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【小説】『絶体零度』3-3-2


3-3-2

 手渡された書類を見つめる私に、恭介が釘を刺す。
「それは本物だよ。まあ正確には本物の戸籍謄本の写しだけど、僕もそれを入手してくれた人も一切改竄はしていない。そこに書いてあることが事実だよ」
 私は顔の上半分を手で押さえた。眩暈がするような気がしてならなかった。
「つまり何だ、妹の刹那はもうこの世にいないということなのか?」
「そうだね。そしてその死亡している年も重要だと思う」
 そう告げてから恭介は簡素な文章しか書いていない戸籍謄本に説明を口述で記載していく。
「飯田刹那は幼稚園に入園する直前、四歳の時に家の近くにあった用水路に落ちて溺死している。成明が小学校に入って一年が経とうとしていた頃のことになる」
「つまり飯田君が私たちに妹の話をしていた大学時代にはとっくに他界していたということになるのさ。君はずっと私たちに居もしない妹の話を私たちにしていたということになる。そう考えるとこの前話してくれた中学の時分にあった母君とのやり取りというのも再度熟考する必要がある気がするね」
 目を指で強く押さえていると網膜に妹の姿が映し出された。これは彼女が高校生の頃の姿だろうか。学校の制服らしきブレザーに身を包んでいる。
 瑠璃が厳しく、しかし寂しそうな雰囲気も含ませながら告げてくる。
「その妹は幻影だよ。実際に存在するわけじゃあない。君は死んだ妹の姿をどういう理由でか作り出し、あたかも実在するかのように生活をしていた。そのことをきちんと受け入れないといけない。さもなければ君が抱えているものがずっとわからないままになってしまう」
 彼女の言うことは正しいと思う。私が高校生や大学に入ったばかりの頃、地元の茨城で学校の制服としてブレザーを採用しているところはほとんどなかった。少なくとも私の住んでいるところから近いところには一校もなかった。
 私は瑠璃に訊いた。弱々しいその声は季節外れに出てきてしまった夏の蚊のようなものだったかもしれない。それでも瑠璃はきちんと聞き取ってくれた。
「私が妹の幻影を作り出していたことと舞美との件が関係していると瑠璃は考えているのかい?」
「そこまではわからない。でもきっかけになっている気はするね。君は今回の件で余りにも妹と白樺雪奈や櫻庭舞美とを重ね過ぎていたと私には感じられていたし」
 瑠璃はしばし視線を上に向けて言い難そうにする。いつの間にか空には鈍色の雲が厚く立ち込め始めていた。
「君にとっては話しにくいことだろうし、記憶まで変えていたということは思い出したくもないことなのだろうと推測する。けれどそれが君にとって大きな傷であり、それが今後の生活に支障を来すとするなら私は解決した方がいいと考える。私は心の専門家ではないから具体的に何か出来るわけではないけれど、しかし相談事があるならいつでも聞くし支えになろうと思っている」
 私の生きてきた世界が揺らいでいる。大きな音を立てて崩れようとしている。奈落の底に落ちそうになっている私に、瑠璃は支えになると言ってくれた。
 もしかすると話をすることで私の基盤にしていたものは瓦解してしまうかもしれない。けれどもうすでにそれは失われる寸前であった。私は彼女に縋ることにした。溺れる私の体重をその藁は支えられるかわからなかったけれども、そうするしかなかった。
「妹が死んだときのことは覚えていない。記憶にあるようだったら度々現れる刹那のことを訝しく思っていたことだろうしね。考えてみると確かに小学校低学年の頃に妹と一緒に過ごした記憶はない。彼女と頻繁に遊んだのは高学年になってからのことだ。年齢がある程度離れているからそれが自然なことだと思っていた」
 そこまで聞いた瑠璃がそれはおかしなことだと指摘する。
「それはもしかしたら思い込みによるものなのかもしれないね。おそらく幼少期の君にとっては妹がいない生活の方が自然だったんだ。けれど成長することに伴って妹がいたことを思い出してしまったか、それか何か妹の幻影を作り出してしまうようなきっかけがあったのかもしれない。どうだろうか?」
「……わからない、な。その頃に大きな事件があったという記憶はない」
 返答して、そこで私は思わず苦笑いを漏らしてしまった。
「私がそれを言うと説得力がなくなってしまったね。何もかも忘れてばかりだ」
 けれど瑠璃は私のことを馬鹿になどしなかった。真剣な様子を一切崩すことなく、そして私を懸命に支えようとしてくれる。
「忘れてしまっているなら仕方ないさ。それを無理に思い出そうとしてさらに記憶を捻じ曲げても困るわけだし。そこを悔いたり謝るのではなく、今は覚えていることから探っていくことにしよう。君が妹に会うときに規則性のようなものはなかっただろうか?」
 刹那と会う時は常に二人だけだった。さすがに周囲にまったく人がいないという意味ではない。瑠璃たちに少し前に話をした渋谷を一緒に歩いた時だって無人の街を歩いたわけではない。ただ知り合いに出会うことは一切なかった。今にして思えば瑠璃や恭介に妹の話はすれども実際に会わせたことがないのは彼女が実在しないと心の底ではわかっていたからではなかろうか?
 中学のときも高校のときも友人と刹那を引き合わせたことはない。彼女の友人に私が出会ったこともない。そして重要なことに身内のいる場ですら刹那の姿を見たことはなかった。
 ああ、そうなのだ。それで私はある日母にどうして刹那にはきちんと食事を与えないのかと問い詰めたのだ。母とのやり取りを私は都合のいいように書き換えていたと今ならわかる。私は食後に食器洗いをしている母に対し「どうして家族みんなの分の食事を用意しないんだ?」と問いかけ、それに対し母は訝しげな表情をしながら「みんなの分用意してるでしょ。それとも他の皆には見えてない誰かがそこに居るとでも言うの?」と答えたのだ。それが受け入れられずに逃げた先に刹那が待っていたのだ。
「飯田君が前回渋谷で妹と会ったという話では、確か仕事が始まって忙しくなってきた時期の話できちんと生活が出来ているのか見に来たんじゃないかと君は推測していたんだったね。でも実際にその妹は存在せず、したがって彼女の行動は君自身が頭の中で想像し、現実のものと思い込んでしまったという流れではないだろうか。即ち君が自分の生活である程度のレベルの苦労や嫌なことがあると、それを緩和してくれる役割を担っていたのではないだろうか?」
 瑠璃のその仮説を聞いて、しかしそれは微妙に違うということに気付いた。確かに私が生活に苦しくなると刹那は現れやすかったようにも思う。でも刹那が本当に私に伝えようとしていたことはそれじゃなかった。彼女は私を慰めるようなそんな存在ではない。もっと重要なことを私の中から引き出すために彼女は現れたのだ。
「成明?」
 突然恭介が戸惑い驚いた声を上げる。いつの間にか私は泣いていた。
「刹那は私に色々なことを教えてくれた。彼女は明らかに私に何かを伝えようとしていた気がする。その存在が私が創り出したものだというのなら、彼女を通じて感じたと思っていたものは私が本来望みながらも抑圧していた願望だったということなんだよ」
 刹那は大学でもっと遊べばいいのにと言っていた。瑠璃や恭介との生活も有意義ではあったが、それ以外の大学生活にも本当は憧れを抱いていたのだ。
 地元茨城に吹く風の心地良さを教えてくれたのは、それに気付きながらも普段の生活の中で忘れてしまっていた自身への注意喚起だったのだ。
「ああ、私は自分の欲求を封印してたんだ。それに気付こう、気付こうと自分の中に妹の姿を借りた自分自身を創造した。でも結局私は――」
 ついに空からは大粒の雨が降り出し始めた。
 空から降る涙に私は言葉を続けられなくなってしまった。どうして最近は刹那がいないのか。その理由に気付いてしまったのだ。
 気付くと私は瑠璃と恭介の元から逃げ出していた。彼女たちにそれ以上のことを聞かれたくない。私が刹那にしたことは余りにも残酷すぎる。
 泣いて、泣いて、私は街の中を彷徨い続けた。どのくらいの時間ふらついていたのかなどわかりようがない。何も考えたくなかったし思い浮かべたくもなかった。全てを頭の中から追い払い、逃げた先で元の生活を取り戻したかった。
 ただついに体が疲れ果て、私はその場にへたりこんでしまった。冬の雨は私の体温をほとんどすべて奪い去っていた。
 動けなくなって黒く濡れたアスファルトに膝を突く私の頭上に、唐突に赤い色の傘が差し出された。私の周囲で冷たい雨が急に止む。
 見上げた先に私はその姿を見つけた。
「ああ、刹那。久しぶりだね」


