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【小説】『絶体零度』1-2-2


1-2-2

 私は田舎の出身だからか東京という場所はさぞかし立派な建物で埋め尽くされているのだろうと思っていた。しかしいざ上京してみると住宅地には狭隘なだけでごく一般的な建物が並んでいるし、昔からある建物は当然のように古くなっている。所詮聳え立つビル群などというものはテレビが映像をうまく捏ね繰り回すことで作り上げた幻想でしかないのだ。
 瑠璃の店はやや大きめの道路に面してはいるものの、脇道に入って少し進めば年数を重ねた家々が並ぶようになる。瑠璃も商売であるから店構えはそれなりに見えるように繕っているが、店内に入れば整理されていないガラクタでごった返しているし、今歩いている廊下も三人一緒に踏みしめれば大きく軋んだ音を立てる。
 壁すら倒れてくるのではないかとも思える音を堪能していたら、恭介がぽつりと漏らした。
「しかし瑠璃にはうまいこと嵌められたなあ。成明自身にも事の顛末がよくわかっていないとか説明されたら、どうあっても私情を挟まざるを得ないじゃないか」
 彼のぼやきを聞いていた瑠璃が鼻で笑う。
「人間という生き物は元々自分の気持ちを抑えて生きられるようには出来ちゃいないよ。どのようにして動くものか知らないが、心なんて厄介なものを持ってしまっているんだからね」
 彼女の言葉にふと昔の記憶が蘇った。大学に入ってまだ間もない頃、瑠璃ともまだそれほど話したことがなかった頃のことだ。その時にはすでに彼女は和装で通学していて目立っていた。その日私は何故着物にこだわるのかと尋ねたのである。好みは人それぞれであろうから私は他人がどのような格好をしていようと構わない。けれど一際目立っている瑠璃には何らかの信条があるような気がしてならなかったのだ。私の問いに対する瑠璃の返答はこうだった。
『現代の社会というものは科学なんて馬鹿げたものに支配されていやがる。けれどその肝心の科学のどこを見ても人の心を探求しようという姿勢はない。せいぜいやっているのは脳の仕組みについてさ。だけどね、いくらアドレナリンがどうとかシナプスがどうとか言ったところで人の心について知ることは出来やしない。春に咲く花を見て綺麗だと思うことも、妖艶な女に突然話しかけられてどきりとする男の心情も、本を開いたときに並ぶ文章に魔術的な印象を受けるのも、その何一つとして説明しようとしていない。もしかしたら科学者は究極的にはそれらを説明できると言い張るのかもしれないが、それは一体何十年後の話だい? 私らは今を生きてるんだよ。心を捨てろと脅してくる現代社会に迎合してやるつもりなんざさらさらない。その気持ちを忘れないためにも他とは違うことを敢えてしてやっているのさ。着物をこんな風にだらしなく身に着けているのもその一つだね』
 私は彼女のその言葉に惚れたが、しかし理解することはできなかった。さらに厳しい社会は彼女を受け入れることはなく、ふらふらと好きなように講義を聴講していた瑠璃は大学を退学させられ、雇ってくれる会社もなかった。そんな彼女はしばらくしてから自分の気に入った品を蒐集して骨董品屋をやり始めることになる。自分の好きなことをし、社会を積極的に変革するつもりもなかった彼女は、しかし自身のことを時折「落ちぶれた人間」と表現する。
『瑠璃が落ちぶれているのは確かだが、なら流されていることにすら気付いていない私たちは何なのだろうな』
 社会に反発し我が侭を言っているだけという意味で瑠璃は子供だ。いわば反抗期の少女に過ぎない。横暴な大人である社会を受け入れることが出来ないまま今の年齢になった彼女だが、それならその社会に反抗する気持ちすら覚えていない私などはせいぜい小学校低学年の餓鬼じゃないか。
「だとしたら随分と頭でっかちな糞餓鬼だよ、君は」
