていた。けれどすでに暗くなった視界の向こうに雨が降り続いているのを感じる。大量の雨に濡れたアスファルトに、脇腹に開いた傷口から熱い血液が流れ出していくのがよくわかる。
 これからやることは沢山ある。そのことを思って私はしみじみとその言葉を口にした。
「寒いな」

   ‐第四章・了‐
   『絶体零度』 結

by zattoukoneko | 2011-07-31 23:09 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-4-1


4-4-1

 私は体を動かして仰向けになった。上空からはいくつもの雫がちらほらと落ちてきていた。冬の小さめで、しかし硬い水滴が瞼を開いていた目の中に入ってきて軽い痛みを覚える。
 その痛みがむしろ心地よく感じられた。東京にもしっかりと冬の雨が降るのだなと、そんなことを感じた。
 しばしの間私は雨に打たれながら色々なことを脳裡に思い浮かべた。今際の際になってやらねばならないことが山積していることに気付かされる。私は舞美を殺した罪を償わねばならないし、迷惑をかけた友人らに頭を下げに行かなければならない。ただそれら全てを成し遂げることが出来るかどうかはわからず、けれど少なくとも傍らで動揺している雪奈に何らかの手を伸ばすことだけはしなければいけないだろう。
 そうしたことを考えながら、しかし私は慌てふためくでもなく、騒ぎ立てるでもなく、むしろ冬の雨に心が穏やかに冷やされるのを静かに感じ取っていた。私もすでにいい歳になったと思う。そしてようやくこの年齢になってそうした人と自然とその先に広がる世界の繋がりを知ることができたことが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。この東京の自然を教えてくれたのは舞美であり、そしてそもそもこの世界から自然を感じ取ることを教えてくれたのは刹那だった。
 そんなことを考えるのにどのくらい時間がかかったか定かではない。ゆっくりとではあったが頭の中の整理がようやくついて、私は雪奈に問いかけた。
「雪奈には今雨が降っているのがわかるかい?」
 訊かれた彼女は困った表情を浮かべた。
「降ってます。そのくらいわかります」
「そうだね、当たり前のように気付くことだと思う。かなり降っているしわからない方が不自然かもしれないね」
 私はいったんは雪奈に同意してみせるも、内心では本当かどうか疑わしいと感じていた。だから私は話を続ける。それはほとんど独り語りではあったが、それでもそれを聞く彼女には伝わるのではないかとそんなことを思ったのだ。
「冬の雨は特に服に重く滲み込む。水滴が冷えて固くなっているのかもしれない。もっと柔らかい暖かい季節の雨に降られると体を洗われるような感じがするよ。驟雨なら天然のシャワーそのものだし」
「……成明さん、唐突に何を言っているんですか?」
 予期していた通りに雪奈は疑問の声を上げた。ただし戸惑った様子も声音に混ぜながら。それに気付きつつ、しかし慌てずゆっくりとした口調を心掛けて話を続ける。
「体に降ってきた雨の滴は、すぐに大きくなって肌や髪の上を滑り落ちるのを感じるだろう? さっきはシャワーなんて言ったけれどそれとはまた違った趣がある。人工的につくられたシャワーの水はほとんど一定の流れだが、雨は全ての雫が大きさも落ちてくる速度もまちまちなんだ。雪奈は今まで何度も雨に降られたことがあると思う。その時に傘を持っていなかったり、持っていたとしても防ぎ切れなかった雨粒が腕に当たったりしたことは当然あったろう。そうして実際に雨に触れることを経験したのではないのかい?」
「…………」
 私の言葉に雪奈は黙りこくってしまった。でもまったくわからないわけではないのだ。そうに違いないと私は確信していた。そう思う理由を端的に彼女に伝える。
「そうした雨の様子を、舞美から教えてもらったんじゃないかな」
 途端、雪奈は大きく双眸を見開いた。そして一転して目をくしゃくしゃにして大粒の涙を零れ落ちさせ始めた。
 零れた涙は雨と入り混じりながらもしっかりと頬に軌跡をつくって地面へと落下する。
「姉は……桜庭舞美さんは確かに私に自然の魅力を教えてくれたように思います。でも私はそれを彼女の普段の振る舞いからしか感じ取ることができなかった。何故なら私は舞美さんを遠巻きに見るだけで、きちんと話を聞くことが出来なかったからです」
 言葉と共に落ちる雪奈の涙は、冬の雨より重く彼女の顔を伝い落ちる。
「私は姉だと思い込んでいた。けれど心のどこかでは違うということもわかっていて、そしてそれを本人である舞美さんに指摘されるのが怖くて話しかけることが出来なかった。私に許されていたのは遠くから眺めることだけ。それを続けることで私は舞美さんと繋がっていると思い込んでいたんです」
「でもそれはどこまでいっても妄想に過ぎないということも雪奈はわかっていた。記憶は簡単に書き換えられるものだけれど、現実はそう簡単には変わらないから。だから都合よく何度も何度も解釈し直して、それでもようやくぎりぎりのところで心の安定を保つに留まってしまうのだ」
 それは私自身経験していたことだった。実在しない刹那の存在に関して何度も周囲から言及されていたし、直接言われずとも私の方から現実に起きていることと私の思い描いている刹那の居る世界とでは喰い違うことが何度もあった。しかしその度に細かな修正を施しては刹那の存在を守り続けていたのだ。
 私の思っていた通りだったらしく、雪奈も「そうです」と首を縦に振って応じた。今では雪奈も舞美が実の姉ではないとはっきりと自覚している。行方知れずになった舞美を私と一緒に捜索する中で彼女が実の姉でないことを知らされたし、つい先程の私の雨の話から雪奈が舞美を通じて感じ取っていた自然と、しかしそれをきちんとは学びとっていなかったのだということを思い出したからだ。
 さめざめと泣きながら雪奈は告白した。
「私、これからどうしたらいいのかわかりません」
 支えとしていた舞美の存在がなくなってしまったことで、彼女の精神は奈落の底に落ちてしまうかもしれない。人の手の届かぬ深い場所に堆積して冷たく固まり、誰にも融かしてやることが出来なくなってしまうかもしれない。
 とても暗くて寒い奈落の底で膝を抱えていた雪奈を、暖かなこの世界に引き上げてくれたのは舞美だった。そして舞美を見続けることで雪奈はこの世界に留まっていられた。
 では舞美を失ったら確実に雪奈は落ちてしまうのか? ――この世界には舞美以外にもたくさんの人がいる。
「もう舞美はいなくなってしまったからこの言葉を伝えることはできなくなってしまったけれど、今の私は彼女を誘ってみたいと思っている。きっとこれは舞美に会っているときも本当は思っていたことなのだろうな。もしかしたら刹那の姿が何度も現れたのも、別に舞美に似ていたからではなく、その想いが私の目には刹那という形を取って映っただけのことかもしれない。いずれにせよ私はある提案を舞美にしたいと考えていた。それを代わりと言っては何だが雪奈に伝えてみようと思う」
 私は涙で少し腫れぼったくなった雪奈の目をはっきりと見据えながら言った。
「君に私の地元である茨城に来てもらいたい」
 まるで求婚の言葉だ。しかし残念ながらそういうわけではなく、東京という土地であれだけ自然を感じていた舞美を私の田舎に連れて行ったら、どれほど驚くことかと疑問を抱いていたのである。
 あそこには刹那が私に教えてくれた強くも優しい、人間を包み込む圧倒的な自然が広がっているから。だから是非とも舞美に来て欲しいと思っていたのだ。
 その願いはもう叶わない。けれど彼女たちから少ないながらも様々なものを学びとった私は、代わりに雪奈を連れて行ってあげたいと提言することにする。
「舞美は自然の機微を感じ取ることが出来たけれども、もっと大きな自然の存在を知らなかった。彼女の見て感じたことのないそれを私は知っている。刹那やあるいは舞美のように魅せることが出来るかは自信がないけれどね。でもそこで雪奈には舞美からまだ教わっていないことや、舞美すら知らなかったものを雪奈に幾らかでも伝えられるのではと思っているんだよ」
 話終えた私を、その時『初めて』雪奈は見た。
 これまではただ自分の周囲にいる人間の一人に過ぎなかったのではないかと思う。でもこの時に初めて雪奈は頼ってもよい人物として私を見てくれたような気がする。舞美と混同するわけでもなく、きちんと別の人として。
 それから舞美は急に慌て出した。少しの間おろおろとしてみせてから、ようやく気付いたのか大きな声で叫ぶ。
「私、救急車を呼んできます!」
 言い終わるのが早いかどうかというところですでに雪奈は踵を返して細い路地から大通りへと姿を消した。
 雪奈の中で私の存在が大きなものになり、それと同時に現実として私が血を流して倒れているという事態に目が行ったということなのではないかと思う。駆けて行く雪奈の姿を目で追いながら私はそんなことを考えた。
 気を張っていたのだろう。途端にどっと疲労が体の内から噴き出すのを感じた。そして意識が重く沈められていくのを感じながら私はゆっくりと瞼を閉じた。


