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チュアブル新作『Sugar+Spice2』バナーキャンペーン

チュアブルソフト様の新作のバナーキャンペーンが始まりました。
当然のことながら応援でございます!
タイトルは『Sugar+Spice2』で、以前発売された『Sugar+Spice!』の数年後のお話となっています。

さて、私は以前チュアブルソフト紹介と特集を組んでいます。
そしてこのメーカーの期待値について明確に記しておきました。
『恋文ロマンチカ』の紹介にあたって、「くしくもここが四つ目で、結に相当する」と冒頭で述べてますが、その後のまとめをしっかり読んでくださった方にはすでにわかっているはず。


    あそこで「結び」になるはずがない!!


このメーカーさんはまだ伸びますよ。次は更なるステップを踏みます。
そしてちなみにHPなどですでにこのことは確認済み。私が保証しておきましょう。
一応次に何のステップを踏むのかはある程度まで予想済みですが、いくつかの点ですでにそれを超えてきています。また私の予想は「順当に行けば次はこれになるだろう」というもので、一応ゲームの紹介ページでそれも確認していますが、それはあくまで“予想”。これとは別のものを提示してくる可能性もあります。が、それはそれで私は楽しみです。もうここまでで悪くなることはありえないということは確信していますので。

さてまだチュアブルソフトさんを追いかけるのは間に合いますよ。今からでもさくさくファンになっていくべし!

以下、リンクバナーです。
好きになったら告白しよう Sugar+Spice2好きになったら告白しよう Sugar+Spice2好きになったら告白しよう Sugar+Spice2好きになったら告白しよう Sugar+Spice2


なお、今作は『Sugar+Spice!』の数年後のお話ですが、一応新作という形らしいです。
ただ前のキャラも出てくるようですし、『Sugar+Spice!』もやっておくといいかもしれないです(というか歴代の全作品を私は見てきて欲しいですが!)。
そして実はチュアブルさんから『Sugar+Spice!』と『Sugar+Spice!Party☆Party』を合わせて、廉価版にした『Sugar+Spice! ファーストシーズンパック』というものが5月の28日に発売されます。
こちらは当時の初回限定分などに入っていた特典などはついていませんが、値段がお得ですし、そもそも両作品とも(喜ばしいことに)ロットアップとなっています。
特典のために限定版を探すのもいいと思いますし、値段や時期などを考えて『ファーストシーズンパック』の方を購入するのもいいと思います。その辺りはみなさんがどこまでチュアブルソフトというメーカーを追いかける気になるかによって決めてくれればよいかと。

チュアブルソフト様に対する私の評価はカテゴリの中から「ゲーム」をクリックすれば先頭の方に出てきます。まだ知らない方はそちらをご覧になって、とりあえず私の言葉に耳を傾けてみてはいかがでしょう?
by zattoukoneko | 2010-04-30 20:23 | ゲーム | Comments(6)

今後のこと

これからの記事のことです。
ここ最近で何度か触れてきましたが、実はここのブログにはプロットが存在しています。(これを練り始めたのは昨年の2009年10月頃から。その後試しにうまくいくか少しの記事を掲載後、本格的に動き始めました)それは何度も何度も修正されていますが、根幹はしっかりしたものなので崩れることなく今日までやってこれました。閲覧者様の数も数倍どころがいまや十倍となっています。これは純粋に嬉しいことですし、(アクセス解析はしていないのはっきりとしてませんが)どうやら常連の方もついてくれたようです。また少し前に上記のように「ここは色々なところと結びつけながら記事をつくっています」と述べたところ、その後記事をupしない日の訪問者数も激増しました。これはそれだけの数の人が私の意図を読み解こうと試み始めたということなのでしょう。この方々たちは私のよき理解者ということになるのでしょうね。ちょっと荒らし対策も含めてやや堅苦しくて長い記事にしてありますから、コメントなどは難しいと思います。ですがこのことは間接的に伝わってきていて、とても嬉しく思います。本当にありがとうございます。


さてお礼の言葉は尽きそうにないのですが、本題に移ります。
先に述べたようにここにはプロットが存在します。私が「企画書」や「計画書」ではなく、「プロット」と言っているのは、ここには山のように伏線のようなものがあるからです。単に記事の掲載順や日程を決めてあるわけではないのですね。なので「プロット」と私は呼んでいます。
で、このプロットなのですが、今大きく変えるかもしれません。
元々あったプロットであれば、この後生物・医療関係に移って、その後錬金術の話でもするつもりでした。で、実際このための下準備もしてあります。細胞の話とか(これ、インフルエンザとかガンの話のために入れてあるわけじゃあなかったのです。そう見えるのは伏線を隠すためですね)、またニュートンの話で科学史や科学論、科学哲学の話に触れたのも錬金術というものを正確に知ってもらうための準備です。これらの記事を掲載のが七月くらいまで、と考えていて、一応その後もどんどん繋がっていきます。ちょっと他の記事を入れていった都合で数ヶ月ずれそうですが。
が、これをいったん全部破棄するかもしれません。
というのは、今他の方と協力して大きな企画をやろうかと相談しています。これが可能だということになれば、そちらへシフトしようと思っています。
まだ実現可能かどうかわかりません。現在相談や問い合わせを行っているところです。また先方にご迷惑がかかってはいけませんから、何をするつもりなのかも今は明かすことができません。
ただ少しばらしておくと――
今右横にここのブログの主旨が書いてあると思います。二つありますね。ですが実はこれ以外にもここのブログの目的があります。③と④ですかね。これは秘密で、公開できません。いつの日か明かすことができたらいいなと考えています。が、それは数年先、あるいはもっと先の話だろうと思っています。なのでこれは私の「夢」なのですね。夢ですのでただの空想。それを今述べてもただの絵空事ですので、だから今は明かさないでおこうと思っています。
ですが上記の試みが可能だということになれば、この③と④の目的にかなり近づけるものとなります。これを逃す手はないと考えています。この③、④の夢は一生かかっても実現できないかもしれないほど、というかその可能性が極めて高いというほど大変なものなので。
そういうわけで閲覧者の方には申し訳ないですが、大きくプロットの変更をさせてもらうことになるかもしれません。一応これらが終わった後に戻すつもりですし、最初から③も④も含まれていたプロットであって、今回それがかなり表層に出てくるということになります。ですのでしばらくの間、今までの流れと大きく変わったと感じてついていけないと思ってしまう方もいるかと思います。ですが何卒ご容赦ください。それだけ私にとって大事で大きなものなので。


といっても現段階では可能かどうかすらわかりません。私一人の都合ではないものなので。今は相手方と相談してやれそうかどうか、またこれをやってもいいのかどうか許可を求めています。これにはしばらく時間がかかるかと思います。
ですので少しの間、いつでも終われるような話を入れていこうと思っています。ただどうでもいい話ではなく、元々プロットの中にあって、でもどこに入れるかちょっと迷っていたものとなります。他の記事と繋がりは薄いのですが、でもまったくないものにはならないと思いますし、そう心がけようと考えています。
ただ急遽入れることにしたことと、この相談がいつ終わるのかわからないので、今アイデアを出すため必死にブレイングストーミング中です。多少記事の掲載時期や内容の並びとかがおかしくなるかもしれませんが、ご容赦ください。


以上、今後の記事についてご報告でした。
一応最初の記事の内容はすでに決めてあるので、これに関しては数日後に出すと思います。とりあえずここ最近作品紹介が続いていて書くほうも読むほうも大変だったと思うので、軽ーく読めるものにしたいと考えています。
……………………考えてはいますよ?(できなかったらごめんなさい(汗) 最近の書き方に頭が大分シフトしちゃってるので無理かも?!)
by zattoukoneko | 2010-04-28 08:42 | 雑記 | Comments(0)

『とらドラ!』紹介(映像)

今日の記事は『とらドラ!』の映像の方の紹介です。前回本の方を紹介しましたので、そちらと合わせてどうぞー。


さて、『とらドラ!』のアニメ版は2008年の10月から2009年の3月の末にかけてテレビ東京にて放送されたものです。全25話ですね。
前回の小説のほうで少し言いましたが――
  映像ってずるいなー。
と、思いましたww
一番大きいのは複線やストーリーをすべて把握した状態から始められるということですよね。小説より後に始まるわけですから、それらを知っているのは当然。反して先に書いていっている小説は後から付け加えたり、修正する必要がありますから、この点に関してはどうしても負けてしまいます。
また作成者の人数も大きいですね。小説のほうは基本的に著者一人のみでやります。ここに編集担当の力や、挿絵などのイラストレーターさんの力も加わりますが(これらは確かに大きいのですが)、やっぱり大元の小説のほうが良いものでなければならないので、なので作家一人の孤独な戦いとなってきます。これに対して映像作品やゲームは大人数でやれます。監督を中心に脚本、演出、美術や音楽、そして声優などといった人々が協力し合って製作されます。特に声優さんの力が大きいのかな? 監督や演出担当の人の期待を超えたものを生み出すことがままあると聞きますし。
実際、このアニメでは様々なところで各方面の人々がその力量を見せつけてくれています。以下は特に注目されるところを見ていくことにしましょう。


まずは――そうですね、さっき「大きいのかな?」なんて言った声優さんから見ていきましょうか。
とりあえず大きな役を務めている声優さんの名前を挙げるところから始めましょうか(声優さんが好きな人もいるでしょうから)。
高須竜児:間島淳司 逢坂大河:釘宮理恵 櫛枝実乃梨:堀江由衣 北村祐作:野島裕史 川島亜美:喜多村英梨
高須泰子:大原さやか 恋ヶ窪ゆり:田中理恵 春田浩二:吉野裕行 能登久光:興津和幸 木原麻耶:野中藍 香椎奈々子:石川桃子 狩野すみれ:甲斐田裕子
そして忘れちゃいけない――インコちゃん:後藤沙諸里ww
他にも何人もいますが、一応DVDに記載されているキャラ・声優はすべて挙げているかと。
私は声優さんには特別詳しくないです。力のあると思った人は名前を覚えておくし、すぐに聞きわけられるように訓練してますけど。なので上記の方々の詳しいプロフィールまでは知らないです。それに今回はそこまではほとんど触れないので述べる必要もないでしょうね。
『とらドラ!』ではこの声優さんがとてつもなく力を発揮した作品のようです。またお互いにとても仲が良かったようです(ウェブドラマより)。このせいか、とても息のあった演技をされていますね。まったく観ていて違和感がない。下手なアニメだと「やらされてるんだろうなあ」と思うことがありますけれど。
すべての声優さんについて、その人がどのような演技をしていて、そしてそのどこがすごいと思われるのかを書いていったらきりがなくなります。ですので以下はほんの数名だけで留めます(挙げてない声優さん、ごめんなさい。説明する上で特別目立った人や紹介しやすい人を優先させてもらってますので、他の人が駄目だったという意味ではないです。特に私はこの作品で喜多村英梨さんを個人的な注目株にさせてもらってますし、ウェブドラマの司会も――『え、亜美の中の人ってこんな人!?』と思いましたからw ←いい意味でですよw?)。
トップバッターは北村祐作を演じた野島裕史さんから。
アニメのほうでは北村はやたらと高笑いを挙げるキャラとなっています。しかもよく裸になったりするのですでに変態ですw(裸のほうは原作でもそうですが) この高笑いがたくさん採用されたのは野島さんが最初にやったこの演技がスタッフにすごい受けたかららしいです。それでたくさん挿入されたのだとか。野島さん本人は――すごい大変だったと言ってましたけどw でもこのおかげで北村祐作の変態っぷり……もとい変人ぶり(あんまり変わってない)がすごく強調されました。この野島さんの貢献がなければ北村はあそこまで個性的で、アニメの中で観る人を魅了するキャラにはならなかったと思います(原作の時点ですでにいい味を出してますけどね)。
次は高須泰子役の大原さやかさんを見てみましょうか。
(少しネタバレですけど)泰子は後半に行くほどキーパーソンになってきます。これは原作者の竹宮ゆゆこ先生がとてもキャラを掘り下げてつくっていて、ただ登場人物の性格を個性的に、そして目立たせるだけではなく、そういう性格になっているという理由をきちんと考えていることに由来するものです。主人公の高須竜児や逢坂大河にとっては家族という背景がかなり彼らの生き方を決めています。竜児は泰子一人のみの手で育てられてきており、そのため竜児は泰子を中心とした世界で生きている人間です。また大河のほうも竜児と恋の共同戦線を張るようになってから竜児の家に入り浸るようになりますが、彼女は両親に(半ば)捨てられて一人で生活していて、そのため泰子が「家族」の役割を果たしてくれることになります(第24話の大河の台詞などでとてもそのことが彼女にとって大きなものだったということがわかります)。この泰子は最初のほうはほのぼのとした、ときにバカな一面を見せるキャラとして、でも最後のほうはその前半でちりばめられていた伏線を回収しながら、そして色々と爆発させる役どころとなっています。このような難しいキャラを大原さやかさんは演じているのですね。最後まで見なければ泰子の一言一言は何でもないものにしか聞こえないのですが、でも改めて振り返るととても重要なものだったことがわかります。前半泰子をひたすらぼけさせ(笑)、そしてラストで一気に鍵となる人物とにした(涙)、この大原さやかさんの声はとてもよいものだと感じました。
ああ、個人的に泰子がとても好きなので長くなってしまった(苦笑) 次はメインヒロインの大河を演じた釘宮理恵さんについて。
釘宮理恵さんは「ツンデレの女王」なんて言われるくらいにツンデレキャラを多く演じています。私もそのことはいくらか聞き及んでいたし、何作かで見かけたことがあります。ですが――正直なところしっくりくるものが少ないという印象でした。別に釘宮理恵さんの力量を非難しているわけでも疑っているわけでもないのですが、でも『配役ミスでは?』と思うものが散見されるのですよね。「ツンデレの女王」だから起用しただけなんじゃないの?、と。今回も大河はツンデレキャラということになるのですね。だからそこだけ見ると他の作品と起用の仕方が同じに思えます。でも『とらドラ!』のツンデレ大河はそこらのツンデレではないのです。きちんとした内面を持っていて、背景を背負っています。確かにツンデレなんでしょうが、でも本当に自分の心の奥をのぞかせるときは普通の子なんですよね。この内面を見事に釘宮さんは演じているのです。私はこの作品で釘宮理恵=「ツンデレの女王」という見方をやめました。この人は普通にとても演技のうまい人で、ツンデレなんてたった一つの属性に縛りつけていちゃいけないんだと思いました(実際『鋼の錬金術師』のアルフォンス=エルリックとかもすごく上手に演じていますしね)。大河はツンデレキャラですが、だから釘宮理恵さんが起用されたのではないと思います。きちんと大河という難しい役どころを演じきってくれるとスタッフが考えてそして採用したのでしょう。そしてその期待に釘宮さんは十二分に応えてくれている、と。見終わった後は『大河はこの人じゃなきゃ駄目だったんだ』と思うようになっているかと思います。
以上、声優さんについてです。もっとたくさん触れたかったですけど、他の側面も見なければならないので割愛です。他の演者さんについては観た人が個人個人で評価を与えてください(悪い評価が出ることはまずないだろうと思いますね)。


