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【小説】『絶体零度』2-3-2


2-3-2

 雪奈の連れてきたこの高台に私は覚えがあった。眼下には待ち合わせ場所に指定された大学のキャンパス。そのずっと先には何かの工場でもあるのか白い煙突のようなもの。街は全体的に広く区画の取られた大学側と古くからの家や店が並ぶやや雑多とした区画にレールによって綺麗に線引きされている。この眺望を私は一人の女性と並んで見た記憶がある。その女性が櫻庭舞美だった。
「私はあの時舞美にここに連れて来られて紹介されたんだ。そうだ、彼女も自分のことを下の名前で呼んでくれと言っていた。雪奈と一緒だ。あの日舞美は、故郷と東京の違いを何度か話しこちらは住みにくいと嘆いていた私をここに連れてきたんだ。ここには気持ちのいい風が吹くんですよと言って……」
 あれはまだ秋に入って間もない頃だった。物悲しさを奏でる茅蜩もいなくなり、空気中から熱も徐々に去っていた。そろそろ長袖に切り替えようかと逡巡するようなそんな時節。
 雪奈が期待とも不安ともつかない視線をこちらに向ける。
「姉のこと、思い出したんですか?」
 彼女の言葉に、しかし私は首を横に振るしかなかった。
「いや、思い出せたのはここに来たその時だけの記憶だ。舞美とどこで知り合ったのかや肝心のその後のことまではまったくわからない」
「そうですか」
 ぽつりとそれだけ呟くと雪奈は私に背を向け街の方に視線をやる。
「でも成明さんと姉が親しい間柄だったということはこれでわかりましたね。大好きだったこの場所も教えてくれているくらいですし。ちょっと……羨ましいくらい」
 高台に吹く風が雪奈の軽い髪を揺らして過ぎる。姉の舞美のときは風がそこまで強くなかったからか、髪の毛はあまり振られていなかったような記憶がある。
 そんなことを思っていたら雪奈がこちらを振り向くことなく訊いてきた。
「ここに来ることになった経緯は覚えています? できれば話してみてもらいたいのですけど」
「ああ構わないよ。私も話しているうちに記憶がもっと蘇ってくるかもしれないしね」
 あの頃私は仕事で行き詰まっていた。仕事内容そのものが大変だったというわけではない。そうではなくて意欲を持てなかったのだ。そしてそれがどうしてなのかもよくわからず、だからこそ壁にぶち当たっていた。
「そんな悩みを舞美に漏らしてしまってね。そうしたらいい所があるとここに連れて来られたんだ」
 あの時の舞美は先程雪奈がやっていたのよりずっと大きく腕を広げて風を全身に浴びていた。
「ここの風は気持ちがいいでしょう、と。そして遠くからやって来るものだから開放感もある。目の前の景色も開けているしと、私の閉塞した状態を心配し打開してくれようとしていた」
「…………」
 私の話をじっと聞いていた雪奈は、私には見えなかったけれど、小さく笑みを漏らしたようだった。
「それ、確実に姉です。開放感ということなら景色を先に紹介しそうなものなのに、風のことから言っているんですもの。姉はここに吹いている風がとても好きだったみたいなんです」
 それから雪奈は自分の想い出を語り始めた。
「私は連れてきてもらったわけではなく、偶然姉がここに繋がる路地に入るのを見つけて後を追ったのです。路地は歩きにくくて、いつも通いなれている姉に少し遅れを取ってしまったんです。ここに着いたとき、姉は地面に寝転がっていました。季節は初夏の頃で、白いワンピースを身に付けていました。そんな汚れの目立つ格好で地面に寝転がっていることに驚くと同時に、服の裾が風で靡いているのがまた印象的でした。風を感じることが気持ちのいいことだとそのとき初めて知ったんです」
「あ、それは……」
 雪奈の想い出を聞いているうちに私の脳裏に思い浮かぶ別の光景があった。それは彼女の姉とのものではなく、そしてそれよりもずっと大切に思っていたもの。
「それを私に教えてくれたのは妹の刹那だった。東京とは逆で私の故郷では風は当たり前のもので、だから特別意識したことはなかった。でもある風の強い日に私を外に連れ出して『この風の気持ちよさを感じてみて』と言ったんだ。そのとき初めて風というものが人の周りに自然にあって、そしてそれが優しく撫でてくれる存在だと知ったんだ」
 そしてさらにある事実が重なる。
「あの時私の家庭はあまりうまくいっていなかった。荒んでいるというほどではなかったが、私は高校受験の間際でそれに関して両親と祖父母が意見を対立させていた。私立の進学校に行って欲しいと望む両親と、一方でそれまで仲良くしていた友人らのほとんどが進む近くにある公立校の方がいいだろうと考える祖父母が揉めていたんだ。私は両方の立場がわかって、だからこそどのようにそれを解決するかも、果てはどう勉強したらよいのかもわからなくなってしまった。妹はまだ小学生だったから細かい話はわからなかっただろうけど、でも私を風の強い日に外に連れ出した。今なら言葉にできる。刹那は『頭だけでは考えられないこと。体や心で実際に感じることがあって、それも大事にしないと何も決められない』と教えてくれたんだ」
 雪奈がゆっくりとこちらに体の向きを変える。
「それで成明さんは進路を決められたんですか?」
 大きく首を縦に振って私は応じた。
「両親や祖父母のことを抜きにして自分のやっていることだけに集中してみることにした。つまり受験勉強だね。そうしたら問題を解くことが楽しくなっていたんだよ。特に難問とされるものに取り組むのに夢中になる自分がいてね。それに気付いたから私は両親と祖父母に『勉強をすることが面白い。将来これで生計を立てようとまでは今のところ考えていないけれど、色々なことを学びたい。だから進学校を目指してみようと思う』と伝えて納得してもらった」
 思えば東京の大学に出てくることになったのももっと学べることがあるんじゃないかという渇望からだった。私は元々頭のいい人間ではなかったが、それでも一所懸命に勉強し、そしてそれが苦ではなかったから名門校に合格することができた。
 でもそこでふっと苦笑が漏れた。
「頑張って勉強はしてきたけどね。それが『勉強』のすべてではないとすぐに気付いたよ。雪奈も知っている瑠璃などの友人と出会い、自身の世間に対しての思慮の浅さを知った。私はとても視野が狭窄した状態でずっと生きてきたんだ。それでは駄目だろうということに気付いたのが大学に入って間もない頃だった」
 そこでさらに私は思い出す。刹那が私に「せっかく東京の大学に出たのにもったいない」と言い始めたのはその頃だった。
 と、急に雪奈がくすくすと笑い出した。疑問に思った私が何事かと問いかけると、笑みを浮かべた状態のまま答えてくる。
「何だか妹さんにすごい示唆を受けていたんだなと思って。あ、笑ったのはバカにしたからじゃないですよ? そうではなくて大抵は年上の人からアドバイスをもらうのではないかなと思ったものですから」
「それは、雪奈から見たお姉さんのことを思い浮かべているのかい?」
「そうかもしれません。私は姉から大きな影響を受けましたから。年齢の順番は逆転していますが、成明さんと妹の刹那さん、私と姉の関係はいくらか似ているのかもしれません」
 彼女の言葉に納得すると同時に、しかし一つの疑問が思い浮かぶ。
「雪奈はお姉さんのことをきちんと覚えていた。大事な存在だったんだから当然だと思った。ではどうして私は今の今まで妹のことを思い出せなかったのだろう? 私にとっても妹は大事な存在なはずなんだ。雪奈のようにはっきりと憧れのような感情は自覚していなかったとはいえ、それでも大切に思っていた。なのにどうして彼女との想い出をはっきりと覚えていなかったのだろう?」
 雪奈と舞美の関係は私と刹那のそれとは違う。雪奈は施設に預けられていて、姉の舞美に出会ったのは大きくなってからだ。だから感激も大きかったろうし、その分印象に深く残っているのではないかと思う。しかしだからといって私が妹とのことをきちんと覚えていなかったのが当然であるとは言えない。
 それに何より――
「私は妹の想い出を、雪奈がここに連れてきて、そして舞美ともここに来たことを思い出してようやくはっきりと自覚した。どうやら私は自分の妹のことを、君たち姉妹を通じて知っていっている気がする」
 私は雪奈の方を真剣な眼差しで見やった。訊く。
「君たちはどうして私の妹とそこまで似た部分があるんだい? ただの他人の空似とは到底思えない」
 その問いかけに、しかし雪奈は視線をすぐに外してしまった。困惑した声音で返してくる。
「私に訊かれてもわかりません。刹那さんのことを私はまったく知らない。成明さんを通じていくらか話を聞いて、そこでの知識しか持ってません。それに似ているというのも成明さんの視点です。確かにいくらか共通する部分があるようにも感じますが、でもそっくりだとまでは私には思えないです」
「…………」
 戸惑う雪奈に私はそれ以上の追及をすることができなかった。舞美と一緒に来たときと較べて冷たい風が私たちの間を行き過ぎる。
 結局その日はそれ以上することが思いつかず、雪奈とは別れてしまった。
 けれど一度私の中に生じた疑問の火は秋の風くらいでは掻き消されはしなかったようだ。私はすぐに恭介に連絡を取り、次の日に時間を調整して会う約束をした。


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by zattoukoneko | 2011-05-31 21:37 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-3-1