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by zattoukoneko | 2011-07-30 09:50 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-3-2


4-3-2

 雪奈という少女はいくつかの点で私によく似ていたのだと思う。
 彼女は自分の家族を彼ら自身の手によって招いた交通事故によって亡くしてしまった。その衝撃の程まではわからないが、結果として彼女は独りの世界に閉じ込められることとなってしまう。
 雪奈はその光の差さない暗い場所から独力で殻を割って外に出ることができなかった。卵の中の雛は本能的に外に別の世界があることを知っているが、母胎から生まれる人間はそもそも卵のような狭くて暗く、何の音もしない空間に押し込められることがない。外界から優しい言葉をかけてもらうことで、ようやくそこに他の人たちや物の存在を知ることができるのだ。
 幼少期から長い間狭い処に幽閉されていた雪奈は、しかし舞美にその存在を見つけてもらう。そしてその時に教えてもらった外界に憧れてようやく厚い殻を自らの力で破ることができたのだ。
 私も幼少期からずっと孤独な世界にいたという点で全く同じだ。雪奈のように衝撃的な事件があったわけでもないし、友人や家族が身近にいたというところは大きく異なる。ただ現代社会の潮流に流されていたら乗るべき流木を見失っていたというそれだけのことだ。だから実際には周囲の光景や音を感じることができていて、そのために刹那という架空の存在を作りだし、それを拠り所とした。
 それに後には瑠璃や恭介という親友ができたし、社会に出てからは刹那に頼らずに生きるようにもなった。私の世界は徐々に、そして無意識にではあったが変化していたのだ。幼稚な感性のままではあったが現代社会に適応し、しかし自身が変わっていったことを自覚できていなかったから何か事件が起こるとアイデンティティを大きく揺らがせてしまう。それが飯田成明という人物像だったのだ。
 雪奈という少女はいくつかの点で私によく似ていたのだと思う。そう、いくつかの点のみで似て『いた』だけなのだ。私と雪奈は根本的に別の人間であり、そして今ではまったく別の道を歩んでいる。
 冬のアスファルトに横たわる私に、雪奈はもはやさして興味を抱かなくなったらしい。軽く握った拳を口元に当てながら、きょろきょろと辺りを見回して戸惑ったような表情をしている。
「そういえばどうして私はこんなところにいるんでしょう? ついさっきまで姉と一緒にいた気がするのに」
 彼女にとって世界は舞美によって成り立っていた。それ以外の存在を知らなかったから、世界を広げることも拠り所にするものも手にすることが出来ないまま現在に至っている。恐らく「姉のような人間になる」という言葉は、実際には舞美から世界の広さや奥行きを教えてもらったことがないから、その本人になることで得ようとしている感性なのだという気がする。
 私は刹那にも舞美にもなりたいとは思わない。二人は私とは別の人格を持った存在であり、そこから多くのものを学んで自分の中に取り込んでいった。取り込んだものを消化するまで随分と長い時間が経ってしまって、私は幼稚な甘えをずっと繰り返してはいたけれど。けれど今ではようやく独りで歩き始めることも出来た。彼女たちを想い出に変えながら。
 遅くはなったものの私はやっと成熟できたと言えると思っている。その私からすれば今の雪奈はあまりに子供であった。外見や言葉遣いが多少大人びているだけに過ぎない。自分の周囲で起きていることに目を向けなくなってしまったばかりか、許容できなくなると望んだように世界の改変を行なおうとする。もちろん外界に変異を生じさせるだけの力は人間には備わっていないから雪奈のやっているのは自分の記憶を書き換えるという行為だ。それによって自分にとって都合のいい世界解釈を行なおうとしている。
 中には客観的な世界は堅牢なもので、人間の意識の介在など許さないと思っている人もいることだろう。だがそれは大きな間違いだ。私や私の友人らを例に挙げればそんなことはすぐにわかる。かつての私にとっては世界とは機械仕掛けの歯車によって動く時計のような存在であり、しかしそこには何の装飾もなかった。一方で刹那にとっての世界は彩りに満ち満ちていて、私たち人間はその自然の一部として加わっているだけに過ぎないと看做していた。全体は有機的に結合しており、生気に満ち満ちていた。舞美は世界の空間の途方もない広さを知っていた。しかもそれは定規で測ったようなものではなく、運ばれてくる風などで感じ取るとても生物的な感覚に根差したものだった。だから私が東京は狭苦しいと訴えればそれに共感できたし、その上であの風の吹く丘に連れていくことで新しい世界の見方を教えることができたのだ。また瑠璃は現代社会とそれが基盤に据えている科学/技術が世界観を大きく歪ませる要因になっていると鋭く見抜いていた。解決案を提示するには至らなかったが、人間の感性をもっと社会の基軸に据えねばならないのではないかと憂えていた。
 世界は人によっていとも簡単に変容するものだ。そして結果として世界は人の数だけ存在する。しかしそうした個々人の世界はそれで完結するわけではない。相互に作用しながらより大きな世界と社会の潮流を生み出していく。瑠璃の考察はこの潮流の中においては傍流なり涓流だったかもしれない。でもそこからよくよく今の本流の問題を見抜いていたのではないかと私は思う。人が社会の在り方を規定するのを見事に言い当てている。
 そうしたことが私にもわかるようになってきたから、一つの問いを雪奈に発した。
「雪奈は舞美と一緒に過ごして、その先どうするつもりなんだい?」
 彼女の頭の中からはすでに私のことがほとんど抜け落ちかけていたらしい。少し驚いた様子でこちらを見下ろし、しかしはっきりと答えは返してくる。
「姉は私が大学に入ることを勧めています。ですからまずはそこから――」
「でも舞美は具合が悪いんだろう? それはすぐに治りそうに見えるかい?」
「そ、それは……」
 雪奈の言葉を遮って口を無理矢理挿むと、彼女は急に、そして大きく困惑した表情を浮かべた。
 私は雪奈が自分の世界に閉じ篭ろうとするのを何とか阻止しようと思っていた。彼女は舞美の力によって外の世界に出られるはずだった。だが外に出た瞬間に舞美しか見ることが出来なくなった。彼女が道標として雪奈を導いてくれたらいずれは私のように世界の広さを知って、自分の進むべき道を探そうと旅立ったかもしれない。けれどその標はもうなくなってしまった。それがまだ立っていると勘違いしてそちらを眺めていてはどうやっても道を歩くことなどできなくなる。
 なら多少強引ではあるが私が雪奈のつくろうとしている殻を破ることを試みることにしよう。ここにいるのは私一人しかいないのだから。そして私がいる限り雪奈は独りでもないのだから。
「舞美の看病が必要かもしれないね。病院にも一度連れて行ってきちんと診察をしてもらうのがいいだろう。私は舞美の知り合いだし、そうなるとやはり心配だからね。一応社会人として働いているから雪奈たちよりお金に余裕はあるし」
「姉は確か病院には行きたくないと言っていて……」
「本当にそうなのかい? 私は何度も舞美に会っているけれど特に病院嫌いとかそんな印象は受けなかったな。むしろ必要と感じればきちんと行く人物のような気がしたけれど。割合さばさばとした性格だったからね」
「どうしてそんなことをあなたが知っているんですか。成明さんは姉とは会ったことがないはずです」
 ここだ。
 そう私は思った。まだ雪奈を包む殻は綻びを帯びている。やはり破るには今しかないのだ。
「雪奈。たった今、君は確かに私の名前を呼んだよね。でもさっきは面識などないと言っていた。どういうことだい?」
「私は成明さんのことは知らないはずです。なのに……どうして名前が口から出てくるんですか? 私は成明さんと一緒に何をして――」
 そこで雪奈は路上に転がっている私を見た。はっきりと視界に捉え悲鳴を上げる。
「成明さんどうしたんですか! どうして血だらけ……に?」
 言いながら彼女は自分の手にある凶器に気付いた。しばらくの間隙の後に小刻みに震え始める。
「もしかして私が刺したんですか? でもどうしてそんなことを」
 これは推測だ。恐らく今の雪奈の中では先程まで作り上げようとしていた虚構と現実に起きたことが鬩ぎ合っているのだろう。ただ彼女にとっての『現実』は舞美を姉としていた時期もまだ含んでおり、そこを明確に分けられていないという問題がある。
 私には雪奈を辛い現実世界に引き摺りだすことが出来るだろうか? 舞美が実の姉ではなく、そしてもはや死んでしまっているそんな世界に。
 体外に流れ出る血液が残り少ない時間をすでにカウントし始めていた。