次にOPとEDについていきましょうか(他のBGMなどは文字数の都合上省略します)。
大きく分けてOPは二つ、EDは三つあります。EDが一つ多いのは一話だけ特別なものにされたからで、まあ、二つとみなしてもいいのかもしれません。
となると他のアニメと同じように前クールの13話の終わりあたりで切り換わるような気もします。確かに大体半分なのですが――きちんとストーリーのことを考えてずれています。ここはただ期日だけを考えているわけではないとすぐにわかるところ。
初代OPは『プレパレード』で第2話から第16話まで。EDは『バニラソルト』で第1話から同じく第16話までです。最初の回だけOPがないのですね。
二つ目のOPは『silky heart』で第17話から第24話。EDは『オレンジ』で(第19話だけ『ホーリーナイト』という別の歌ですが)第17話から最後の第25話まで。こちらはOPが最終話だけありません。ようは対になっているのですね。
曲や歌詞、歌い手の良さは――実際に聴いたほうが早いと思います。またアニメの主題歌なのですから、当然のように作品ともリンクしています。ですから作品を観ながら聴くのが良いでしょうね(実際、私などの当時観ていった人たちや、初めて観る人たちはそうするわけですし)。
ここからは(歌だけを取り出せないこともあって)演出の方とも絡んできた説明となります。
まず各キャラごとに色分けがされています。大河・竜児・実乃梨・北村・亜美の順に、ピンク・橙・青・鶯色・赤って感じでしょうか?(正式な呼び名がわかりませんが……) これは『プレパレード』のOPの方で各キャラの紹介やその影の色などで見ることができます。そしてちょっと先走りますが――アニメ版の『とらドラ!』はこのタイトル一文字ずつに色がついています。順に、「と」がピンク、「ら」が橙、「ド」が青、「ラ」が鶯色、「!」が赤。つまりタイトル5文字がメインキャラ5人と対応しています。これ、演出の方でもう一度触れますね。
またED2の『オレンジ』ですが、話数によって流れるタイミングや箇所がずれてます。これによってストーリーの内容を後押しするような演出効果がなされています。特に感激するのが第21話。注意して聴いていないと逃しますが(というかストーリーが急展開しますのでそっちに目が行きがちですが)、曲の一番最後が大河役の釘宮理恵さんの「好きだよ」で終わります。この意味は観てもらえればわかります。というかネタバレなので言えません(苦笑)
ちょっと私が当時観ていた感想ですけど――ちょっとEDが『オレンジ』に変わったときは正直戸惑いました。前のEDの『バニラソルト』がとても良かったし、流れる映像も綺麗でしたから。だから変わってしまったことを残念に思ったのですね? 曲はいいものなんですけど、『バニラソルト』を捨てるほど価値のあるものなのかな、と。
でもこの第21話でこんなすごい演出が仕掛けられていましたし、また話が変わっていくにしたがって『オレンジ』がすごくしっくりくるようになってます。これは先の話を見越しての歌だったのですね。見終わった後はこの曲を聴くだけで泣けてきますよw 実際ウェブドラマの方でもとても大きな反響がありましたから。
OPやEDに関してはこんな感じでしょうか。歌詞とか書いちゃうとネタバレになると思いますから、これ以上は書けないですね。頭のほうでも言いましたけど、アニメの主題歌ですから作品内容ととてもリンクしています。ですのでそれだけ取り出してくるのは困難だし、作品と一緒になって受け入れられてもらうのがいいと私は思います(というか何らかの作品の歌や曲なのですからそうあるべきだと思います。残念ながらただアニメにくっついている曲って山のようにありますけどね)。


これでラストにしたいです。演出について。
まずとても注目すべきことは「5」という数字。タイトルも5文字ですが、メインキャラも5文字です。このためこの5という数字(あるいはヒロインの3など)が各所に見受けられます。これをいくつか見つけていきましょうか。
一番見つけやすいのはタイトルですが、これCMに入るときのアイキャッチに描かれます。しかもその話ごとによって、一文字離れていたり、丸く円を描いていたり。これ全部がどこまで意識されて作られているのかわかりませんが、作品内容とリンクしているのだと思います。ただ残念ながら私には全部の意味を説明できるだけの力がないです(頑張って全部読み解こうと試みたのですが)。しかも一応タイトルですから、あまりにも文字がバラバラになるわけにもいかないのですね? きちんと『とらドラ!』と読めるように文字が配置されてないといけないわけです。この縛りがあるために、この内容だともっとこの文字は別の場所が良いのでは?、というのが困難になってます。そのため読み解く場合には、タイトルとして読み取れるように配置されている、という前提をしっかり頭に入れておかないといけないわけです。でも観る人にとっても(当然作る人にとっても)これはかなりの縛りなので、全部読み解くのは難しいんじゃないかと思います。(やる気にあふれた方は試しに挑戦してみてください。私はまだチャレンジ続けてます)
それととても印象深いのは第18話などに出てくるクリスマスツリーの星のオーナメント。これきちんと五芳星になってます。ただ単純に星だから5つの角を持たせたわけではないです。これがよくわかるのが(ごめんなさい、ネタバレします)、このオーナメントが一度壊れた後。バラバラに砕けたこの星を、実乃梨と竜児が一緒に直そうとしますが、途中竜児が掲げたときには一つだけ角がないです。つまり――それぞれの角をメインの5人が担っているとするならば、一人だけ欠けているという意味になります。誰が欠けているのかについては……さすがにこれ以上は内緒ということで(笑) ちなみに竜児はこの修復途中の星をかざしながら「大丈夫、直るんだ。何度でも」と言ってます。ここからも星が5人の関係を暗喩していることがわかります。(ちなみに……「何度でも」と言ってるのですよね? ようはこの一時的な乖離だけでおしまいというわけじゃないということです。この後誰がバラバラになっていくかについては、各自で確認していってください)
さてED2の『オレンジ』での演出ですが……最初にキッチンの上にオレンジが3つ並んでいます。そしてこの中から竜児が一つだけ手に取ります。これ、もう意味わかりますよね? 配置などからある程度まで竜児の選択がわかるかと思います。
ああ、「5」の説明だけで山のような文字数にww とかくこのような比喩が随所に散りばめられています。演出の奥深さに関しては近年のTVアニメではピカイチ。群を抜いています。(あ、ちなみに――私は演出に関して「美術系」と「哲学系」と分けてます。前者はただ単に見た目だけ重視したもの。後者はストーリーの内容などと深く絡んだもの。『とらドラ!』は後者の「哲学系」に分類されるかと思われます。エヴァとかの庵野秀明作品は……「哲学系」に大きく偏りつつも「美術系」も山のように取り入れた化け物です(苦笑))
他にも演出面は山のようにありますが、すでに相当文字数を食ってしまったので後一つだけ。キャラの動きについて。
アニメ版の『とらドラ!』では当然ながらキャラクターが動きます。これは文字(およびイラスト)だけの小説と大きく異なっている、そして最大の長所でもあります。ですが多くのアニメでは“ただ動いてる”だけたったりします。私としては……「いや、そのくらい当たり前だろ?」と言いたい。でも『とらドラ!』ではこの動きを駆使しようと努力しています。小説は動けない分、地の分でキャラの心情などを深く書き込めます。でもアニメや漫画ではそれができないのですね? それをいかに解消しようと試みているのが『とらドラ!』のアニメ版です。書くキャラはとても細かく表情や体を動かしています。一瞬の力の入れ方、あるいは抜け方、それらすべてに意味があります。それはその時々の心情ではありますが――それが後々のストーリーにも深くかかわってくるのが『とらドラ!』。あるときのキャラクターの表情や動作の意味が10話先でようやくわかるなんてことが多々あります。これは原作の伏線の張り方がすごいのと、そしてそれをアニメの方でより強固に、効果的に描いたものと考えられるかと。つまり……気を抜いて観てると表面上の話しかわからないよって忠告ですw(あ、宮崎駿のときもついさっきもエヴァを出してしまったからここでも一応触れておくと。あっちはむしろ「止まる」のですよね? アニメの常識からは外れた演出ですね。利点であるべきはずの画の動きを捨てちゃうわけですから。でもそれを捨てたことで得られるものをあの化け物監督は見抜いているということです。『とらドラ!』の方ではあまりそういう「止まる」シーンはないですが、こちらはキャラの心がやたらと動くからですね。止まってる暇なんてなかったんだと思います)
ちなみにキャラの動きに関して最後に一言。
ラストの大河の表情……犯罪的にかわいい(笑) 何なんですか、あれ。もう惚れるしかないじゃないですかw


さてアニメ版『とらドラ!』の紹介はこんなところでしょうか。
でももう少しだけ言っておくと、前回の本の方の紹介記事や演出のところでも触れましたが、『とらドラ!』はすごく入り組んだ構造をしているのですね。そのため彼ら・彼女らの仕草や台詞のすべてが伏線だと思って観ちゃっていいくらいです。そのくらい作りこまれていて、キャラの心情を大事に、そしてそれで物語が動いていく作品だということ。これから観る人、あるいはもう観たけどまた観たいと思っている人、そうした人たちは気を抜かないでご覧ください(まあ、ストーリーに泣けてそれどころじゃないよって話もありますが)。


以下総括です。
二回に分けて『とらドラ!』の紹介をしてきました。本と映像ですね。
この二つを見たとき、疑問として浮かぶのが「本と映像のどちらが物語を伝える手段として優れたものか?」ということです。特に(どちらかの方面で)クリエイターになろうと志している方は絶対に考えなければならないことだと思います(残念ながら現在はそんなこと欠片も考えず、ただ好きだから・手ごろだからという理由でどちらかを目指す人が溢れかえってますが。でもそう人たちは後発の人々で駆逐してやればいいだけです。少なくとも私はそのつもりでいます。そんな人たちに席をいつまでも譲っておいてやる気はない、と。また作り手にならなくとも読む人・見る人もそういうのを見抜いてあげるといいと思います。でないと世の中どんどん下手な作り手ばかりになって、そして衰退しますから)。
これに問いに関して私は――小説のほうをとりました。だから小説を書いてる。これは『とらドラ!』を読んだり観たりする前からずっとそうでした。そもそも小説を初めて書くにあたって、『どうして自分は漫画でもアニメでも、実写映画でもなく、小説を書こうとしているのだろう?』と自問自答しましたから。
でも中にはアニメの方を目指す方もいるでしょうね。同じように自問自答をした上で。
つまり――それぞれの利点がある、が私の考えです。
小説には小説でしかできないことがあって、それを極めるのが良いと思います。またアニメには音楽や声、そしてキャラの動きなどいくらでも使える長所があります。これらをうまく使ってみせればいいわけです。(ちなみに第8回の電撃掌編王で賞をもらった作品は私なりにそれに挑戦したものです。今も色々と挑戦中です。難しいですけどね)
ただそれぞれに利点があって、そしてそれの効果は違うわけです。小説『とらドラ!』はキャラの心を深く描くことでその利点を使ったものだといえるでしょう。また私自身も自分の作品のテーマが「人の心の葛藤や、知らず知らずに抱えている矛盾との決着」だったりするので、だから小説を選びました(ここまではっきり自覚できるまでに三年かかりましたけどね(苦笑))。私はアニメの方を選ばなかったから、そこで何ができるかわかりません(と言いつつも実は色々と考えているのですけどねw まあ、ずっと昔から考えているのでいくつかはすでにやられちゃいましたが)。特に伝えたいテーマとして、アニメでしかできないものとなると私にはちょっと思いつかないですかね。これに関しては――じゃあ、私からアニメクリエイター、およびその卵への課題ということでw まだまだ「アニメじゃなきゃいけなかった」という作品は少ないです。もうアニメーションというのができてからずいぶん経ちますし、エジソンの映画の発明からは100年超えているというのに。だからここに自分の名前を刻んでください。そういう作品を私は観てみたいと心から思ってます。

