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トラウマは、外科手術で消せるかもしれない!

まだ精査できていないんですが、覚書として。
以下のような論文が2016年12月8日にNeuron誌に発表されたそうです。

論文掲載ホームページ
Wu-Zhou Yang, et al. Fear erasure facilitated by immature inhibitory neuron transplantation. Neuron, 2016, doi: /10.1016/j.neuron.2016.11.018
ログインできない人も多いと思うので、上記論文を紹介したNewScientist誌の記事
Brain cell transplant helps fearful mice overcome anxiety

ざっくりまとめると、大きな音に対してすくみ行動のような恐怖反応を示すマウスを用意し、そのマウスの扁桃体に別のマウス胚の細胞を移植してみたところ、大きな音に対して驚く頻度が少なくなったというのです。
つまり、トラウマを抱えていたマウスちゃんに、脳外科手術を施してみたら、そのトラウマが解消されたよ!、ってこと。
この技術が人間にも応用可能になれば、PTSDなどの重い精神疾患に苦しむ患者さんに対し、外科手術で一気に快方に向かわせるという選択肢を増やしてあげられるかもしれないのです。
(まあ、私がツッコミ入れるとしたら、正確にはマウスの恐怖に対する反応の「頻度が下がった」ことしかわかっておらず、それは恐怖感情の低減と直結しているとまでは言えないのでは、とコメントしたいですが。マウスちゃんに気持ちを直接聞かせてもらうことはできないですからね)

この技術はなかなか興味深いものでして、というのは――
私は、鬱病などの精神疾患およびそれに対する治療に対してあまり理解のない方に、次のような説明をしていたからです。

「精神疾患というのは、神経が見た目の上でも歪んでしまうようなれっきとした病気なんです。ひどいやけどを負った人の顔などに、ケロイドがあるようなもの。ただ決定的に違うのは、やけど傷であれば皮膚移植などによって綺麗にする選択肢が採れますけど、神経の外科手術というのは難しい。ほら、神経切り貼りするって、聞いただけで痛そうじゃないですか? しかもその傷ついた神経があるのが脳だったりするわけです。手術するのが難しいって容易にわかりますよね。だから仕方なしに、向精神薬のような薬物治療によって内科的に治していくか、カウンセリングやセラピーのような手段によって時間をかけて戻していくしかないんです」

聞き手の『痛そう』って感情に頼っているので、この説明はあまり科学的・医学的にほめられたものじゃないのですが、それでも納得してくれる方は多くて重宝していました。
しかし、今後は「外科手術もできる(ようになるかもしれない)」と述べないといけなくなってくるかもしれませんね。
考えてみれば、上記の私の説明に対し、「じゃあ痛くないよう&問題ないよう外科手術の技術を確立させればいいんじゃないか?」「そもそも外科手術で精神疾患が治るかどうか、その検討してないんじゃないの?」と疑問をもち、課題とする研究者が出るのは自然なことで、今回の論文は後者の疑問に答えるものと位置づけられそうです。

手術の効果がどのくらい持続するのか、移植による問題はないのか、人間に応用できるのか……などなど検討事項はたくさん残っているとのことですが、今後の研究の発展に注目するだけの価値はありそうだと感じました。
by zattoukoneko | 2016-12-09 12:44 | 生物・医療 | Comments(0)

2015年イグノーベル賞:あぁっ、ハチさんもっと俺のこと刺して……!