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by zattoukoneko | 2011-06-30 00:44 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-3-1


3-3-1

 会社を出ると外はすでに夜になっていた。大した仕事はしていないとはいえ、一応記者なんてものをやっているためその他の会社員よりは帰りが遅くなるし、不定期だ。すっかり冬の気配に変わってきた風が首筋を撫でて過ぎる。
 すっかり藍色に染まった空の下、それより深い濃紺の着物で佇む瑠璃を見つける。
 別に待ち合わせをしていたわけでもない。人通りもそれなりにあるのだが、彼女はよく目立つから自然と目がいった。
「やあ、瑠璃がわざわざ外に出掛けてくるなんて珍しいじゃないか。しかも私を待っていたのかい? そんなこと今までしてくれたことなどなかったように思うが」
「大事な用事があれば外にくらい出るさ。ひきこもりじゃないんだからね。しかし待っていると伝えるべきだと思ったよ、こんなに遅くなるならね。君は連絡でもしようものなら仕事を抜け出すかもしれないと思ったから控えたのだけど」
 瑠璃もこちらを待っていた様子ではあったし、気付いておきながら無視するわけにもいかずに話しかけた私に対して瑠璃はそう答えた。そしてやや開けた着物の裾を持ち上げ肩を窄めた。
「しかしもう冬だね。肌寒くて敵わないよ」
「瑠璃の着方がだらしないのがいけない気もするけれどね。和装は日本の気候に合っているものだとも聞くし」
「それは昔の話だね。都市部はおかしな近代化をやられたせいで夏には湿気が籠もるし冬には温かみのない刺すような風が吹き荒ぶようになってしまったよ」
 私の小さな皮肉に瑠璃は真面目な言葉を返してきた。そしてそのまま話が続かなくなって沈黙が落ちる。
 彼女と大学で知り合ってから長い付き合いになる。しかしこんなにも何か話し辛そうにしているのを見るのは初めてだった。そして私自身も話を切り出しにくく感じていた。瑠璃が何の用事があって会いに来たのかはわからなかったが、しかし私の方には彼女に話すべきことがあって、それを自覚しているだろうに。
「まあいつまでもこんな場所でだんまりを決め込んでいても仕方がないね。行こうか。萩原君には別の場所に来るように伝えてある」
 恭介も来るということはやはり雪奈たちに関わる話なのだろう。瑠璃たちも心配していてくれたことに気付かないほど私は人間の感覚を鈍くはしていない。
 ふぅと一つ強めに息を吐いた。心を整えて私は話し始めた。
「実はこの前雪奈と一緒に横浜まで行ってきたよ」
「横浜というと白樺雪奈が孤児として育ったというところかい?」
「ああ、養護施設を訪れて詳しく話を聞いてきた。恭介が調べてきたように雪奈は舞美の妹ではなかったようだ」
 そこで私は瑠璃に詫びる。
「この前はすまなかった。恭介の持ってきた話を信じたくないということではなかったんだよ。信じられてしまったからこそ私はどう自分の感じているものに折り合いを付けるべきかわからず混乱してしまったんだ」
 少し前を進む瑠璃は、こちらを振り返ることなく頷いて返した。
「そうなるのは自然なことだとも思う。君は変化していこうとしているのだから苦しみを大きく感じることもあるだろう。そしてあまりに痛いから無意識に逃げようとしてしまうこともある。でもそれをさせていては成長したいと望んでいる君のためにはならないと思ったから私はきつくそのことを指摘した。気分を害するのは自然なことだよ」
 瑠璃はそこまで喋って、また口を閉ざしてしまった。そのまま数十メートルを歩いていく。何を話すべきか彼女も迷っているような感じがしたので、私はそのまま黙してついていくことにした。
 瑠璃が口を開くと、しかしその言葉はとても短いものだった。
「君は変わろうとしていた。それであれから今日までで何か変われたと思うかい?」
 今度は私が沈黙してしまう番だった。胸を張って私は成長したのだと言えるような証拠を提示できない。
 瑠璃が小さく息を吐く。嘆息という感じではなかったが。
「気持ちの整理がついていたら君はすでに何食わない顔をして私の店にやってきただろうね。それがなかったということはまだ自分の抱えているものを自覚できていないということなのだと思う」
 そこで瑠璃は私の方をちらりと見遣るように頭を動かした。はっきりと視線を交わらせることはなかったけれど。
「君は白樺雪奈と横浜に行ってきたと言っていたね。そこで君が『感じたこと』を教えてくれないか? 『知ったこと』ではなく、ね。もちろん多少はそれにも触れるだろうけれど」
 彼女の求めていることはとてもよくわかった。瑠璃はずっと私の心のことを気に掛けていたようだったし、知識としてなら恭介の分で事足りているだろう。
 私は帰り際に感じたちょっと不思議な感覚を中心に話していく。
「雪奈が舞美のことを姉だと思っていたのはどうやら彼女の過去に原因があるらしい。家族を強く求めてしまう気持ちがあったんだろうと私は推測しているが、生まれて初めて優しく接してくれた舞美を本当の姉だということにしてしまった。そんな事例は極めて少ないということはわかっているよ。ただ実際にそうなっていたということは、雪奈はそれだけ深く心に傷を負っていたんだ。そしてそう思ったからこそその後の彼女の立ち直りの早さに違和感を覚えてしまった」
 小さく頭を振りながら私は続けた。
「どうしてあんなに簡単に割り切れる? すでに私から話を聞いていたとはいえ、実の姉だと思っていた人物がただのボランティアで来てくれただけの女子高生だと判明したんだ。そのときに受けたショックが小さいわけはない。それに以前に私に話してくれた内容と施設の先生が話してくれた内容はまったく違っていた。それはおそらく精神的な疾患が続いていたからということになるのだろう。ならば今の彼女は突き付けられた事実をどう解釈したのか。彼女の病が続いているとしたらと私は咄嗟に考えて、そして何故か言葉を掛けられなくなってしまった」
「……」
 瑠璃が神妙な面持ちで私の話に耳を傾ける。そして一つ寂しそうに苦笑を漏らした。
「君はやっぱり馬鹿だな。私は自分の気持ちを語ってみせろと言ったのに、どうして話すことは白樺雪奈のことばかりになるのかね。まあ、今回はいくらか自分の気持ちを吐露してくれたように私には思えたけどね。君は気付いていないのかもしれないが」
 ここがいつもの店だったら瑠璃は愛用のキセルで私を鞭打っていただろうか。彼女は私の曖昧にしていた箇所を指摘してくる。
「君自身も記憶を失っているじゃないか。だから同じ境遇にある白樺雪奈に声をかけることができなかった。いいかい、ここが重要なんだよ。記憶を失っているという事実が共通しているだけなら君は特に気に留めることはなかっただろう。でも今まで気にしているということはその内部の機構まで同じということになるのさ」
「つまりはこう言いたいのかい? 私は自分の心に傷を負っていてそれが原因で記憶を消してしまったと?」
 首肯してから瑠璃はこちらを振り返った。ちょうど一つの安物の喫茶店の前だった。
「そういうことだね。君が記憶を曖昧にしていたのは心の内側に大きな傷を抱えていたからに他ならない。白樺雪奈と同様にその傷に関してはほとんど忘れているようだけれど、実は今まで何度も口にしていたことだったんだよ」
 話をしていた私たちのもとに一人の人物が近付いてきた。時間は遅くなっていたが東京では電灯など持たずとも相手の顔がきちんと判別できる。
 喫茶店から出てきた恭介が沈黙したまま一枚の紙を持ち上げ、とある箇所を指差した。それは妹の刹那の名前が載った戸籍の写しだった。
 恭介の指差している事項欄には冷たい文字でこう綴ってあった。
『死亡』
 と。