次は『とらドラ!』DVDのAmazonへのリンクです。
とらドラ! Scene1(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene2(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene3(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene4 (初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene5(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene6(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene7(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene8 (初回限定版) [DVD]

以上、『とらドラ!』の紹介と、そこから見えてくる色々についてでした!
by zattoukoneko | 2010-04-27 07:13 | 映像 | Comments(1)

『とらドラ!』紹介(本)

今回は電撃文庫から刊行されている『とらドラ!』の紹介です。本の終了とアニメの終了が重なっていたこともあって、同時に説明しようと考えていたのですが、それではこの作品の凄さが見えてこないと気付いて二つに分割することにしました。映像の『とらドラ!』については後日紹介します。もしかしたら(私と同じく)同時に並行しながら二つを見ていくと楽しいかもしれないので、購入する気になった方は次の記事をupするまでの数日だけ待ってみてください。どっちも面白いので。


さてまずは基本情報。
作者は竹宮ゆゆこ。単行本や電撃文庫MAGAZINEの方でよく「美味しいものを食べて文章する作家」と言われていて、実際作品中によくご飯の話が出てきます(そしてあとがきでも出てきます。本当に好きなんですね、タラコスパ……)。
第一巻が刊行されたのが2006年の4月10日かな?(初版発行は三月の末になってますが、電撃文庫は毎月10日発売ですので) そして最終巻である10巻目は2009年の3月10日に発売されています(アニメの方はこの月の終わりで完結)。
で、本編はこの10冊なのですが、これの他に『とらドラ・スピンオフ!』というのが出ています。こっちは短編集で、本編とはあまり関係ない話(でも読んでおくとより深くわかる話)が収録されています。アニメ放送時は2巻だけしか出ていなくて、これは『電撃hp』および『電撃文庫MAGAZINE』の方で掲載されたものが収録されています。ですが『とらドラ!』は他のグッズとか、特集号とかにも短い話を載せていて、こっちはもう手に入れることはほぼ不可能です(ネットとかで数万円でオークションにかけられてたりして、それでも手に入るだけマシというレベルでした)。ですがこの間の4月10日に『スピンオフ3!』が発売されて、ここに(多分)全部収録されたのだと思います。後から追いかけ始めた私としては嬉しい限り(感涙) そしてそれまで無理して払ったお金はどこへ(嘆涙)
と、このように全部で13巻出ていますね。アニメの方はスピンオフの3巻目には基本的にノータッチです。


さて具体的な内容に入るのですが、その前に――
恋愛小説ってそもそもどういう構造をしているかみなさんはご存知でしょうか?
これを知っておいた上で『とらドラ!』および竹宮ゆゆこという人物を知ったほうが、この人の格の違いがわかるはずです。

これ(名前忘れちゃいましたが)恋愛小説の大御所のお言葉です。
「恋愛小説なんて男と女が出会って、最後にくっつくか別れるかすればいいだけ。途中は適当に読者をひきつけておけばいいんだよ」
だそうです。
これ聞いたときは愕然としてしまいました。そんな適当なものなのかと。
ちょっと私自身信じられなくて、何冊も恋愛小説を実際に読んでみました。すると――これ、本当なのですね。特に純文学の方や軽いエンターテインメントで終わってる作品に顕著です。もちろん中には素晴らしい書き手もいました。でも文章の綺麗さだけで魅せていたり、あとは性描写を適当に入れておくだけっていうのがたくさんあります。試しに小説をプロットに直せる方はやってみてほしいのですが、余分なとこばっかりになります。中身スカスカ。特に性描写はひどくて、物語ともキャラとも無関係なものが乱立しています。もう、これほとんどレイプしているようなもんです。
まあ、こんなわけで私は数年恋愛小説を読んだだけで、(お気に入りの作家は時々チェックしてましたが)もう読む気をなくしてしまったという次第です。
これを修正してくれたのが『とらドラ!』です。本気で書けば恋愛小説もすごく立派なものになるのだと思い知らされました。
以下、どのようにすごいのか見ていこうと思います。

まず主人公について紹介しておきます。
一人は高須竜児(たかすりゅうじ)で高校の二年生ですね。目つきがやたらと怖くヤンキー面。そしてそのため周りから超怖がられてる。でも本当はとても優しい人物で、家事から炊事から全部完璧。特に掃除が大好きで、汚いところを見つけると鼻息が荒くなる変態ですw
対してもう一人の主人公は逢坂大河(あいさかたいが)で同じ二年生。すっごく小柄ででも超美人。そして――キレるとマジで怖いww そのため「手乗りタイガー」なんて二つ名まで持っていたりします(名前が「たいが」なので)。でも好きな人の前では声すら出せなくなる、ようはツンデレキャラです(ただし最初はこう思って読んでくれていいと思います。竹宮ゆゆこのキャラクター造形はそんな甘いものじゃなかったと後で思い知って愕然と、そして感動すると思いますから)。
で、この高須「竜」児と逢坂「大河」がメインの二人ですので、「とらドラ」とタイトルがつけられています。
で、普通の恋愛小説だったらこの性格が対になっている二人が衝撃的な出会いをして、そしてすぐにお互いを意識するという展開になることでしょう。
確かに出会い(直接会話をするきっかけのとこですが)は衝撃的です。大河が木刀持って竜児の家に襲撃に来ますから(笑)
でも普通と違うのは、この二人、お互いのことが好きなわけじゃないんです。竜児の方は櫛枝実乃梨(くしえだみのり)という大河の親友を、そして大河は北村祐作(きたむらゆうさく)という竜児の親友のことが好きなのです。つまりお互いは別に恋愛感情を持っていません。
この二人が並んで物語を進めるのは、二人で協力して互いの恋を成就させようという、すなわち協同戦線を張ることによります。
もうこのアイデアだけで面白いですよね? 恋愛小説なのにメインの二人がお互いのことを好きじゃないんですから。自分たちの叶えたい恋は別の人物に向けられているものになっています。
この二人の恋愛が成就するかどうかは――さすがにネタバレですから言わないでおきましょうか。ただ一言だけ記しておくとすれば……とても感動的なラストを迎えますよ(アニメの方とか最後の方に来るとOP観るだけで泣いてしまうくらいにw)。


では物語のラストや核心に触れることはできないのですが、でもどこがすごいのか見ていくことにしましょう。

まずキャラクターのつくりこみです。最初の方はなかなかわかりませんが、竜児も大河も、そして実乃梨や祐作。あと途中から加わってくる川嶋亜美とかそれぞれ個性的なだけではなく、きちんと何故そういう性格なのかというところまでつくりこまれています。家族のこととか自分の心の変化とか、あるいは夢や希望など。みんな違う。そうした彼ら彼女らが密接に関係していきながら物語が展開していきます。
また先のキャラの簡単な紹介で説明しましたが、普通に考えてこんな人間いませんw でもその心の内とかはきちんと練りこまれているため、彼らの動きは自然なものに見えます。これってすごいことで、一言でいえば竹宮ゆゆこという作家は「普通じゃないことを普通に書ける」作家ということになります。(ちなみに文章も普通じゃないですw 担任の恋ヶ窪ゆりのことはずっと「三十路」とか「独身」って書いてて、名前出てこないですからねぇ。あ、あとご飯ネタですぎw)

そしてもう一つすごいのは伏線の入り乱れよう。これ全部プロットに書きなおすの、私にはほぼ不可能です(一応のものはできますが、それでも相当な量になりますね。因果関係とか矢印で繋げていったら最終的に何が書いてあるのか見えなくなりそうです。本編の10巻全部でやろうとしたら――部屋いっぱいの紙に書いていっても足りなくなるかもしれませんね)。
しかもキャラクターのつくりこみがすごいので、表面上見えてくるプロットには彼ら彼女らの心情がガンガン入ってきます。また一言一言の台詞や描写もすごく後になって使われていたりして、全部把握するのはなかなかに大変です。もちろん読み進めていって大抵のものはわかるのですが、かなり細かいものもありますね。
ああ、もちろん起承転結とかしっかりしていて、かつそこに各キャラの起承転結(竜児・大河・実乃梨・祐作はもちろんこと、竜児の母親の泰子とかも含まれてます)が入り乱れています。当然ストーリーの表面だけ見れば一本道です。が、その中で各キャラが成長していって、そしてみんなで納得できる結論を導いていってます(だからめちゃくちゃ感動的なのですね。みんな最後には救われますから)。

ただ物語の構成や伏線に関しては回収できていないものもあります。あまりにも多すぎましたし、またアニメ制作が最終巻と同時進行しましたので、そこは別々のラストを選ぼうかとか、色々な相談もあったと思います。なのでアニメの方に譲った伏線などもありますね。また物語を長く書き続けていれば後から思いつくものや、特に「これが伏線に使える!」と辻褄合わせのように気付くものもあります。それに読者からの要望や、編集者との打ち合わせもありますしね(実際、第6巻は書き終わってから担当の方から全部書き直すように言われたらしいですよ? でもそのおかげか、この巻の話の人気は半端なく高いですね。アニメの方でもここを扱ったところはすごい反響が来てました――これ、当時にネット上でラジオが流されていて、そこで見ていた人たちの声から知ることができます。DJCDというのが出てるので、相当カットされてますけどそこで確認できたと思います)。

というわけで伏線の回収などに関してはやや不満が残るかもしれません。特にアニメの方は後から製作しているわけですから、好きなとこをピックアップできるので、そっちの方が回収率は高くなってます。だからそっちと比べてしまうと劣ってしまうかもしれません。
ですがこれは「小説は映像に勝てない」ということを意味してないと思います。(これは私自身が最初に小説を書くかどうするか悩んだことなのですが)アニメや漫画ってどうやったってキャラクターの心情とかの表現に限度があります。もちろん演出などで工夫はされています。けれど地の文がある小説の方が圧倒的に踏み込めるのですよね(私はこう思ったから物語は小説で書こうと決めたのですけど)。実際アニメの方だけ見てるといくつか細かいところがわからないところがあります。「その台詞が出てくる背景・心理って何?」とかですね。
というわけで、アニメの方をこれから観ようと思う方(あるいはもう観たけど本は読んでいないという方)は小説の方も読んでみることをお勧めします。
(あ、ちなみに逆に「アニメは小説より劣っている」とも言いませんよ? 映像作品には映像作品の利点があります。これに関しては次回触れるということで)

以下、『とらドラ!』の小説に関してAmazonへのリンクです。あえて本編とスピンオフは分けてません。発刊された順序です。アニメと同時並行で読み進めていくとしても、スピンオフの方も読んでおくとより裏側がわかると思いますので。
とらドラ!1
とらドラ〈2!〉 (電撃文庫)
とらドラ〈3!〉 (電撃文庫)
とらドラ! 4 (電撃文庫 た 20-6)
とらドラ・スピンオフ!―幸福の桜色トルネード (電撃文庫)
とらドラ! (5) (電撃文庫 た 20-8)
とらドラ! (6) (電撃文庫 た 20-9)
とらドラ!〈7〉 (電撃文庫)
とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)
とらドラ!〈9〉 (電撃文庫)
とらドラ・スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋 (電撃文庫)
とらドラ10! (10) (電撃文庫)
とらドラ・スピンオフ! 3 (電撃文庫 た 20-15)


あ、ついでに。
竹宮ゆゆこが『とらドラ!』の執筆を始めた頃に、担当の方から「何冊で終わりますか?」と訊かれたそうです。そのときに「10巻ですね」と答えてるみたいです。どこまでこのときに確信をもって返答したかはわかりかねますが、でも実際に10巻で終わってるんですからねえ。この時点でかなり練りこまれてたんじゃないかと私は想像してます。
by zattoukoneko | 2010-04-24 07:23 | | Comments(2)

ジブリ・宮崎駿で追加(大塚英志批評)

この三回ほどで宮崎駿監督作品の紹介をしてきた。そしてその中で私は「宮崎駿ごとき」と何度も口にした。この「宮崎駿ごとき」という主張は私だけがしていることではなく、実は大塚英志という人物もしている。彼は宮崎駿や村上春樹といった作家に対し「物語の構成しか守れず(あるいはそれすらままならず)、なのに世界的に評価をされてしまっていることに危機感を覚える」としている。私は彼の主張のかなりの部分に共感を覚える。
だが、彼はまだまだ甘い。彼の本当になすべきことはもっと別のところにあるだろうと私は主張したい。今回は彼に対して批評を加えることとしたい。
(なお、今回は“本当の”批評を行う。そのため普段のブログ用や小説用とは違った文体を用いる。いわば論文用・書評用のものだ。これは大学卒業レベルの人間が読んだり書いたりするものとなる。だから普段より堅苦しいものとなるがご容赦願いたい)