2-3-1

 その日は平日であったが私は取材やその他の大きな仕事を抱えていなかったので雪奈に会うことにした。雪奈のほうも大学に通っているわけではなかったし、別段用事もなかったらしく呼び出しに応じてくれた。
「今日は少し風が強いみたいですね」
 雪奈はそう言いながら体を少し縮こまらせた。いくらか肌寒いとはいえまだまだ厚手のコートを着てくるには早く、前回と同じカーキ色の出で立ちで現れた。彼女は先に待ち合わせ場所に到着していた私を見つけると一言目でこう発した。
「何か思い出すことはありませんか?」
「うん?」
 雪奈の問いかけの意味がわからず、私は疑問の声を上げる。それで私が特に何も思い出せていないことを察したらしく「ダメでしたか……」と嘆息混じりに呟いてから雪奈が説明する。
「ここ、待ち合わせの場所としてはあまり相応しくないと思いますよね?」
「そうだね。私はここの関係者ではないわけだし」
 私が雪奈に来るように言われたのは二十三区内からは離れたとある美術大学の正門前だった。
「姉はここの生徒として通っていたんです」
 それで待ち合わせ場所にここを指定したということか。しかし残念ながらここにやって来たという記憶はない。もしかしたら忘れているだけかもしれないがそれを掘り出すだけの強い刺激もない。
 雪奈にそのことを伝えると少しがっかりした様子を見せた。でもすぐに気を取り直して話を再開する。
「学校が近いので姉はこの付近によく来ていたんですよ。服の買い物などは区内に出かけることが多かったですし、交通の便から住んでいるのもそちらの方でしたけど。けれど何より姉は都市部より緑地の多いこちらの方が好きだったようなんです」
 そして雪奈は正門前から離れて歩き出す。
「姉のことを直接知ることができる場所と言われても、私には思いつかないのですよね。むしろ私はきちんと知っているからこそ記憶をなくしたという成明さんに何をお見せすればいいのかわからない。ただ――」
 話しながら先を行く雪奈が振り返る。
「姉と親しくしていたのならこの辺りに来たことがある可能性がありますよね。だから周囲を眺めているうちに何か思い出すことがあるかも。それに私にとっても大事な思い出になっている、姉の大好きな場所があるのでそこにも行きましょう」
 私自身が記者という仕事をやっているから東京も二十三区外の場所に取材をしに行くことはたびたびある。ただそれはあくまで仕事であって、取材先も大手企業や大学の人間であることがほとんどだ。そのせいか、確かに都心部よりビルの密集度は減っているのだが私の地元に比べればずっと道路や交通網も整備されていて都会と感じるのだ。
「そうなのかもしれませんね。私はこの前言ったように孤児として横浜で育って、その後は東京。旅行なんて行ったこともないのでこの狭い世界しか知らないんですけど」
 そう述べた雪奈は軽く伸びをするようにして腕を横に広げた。
「でもこっちの方が風が気持ちよくありません? こうやってみるととてもよくわかりますよ。風ってきちんとどこかから運ばれてきているものなんだなって感じます。都市部は風の流れもよくわからなくて、何だか閉塞した世界なのかもと気付かされたんです。……姉のおかげで」
 遠くから吹いてくる風を感じながら話す雪奈を見ていて、私は何か懐かしいものを感じた。ただ大分昔のことなのか、その正体が何であるかまではきちんと思い出せない。
 私が眉根を寄せて悩んでいると雪奈が気持ち良さそうな声をかけてきた。
「成明さんもやってみたらどうですか?」
「あ、ああ」
 言われて私も腕を広げる。会社に勤めるようになってから普段でもスーツを着ることが習慣化したため、風はそれほど感じることはできなかった。それでも雪奈の云わんとしていることはわかった。告げる。
「都市部に吹いているのはビル風だったり自動車の巻き起こす風だったりするから、あれは気持ちのいいものではないね。ここに吹いているのは自然の、本当の風だよ」
 そこまで述べてふと思い至る。
 先程感じたのは私の故郷の茨城の感覚だ。主要都市はやはり発展しているが、それでも常に自然の風が吹いている。私の出身はもっと田舎だったから尚更だ。
 それは茨城の中にずっといてはわかり得ないはずのもの。東京などに出てこなければ気付かなかったものだ。でも、私はその感覚を東京に来る前から知っていた。それは確か――
「実は成明さんと姉の関係をさらに調べさせてもらいました」
 唐突に雪奈がトーンを落として声を発する。それで私の思考は中断させられた。
「私は姉の友人関係までよく知りません。そこまで話したことがなかったので。でも数人は知っていて、隠し撮りしたあなたの写真を持って聞いて回りました。そうしたらお一人だけ見覚えがあるという方を見つけたんです」
 雪奈はそこで立ち止まり私の方へと振り返った。
「成明さん。あなたは姉のことを知っていたんですよ」
 少し視線をきつくして見つめてくる彼女に、私は首を横に振ることしかできなかった。
「すまないけれど覚えていない。雪奈の調べてきたことを否定する気はないけれど、記憶にないのだから思い出しようがないんだ」
 それを聞いた雪奈はしばしその後も私に視線を向けていたが、溜め息を一つ吐くと力を抜きながら視線を外した。
「わかってます。私も記憶を失っているなんて信じられませんでしたが、今では本当なんだろうなと思っています。会話をしているうちに成明さんはとても実直な人なんだなと感じるようになりました。ただ事実として姉とは知り合いだった……」
 雪奈は体の向きを戻すと再び歩き出す。
「ただ記憶を失ったというのならその原因がどこかにあるのだと思います。そしてそれは姉に深く関係している。そういえば成明さんも私に姉のことを知りたいんだと言ってきたんでしたね」
「ああ、そうだね。私も雪奈のお姉さんのことを思い出さなくてはいけないだろうと考えている。自分に何か原因があるのだとしたらそれを知らないと自身のためにならないのではないかと感じたのが最初だし、今では今回の件で私のことを心配してくれている友人たちのためにもそうすべきだと思っている」
「友人ってあの骨董品屋の?」
 訊きながら雪奈がこちらをちらりと見たのを確認したので、私は頷いてみせた。
「夜柄瑠璃というんだ。大学時代からの友人だよ」
「あ、それは……」
 私の答えを聞いた雪奈が表情をちょっと困らせたものにする。若干どもり気味に言葉を再開した。
「すでに知ってました。成明さんの友人関係や出版社に勤めていることは最初に私の方から話しかけたときには……」
 どうやら雪奈が私のことを付け回していたらしいというのは本当だったようだ。確か恭介が話してくれたと思うが、私がまだ警察から行動を監視されていたときに雪奈の姿も見つけ、担当していた刑事が接触したのだ。きっとあの頃には私のことを相当調べていたのだろう。
 それは別に怒るようなことではない。やや行き過ぎた感は否めないが、雪奈が姉をとても大事にしているということはもう十分わかっているし、大きな心配からそのような行動に出たというのなら強く責めることはできないのではないだろうか。
 私がその考えを雪奈に伝えると彼女はほっとした顔をした。
「ありがとうございます。自分でもいけないことだとはわかっていたんですが、成明さんのことを調べる以外に方法が思い付かなかったので」
 そんなことを述べながら、私のほんの少し先を行く雪奈が急に家と家の間に挟まれた細い径に体を滑り込ませた。
「どこに行くつもりなんだ?」
 今日は彼女の姉の通っていた大学と頻繁に足を運んでいたこの街を見て歩くということではなかったのだろうか。そう疑問に思ったので尋ねる。雪奈は日陰になってやや暗くなっている路地から出ることなく答えてきた。
「姉が大好きな場所があると言ったでしょう? それ、この先にあるんです」
 そうして雪奈は臆することなく先へと進んでいく。そこは男性である私にとっては大分狭く、体を傾けて入るしかなかった。その小径は結構長く、舗装もされずに土が剥き出しになっている。また緩やかにではあるが上り坂になっているようであった。
「かなり進むね。それに何だか空気の感じが変わってきたような?」
 私のその言葉に雪奈が嬉しそうな声を返す。
「あ、気付きました? 目的の場所に着いたら驚くと思いますよ。それまでは秘密にしておきます」
 どうやら雪奈もそこに行くのが楽しみらしい。秘密というなら無理に訊くこともないだろう。そのまま彼女に付き従う。
 やがて狭かった路地の出口が見えてきて――
「ね、すごいでしょう?」
 そこはちょっとした高台になっていて街の様子が一望できる場所だった。近くには常緑樹が何本も生えており、強めの風が語りかけてきた雪奈の髪を揺らす。
 狭くて薄暗い路地を抜けたら別世界が広がっていたというのは十分に驚くに値するであろう。でも私の驚きはそれとは違うものであったし、むしろ衝撃と呼ぶべきものであった。
 半ば愕然としながら声を漏らす。
「私はここに来たことがある。――雪奈のお姉さんと一緒に」


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by zattoukoneko | 2011-05-29 03:53 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-2-2