 いつの間にか考えていたことが口に出ていたのか、瑠璃がそう苦笑しながら返してきた。しかし否定はしない。つまりそういうことなのだろう。
「瑠璃は手厳しいよねー。僕や成明が子供だということは認めざるを得ないとこだけど、でも瑠璃より成熟した人なんて今の世の中にはほとんどいないとも思うよ」
 辿りついた先の部屋の中を覗き見ていた恭介が私たちの会話に一度入り込んできた。それから本来の目的に関して触れ始める。
「確かに遺体はここにはないみたいだね。話が本当ならここは『現場』ということになるから僕は迂闊に中に入れないことになる」
 そこまで言ってから恭介は小さく唸った。
「でもなあ、僕は二人のことを信じているから――と言っても今回のことは信じたくないけど――成明が女の子を殺してしまい、ここに運んできたその遺体がなくなってしまったというのは本当の話だと思っている。でもそんな話を署に持っていったところで笑い話で片付けられてしまうのが『社会』というものなんだよなあ」
 それから内部事情の暴露とも愚痴ともつかぬ話を続けた。
「例えば一日に警察に届くストーカー被害に関する相談というのは百件を超えるんだよ。こんなことを言っては冷酷なようだけれど、それだけの数をせいぜい十人程度の刑事で処理できるわけがない。捜査してみたらただの痴情の縺れだったなんていうのはザラだしね。うちらはよく『実害がないと動いてくれない』なんて文句を言われるけど、実害があれば当然動くし、まだ実害がはっきりしていないけど大きな事件になりそうだからと捜査を進めているものもある。そんなストーカーの問題でも解決に数週間から数ヶ月かけて取り組む。殺人などの重罪になればかかる時間はもっとさ。だからね、今回の成明の件は『悪戯だろう』と片付けられてしまう可能性がとっても高い」
 恭介はそこまでを一気に口にすると小さく溜め息を吐いた。時々思うが彼は心根がけして強いとは言えず、非情にも冷酷にもなれない優しすぎる人間なのである。そんな彼が刑事という職をやっていられるのが不思議でならなかった。恭介が苦しげに一つの答えを告げる。
「僕は署に成明と瑠璃のことを伝えようと思う。実際に相手にされるかどうかはわからないけど、でも僕は君たちの友人だから話を信じてしまう。成明自身が殺したかどうかはまだわからないけど、事件は本当にあったんだ。なら僕は刑事だから事件があったことを見過ごすことが出来ない。……ごめん、僕は公私を分けられないどころか、そのせいで友人を罪人に仕立て上げることになるかもしれない。最低な人間だな」
 尻すぼみに声を小さくしていく恭介の肩に瑠璃がそっと手を置く。
「いや、君は君なりにきちんと判断してくれた。私情を挟んでしまうのは人間であれば当然のことであるし、それがわかっていながら私は友人である君を呼んだ。萩原君であれば心を悩ましながら正しい決断をしてくれるだろうと思ったからね。私一人では気持ちばかりでまともな行動ができなかった。苦しむことを重々承知していながら君を呼ぶことにした私の方が下劣な人間だよ」
 瑠璃はそれから私の方に向き直った。
「萩原君はきちんと自分の立場を表明してくれた。私はそれを尊重することにしたい。飯田君、君はどうする? 捕まるのは嫌だと逃亡するかね?」
 二人の言葉を聞きながら私は感謝の念を覚えていた。瑠璃は私の記憶が曖昧だと感じ明確な判断を保留した。そして恭介に助力を求め、その恭介は私のことを信じるからこそ警察に突き出すことにした。共に私のことを心の底から信じてくれているではないか。ならば私の返すべき答えは一つしかない。
「二人には迷惑をかけてすまない。恭介の判断に従うことにする。警察に出頭し、きちんと事の真相を調べてもらおう」
 事件の中心にいる人間が真相を曖昧にしたままではいけない。私は二人に後押ししてもらったこの道を歩き出そう。
 私はその夜のうちに恭介に付き添われて彼の勤める警察署に足を運んだ。