大塚英志は1958年の生まれで筑波大学第一学群人文学類を卒業。専攻は日本民俗学だった。
研究者として大学院入りを目指すも教官から「君の発想はジャーナリスティックすぎる」と言われて断念。その後漫画の編集として働き、後に自らも漫画の原作者(『多重人格探偵サイコ』など)や小説家として活動を行うようになる。そして評論家としても自分の主張を発表するようになった。
大学時代に研究した日本民俗学というのが彼の大きなバックボーンである。このときに彼は物語の構造論を研究し、そしてそれらを自らの物語作成に活かした(これは『物語の体操――みるみる小説が書ける6つのレッスン』などでわかる)。そして評論を書く際にもこの物語構造に大きく依拠して論を進めていく人物である。

まず大塚英志は宮崎駿らの作品から物語の骨格を抜き出す。これは私もやったことだ。宮崎駿の作品の多くは「初潮」をテーマにしており、それを扱った物語構成というのは古くから、そして世界中にある。だから宮崎駿のやっていることは真新しいものではない。
大塚英志はこのような物語が世界的に高い評価を受けることに危機感を覚えている。人々は現実世界でもこの物語の構造に則ったかのように行動し、だから9・11以降のアメリカ人や世界のテロへの報復なんてものが始まってしまうのだと主張している。
彼の議論は甘いが(アメリカ人のアイデンティティ・アメリカ化やフロンティア理論などは考察していないから)、しかし一つの説得力のある主張だと思う。この点に関して私は大塚英志に賛成である。また物語をつくる者はそうした現実に目を向けなければいけないということにも賛同する。
それに大塚英志が物語の基本構造に注目し、それを作家志望の人たちに基礎として説くのはよいことだと考える。またそこから各作品を分析し、自分の主張を展開することもいいだろう(今ではほとんどこれはやられなくなったが、数十年前には盛んに行われていた研究である)。
しかし、彼はその「基礎」の物語構成しか見ていない。そこに彼の論の問題点がある。

私が宮崎駿の作品を取り上げる際に、多くはその「基本」の構造を見て、確認をしていった。このやり方は大塚英志と酷似している。だが一方で私は細かな描写の意味についても触れていった。この点が私と大塚英志の大きな違いであると私は主張することにしたい。
確かに宮崎駿の作品は物語の構成だけ見れば至極単純なものだ。これは私の記事を見てくれればわかったことだと思う。だから私も大塚英志も「宮崎駿ごとき」と言っている。
だが私は彼の作品の音楽や映像、また細かな演出にも目を向けた。その根幹に「初潮」などの物語構成があるのも事実だが、それを消化し、独自のものとして表現しようとするのは彼独自のものである。そのことは誰も真似できないし、だからこそ宮崎駿は高い評価を受ける。私は(まだそれらもまだまだだと思ってはいるものの)その点はきちんと認めるべき点であり、そしてストーリーテラーを志すものはそこから多くのものを学べると感じている。あるいは見る人もそこから色々なものを読み取ることができるだろう。それだけの価値が宮崎駿の作品にはある。
けれど大塚英志はそれらをほとんど無視している(一度作家の独自性に「文体なども重要だ」という発言をしているくらいだろうか)。彼は本当に単純な骨しか見ていない。だから彼にとって宮崎駿は「ただの物語論を模倣することしかできない人間」としか写らないのである。
したがって大塚英志は宮崎駿の持つ素晴らしさの多くを見落としている。たとえば観客はトトロをかわいいと思う。ではそれは何故なのだろうか? そこには絵の力もあるし、物語の進め方や演出の効果もある。そういうところには大塚英志は一切目を向けない。だから彼の論の中ではトトロなどのキャラクターの細かな動きや登場シーンの意味などについて触れているところがないのである。

また大塚英志は「宮崎駿ごとき」「村上春樹ごとき」としている。こんな物語ばかりが世に受け入れられていては駄目なのだと主張する。
私もその主張にはうなずくこととしたい。なぜなら(世に彼らほど高い評価は受けていないが)もっと上のストーリーテラーが存在するからである。
大塚英志自身が言っていることだ。彼らの使っているのはただの物語の「基礎」的な構造論だと。つまりそれは守られて当然のことであり、その上で作家は新しいものを生み出そうとしたり、あるいは捨てようと試みる。そして実際にこれらをやろうとしている作家や作家志望者はたくさんいるのである。
宮崎駿だってそうだ。彼は(その歩みは遅々としたものではあるが)基本的な物語構成をしっかりと守られるようになっていくと同時に、それだけでなく彼なりの解釈をしようと挑戦している。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』などでは「呪い」にかかるのが主人公とそれと対になるもう一人の主人公と二人に増やされているし、『ハウルの動こく城』の方では何度も呪いが解けかかったりと、思春期・青春期の揺れる心情を表現した。
またここのブログ内ではすでに福永令三、神坂一、上遠野浩平、FFX、チュアブルソフトといったものを紹介している。また次回以降は竹宮ゆゆこを取り上げるし、今後乙一や京極夏彦といった人物も扱おうかと考えている(また『トトロ』の記事で少しだけ庵野秀明にも触れた。彼については今のところあらためて記事にする予定はない)。彼らは物語の基本を守り、その上で独自のテーマを出したり演出を施そうと試みている。あるいは上遠野浩平などは『ブギーポップは笑わない』で従来の小説の書き方を壊してみようと試みた。つまりこうした人物は(大塚英志の言うところの)物語構成しか守れない「宮崎駿ごとき」より上のストーリーテラーなのである。
けれど大塚英志はこうした人物たちを取り上げることをしない。宮崎駿や村上春樹などで留まっている。そこには彼らが実力よりも高すぎる評価を社会から得ているのだということを強調する意図もあるのだろう。けれどすでに世の中にはすでにその上の作家がいて、またそういう人たちに追いつこう、追い越そうとしている若手や卵たちもいるのだ。
大塚英志は「宮崎駿ごとき」で満足していては世の中が駄目になるのだと警鐘を鳴らす。そして現実の世界・社会のためにもっと良いものを書かなければならないとしている。
それなのに宮崎駿より上の人たちを紹介しようとはしない。ようは彼は「宮崎駿ごとき」の下手な書き手しか相手にしていないのだ。その上の人について論じてみたり、批評を加えることはしていない。またよいものだと紹介もしていない。
彼の本意は(私が推測するに)書き手には宮崎駿を超えて欲しいということだろう。あるいは見る側・読む側には「宮崎駿ごとき」という認識を持ってもらいたいと思っているのだろう。その上をぜひ目指そうではないか、というのが彼の願いなのだと私は思っている。彼の著作をいくつも見てきてそう感じた。
しかし現状として彼は物語の構成しか抜き出すことができずにいる。上のレベルの人たちを紹介できずにいる。人々に上のレベルに行ってもらいたいと思うのならば、その上のものというのを提示してみせるのが筋ではないだろうか(それは自分で書くのでもよいし、紹介するのでもよいわけだ)。
なお庵野秀明もトップクラスのストーリーテラーでありながら、しかし旧劇場版の公開時のコメントで「こんなものに熱を上げていないで、他の作品を見てくれ」と述べている。彼は自分より上の作家が世の中にはいると主張したのだ。そして自分のことをその程度と評価している。私は庵野秀明は「化け物」だと思っている。上遠野浩平なども電撃文庫MAGAZINEなどで「またこいつと戦わなきゃならないのか」と高い評価を下し、その上で勝負していくと述べている。でも庵野秀明自身が「自分はこんなものだ」と言うのだから、私も彼のことをそのように思うように努めている。彼の上の作家が世の中にはたくさんいて、そして後続の私たちは彼を抜き去ってみせねばならない(それがこの十年で達成されなかったから庵野秀明は新劇場版を作り出した。彼はもう一度「自分はこの程度のものしかつくれない」と言いたいのだろう。そしてもっと上に行ってくれよと再主張したいのだと思う。だから私はここのブログで彼のことを紹介しようとは考えていないのである)。
大塚英志は上のレベルの人たちは見れていない。この点で私のブログ記事にすら負けている。もちろん文字数の都合やブログというものは軽いものと私は考えているから、大塚英志のほうがたくさんのことを論じて主張できてはいるのだが、それだけだ。
だからこう言わせてもらおう。「大塚英志ごとき」と。

大塚英志の「宮崎駿ごとき」を主張するのには賛成する。作り手も受け手もそのことを知らなければならない。
だがそれは第1ステップに過ぎない。いわば最初のブレイクスルーなのだ。その先のブレイクスルーを経験している人たちはいるし、そしてその高みに私たちは目を向けねばならない。「宮崎駿ごとき」という認識を持つということは、最初のブレイクスルーを起こし、そしてそれより上の人々を見るためのものだ。
だから大塚英志に言わせてもらう。あなたはまだその第一歩しか踏めていない。私たちはあなたの上を行かせてもらう。所詮踏み台にしか過ぎないのだと。
だから、「大塚英志ごとき」なのだ。



最後に。
私は大塚英志のことを「大塚英志ごとき」と主張した。この理由はこれまでの論を読んでくれてきた方には十分伝わったことと思う。
だが「宮崎駿ごとき」と同じで、それを踏み台にしなければ最初の一歩も出せないことも事実である。
だからまずは大塚英志の著作を数冊手にとってみるのもいいだろう。だが(また言うことになるが)それは踏み台なのであるから、さっさと私たちは先に進もうではないか。彼などどんどん捨ててしまってよい。
もちろん宮崎駿と同じように、彼なりの考えや主張、工夫はある。そこをじっくり学ぶことも大事ではあると思っている。
by zattoukoneko | 2010-04-21 05:32 | 映像 | Comments(4)

宮崎駿関係の記事で急遽追加

宮崎駿は人気ですね(苦笑)

このブログの閲覧者様には、一連の宮崎駿関係の記事を掲載してどのくらいの訪問者数が来ているか見えないと思います。
まあ、とんでもない数ですw
彼が人気があって、みなさんが興味を持つのはわかります。また私も彼の作品は面白いと思ってます。だから閲覧者数がやたらと多いのはわかります。

ですが――
この宮崎駿関連の記事だけ見て、そして「ああ、そういうものだったのか」としか思ってくれないのでは困ります。と同時に私がどういう意図でこれを書いているのかきちんと読み取ってもらいたいと考えています。
そのため急遽一つ記事を挿入することにしました。