2-2-2

 私はどうやら見逃していたらしい。今回の一連の事件で、実は瑠璃がとても大きな衝撃を受けていたのだ。確かに彼女は大きな動揺を表に出すことをしないが、思い起こせば必要以上に私のことを気にかけ心配してくれていたではないか。それは私のことを大事に思っていてくれているからというのもあるが、自分の立ち位置を見失いかけていたことも同時に意味する。彼女にとって私たちとの関係はけして壊したくないかけがえのないものだったのだ。
 これは一般的に言えることだと私は考えるが、友人関係というのは綱渡りのようなバランスの上に成り立っているのだろう。普段は大きな揺れがないために自分たちが歩いているのは細い綱の上だということに気付かないが、それは知らず知らずにお互いにどの位の距離を保ちながら身を寄せ合っていればよいかを覚えたからに他ならない。そのような綱の上で誰かが予想外の動きをすれば、他の人はそれを何とか修正しようと試みるだろうし、転落の虞に苛まれることすらあるだろう。これが私と瑠璃の間に起こっていることなのだ。
 瑠璃が項垂れたまま言葉を続ける。
「君が今日白樺という女の子と出かけてきたときの様子を聞いていて、そのうち君が自身の妹のことを持ち出して来すぎだと気付いた。だからさっきのような推測に至ったんだよ。君が妹の姿をその娘や殺した姉に重ねているのではないかとね」
 そこまで言うと瑠璃は頭を上げて、私の方を見た。
「すまなかった。些か感情的になり過ぎてしまったようだね。君が話したくないのだというのならそれで構わない。私はあまりに一方的過ぎた」
 そうかもしれない。瑠璃は不安定になっていた綱のバランスを取ろうとして私のことを揺らそうとした。それは余計に危険な行為であったことは否めない。
 しかし、なら私は瑠璃が謝ったということで何も話さなくていいのだろうか。彼女が不安に思っているという現状は打開できていない。
「瑠璃。君が心配してくれているということはわかった。私も話せることがあるなら出来るだけ話そう。ただ自分でも整理できていないことがほとんどだけれども」
 私がそう述べると、瑠璃が小さく「ありがとう」と口にした。彼女に対して私は答えていく。
「君は私が妹の姿を雪奈の中に見ているのではないかと言った。そのように考えるのも仕方のないことだと思う。私自身、彼女は妹に似ているところが多々あるなと感じてはいたからね」
 昼前に待ち合わせ場所に来た雪奈の姿を見たとき、あれは妹の服装に似ていると思った。物を食べるときに髪を耳にかける様はそっくりだったし、妹と同じように大学で遊ばないのは損をしているのではないかとも言った。
「でもそれは『似ている』だけだと私は重々わかっているよ。雪奈と妹は別人さ。それとお姉さんの方に関してだけれども、そちらについては何とも言えないな。何せ当人のことを全く覚えていないんだから」
 姉妹ということなのだから見た目や性格に酷似している部分はあるかもしれない。しかしながら似ていない事だって十分あり得る。したがって雪奈が私の妹に似ていることが、即ち姉の櫻庭舞美も妹に似ていることにはならない。
 と、そこで恭介が少し別の見方をしてきた。
「でも僕も瑠璃も成明の妹さんの顔とか知らないんだよね。話は聞いているけどさ。まあ僕も家族の写真を二人に見せたりしているわけじゃないけど。でも印象に残っている割にはその顔も知らないってちょっと奇妙な感じもするかな。もしかしたらそのせいで瑠璃の不安が増長されていたりするのかも?」
 恭介はそう口にしてから、さらに別のことにも思い当たったようだった。
「そういえばここ数年は妹さんの話を聞いてない気がするな。最近は会ってないの?」
 言われて記憶を探る。確かに近頃は連絡すらしていなかったかもしれない。最後に会ったのはいつだったろうか? 普段の多忙さにかまけて放っておいてしまっていた気がする。
「君が多忙という言葉を口にするのもおかしな感じがするけれどね。確かにまともに仕事もしていない私なんかよりはずっと忙しいだろう。下っ端とは謂えど記者なんてやっているわけだしね。でも頻繁に私のところに出入りしているのも事実さ」
 少し調子を取り戻した瑠璃がそのような皮肉を口にする。それから極めて短い息を吐き、改めて真剣な様子で話を始める。
「私も動転ばかりしていては駄目だね。萩原君の論にも一理あるかもしれない。良ければ前回君が妹に会ったときの話を聞かせてくれないか?」
「妹にこの前会ったときか。あれはもう何年前になるのかな……」
 当時は私がまだ会社に勤めだして間もない頃。慣れない仕事にとても手間取っていたのを思い出す。妹はまだ大学生だった。
「妹は地元から私のところに遊びに来たんだ。渋谷に行きたいと突然言い出してね。でも今思えばそれは口実だったという気がするよ。実際には私がきちんと社会人としてやれているか心配になって来てくれたんだろう」
 季節はちょうど今くらいだったろうか? 東京にいると周囲の景色から時節を判断するのが難しくなる。周りの木々は色付いていなかったようにも思うが、風はすでに冷たくなっていた。
「着てきた秋物のコートが紅葉を思い起こさせたのをよく覚えているよ。私は渋谷なんて詳しくなかったし、妹も下調べをしてきたわけじゃなくて結局適当にぶらついていただけで終わってしまったんだ。せっかく上京してきたのにまともに食事もさせてあげられなかったな」
 私がそう思い出を語っていると、恭介と瑠璃が互いに顔を見合わせた。
「何だか今回の雪奈ちゃんとの話に似てない?」
「私もそう思っていたところだよ。違いと言えば食事のところくらいだね。まあこれまでも飯田君と彼の妹がどこかで食事をしてきたなんて話は聞いたことがないけれど」
「そういえばそうだね。大学時代には結構頻繁に妹さんと会ったなんて報告を聞いてたけど、でもどこか一緒にお店に行ったことはないんだね……」
 恭介が不思議そうに考え込む。そして唐突に訊いてきた。
「そういえばさ、僕たち成明の妹さんの名前知らないよね。何ていうの?」
 問いかけがあまりに唐突だったので私は答えるのに詰まってしまった。一瞬の間隙を挟んでから応答する。
「――刹那」
 口にしてからはっと気付いた。その響きは雪奈にとても似ている。何故今まで何度も雪奈の名前を聞き、自分からも発していたのに思い至らなかったのか不思議なくらいに。
「それは違うね、順番が逆転しているよ。本来ならば『雪奈』と聞いたときに君の妹の名前である『刹那』を思い浮かべるはずだろう。それに私に言わせてもらえばその二人の名前はそこまで似ているようには思えない」
「僕は微妙なところかなー。似ているといえば似てるけど、でも他の人の名前でも同じようなことはあるんじゃないかなという気もするし」
 そうだろうか? 私自身には二人の言っていることがいまいちよくわからない。
 瑠璃がキセルを咥え、そしてすぐに刻み煙草がなくなっていることを思い出して手放した。諦めて言葉を紡ぐ。
「どうにも私にはよくわからない。君は妹に似ているから白樺雪奈という娘に惹かれていやしないか?」
「それはさっき瑠璃の言った『妹の姿を彼女たちの中に見ている』ということかい?」
「いや、それとは別だね。君はきちんと区別が付いていると自分で述べていたし、先程は私も動転していた。君の中で区別が付いているならそれでいいのだが、でもまだ私は君が若い娘と一緒に並んでいるということに違和感を覚えて仕方なくてね」
 それで瑠璃は妹に似ているから親しくしているのではないかと述べているわけか。元々は雪奈の姉のことを知りたくて私から接触したわけだからそれは明らかに間違っている。ただ彼女が妹に似ていてそこが気になっているというのは正しいかもしれない。今日の昼間に雪奈と出歩いたときの感覚はそれ以外にどのように説明したらよいのか私自身わからないのだ。
「なら本来の目的のためにも君は今以上に妹と白樺雪奈をきちんと区別して会わないといけないと私は思うね。あくまで知りたいのは彼女の姉である櫻庭舞美の方なのだから」
 確かにその通りだ。私は今日のように雪奈に気を取られていてはいけない。収穫が何もなかったのもそのせいではなかろうか。
 そう考えて私は再び雪奈を呼び出した。今度はもっと直接姉のことを知ることができる場所に連れて行って欲しいと伝えながら。
 ただ結局のところそれは雪奈を頼ることに変わりないものだった。だからこそ私は雪奈のことももっと見なければいけなかったのだと後々気付くことになるのだ。


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by zattoukoneko | 2011-05-26 22:49 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-2-1


2-2-1

「君はシスコンだろうが」
 そう断言したのは江戸紫色の着物に身を包んだ瑠璃だった。雪奈と出かけた日の夜である。ただし夜といっても冬に入って間もないこの季節での感覚のものだ。昼食を食べた後もしばらくは街中を二人で歩いてみたが、特に進展もないということで数時間して別れてしまった。
「ひどいな瑠璃。どうして私がシスターコンプレックスなんて抱いていないといけないんだい?」
 瑠璃は私の言葉に顔を渋いものにして溜息を吐いた。近くに置いてあるキセルに手を伸ばし、肝心の刻みタバコを切らしていたことに気付いて舌打ちする。
「じゃあまず訊くが、君は私の家族のことをどのくらい知っているかね?」
「まったく知らないね。そもそも瑠璃は自分のことを好き好んで話すような人間じゃないじゃないか」
 私は皮肉とかそういうつもりで言ったわけではなくただ事実を述べただけのつもりだったのだが、瑠璃は私の台詞を苦虫だと思ったようだった。
「ならそこでだらけている萩原君の家族についてはどうだい? 君はどのくらい知っている?」
「え、急に何?」
 休日に瑠璃の店にやってきていたらしく、机に突っ伏してうとうとしていた恭介が突然名前を呼ばれて顔を上げる。それにあわせて頬に張り付いていた碁石が落下した。どうやら私がここを訪れる前に二人で烏鷺に興じていたらしい。だが恭介が盤の模様を崩してしまって正確にはわからないが、百手ちょっとで終わった碁になっているようにしか見えなかった。しかも瑠璃に五子も置かせてもらっているというのに。
 そうは思いつつも私も瑠璃には石を置いて指導してもらっているくらいであるし、そして肝心なことは瑠璃や恭介の棋力に関しては知っていても、私は両人の家族については何も知らないということだ。
「成明は僕の父親が警視庁に勤めていることは知っているでしょ? それで今の仕事にありつけたって話したことあるじゃない」
「そういうことじゃないんだよ萩原君。出身や家族構成は親しい友人であれば話すこともあるだろう。でもその身内が実際にどんな性格をしているかについて教えることはあるかい? 家族なんて鬱陶しいだけの代物で友人に紹介するだけの価値などなく、仮に近しい身内に恵まれていたとしてもそんなことを話せば周りに疎ましがられるだけのものさ」
「うーん、瑠璃はちょっと捻くれているというか、言葉がきついよねえ。でも確かに率先して話題に出すものでもないかな。友達同士、その場のノリでやる雑談の方がずっと楽しいし」
「けれど私たちはこれまでに何度も飯田君から彼の妹の話を聞いているね。よっぽど溺愛しているんだろう。そしてそれを世間一般ではシスコンと呼ぶんだよ」
 溺愛しているかどうかはともかく私が妹のことを大切にしているのは確かだ。しかし世間で俗に言われているのとは違って、心理学的にはかなりの偏愛を指す。時には性的な行為に及ぶことすらあるようなもので、コンプレックスと付いていることからも分かるようにかなり病的なものなのである。けれどそのようなものは私にはない。
「どうして君はそう言い切れるのかねぇ」
 けれど私の考えを瑠璃がすぐさま否定してきた。
「そもそもコンプレックスというのは抑圧された無意識が実際の言動に現れるようなもののことを言うのだろう? よく自分の目が二重でないことをコンプレックスだとのたまう人間がいるが、そんなもの自分の顔を鏡でまじまじと見つめ、同じように他人の顔をまじまじと見つめ、それを見比べた上で社会的にどちらがいいとか言われている戯言でもってよくないと判断しているだけのことじゃないか。ただ自分を受け入れることができていない幼稚な甘えだよ」
「瑠璃は相変わらず言い方がキツイねえ」
 苦笑しながら口を挟んできた恭介に、瑠璃が言い返す。
「そうかもしれないね。私は専門家ではないから自分の感想でしかないわけだし。でも重要なのは今回のは飯田君の話と関係があるということなんだよ」
 瑠璃は私の方に向き直ると、いつものキセルがないために人差し指で何度もこちらを指し示しながら喋り出した。
「そもそも君が妹を大切にしている理由とは何かね? 私たちの付き合いも相当なものだが、これまで立ち入って君の家庭環境について聞いたことはない。だからこそこれまでやってこれたと言えるのかもしれないけれどね」
 私は瑠璃の家族のことをまったく知らないし、おそらく恭介も知らないだろう。特別聞く機会がなかったというのもあるが、それ以上に瑠璃自身が触れて欲しくはないという雰囲気を醸し出していた。私はこれからも彼女の体験してきたものに関して聞き出そうとはしないだろう。この友人関係はそうしたいくつかの暗黙のルールのようなものを守りながら成り立っているものだと思うからだ。よく鈍感であると瑠璃に罵られる私でもそのくらいのことはわかっている。
 しかしだからこそ、今の瑠璃の言葉は私には理解できないものであった。彼女が指差しているのは私の中にある何かなのだ。しかしそれを明確に指摘できないから聞き出そうとしている。私の口調に険悪な気配が入り混じったとして誰がそれを咎められようか。
「瑠璃。私は自分の家族を大切なものだと考えるのは当然だと思っている。君には君の事情があるだろう。しかしそれを私にまで当て嵌めようとしないでくれ」
 下唇を噛んで瑠璃が押し黙る。いつも勝気な彼女がそのような表情をするのは珍しかった。
 静かになった店内に柱時計の振り子の音が鳴り響く。
 重く私たちに圧し掛かろうとする空気の下で、しばらくしてから恭介が小さく言葉を漏らした。
「僕はどうして瑠璃がそんなことを言い出したのか気になるな。瑠璃は直感でしゃべることが多いけど、でも他人の心を無視するような人間じゃないから……」
 彼の声が響いたのは、けしてその場が静まりかえっていたからではない。
 恭介に続くようにして瑠璃が話し出した。
「私も飯田君の家族との関係について根掘り葉掘り聞き出そうというつもりはない。興味本位だとしたらもうとっくに話してもらおうと迫っていただろうさ。ただ今回はどうにも気になって仕方がなかったんだ」
「――今回というのは私が雪奈と出かけたことのことを指しているのか?」
 気を落ち着けながら問いかけた私に、瑠璃は頭を振って応えた。
「そうじゃないよ。この一連の事件のことさ。私にはどうして君が人殺しなんてしたのかさっぱりわからない。しかもその殺した相手が年端もいかない女性ときた。失礼な言い方に聞こえるかもしれないが、私には君がそのような人間と交際があるなんてことが想像出来ない。ここに死体を運んできたときは、その相手とはさほど親しくないのだろうと思うことで私は無理矢理にでも納得することができた。でも君はまた同じくらいの女性と交流を持つようになった。だから混乱してしまっているんだよ。正直飯田君のことが私にはわからなくなってきてしまっている」
 瑠璃は別に私のことをすっかり把握しているのだと言いたいのではない。そうではなくて友人として長年親しく付き合い、踏み込まない領域を保ちながらも互いに理解してきた。私も瑠璃のことで知らないことは多いが、それでも彼女のことを理解していた。そうやって私たちの関係というのは成立していたのだ。けれど瑠璃には私の行動がわからなくなりつつある。
 ついに瑠璃は自分の額を両手で押さえ、大きく俯いてしまった。そのまま苦しげに呻き声を上げる。
「だから私はこう考えるしかないんだよ。君は妹の姿を彼女たちの中に見ているのではないかと」