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by zattoukoneko | 2011-04-27 20:28 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-2-1


1-2-1

「成明~。こんな夜中に何の用があるっていうのさー?」
ふらふらとした声と足取りで店の敷居を跨いできたのは瑠璃と同じく大学時代からの友人である萩原恭介という男だった。撚れた背広姿で現れた彼に瑠璃が苦言を呈する。
「また随分と酒臭いね。噂で聞くところによるとここ最近毎晩のように飲み歩いているらしいじゃないか。仕事が終わったらさっさと家に帰ったらどうだい? 私たちと違って妻子持ちなんだし」
「妻子持ちだからこそ外で飲むんじゃないか。家に帰ったらせいぜい第三のビールを一缶でおしまいにされちゃうよ」
「贅沢すぎる悩みだね。体を悪くすることを心配してくれてるんじゃないか。まあ君の稼ぎも大したことないせいもあるだろうけどね」
 そう瑠璃は手厳しく言いながら、恭介が鞄から取り出したスポーツドリンクの入ったペットボトルを素早く奪う。そしてお茶を持ってくるべく店の奥へと姿を消した。
 彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認してから小声で恭介がぼやく。
「何で僕の飲み物を奪うかなあ。お酒じゃないんだから別にいいと思うんだけど」
「スポーツドリンクというものは体内に水分を吸収するのを促進するからね。入っている電解質がアルコールの吸収も手助けしてしまうのさ。スポーツドリンク割りというのもあるにはあるけどね、でも見たところ恭介はすでに酩酊期を越えて泥酔期という感じがする。二日酔いのときは脱水症状を起こしているからスポーツドリンクを飲むのもそれなりに効果はある。しかし今はまだ体内にアルコールが残っている状態だろうから、利尿作用の高いお茶などの方がいいのさ」
「ふーん、そういうものなのかー。みんな色々考えながら飲んでるんだなぁ……」
 恭介は語尾を虚ろなものにしながら目の前にあった小さなテーブルに身を突っ伏した。そしてそのまま寝息を立て始める。
 だがそんな彼の頭をお茶の入った湯飲みが小突いた。
「気持ちよく寝れるようなら寝かしてやりたいところだけどね。ただ今回は大事な用件があって呼び出したんだ。もうしばらく辛抱しておくれよ」
 そうして戻ってきた瑠璃は安っぽい、しかしきちんと茶葉の香りがする陶器を恭介の手にしっかりと持たせた。恭介は眠そうにしながらも素直に茶をすする。そしてほっと一息吐くと訊いてきた。
「それで僕に何の用? 明日も仕事だから今日は一緒に飲めないよー」
 瑠璃は「もうすでに飲んだくれているじゃないか」と呆れた声で言ってから、
「話は当事者本人から聞くのが一番だろう。……どうも今回はその当事者の記憶があやふやだが、そういうことも含めて本人にしか語れないこともあるものだからね」
 彼女はそう述べると私の方に顔を向けた。それに合わせて恭介もこちらを見やる。
「何かあったの?」
 先程よりは大分しっかりとしているがどうにも焦点の定まらない彼の視線を受け止めながら私はしばし考え込んだ。瑠璃も口にしたことだが私の記憶は曖昧のようである。一方で自分自身ではその自覚に欠けていて何がはっきりとした事実なのか明瞭でないのだ。そのためにどのように話をすれば恭介にうまく伝わるかわからない。
 結局端的に伝えるのが一番だろうと思い私は口を開いた。
「実は若い女の子を殺してしまってね」
 恭介は湯飲みを両手に持ち、手のひらに伝わる茶の温度を堪能してから、
「――え?」
 傍にいた瑠璃がこめかみを押さえる。
「飯田君。君は物の話し方というものをもう一度高校にでも入って勉強してくるべきじゃないかな? 事実をそのまま述べるだけでは相手が混乱するだけだぞ」
「瑠璃は難しいことを言うね。事実を述べるのが駄目だというのなら一体何を喋ればいいんだい?」
「事実を述べることが駄目だと言っているわけではないだろう。人の話をきちんと聞かないね、君は。相手には相手の予備知識や心構えというものがあり、それは人それぞれなのだからそれを考慮して話し方を変えろと私は述べているんじゃないか」
 彼女の言っていることはもっともである。しかしながらだ。彼女が重視することの多い感情や気持ちというものを頭の中で理解するのはとても難しいものであり、だからこそ実践するのも難しいと言えるのではないないかと私はいつも頭を悩ませるのである。
 だが幸か不幸か今回は瑠璃がいてくれたおかげで恭介も次第に事態が飲み込めたらしい。湯飲みを割らないようにゆっくりとテーブルに置きながら訊いてきた。
「成明が人を殺したって、それ……本当なの?」
 その問いかけに私が頷いて応えると、恭介は頭を両腕で抱えて机に突っ伏してしまった。
 しばらくしてよろよろとした口調で――それは酔いによるものではなく――さらに問いを重ねてきた。
「成明は僕が何の仕事をしているか知っているよね?」
「もちろんだとも。だから君を呼んだのさ」
 私の返答に恭介は肘をテーブルにつき、眉間を掴んで落ちそうになる頭を支えた。苦しそうに呻く。