一個下の記事に書いたコメント欄にあることの繰り返しですが、
本来なら「全部の記事を見てこい」と言いたいです。
私はここはブログという、いわば軽い発言の場と考えています。また一度に投稿できる文字数に限りがあります。そのため私が宮崎駿に関してなんの資料をつかってこれらを書いているのか明示していません。これは「ニュートンの万有引力は科学じゃない?」(カテゴリ:物理)のコメント欄で書きました。
ですが人物や何かを紹介する場合、そこには当然責任が発生します。書く際のマナーというものがあります。これに関しては「チュアブル2nd『あまなつ』紹介」(カテゴリ:ゲーム)のコメント欄できちんと述べています。具体的には、まずその人はどういう人物か紹介しなければなりません。またその人の背負っている背景を述べなければなりません。こうしなければその人物がどういう立場の人かわからないためです。そしてマナーとしてその人の良いところを述べます。これが全体の三分の二程度を占めなければならないと一般的に言われています。そして最後にそこから出てくる課題・問題点などを述べます。これは悪口ではなく、その人のつくったものを踏襲して次に何をすることができるのかという研究テーマを出すということです。だから極めて論理的にやらなければなりません。
私がここまで書いてきた記事で、ある程度私がそれを守っているのが見えると思います。ただ、ここは「ブログ」であるために、わざとそれらの順番を崩したり、省略しています。簡単に言うとエンターテインメントの一つとして提供させてもらってます。
ですが私はきちんと、可能な限り宮崎駿という人物について調査をしています。彼の生い立ち、生きてきた時代背景、思想、そして各作品のつくられた時代・社会背景、さらにはスタッフとの関係も可能な限り調べてあります。ただここまで書いていくと本が数冊かけてしまうほどの量ですから、ここでは割愛しています。けれどそれらをきちんと見ているのだと思ってください。またよく読めば所々でほのめかしているはずです。
なお人物を紹介するにあたり、その背景などを知ったうえで書かなければならないのは、歴史学における「常識」です。現代の私たちの視点から評価するとそれは当時とは違った見方となります。今「宮崎駿は社会的に認められている」という“偏見”を私たちは持っています。ですが、この視点のまま過去のものを見ると、そこにはフィルターがかかっていることになります。このフィルターを全部取り除くことは不可能です(科学哲学において反射性と呼ばれる概念です)。ですがそれでも可能な限りその当時に自分を置いて見なければなりません。私たちが今持っている視点のまま昔のものを評価すると「ホイッグ主義」となります。これは残ったもの、評価の高くなったものこそが正義であるという考え方です。科学者などが科学史を書くとこういうことをやりがちですが、歴史学を学んだことのある人間にとっては一番忌み嫌われる行為です。私は当然ながらホイッグ主義者ではありません。ですからきちんと宮崎駿という人物の背景を調べて、そして紹介しています。
宮崎駿が生きてきた時代背景、もしくはその前にあった歴史、そしてその後の社会への貢献度。これらすべてを踏まえて私は宮崎駿という人物を評価しています。
この評価に関しては明日あらためて一つの記事として掲載します。ただし今度は宮崎駿本人を取り上げるわけではないのですけれど。
ただ少しだけ紹介しておきましょう。そこに含まれない内容もありますから。(ただしその前に私の立場も見てきてください。これは閲覧者の方にも反射性を適用させてもらってます。つまり私の言おうとしていることを知るためには私の背景を知らなければならないということです。ただし全部見てくるのは大変でしょう。ですから次の二つだけ見ておいてください。「閲覧者数増加御礼?」(カテゴリ:雑記)、および「成績の伸び方・ブレイクスルーとは」です。まずこのくらいの私の背景や記事内容は理解しているものとして以下を続けます)
まず日本に漫画・アニメというものを定着させたのは手塚治です。ですが彼はほとんどオリジナルのものをつくれませんでした。手塚治は主にディズニーの映像作品などを盗作し、その技術を日本に持ち込みました。ですが彼はただ盗むだけではなくいくつかの貢献をしました。ひとつは自分の作品に(盗作ながらも)自分の体験に基づく主張を入れようと試みたこと。このためいまだに手塚治は「漫画の神」と称えられています。二つ目にアニメの製作の体制をつくったこと。当時は撮影技術などで日本はディズニーに到底及びませんでした。また社会もアニメというものを軽視していました。そのため機材も人材も集められませんでした。そこで手塚治は一秒間のコマ数を減らしたり、製作のスケジュールを過密なものにしました。当然スタッフへの支給も極めて低くされました。これは現在では悪い影響を残したとも言われています。アニメや漫画、ゲームの製作スタッフが締め切りなどに追われているのはここから派生したものだからです。けれどこの考えはホイッグ主義です。当時の社会背景から考えれば手塚治の対応は適当なものであり、そして実際に世に受け入れられたとよい評価を与えるべきでしょう。
この後に宮崎駿という人物が出てくるわけです。彼はアニメは大人でも楽しめるのだと社会に認知させたことに業績があります。ですが、それはさほど大きなものではありません。手塚治のやった、まったく認められない社会にアニメを受け入れさせたのと比べてどちらが大きな業績か。当然手塚治の方が大きいわけです。また宮崎駿の前から手塚治のことを認めた大人たちはたくさんいて、そしてその後の漫画界などを育んできていました。たまたま宮崎駿が目立ったというだけで、よくよく考えれば同世代で有名な漫画家は他にもいるはずです。
それと宮崎駿は自分の作品に自分独自の主張をいれることがまったくできていません。彼の生きてきた時代は左翼思想がはびこり、そして環境問題が世間的に目を向けられるようになった時代です。彼の作品を見ればわかりますが、それをそのまま使っているだけです。手塚治(あるいは他の作家)のように自分の体験を基に考察したり、何か研究したわけではありません。せいぜい昔ながらの物語構成論のなかに自分たちの社会思想を入れただけです。つまり彼は新しいテーマや課題を後世に残せていないということです。これはジブリ内からも批判の声が上がっていますから、すぐにわかることだと思います。
さてブレイクスルーの記事は見ていただけたでしょうか? ここからはその内容を使います。
宮崎駿は確かに社会的に認められ、またそれなりの貢献は確かにしています。では彼は次に何をすべきでしょう?
彼は本来であれば次世代を担う若手を育成するつとめがあったはずです。事実手塚治などはきちんとこういうことをした人物であり、だから今でも尊敬されています。けれど宮崎駿は誰も育てていません。有名な一例としては庵野秀明との確執があります。庵野秀明は『ナウシカ』で巨神兵のシーンを担当しています。よく誤解されていますが、彼は宮崎駿に弟子入りしたわけではありません。むしろその技術力を認められて採用されています。もちろん庵野秀明は宮崎駿を慕っていたので製作に協力したわけですが。
庵野秀明は『ナウシカ』製作後に外伝として『クシャナ戦記』を提案。そして自ら指揮を執りたいと申し出ています。しかし宮崎駿は「そんなものは最低なものになる。やるんだったら自分でやっている」とそれを退けてしまっています。
その庵野秀明は宮崎駿の下を離れて、そして実際に自分には力があるのだということを見せつけています。特に『新世紀エヴァンゲリオン』は社会を変えるほどの影響力がありました。この作品だけで宮崎駿と庵野秀明の貢献度の差は浮き彫りです。
これだけのことをされれば宮崎駿は引退すべきです。もう自分を遥かに追い抜いた若手がいる。そう思えば席を譲ればいい。その分また誰か実力のある若手がその席に座れるのだから。しかし宮崎駿はずっと作品をつくり続けている。ようは自分の立ち位置がわかっていないということに他ならない。あるいはただその席を譲りたくなくて座っているだけでしかない。このことは多くの人が指摘している。庵野秀明自身も、婉曲的ながらも、何度も述べている。
宮崎駿はその席に座っていようとするならば、「まだまだ若手には負けない」と意地をみせて戦うしかなかった。しかし彼の後続の作品を見ていくと、大きな変更点や挑戦は見つけることができない。
これに対して庵野秀明は頂点に登りつめながら、しかし自分に見切りをつけた。それが旧劇場版での「こんなものに熱を上げてないで他の作品を見てくれ」という言葉に表れている。彼は自分よりもっと上の作家がいると感じ、自分はそれには勝てないと判断した。そのため実質指揮を執ることをやめる。具体的には彼はもっとハートウォーミングな作品がつくりたかったようだ。でも自分の作風ではそれがつくれないと気づき、そして見切りをつけたということになる。庵野秀明が次にアニメーションで指揮を執ったのは『彼氏彼女の事情』だが、ここで原作を少女漫画からとったのは、少女漫画に自分のできなかったものがたくさんあるのではと考えたからのようだ。このことは前々から発言している。
しかしこの『彼氏彼女の事情』では監督を務めはするものの、若手をどんどん採用し、色々な演出に挑戦させている。実際作品を見てみれば様々な挑戦が試みられているのがわかる。つまり彼はまだ自分が上に立ちながらも、若手育成をしようと考えていたとみなせるだろう。そして実際それ以降GAINAXでアニメ監督を務めようとはしていない。
けれど2006年にカラーという新しい会社を設立し、再び『エヴァ』を作り出した。このときに彼は述べている。「この十年で『エヴァ』を超えるものは出てくれなかった。だからもう一度つくる」と。つまり上に立つものとして後世の人々に「もう一度よく見て考えろ」と檄を飛ばしているということだ。ただ上の立場でいたいだけなら、新作をつくればいい。でも庵野秀明はあえて『エヴァ』をもう一度やると言ったのだ。これが意味するところはそれだけ深い。
そして庵野秀明はただもう一度再放送するだけではなく、物語を変えてきた。また技術面ではREBUILDという新しい手法も取り入れた。彼はまだまだいくらでもやりようがあるのだと、ここで戦う姿勢を見せている。
宮崎駿はある程度ブレイクスルーを起こしている人間かもしれない。でもその自分の場所がよくわかっていないと思える。そしてそのため他の人間との壁が見えていない。一方で庵野秀明は自分がかなりの高い位置にいる人間だと自覚しており、そしてその壁を世間に見せつけようとしている。そしてその高い位置でまだまだ戦おうとしている。この両者はもはや位の面でも姿勢の面でも違っているのだ。

さて以上のようなことと、そして私の書いてきた記事をしっかりと呼んできてくれた人には、このブログで主張しようとしている意図がわかっただろうか?
私は世の中には作家(あるいはそれに限らず色々な世界)にはいくつかのランクがあると言っている。そして宮崎駿はもうその頂点にはいない。それに戦おうともしていない。
これは明日の記事で言うことだが、宮崎駿を超えている作家はたくさんいて、そして彼らは常に戦っている。すでに頂点に立ちながら、更なる高みを目指したり、そこで戦っていることを見る人や読む人に伝えている。
私が言いたかったのは、したがってこうなる。
世の中には上のレベルの人たちがいる。そしてその人たちは戦う姿勢を見せながら後続の人や、見る人にここまで登ってこいと訴えている。
私はその期待に応えて彼らの位置に行って戦いたいし、追い抜きたいとも考えている。あるいは少なくともそういう人たちがいるのだと知って生きていきたい。そう考える私にとっては宮崎駿はもうリタイアしているに等しいのだ。
この私の意見を聞いて閲覧者の方々はどう思うだろうか?
私は別に宮崎駿の作品が好きでいいと思う。そして私自身、新作が公開されるたびにそれを観るのを楽しみにしている。けれどその上がいるという意識は捨てるつもりはないし、宮崎駿がまた戦わないでいたら「またか」とがっかりする。
本や映画が好きな、ここの閲覧者に問いかけておしまいにしたい。
一緒にこの高みを目指しませんか?、と。
by zattoukoneko | 2010-04-20 18:29 | 映像 | Comments(0)

『トトロ』で追加。(エヴァについても少しだけ)

『トトロ』の記事を読んだ友人から質問がありましたので、その回答内容をみなさんにもお答えしておきます。
マックロクロスケは『千と千尋』の方にも出てきます。「だからあれは実在するんでしょ?」、と言われました。これは“半分”あってます。マックロクロスケは、あのボロ屋敷に感じたサツキやメイの恐怖(子供のとき夜にトイレに行こうとして、暗闇に何かいる?、と感じるのと同じ)で、ここに姿が与えられたものです。つまり日本で言うところの「八百万の神」に相当します。はっきりと姿が見えるのはお婆ちゃんに「本当にいるんだよ」と言われたから。だから姿が見えるのはサツキやメイの想像ですが、八百万の神なので『千と千尋』には出ます。が、トトロの方は完璧に「架空の友だち」なので『千と千尋』には出てきません。
他にもトトロの前に強風が吹くのって何?、とか訊かれましたけど、この辺まで細かく説明してたらきりがないのでやめます。というかここまで紹介したのだからあのくらい自分でわかれと主張したい(苦笑)

あと『エヴァ』の方も同じように逃避か?、と言われました。これは確かに近いです。でもシンジは「逃げてない」です。常に父親という現実を背負っていますので「逃げる」と言いながらも現実がくっついてきてます。完全に逃避できるのはエヴァに取りこまれたとき。ここでは完全に父親から切り離されます。だからエヴァの中という「夢の世界」に入れます(ただしシンジの逃げる先は母親の胎内をモチーフにしていて、ここらは庵野秀明なりの別解釈も混ぜてあります)。このシンジに対して、アスカはエヴァの中に溶けません。覚醒後もそうですね? これはアスカはシンジより成長しているから。現実は厳しいものと知っている状態だからです。つまりもうある程度大人の段階までいってアイデンティティを持っているのでエヴァの中に逃げ込みません。もう「個人」ですから。同様にして旧劇場版でアスカが早々と自分の体を取り戻すのも、アイデンティティを確立した人間だからです。補完されて他人と一緒になる必要性をほとんど感じてないということです。でもまだ成長の過程であって、反抗期を超えて現実の厳しさを受け入れていても、そこには戻るべき実の母親がいません。だから中途半端に終わっていて、母親を求めています。だからエヴァに乗れます(仮に本当に成長しきっていると乗れなくなります。だから、パイロットになった瞬間にストーリーの中で母親には死んでもらっているのです)。
あとゲンドウについても訊かれましたね。迎えに来るのはなんでユイじゃなくて初号機なのかと。あそこは本来であれば望んだ人の姿が見えてます。でもゲンドウはユイを望みつつも、シンジに辛くしたという現実も認識してます。だからシンジが迎えに来て、そして食われるなんていうひどい仕打ちを受けます。でも完全にシンジの姿をとっていないのは、ユイのこともまだ求めているから。だから二人の中間的な存在である初号機が迎えに来ます。
あとはラストでシンジとアスカの二人なのは、当たり前ですけどアダムとイヴのイメージです。二人はリリスの中という天国で罪を犯して堕ちてきた人間です。だから首を絞めるんですよね? そしてアスカは「気持ち悪い」と言うのですよね? もうここまでヒント出したので後は自分で考えてください。単純なことなんですから。(あとカオルくんにひかれていってるのとか、殺すまでの間の長さとか当然意味があります。他のシーンもね。でもそのくらいは読めるようになりましょう。庵野秀明自身が旧劇場版の公開時に言ってますが「そろそろこんなものから離れてくれ」ということです。彼自身あの作品は大したものじゃなくて、世の中にはもっとすごいものがあるよって言ってくれてます。だから私も彼の意見を尊重して説明なんてしません。彼は観てる人に「もっと上のレベルに行け」と言ってくれてるのです。だから私もそのように主張します。「『エヴァ』ごときで苦戦してるんじゃねえ」ってことです) 
by zattoukoneko | 2010-04-20 09:16 | 映像 | Comments(2)

ジブリ・宮崎駿作品の物語構成(トトロ)

今回でジブリ・宮崎駿監督先品の紹介が三回目ですね。『となりのトトロ』です。
というか三回ってw すでに特集みたいな感じですが、普通に当たり前のことを書いてきたので自分の中では特集と思ってないです(苦笑) 特集やるときは構成からきちんと考えますからね、一応記事にする以上どう説明するのがよいとかざっと頭で考えてはいますが、この三回分はそこまで練りこんでないです。『とらドラ!』はちゃんと構成考えてますからね(もう一か月考えてますけどね!)。