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by zattoukoneko | 2011-05-21 19:34 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-1-2


2-1-2

「結局何も姉に関してはわかりませんでしたね」
 お昼をやや過ぎた頃。若者の多い衣類を中心に扱う店が並んだ通りから少し離れたところにあるカフェテラスに私たちはいた。ここは喧騒からも離れていて私にとっては随分落ち着く感じがする。
 店は少し凝ったパスタを提供するようで、一食で二千円弱の値段がする。確かにこの値段と立地では、二十歳かそこらの雪奈が通うような場所ではないように思われた。
「まあ仕方ないさ。私はそもそもああいう若い子たちが集まる場所に行ったことがほとんどないからね。雪奈のお姉さんと一緒に出かけるかどうかも怪しいなあ」
 私は店員の運んできたホウレンソウを練りこんだというパスタを受け取りながら答えた。この店はどうやら食具にもそれなりにこだわっているらしい。瑠璃が骨董品なんぞを扱っているので多少は目利きが効くようになったのだ。
「成明さんは学生の頃にこの辺りに来たことはないんですか?」
「なかったなあ。街の様子や時代背景も今とは多少違っていたということはあるけれど、何よりも私の周りには身なりを気にするような人間はいなくてね。旅行も東京観光もせずにだらだらと日々を送っていたよ」
「それって何だかもったいない気がします。私は大学に通っていないので、クラスやサークルの友人と遊びに行ったり旅行に出かけるのに憧れがあったのですけど――あ、どうも」
 ちょうどそこで女性店員が雪奈の元に料理を運んできたので会話が途切れる。店員が去るのを待ってから私は答えた。
「そういう人もいると思うし、むしろそちらの方が大勢だろう。だけど人の育ってきた背景やその時々の環境は様々だからね。活動内容も人によって異なってくる。私の場合は親しい友人がそういうタイプでなかったというだけさ」
 と、そこで私の頭をふとした記憶がよぎるのを感じる。
「そういえば私の妹もそのようなことを言っていたな。せっかく東京に出て行ったんだし、もっと楽しめばいいのにと」
 私のその言葉は半ば独り言であったのだが、雪奈は多少なりとも興味を持ったらしい。
「成明さんには妹さんがいるんですか?」
「ああ、いるよ。若干年齢が離れているんだけどね」
 そこで雪奈はちょっと首を傾げた。
「妹さんは大学には入らなかったのですか? 私みたいに」
 どうやら雪奈は、私の妹が大学で遊ぶことができず、それで彼女と同じように憧れを言ってきたのだと勘違いしたようだ。私は記憶を探りながら返事をする。
「いや、妹はそこそこ遊んでいたと思うよ。大学にも通っているね。ただ地元である茨城の大学に通っていたから東京に対しては憧れを持っていたんだと思う。それで雪奈と似たようなことを言ったのではないかな?」
「そうですか……」
 けれど雪奈はどこか納得がいかないようであった。大学そのものに通ったことがなく、また出身も都会の方だから田舎との違いがよくわからないのだろう。ただ少ししてから新たな疑問を投げかけてきた。
「妹さんが東京にやってきて、一緒に出かけたりはしなかったんですか?」
「――え?」
「ですから妹さんが成明さんのところに遊びに来て、今日私と出歩いたみたいに一緒に買い物に出かけなかったのかなと。そんな疑問が思い浮かんだんですけど」
「あ、ああそういうことか」
 一体私は何を動揺したのだろう。いや、動揺したというよりは思考が停止してしまったという感じだった。それが一体何なのかわからず、けれどとりあえずは雪奈の質問に答える。
「そうだなあ。何度か東京に出てくることはあったかな。でも大抵は自身の友人たちと一緒だったし、私のところに一人で来たこともあったけど買い物の付き添いをするというのはほとんどなかった気がするよ」
「あまり、仲がよくなかったんですか?」
「そう……聞こえるかい?」
「少し。私は孤児院を出て姉に会ってからはべったりでしたから。だから成明さん兄妹はあまり親しくないような気がしたんです。でもよくよく考えてみれば姉妹とは違うものですよね。成明さんの言っていた人によって活動内容が変わるというやつでしょうか? 私も仮に姉ではなく異性の兄だったらあそこまでべったりしなかったかもしれません」
「…………」
 私は雪奈の言葉に、自分の持っている記憶というものを少し探ってみざるを得なかった。彼女の言ったことは正しいことにも思える。でも少し曖昧であるような、しかしそれと同時に妙なリアルさも感じられるようなそんな不思議な感覚がしたのだ。
 そうだ。以前妹が私のところに遊びに来たとき、やはり待ち合わせは渋谷駅前だった。茨城で育った私たちからすると他にいい待ち合わせ場所も思いつかなかったし。そのときの妹はカーキ色のコートを着ていて、それはまるで今日の雪奈のよう――
 店内であるため今は脱いで椅子の背もたれの部分に掛けられている雪奈のコートを注視していたら、怪訝に思った持ち主が何事かと訊いてきた。私は慌てて取り繕う。
「いや、そのコートもお姉さんと一緒に出かけたときに相談して買ったりしたのかなと。私は服飾などに関しては妹に適切なアドバイスをすることはできなかったが、同じ女性同士ならお互いに色々言いながら買い物をするのだろうかとね?」
 あまりに唐突な質問に聞こえてしまったのではないかと私は心中穏やかざる状態であったのだが、雪奈はあまり気にしていないようだった。ただほんの少し寂しそうな表情をしてみせる。
「姉とは結構頻繁に出かけましたが、私を大学に入れようとしてくれていたこともあってあまり自由になるお金はなかったのです。それに出会ってからそれほど経たないうちに行方がわからなくなってしまったものですから……」
 雪奈にとってお姉さんである舞美さんの存在はどれほどのものであったのだろう? 孤児院で育ち、ようやく出会えた本当の家族。その家族にようやく愛情を注いでもらいながら充実した日々を送っていたに違いない。それなのにある日突然その人を私が失わせてしまった。
 彼女が私を不審に思い、過激ではあったがナイフを突きつけてきたことも納得できる気がした。あの時私がお姉さんを殺したとわかれば、雪奈はその手を血で染め上げていたかもしれない。
「……雪奈にとってはとても大事な家族なのだね」
「はい。それに憧れでもあります。私は姉のような人物になりたいし、目下進むべき道標になっているとすら言えるかもしれません」
 雪奈はそう一度締め括ると、顔を下げた際に落ちてくる髪を耳にかけてフォークに絡め取ったパスタを口に運んだ。
「髪の長い女性は大変だね。うちの妹も雪奈くらいの髪の長さだったから同じような食べ方をしていたよ」
 何気ないその私の言葉に雪奈は苦笑する。
「髪が長ければ必ずしも同じ食べ方をするとは限りませんよ。成明さんが人それぞれだって言っていたじゃないですか。私は――正直に告白すれば姉の真似です。髪形もこの食べ方もコートなどの服装も。それが姉への近道のような気がして」
 私はそこでふっととある感覚が蘇ってくるのを感じた。
「そういえば君のお姉さんも私の妹に似ていたような気がする。……いや、きちんとした記憶を取り戻せたわけではなく、そうだったような気がするというとても漠然としたものなのだけれど」
「それは……姉との記憶というよりは妹さんの記憶のような感じもしますね。妹さんとの話をしばらく続けていたのでそれに触発されたのかも」
 そうなのだろうか? 私はお姉さんのことをきちんと思い出せたというわけではないという点でそれは合っているのかもしれない。でも『妹のことを舞美さんを通じて感じている』というような気もするのだ。私の中で何故か妹の記憶と存在が希薄になっている。
 しかし私のそのような考えは雪奈の次の台詞で雲散霧散させられる。
「でも成明さんも妹さんのことをかなり大事に想っているみたいですね。もしかしてシスコンというやつですか?」
 悪戯な笑みを浮かべて訊いてくる彼女に、私は耳まで熱くなるのを感じた。
「な、何を言ってるんだ! そんなことは断じてない!」
 必死になって否定する私を見て、雪奈はクスクスと笑い出した。