「なら僕はその仕事をしなければならない。君が親しい友人だとしても例外はないよ。刑事が私情を挿むことは許されないことだから」
 そう、恭介は刑事として働いている。ただよくドラマで耳にする捜査第一課に所属しているわけでもないし、鑑識をやっているわけでもない。仕事柄やっている内容を詳しく教えてもらったことはないが、生活安全課なるところに勤務しているそうだ。けれども所属は関係なく、そして本来ならば職業すらも関係なく、殺人を犯した者は警察に突き出されるのが通常のことだろう。
 恭介が自分の仕事を遂行するというのならばそれも仕方のないことだろう。私にも重罪を犯したのだという自覚はあるのだ。
「何を寝ぼけているんだい。君は自覚がうんぬんの前に記憶すら曖昧じゃないか。萩原君にしょっ引かれるにはちと早すぎるだろう」
 けれど瑠璃が心底馬鹿にしたような声音で注意してきた。恭介も重そうにしていた頭を持ち上げ、しかし眉間に深い皺を刻みながら尋ねてきた。
「どういうこと? 成明が人を殺したのかどうかわからないわけ?」
「飯田君本人は殺したと思っているようだけれどね。でも話を聞いても埒があかないのさ。だからそのことも踏まえて専門家である君を呼び出したわけさ」
「別に殺人が専門というわけじゃないんだけどなあ」
 恭介はそう一つぼやきを入れ、代わりに冷静さを少し取り戻したようだった。
「で、何がどうなってるの? 成明が殺人現場に出くわしたとかそういうことなのかな?」
 瑠璃が私の方を一瞥する。
「本人が話をすべきだと私は思うのだけれどね。しかし彼に任せておいても話が進まない気もする。私が代わりにあらましを説明するよ」
 そう断りを入れると彼女が恭介の問いに答え始めた。
「そういうのもわからないのさ。飯田君はどうも記憶が曖昧らしい。彼は自分の手で人の首を締め上げたと思っているようだが、よくよく話を聞いてみるとその直前に何をしていたのか実はわからない。私はその場に居合わせたわけではないし、だからまずは他の人にも相談しようかと考えたわけさ」
「なるほどね、それで僕が選ばれたと。一応『専門家』でありながら成明の『友人』でもある僕なら話を最後まできちんと聞くだろうと、そういうことだ?」
「萩原君は話がわかるね。本当かどうかは知らないが、警察というものはこうと決め付けたら意地でもそれを貫き通すところだという話も耳にするから念のためというやつさ」
 瑠璃の言葉に恭介は苦笑いを浮かべる。
「言われるほどひどくはないと思うけどなあ。むしろそれを刑事である僕に平気な顔して言う瑠璃が怖いよ」
 それから恭介はすでに温くなっていたお茶をぐいっとあおった。湯飲みを空にし、一息ついてから再び話し出す。
「じゃあ君らの言う『専門家』として、そして『友人』として話を聞いてみよう。職務としては公私混同はやっちゃいけないことだけど、見事に瑠璃にそんなことは無理だろうと先手を打たれちゃったことだしね」
 彼の言葉に瑠璃は満足そうに頷いた。そのやり取りを傍で聞きながら、そこまで考えて恭介を呼んだ瑠璃の思惑に私は舌を巻くしかなかった。
「だが私としては自分自身が経験した事実と、惚けている飯田君の代わりに彼から聞いたことを伝えるしかできないね。とりあえず二時間ほど前に飯田君が若い娘の死体を私のところに運んできたのさ。そこから話を始めようか」
 瑠璃は私がその死体の扱いに困って彼女の元を訪れたことや、その子の首を持っていた記憶はあるが肝心の殺したときの記憶がないこと。そしてやけに平静であり過ぎることを恭介に伝えていった。そして最後に恭介を呼び出す直前の出来事で話を終える。
「――というわけで私は飯田君に少しくらい記憶を取り戻すんじゃないかと死んだ娘の顔でも見て来いと言ったわけさ。ところがどうだい。彼が奥の部屋に行ってみたら死体がどこにもなかったのさ」
 話を聞き終えた恭介は、しかし最後の部分に首を傾げる。
「うん? 遺体がなくなってるって?」
 彼は瑠璃が首肯するのを確認すると、しばらくの間考え込んだ。その頃にはもう酔いも醒めていたように見える。
「確かに成明の言葉――と言っても瑠璃からの又聞きだけど、それを信じるなら彼が実際にその女の子を殺したかどうかははっきりとしないね。でも成明が嘘を言っている可能性もあるし、動機がよくわからないけれど瑠璃に殺した相手の遺体を見せてから隙を見てどこかに隠したのかもしれない」
「飯田君を死体のある部屋に向かわせたのは私だし、呼ばれて私が行くまでの時間から考えて彼がアレをどこかにやるのは無理だと思うけどね」
 言われて恭介は瑠璃の方を見やる。
「部屋に向かったきっかけは瑠璃の言葉かもしれない。しかしそれはきっかけなだけで他の機会を窺っていたという可能性はないかな? それに成明はここに何度も出入りしている。計画的なものだとすれば遺体をごく短時間でどこかにやる方法を考えていたかもしれない」
 恭介はそこまで述べると真剣な視線を私の方に向けた。そして確認するように告げる。
「友人としては成明のことを疑いたいわけじゃないけど、だからといって犯罪を見逃すわけにもいかない。まずは遺体が置いてあったという部屋などを見て、それから僕の動き方を決めさせてもらうよ」