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by zattoukoneko | 2011-06-26 19:49 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-2-2


3-2-2

 写真を持つ雪奈の手がゆっくりと下がっていく。彼女がどんな表情をしているのか、私からは髪の毛が邪魔をしてよく見えなかった。
 雪奈を世話していたという先生が変わらぬ様子で訊く。
「あら、覚えてなかったの?」
「……はい」
 項垂れたまま返答する雪奈に先生はちょっとだけ唸り声を混ぜる。
「そっかあ。まだそういうところは直らないままなのね」
 それはどういうことだろうか? 訝しく思って尋ねた私に、視線を向けた先生が誰何してくる。
 どのように答えたらいいものかと悩んでいたら代わりに雪奈が返事をしてくれた。
「この方は飯田成明さんといいます。姉――櫻庭舞美さんと親しくされていた方なんです。でも櫻庭舞美さんの行方が最近わからなくなってしまったんです」
「あら、そうなの?」
「はい。それで櫻庭舞美さんの行方を追っているうちに私のことを知ったらしく、一緒に探しているというわけなんです」
 彼女の説明は事実とはかなり食い違ったものではあるが、しかし私が舞美を殺したかもしれないなどとは話せないだろう。余計な混乱を招きかねない。
 それから雪奈は施設を出所後に舞美と出会ったこと。ただ自分は姉だと思っていて、ここですでに面識があったことは覚えていないということを告げた。
「雪奈ちゃんのお姉ちゃんだというのは櫻庭さんの方から言ったのかしらね。あなた『舞美お姉ちゃん、舞美お姉ちゃん』と言ってずっと付いて回っていたから」
 先生の話を聞く限り、雪奈はよほど舞美のことを慕っていたように思える。それにそれは中学の終わり頃の話だと先程述べていた。幼少期の記憶ということならともかく、その年齢の出来事をそう簡単に綺麗さっぱり忘れてしまうものだろうか。
 私がそのことを訊くと先生は途端に歯切れが悪くなった。
「それはねぇ、雪奈ちゃんの場合にはちょっとした事情があるから……」
 そう喋りながら先生はすぐ傍にいる雪奈の方をちらりと見た。当人に関わる、そして余り人前で話すべき内容ではないのだろう。
 視線をもらった雪奈もそのことを理解したらしく、その上で頷き返した。
「話してもらって構いません。むしろ私自身も忘れているくらいですから話してもらいたいと思っています」
「そう。まあ忘れているのはうちらも把握していることではあるんだけどね」
 先生は立ち話も何だからと近くの部屋に私たちを案内した。施設の子供たちは外で元気に遊んでいるようで、きゃいきゃいと騒ぐ声が屋内にも聞こえてくる。その子供たちの使っている物なのか、小さな椅子に座るよう私たちに勧め、その後自らも腰を下ろしてから先生は話を再開した。
「雪奈ちゃんは専修学校に進んだことは覚えているかしら?」
「はい、覚えています。ただきちんと修了はしていないとか。それは覚えていませんでしたし、それに在学中に櫻庭舞美さんのことを姉だと調べたのだと思います」
「なるほどね、雪奈ちゃんの記憶ではそうなっているわけね」
 それはどういうことなのだろうか。確かに雪奈本人から聞いていた話と、先生や恭介の告げる事実はあまりにも喰い違っている。彼女が自ら記憶を書き換えてしまったということなのか。
「専修学校を辞めることになった理由の一つがそれなのですけどね」
 先生は私にそう答えてから、当時の事情を語り始めた。
「雪奈ちゃんはご家族を事故で亡くしてる。原因はお父さんが飲酒した上での自動車の暴走運転だったわ。大きな事故だったから当時は全国紙にも掲載されたくらい。雪奈ちゃんは奇蹟的に助かったけれど、その時のショックからか頼れる人を作ることが出来なくなってしまっていた。とても内気で、一日に一度声が聞こえればいいかなというくらいの子供だった」
 そのような雪奈の姿は今の様子からは思い浮かべることが私には出来なかった。彼女はきちんと喋るし、活発とまでは謂わずとも明るい女性に見えたからだ。
「転機になったのは櫻庭舞美さんがこの施設にボランティアでやってきたこと。彼女の高校でやっている慈善活動の一環だったのだけど、櫻庭さんはとても熱心で真剣に取り組んでくれたわ。彼女は雪奈ちゃんにも何度も優しく話しかけてくれて、そして雪奈ちゃんも『舞美お姉ちゃん』と言ってすごく懐いたの。うちら職員もそれを嬉しく思っていたのだけれど、今から考えてみればそれが事の発端だったのかもしれないわね」
 問題が起きたのは雪奈が専修学校に通い始めてからだという。
「櫻庭さんも高校を卒業してしまったから施設には来なくなってしまった。彼女が来ていた頃よりはさすがに落ち込んでしまったけれど、でも雪奈ちゃんは大分明るくなったの。でも専修学校である日櫻庭さんに容姿がそっくりな先輩を見つけてしまった。雪奈ちゃん、あなたはその人を本人だと勘違いしてしまったの。後でうちら職員もその相手の写真を見せてもらったけれど、確かにそっくりだったし、思い入れの強い雪奈ちゃんならば勘違いしてしまうのも自然なことではないかと思ったわ。ただその人は櫻庭さんとは性格がまったく違っていた。雪奈ちゃんのことを冷たく突き放してしまったの」
 相手がどのようなことをしたのか、具体的なことまで先生は話そうとしなかった。今すべきことではないと判断したのだろう。ただ過去の雪奈にとってそれはとても辛い出来事だったようだ。
「雪奈ちゃんは精神的に参ってしまった。とてもではないけれど学校に通い続けることができるような状況ではなかった。うちら施設の職員と学校側で話し合った結果、就学能力に難があるという理由で途中退学という処分にすることになったわ。その後施設の方できちんとしたお医者様に診てもらうことになるけれど、手続きをした時はまだ本格的に受診しているというわけでもなかったから体調不良などとは学校側でも書けなかったって」
 診療を受けながら、十八歳になった雪奈は施設を退所した。制度としては理由があれば二十歳まで入所期間を延長できるのだが、その頃には雪奈は自分で仕事をできるようになっていたし、また医師の方でもそれに向けて彼女のことを診察していたようである。何にせよそれが数年前のことであり、そして――今の雪奈にはその記憶がない。
 先生に別れを告げて施設から出る頃には空にも夕の色が映り始めていた。雪奈が自力で立って歩けるようになるまでそれなりの時間が必要だったのだ。
 まだ椅子に座り込んでいた雪奈に先生はこんなことを告げていた。
「雪奈ちゃんは『お姉ちゃん』に依存しすぎていたのよね。本来頼るべき親御さんを失っている施設の子供たちにとって、信頼できる相手を見つけることはとても重要なことではある。でもそれと同時に自立する力も身につけていかなくてはならない。これは相反するものだからうちら職員にとっても大きな課題でもあるわ」
 私の隣にいる雪奈は自分の足で地面に立っている。杖も使わず自分の二本の足でその場に立っている。
 彼女は秋色から次第に色の変化していく空を遠く眺めながらぽつりと言った。
「私は姉に会いたい」
 そして自分の想いを確実なものにするかのように言葉を紡ぐ。
「姉は私の本当の姉ではありませんでした。でも再会した私に優しく接してくれた事実は変わりようがありません。血は繋がっていなくともやはり私にとっては姉だった」
 雪奈は私の方に顔を向けると一つの決意を口にした。
「私は姉を探します。そしてじっくりと話し合うことにします。今となってはそれだけが頼れる唯一つのことですから」
 そう告げると雪奈は真っ直ぐに歩き出した。
 しかし何故か私は彼女の後を追うことが出来なかった。雪奈と同様、記憶を失ってしまっている私には伝えるべき言葉が見つからなかったのだ。
 人でごった返す横浜の街に雪奈の姿が消える。