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by zattoukoneko | 2011-05-17 12:19 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』2-1-1


2-1-1

 思えば女性と二人きりで出かけるというのも久しぶりである。一応記者として働いているから様々な人に出会うし、その中には女の人もいる。取材後に食事などに出かけることもあるが、しかし結局それは仕事の延長線上であり、恋愛感情などの私情を挟むことはあり得ない。
 そのようなことを言ったら同僚に馬鹿にされた。職場なんて恋人探しの場だろうと。
 もしかしたら一理あるのかもしれない。人間というのは理知的な生物であり、理性によって自我をコントロールしているものだし、そうすべきだという考え方はある。しかしながらその論の中には「生物」という言葉が入っていることに留意しなければならない。生物である以上性欲は切り離せないものであり、したがって異性に対して欲情を覚えるのは自然の摂理だとも言える。
 私だって性欲はさっぱりないとは言わない。クラスの綺麗な女子に鼓動を高鳴らせた経験もある。しかしそれが「恋愛感情」かどうかと問われると明確な答えを導き出すことは出来ないのだ。この場合性欲と愛情は別物だとかそんなことを話したいのではない。あれはただの憧れとか、もっと言ってしまえば周りに流されただけのものだったのではないかと思うのである。
 ただ雪奈がカーキ色のコートに身を包んだ姿を人影の中から現したときに感じた気持ちを、少なくともこの時の私は表現することはできなかった。
「待たせてしまいましたか? 時間には間に合ったつもりなのですけど……」
 駅前が待ち合わせのメッカとなっている場所で、私の姿を見つけて近寄ってきた雪奈がそのようなことを言う。私は否定するために首を振った。
「いや、仕事柄予定の時間より大分余裕を持って行動するのが習慣化していてね。別に雪奈が気にすることは何もないよ」
「成明さんは確か出版社に勤めていたんでしたっけ?」
「そうだね。取材を申し込んだのに相手を待たせるわけにもいかないだろう?」
 私がそのように答えると、雪奈は小さく苦笑いをした。
「私は取材相手なんですか? 確かに姉のことを話すという意味では近いのかもしれませんが、私は協力するだけのつもりだったので普通のお出かけと同じ気持ちでやってきたんですけど」
 彼女の言葉とその何気ない仕草に思わずどきりとしてしまった。狼狽していることを隠そうとして、しかし下手に声を出したものだから口調がおかしなものになる。
「あ、ああ。言われてみればその通りだ。取材ということなら仕事になるし、それなりの対価も支払わないといけないしね」
 私の言葉に雪奈は悪戯な視線を私に向けてきた。
「では『対価』としてお昼をご馳走してくれますか? とても、というわけではないですけど、ちょっと値段の張るお店があって前々から行きたいと思っていたんです。いいと言ってくれるのならばぜひこの機会に」
「そのくらいなら構わないよ。料亭に連れて行ってくれと言われた日には会社から経費が落とせるか交渉しないといけないけれどね」
 これではまるでデートでもしているようではないか。それどころか年齢差を考えれば犯罪事にすら見える。
 ……いや、そのようなことを考えるのはやめにしよう。私は雪奈のお姉さんの話を聞くことを目的にここにやって来た。意識を向けるべきは白樺雪奈ではない。櫻庭舞美の方だ。それを忘れてしまったら私は何も成し遂げられないだろう。
「じゃあお姉さんとよく行っていたところに連れて行ってもらえるかな?」
 私のその要望に雪奈は首を捻る。
「姉とはどこか特定の場所にいつも行っていたという感じではないのですよね。二人で買い物に出かけるのが主で、それもウインドウショッピングという感じでしたから」
 その彼女の言葉に、私の先程の決意が折れそうになったのは言うまでもない。
 しかし雪奈はそれに気付くはずもなく、姉と歩いたのはこちらの方向だと示しながら歩き出してしまった。仕方なく私はそれに付き従う。
 東京にある大きな駅の多くはそのすぐ近くに大きな店が並んでいるものである。もちろん地方でもこの傾向はある。鉄道というのは地上における物流の要であるから駅の近くに百貨店や量販店がつくられやすい。これは何も日本に限ったことではないのだが、ただ日本の場合は街によって特色がやや異なるようだ。これはアメリカのように鉄道によって新しい土地が切り拓かれたわけではなく、元々歴史ある街に鉄道がやってきたことに由来するのだろう。銀座は商業の側面を多分に持った高級ブランドの繁華街であるし、秋葉原は戦後真空管などを売っていたことから電気街へと成長した。また私たちが今歩いている渋谷は、名前の通り谷が多かったために発展が困難を極め路地が入り組んでいるが、七十年代に新しく百貨店が出来たのをきっかけに新宿を超える若者の街として注目を集めた。
 しかしいずれにせよ東京というのはごちゃごちゃしている。上京してきてから随分経つが、どうにも周囲の人間がどのように動こうとしているのか先読みできないのだ。そのせいでうまく前に進めない。
 それは人に気取られない程度のものだと思っていたのだが、どうやら私がまごついているのを雪奈が察したらしく歩む速度を遅くして声をかけてきた。
「成明さんは人混みが苦手なんですか?」
 彼女の台詞は疑問形ではあったが、ほとんど確信を持って言っている感じであったし、嘘を吐いてまで否定することでもないので私は首を縦に上下させる。
「出身が田舎でね。実家は福島と茨城のちょうど県境にあるのだけれど、道路にこんなに人がいるなんてことはないんだよ。お祭りの時だってここまでにはならないね。そのせいかどこを見たらよいのかわからなくなってしまうのさ」
「そうだったんですか。私は神奈川にある施設で育ったので人でごった返している方が日常なんですけど。うまく歩く方法、そうですね……」
 雪奈はそこで少し考え込んだ。人差し指を唇に当て、自分が普段どのようにしているのかその思考を探っているようだった。
 指を下ろして言葉を紡ぐ彼女の答えは、やや抽象的でありながら正鵠を射ているように感じられた。
「自分の進むべき方向をきちんと見定めていれば真っ直ぐ歩けると思います。もちろんある程度周りの人のことも気にしないといけませんが、気を取られすぎるのが一番迷いやすいんじゃないかという気がします」
 そう答えを出した彼女の見ている先にあるものは何なのだろう? そして私がこれまで進もうとしてきた方向はどこを向いていたのだろう?
「とりあえず私を目印に歩いてみたらどうですか? 行く場所を成明さんは知らないわけですし」
 雪奈は先程の言葉の続きとしてそのような提案をしたのだと思う。私は自分がふと気になったことを口には出していなかったし、その内容を知る由もない。しかしタイミングのせいか妙に心に響いてくるものがあった。
 でもそれは本当に『私の進むべき道』なのだろうか。雪奈も結局は他人でしかない。彼女の言葉に従い、彼女の後ろについていくことが本当に自分のためになるのだろうか?
 私は……それに明確な答えを導くことができなかった。
 だから彼女が体をくるりと反転させて歩き出した時、私は『とりあえず』その姿を追うことしか出来なかった。その先に自分の求めるものがあるのかどうか、視界をすっかりと遮る濃霧の中を彷徨っていく。


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by zattoukoneko | 2011-05-14 04:13 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-4-2