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by zattoukoneko | 2011-04-24 04:19 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-1-2


1-1-2

 瑠璃はひとしきり遺体のある部屋を見てから細くて長い煙を口から吐き出した。その先端がそう高くはない天井に届くのを待ってから彼女は私に質問を投げかけてきた。
「また何で君は人殺しなんてしたのかな? 見たところまだ二十歳かそこらの娘じゃないか。知り合いかい?」
 問いかけを受けて頭の中にあるであろう記憶の糸を探ってみる。だがそれは蜘蛛の糸よりあっけなく切れてしまい、だから私は肩を竦めて答える。
「知らない子だと思うけどね。でも曖昧だなあ。何せ殺したことすら覚えちゃいやしないんだから」
「……君は自分の言っていることがわかっているのかい?」
「わかっているつもりだけどね」
 私は手元にあるぷっつりと切れた記憶の糸をいじりながら言葉を続けた。
「気付いたら女の子の首を力いっぱい絞めていた。手首にすでに冷たくなった涎が垂れていて、それが夜気で余計に冷たくなっていたから我に返ったという感じかな。その後どのように片付けをしたらいいのかわからなかったからここに来たんだ。瑠璃ならそういうことも知ってるんじゃないかと思ってね」
 瑠璃がキセルを持った左手を眉間に押し当てた。
「やっぱりわかってないじゃないか。まったく君というやつは」
 彼女は眉間から離した手でキセルを教鞭に変える。
「普通ならね、人殺しなんて大層なことをしでかしたんだからその記憶は鮮明に持っているものだろう? いや私だって人殺しなんかしたことはないからはっきりとそうだとは言えないさ。でも誰か人を嫌ったり憎んだ記憶というものはそうそう消えないものじゃないか」
「確かに。人の憎悪というのはかなり根深く恐ろしいものだね。けれども実際の問題として記憶がないんだ。思い出せないんだよ」
 こればかりはどうしようもない気がする。瑠璃の言うように人殺しなんていうのはセンセーショナルな出来事だ。もしかしたら大量殺人をしているような人物なら一つ一つの人殺しの記憶は薄れていってしまうかもしれない。だがしかしながら私は殺人なるものを犯したのは今回が初めてなのだ。
「もしかしたら君にとってはセンセーショナル過ぎたのかもしれないね。それで無意識のうちに記憶を脳の奥底にしまいこんでいる」
 そこまで言って瑠璃は「いや」と言葉を挟んだ。
「その割には殺した直後のことはよく覚えているね。それにそこで我に返ったなら気が動転しそうなものだ。なのに君は冷静に自分が殺したことを認め、厄介なことに私が助けになってくれるのではなかろうかと考えてここを訪れた。今も落ち着いているようにしか見えないしね。もしかしたら人を殺したことうんぬんよりも……それに至った経緯や理由が君の記憶を蘇らせることを阻んでいるのではないかい?」
 なるほど、相変わらず瑠璃の分析は明晰だ。私はついに手を血で染めてしまったが、それ以前の私や瑠璃は殺人やその他の重罪を犯したことはない。だから所詮は小説やドラマからの類推でしかない。けれども何かの拍子に感情的に人を殺め、ふと我に返ったとするならば少なからず動揺するのは自然なことだと思われる。
「けれど瑠璃。計画的な犯行だとしたらどうだろうか? それならば動揺することもないのではないかと思うのだけれど」
「計画的なものだったら殺人前の記憶もはっきりと持っているのが自然だと私は考えるがね。第一殺した娘のことを知らないと言っていたのは他ならぬ君自身ではないか。それなのに『計画的』だと言うのかい? 実際のところは君が忘れているだけで前々からの知人だったかもしれないが、そのことすら思い出せなくなるような理由があるんじゃないかと私は言っているんだよ」
 瑠璃はそこまで言うと私から視線を外し虚空をぼんやりと眺めた。目をやった先に何かがあるわけではないのだが、あえて何もないところを見ることで彼女は何事かを考えている様子だった。――いや、瑠璃は思考を重ねていくタイプの人間ではない。おそらくは自分の気持ちを探っているのだろう。何もないからこそ自分の内側に深く入ることが可能になるというのはよくあることだ。寝ようとして電気を消し、布団の中に入ってからアイデアがいくつも湧き出てくるように。
 ただそれらのアイデアはきちんとメモしないと纏まってくれないもので、しばらくしてから瑠璃の呟き出した言葉もはっきりとしないものであった。台詞の中に『君』と入っているものの、視線は相変わらず店の中空を向いており、私に話しかけているというよりは独り言に限りなく近かった。
「君が人を殺したというのは大変なことだと思うよ。けれどそれ以上にどうして君がそのようなことをしたのかが私は気になっているし、そしてほとんど気に留めていない様が心配なんだ」
 彼女のような人間が身近にいるというのはとても幸せなことなのだろう。芯が強く、そして周りの人を大事に思ってくれている。瑠璃の言葉は理屈で固められたものではないがけして揺らぐことがない。だから私は彼女を信頼しているのだ。
 瑠璃が目の焦点を私に再び合わせる。
「重罪を犯した君を社会のルールに従って警察に突き出すか、それとも私もその片棒を背負ってやるかについては少し考える時間をもらおうか。意外だろうが私だって少なからず動揺してるんだよ。対して君は気が動転していないのが不気味すぎる。今のうちに殺した相手のご尊顔でも拝んでくるといい。少しくらいは何か思い出すかもしれないしね」
 彼女の言葉ももっともだと思った。ただ『社会のルールに従って警察に突き出す』ということを瑠璃がすることはないだろう。彼女には彼女なりの守るべき規範があり、社会のルールなどという誰が作ったのかも定かではないものに盲従しない。今のところはその瑠璃自身の規範からしてどのような行動をすべきか『考える時間』が必要だということであり、そして同時に私のことも案じてくれているのだ。そのことがわかったから私は素直に古びた座椅子から腰を上げた。
 瑠璃の所有している店は自宅も兼ねている。ただ都内中心部に近いため坪面積は広いとは言えない。家屋のほとんどがガラクタ同然の品々が占拠する店に割り当てられており、その奥に和室が二つと手洗いがあるだけだ。風呂などという豪勢なものは存在しない。
 ともかく和室の一つは主である瑠璃の寝室になっており、もう一つの部屋が時折彼女や他の友人と飲むときなどに使われる。今はそちらの部屋に私が運んできた女の死体が横にされているはずだ。
 きしきしと軋む古い木製の廊下をほんの少し歩き、私は目的の部屋の襖を開けた。室内を覗き込み、そうしてから瑠璃を呼んだ。
 やってきた瑠璃も部屋の中を見回し訝しげな表情を浮かべる。
「……君がやったのかい?」
 彼女の言葉に私は首を横に振る。
 部屋にあるべきはずの死体は忽然と消えていた。