今年の記事は割とこじつけ。

さて、さる9月17日に2015年のイグノーベル賞の発表がありました。ノーベル賞とは違って笑わせてくれる研究に贈られるものとして、また日本人が続けて受賞していることもあって、報道も盛んにされているという印象があります。そしてこのブログでも主張してきたことでもあるのですが、イグノーベル賞はただのお笑いなんかではなく、その研究内容は注目に値するものだという声もちらほらと聞こえるようになってきました。研究成果そのものも素晴らしいものだし、その成果を導いた研究手法も見習うべきものと私は考えています。
当ブログでは研究手法や研究に対する姿勢に注目し、個人的な意見を述べてきました。なぜなら、成果について評価するのは大変だけど、方法論についてあれこれ意見を言うのは自由気ままにできるので現代社会において科学/技術は大きな力をもったものと見做されており、その在り方について考察することは今後ますます重要な意味をもつと思うからです。イグノーベル賞は、選考過程に同様の考えをもつ人が入っているのか、研究手法で受賞が決まったんじゃないかと思えるようなものが多く含まれています。
では今年はどうだったのか。単に笑って済ませるだけでなく、そこから見える研究手法にも意識を向けられたらと思って、私も発表を楽しみにしていました。
……なのですが、蓋を開けてみたら、今年はビミョーというか。研究成果自体は素晴らしいし、一般の人の目を向けるような見出しがついているのですが、どうにもお堅いイメージが拭えない。どうしたんでしょうか、世界中から注目されてしまって、イグノーベル賞選考委員会もはっちゃけることができなくなってきたんでしょうか? 少なくとも当ブログで取り上げてきたような、研究手法に関する面白味は薄いという印象でした。
ということで、冒頭の書き出しにあるように、今回はちょっとこぎつけです。正確に言うと、その研究内容・背景にまで踏み込んで書こうと思います。なんだよ気楽に書けないじゃん!


取り上げるのは、生理学・昆虫学賞に選ばれたマイケル・L・スミスの研究。自分の異なる部位をミツバチに刺してもらい、どの部位が痛みが小さいか、どの部位が痛みが大きいかを調べたというもの。どんだけドMなんだよっていうか、私が発表を聞いたときにまさかの想像で思い浮かんだ陰部まで刺してもらったというんだから、もう変態そのものじゃんと。その印象が強すぎて記事タイトルがこんなになったという次第です(けして私が変態ってわけじゃないんだよ?)。
しかし研究の背景にまで思いを巡らせると、この手法は実に理にかなったものという気もしてきます。そのことについて、今回は述べてみようと思います。