1-4-2

 雪奈は視線を落とし、カフェモカのカップにそれを落ち着かせると言った。
「あなたが姉の記憶がないというのは、実は結構信じていることなのです。あるいは親しい間柄ではなかった。なぜなら……姉の姓は『白樺』ではないからです」
「それはつまり、雪奈はお姉さんとはお母さんかお父さんが違うということかな?」
 知って間もない人物に訊くのも不躾な質問かと思いはしたが、しかし避けることのできないものでもある。雪奈も訊かれて当然だと考えていたようで、特に嫌な顔を見せることもなく回答する。
「実はそれすらも明確にはわかっていません。私、養護施設で育ったんです。中学卒業後は専修学校に進み、そのときに親のことなどについて独力で調べてみたのです。施設に預けられた理由も知りましたが……申し訳ないですけど話したくありません。ただその中で姉の存在を知り、そちらには会ってみたくなったのです。私は専修学校を終えてすぐに東京で働き始めましたが、それと同時に大学生になっていた姉に実際に会うことを決意しました。二年前のことです。姉は私のことを知らなかったようですが、とても親身になってくれ、大学にも入れるようにと支援を始めてくれました。けれどある日を境に姿を見なくなった。街中で姉のことを聞いて回っていたら、いなくなった日に一人の男性と一緒にいたらしいことがわかったのです。それが――あなたです」
 雪奈は言葉の中では語りはしなかったものの、その時々潤む眼や揺らぐ口調からお姉さんの存在がいかに重要なものになっているかがよくわかった。彼女は養護施設、平たく言えば孤児院で育ったと話していた。両親には会いたくなく、しかし優しくしてくれたお姉さんを親のように思っていたのかもしれない。
「あなたのことを調べているうちに刑事さんに職務質問されて。その際、当然明言したわけではないですけれど、私自身が調べていたことと照らし合わせてどうやらあなたが姉を殺した疑いで捜査されているらしいとわかったのです。けれど先日直にあなたに接触してみて、そして私の名前をあえて伝えたときに何の反応もなかった。普通ならすぐに名字が違うことを指摘すると思うのです。でもそうしなかったということは、あなたの言うとおり記憶をなくしているか、そもそも知らなかったか。けれど私の調べでは直前に親しく話をしていたようだし……」
 次第に雪奈のお姉さんを知らないことが、私の中で大きな違和感になってきつつあった。どうして私はその人物について何も知らないのだろう。周囲から見て親しくしていたと思えるくらいには仲良くしていたのだと思う。でもそのことを私は覚えていない。そして何故そのような相手を殺してしまったのか、それもまったく思い出せない。
 私にとってその女性は鍵になる気がした。もしかしたら鍵を持つ彼女はパンドラとなるかもしれないが。しかし箱は蓋を開けてみなければ中を見ることができないのも事実というものだ。ならば私は、その鍵に手を伸ばそうと思う。
「雪奈。私は未だに君のお姉さんの名前を思い出すことが出来ない。教えてもらえないだろうか?」
 請われた雪奈は私の目をじっと見つめ、その視線を外すことなく答えてきた。
「櫻庭舞美」
 私はこちらを吸い込まんとする雪奈の視線を受け止めながらもらった名前を何度も反芻する。綺麗な瞳を見つめ返し、しかし彼女から反射するものは何もなかった。小さく溜め息を漏らしながら首を横に振る。
「そうですか」
 雪奈は短く一言だけそう言った。
 しかし私はまだ諦める気にはなれなかった。記憶を取り戻すことで何かが変わるという感覚が強くなっていた。いや、確実にそうなのだ。私はどうしてか記憶を失った。そこには私自身に関わる重要な何かがあるはずなのである。今思い起こせば瑠璃もそのことを仄めかしていたではないか。
 私はしばし逡巡した後、意を決して雪奈に迫った。
「もしよかったら雪奈がお姉さんと一緒に出かけたところなどに連れて行ってくれないだろうか?」
「……え?」
 案の定というか言われた雪奈は呆気に取られた表情をした。でも私にも考えがあったのだ。
「彼女のことを思い出すことが今回の事件の真相を暴き、そして私が無意識の中に閉じ込めてしまった何かを引きずり出すことで転機を迎えられる気がしているんだ。けれど今の状況としてお姉さんである櫻庭舞美さんは私の近くにいない。ならばその人をよく知っている雪奈が間に入って色々なことを教えてくれることで、やがてお姉さんのことを思い出すのではないだろうか」
 その言葉を聞いた雪奈は戸惑いながらも思案し始めた。私はそれを見ながら続ける。
「君のような若く年頃の女性に、私のような人間が付き纏うことに抵抗も感じると思う。年齢だって倍近く違うんだ。私も多少は周囲の目が気になるだろう。瑠璃――古くからの友人は『無頓着な人間だろう』と言うかもしれないけどね。でも私が記憶を取り戻し、そしてお姉さんが生きているとしたら、その記憶は彼女の行方を知る手がかりになるかもしれない。それは雪奈にとっても望ましいことだろう?」
「…………」
 雪奈は大分長い間思案を続けていたが、やがて音になるかならないか程度の小さな息を吐いて、それからようやく自分で注文してきたカフェラテに手を伸ばした。
「そうですね。正直半月ほどあなたのことを調べてきて、でも行き詰まってはいたんです。私を欺こうとしているのかとも思いましたが、話を聞いている感じからするとそうでもない気がします。なら協力をして姉のことを調べるのも一つの手かと思います」
「提案に乗ってくれるということかい?」
「はい。……どうしてそんな驚いたような顔をするんです? その提案をしてきたのはあなたじゃないですか」
 言いながら安物の磁器を口元に運ぼうとしていた雪奈が、ふっとその手を止める。
「あ、もしかしたらですけど年の差を気にしすぎているのかもしれませんね。お互いに協力するということですから余計なものが入って阻害する要素になっても困ります。所詮は協力者と、少し誤解を招くような言い方をすれば友人のように接してくれた方がいいのではないかと思います」
 白いカップを両手で包み込んでいた彼女は、さらに思いついたことがあるらしく、ちょっとの間を空けてからすぐに話を再開した。
「そういえばあなたに私のことを『雪奈』と呼んでくれと言いましたね。逆に私は『あなた』とばかり呼称していて、何だか突き放している感じを受けるかもしれません。もしよかったら……そうですね、私も下の名前で『成明さん』と声をかけるようにしていいですか?」
「あ、ああ。もちろん構わないよ。でもそれだと君の友人が変な誤解をするのではないかい?」
「そういうことを気にしていたら一緒に姉探しなんてできないんじゃないかとさっき言ったばかりじゃないですか。成明さん?」
 雪奈は苦笑交じりに告げ、そしてからかうように最後に私の下の名前を呼んだ。
 彼女がそれでいいと言うのならば構わないのだろう。彼女の論も一理あると思えるからだ。私情を挟み過ぎるのもよくないことであるが、逆にそれを気にしすぎるのも支障を生むだろう。ならば自然に振る舞うこと。それが無理ならまずは形からというわけだ。
 とりあえずの方向性は決まった。今後どうなるかわからないけれども、動き出すところまでやって来たのだ。
 テーブルを挟んで向かい側にいる雪奈が両手でカップを持ち、ようやくカフェラテに口をつけるのを見て、私は不思議な感覚を覚えながら一つ質問をした。
「冷たくなってないかい?」
 口を離した雪奈が答える。
「まだ、少し温かい」

   ‐第一章・了‐


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by zattoukoneko | 2011-05-09 13:08 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-4-1


1-4-1

 その休日は天気も良く、しかし晩秋らしい肌寒さも感じる日だった。私は駅の近くにある喫茶のチェーン店に入ると窓際の席を選んだ。
 鞄の中から一枚の紙を取り出すとさっと走り書きし、それを窓ガラスに貼り付けた。それからは特に注文したコーヒーを飲むでもなく、ぼんやりと外の風景を見て時間を潰した。
 東京というのは平地ではなく、谷の多い地形である。だから海外の都市、例えばパリの凱旋門広場を中心とした放射線状に主要道路が伸びているようなものと違って綺麗に整備された町設計とはなっていない。狭い間隔で駅が点在し、その周辺に駅前商店街などが発展しているか、もしくは発展していたという形になっている。アメリカなどは鉄道が物資を運ぶために駅ができるとそこの周辺に工場が設立し、従業員が家族を伴い、そしてその生活を支える巨大量販店が軒を連ねて都市と呼ばれるものが成立した。日本でもこの傾向はややあり、駅のある所のほうが発展しているのだが、それぞれの地区が開発するには地形上の問題などから困難であったためにデパートよりは商店街が細長く伸びるという形になった。
 しかし次第に外資資本の導入なども影響し、百貨店とは呼べないまでもスーパーなどが駅の近くや、主要道路の傍らに建てられることで商店街の経営を逼迫した。近年では雑多としていた駅前も行政が整備し始めている。建築物の生む生活環境への影響も考慮されるようになり、日陰やビル風を生み出していた大型のビルは建て直しをされた。駅の目の前は広すぎると感じるほどの広場となってバスの停留所などに利用されている。
 私が最初東京に出てきてこの町に住むようになってから随分様変わりしたものだと思う。雑然とし、陽のほとんど届かない生活空間というのも、慣れてしまえばそれはそれで味があったのだが、私が今窓越しに眺めている駅前は太陽の光がそれなりに届くように変えられ昼であることを十分に感じられるように設計されている。これも時代の要請というものか。公共事業は別に地中の管を確認するだけの工事なぞせずとも、ずっと仕事が舞い込んでくるのではないかとそんなことをぼんやりと考える。
 ――そんな思考をしていたのがどのくらいの時間であったか計測をしていなかったためにわからなかったが、私の座っている席のすぐ傍に誰かがやって来る気配がした。
「一体どういうつもりですか?」
 そちらに顔を向けるとつい先日出会ったばかりの少女、白樺雪奈が憮然とした表情で立っていた。
「ちょっと話をしたいと思ってね。でも連絡先がわからないから一か八かでこういう呼び出し方をしたというわけさ」
 私が先程窓に貼り付けた紙。そこには『白樺雪奈さん。直接お会いしたいのでお店の中へ』と書いてあったのだ。昔は駅に伝言用の黒板などが置いてあったりしたのだが、携帯電話の普及などにより減少してしまったし、今の若い子たちがその存在を知っているかどうかも疑わしかったのでこのような手段を取ることにしたというわけだ。
 しかしそれは相手の人物には気に食わなかったようで、
「それではまるで私がずっとあなたを付け狙っているのを世間に知らしめているみたいではないですか。差はないと言うかもしれませんが、私はストーカーなどと騒がれたくないのですけど?」
「それは済まないことをした。どの程度かわからなかったけれど、白樺さんが私を手がかりにお姉さんを探すというのならそのうちこの紙も見るのではないかと思ったし、他によい連絡手段も思い付かなかったものだからね」
 それから私は謝罪の意思表示としてメニューを彼女の方に差し出しながら、向かいの席に座るように促した。彼女は少し逡巡したようだが結局コートを脱ぎながら椅子に腰掛けた。
「何でも好きな物を頼むといい。私はこういう店なぞ普段来ないものだから何がおいしいのか知らないしね」
「そうやって姉を何らかの事件に巻き込んだことをうやむやにしようとしてるんですか?」
「そんなことは考えていないんだけどなあ」
 思わず苦笑いしながら私は答えた。一方的に呼び出したのは私だし、何か奢るのは当然だと考えただけだ。
「第一あなたはあまりお金を持っていないように見えます」
「厳しいところを突くね。でもこれでも一応は社会人として働いているし、君よりは懐に余裕があると思うよ。白樺さんは大学生か何かかな?」
 私の問いかけに、しかし彼女は別の応答をしてくる。
「私のことを名字で呼ぶのはできればやめてもらえませんか? あまり、好きではないのです」
「うん? じゃあ雪奈ちゃんと呼べばいいかな?」
「……ちゃん付けも子ども扱いされているみたいで少し嫌ですね。確かに私はあなたよりずっと年下ですが。雪奈、でお願いできますか?」
「わかったよ、雪奈。まあ場合によっては話も長くなるのではないかと思うし、遠慮せず何か飲み物でも食べ物でも好きな物を注文してくるといい」
 言われて雪奈は多少しぶしぶとという感じを見せながらオーダーするため席を立った。セルフサービス制の店なのでレジのところで商品が出てくるのを雪奈が待っている。その後姿を見ながら、先日は驚きが大きかったのできちんと見れていなかったが、彼女の髪は長さでは私が殺したと思っている女性と瓜二つなのであるが、若干髪質が違うことに気付いた。姉の方は髪がもっと太かったが、雪奈の方はそれよりもいくらか細くてそのせいか髪色もやや薄い。軽い髪はコートを脱いだときに生じた静電気によってなのか軽く毛先を浮かせている。
 数分してカフェモカと一緒に帰ってきた雪奈は、しかしそのカップとトレイはテーブルに置くだけですぐに私に話しかけてくる。
「それで話をしたいというのは何についてでしょう? ストーカー紛いの行為をやめてくれと、そういうことでしょうか?」
 まだ警戒心を解いていないからか厳しい口調で臨んでくる雪奈。まあそれも仕方ないだろう。事件うんぬんは大きな影響を与えているだろうし、それを差し引くことが出来たとしても私たちはほとんど初対面なのである。
 これは私にとっては難しい注文なのであるが、やんわりとした口調を心掛けながら話をし始めた。
「用件というのはね、雪奈のお姉さんの話を聞かせてもらえないかということなんだ。前に会ったときに話したけれど私には君のお姉さんに関する記憶がない。周囲の友人らも知らないからね。そこで身内であるという雪奈から話を聞かせてもらえないかと、そういうお願いなんだ」
 雪奈は少しの間こちらを窺うような視線を送ってきた。それから問いかけてくる。
「どうして姉のことを知ろうとしているんですか? 何か私と姉のことを探っているんですか?」
「いやそんな大それたことじゃないよ。今さっきも言ったように私は雪奈のお姉さんのことを覚えていない。しかしそれをそのままにしていてはいけないとも思うんだ。何故私は彼女を殺めたのか、あるいは殺めていないのかもしれない、それをはっきりさせないと何も解決しない。事の真相は闇に包まれたままになってしまう」
 私の言葉に雪奈はしばし何事か悩んでいた様子だった。怪訝な声音で訊いてくる。
「今のあなたは警察にも捕まらず、その罪も問われる可能性は低いのではないかと思います。私はまだきちんと話をしたことがあるわけではないのでわかりませんが、記憶がないというのが本当なら、あなたがやろうとしているのはそれを呼び起こそうということ。もしかしたらそれによって罪を認めざるを得なくなるのかもしれませんよ? そんなことをあえて自ら行なうと?」
 彼女の問いに私は真剣な眼差しを向けた。
「だからこそやるべきではないかと思っているんだよ。明確に罪があるならそれを背負う覚悟もある。むしろ記憶をなくしてしまっていることを問題だと考えるようになった。雪奈に出会って、実は君のお姉さんの存在というのは何かしら私にとって大きなものではなかったのかと感じ始めた。でもそれを明確に思い出すにはまだまだ至っていなくてね。だから妹である君から話を聞いてみることにしようと、そういうことなのさ」
 私がそう告げてからしばし雪奈は沈黙する。彼女は何事か真剣に考えているようだった。彼女の持ってきたカップが冷めてはしやしないかと気遣うくらいにまで時間が経過してから、ようやく雪奈はその薄い唇を開いた。
「わかりました。私としてみてもあなたが記憶を取り戻すことで姉の行方がわかるかもしれませんし、協力しましょう。ただその前に一つ断っておかなければなりません」
 雪奈はそこで少しの間隙。気のせいかもしれないが少し辛そうな顔をしているような気もした。だが今回はすぐに言葉が再開された。
「私は厳密にはあなたの殺したと思っている女性の妹ではありません」