   『絶体零度』1-2-1へ
by zattoukoneko | 2011-04-20 23:40 | 小説 | Comments(0)

【小説】『絶体零度』1-1-1


1-1-1

 「寒さ」というものはそもそも何だろうか?
 私たちは常日頃から寒いだの暑いだのと言っている。仮に「北海道は東京より寒いというのは真である」というような命題を立てると大抵の人は「真である」と言って頷くことだろう。しかしだ。「寒さ」というのは体感するものである。ならば気温を見ただけではどちらが寒いかなど正確には答えられない。湿度や風をその身に実際に受けなければわからないことのはずである。現代社会では東京と北海道を行き来するのはさほど大変ではなく、せいぜい数時間の差だ。現地に行けばこの「寒さ」を比較できると主張する人もいるかもしれない。だがこの数時間に東京で感じていた「寒さ」は変化してしまうかもしれないのだ。したがって『比較』によって「寒さ」というものを知ることは私たちにはできないということになる。
 ならば科学的に考察してみよう。温度が低くなれば分子の動きは鈍くなる。これにより人の肌に分子が衝突する頻度は落ち、したがって神経が温度を感知することも少なくなる。そして神経を伝わって電気信号が脳に送られ熱を認知し、認識する。このようにとても機械的で単純な説明で「寒さ」を説明しようとするのが科学という得体の知れないものだ。ではその科学をもう少しやってみよう。絶対零度の環境に人間を置いてみたと仮定しよう。絶対零度ではすべての分子は動きを停止する。このとき人の肌に衝突する分子はない。したがって神経がその存在を感知することはない。そして重要なことにその神経すら動くことはない。脳は温度だけでなくありとあらゆるものを認知・認識することができない状態にある。これで果たして「寒さ」という感情に根ざしたものを知ることができると言えるだろうか?
「つまり何かな? 君はそこに転がっている少女が今寒いと感じてはいないんじゃないかと言いたいのかな?」
 古ぼけた骨董品店の椅子に座って思案していた私に対して店主である夜柄瑠璃は面倒くさそうに問いかけてきた。ろくに掃除もせず埃の積もった商品と同じくフケを乗せてぼさぼさになった髪に、さらに咥え煙草から立ち上らせる紫煙を浴びせながら彼女はこちらを見ている。黒曜石のような瞳の色は、もしかしたら身なりを整えれば年相応の若さと他人より優れた美貌を齎すかもしれないとも思わせるのであるが、異性である私の前でも肩の半ばまではだけさせている着物の襟がそのようなことは実現するはずがないと如実に物語っていた。それに大学で知り合ってもう二十年以上の付き合いをしている私にとってそれはどうでもいいことでもあった。
「別にそういうことではないさ。ただふと気になってね。それでちょっと思案してみただけのことだよ」
「そうかい。私はてっきり何かの厭味かと思ったところだったね。何せ君が突然持ってきたアレに『寒そうだから』と毛布をかけて帰ってきてみたら、当の本人はぶつぶつと何やらご大層なことを考えておられる。しかも内容が内容だ。疑いたくなる私の気持ちもわかるってものではないかい?」
 瑠璃はキセルを指に挟み口から離すと、溜め息と共に煙を盛大に吐き出した。狭く薄暗い部屋の視界がさらに悪くなる。それでもくっきりと見える瑠璃の眉間の皺に私は肩を竦めた。
「瑠璃だって私とは長い付き合いじゃないか。ふと思いついたことを場所も時間も問わずに哲学するのはいつものことだろう」
「君のは『哲学』とは言わないよ、ただの妄想さ。実際に哲学をやっている人間が聞いたら激怒するか鼻で笑うだろうね」
 そう一通り貶すと、一転して思案する表情になった。口に愛用のキセルを戻すと、右上方を眺めやる。そのままぼんやりと喋り始めた。
「だがちょいと私もその妄想、良く言って哲学もどきをやらせてもらうことにしようかね」
 それから訥々と、まったく慣れていないことがすぐにわかる口調で話を進めた。