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by zattoukoneko | 2011-07-25 21:51 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-3-1


4-3-1

「姉は姉です」
 雪奈はそう言い放った。彼女はずっと高いところから私を見下ろして、どうやら私は路上に倒れこんでいるらしかった。路地に入り込む夜の灯りが、雪奈の手に持つ物を赤く光らせる。それが血に濡れた刃物だと気付くまでにかなりの時間が必要だった。
 初めて雪奈に出会ったときのことを思い出す。あの時私は背後から急に凶器を突き付けられたのだ。いつからそんな物騒な物を持ち歩くようになったのかは知らないが、雪奈はずっとそれを携帯していたらしい。
 鈍く光る刃物を手の中でくるくると回しながら雪奈は夢見心地に言った。
「私は姉のような人間になるんです。姉そのものになりたいとすら思うくらい」
 それから雪奈は自分の髪をいじりながらさらに続ける。
「まずは形から入ろうと思って髪の長さも姉と同じにしてみました。服もお揃いの物を買ったんですよ? 体型はほとんど同じでしたからその点は特に困りませんでしたね。でも髪質はまったく同じというわけではなかったので手入れの仕方で変化しないか工夫してみたり。瞳の色なんかは難しいですよね。カラーコンタクトというのも考えましたけど、手術とかで変えられたりするものでしょうか?」
 彼女の言葉を耳にしながら、私は寒気を覚えていた。それは体から大量の血液が流れ出していっているのが原因なのだろうか。それともいつの間にか降り出した冬の雨がそう感じさせているのだろうか。見れば雪奈の靴に触れるほど赤い液体がアスファルトの上に広がっていた。
 嬉しそうに舞美のことを語る彼女に、私は何とかして告げた。
「舞美はもういない。雪奈がどれほど彼女のことを求め、必要としようとだ。その首を絞め、力がすっかり抜けて重くなった体を運んだ本人だからわかる。舞美は私によって殺された。仮に生きているようなことがあったとしてもその行方は依然としてわからないままだ」
 その言葉を耳にした雪奈は私を見下ろした。笑みを湛えた顔で。
「姉はいなくなってなんかいませんよ」
「何を……言ってるんだ?」
 私には雪奈の言葉の意味がさっぱりわからない。彼女自身、姉の姿を探し求めていたはずだ。
 けれどそんなことなど一切なかったかのように雪奈はこんなことを言ってのけた。
「だって姉は私の部屋にやって来てしばらく泊まっていますし」
「……え?」
 疑問の声を上げた私に、しかし雪奈の方がわからないというような顔をしてみせた。
「どうやらあなたは私の姉を殺したと思い込んでいるようですけど、どうしてそのようなことになっているんでしょう? 確かに最近体調が悪いようで外出は控えています。でも私がきちんと身の回りの世話はしていますし、食事を一緒に摂りながら談笑することも今まで通りです。もしかして大学の方などに顔を出していないせいで騒ぎになっているんでしょうか?」
 雪奈は今まで姉の行方がわからなくなったと嘘を吐いていたということだろうか。舞美と一緒になって何かを企み、そして私を欺き、警察の捜査を攪乱していたとそういうことなのか?
 …………そんなわけはない。少し思い出してみればわかることではないか。雪奈の部屋に行ったのはほんの少し前のことだ。あそこに舞美の姿はあったか? 体調を崩して床に伏せっているような気配をどこかから感じたか?
 雪奈は明らかに事実と異なることを口にしている。けれどその素振りからは嘘を言っているような印象は受けない。またこれからの付き合いから彼女は平気で虚言を弄するような人物ではないこともわかっている。
 そこで私は一つの可能性に思い至った。
「もしかして雪奈が舞美の体を持ちだしたのか?」
 雪奈は小首を傾げたが、その推測は当たっていると思われた。彼女は私と舞美が頻繁に出会っていることを知っていただろうし、おそらくはあの事件の日もずっと私たちのことを見ていたのだ。そして瑠璃の店に運んだ舞美の死体を自室に持ち帰った。
 嘘なんて言っていやしないのだ、雪奈は。彼女は確かに自分の部屋で姉である舞美と共に日々の生活を送っている。ただその相手はもはや何の反応も返さないし、やがてはその肉体も醜く腐って失われてしまう。あの小さな部屋でそんなものに対して雪奈は嬉しそうに話しかけているのだ。
 その様を想像して、私は思わず呟いてしまった。
「狂ってる……」
 実の家族を失い、同時に人を信じることができなくなり、本当の意味で『孤児』として育った雪奈。その彼女が出会ったのが舞美だったのだ。親切にしてもらったその相手を雪奈は姉としてしまった。それは奇妙な行為にも思えるかもしれない。しかし身内として自分にとても近い存在としなければ受け止められなかったのではないだろうか。精神的に未成熟だったが故に家族の存在が彼女には必要だった。そして現在に至っても親離れが出来ていないのが雪奈なのだ。
 舞美の肉体がどの程度まで腐敗しているのかはわからない。しかし肉がなくなって骨だけになったとしても雪奈はそこに綺麗な姉の姿を見るのだろう。そうしなければ彼女の心は壊れてしまうから。
 ――――
「違う。勝手に決めつけるな」
 私は自分自身に向かってそう叱咤した。侮蔑の音すらそこには混ぜていた。
 人の心をくだらない理屈を捏ね繰り回すことで理解しようとするな。そのことを今回の件で私は学んだのではないのか?
 雪奈は何と言っている? 彼女の気持ちは何処にある? 私はそれをきちんと見ようとしているか?
 人間も世界も機械なんかではないと言われ続け、そのことをこの歳になってようやく実感したはずだ。まだ刹那のように世界の彩りを描いて見せることもできないし、舞美のように自然の息吹を聴かせてやることもできない。瑠璃のように世捨て人として説教してやることなんて尚更だ。
 それでも雪奈の口にした言葉を聞いてあげることのできる人物は私しかこの場にはいない。そんな程度の事しかできないが、それをやるのは舞美ではなく私の役目なはずだ。
 私は雪奈の言葉を思い出していく。彼女の口にした単語一つ一つを精査していく。言の葉はその人の心を如実に表していると信じて。
 雪奈を見上げたとき、随分視界が暗くなっているなと感じた。けれども彼女の顔はしっかりと見えていると思った。だから問う。
「雪奈。確か君は私のことを下の名前で呼ぶようにしたはずだったね。でもさっきは『あなた』と言っていたような気がする。雪奈は……私の名前を覚えているかい?」
 訊かれて彼女は小首を傾げた。
「何を言ってるんですか? 私はあなたと面識はないと思いますけど」
 やはりだ。私の思っていた通りことが起きている。
 どうやら雪奈は今まさに記憶を書き換えていっているらしい。


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by zattoukoneko | 2011-07-22 20:07 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-2-2