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by zattoukoneko | 2011-05-07 23:18 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-3-2


1-3-2

 背中にぴったりと寄り添う女性に「私はあなたの殺した人の妹です」と言われ、なるほどこの相手が恭介の言っていた人物なのかと思い当たった。
 実際にそうであると決まったわけではまだない。しかしながら身内を殺した相手を憎み、付け狙っていたというのはありそうな話に思えた。腰に当たっている硬くて鋭利なものがすぐに体の内部に侵入してこないことを少し訝しく感じはしたが、事に及ぶ前に自己紹介をすることで私に印象付けようとしたのだとすれば得心できる。
 ただ残念ながら彼女の自己紹介に思い当たる物が何もなかった。白樺雪奈――と名乗ったか。下の名前はもちろんのこと、その名字も知っているものではなかったのである。
 果たしてそのような相手を殺したとして想いは報われるものだろうか。そんなことを考えていたら背後の女性が声をかけてきた。
「……動じないんですね」
 彼女の言葉に。私はどのように返答したらよいものかと困ってしまった。街中で急に背後から刃物を突きつけられたら、騒ぎ立てるだろうか、それとも動悸と共に体を激しく揺らすだろうか。そして私はどうしてそのどちらでもないのか?
 もしかしたら瑠璃だったら適切に私の心情から説明してみせるのかもしれないが、ここには私一人しかおらず故に独力で言葉にするしかない。
「君が恨みをもって私を殺すのだとするならそれも自然なことかと、そう思ったということかな。自分でもよくわからないのだけれども」
「…………」
 背後にいる少女――姿は見えないので確かではないが言葉通りならば少女ということになるだろう――はしばし何かを考えているようだった。昼にしては冷たい風が私たち二人の間に割って入ろうとして、結局諦めて過ぎていった。
 話を始めた少女の口調はどこか淡々としたものだった。
「あなたは姉を殺したことを認めるんですか? でもそれならどうして警察に捕まっていないんです? 自ら出頭したというのは刑事さんから聞いています」
 どうやら恭介の言っていた人物で間違いないようだ。担当していた刑事が私の近くに頻繁に現れる少女を見つけ、声をかけたといっていた。しかし彼女の台詞からもわかるが詳細は話していないのだろう。いくらか事情を知っている程度ということだ。
 私はどのように説明したらよいのかとしばし考え、ふと少し前に瑠璃に言われた台詞を思い出す。
「私は君がどこまで事情を把握しているかまったくわからない。友人には相手の心構えに配慮しわかりやすいように説明するのを心掛けろと言われたが、どうにもそれが私には向いていないようでね。だからあったことをそのまま話すよ?」
 そう一つ断りを入れてから私は背後の少女に説明を始めた。
「君のお姉さんかどうかわからないが、私は気付いたら一人の女性の首を掴んでいた。すでに息はないようで、困った私は友人の家、先程出てきた店に運んだ。その後別の友人を交えて相談した結果、自分から警察署に足を運ぶことにしたんだ。ところが私の記憶があまりに無いことに困った警察側はしばらく泳がして行動を観察することにしたらしい。というのも肝心の殺したと思っていた女性の体がなくなっていたからね。だから記憶がないというのが嘘なら死体を隠した場所にでも行くのではないかと考えたんだろう。でもその女性に覚えがないというのは本当だったし、少なくとも体を隠したのは私ではない。だから今でもこのように自由に外を出歩かせてもらっているというわけさ」
 署での細かいやり取りなどを除けば事情はこのようになる。当事者になっている私としてはすんなり納得のいくものだと思えるのだが、瑠璃や恭介、そして捜査にあたった刑事も戸惑っていた。それらから判断するに奇妙な話に他人には聞こえるのだろう。事実背後にいる少女もかなり長い間黙りこくってしまった。
 少女が再び口を開いたとき、その口から出てきた言葉は今まで私たちが考えていたこととはまったく違う推論を含んでいた。
「つまり、姉はまだ生きているかもしれないということですね?」
「……え?」
 少女の台詞に私はたった一言しか発し返すことが出来なかった。それを受けてか相手は自分の論を展開し始めた。
「あなたは姉を殺したと『勘違い』をしたのかもしれない。実は姉はまだ生きていて、体を運ばれたときには意識を失っていたか仮死状態だった。運ばれた先の部屋で意識を取り戻した姉はあなたたちに知られぬようにこっそりと部屋を抜け出した……」
 それは想像に過ぎなかったが、だが私は否定するだけの要素も持ち合わせてはいなかった。
 私は殺したと思っている女性の首の感触や手首に垂れていた涎の冷たさをまだしっかりと覚えている。だからといってそれが死体のものであったと断言することは出来ない。この年齢になれば何人かの死は見てきている。しかしその相手の首を絞めてみた経験なぞはない。だから首を締め上げていた女性が本当に死んでいたとは断言できないし、また専門家に見せる前にその体は消えていた。ならば少女の言うようにその女性は生きている可能性もまだあるということだ。
「でも逃げたとしたらその後どのように過ごしているかはわからない。妹の私にもその行方は知れない。姿を現すことが出来ない理由が何かあるということ?」
 少女はそこで一つ呻った。それから私に向けて言った。
「私は姉が死んでいるとは思いたくありません。ですから生きているという可能性に賭けることにします。そうしたとき姉を見つける鍵になるのはあなたということになるんだと思います」
 それを告げると彼女は私の腰に突きつけていた刃物と共に体を離した。
 私はそれに調子を合わせるような感じで体の向きを反転させる。そして背後にいた少女の姿を視界に入れたとき――
 衝撃が走った。
「警察の方がまだあなたに注目して捜査を進めてくれているのかどうかはわかりませんけど、それとは別に私は個人であなたに着目させてもらいます」
 言葉を紡ぐ桃色の唇。色素の薄いセミロングの髪。私を射抜かんと視線を向ける栗色の瞳。やや厚めのコートを着ているにも係わらず、ほっそりとしていることがわかる細身の体躯。
 妹だというのだから当たり前かもしれないが、それらは私が首を締め上げていたあの女性にそっくりなのだった。
 そのことに気付くと同時に何かが込み上げてくるのを胸の下辺りに感じた。横隔膜の辺りで熱く滾っている。この感覚を私は知っている。でもそれをはっきりと認識することは出来ないのだ。彼女から受ける印象に『何かが違う』という訴えも聞こえてくるために。
 結局私は何を掴み取ろうとすればよいのか、それすらもきちんと把握できなかった。砂の一粒すら手にすることが出来ないうちに少女が別れの言葉を告げてくる。
「ストーカーになるなんてつもりはないですけど、あなたから見ればそう映ってしまうかもしれない。でも私だって真剣なんです。形振りなんて構っていられない。……それだけは伝えておきます」
 それだけ言い終えると彼女は髪を翻し去っていった。早足で歩いていく彼女の後を、私は追うことが出来なかった。
 けれど小さくなっていく彼女の後姿を見送りながら、自分も動き出さなければ己の中にあるものを見つけられないという想いを強くしていった。
 だから私は次の休日になるとすぐに行動を起こしたのだ。