「君は認知やら認識がどうこうする前に、神経が外界からの影響を受けて興奮するとか言っていたね。この考えが合ってるかどうかなんてのは私にはわからないが、まあそんなことはどうでもいい。ともかくこれを前提として話を進めようじゃないか。君は突然に物思いに耽るという悪い癖を持っている。しかし先の論に従うならば物事を空想でもいいから考え始めるには何らかの刺激となる材料が必要ということになるのだろう? まあそれはそれまでに読み聞きして習得した知識だったり経験したことだったりするのだろうさ。だけどね、私が思うに人の覚えている経験なんてものはよっぽど印象深いものでないとすぐに消えちまうもんさ。殊更にだね、君のような突発妄想癖のある人間にとって使われる経験というのは本当に近々のものではないかと、そんなふうに考えるんだよ」
 なるほど彼女の考えももっともらしい気がする。何かを思索する場合には色々な引き出しからアイデアを出してはしまい、出してはしまいを繰り返すのは確かだ。だがそのそもそもの最初はどのようにして起こるのか。しかもそれが突発的な思い付きから始まるものの場合、そこにはどのようなメカニズムが働いているのだろうか。無から有が生まれるなどありえるはずがない。
 しかしながら近頃は秋もめっきりと深くなり、夜や早朝には冬の気配すらする。私の生まれ故郷であればそろそろ近所にあった防水用の溜め池に薄い氷ができる時節である。そのことを考えれば私が「寒さ」なるものに思索を巡らせて何もおかしいことはないと思える。
「本当にそうかね?」
 だが瑠璃は私をしかと見つめ問いかけてきた。
「どういう意味だい、瑠璃?」
 私の先程の考えは何か間違っていただろうか。それとも瑠璃の考えを読み間違えてしまっていただろうか?
 問い返した私に瑠璃はキセルの雁首を真っ直ぐに向ける。それを教鞭のようにしながら彼女は説教を始めた。
「飯田成明君。君は一流の大学を卒業して、今ではジャーナリストとして立派に働いている身ではないか。まあ話を聞いている限りだと仕事内容はただの雑用のようなものばかりのようだが、けれど私のように落ちぶれた人間じゃない。きちんとした思考能力と洞察力を持っていると思っているのだが、どうもそれを駆使する力にかけているようだ。ついでに言うなら判断力もないね、理由は自分でもよくよくわかっていると思うけれども」
 この人物は物事を考えるのはどうも苦手なようだが、他人に厳しく物を言う能力には長けているのは確かだ。しかもそれが正鵠を射ているものだから人が周りに寄りつかないときた。彼女の忠告をきちんと聞こうとする人物でないと長い付き合いには発展しない。
 しかしながら私はその類稀な人間ではあるわけで、それは瑠璃との付き合いの年月を数えれば自明というものだろう。ただし彼女の忠告を未だに活かせないから何度も説教を喰らい、付き合いが終わらないのだとも言えるだろうが。
「まったくもってその通りだね。君はその時々に急に考え出すことはあるが、それを持続させることや後々使うことが少なすぎる。だから大きな成功を収められないし、過ちを犯すこともある」
 瑠璃はそこで説教を中断すると、吸い口と共に話を元の場所に戻した。
「君はこれまでの人生で何回の秋や冬を過ごしてきたのかな? 寒い時期なんて幾度となく繰り返しているじゃないか。にも拘らず『寒い』ということに関して考えるのは今回が初めてとでもいうことになるのかな? それは私のでっち上げた論からすればとても奇怪なことのように思えるのだが?」
 なるほど確かに瑠璃の言うとおりだ。私はこれまで特別『寒い』ということが何なのか考えたことはなかった。単純に時期的な寒さからだけでそれを考えようと思ったということではないという証である。
 では他の何が要因だというのか?
 瑠璃がその問いに一つの可能性を提示する。
「だから話は最初に戻るのさ。君は……やっぱりアレのことを考えていたのではないのかい?」
 言いながら顔の向きを変え店の奥にある住居の方を眺めやった。ここからは壁があるために見えないが、とある一室に一人の若い女性が横になっている。
 私が殺してここに運んできたものだ。