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by zattoukoneko | 2011-06-23 18:18 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-2-1


3-2-1

 私はその日雪奈と共に横浜に降り立った。
 田舎の出身である私にしてみれば東京も横浜も都会であることに変わりはない。ただ何度か足を運ぶうちに雰囲気がかなり違うことには気付いていた。どちらも私の苦手な人混みではあるのだが、東京の人より横浜の人の方が活力に溢れている。渋谷などはがやがやと五月蠅いが、あれはただはしゃいでいるだけで謂わば空元気のようなものである。心の芯から出てくるものではないのだ。もしかしたら湾岸都市として発展したことや中華街が近くにあることが関係しているのかもしれない。
「久しぶりにこちらに戻ってきました。姉の方に行ってからはずっと東京でしたから」
 東急東横線の駅構内から出てきた雪奈は一つ深呼吸をしてからそう口にした。楽しそうには見えないその表情を私が疑問に思って見つめていると、彼女は端的に答えた。
「私はこの街で育ちましたが、家族がいるわけではありませんから」
 孤児として育った彼女が、この街に対してどのような想いを抱いているのかはっきりとしたところはわからなかった。私には華やかに見えるこの横浜も、雪奈にとっては冬色に灰がかっているのかもしれない。
 彼女はさらに言葉を付け加える。
「それに今回は私の出自を確かめるのが目的で、しかもそれが私と姉の間には血の繋がりが本当にあるのかどうかを調べるということですし」
 今日の目的に関しては会う約束をしたときにある程度伝えたし、渋谷からの電車内で瑠璃たちとのやり取りを含めて説明してあった。雪奈が気乗りでないのも致し方ないことだと思う。
「気にしないでください。私は姉を本当の姉だと思っています。血が繋がっていなかったというのはまだ信じられませんし、信じたくありませんけど、でも優しく私に接してくれた事実は揺らぎようがありません。予想外のことだったからまだちょっと困惑しているだけです」
 そうはっきりと言ってみせた雪奈は、少し首を傾げてこちらを見つめてくる。
「むしろ成明さんの方が気がかりです。ご友人の方々とは今後うまくやっていけそうですか? 私の血縁関係についてもわざわざ横浜に来ずとも調べてくれたという恭介さんに直接聞けばよかったと思うのです。でもそうしなかったというのはまだ会いに行きづらいということなんじゃないですか?」
 彼女のその指摘に私は少し戸惑ったけれども、結局頷き返すしかなかった。
「そう、だね。今はまだ私の気持ちの整理がついていないから」
「なら施設に行くまでの間に成明さんの話を聞かせてください。電車に乗っていた時間は短かったですから、成明さんがどう思っているのか話してもらえていません」
「私がどう思っているか、か……」
 あの日、私は瑠璃と恭介のもとから逃げ出した。そして今でも逃避を続けている。では一体何から、どうして逃げたのか。本人たちに直接言い難いからこそ、私は雪奈に聞いてもらおうと思った。
「瑠璃と恭介は大事な友人だ。私と彼女たちとの関係はこれからずっと続くものだと思っている。その根拠を問われると困るのだけれどね、でもそう確信している。私にとって彼女たちはかけがえのない存在であり、けして失いたくないものなんだ」
「そういう人がいるのって羨ましいと思います。私の周りにはいませんでしたから」
 雪奈がそう言いながらも、思い浮かべているのは姉の姿なのだろう。孤児として育った彼女がようやく手に入れた家族が舞美なのだから。
 そのことに気付きはしたものの、触れることはせずに私は自身の話を続けることにした。
「でもだからこそ彼女たちに自分の気持ちがうまく伝えられないことが苦しかった。一生続く関係だと思っていたからこそ求めが強く働いてしまったんだろう。私の感じているものを共有して欲しいと」
 しかし互いに背負っている環境が違うし、自然と物の感じ方も異なってくる。その差を強く意識してしまったからこそ私は何も言えなくなってしまったのだ。自分から何も言わずとも相手はわかってくれるはずだなどとそんな甘えは抱いていないつもりではある。だがだからこそ余計に辛くなってしまったのかとも思う。
 話を聞いてくれていた雪奈は、そこで一言だけ訊いてきた。
「仲直りできますよね?」
「……」
 私はその問いかけにすぐに返答することが出来なかった。今回の件は私たちの関係性を深く掘り下げないと解決しないものだと思うからだ。
 答えない私に対し雪奈が言葉を続ける。
「成明さんにとってご友人は家族のようなものなのではないかなと私は思います。でも本当の家族でもお互いのことをきちんと知るためには話し合いとかがきっと必要で。だから成明さんも、難しいと感じるにしても、自分の気持ちを伝える作業をしなければいけないのではないかと思います。そのためには成明さん自身の思っていることを一度整理しなければいけないのかもしれませんけど」
 そう言った雪奈は急に歩みを止めた。訝しく思った私が彼女の向けている視線の先を見遣ると小さめの小学校のような建物がそこにはあった。
「私も姉のことをきちんと知らないといけないのでしょうね。たとえ血の繋がりがないのが事実だとしても『家族』であることに変わりはありません。けれどうやむやなままにしておいてはいけないこともきっとある……」
 雪奈の見ているのが彼女の育った養護施設だとようやく気付く。軽く息を吐き、意を決したように歩みを再開する彼女に付き随って施設の中に入っていく。
 偏見としてこのようなところはもっと殺伐としたものだという印象を持っていたのだが、周囲にいる子供たちは元気に走り回ったり談笑していたりする。多少年齢にバラつきがあるものの、それを除けば一般的な小学校などと変わらないように感じられた。
 そのことを素直に雪奈に伝えると彼女は小さく首を捻って答える。
「どうなんでしょう。私はここの施設しか知らないので他の養護施設がどのような感じなのかはわかりません。それにここから小学校や中学校には通いましたけど、やはり施設と学校は別物という感覚でした」
 言われてそれもそうかと思った。仮に取材でいくつもの施設を訪れたとして、それで得られたものは客観的な感想で終わってしまう。あるいは自分の体験との比較が多少出来るくらいか。それぞれの内部の人間になることは原理的に不可能なのだ。
「けれど友人は作りにくかった記憶があります。施設内の子は年齢も違いますから、出所後はバラバラの生活になってしまうことが多いんです。中学などでもうまく交友関係は築けませんでしたね。一番信頼の置けるはずの家族がいないのでそれも関係しているかもしれません」
 そんな話をしながら歩いていると唐突に一人の女性が声を掛けてきた。
「あら、もしかして雪奈ちゃんかしら? お久しぶり」
 私よりも大分年上であろうと思われるその女性に、雪奈は振り向いて会釈する。
「ご無沙汰しています、枝本先生。今日はちょっとお聞きしたいことがあって来ました」
「そうなの? 普段から気兼ねせずに何かあったら訪ねてきてくれていいのに。でも本当に久しぶりねぇ。随分と雰囲気も変わったみたい。実は見かけてから思い出すまでちょっと時間がかかったのよ。さすがに歳も取ったしそのせいもあるかしら」
 そう話してから朗らかに笑う枝本という先生に、雪奈は一枚の写真を取り出して見せる。
「少し込み入った話になってしまうのです。でもまずはこれだけ確認をさせてもらいたいんです。この写真に写っている人を私は実の姉だと思っていました。枝本先生はこの人について何か知りませんか?」
「雪奈ちゃんのお姉さん?」
 訝しげな声を上げながら写真を受け取った先生は「随分遠くから撮っているのねえ」と呟いてからそれを見つめる。そして間もなく嬉しそうな声を上げる。
「ああ、この子なら知ってるわよ。懐かしいわねぇ。大人っぽくなってはいるけど当時と雰囲気がそのままだわ。写真でもはっきりとわかる」
 そして笑顔を浮かべながら先生は告げる。ただしその言葉は雪奈の小さな望みを粉々に砕くものでもあった。
「雪奈ちゃんがまだ中学に通っていた頃にボランティアで一年間お世話をしに来てくれた子よ。あなたよく懐いていたの、覚えてない?」