さて、前置きなんてどうでもいいからさっさと『となりのトトロ』の物語構成に移りましょう。

前回、前々回で宮崎駿はテーマとして女の子の第二次性徴、特に初潮をテーマにしていると言ってきました。
ですが『トトロ』は別のものを扱っています。一応時期的には第二次性徴と近いところにあたるのですが。
いきなり夢をぶち壊してしまいますが――トトロは実在しません。
あ、現実にはって意味ではなく、あの物語の中でも存在しないものです。つまりサツキとかメイが見ているものは幻ってことです。
トトロが好きな人にはショックでしょうけれど――いや、私もちっちゃいトトロとか好きなんですよ?――これにはきちんと理由があります。これを以下では見ていきますね。
『トトロ』で扱われているのは、10歳頃からの子供――特に女の子――に起きるある心の中のメカニズムです。
女の人やあるいは男の人でも覚えているかもしれません。この頃、子供って頭の中で「自分の世界と架空の友だち」をつくる傾向があります。ただし時期的に反抗期ほど長くはないですし、初潮のようにインパクトがないので忘れがちなのですね。でもちょっとよくよく思い返してみると――『確かに何か妄想みたいなことしてたかも?』という気がしませんか? また上では「架空」の友だちと言いました。でも完璧に一から想像したものじゃなくてもいいのです。アニメや漫画の好きなキャラと頭の中で会話していたり、実際にいる友人でもその人と頭の中で遊んでいたりしませんでしたか? このときの彼ら・彼女らは「想像されたもの」ですよね?
トトロというのはつまりこの頭の中でつくられた「架空の友だち」なのです。だからお婆ちゃんに「大人になるとそのうち見えなくなる」って言われているわけです(またお父さんとかお母さんも見えていないですよね?)。
ただし宮崎駿はこれを現実の世界の出来事とかなり混ぜてしまっているため(これは物語上そうしたのか、あるいは力不足なのか、どっちかわかりかねます。他のテーマと重ねたというのは……ないとは言い切れませんが、それで主軸が崩れていたら「力不足」ですよね)、このトトロの存在が実際にいる神様とか妖精みたいなもの(別に妖怪でもいいですがw)をサツキたちが見ているのだと観客に思わせてしまっています。
ですがさっきも言ったように「大人になると見えなくなるもの」と作中ではっきりと言ってます。また大人たちにはまったく見えていません。またトトロやネコバスが出てくるのは基本的に夢の中や彼女たちが「一人にされたとき」です。集団で会いに行ってもどうやったって見ることはできないわけですね。
さて、下ではこの子供がつくる「自分の世界と架空の友だち」の、成長に与える役割というものを見ていきたいと思います。

子供が第二次性徴を迎える直前や始まった辺りで、このような「想像の世界」をつくることは前々から(経験的に)知られていました。これは大人になると見えなくなる、とか、大人になるとその不思議な力は消える、といった物語がたくさんあることからわかると思います。あるいは、他人に知られちゃいけない、なんてのもありますね。ただしこれらはきちんと研究されていたわけではないですし、初潮のようなインパクトあるものでもなかったため、そこまではっきりと構成が作られていないように思われます。あるいは別の「成長」と混ぜられている気もします。なので魔法とか現実世界に力を及ぼしたりしますし、宮崎駿も現実の出来事とごちゃ混ぜにして『トトロ』を作ったのだと思われます。またこれらの「架空の友だち」が見えるキャラクターの年齢設定も曖昧だったりしますね。サツキは年齢的にぴったり一致しますが、メイは若すぎですね(一応「人形遊び」や「おままごと」としてトトロを見た、と解釈することはできますけれど)。
この「想像の世界と架空の友だち」ですが、これも反抗期とかで同じで社会に適応するために人間が進化してくる過程で獲得した心理メカニズムということになります。
子供はそれまで社会というものに接してきていません。もちろん学校とか、そこでの友人関係とかはあります。ですが基本的にそれらはまだ「守ってくれるもの」です。一方で大人たちの住む世界は「独立した人間が協力しながらつくっている社会」です。ここには当然競争や対立なども生じますから、厳しいものとなります。
この社会に出ていくことになる第二次性徴の頃、あるいはその直前に行なう心の準備が、この「想像の世界と友だち」ということになります。
「想像された」世界ですから、当然当事者にとって甘い世界です。出てくる友人は優しいですし、世界もかなりご都合主義です。ですが――このときのことを思い出せる方はちょっと必死に自分の中で何が起きていたのか思い返してみてください――そのうちこの友だちらが冷たくなってきます。ちょっと自分の心にぐさっと来るようなことを言ったりします。あるいは現実世界の方で色々な問題に直面すると、そちらに気を取られていつの間にかこの「友だち」に会いに行かなくなってしまいます。こちらは現実世界に重点が置かれているので自分の心の変化がわかりにくいのですが、ようはその「想像の世界・架空の友だち」は甘いもの・現実の社会とは違うものとして捨てていっているというわけです。
このようにしてそれまでの「守ってくれる社会」から「独立しなければならない厳しい社会」へと住みかを移していきます。このときにクッションの役割をするのが「想像の世界と架空の友だち」ということになります。
(ちなみにやや脇道に逸れますが――こうした「大人になると使えなくなる力」や「他人に知られるとダメな能力」というものを扱っている物語は、最終的に大体他の人とかにばれますね? これは現実の厳しい社会との対面を表しており、ここで力が失われるのは想像の世界の破棄ということです。ですからここで成長を迎えたことになり、魔法とかが使えなくなるということです)

で、『トトロ』では主人公たちが成長してくれないのですよね……。だから余計に紛らわしいことになってしまっているのですが。
ただしトトロが「架空の友だち」ということは所々でほのめかされています。ただしこれらを全部挙げていったら切りがないですし、曖昧な表現になっているところもありますからわかりやすいところだけピックアップしていきます。
まず物語の冒頭は引っ越しするところから始まりますね? で、ここで最初に語ってくれていないのですが、お母さんが病気で入院しているということになってます。つまりここで親(あるいはそれに対当する生まれ故郷)から離れたということになります。これは反抗期の始まりの比喩として捉えることができます(ただし、もう一つ役割があります。後述)。
そして「トトロ」はなんかおとぎ話か何かが元になっているって言われています。これはメイが「トトロに会った」と言うとサツキが「絵本の?」なんて聞いてたと思います。ようは何かから想像したものだ、ってここで宮崎駿は言っていることになります。これはさっきの心のメカニズムで言ったように一から「友だち」をつくるのは大変なので、何かを元にしてますってことです。
またマックロクロスケも、最初はおかしな雰囲気としてしか捉えていません。「何かいる!」なんて言ってますけど、あそこではまだはっきりと見えていないはずです。ここにおばあちゃんから「ススワタリだよ」と実際にいるもんだなんて言われるので、それを信じ込むわけですね。つまり想像して友だちをつくる素地ができるということです。それにサツキがトトロに会うのもメイの話を聞いてからですね? 彼女はどうやらメイが元にした絵本の方を信じていないようなので、メイから実際にいるのだと思わされているということになります(だからメイよりサツキの方が後に出会うのですね)。またここではお父さんもメイの手助けをしていますね。メイの話だけだとサツキは半信半疑でしたが、あの後三人でトトロがいるという木のところに行って、「メイがお世話になりました」なんてことを言ってたかと思います。ここでサツキは不思議なものを信じる方に傾いてくれてます。
さて、見えるきっかけですが、これは「厳しい大人の社会」が垣間見えたときですね。特に守ってくれる人がいなくなって、それまでの子供の「守られる社会」から離されたときです。冒頭で引っ越しをし、お母さんが病気になっているのはそのための予備の伏線でもあります。新しい、別の社会へと強制的に放り込まれているわけですね。そしてメイはお姉ちゃんのサツキがいないときにトトロと出会います(ここ、メイの心理が曖昧なんですけどね)。またサツキがトトロに会うのはお父さんの帰りを待っているときですね。バスが来たのにお父さんが乗っていないという「社会の不条理さ」をまず経験してます。またメイも寝ちゃってますね? あれ別に『子供だから眠くなるだろ』なんてバカみたいな理由で入れたのではなくw、サツキを一人にするためですね。二人でいると「守られている社会」にいちゃいますからね(サツキにとっては「守っている」という感覚でしょうが、それはお姉ちゃんだから自然なことと思ってやっていることなので、だからまだ「子供の社会」に属しています)。ラストの方でサツキがトトロに会いに行くのも、メイを見つけられない、どうしたらいいのかわからない、という「現実」の問題に直面しているから会いに行けています。このようにトトロと出会う直前には、何か「現実の厳しい社会」を感じ取っているシーンが挿入されています(まあ、ドングリの木を伸ばしに来たときとか曖昧なところもあるのですが、あそこは夢の中で出会ったということなのでしょう。だからドングリの木は中途半端に芽しか出てないですし、二人して「夢だけど――」なんて騒ぐセリフが入っていることなのでしょう)。

さてはて、「トトロ」は実在しないということは上の説明でわかってもらえたでしょうか? 他にも細々ありますが、それらは判断がちょっと難しいので紹介はしておかないことにします。自分で見るときに色々と探して解釈してみてはどうでしょうか(明かさないのはこの楽しみを奪わないようにって意図もありますw)。
あ、上の説明でも「いやトトロっているし!」と信じ続ける人へ。
別にそれもいいんじゃないかな、って気がします。そういう人にはきっと「トトロ」がそのうちやってくるでしょうし、また私自身物語の中のキャラクターは生きている存在だと思って見ています。というかそのようにキャラクターを捉えてあげないと彼ら・彼女らの心情を深く探ってあげようという気になりませんから(なお、こういうキャラへの愛着のことを「萌え」というのですよ? オタクだけにしかない奇妙な感覚じゃないですから、誤解していた人はご注意を)。

ただ『トトロ』は同じようなテーマを持った作品と違って、「トトロ」とお別れしないですね。つまりサツキとメイは成長していないということ。だからあれ、バッドエンド、なんです。だから物語の最後ではお母さんが帰ってこないんです。病気で入院したまま終わっちゃう。一応いくらか元気になっているのは、そこまでで多少は成長した分ということでしょう(まったく成長してなかったらお母さんには死んでもらわないとなりませんね。より厳しい現実を突き付けるために)。なおEDのスタッフロールの中でお母さんが戻ってきているようなニュアンスの画が入りますが、あそこはそれまでにサツキたちがもっと成長したか、一時的な退院ってことなのでしょう。具体的に触れられていないのでどちらか判別できませんけれど。


んー、今回は『トトロ』の話だけだったからもう少し書けるかな?
えっと宮崎駿監督の作品紹介をする初めに言いましたが、これって簡単な物語構成なのですね? こう言っては何ですが……読みとれて当たり前のレベルです。だって宮崎駿は対象にしている年齢層はそれなりに若い人たちを想定してるんですよね、多分。だからそれなりに読解力のある小学生とかで(無自覚でも)テーマがわかるような単純なものになってます。
こういう古典的な物語構成はもう山のように使われてますし、むしろ使い古された感すらあります。もちろん第二次性徴のあたりの青少年の心の動きというのは重要なテーマですから今後も使われるでしょうが。
ですが、世の中にはもっと複雑な物語構成をとったものがたくさんありますし、特に最近の心理学や脳科学などで明らかになってきた心のメカニズムを取り入れたものはより難しくなります。読書とか本気でしたい人たちはこの辺まで踏み込むレベルに達しないと、作者の掲げているテーマがわからなくなりますよ?
また宮崎駿監督の作品は(たびたび言ってますが)中途半端です。子供向けに、アニメという分野でやったからなのか、あるいは純粋に力不足なのかわかりませんが、きちんと描ききれてない部分がたくさんあります。それを絵や音楽で補ってもらってるという感じです(もちろん宮崎駿自身の感性というものがありますから、そこに魅力を感じるというのも大きいです。そこまではさすがに否定しません。むしろこの面では確かに天才ですね)。このような中途半端なものだから、他の作家はこれをきちんと描いたものを提示しようとしていたりします。私自身もその一人ですね(残念ながら世に出せるレベルではないですが(涙))。
以前――どの記事でしたっけ――『トトロ』と同じ話を作ろうとしたことがあります、なんて書いた気がします。この話は中学のときに出した案ですね。このときは別に上で書いたような心理メカニズムなんてほとんど知りませんでしたが(話が単純ですから)、言わんとしていることはわかるわけですね。そして足りない部分もわかる、と。それで自分なりにきちんと描こうとしたのがそれです。
でも書いていないのは……書けないからです。
途中で「トトロ」は何かが元になっていると書きました。別に「架空の友だち」は一からつくってもいいのですが(そして現実にはそういう人もいますが)、ですが物語である以上見る人にはそれを納得してもらわないといけないわけです。感情移入ですね。となるとわかりやすいのはやはり何か元があるという形にするというのがよいわけですね。ですが――何を元にしましょう? みなさんが物語を書く人間だったらどうしますか?
一つの解決策としては『トトロ』と同じく劇中で何か作品があるとするということです。でも『トトロ』はこの作品について何も触れていないから、わかりにくくなってます。ならば劇中劇を入れなければならないのですが、普通に容量を食います。仮に文庫一冊分でこの話を書くとしましょう(というか私がそれで構成を考え始めたのですが)。原稿用紙で250枚です。この場合、主軸の物語がメインにならないとならないとテーマがぶれてしまいますから、どんなに削っても三分の二はそちらに使わないといけません。となると160枚から170枚くらいですか。そうなると残ってるの80枚とかしかないのです。これ短編の量。これだけで主人公がそこにのめりこんで、自分の中に「友だち」としてつくってしまうほどのものだと納得してもらわなければなりません。また、単純に劇中劇→メインストーリーなんて構成も取れません。これだと最初に読むのが劇中劇ですから、読み手はそっちに頭が行ってしまい、話がメインに移ったときにすぐに内容把握をする準備ができなくなってしまいます。だからやるとしたらメインの中に所々で劇中劇を入れていくしかない。でも――最初の仮定として主人公にはその「友だち」をつくってもらわないとならないのです。途中途中で劇中劇なんてことをやってたらそれを提示するのが遅れちゃいます(一応後から『ああ、ここから想像したのね』と思わせることはできますけど、後から気付いてもらったのではテーマが伝わるのが遅いということですし、あるいは「友だち」を変な形で出していって違和感持たせたまま読み進めてもらうということもできるでしょうが、これじゃあミステリーみたいで、私のやろうとしている「架空の友だちとそれとの別れによる成長」というテーマから外れてしまいます)。それに……「友だち」一人じゃあ「世界」が寂しいので、いくつかの役割を持たせた(性格の異なった)キャラが複数必要でした。一つの物語で愛着がわくキャラなんてそうそう出てこないですから、劇中劇はそれなりの数用意しないといけないというわけですね。……もうむしろ劇中劇だけになるじゃないですか!
ということで最終的にそれらを解決する案として出したのが、有名なキャラを使わせてもらう、ということでした。ようは他の作家の方のキャラをお借りするということです。これは――同人とかなら一応可能でしょうけれど――私としてはやるからにはきちんとやりたいと思ってたので、当然使わせてもらうキャラの製作者の許可をいただかねばなりません。無名の私にそんなことできるわけないですし、また仮に許可がもらえて書いたとしてもそれは応募できるような作品ではないですよね。それに自分の物語に使うための役割を果たしてくれるキャラを選別していくなんていうのはとんでもない労力だというのもあります。ああ、それにどうしたってキャラによって重要度が変わりますが、その場合あまり出番のなかったキャラの製作者様には不快な思いをさせてしまいますよね。だから取りやめたんです。