4-2-2

 あれは夏も半ばを過ぎて終わりに差し掛かろうという頃だったろうか。残暑厳しい中に蜩の声が雑じり始めていた。私の中では刹那の存在が確固たるものとして蘇ってきていたが、舞美はまだ刹那としては振舞うようなことはしておらず、そのために私たちの関係は良好だった。
 東京なんて場所は地面のあちこちがアスファルトで固められていて蝉など生息していないと思い込んでいたのだが、少数ながら自然の息吹というのはあるものらしい。春には桜も咲くし、初夏には郭公も鳴くという。秋には金木犀の香りが漂うし、冬には吐く息が白くなる。そんな当然のことを私は舞美に教えてもらった。
 当然のことではあるのだが、それを日々意識して生活できている彼女はとても魅力的だった。きっとそれは私に限ったことではなかっただろうと思う。夜に見る夢に色彩が溢れている人がこの世にどのくらいいるだろうか。無色の世界に住む人の目には舞美は輝いて写ったことだろう。
 だから舞美が困ったようにその言葉を発したときに、私はさほど驚かなかったのかもしれない。
『もしかしたら誰かにストーキングされてるのかもしれない……』
 その時の彼女は珍しく弱気な表情を見せていた。話を聞いてみると気付いたのは私と出会うより以前だというのだ。ただその相手に遭遇したり家を荒らされたりといった実害はないらしい。周囲の変化に敏感な彼女だったからこそ勘付いたのかもしれない。
 私は警察には相談したのかと訊いた。舞美は近くの警察署にある生活安全課に相談しに行ったそうだ。彼女の家は私の勤務先に近い。あの辺りにある大きな警察署、しかも生活安全課となると恭介の勤めるところだ。しかし前に恭介も述べていたように実害もないストーカー事件に警察はなかなか動けないようだし、舞美の件はさらに物的に被害に遭っているという証拠も出せなかったために簡単な身辺調査をしただけでその後は「今後も気には留めておきます」という言葉で終わってしまったという。
 その後も私は舞美とよく一緒に行動したが、彼女の言うストーカーには結局出会うことはなかった。そして私自身が舞美を襲ってしまうという事態に発展する。
 私はあの時に確かに記憶を自ら消した。そして瑠璃や恭介に相談し、姉を探しているという雪奈に出会った。
 ここまで思い返してみて――明らかにおかしい点がないだろうか?
 私は舞美と一緒にいるときは確かに彼女に付き纏っている人物には出会ったことはなかった。そう思っていた。けれど私と舞美がその頃から交流を持っていたことを知っている人物が、後にそれを知らないと言っているではないか。
 舞美があの時相談したのは一体誰だったのか。そのことをきちんと聞いておくべきだったと悔やまれる。仮に警察が捜査をしてくれたとして、そこに関係者が含まれてしまっていてはまともな結論など出ようはずもない。
 認めざるを得ない。私はその人物の都合のいいように記憶を再び改竄してしまっていたということを。それを修正した上での推測が正しいとするなら、私は信じていたものを根底から覆される。そのことに薄々気付いていたから目を瞑っていたのだ!
 雪奈が戸惑ったように口を開く。
「萩原恭介さんはどうして姉のことを付け回していたのでしょう? ――いえ、それ以上にどうして成明さんが……凶行に及ぶのを待っていたのか私にはわかりません。その後姉の体をどこかに移動させたのも恭介さんということになるのでしょうか?」
 私は目線を下げて雪奈を見る。そうしながら自分でも悲しい目をしているのがよくわかった。
「恭介が舞美をストーキングしていた人物ならいくら警察が捜査したって犯人は見つからないだろうね。実害が出ていたのなら別かもしれないが。死体を隠したのも大きな事件に発展するのを阻止したかったからと考えれば説明がつく。捜査が本格的になされればストーカー被害で警察に相談していたこともすぐにわかるだろうし、それは彼にとって都合が悪い。確かに……辻褄が合うね」
 冷静になって物事を整理してみると確かに事実関係というのは見えてくる。けれどそれが今の私には無性に辛く感じられた。刹那や舞美、そして瑠璃によって私は心を持つ人間になっていたからだ。そして本来それは自分自身の内にあった力でもある。人間というのは自分が気分良く生きるために、感情によって外界の情報や脳内の記憶を都合の良いように解釈し直してしまう生き物らしい。
 私はその顕著な例だったと言えるのだろう。幼少期から感情を押し殺していたからこそ、抑圧された心が現実世界を歪めた。刹那を生み出したことや、舞美との一件で記憶を消去したのはその中でも大きなものだ。
 今回の件で一体何を見るようにしなければならなかったのか、それが今の私ならわかる。徐々にではあるが変わったからこそはっきりと言える。
 冷静に物事を見て判断することはとても大事だ。しかしながら私たち人間は『物事を冷たく分析するだけの機械ではけしてなく、感情をもってして他人のことをより深く知ることができる』のだ。
 人は自分の都合の良いように事実も記憶も解釈する生き物である。そしてそれは何も私に限ったことではない。
 ――そこまでわかれば自ずと答えは導かれる気がした。
 私は雪奈に再度視線を送った。
「記憶を取り戻すのは私だけの役目じゃない。それじゃあいつまで経っても舞美の件は解決しない。関わっているのは私一人じゃないのだから」
「どういう意味……ですか?」
 雪奈が細い眉を寄せ、困惑した声を上げる。それも仕方ないかと思った。だから私は諭すように声をかける。
「舞美は雪奈の本当のお姉さんではなかった。君も私と同じで心を封じられ、そして事実も記憶も歪めてしか生き延びることのできなかった人間だった。だから施設を退所後、そこで舞美に出会っていた記憶を塗り替えた」
 私の言葉に雪奈が俯く。向けられた目から逃れようとする。でも私の言葉は届くだろう。仮に耳を塞いだとしても、この言葉を私は彼女に伝えなければならない。
「実際に血縁関係がある人間でもない相手が寄ってきたとして、それをそのまま受け入れる人間がどれくらいいるだろうか? 舞美なら優しく接してはくれるだろうと思う。でも私のときがそうだったようにすぐにそれを否定するはず」
 だから雪奈は本当は舞美に直接会っていないのだ。
 ――そう最後の言葉を告げようとした瞬間。
 腹部に鋭く熱い痛みが走った。


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by zattoukoneko | 2011-07-19 17:36 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-2-1


4-2-1

「舞美も別に自分が殺されることを望んでいたりはしなかっただろうし、殺されるとも思っていなかっただろう。けれど首を締め上げられているはずの舞美は何ら抵抗することをしなかった。私の凶行を甘んじて受け入れていたようにすら思う」
 彼女が望んでいたことは何だったのか。そんなことに思いを馳せてみる。
 別に恋仲になろうなんてことは考えていなかっただろう。私自身も彼女に魅力を感じてはいたが、恋人にしたいとまでは思っていなかった。自分の持っていない物を持っているなと憧憬を抱いていたくらいのものだ。一方で舞美は意気消沈した私を拾って、そして生活が徐々に狂い始めたことに心を痛めていたのかもしれない。私の変化に彼女自身が関与していることに気付いていた様子だったから。
 舞美は自分を刹那に見せることで、しかし全くの同一人物になることは無理だと重々承知していて、だからこそ私に刹那などという人間はいないと自覚してもらおうと考えていたのではないだろうか?
 自分が殺されることを舞美は望んでいなかっただろうが、それも仕方ないとあの時思ったではないか。『刹那』として殺されることですべて解決してくれればそれでいいと、そんな風に考えたのかもしれない。
「けれど成明さんの中には刹那さんが残り続けた。……姉の目論見は外れた」
 呻く雪奈に私も暗い言葉しか返せない。
「舞美と一緒にいることであまりにも刹那のことが鮮明に思い出されてしまったんだ。舞美が刹那の真似を続けていたからというのもあるだろうし、それ以上に妹と過ごした思い出話を多くし過ぎてしまった。私の中で刹那の存在は次第に確固たるものに変化していってしまったんだ」
 私の中で舞美と刹那でどちらに比重が大きくかかっていたか。舞美は実在し刹那は存在していなかったが、それは私の与り知らぬところだった。私と共に長く生活し、支えてきてくれたのは刹那の方だった。
「舞美は刹那の存在を否定しようとした。それは功を奏したように思う。私の中で刹那の存在が確かに揺らいでいた気がするからね。けれど消滅させられるほど強い力は働いていなかったし、むしろ安定させるのが簡単だったのは刹那の存在を残すことだった」
「それじゃあ……!」
 息を飲んだ雪奈に私は応じた。簡潔に、事実だけを強く表すために。
「私は舞美の存在を葬り去ることにしたんだ」
 急速に揺らいでいた自分の生活を安定させるためには目の前にいる『彼女』を消すしかなかったのだ。刹那の皮を被った偽者の存在、舞美を。
 そう。あの時の私にとって不可思議な存在だったのはむしろ舞美だったのだ。どんな人物なのかわからなくなり、存在が希薄になっていた舞美こそ消されるべき定めにあったのだ。だから私は舞美を殺そうと首に手をかけた。けして刹那だと思い込んでそうしたわけではないのだ!
 だが舞美はこの世に実在する人間だった。だから首を捻りあげたところで体が泡となって消えるわけではない。ただただ冷たく、力が抜けて重くなった肉体がそこに残るだけなのだ。
 手に持っている死体を消す術の持たない私はどうしたか。急務なのは揺さぶられ続けていた精神状態を安定させることだった。だから私は自分の記憶の中から舞美の存在を消し去ることにしたのだ。そうすれば私の心は凪の状態になるだろうから。吹き荒ぶ風は収まり、せいぜい心地よく肌を撫でる程度に鎮まるだろうから。
「けれど一度刹那を消し去ったときと異なり、やはり死体が残るということは大きな問題になった。私はそれの処理に困ったし、瑠璃が私がきちんとした記憶を所有していないことに違和感を覚えるようになった。それが今回の一連の事件の発端ということになる」
 私は今回の件で周りに多大な迷惑をかけ、そして遠回りをしながらもようやく刹那が実在しないこと、そしてその役割はとうに終わっているのだということを明確に認識することができた。
 これから浄罪をしなければならないだろうが、しかし私はようやく前に進める。全てが始まったこの路地裏から前へと歩み出すことができるのだ。
 そう決意を固める私の横で――
 甲高い悲鳴が上がった。
「やめてください! 成明さんは勝手に姉を殺したとしてそれで満足しているかもしれません。そのようにしか聞こえない。でも私には納得できない! 仮にあなたが姉の殺害に成功したというのならその遺体は今どこにあるんですか!」
 雪奈の言葉にはっとした。
 確かに私は舞美を殺そうとした。そこに容赦をしようという気持ちはなかった。彼女は抵抗もしなかったし、然程腕力があるわけではないが細い女性の首を絞め続ければ窒息させられるには十分だと思える。
 しかし自分でも告白したように死体を忽然と消すような術を私は有していなかった。だから瑠璃の店へと彼女の体を運んだのだし、そしてその後も私は死体を移動なんてさせていない。
 雪奈は雪奈でまだ姉の生存を望んでいるのだろう。実際に舞美に手を伸ばした私に言わせればその望みは限りなくゼロに近い。でも明示できるだけの証拠もない。
 俯いている彼女の表情は、前髪に隠れて私からは見ることができなかった。発せられた言葉は、良く言えば落ち着いたものだったが、いつものような明るさも覇気もないものだった。
「成明さんは記憶をすべて取り戻したと言って事の顛末を話してくれました。でも結果として起こったことを全部説明できたわけじゃない。私、思うんです。成明さんは姉とのことを全部思い出せたと誤解をしているのではないかって。こう言っては失礼かもしれませんが、自分の都合のいいように記憶を書き換えてきたのが成明さんです。それも無意識に。今もそのようなことはしていないと胸を張って断言できますか?」
「それは……」
 私は断言できると思う。今回の件で随分変わったはずだからだ。少なくとも刹那のような架空の存在や出来事を作り出すことはないように思われる。
 けれども記憶の欠損や見落としは少なからずあるだろう。それに人間という生き物は好き勝手に物事を解釈し、記憶すら書き換えて生きる人間だ。特に後者を常に行ない続けてきた私が、今すぐにそれを一切しなくなったと言えるだろうか?
 言いよどむ私に雪奈が顔を上げてさらに迫ってくる。
「どうなんですか? 私はまだ姉が死んだなんて思いたくありません。姉に会いたいんです。はっきりとした答えを私に提示してください!」
 舞美にそっくりな彼女の瞳に見つめられながら、私はとあることに気付いた。
 確かに私はまた記憶の改竄をしていたようだ。ただしそれは自分の為に行なったことではなかった。そうではなくて私自身、ある人物の言動に引きずられていたのだ。
 それが何を帰結するのかはわからない。しかし私は紐解いてみることにした。そうしなければ何も解決しないだろうから。箱を開けなければ中に入っているパズルピースすら手にすることはできない。
「確かに雪奈の言う通りのようだ。私は舞美が時折訴えていた言葉を忘れていた。どうやら私は自分のことだけしか見ていなかったらしい」
 そして私は舞美の感じていたある恐怖について話し始めた。彼女が刹那として振舞うことが多くなっていったから記憶の片隅へと追いやってしまったとある相談事について。