   『絶体零度』1-4-1へ
by zattoukoneko | 2011-05-04 21:09 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-3-1


1-3-1

 その日瑠璃の所を訪れると、彼女は相変わらず人のいない店内で刻み煙草を燻らせていた。昼の一時を回ったばかりだというのに薄暗い店内。古い扉は店主にもはっきりとわかるくらいには大きな鴉軋を立てたはずであるが、かの人物はこちらを見ようともしなかった。私が彼女の目の前までやってきたところでようやくこちらに視線を寄こす。
「元から君に期待しているわけではないけれど、面倒をかけたのだから菓子折りの一つくらい持ってくるのが筋なのではないかとも思うね」
「期待していないのだったら別にそんなことを言わなくてもいいじゃないか」
 私は肩を竦めながら答えると、近くにあった椅子に腰を下ろした。
「まあ迷惑をかけたとは思っているよ。瑠璃も事情聴取なるものを受けたとは恭介から聞いているしね。ただどの程度の『迷惑』だったのかわからないから菓子折りも選びようがなかったし、そもそも友人にそこまで畏まるのもどうかとね」
「確かに君から三つ指ついて頭を下げられようものなら全身鳥肌にまみれていたかもしれないね。その後に一体どんな恐ろしいことを言われるかとさ」
 瑠璃は冗談とも本音ともつかない台詞を吐くと、はだけた着物を寄せ上げながらこちらに体の向きを変えた。
「けれど警察に色々勘ぐられるのは気分のいい物ではないのは確かだったよ。件の部屋はもちろん店の中も散々調べられたし、署では不躾な視線を向けられたし」
「瑠璃がそんなことを言うなんて珍しいね。大学時代から周囲の視線を集めてたじゃないか」
「あれは興味本位というやつだろう? 探りを入れてくるようなのは話が別さ」
 確かにそれは嫌なものだなと思うと同時に、瑠璃には悪いがそれも仕様のないことだと感じた。彼女は骨董品なんぞを売っていることからも類推できるように身につけている着物もけして安物ではない。一方で店はまったく繁盛している様子もなく、どこからそのお金を手に入れているのかは周囲から見ていてかなり謎である。おそらく警察の方もその点に関して怪訝に思ったのだろう。
 実は長年の友人である私ですら彼女の生活に関して詳しくなかったりする。だがそれも当然というものだろう。親しい友人でも相手の家庭環境について深く立ち入ることはまずないのだから。
「ともかくその警察の連中が部屋を調べた結果、確かに私のものとは違う女性の体液が少量見つかったそうだよ」
「それについては私も取調べ中に聞いたよ。驚いたね、昔は時間も金も膨大にかかったDNA検査というのがこんなにも簡単にできてしまうとは」
「……君はどうも気を向ける方向が間違っている感じがしてならないね」
 瑠璃はそう呆れたように言ってから、しかしすぐにいつものことだと諦めたようだった。小さく嘆息してから話を変える。
「けれど死体があるとわかったのに、ほんの半月で君はこうして無事解放されたわけだ。その辺りはまだ聞いていないのだけれど、何か進展があったのかい?」
「逆だね。むしろ何もわからなかった。恭介が口添えをしてくれたのかどうかは知らないけれど、警察の方でも私の話には曖昧な部分がありすぎると判断したようだよ。よく耳にする『証拠不十分』というやつになるのかな?」
 私は肩を竦めながらそう答えると、瑠璃にここに来た理由を告げた。
「恭介がそのことに関して話をしたいそうだよ。瑠璃のところで待っていてくれと連絡があった」
 それを聞いて瑠璃が渋い顔をした。
「萩原君もそうだが、どうして君はそれを前もって連絡してこないかね?」
「別に瑠璃は来客があるからといってもてなしの準備をするような人間ではないじゃないか」
 私はそんな皮肉を言ってから、恭介が来るまでのしばしの間瑠璃と他愛のない話をして過ごす。三十分もしないうちに恭介がくたびれた様子でやって来た。
「用事を入れたときに限って仕事が舞い込んでくるって不思議じゃない~?」
 恭介はそんなことをやや間延びした声で言ってから、しかし実際に忙しいのかすぐに要件を伝え始めた。
「成明のことだけど、証言が曖昧であるということで担当した刑事も少し困惑したみたい。それで端的に言えば『泳がす』ことにしたんだ」
「それはつまり飯田君を尾行するなりして行動を観察していたということかい?」
「そう。実際に犯行に及んだ人間であれば何かしら不審な行動を取ってしまうものだからね」
 なるほど。それで私は案外簡単に自由に外を出歩かせてもらえるようになったというわけだ。行動に制限がかけられるのが普通ではないかと思っていたが、逆に制限をかけないことで尻尾を出さないかと探っていたと。
 その結果私に対してどのような判断が下されたのだろうか。それを恭介に訊くと彼は苦笑した。
「問題があったら成明は今頃捕まっているだろうし、観察が続けられているなら僕はこんなことを立場上話せないよ」
 そしてベテランの刑事が事に当たったこと。そしてその人物がこの半月でこれ以上の労力を費やしても意味はないだろうと判断を下したことを告げた。
「ただ瑠璃の部屋から瑠璃自身のものではない女性の体液が検出されたことはまだ気にされている。でもそれは血液というわけじゃなく、ましてや死んだ人のものかどうかなんてわからなかった。今のところ該当するような捜索願も出されていないし、瑠璃が部屋に招きいれた知人のものという可能性もあるから、調べを続けるにしても優先順位は相当に低いだろうということになったよ」
 彼の説明を聞いた瑠璃が「うちにそうそう人なんて寄り付かないけどね」などと経営者として問題があるのではないかと思われる発言をする。だが事実その通りなので私は何も言わないし、恭介は恭介で別の事案が重要らしく話をそちらに移した。
「むしろ気がかりなのは成明のことを追っているうちに、近くに何度か大学生くらいの女の子が現れるのを見つけたらしいということなんだ。担当している刑事が接触したらしいけど……捜査に関係のない僕にはどういう相手か話してくれなくて。問題はないとのことだったけど、友人の僕からすると成明にそんな若い子が付きまとっているというのが不思議で仕方ない。だから思い当たるところがあるなら話を聞いてみようというのと、ないなら――念のための注意喚起のつもりで呼び出したんだ」
 瑠璃もこちらに視線を向け、どうなのかと言葉を促してくる。しかし恭介が思ったように私には若い女の子の知り合いなどいない。
「この前の件があったからまた記憶がなくなっているのでもないかとも少々思ったが、しかし実際のところ君に若い娘など似合わないね」
「否定する気はないよ。失礼だと言うつもりもね。むしろこの歳になって大学生くらいの女の子に手を出しているのは問題ではないかと思うからね」
 私がそのように瑠璃に答えている間に恭介は荷物を手に取り立ち上がった。
「用件はそれだけ。瑠璃も今回の事件には関わっているから事の経緯を伝えておいた方がいいだろうと思ったし、例の女の子についても気にかかったものだから」
「わかった。気に留めておくことにするよ」
 恭介は私の返事を聞くと店の外へと出て行った。その後姿を見送ってから瑠璃が言ってくる。
「君が『気に留める』なんて器用なことができるとは私には到底思えないのだけどね。そもそも萩原君の言っていた娘に心当たりはないのだろう?」
「ああ、まったく思い当たらない。でもせっかくの友人の忠告だし、せめて覚えておくくらいはしておくよ」
「『覚えておく』のと『気に留める』とはまた別物だと主張したいところだが、まあ君に言っても仕方ないかもね。ジャーナリストなのだから言葉の機微に敏感になっておいた方がいいと思うのだけれど」
 ジャーナリストなどという生き物は言葉の専門家でもないのだからさほど気にしないのが常なのだが。
 それを言ったら瑠璃は深々と溜め息を吐いた。私に対しての諦めというのもあるだろうが、記事を書いている人間全体に対しての物でもあるようであった。しかし実情としてそうなのだから仕方がない。私たちが取材する対象が専門化しているために、そこで使われている用語を覚えるのは無理という話なのである。それこそ記者として一流になり、何か特定の対象だけに専念して取材をさせてもらえるくらいに出世しなければ、言葉を覚えるだけの労力は割けない。
 瑠璃がその辺りの事情を把握しているかどうかは知らないが、特に私と議論をするつもりもないようであった。ほとんど雑用係の仕事しかしていない身ではあったが、それでも仕事は仕事である。そう長く会社から抜けているわけにもいかないので私も瑠璃の店を後にすることにした。
 木戸を開けて外に出るとめっきり冷たくなった風が首を撫でた。そろそろ秋とも言えなくなってくる時節のようである。首を縮こまらせ、私は歩き出した。
 そのときだった。
 私の背中にそっと誰かが体を密着させてきたのは。
「飯田成明さんですよね?」
 肩甲骨の辺りから聞こえてきた声からも判断できたが、どうやらそれは若い女性のようであった。コートでも着ているのか全体的に柔らかい感触を背中に覚える中で、腰の辺りにひどく硬くて鋭利な物が当たっているのがはっきりとわかった。
「動かないでください。偽物ではないので実際に体に刺すことができます」
 どうやら私はナイフだか包丁だかを突きつけられているらしい。彼女の言葉に従い私は下手に動くことを諦める。
 私が観念したのを察したのか、それでも厳しい口調で背後の人物は言葉を続けた。
「初めまして。白樺雪奈といいます。――あなたの殺した人の妹です」

   『絶体零度』1-3-2へ
by zattoukoneko | 2011-05-01 09:11 | 小説 | Comments(0)


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