んー、なんかもうここまで書いたから概要を言っちゃいますね。どうせ書けないストーリーなのですから。
タイトルは(最後の方何にしたかな?)仮題が確か『Dreams』だったかと。一応「友だち」キャラが何人か出てくるという理由から複数形にしてました。
主人公は13,4歳くらいの女の子。ちょっと年齢が高めですが、(後で述べる)解決策のためにこのくらいで設定しました。一応「架空の友だち」をつくるぎりぎりの年齢ですし、許容範囲だと判断しました。
ちなみに最初は男にしようかと思ったのですが――この年代の男の子だと性の方にも目が向いてしまう年頃ですね。妄想の世界ですから普通にやましいことするだろうなあ、と思ってやめました。性描写たくさん入るとそっちに目が行ってしまうのでテーマがぼやけるので。
もちろん女の子でも似たような状況になっちゃう可能性があります。性行為ではなくても疑似的な恋愛とかですね。これは入れたくなかったので、「友だち」は全部同性の女性で統一することにしました。
この女性での統一はもう一つ理由があって、この主人公の女の子は男の子へ苦手意識・嫌悪感を持っていてもらうことにしました。これは過去に男の子からイジメとかを受けたということから派生してます。これは単純にキャラの設定というだけではなく、「現実社会の厳しさ・不条理」を与えるという役割があります。これで「想像世界」への逃避を行なわせてます。
で、まあ途中途中「友だち」とかの役割とかがあるのですが、そこら辺まで説明してると量が膨大になるので省略します(というか昔すぎて覚えてないですorz 書いた紙は残ってるのかなあ)。
この主人公へ与えられる課題は当然のことながら「現実世界へ目を向けること」となります。特に嫌がっている男の子へ目を向けるということですね。
それで、まあ恋愛要素を入れるのは常套手段ということもあり、また上手く機能してくれるので、現実世界の男の子と仲良くなっていく、最終的には恋愛感情を持つということが課題の克服となってます。
当然すぐにはこの感情はすぐに芽生えるわきゃないので、ここはじっくり書くつもりでいて、その際に「友だち」に会いに行く頻度を少しずつ減らしていく構成になってます。これは最初は読み手にはわからない程度のペースで、でも途中から明らかに激減します。気付くか気付かないか、ぎりぎりのラインを狙おうと思ってました(これは実際に書いてみて、そこからまた手直ししないと最終調整できないですが)。
そしてぱったりと行かなくなったところで、その男の子とちょっと喧嘩のようなことでもしてもらうことになってます。当然女の子はその「現実社会の厳しさ」から「友だち」のところへ逃げるのですが――もうこの頃には女の子もそれじゃあいけないと思い始めてる頃です(省略したとこにはこのための伏線が途中で入れられてるんですね)。なので自分でつくりだした存在から、「私たちは夢でしょ」と突き放されるということになります。これが「想像世界」の崩壊になるわけですね。ここはこの「想像世界」と「現実世界」が近づき、主人公の心が成長したことが起こっています。
あとはこれで「現実社会」を受け入れる準備ができたので、男の子と仲直りしてもらって恋愛関係でも始めてもらって終了です。

やば、自分の話で分量とりすぎた。省略しまくってるのに(汗)


まあ、後半私の話で埋めちゃいましたが、このように宮崎駿監督の作品って滅茶苦茶単純な構造論を使っているということです。プロでもなく、特に執筆の勉強をしたことのない中学生の私ごときでも真似できる程度のものだってことですね。ですから世の中にはもっとしっかりしたものや複雑なものがあるということです。色々と読んだり観たりする人はそういう背景まで見れるといいですね。
――え? 『ポニョ』の構成ですか? ……誰か私に教えてくださいw 一回観たけど理解不能でしたww(というか途中で5回くらい中断しました。見続けてられなかったので(汗) まあ本当はいくらかわかってますけど、やっぱりこの人はメカ以外は弱いんだなあと思いました。現実に存在していた生物と架空の生物が混じりすぎてて、それらの役割を解釈する前に思わず呆れてしまいました。どっちかに完全に固定すれば――『ナウシカ』みたいに――もっと見やすくて面白い話になると思うんですけどねえ。新しい挑戦……としては破綻しすぎですし、『もののけ姫』での歴史考証の極端すぎる甘さがありますからね。順当に考えて世界設定を失敗している作品だと思ってます)
by zattoukoneko | 2010-04-20 07:49 | 映像 | Comments(0)

ジブリ・宮崎駿作品の物語構造(各作品)

前回の記事でジブリ・宮崎駿監督の物語構成を紹介しましたが、今回はそれを各作品で確かめていきたいと思います。
ただ宮崎駿は(前回もちょっと触れましたが)この伝統的な構成をまともに使いこなせていませんでした。『もののけ姫』でようやくできたか?、という感じです。ですので、これが明確に意図して使われた『千と千尋の神隠し』から見ていきたいと思います。


『千と千尋の神隠し』では、まず最初に反抗期の象徴である「親との別離」が描かれます。これによって神々の世界に迷い込むのですよね(一応親も一緒に入り込んでますが、本格的に別世界に迷い込むのは両親が豚になって別れてからとなっていると思います)。
そして千尋は初潮の証である「呪い」をかけられます。それは湯婆婆によって名前を変えられて『千』とされることですね。あまり呪いっぽくないのは……宮崎駿の力不足です、多分(いや、半分冗談ですw 物語の構成などもありますからね――でも半分は本当に力不足だと私は思ってます。この後読んでもらえればわかると思いますが)。この呪いはきちんと年上の女性=老婆からかけられているはずです。
そして課題となるのは異性から自分の本来の美しさを見抜いてもらうことです。それはハクによってなされるわけですが……ここは少し話が入り組んでいます。というのはハクも同じく呪われているのですね? 名前を変えられているわけです。つまり初潮を迎えているのは千尋だけでなくハクの方も同じなのです。ですから物語はこの二人が同時に主人公であり(視点は移り変わると見ている人が戸惑うので千尋の方に固定ですが)、お互いに自分たちの本来の姿を見抜くことが課題となっているのです。実際、お互いが自分たちの本来の名前を思い出すのは同時なはずです。
ただ――この課題というのが見えにくいんですよね、この作品。名前が変わるという呪いがかけられて、本来の名前を取り戻すという、この後半だけ見ればとても効果的な演出なのですが、前半があまり呪いっぽくないのでわかる人にしかわからないという話になっちゃってます。私はこの構造は昔から知ってましたから(というか宮崎駿はずっとこれですから)すぐわかりましたけど、みなさんはどうでした? ハクの本当の名前思い出すとか千尋もハクによって自分の名前を意識するとか、意味わかりながら観てましたか?
あと――これは演出でしょうけど――余計な部分多すぎですよね。それぞれ色々と意味はありそうですが、この「呪いと、そこからの回復」という大きなテーマとは少し離れてますよね。個人的には――マックロクロスケに手足が生えたのが許せないw(←構造論と関係なし)

なお『千と千尋の神隠し』はこの初潮の話のほかに「行きて帰る物語」という構造も使ってます。
「行きて帰る物語」とは、簡単にいえば、別世界に迷い込む→課題が与えられる→課題のクリア→元の世界に戻る、というものです。ここでの課題が初潮の課題と重ねられているということになります。
ですから千尋はきちんと元の世界に戻ります。このときハクは一緒じゃないですよね? これ一緒に帰ったらバッドエンドなのです。なぜならハクは元から別の世界の存在だから。たまたま迷い込んだ世界で一緒になっただけで、これを連れて帰っちゃったら元の世界に戻ったことになりません。ですから最後は二人は別れるのです。


さて、次に『ハウルの動く城』いきましょうか。
これは「呪い」が見やすいですねー。というか民話そのままのパクリじゃねえか!、と観ながら突っ込んでしまいましたw
民話というのは『姥皮』というやつです。これは親元から離れた女性が山奥の不思議な老婆から老婆の皮を着せられて、お金持ちの家で住み込みで働く。そこの若い男に美しい女性だと見抜かれて元の姿に戻る、というものです。
これ、皮じゃなくて魔法になっただけでそのまんまですよね? 主人公のソフィーに呪いかけるのは老婆だし、住み込み先のハウルはお金持ちっぽいですし。
ただし変更点もあります。『千と千尋の神隠し』と同じで、ハウルも呪われます。ハウルが途中化け物っぽい姿になりますよね? あれが呪い=初潮です。戦争を嫌いながらもそれに加担している自分を醜いと思うことで、呪いにかかるという構造みたいですね(一度しか観てないからちゃんと把握してないですけど)。それでソフィーが心配して世話してあげるとこの呪いが解けるという仕組みです。
またソフィー自身もたびたび呪いが解けて元の姿に戻りますね。これはその時々で彼女が自分の初潮を受け入れたという心情を表現しています。特にハウルからの影響があると毎回姿が変わります。
こうしてお互いに自分たちの呪いを解くという構造になっていて、また途中途中何度も解けるか解けないかを繰り返しているというのも面白い点です。『千と千尋』と違って、一発じゃうまくいかないわけですね。この辺りは宮崎駿なりに少女(および少年)の心の揺れ動きを取り込んでみたということなのでしょう。
ただ、ハウルの方の呪いは今回もわかりにくいですね。またソフィー自身もどれだけ自分の「呪い」を醜いと考えているのかよくわからなかったりします。なんか所々でむしろ開き直ってるんじゃあ?、というシーンがありますからね。なんでこういう風にしたのかは、ちょっと私にはわからなかったです。
――あ、親との別れを説明し忘れてますね。
ソフィーは確か帽子屋かなんかで働いてましたけど、魔女が来る直前に仕事仲間(あれって血はつながってましたっけ?)と別れてひとりになっていると思います。直接の両親ではないですし、これで反抗期の象徴になるのかわかりにくいとこですけど……まあ、一応ここがそこに位置付けされるのでしょう(あれ、実の母親とも別れてるんでしたっけ? でも冒頭でちゃんと言われてなかったので、私はあまり気にしてなかったです)。