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by zattoukoneko | 2011-06-18 19:47 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-1-2


3-1-2

 私には恭介の言葉がよくわからなかった。彼は何と言った? 何を言おうとしている?
「飯田君、そこで逃げようとしてはならないよ。萩原君は事実を持ってきたのだろうし、そうしてくれと頼んだのは君自身ではなかったのかい? 思考を止めるな。自分の抱えるべき現実から目を背けるな。ついさっきそれを私と一緒に確認したばかりじゃないか」
 瑠璃に叱咤されて、ようやく私は恭介の言ったことを頭の中から追い出そうとしている自分がいることに気付いた。
 その事実に気付いて双眸を大きく見開く私を横目で確認しながら、瑠璃が恭介に尋ねる。
「白樺雪奈と櫻庭舞美の間には一切の血縁関係がないということだったね? でも白樺君の方は実際の姉だと主張していたようじゃないか。つまり彼女は嘘を言っていたということかい?」
「待ってくれ瑠璃。私には雪奈が嘘を吐いていたようには到底思えない。彼女は本当に姉の舞美のことを慕っていたんだ。それが赤の他人だなんて……」
「君の言いたいことはわかる。しかしだからこそきちんと状況を知るべきではないかな。可能性として最もありそうなのは白樺雪奈が櫻庭舞美のことを姉だと勘違いしていたということだろうか? 調べたのも飯田君からの又聞きでは個人的に行なったもののようだし」
 キセルを口元に運びながら瑠璃は調子を整えた。それから「実際のところはどうなんだい?」と話を持ってやってきた恭介に問う。
「僕の持ってきたのはそういう事情までわかるものじゃないんだけどなぁ」
 恭介はちょっと戸惑ったように言ってから、しかしすぐに表情を引き締める。その切り替えはさすがに警察に勤めているだけあると思う。
「白樺雪奈が横浜の児童養護施設で育ったというのは本当だった。彼女の面倒を看た方がまだ残っておられて調べをしてくれた同僚が話を聞くことができたそうだよ。どうやら彼女は幼い頃に家族総出でやってきた横浜で事故に巻き込まれ、一人だけ残されたらしい。引き取り手もすぐには見つからずそのまま施設に預けられたようだね」
 違う。雪奈はそんなことは言っていなかった。彼女は施設を退所後自分自身の家族について調べたと言っていた。その話の中では親は生きているとのことで、そして姉の舞美の存在をそのときようやく知ったと述べていた。
「中学を出た後は専修学校に行ったというのも確認できた。ただそこでの話はほとんど聞けなかったみたいだね。どうやら入学して間もないうちに退学処分にあっているようなんだ」
「退学かい? 何か問題ごとでも起こしたのかな?」
「それに関しては担任の先生がいなくて詳しい事情は聞けなかったそうだよ。ただ当時の書類は残っていて、そこには就学能力の面で問題があると記されている。でも試験の結果はそんなに悪くなかったみたいなんだよね。少なくとも落第させられるような点数ではなかった」
「となると生活態度の面で問題があったということかな。しかしそれならそうと書くだろうし、教師の側でも判断に困るような内容があったということかもしれないね」
 恭介のことは信じている。彼自身が調査をしたわけではないようだが、任せた相手とその人物の持ってきた報告を恭介は信頼のおけるものだとして提示してきた。
 けれど私の頭には瑠璃と恭介の会話がきちんと入ってこなかった。あまりにも雪奈自身の言っていた内容と違いすぎるじゃないか!
「飯田君。これが君の調べて欲しいと頼んだことだよ。それから目を背けるんじゃない」
 気付くと私は頭を抱えていた。そこに声は落ち着いたものにしているものの、瑠璃の厳しい叱咤が飛んできた。
「さっきも言ったが白樺君は故意に嘘を言っているのではないかもしれない。勘違いだという可能性だって十分にあるわけさ。ただ事実として白樺雪奈と櫻庭舞美の間に血縁関係はなかった。そのことに目を向けずに真実は得られるのかい?」
 彼女の述べていることは尤もだ。そう、とても理に適ったものだとわかっている。けれど私は声を漏らさずにはいられなかった。
「それにしては似過ぎている……」
 一度漏れた言葉は、思いの外重量を伴ったもののようであった。それは私の中にあった堰を用意に壊してしまう。
「妹や舞美に会ったことのない君たちにはわからないことかもしれない! けれど実際に彼女たちを知っている私には到底彼女たちが赤の他人だなんて思えないんだよ。雪奈と舞美が姉妹ではない? ならどうしてあの二人はあんなに親しくして仕草までそっくりになっているというんだ!」
 気付けば私は悲痛に叫んでいた。瑠璃や恭介にはわからないのだ。雪奈と舞美は血が繋がっていないというのが現実だというのならそうなのだろう。私はそれを否定しようとなんて思ってはいない。そうではなくて今この場に私の抱えている想いを共有できる相手がいないことがとてつもなく苦しく、そして辛いのだ。
 ……胸が締め付けられる。心臓が音を立てて軋み出す。視界が暗くなって何も見えなくなっていく。
「甘えているんじゃないよ」
 唐突に瑠璃が私の意識の中に侵入してきた。はっとして俯きそうになっていた顔を上げる。
 そのときの私はきっと間抜けな顔をしていたことだろう。でも視線を向けた先にいる瑠璃はそれを笑うことなどせず、むしろ険しい表情で告げてきた。
「君は現実と向き合おうとしていたんじゃないのかね。そのことによって自分の隠そうとしていたことが表面化し、それが自分を傷つけることになるかもしれないとして、それを覚悟していたんじゃないのか? ついさっき私に向かって告げた言葉は偽りだったということなのかい?」
 頭に血が上るとはこういうことか。目の前が赤く色付くのを感じる。
「偽りなものか。私は今回の事件で自分の中に何か大きな腫瘍のようなものがあると感じ始めた。私はその正体を突き止めたいと考えているし、取り除きたいと真剣に思っている。しかしながらそれは私個人の望みだ。雪奈の事情まで暴こうとなんてしていない!」
「……君はそうやってまた逃げようとするのか」
 瑠璃は盛大な舌打ちをした。ほんの一瞬顔を歪め、しかしすぐに持っていたキセルで机を鳴らした。
「君は逃げてるよ。そのことにすら気付いていやしないんだ。自分の抱えているものを知りたくて白樺雪奈や櫻庭舞美のことを調べてほしいと萩原君に頼んだのは君自身じゃないか。それで自分には納得のいかない事実を突きつけられるとそんなはずはないと宣うのかい。白樺君のことを暴こうとしているのではないと君は言ったが、それは違うだろう。自身の心が受け付けないだけだということをいい加減認めたらどうだい」
「くっ」
 違う、そうじゃない。私自身もうまく言葉に表せないのを感じている。本当に伝えたいのはそういうことではないんだ。
 しかし瑠璃にそれは幼稚な甘えだと先手を打たれてしまった。実際にそうなのだろうとも思う。だからこそ私はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「…………」
 言葉の紡げぬ私にとってその空間は苦痛でしかなかった。だから椅子から腰を上げて扉に向かって歩き出す。
 これも逃げだろうか? きっとそうなのだろうと思う。しかし私はそれ以外にどうすればいいのかわからなかったのだ。頭を冷やす時間が必要だと言えば多少は聞こえがよくなるだろうか。
「成明――」
 店から出て行こうとする私を恭介が止めようとする声が聞こえた。しかし私は振り返りもしなかったし、瑠璃が恭介を制止した様子であった。
 私のいなくなった店内で二人が何を話していたのかは後々知ることになる。瑠璃が頼んだその頼みごとが、私がずっと大事にしていた関係を瓦解させるとはこのときは誰も露とすら思っていなかっただろう。