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by zattoukoneko | 2011-07-16 09:27 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-1-2


4-1-2

 私は刹那のことを好きだったろうか?
 好きだったと思う。刹那は私に世界の彩りを教えてくれた。彼女が世界に色を付けてくれたおかげで私は無機質な生き物にならずに済んだ。無機物で出来た人間とは即ちロボットのことだ。心を持って生きていくことなど到底不可能な存在と思われる。
 私は舞美のことが好きだったろうか?
 好きだったと思う。舞美は私に世界の広がりを教えてくれた。彼女が世界とは開けたものなのだと悟らせてくれたおかげで私は社会に潰されずに済んだ。圧屈させられた人間など翅をもがれた蜻蛉でしかない。そのまま地面の上で干からびるのを待つことしか出来ないと思われる。
 刹那と舞美は明らかに別の人間だった。彼女たちが私に見せてくれたのはまったく違うものだったのだから。しかし彼女たちが開拓してくれたのは私の外界という点で同じだった。
 私にとって外界とは目を向けるような存在ではなかった。そこで何が起きていようと無関心で無感動に生きていたのだ。しかし本当のところはそれはとても窮屈で、だから心の奥にいる自分は外を見たがっていた気がする。そして窓の外を見た自分を素直に自身のこととは認められなかったが為に、それを『刹那』と呼び始めた。社会に順応するまでの短い間だけ存在する、そんな存在を生み出したというわけだ。
 就職して社会の荒波に放り出されることで私は次第に刹那を必要とはしなくなった。その頃の私が目を向けるべき外界は取材先と紙面であって、自然そのものではなかったのだ。だから私は自分の心の中から刹那の居場所を無くした。
 けれどそんな折に舞美に出会った。彼女は東京という人工物に囲まれた世界で自然を感じ取る術を教えてくれた。彼女に出会ってから私は変わった。灰色のビルディングを見て味気ないと思うようになったし、人混みを鬱陶しく感じるようになった。東京にある季節の移り変わりに気を配りだしたのもその頃だ。今なら瑠璃の「どうして『寒い』ということを急に考え始めたんだい?」という問いに対してはっきりと答えることができる。「私は東京に出てきてからこれまでほとんど季節を感じたことがなかった。だから寒さなんてものを認識したのは舞美に出会った最近のことなんだよ。だから考え始めたんだ」と。
 私は雪奈に向けて告げた。
「舞美に出会えたことは本来幸せな出来事になるはずだったのだろう。しかしながら彼女の見せてくれた世界は私が馴染んでいた世界とは全くの別物だった」
 私は小説家でもなければエッセイストでもない。ただのボンクラ記者だ。そんな人間が記事を書くときに取材先の風に匂いを思い出すだろうか? そんな情景にばかり気を取られていて仕事が捗るだろうか?
「それは! 確かに成明さんの言っていることは正しいのかもしれません。けど、いずれは姉の見せてくれた世界と上手く折り合いをつけていく事も可能だったのではないでしょうか。成明さんはすぐにそうすることを諦めてしまったんですか?」
「雪奈の言っていることは正しいと思う。こちらから予め何らかの答えを求めて取材に行くのは記者と名乗るのも恥ずかしいくらいだと私は考えている。記者はただ取材相手に私たちの知らない話を聞かせてもらって、それを売れるように気をつけながら丁寧に纏めるのが仕事だからね。ただ取材相手にも色々な人がいるから、その相手のことを深く知るために様々な知見や考え方を身に付けておくことも重要になる。私はこれまで会ったことはないけれど、抽象的に自然を物語る人も世の中にいるだろうからね」
 いずれは私も会社での生活と普段の生活をメリハリを持って区分するなどして舞美や舞美の見せてくれた世界と共存していくことができたかもしれない。しかしそれが可能になるまでは時間がかかっただろうし、それができるようになるまでは多くの無理もする必要はあっただろう。
 共存が可能かどうかを見極めるまでしばしの時間を取るのが通常のことかもしれない。私も舞美と会うのは一つの楽しみではあったし、そうしようとしていたと思う。
 けれども私は世界の在り方を変容させる彼女に刹那の姿を重ねてしまう。その結果として大きな焦りを生んでしまったのだ。舞美と刹那が違う人物だと頭ではわかっていても、それによる心の揺れは抑えることができなかった。刹那は私の世界を安定させてくれたが、結局は私の生活する世界に適合しなかったが為に消えることになった。そうしなければ私は社会の中で生き延びることができなかったからだ。それと同じように舞美の見せてくれている新しい世界も私の生活に歪みを生じさせるのではないか、そして実際に少しずつではあったが襤褸が出始める。
「さっきも言ったように仕事に身が入らなくなった。そして刹那のことを思い出すようになった。次第に私の生活は昔の状態に近くなっていったんだ」
 私は刹那の存在を消さなければならなかった。かつては無意識にやったことを、今度は意識してやらなくてはならなかった。
「だから姉の首を絞めたということですか? 刹那さんを消すために似ている姉を消そうとした……」
 雪奈の声が少し震えているように思えたのは気のせいではないだろう。しかし彼女の言葉に私は首を振った。
「話はそんなに単純ではなかったんだよ。その当時舞美と刹那は同時に存在していて、だから私は二人を分けられていたしね」
 分けられていなかったのはそのときはすでに変わっていた私の生活様式と、そこにいるはずのない刹那の存在についてだったのだ。刹那は私の人生からはすでに消えた存在であり、消えていなければならなかった。かつて刹那を殺したときそれは無意識に行なったものだったため、再度現れた彼女の存在をすぐに否定することができなかったのだ。だから軋轢を生じ始めた。
「その齟齬は最初の頃は小さなものだったし、私は気付くのが遅れたのだけれどね。でも妹の話をたくさん聞いてくれていた舞美が怪訝に思い始めた。刹那を私が消し去ってから随分長いこと妹と出会っていないことや、彼女や家族との関係が不明瞭すぎると感じたのが理由らしい。それに私は舞美によく『妹に似ている』と言っていたからね、それで余計に気になったんだろうと思う」
 そしてしばらくして舞美は刹那が実在しないことに気付いた。さらには私がそこを明確に自覚できていないために問題が発生しているという事実にも気付いた。
 しかし私は刹那が実際にいると信じて疑わなかったし、だからこそ生半可な忠告では薬になどならず、それどころか毒にしかならないと考えたようだった。それ故に舞美は一つの決断をする。
「舞美は私を『お兄ちゃん』と呼び始めたんだ」
 舞美は自分のことを刹那だと思い込ませようとし始めた。彼女に刹那の姿を重ねていることに気付き始めていたからというのも大きい。当然私は混乱したが、舞美の演技も熱が入り始めた。彼女はそれまでに私から聞いた刹那の話から、言動を真似するようになった。
 舞美は私の地元の茨城の話をした。そこに吹く風の心地良さや、空を見上げたときの青い色と流れる白い塊といった『情景』を語り始めた。でも舞美は茨城に実際に住んでいたわけではなく、だから彼女の話は私からすると違和感を覚えずにはいられないものだった。
 雪奈と共に歩く夜の東京もそろそろ終着点に辿りつくことになった。近くにはそれなりに大きな道もあるがこの時間帯にはさほど人通りも多くはない。そしてその通りから横に入ってしまえばさらに人の姿はなくなる。
「私はその頃舞美の取る行動が理解できなくなっていた。前は彼女に会うのが楽しかったが、いつの間にか戸惑うばかりになっていた。だから正直にどうしてそんなおかしなことをするのかと問い詰めたのさ」
 そしてそれに答えるべく舞美が私を連れ込んだのがこの場所だったというわけだ。
「舞美はこう返事をしたよ。『変なのは当たり前でしょう、お兄ちゃん。いるはずのない妹の私にこうして出会っているんだもの』とね」
 私には『彼女』の言葉がわからなかった。ただ思ったのだ。
 ――『彼女』の存在を認めるわけにはいかない。
 だから私は目の前にいる『彼女』の首を思いっきり締め上げた。