『もののけ姫』は前回少し触れましたね。
アシタカが呪い(ここではもう直接「穢れ」ってことになってますが)にかかって、自分の村から離れます。……これ順番逆な気もするのですが、初潮って反抗期の始まりとぎりぎり重なったりすることもあるので、そういうパターンってことで見ておきました。
ただ課題の解き方がいまいちわからないですね。なんで呪いが解けるのか、今まで説明してきた構造論だけでは説明できないです。また呪いを与えるのも突然現れた獣ですし。あれって年上でメスだったりするんでしょうか?
(というかアシタカの弓強すぎると思いますが? 宮崎駿はメカ系強いのに、誰もあの弓のおかしな威力は突っ込まなかったのでしょうか? 弓の歴史についてあまり知らない方もいると思いますのでちょっと説明しておくと――現在使われている弓道での弓の張力(「重さ」と表現します)は高校生男子の平均が16キロ。女子で14キロです。その後も続ける人は20キロとか超えるの使います。あ、ちなみに普通の初心者が力任せに引こうと思っても、せいぜい10キロちょっとで精一杯ですよ? 筋力の使い方を覚えなきゃならないので。ちなみに私も高校で弓道やってたからこんなデータを持っているわけですが、私の使ってのは最後は23キロです。大体14,5キロの重さの弓で、矢が地面と平行で的に当たるのですが、これは近的という28メートルのもの。有名な三十三間道は遠的で、50メートル先の的を狙います。当然狙いを上にしなきゃいけないのですが――三十三間堂は廊下ですから上に天井があるのです。ですから狙い上げるとここにぶつかります。現在ではこの廊下ではなく、すぐそばの庭で成人のお祝いとかでやっているのですね。つまり今の人たちの使う弓じゃあ本来の三十三間道はうてないってことです。三十三間堂で盛んに弓が引かれていたのは江戸時代。このときは武士たちが「力自慢」のためにここを使ってました。弓の重さは30キロ強。私高校の現役のときは背筋200軽く超えてましたが、23もきつかったですし、20キロから上の1キロ増ってすごい大変なのです。つまり30キロなんて弓は化け物みたいな弓ってことです。そしてそれを引いてる人も。で、アシタカは戦国時代あたりの人間みたいですけど――このときの弓の重さは60~80キロです。ただし、これは今や江戸時代の弓の使い方と違います。30キロですら化け物ですから、こんな弓引けるわけないのです。当時はちょっとだけ弦を引っ張って離すという方法で戦ってました。これで大体2キロ先まで飛びます。また今みたいに顔の後ろの方まで弦を引くのは江戸時代に「手の内」という弓を回転させる技術ができてからの話です――当たり前ですが弦が回転してくれないと顔とかに直撃しますから。これ20キロとかでやると耳とか普通に飛びます――ですので大河ドラマとかでそこまで弓を引いてるものを見たら大笑いしてください。……なんかちょっと脇道に逸れた。で、アシタカ当時の60とかの弓ですが、今言ったみたいにまともに引く代物じゃありません。また古典を読むと「三人張り」とか言葉が出てくるかと思いますが、これは三人がかりで弓を湾曲させて弦を張るということです。つまりそれだけの力を加えないとそもそも弓が曲がってくれないのです。で、こんなに重い弓でも――鎧とかに軽く弾かれますw 人の体にあたってもせいぜい骨を砕くくらいです。よっぽどの至近距離ならもう少し行けるとは思いますけど、そこまで来たら弓より刀使いますよね。そしてこのくらいの威力しかないもんだから、矢尻とかを「→」みたいな形にしてあるのです。矢は回転しながら飛んでいくので、人の体に刺さったときはぐりぐり抉りながら中に進むということです。痛みで動けなくすることが目的なのですね。なのでアシタカみたいに腕とか首とか飛ばすなんて到底無理です。私は観てて爆笑してましたw またアシタカは一人で弦を張るシーンがありますね? ということは彼の弓の重さはせいぜい30キロってことです。60キロでもできないことをそんな弓でできるわきゃないですよね?)
――やば、弓の話に夢中になってた(苦笑) 他の作品へととっとと移りましょう。


『風の谷のナウシカ』も初潮をテーマにしています。
ただこれは宮崎駿の初期の頃のものですから、見抜くのたいへんでしょうかね?
まず親から離されるのは二つあって、実際に自分の実父が殺されますね。また風の谷に攻めてきたトルメキアに連れてかれますね。ここで自分の故郷とも離されることになります。実の父親は生き返りませんが(後で述べる)呪いが解けて大人の女性になるときちんとこの親元の風の谷へと帰るという仕組みになっています。
さて「呪い」がわかりにくいですね。
これはペジテの赤い服を着た部分がそうです。ペジテは一応あのとき敵対しているわけですから、その服(皮)を着るというのが「醜いものへの変身」となります。
で、この呪いはすぐに解けちゃいますw オームの血で青く染まりますよね? あれ風の谷のもとの服の色と同じはずです。ようはここで元の姿に回復したということです。
ただ、このときは宮崎駿もそこまでこの物語構成を使いきれていなかったのだと思います。そもそも「呪い」にかかるのが物語の最後の方ですし、回復もただ血に染まっただけですよね。この辺り、宮崎駿は民話とかで勉強しつつも、意識してこうした攻勢を使いきれてなかったんだなって感じがします(他の演出のため……と考えるとしてもちょっとずれすぎですよね)。
ああ、ちなみに風の谷から出発するナウシカは女の子たちから木の実をもらいますよね? あれ、「女の子」じゃないとダメなんですよ? この辺りはきちんと守ってるみたいですね。あれは「呪い」とは言えないですし、その後もあまり活躍してくれませんが、似たような効果を持ってると思ってくれればよいかと。だから「女」の子からもらうのです。


さて、宮崎駿の作品は他にも『魔女の宅急便』とか『紅の豚』とかがあります。でももう上までの説明でもう大体わかりましたよね?
キキは実家から離れますし、魔女の黒い服にも着替えます(作中で「好きじゃない」って言ってるのは『醜いもの』のちょっとした強調です)。ジジの声が聞こえなくなるのも一応呪いなんでしょうかね。ただこれらはうまく回復に結び付けられていないですし(一応元気を取り戻したみたいな感じで終わりますけれど)、実家にも戻らないですね。
『紅の豚』も似たようなもんです。反抗期の象徴は戦友との別れなんでしょうかね? あの後豚になったってことになってますし。回復するのも、えっとフィオでしたっけ?、この「異性の」女の子に気に入られてキスされたから戻るのですよね。(別に殴られたからじゃないですよw)


こんな感じでしょか? 一応宮崎駿監督作品以外にもこうした構造のものは山のようにあります。
日本以外なら『シンデレラ』が一番わかりやすいし、有名ですかね? シンデレラは継母という実の人間ではない人の元で暮らしてますし、舞踏会では彼女らとも別れてますね。そして綺麗な衣装を年上の魔女からもらう、と。最後も(呪いがかかった状態でではないですが)その美しさを見つけてもらってハッピーエンドです。違いは変身するのが「醜いもの」ではなくて「綺麗なもの」ということでしょうか? この違いはどこから来てるのか知らないのですが(私は文学史は詳しくないので)、でも基本は同じだとわかるかと。(ん? もしかして最初の汚い格好の方が「呪い」で、「綺麗な」ドレスの方は本来の美しさを表してるのかな? でもそう考えると成長のどの段階を指してるのかよくわからないですね。一時的にそういうのが垣間見えたよってことなんでしょうか)


さて、『トトロ』が残ってますねえ。
こいつは別の物語構成を使ってます。なので別の記事として紹介しますね。
(というかまさか宮崎駿の作品紹介ごときで三分割しなきゃならんとは……)
by zattoukoneko | 2010-04-16 09:43 | 映像 | Comments(2)

ジブリ・宮崎駿作品の物語構成

ジブリの宮崎駿監督による映像作品の物語とはどういう構成になっていて、何がテーマなのかについて今回は紹介したいと思います。
というか、私は意外だったのですが、これ知らない人ってたくさんいるのですね? 普通に簡単な話だと思っていて、友人とか大学の教授とかとその話したら驚かれました。これを見ている人にもきっとたくさんそういう人がいるのだろうと思って、今回丁寧に見ていくことにしました。


いきなりですが、宮崎駿ってロリコンです。というか日本でロリコンというものを普及させたのがこの人って言ってもいいくらいです。
もちろんロリータ・コンプレックスというのは前々からあったものです。ですが宮崎駿の『カリオストロの城』や、特に『風の谷のナウシカ』で一気に火がつきました。ナウシカとか大人からめちゃくちゃ人気が出ましたからね。
でもナウシカって結構大人な気がしますね? 設定まではちょっと調べてないのですが、16,7歳くらいに見えます。けど、この子に愛着を持つのってロリコンなのです。それはただ見ていた大人より年下だったからというわけではなく(もしそうだったら30歳の人が20歳くらいのアイドルとか見て好きになるのもロリコンになっちゃいますから)、そうではなくてテーマから見ると本当はナウシカって10歳から14歳くらいなのですよ。ここまで年齢が下がるから、だからロリコンなのです。

さてじゃあそのテーマというのは何かについて説明したいと思います。
実は宮崎駿はほとんどの作品で初潮を扱っているのです(例外はトトロとポニョくらい。ラピュタとカリオストロは――きちんと観たのが大分前なので曖昧です。すいません)。つまり女の子(作品によっては男の子に変えることもありますが)の第二次性徴を描いているということになります。
ですのでこれを迎える時期を考えれば、各ヒロインたちの年齢は10歳から14歳くらいということになります。


じゃあ何が初潮なのか? これは物語の構成から見ることができます。

これは有名な話ですが、宮崎駿は物語作りを始めるにあたって古くから伝わる民話などを読み漁ったという経歴の持ち主です。
そして今でも残っている民話(さすがに子供向けに簡略化されたものは除きますが)の多くはこの初潮のことを扱っていたりするのです(あるいは青春期の成長ですね)。
これは実は日本だけではありません。ありとあらゆる国の民話を調べてみると、同じようなものがたくさん見つかり、構造もほとんど――というか全く同じだったりします。せいぜい文化の違いからキャラクターの立場がちょっとだけ違うというくらいでしょうか?
宮崎駿はこの構造論を自分の作品の中にも取り入れていったということになります。ただし、宮崎駿は天才なのでしょうが、それらを読み解くだけの能力はなかったようです。また自分の作品にもなかなか活かせなかった。これは本人に聞かないとわからないですが、どこまで意識してたのかわかりません。私の個人的な感想としては、彼は一人ではあそこまでの大物にならなかったんじゃないかと思います。彼を支えたスタッフ。特に絵と音楽が彼の作品を引きたてたのだと思います(ちょっと想像してみてほしいのですけど、キャラクターや背景を三流アニメのものにしてみてください。これ、売れますか?)。

ではその構造というものはどうなっているのでしょうか? これを以下では見ていきたいと思います。
今でこそ言われなくなってきましたが、「女性は汚いもの」とされてきました。
田舎の出身の方とか、お風呂に入る順番っておじいちゃんとかお父さんから入って、そして最後にお母さんじゃなかったですか? これは別に最後にお風呂に入ったお母さんが掃除とかするからじゃないのです。理由は上記の「汚い」から。特に生理がそのように見られてました(だから大人の女性であるお母さんが最後なのです)。
まあ、今は「汚い」と表現してますし、女性の方でもそう言う方が多いのですが、ようはこれは「穢れ」のことです。血ってやっぱり怖ろしいものの象徴ですから「汚い」じゃなくて「穢れ」だったのです。これを女性は表現を軟らかくして「汚い」と言っていたということになります。
宮崎駿のように初潮を扱う場合、特に初めて生理を体験した女の子にとってそれは「穢れ」であり、醜いものと感じるようです(残念ながら私は女性ではないので、本当にそう感じるのかわからないです。文化の影響もあるかもしれないですしね。でも……さすがに戸惑う気がします)。したがって、ヒロインたちは「醜い」状態にされます。『ハウルの動く城』はそのまま「お婆ちゃん」という醜く、かつ大人(すぎる)ものに変身させられます(というかこれは日本の民話そのまんまパクってますね)。これが一番わかりやすいでしょう。
あるいは『もののけ姫』などでは直接「穢れ」に取りつかれるのですよね(主人公は女の子ではないですが)。このように「呪い」のような形で表現されていたりします。
さてこの「醜いものへの変身」が一番の鍵となるのですが、それは克服されなければなりません(女の子は成長して大人の女性になるのですから)。このためある課題が渡されることになります。
その課題というのは――異性から醜くないと見抜いてもらうこと。
つまり醜いと感じているのは自分自身の一時的な嫌悪感であり、他人からその人の元の部分は何も変わっていないのだよ、と言われることによって、自分の体に起きた生理という現象を受け入れることができるのです。これは異性である男性から認められるほど効果が大きいため、昔からこの役割は若い男性に任されています。(あ、ちなみに言い忘れましたが、「呪い」は老婆=年上の女性から与えられるのが通例です)
またこれは初潮を主軸に置きながらも、時期は第二次性徴の頃ですから反抗期と重なります。
(あ、もしかして反抗期の役割ってあまり知られてないんでしょうか? 脳のメカニズムとしてきちんとしたものなのです。ちょっと脇道に逸れてしまいますが説明しておくと――人間という生物は社会生活を営みます。しかし人は最初は親の庇護のもとで育てられるものです。そのため依存しちゃう。なので反抗期というものによって、その守ってくれる人に敵愾心を覚えさせるのです。このことによって自立を目指すのですね。そして反抗期が終われば、普通に親とも仲良くなれますが、このときは自立した大人として一緒に生活することになります――まあ、現代では生物のリズムと社会のリズムがずれてきてるので、親離れも子離れもできない人たちが出てきちゃってますが。あ、余談ですけど反抗期に似たものとして「乳房の分裂」というのがあります。エヴァのサブタイトルでも使われてましたね。興味のある人は調べてください)
反抗期の説明が長くなりましたが……第二次性徴を迎えるヒロインたちは親から引き離されます。『千と千尋の神隠し』では冒頭で親から引き離されて別世界に行ってますよね? 『もののけ姫』では――順序が逆だろうよ、宮崎駿!、と思ってますが――呪われたアシタカは自分の村を出ていってるはずです。


さて各作品で上の構造がきちんと守られてるのを見ていきたいのですが――意外と文字数食ってますね。
多分このまま全部書くと文字数オーバーのエラーが出るので分割します。数日後には記事をupしますね。
by zattoukoneko | 2010-04-14 06:25 | 映像 | Comments(0)


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