   『絶体零度』3-2-1へ
by zattoukoneko | 2011-06-14 22:40 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』3-1-1


3-1-1

 恭介に調査の依頼をしてから一週間ほどが経過した頃、彼から瑠璃の店で待っていて欲しいと連絡が入った。
 仕事の忙しい恭介は約束の時間に遅れるだろうとは思いはしたが、性分として指定された時間より大分早く私は瑠璃の元を訪れた。今回は彼女の方にも連絡が行っているらしく、しかし変わらず不機嫌そうな顔をしてこちらを見遣った。
「私はここを待ち合わせの場所として提供しているつもりはさらさらないんだがね。品を買わずとも気が向いたときに寄って、陳列している物を興味深く眺めてくれれば商い冥利に尽きるというものなのだが、君たちはそういうことをまったくしてくれないときたものだ」
 そんな瑠璃の言葉に私は苦笑をもって返す。
「瑠璃が自分から商売をしていると言うと違和感を覚えざるを得ないのだけれども。それに仮にどこか別の場所で会おうと誘ったところで瑠璃はしっかりとやって来るのかい?」
「よっぽど重要な用事だったら行くさ。それだけの物が世の中にはほとんどないというだけでね」
「それで瑠璃は大学を追い出されたんじゃないか。少し基準を見直すことを奨めるよ」
 私の皮肉を、けれど瑠璃は紫煙を吐いていとも簡単に吹き散らしてしまう。それからその話題はもうお終いとばかりに話を切り替える。
「君が萩原君に自身の妹君や白樺雪奈と櫻庭舞美という小娘どもの関係を探って欲しいと依頼したのはすでに聞いている。私も含めて呼び出したということは何か気にかかる発見でもしたということなのだろうね。共に今後のことを考えようとそういうわけだ。君一人だと当てにならないだろうし」
「最後のは皮肉返しか何かかい?」
「事実を言ったまでだよ。私は互いに悪態を吐きあって不毛なやり取りをするような趣味なぞ持ち合わせていないからね。で、それは違うと言い張れるほどの働きを君自身は何かしたのかい?」
「痛いところを突くね。確かに具体的な何かを見つけ出したわけではないなあ」
 肩を大きく竦めて降参の意を私は瑠璃に表す。すると彼女は意外そうに片眉を跳ね上げた。どうやら私の台詞で気になる箇所があったらしい。
「それは見つかりこそしなかったものの探そうとはしたとそういうことかい?」
 相変わらず瑠璃は鋭い。私は彼女に頷き返すと共に、櫻庭舞美と共に訪れたあの高台に再度足を運んだことを告げた。具体的に調べることは恭介に任せているし、それ以上に私は自身の中に抱えている奇妙な感覚と向き合わねばならない気がしていたのだ。この正体がわかったとき、私は記憶を取り戻せるのではないだろうか。
「それは当たっているのではないかな。ああ、良い行動だと私は思うよ」
 瑠璃はそう口にすると何度も小さく頷いた。そして思考をいくらか整理してから話し始める。
「君はここに櫻庭舞美なる人物の体を持ち込んできたときから自身の思考を止めていたように私には感じられた。私の知る飯田成明なる人物はきちんと思考する人間だ。時折飛躍して物事を考えることはあるが、しかしそれは止まるのとは違う。君は明らかに何かから目を背けようとしていた。ただそれが無意識のうちに行なわれているためにそれを自覚することができなかったのだろう。それはつまり君が意識するのを拒みたくなるような何かを抱えているということ」
 そこまで喋ると瑠璃は言葉を止めた。そして微細な埃が舞う店内に視線を彷徨わせる。埃は目に見えるようなものではなく、また気になるようなものでもない。ただ長い年月の中で自然と発生し、厳然としてそこに存在しているというだけだ。
「この前私は君が妹のことをどう考えているのか無理に聞き出そうとしてしまった。あの時は狐にでも憑かれていたのかとすら思うよ。あれは私の本意ではなかった。飯田君は自ら自身を見詰めればいいし、そうしないというのならそれで構わない。ただもし君が変わっていこうとするのなら、私はそこに助力をしたいと思う。どんなにささやかなものであったっていい。それが出来さえすれば本望なんだよ」
 夜柄瑠璃という人間の募らせてきた想いというのは一体どのようなものなのだろう。彼女からは愛という感情に纏わる話をこれまで聞いたことがなかった。それは何も色恋沙汰だけを指すのではない。家族や友人、あるいは何か物に対する愛情を彼女は口にしてこなかったのだ。けれど愛する感情を一切持たずに人は生きていくことなど出来るものだろうか? おそらく瑠璃はとても数少ない人間に対してのみ自身の愛情を向けていたのだろうと思う。本当に大事にしたいと感じる人にのみ大きく心を寄せていて、そしてとても幸運なことにその相手に私は入っているようなのである。
 私は鈍感な人間であると言われるし、実際にそうなのであろう。しかしこれほど真っ直ぐな気持ちを向けられて気付かないほどではないし、それを撥ね除けるほど歪んだ性格をしているわけでもない。そして瑠璃の能力も信頼している。だから私は少し彼女と話をしてみることにした。
「瑠璃は私の思考が止まっていると言った。確かに記憶はない。元になる情報がないと物事を考えるのは困難になるが、それは止まっているとは言わない。瑠璃も多少述べていたがこうした例を出せばよりわかりやすいかもしれない。難しい数学の問題を解くときに手が動かなくなるのは、解法がわからなくて悩んでいるからではなく、そもそも問題文の意味がわからずそれを意識したくなくて考えることすら放棄してまうんだ。私がやっていることはまさにそれと同じだと瑠璃は思っているとそういうことだろう?」
「相も変わらず飯田君の言い回しはくどいね。でもその表現は大まかには合っていると思うよ。本当は自分の視野狭窄を主とした能力不足とそれに目を向けることへの忌避が原因なのだが、悪いのは目の前にある数学の問題なり自身の単純な暗記不足を理由だと主張してしまいがちなのが人間というものさ。今回の飯田君は事件のことに最初目が行き、そして次に己の記憶がないことに注意を向けた。ところが本当にやるべきことは君が目を向けるのを拒んだ物は何かを知ることであり、それが解決の糸口になるはずなんだ」
 咥えていたキセルを口から離すと、灰吹きを叩いて中に入っていた吸殻を落とす。しばらくコンコンと音を立てながら瑠璃は続けた。
「君はようやく自らの無視していたものに目を向け始めようとした。それは最初の一歩ではあるけれどとても大きなものでもある。私はそれを可能な限り支援したいから困ったことがあったならば言ってくれ給え」
 そのように述べる瑠璃の表情は大分すっきりした感じのものであった。先日が狐に憑かれていたというのなら、まさにその憑き物を落としたようにも思える。
 彼女は私の最近の行動を聞いて落ち着きを取り戻したということなのだろう。私が彼女の為に話せることはまだまだ少ないが、その道を進んでみろと後押ししてくれており、そしていつでも助けになるとまで述べてくれている。
「まあまだわからないことが多いというのは気に掛かるところではあるがね。ただそれを探求することが問題解決の糸口になるのだと思うよ」
「きっとそうなのだろうと私も感じているよ。ただ気を抜いているわけではないが、知らず知らずに記憶を封印してしまおうという働きが出てしまうとすると難しいのかもしれないな。実際に今までの段階では大きな発展はないわけだし」
「その点はさほど心配しなくてもいいのではないかね。困難を感じることは当然多々あるだろうが、肝要なのは自ら動き出すということ。それを継続していればいずれ何かが見つかると私は考えるね。それに君はもっと具体的に動きの取れる萩原君に調査を依頼しているわけだし」
 ちょうどそこで店の戸が軋んだ音を立てた。噂をすれば影というのは現実によくあることだからなかなか侮れない。いつも通りの草臥れたスーツに身を包んだ恭介が、しかしながらしっかりとした足取りで私たち二人の元へと歩み寄ってくる。
「急な呼び出しでごめんね。成明からお願いされた雪奈ちゃんや舞美さんの関係を調べているうちに奇妙な事実が判明したんだ。こっちもなかなか時間が取れないから刹那ちゃんとの関係までは調べられていないけど、でもこれは裏を取ることが出来た」
 彼はそこで瑠璃と、そして私の目をしっかりと見据えた。あたかもこちらを逃しはしないとでも言っているかのようでもあった。
 恭介が述べる。
「白樺雪奈と櫻庭舞美の二人には一切の血縁関係がないことが判明した」