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by zattoukoneko | 2011-07-14 10:02 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』4-1-1


4-1-1

 雪奈の部屋から出ると外にはすっかり夜の帳が落ちていた。雨も上がっていたが、東京の夜は茨城のそれと比べてずっと明るい。私の地元では懐中電灯なしでは日没後外を歩けなかったものだが、都会は街灯があちこちにあるために遠くまで見通せてしまうのだ。
 もう少しすれば私が舞美の首を絞めた時間帯に重なる。それまでに事を済ませよう。タイムリミットになっているというわけでもなかったが、一つの区切りであるとも感じていた。
 カーキ色のコートに身を包んだ雪奈が私に少し遅れて自室から出てきた。扉を閉め、鍵を掛けると私に怪訝そうに訊いてきた。
「成明さん。私にはよくわかりません。成明さんは姉との記憶をすべて思い出したと言っていました。これから向かうのは姉の居るところなんでしょうか? どうも違うような気がして仕方ないのですが……」
 彼女は敏感に何かを感じ取っているようだった。雪奈の一番の願いは姉の舞美が無事であり、そしてその人に出会うことだ。しかし私の口からは未だ舞美の生死に関して明言する言葉が発せられていない。
「私は舞美との間で何があったかを確かに思い出したよ。細かい部分でいくつか抜けている物もあるだろうが、それは日常の会話で忘れる物が出てくるのと同じ程度のことと看做していいだろうと考えている。どうして舞美の首を絞めるなんて凶行に至ったかについてはきちんと思い出せているよ」
 そこで私は瞼を閉じ軽く頭を振った。
「でもそれは所詮『頭の中にある記憶』でしかない。私の体や心が伴ったものではないんだよ。そのせいで舞美の首を手で握り締めてから、直後に記憶を失うところに大きなギャップがある。頭で理屈を捏ね合わせて説明することは出来るかもしれないけれど、それでは大事なことを逃してしまう気がする。だから擬似的なものではあるが追体験をすることにしたい」
 これまでの私にとって大きな問題だったのは頭で考えすぎて心がそれに伴ってこないことだった。本来ならば心ある人間としてそうした活動は体に変調を来す。けれども私は刹那という架空の人物を作り出すことでバランスを保っていたのだ。私は社会人として生活しているうちに彼女に必要性を感じなくなり無意識に消し去ってしまっていた。そのまま生活を続けられていれば私も成長できたということだったのであろうが、結局は刹那に再び縋り付いてしまった。けれど今なら彼女は存在しない人間だったとわかっているし、その上で当時何が起きたのか見ていくことができると思うのだ。
 ようやくだ。
 ようやく私は刹那から離れて自立の道を歩き出すことができる。そのための準備はすでに整った。残されているのは舞美との間に現れた刹那の姿を消化すること、それだけだ。
 私の説明を聞いて雪奈がある言葉を漏らす。
「だから私が選ばれたわけですね。姉である櫻庭舞美に似ているという理由から」
「そういうことになる。雪奈にはいい迷惑かもしれないが、私が舞美と出会ってから最後に事を起こすまでを追体験するために君を借りたい。一人で思い出の場所に行くだけでは結局頭で考えてしまうことになりかねないからね。正直に告白すればまだそこまで自分の心とうまく向き合う自信がないんだよ」
 雪奈が考え込んだのはほんの一瞬だった。短く溜め息を漏らして調子を整えた。
「同行して最後に首を掴まれたら困りますけど、そういうことがないのであればご一緒しましょう。姉の身に何があったのかを知りたいことに変わりはありませんし」
 多少皮肉交じりではあったが、雪奈は彼女の目的の為に私に付き合うという選択肢を選んでくれたようだった。そのことに感謝しつつ、私は話を始めることにした。舞美と一緒にいることで私が何を感じていたのかについて、最後に彼女と別れる場所へと歩みを開始しながら。
「雪奈の部屋でも話はしたけれど、最初舞美と出会ったとき、私は彼女を妹の刹那だと思い込んでしまった。赤い傘を差し出してくれた行動は刹那が私にしてくれたものそのものだったし、容姿の点でもセミロングの髪や栗色の綺麗な瞳もまったく同じだった。けれどそれ以上に言動や雰囲気が似ていたのだと思う。消沈している私を何も聞かずに介抱してくれたところとかね」
 ただ舞美が刹那でないことには彼女の部屋に着いて間もなく気付いている。舞美だってずっと人違いをされたままにはいかなかっただろうし、私の気分が落ち着いたところで訂正をしてくれた。
「私はその時に舞美と刹那を分けることができた。ただ興味は惹かれたよ。不思議な魅力を持っていると感じたからね」
 そこから私と舞美の交際は始まった。もちろん恋色などはそこにはなく、友人とするにも不釣合いで、ただ時々出会っては話をするくらいの仲ではあったのだが。
 しかし問題があった。一度は消えたはずの刹那の存在を私は復活させてしまったのだ。私は彼女は実在しているものだと思って舞美にも話を何度かしていた。そして更なる問題として舞美は刹那に似ている部分が多く、そしてそこに私は知らず知らずに惹かれていたということだった。
「舞美と会って話をしていると世界が鮮やかに色付くように思えた。会社での仕事がそれなりに順調にこなせるようになってきて、生活も安定した軌道上にあったその当時は子供の頃に私が住んでいた無色の冷めた世界ではすでになくなっていたけれどね。ただ東京というのは地面が硬く舗装されているし、視線を上げてもビルが空を見るのを邪魔するから灰色がかっていた。だから舞美に会うことは私の世界に潤いを与えてくれるものでもあったし、それを私は楽しんでいたと思う」
 舞美に最初に出会ったのは初夏の頃で、そして次第に暑くなっていた。よく都市部ではヒートアイランド現象が起きており、そのせいで気温が高くなるのだと耳にする。その説に従えばアスファルトやビル壁に太陽熱が吸収され、その熱が放出されるから気温が上がるのだとされる。だがヒートアイランド現象が顕著になるのは風の少ない日であって、むしろそちらに主たる原因がある気が私にはしていた。
「科学的には土よりもコンクリートの方が太陽光の熱エネルギーを吸収・放出しやすいというのは当たっているのだろうけれどね。しかし人工物が自然のものを取り入れると考えると違和感を感じたんだよ。むしろ都市というのは人間が密集して造り上げた要塞であり、自然を排除するようなものだと私は思っていたんだ。だから風を防ぎ、自分たちが空調を使って排出している熱を抱え込んでいるという考えの方がしっくりと来たんだ」
 そのことを暑い日に舞美に告げたら軽く微笑んで、そして例の丘に連れて行ってくれたんだ。
「例の丘って、私が案内したあの場所ですか?」
「ああ、そうだよ。あの場所に私を舞美は連れて行き、そして『ここにはきちんと風が吹くでしょう』と教えてくれたんだ。同じ東京でも場所によって違うものだと彼女は教えてくれた。そして私が理屈っぽく否定していた都会のイメージを変えてくれたんだ」
 それは本来ならばいいことなのだろう。それまで持っていなかった世界観を私に見せてくれたのだから。けれどもその時の私の傍には刹那の亡霊が佇んでいた。世界に色があることや風の気持ち良さを教えてくれたのは刹那だったのだ。だから私は重大な過ちを犯してしまった。
「私はそれをきっかけに舞美と刹那を重ね始めてしまった。同一人物だとはさすがに思いはしなかったけれどね」
 だから私は他の場所で舞美のことを思い出せなかったが、あの丘の上では舞美の記憶をはっきりと取り戻すことができたわけだ。
 あそこでの出来事から私の世界は歪み始めることになったのだから。