   『絶体零度』1-1-2へ
by zattoukoneko | 2011-04-17 05:32 | 小説 | Comments(0)

小説書くよー。

ブログ更新めっさ止まっているぅぅぅうううう!!!
とまずは叫んで始めて誤魔化してみる。はい、ダメですね。ごめんなさい<(_ _)>
何気に忙しく、単発ネタもなかなか思いつかなかったので更新が滞っていました。長くなりそうなものはいくつか案があったのですが、次にやりたい企画物の開始が遅くなると自分の首をさらに締め上げそうだったので止まっていたという感じになります。
で。その次にやりたいものというのが――
   「小説書くよー」
だったりするわけです。

実はネット上での小説公開に関して私はあまり乗り気ではなかったのですが、なかなか会えない友人や先輩から「やれや、ゴラァ!」という脅しを受けまして泣く泣くやることに(涙) はい嘘です、ごめんなさいm(_ _)m
まあけれど実際に長い小説を読みたいというありがたいお言葉はいくつももらっていまして、ありがたいことに海外の方まで私の掌編を読もうと奮闘してくれたそうな(“読めた”ではないところにGoogleの翻訳機能の限界を一緒になって感じたという……)。
ただネットで書くとほとんどは横書きになってしまいますよね。それにブラウザによって表示も変わってしまうという罠があったり。結構どのように文章が見えるのか気にする人なのでかなりそこは悩むのです。またブログの性質上『文章は上から下に読んでいくのに、一つ一つの記事は下から上に積み重なっていく』というのが一番大きなトラップ!! 声を頂いている長めのものとなると一つの記事には収まりませんからね。なので気が進まないという。ちなみにHPとかはさらに管理が面倒なのでやる気はありませんことよ?!(ぇ

ただせっかく要望の声ももらっていることですし、ぶっちゃけますとネット上で小説を公開している人で何人かとても面白いものを書いている人を見つけたので対抗心を燃やしたという(ぇえ?
まあ半分くらいは本当にその通りだったりするのですが(半分?)見ているうちに色々と考えさせられまして。このブログに書ける一つの記事の文章量に限界があるというのは逆に楽しめるのではないかと。
つまり新聞などにも小説の連載などがありますが、ああいう感じになるのかなーと考えたわけです。ただし新聞の連載より遥かに一つの記事が長いですが。
現在その細切れになることを意識しながらの小説連載を企画しています。長めの小説を考えているのですが、一つの記事に書ける分量とそれの更新間隔を考え中編くらいがいいかなと思っています(原稿用紙換算で150枚程度を予定。更新間隔は週に二回程度かなぁ……)。
今はざっとした案を出して『これでいけるかなー』という段階です。ただこういう形式は初めてやる上に、どうせやるなら普段書かないような内容のものを――などと考えてしまったために苦戦しているというorz


ということで。
   言ってしまったらやるしかなくなるよね!?
と自分を追い詰めてみる記事なのでしたーw
by zattoukoneko | 2011-04-13 07:36 | 雑記 | Comments(2)


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