   『絶体零度』3-1-2へ
by zattoukoneko | 2011-06-11 10:44 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-4-2


2-4-2

 刹那が私の本当の妹ではないかもしれない。
 そんなことを思い始めたのはおそらく小学校高学年か中学に入って間もない頃のことだったと思う。それまで意識したことがなかったために気付かなかったのだが、両親らが刹那のことをまともに見ていなかったのだ。
 やがてその違和感は次第に大きなものになっていく。私たちは食事を摂るのもバラバラで、母が刹那に食べ物を与えているところを見たことがない。旅行には毎年行っていたが、アルバムを見てみたらそこに刹那の写真は一枚もなかった。
 高校に入り、刹那も中学生になった頃。私は遂に母を問い詰めた。どうして刹那のことをきちんと構ってやらないのかと。そうしたらこう答えが返ってきたのだ。
『どうしてそんなことをしなくちゃならないのよ。うちの子供でも何でもないのに』
 ――――
 そこまでの話を神妙に聞いてくれていた恭介に向けて私は言う。
「その場に刹那が居合わせなかったのが幸いだったよ。妹は母のことも父のことも好きだったと思うからね。私は……その後うちの両親と刹那の関係を探ることをやめた。何らかの大きな秘密を暴いてしまったら、そのとき刹那の居場所が消えてしまうのではないかと怖くなったんだ」
 家族の中での刹那の位置を見れば見るほどその影はとても薄くなっていってしまった。一方で私の中で刹那の存在は大きなものになっていった。私が彼女を守らなければならない、そんな風にすら思っていたかもしれない。
「瑠璃が私のことをシスコンだと言ったが、それは少し違う。私は家族全体に対してコンプレックスを抱いている。そして一番守ろうと思うようになっていた妹の存在が、周囲から見ても顕著に目立っていたということになるのだろう。恭介も私の妹の話ばかり聞いていて他の身内のことはほとんど耳にしたことがないと感じているかと思う。だとしたらそうした事情が関係しているということなんだよ」
 先程まで口に運んでいたカロリーの高いだけの食べ物を手に取るのを止め、恭介が黙り込む。五月蝿い学生たちはよっぽど暇なのかまだ店内に屯しているが、私と恭介の周囲だけはやたらとしんと静まり返っていた。だからこそ最初小さな声で喋り出した恭介の声がはっきりと聞こえたのだろう。彼はすぐにきちんと話すべきだと改めたが。
「成明のお願いは……成明が僕に頼もうとしていることはその傷を抉るような行為になるかもしれないとわかってる? 妹さんのことを大切にしたいと、血の繋がった家族だと思いたいから君は今まで戸籍謄本を取り寄せてみたりしなかったんじゃないの? それを見れば養子縁組を組んでいるかどうかなどがすぐにわかる。それをしなかったのは成明自身が事実を目の当たりにするのが怖かったからじゃないの?」
「…………」
 恭介の言葉に私はすぐに返事をすることができなかった。正鵠を射ていたからだ。私はそれまで自然にそこにあった刹那との繋がりが切れるのではと感じてしまって、そして急に細くなった綱の上でバランスを取ろうと周囲を見ることを止めた。彼女だけを見ていないと落下してしまいそうだったからだ。
「僕に頼みたいことは雪奈ちゃんやそのお姉さんである舞美さんと、そして成明の妹さんの刹那ちゃんがどういう関係にあるかということだったよね。それが親しい友人関係で似てきたとかならまだしも、妹さんは成明に雪奈ちゃんや舞美さんのことを伝えてない。もちろん友達のことを話さないこともあるだろうけどね。ただもっと深いところまで探りを入れるということになるなら、つまり血縁関係があるかどうかなどまで調べるとなると、それは成明の知りたくなかった事実を突きつけられることになるかもしれないんだよ?」
 次第に私は自分が無意識に胸の奥底に沈めていた物に気付かされ始めた。今回の事件で目を向けるべきは櫻庭舞美という人物だと思っていた。けれど舞美の記憶を探り、そのために妹の雪奈に接しているうちに脳裡に浮かんできたのは何故か妹の刹那だった。記憶を失うことになった原因はもしかしたら私と刹那の関係にあるのかもしれない。そうでなければ雪奈や舞美と共にこんなに刹那の記憶が出てくる理由が説明できないのではないだろうか。
「僕としては成明の望むことなら可能な限り力になってあげたいと思ってる。言葉を言い換えると不幸になるようなら僕は一切協力をしない。でも何か行動を起こしたことで幸せになるか不幸せになるかなんて本人にもわからないよね。だから成明が望む方向というのを教えて欲しいんだ。覚悟があるのかどうかコミでね」
「私は……」
 そこでしばし考える。自分が大事にしたいものとは何なのかを。
 私が櫻庭舞美を殺したかもしれないということで大きな波紋が生じた。自身も記憶を失い、友人である瑠璃たちとの関係も揺らいでしまった。私はそれを回復させたいと思っている。そう考えて雪奈に接触し舞美の記憶探しを始めたのだ。ただその途中で予期していなかった妹の存在が現れてきた。もしかしたら彼女との関係が今回の件の何かしらの鍵となっているのかもしれない。
「私は刹那のことを大事に考えている。今までもきちんと調べたことはなかったけれど血は繋がっていないかもしれないとは思っていたし、その上で兄と妹の関係を続けてきた。この絆はけして切れはしない強いものだよ。だから大丈夫。むしろ闇の中に包まれてしまい、私自身もそのまま隠し続けようとしてしまったものを明らかにすることで、失いかけたものをきちんと取り戻したいと考えている」
 私の返答を受けて恭介は一つ頷いた。納得したように小さな笑みすら浮かべる。
「でも協力するにしても限度があるのは承知しておいてね。これは仕事じゃないわけだから割ける時間や労力も限られてる。探偵に依頼するという手もあるけど、ピンキリなんだよねー。中には違法行為してまで調べる輩もいるからそういう人には頼ってほしくないし」
「記者稼業なんてものをやっているから探偵に関しても多少は知っているよ。協力してくれるならとても助かる。私は記憶が曖昧だし、そのことすら無意識のうちに覆い隠してしまいそうになっているようなんだ。私自身も動くがそのために力を貸して欲しい」
 改めてお願いをしながら私は頭を下げる。すると恭介が苦笑いしながら手を顔の前で手を振った。
「そんな畏まらなくてもいいよ。僕も成明の件は気になっていたし、このままじゃいけないとも思うからね」
 とそこで彼は自分の手首についている腕時計に目が行ったようだ。途端に慌て出す。
「しまった、もう仕事場に戻らないと。あー、まだ食べ終わってないんだけど仕方ないか。成明よかったらもらってくれない?」
 そして食べ物の載ったトレイをこちらに押し出し、しかし最後に炭酸飲料の入ったカップを手にするとストローに口をつける。そこで恭介は訝しげな顔をした。
「氷融けちゃったのかな? 何だか味が薄いや」

   ‐第二章・了‐


  『絶体零度』3-1-1へ
by zattoukoneko | 2011-06-07 07:35 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-4-1