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by zattoukoneko | 2011-07-09 09:10 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-4-2


3-4-2

 舞美を姉と慕い、その姿を探し続けていた雪奈にとっては刹那の話を聞かされる時間は余計なものだと思えてしまうかもしれない。しかし今回の事件の根幹には彼女の存在があり、したがって切り離して説明することができない。
 私がそのことを雪奈に了承してもらうべく伝えると彼女は眉間に皺を寄せた。ただ不快だからということではなく、何事か考えているようだった。さほど強くはないが、傘を打ち鳴らす雨の音が静かに私たち二人を包んで見守る。
 しばらくしてから雪奈は自信なさげではあったが、とある推測に辿りついたらしく尋ねてくる。
「成明さんは姉のことをすべて思い出したと言いました。でもそれは『自分が関わっていることだけ』ということですよね。他人がしたことは知る由もないですし。もしよろしければどこまで思い出したかについて先に教えてもらえますか?」
 彼女の推測はおそらくある程度まで当たっているだろう。それに姉の行方や生死を早く知りたいであろうから、そうした要求が出てきて自然だと思われた。
「詳細については刹那と私、そして舞美の関係を知ってもらわないときちんと把握できないと思う。でも君が知りたいであろうことに関しては先に話すことができる。ただ落ち着いて聞いてほしい」
 私は雪奈に承諾の返事をしてから、自分自身も落ち着くために一つ深呼吸をした。
 告げる。
「とある事情があって私は舞美のことを殺した。その後記憶を失って友人の瑠璃の店にその遺体を運んだ。けれどその後遺体が消えたことに関しては私のやったことではなく、遵って舞美が本当に死んでいるのかやその体がどこにあるのかについては一切知らない」
 ついさっき雪奈に対し私は舞美のことを迎えにいこうと告げた。でもそれは私が刹那や舞美とのことをきちんと受け入れる儀式のようなものだ。実際に彼女の元に向かうわけではない。
 それは私の事情だ。姉の姿を探し続けていた雪奈に付き合う義理はない。私は同じく舞美を知っている彼女に話を聞いてもらいたいと思っているが、果たして彼女はどうするだろうか?
「……」
 しばし黙していた彼女は、しかし次の言葉で答えを出すことはしなかった。
「成明さんは随分雨に濡れてしまっています。体が冷えても毒ですし私の家に行きましょう。ここから近くにあるんです」
 そうして私を随える雪奈はあの日の舞美にそっくりだと思った。傘を差し出してくれた彼女を刹那と勘違いしてしまった私を、優しく自室へと導いてくれたのだ。そのことを告げると雪奈は小さく、でもやや寂しそうに微笑んだ。
「そうでしたか。私も自然と姉に似てきていたんですかね」
「雪奈は舞美にかなり似ているよ。君たちが本当の姉妹ではないというのが不思議なくらいに」
 やがて雪奈の招き入れてくれた部屋は住宅地にある少し古ぼけたアパートだった。歩きで来れる距離であったから自然なことではあるのだが、私の職場からもそれなりに近いところにある。そして場所も建物の雰囲気も違うけれども舞美の部屋もここからさほど遠くないところにあった。
 女性らしく装飾はされているものの、それほど荷物のない室内。部屋に着いてすぐに雪奈は雨に濡れたスーツをハンガーに掛けて窓際のカーテンレールにぶら下げた。中央にあるテーブルの近くに座った私は、さらに雪奈がペットボトルからコップに移してくれた飲み物を受け取りながら、ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「舞美とは一緒に暮らさなかったのかい? 大学に入れてくれようと支援していたと思ったけれど」
「姉の部屋はここよりはずっと広いですけど、でも一人暮らし用ですから。引越しをするのにもお金が掛かりますし、大学の費用を捻出しようとしてくれているなら尚更でした」
 話を聞く限りでは随分と仲が良かったようだし、部屋の狭い広いは関係ないとも思いはしたが、そこは両人の問題であるし今の私たちにとって重要なのはそこではなかった。さっそく本題に入る。
「雪奈も知っていると思うけれど舞美の部屋はここからそれほど遠くはないところにあって、私の職場からも近いところにあった。あの日も今日と同じように雨が降っていたよ。季節は初夏だったから冷たくはなかったと思うが、その時の私にはそれを感じるだけの余裕がなかった。仕事で大きなトラブルがあってね。入社して間もない新人が私の下で記事を書いていたのだが、その彼は取材をほとんどせずに憶測でそれをやっていたんだ。それに気付いた上司が記事の書き直しを私に命じてきた。面倒を見ていた社員の不手際だから私が手伝うのは当たり前なのだが、その新人はあろうことか終業時間になるとさっさと帰ってしまった。彼が残っていても取材をしていないのでは材料がないから大した役には立たなかったかもしれないが、しかし誌面に穴を開けるわけにはいかない。他の記事との兼ね合いもあって内容の大幅な変更もできず、結局私自身もすぐにはわからない程度に誤魔化した記事を書いて提出したんだ」
 そこまで話すと私は雪奈のくれた飲み物を口にする。甘い炭酸飲料で思いの外疲れていたらしい体に滲み渡る。舞美も何か飲み物を出してくれたと思ったが、あの時の私の心理状態では覚えていなくて当然かと思った。
「私は記者としては三下だと自覚している。自分で思うように取材して記事を書けるような身分ではない。けれどそれなりの歳月をこの仕事に費やし、それなりに誇りも持てるようになっていた。力の及ぶ範囲で可能な限り良いものを仕上げようとしていたのに私はあの日ゴシップと見做されても仕方のないような記事を書いてしまった」
 この話は雪奈にとっては仕事上の愚痴に聞こえるだろうか。しかしこれは私と刹那の関係を述べる上でとても大事な内容でもあった。
「私も就職してしばらくの間はただのタスクとして日々の仕事をこなしていた。そこに自分というものはなくただ流されているだけだった。そんな折、地元から刹那が遊びに来たんだ」
 今なら彼女がどうしてその時に私の元に現れたかわかる。存在していないはずの妹を作り上げた理由を知ったからだ。
 結局刹那というのは、私がいつの間にか社会に流されてしまっていると現れ、そして機械として冷たく固まろうとしていた心を解してくれる存在だった。私は彼女の存在を内に作り出すことで心のバランスを保っていたということになる。
 しかし仕事をしているうちにやがて自分のスタンスというのを確立できるようになってきた。私はいつの間にか刹那の力を借りずともやっていけるようになっていたのだ。それは一つの成長ではあったかもしれないが、無自覚なものであり、遵って一つの重大な過失を心の内に抱えていたということにもなる。
「平たく言えば私は刹那を『殺した』んだよ。独りで生きていけるようになった私は彼女に用はなくなった。だからその存在を葬り去ったんだ」
 私の物言いに雪奈が小さく息を飲んだ。作り物だったとはいえ私にとって刹那が大事な家族であったことに変わりはない。にも拘らず私は彼女の存在をこの世から消した。
「けれどそれは仕方がないことだった。彼女が存在し続ければ私は甘えてしまうからね。実在する家族からもいつか私たちは自立をしてある程度距離を置かなくてはならないものだが、元々存在していなかった刹那と距離を置くということは彼女の存在の消滅を意味していたんだ」
 けれど私は仕事で失敗したあの日、また刹那の存在を呼び出してしまう。彼女の存在を消したことを私はきちんと認識していなかったから簡単にそういうことができてしまったのだ。目の前に現れた人物は実際には舞美だったのだけれど、彼女の容姿と雰囲気が似ているから刹那だと誤認してしまった。
「舞美が彼女の部屋に私を招き入れ、落ち着かせてくれているうちに別人だと気付いたけれどね。でも一度蘇ってしまった刹那はそう簡単には消えてくれなかった」
 そしてそこから事件は動き始める。私の心の中で起きたことだったから目立った動きはなかったけれど。しかし着実に異変は生じ始め、そしてやがては大事に至る。
 私は立ち上がると雪奈を促した。当時どのように舞美に接し、刹那がそこに関わってきたのか。そして最後に何が起きたのかを見に行くことにしようと思う。
 雪奈は窓際に吊るしてあった私のスーツを取ってきてくれた。手渡しながら言う。
「まだ大分濡れているみたいです。乾燥機などがあればよかったのですけど」
「もう夜だし、それほど時間も経っていないから乾かなくて当然さ。冷えそうだけれど仕方がない」
 そして私はそのスーツを羽織って雪奈と一緒に夜の街へと出掛ける。