2-4-1

 恭介の勤務する署からさほど遠くない距離にあるファーストフード店で私は彼のことを待っていた。時刻は昼を過ぎてかなり経つというのに、周囲には制服姿の若者が溢れている。今の頃合に試験前休みということもないだろうし、生徒たちも特に勉強しているというような感じではない。店内はやたらと騒がしく、よく言えば活気に満ちているとなるのかもしれないが、実際にはただ単に落ち着きのない場所だった。
 学生時代には割合こういう店も利用したものだが、行動の多くを共にした瑠璃がこのような場所を好まなかったし、私自身も別の友人に誘われなければ自分から行こうとはしなかった。
 今回はその友人の一人である恭介からの指定である。本人の性格はのんびりとしているのだが、大学時代からたくさんの講義に出席していたのであまり時間が空かなかったのだ。そうした事情は刑事になった今でも変わらないらしい。
 美味くもないコーヒーを飲み干し、そこからさらにかなりの時間が経ってようやく目的の相手がやって来た。今は勤務中だからか普段会うときに較べてまだ身なりはきちんと整っている。待ち合わせの時間に遅れたことを謝罪しながら恭介は向かいの席に座った。
「珍しいね、成明がわざわざ僕の職場近くまで足を運ぶなんて。それもお互いに仕事のある時間帯じゃない。あ、お昼まだなんだ。お呼ばれされた側だしせっかくだから奢ってもらっていいかな?」
「恭介は学生の頃からあまり変わらないな。昼の休み時間に声をかけると大抵『奢ってくれるの?』と訊いてきていたね」
「僕からすれば成明だって変わってないように見えるけどなー。もちろんお互いに歳も取ったし、立場も変わったけどね」
 そうかもしれない。確かに現実社会は日々変動しているし、私たちは様々な年限を課せられているのでそれに従って活動内容を変化させねばならない。でもそれだけでは人の内側まではそうそう変わらないとも言えるだろうし、あまりにも簡単に変わってしまっては人ですらないのかもしれない。
「まあ高いものでもないし奢ることにしよう。頼みたいこともあることだし、そのくらいはしないと失礼だろう」
「頼みたいこと? 何か大事なこと――なんだよね、平日に呼び出すくらいだし。まあ僕もあまり時間が割けないから先に注文してくることにするけど」
 言って恭介は注文カウンターへと向かう。混雑のピーク時間帯は過ぎていたので注文自体はすぐに済み、ただ品は切れていたのか番号札だけを持って戻ってきた。席に腰を下ろしながら用件を尋ねてくる恭介に、私は答えた。
「白樺雪奈と桜庭舞美、そして私の妹の刹那がどういう関係にあるのか調べて欲しい」
「うん? どういうこと?」
「君は刑事だろう? 三人の関係について調べてもらいたいのさ」
 途端に恭介が困った顔をする。
「僕はそういうの担当しているわけじゃないし、前にも言ったと思うけど警察ってそんなに暇じゃないんだよね」
 そうは言ったものの恭介はそれからしばしの間考え込む。やがて頬をぽりぽりと掻きだした。
「まあ成明もその辺のことはいくらかわかっているとは思うんだけどね。だから何か考えがあるのだろうと推測。でもそれを聞く前にまずはこっちの立場も再確認してもらいたいな」
「至極もっともな意見だと思う。私も君や警察が簡単に動くとは考えていないし、だから個人的に呼び出して相談することにした。でもこれは一方的な行為ではある。恭介の説明で個人的に頼むことすら無理だとなれば私も諦めるしかないだろう」
 私の言葉を聞いて恭介が苦笑する。
「警察にそのまま持っていっても対応してくれない案件を僕に相談って、それはちょっとなあ」
 一つそれだけ言うと彼は顔を引き締めた。話を再開する。
「まず大前提として警察というのはかなり忙しい。未解決の案件をいくつも抱えているところに毎日解決するより多くの調査依頼が舞い込んでくる。これはどこの部署でも同じことだよ。だから実害のあるものやその可能性の高いものから処理していくことになる。時に批難されることもあるけれど、そのようにしていくしかない。ここまではわかってくれてるかな?」
「ああ、理解している。実際にどのくらいの案件を抱えているかまではわからないけれどね。大変だというのはわかっているつもりだよ」
「じゃあ次。成明の件に関してはもうほとんど解決済みということになってる。終わった案件なんだよね。何か新しい証拠が出てくるなど大きな進展があれば、資料は保存してあるからそれを引っ張り出してきて再調査ということになるけどね。つまり成明なり他の誰かが警察側の知らなかった新事実を持ってきたというのならこっちも動くということになる」
 恭介の説明はとても理に適ったものだった。私は取調べを受けたものの、今では好きなように日々を過ごさせてもらっている。記憶が定かではないためわからないが、櫻庭舞美が死んだことに関して私を訴えようという人も今のところいないようだ。そして仮に私なり雪奈なり、あるいは他の人物が殺人を主張したところで、捜査が進展するような情報がないと一度閉じられたファイルはまず開かれない。
「成明は何か重要な発見をしたり思い出したりしたの? それなら僕たちだって動くことになるだろうけど」
 問われた私は答えに窮してしまった。具体的に提示できるものを何も手に持っていない。
 眉間に皺を寄せる私の顔を見ていた恭介は、しかしすぐに笑い出した。
「ごめんごめん。ちょっとからかっただけだよ。何かきちんとした証拠があるなら僕一人を呼び出さないで警察に直接来るよね。正式な捜査ということではなくて個人的にお願いしたいんでしょ?」
 その言葉に私はしてやられた気分になった。不平の音を幾分混ぜながら返答する。
「そうだね、その通りだよ。私は具体的に何か提示できるわけじゃない。ただ気になるからというそれだけの理由で君に調査を頼めないかと思って今日呼び出したんだ」
「そんな怒らなくても。確かにからかいはしたけどさ、実際問題として調べるのは難しいというのも知っておいてもらいたかったんだよ」
 苦笑しながらそう言う恭介のもとに店員が注文した品を運んできた。彼はそれを番号札と交換して受け取る。フライドポテトをさっそく口に運びながら話を再開した。
「ただ成明がわざわざ個人的にお願いするというのはよっぽどのことなのかなとも思う。だから理由は聞いてみるよ。協力できることがあるならしたいし」
「そうしてもらえると助かる。警察全体としては動けなくとも、君の持っているコネなどを多少使えればと。私独りの力では調べるのが難しいと感じていてね」
 そう断りを入れてから私は説明を始める。
「先日雪奈の姉のことを知ろうともう一度出かけてきた。その際に多少ではあるが舞美との記憶を思い出したんだ」
「記憶、いくらか戻ってきたんだ?」
「ああ。確かに私は櫻庭舞美と面識があった。ただ一緒にとある場所に出かけたというそれだけしか思い出せていないのだけれどもね。だから一番の問題になっている彼女をどうして殺したのか、あるいは殺していないのかに関してはわからない。けれどその記憶が蘇ってきたことでどうしても気になることが出てきた」
 私はそこで一呼吸置いた。明確なものでないからこそ口調だけははっきりとしたものにする。
「舞美はあまりにも私の妹に似過ぎている。これは身内として刹那に接していた私にしかわからない感覚なのかもしれない。けれど刹那と舞美、そして雪奈の三人には何らかの関係があるのではないかとそう考えざるを得ないほど強い感覚なんだ」
 やはり他人にわかってもらうには曖昧過ぎる話だったろうか。恭介が首を捻る。
「うーん。雪奈ちゃんとそのお姉さんは血縁関係にあるから似ているのは納得できるとして。でも成明の妹さんはただの空似じゃないかなあ? 共通点を見つけてそれを強く意識しちゃうっていうのはよくあることだし。それとも特別調べなければいけないような理由でもあるわけ?」
 恭介の問いに対し私はあることを伝えなければならない。これまで彼や瑠璃、さらには大学に入る以前の友人らにも語ったことのないこと。
 私は目の前にいる相手をしかと見つめながら告げる。
「実は――刹那は私の本当の妹じゃないかもしれないんだ」


   『絶体零度』2-4-2へ
by zattoukoneko | 2011-06-04 23:06 | 小説 | Comments(0)


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