   ‐第三章・了‐


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by zattoukoneko | 2011-07-07 10:36 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-4-1


3-4-1

 夏に降る雨はとても強く体を心地よく洗ってくれる。一方で冬に降る雨はしとしとと人を静かに冷やしていく。空から降る水であることに何ら変わりはないのに季節によって雨はその様相を大きく変えるのだ。
「そのことを教えてくれたのは刹那だったね」
 私は傘を差し出してくれている相手を見上げてそう告げた。
 彼女に聞いて雨の違いについて知る前まで私はこの世界に色があることすら知らなかった。色というものがあるということは頭の中では理解していた。当たり前のことだ。でも実際にそれを目で捉え、知覚し、そして一番重要な心動かすということをしたことがなかったのだ。だから私の世界には色彩がなかった。モノクロの世界よりもずっと褪せたところに住んでいたのだ。
 今でも瑠璃に暗に注意されている気がする。私は頭でばかり物事を考えてしまう傾向がある。自分や他人の心というものを無視しがちなのである。別に古臭い二元論を信奉しているわけではないが、けれど幼い頃から私は機械論の影響を多分に受けていたような気がする。瑠璃が毛嫌いする近代・現代科学の申し子というわけだ。
「ああ、だから私は瑠璃にあんなにも惹かれたのか」
 私がいつの間にか受け入れ、しかし実のところは薄々疑念を抱いていた今の社会の在り方に彼女は真っ向から反対していたのだ。その立場は何らかの解決策を生み出すようなものではなかったが、それでも私の望む姿の一つではあったのかもしれない。
 この社会は歯車が集合することによって出来上がった機械なんかではないのだ。私たちは、あるいは世界ですら心を持っている。色々なものを感じながら生活していて、それは簡単に割り切れるものではない。数字で出来ているわけではないのだ、私たちは。
 けれど成長していく中で私たち人間は数字で物事を測ることを覚えていく。距離にはメートル法が適用されているし、地球は緯度と経度で細かく分けられている。生活は時間によって刻まれ、風や雨の強さは天気予報で教えてくれる。
「刹那はそういったものを一切口にしなかった。気にしようともしなかった。私と一緒にいるときはいつも風や周りの景色を眺めながらゆっくりと歩いていたね。朝のテレビで天気予報が降水確率一〇〇パーセントだと言っていて、それを出かけようとする刹那に私が伝えたところで傘をすぐに手にしようとはしなかった。外に出て風の匂いを嗅いで、上空に吹く風と雲の流れを見て、それでようやく傘を手にするかどうか決めていたんだ。手にするのはいつも赤い傘だったね」
 雨が降るときはさすがに曇ってしまうから周囲の色が見えにくくなってしまうのだ。刹那自身はそれでも世界の色を楽しむことが出来ただろうけれど、強い色をした傘を手に持つことで周りの人に明るさに目を向けることの重要性を説いていたのだと今ならわかる。
 あの日、私の頭上に差し出してくれた傘もやはり鮮明な赤い色をしていた。悲しみに暮れ、世界の全てを呪い、でも壊すことが出来ずに私の方から世界を捨てようとしていた私に綺麗な色がそこにはあることを思い出させてくれ、そしていつの間にか降り出していた雨から私を優しく守ってくれたのだ。
 それは母に刹那なんてこの世に存在しないと言われたその日のことだった。私はその言葉に耐えられずに家を飛び出してしまったのだ。でも田舎の道は暗く、慟哭していた私は足をとられて転んでそのまま動けなくなってしまった。そこに刹那が迎えにやって来た。母の述べたことなんて嘘だったのだ。刹那はそこにいたし、いつも私の傍にいたのだから。
「助けてくれてありがとう。刹那がいなかったら私は生きていられなかったかもしれない。君が傍にいてくれることで心のバランスを保っていられたんだ。大学に入って、瑠璃に出会って、離れがちになってしまったけれど何かあれば刹那はすぐに私のところにやって来てくれた」
 本当に彼女には救われっぱなしだ。それを忘れていた自分が恥ずかしい。だから思い出した今こそ心の底からありがとうと言わないといけない気がした。
 感謝の気持ちを大事に抱き、そして実際に伝えながら私は立ち上がった。黙って傘を差し伸べてくれている彼女に向けて伝える。
「もう大丈夫。私は自分の足で歩けるよ。いつまでも地面にへたり込んでいちゃ駄目だな、しっかり自分の足で地面に立たないと」
 情けない兄で申し訳ないなと、思わず苦笑が洩れる。私は立ち上がってしっかりと目の前の人物の目を見つめた。
 その私に『彼女』が冷たく告げる。
「そうやってまた現実から逃げ出すんですか? 妹さんのいた世界に逃げ込むんですか?」
 私は首を横に振ってみせる。逃げる気なんてない。逃げる必要すらない。全てを思い出した今、私は逃げるのではなく現実に立ち向かう力を手にしたのだから。
 雨に濡れていた私に傘を差し出してくれたのは刹那じゃない。雪奈だ。そのことを初めから知っていた。
 雪奈に私は笑ってみせながら告げる。
「紛らわしい物言いをしてしまったね。でもそうすることが重要なことでもあったんだ」
 それから一つ疑問に思って彼女に問う。
「瑠璃たちとのやり取りは見ていたのかな? さっき『また逃げ出すのか』と訊いてきたし、私の妹は実はとっくに死んでいて、でもその幻影を私が作り出していたことはもう知っているということでいいかい?」
 私の言葉に雪奈は素直に頷いた。それからか細い声を発する。
「私にとって姉の手がかりになりそうなのは成明さんしかいませんでしたから。だからまた付き纏っていました。そして先程のご友人たちとの会話も耳にしていました」
 申し訳なさそうにそう告白する雪奈に私はなるたけ優しい声を掛ける。無感情と瑠璃に言われ、そして実際にそうであった私にそんな器用な芸当ができているかどうかは怪しかったけれど。
「別に咎めるつもりはないよ。雪奈にとって舞美が大事な存在だったというのはわかっているつもりだからね。ただ事情を知っているかどうか確かめたかっただけだから」
 それから私は話を戻した。
「あたかも雪奈のことを刹那だと勘違いしているかのように話しかけたのは、それが前にもあったことだからなんだよ」
「え?」
「別に雪奈とそうしたことがあったということではないよ。舞美との出会いがそれだったんだ」
 私の言葉に、それの意味するところを雪奈が気付いたらしく双眸を大きく見開く。でもすぐには応じず、私は一つ深呼吸をした。彼女にはこれから大事なことを伝えていかないといけない。その心の準備をした。ここにはもう刹那はいないのだから。
「舞美とのことを全て思い出した。妹である刹那との関係もね。だから雪奈に聞いてもらいたい。まずはどうして刹那のことを忘れていたのか、そこから話を始めよう。それから舞美を迎えに行こうと思う」
 それは辛い話になるけれど。でも私はこの現実の世界できちんと生きることを決めたから。だから何にも包み隠されない過去を取り戻しに行くことにする。


   『絶体零度』3-4-2へ
by zattoukoneko | 2011-07-02 06:47 | 小説 | Comments(0)


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