痛みというのは、私たちにとって非常に身近なものです。転んでひざをすりむけば痛いし、足の小指をタンスにぶつければ目から火が出るように痛いし、悪いもの食べちゃってお腹を下してるときなんて神に日頃の行いを懺悔し許しを乞うことすらあります。そのくらい痛みというのは日常のそこかしこで経験するものです。
一方、医学の分野では痛みというのは非常に扱いに困るものと見做されています。痛みを散らすということも大変なことですが(痛みを訴える患者を救済するため鎮痛剤を処方する、手術を受ける患者の苦痛を軽減するため麻酔を使ったり不安を取り除くセラピーを行うなど、様々な場面で直面する問題です)、それだけでなく、それ以前の問題として痛みを測るということが難しいからです。
私たちは普段から痛みと簡単に言ってしまっていますが、その性質や原因は多種多様です。鋭い痛み・鈍い痛み、肉体的な痛み・精神的な痛み、損傷した体表面にある痛み・漠然とこの辺が痛いとしかわからない内臓の痛み。どこが痛いのか、どのように痛いのか、何故痛いのか。これらを明瞭かつ簡明に説明できる患者はまずいません。医者であっても、患者の側になってしまうと、その痛みを説明できないことを経験すると聞いたことがあります。
なお余談ですが、私は体があまり丈夫ではないらしく、胸やお腹の痛みを訴えて病院に行くことがあるのですが、そのたびに「どこがどう痛いのかな?」と訊く医師を満足させられる言葉を返せないというイヤな思いをしてきました。ちなみに私の返答例は「『ぬーべー』っていう漫画に悪魔の手というのが出てくるんですけど、いやわからないなら薔薇の蔓を巻き付けた手をイメージしてくれればいいんですけど、その手に心臓を包まれているような感じの痛みです。いや、握りつぶされているような感じじゃなくて、周りを包んでいるだけで、だから心臓が動くたびに痛いんです。……いや、だからチクチクとか、そういんじゃないんですって」とか。これはさすがに私が悪い気もする(・ω・`) でも当時は、どうしてきちんと説明してるのにわかってくれないんだ、と思ったのです。後に医師と仲良くなってこの体験について語ったことで、この背景にある問題を知り、謎が解けたように感じました。当たり前の話ですが、医師は患者の感じる痛みをすべて実体験したことがあるわけじゃないのです。そのような医師がどうやって痛みの種類を区別するかというと、教科書などに先人がまとめてくれた知識を使うしかない。書かれているのは「チクチク」とか「シクシク」とか「差し込むような」とかであり、実はその言葉も医学的に洗練されたものだというのです。そのため一般の人が感じ表現する痛みと、医者が文字で勉強した痛みの表現に乖離が生じている。そのため勉強で得た知識を患者の訴えとすり合わせる経験を積んでいない医者に当たってしまうと、患者の言葉は的外れだと見做して、あまつさえ「それって差し込むような痛み?」と医学の言葉で尋ねることさえあるのだそうです。そのような医者にたくさん当たってしまった私は、医者になろうとする者には現場の倫理をもっと学ばせるような教育体制をつくらなければいけないのではないか、と常日頃から思っているわけです。
脇道が長くなりすぎました。そろそろ戻ります。
痛みの評価が難しくなるのは、内臓痛のように患者自身が評価に難渋していることもありますし、また痛みというのは極めて主観的な感覚だからです。我慢強い人はちょっとやそっとの痛みではそもそも訴えを述べませんし、あるいはその痛みを感じているときの状況によってもその痛みの大きさは変わることがわかっています。楽しく笑っているときにはあまり痛みを感じないけれど、落ち込んで病気のことばかりに頭が行っているときには苦痛も大きくなるといった具合です。そしてさらに、落ち込んでいると精神的な苦痛も上乗せされるため、それを肉体的な痛みと分けて申告してもらうのは難しくなっていきます。
そうした事情から、痛みの評価というのはまだまだ発展途上の分野とも考えられ、様々な評価方法が考案されています。これを痛みの評価スケールと呼んでいます。いくつか例を出すと、一つはvisual analogue scale(VAS)というもの。これは、一本の直線を患者に見せ、その一方を「痛みなし」、もう一方を「耐えられない痛み」「想像しうる限り最も大きい痛み」とし、患者にその時感じている痛みはどこに位置するかと指差してもらうという方法です。そして、痛みなしから指してもらった場所までの長さ/直線全体の長さ、という数値にして評価する方法です。このVASをもっと患者にも理解しやすくしたものにnumerical rating scale(NRS)やface scaleなどもあります。前者のNRSはVASの直線に目盛りを入れておき、痛みが該当する数字を申告してもらうようにしてもらったもの。後者は直線ではなく痛みを表した顔の漫画を患者に見せて選んでもらうもので、これは小児などによく用いられているそうです。
ここで紹介した評価スケールは極めて単純なものです。患者に感じている痛みの程度を教えてもらうことはできますが、その痛みの種類には触れられていないし、生活上感じる困難なども考慮されていない。いわば一元的な痛み評価です。内臓痛のような痛みそのものを感じにくく、しかし症状などが出て不安になりやすいものにどう取り組んでいくのか。あるいは損傷した体の部位によっては日常生活動作にさほど支障が出ないため、患者が痛みを小さく評価・申告してしまう場合はどう見抜いたらよいのか。そういった課題がまだまだ残っています。

この先の評価スケールに関してはその道のプロが書いた著作物に譲るとして、イグノーベル賞の話に戻りましょう。
痛みの評価のところでちらっと述べましたが、痛みというのは部位によって感じ方が異なるものです。非常にわかりやすい例を出すとすると、蚊に腕を刺されて痒いときと、まぶたを刺されて痒いときとでは、その痛みには雲泥の差があるわけです。腕なら「かゆい……うま……」とぼりぼり掻くだけで済みますが(注:その台詞はなんか違う)、まぶただと「痛いし、煩わしいし、掻けないし、もぉおおお!」と発狂モノです。この蚊の例は経験則として(あるいは実体験したものからの伝聞として)非常に馴染みのあるものです。
『じゃあ、実際に部位ごとに違うっていうその痛みの評価をしたことってあるの?』と過去の研究を探してみると、当たり前すぎるせいなのか、全然見当たらないわけです。当たり前と思われることでも、先行研究がないなら、それを調べれば価値ある研究になります。というわけで、調べてみようと思い立ったのが受賞者のマイケル・L・スミスというわけです、蚊じゃなくてミツバチですが(論文Abstractより引用「However, the question of how sting painfulness varies depending on body location remains unanswered」)。
ただ調べようと思うのはいいにしても、克服すべき問題があります。すでに述べたように、痛みというのは主観的な側面が多分に含まれます。そのため、ミツバチに腕を刺された人と脚を刺された人とに痛みを報告してもらったとして(ここでは理解をスムーズにしてもらうために、先述のVASで申告してもらったと仮定しましょう)、その数値は単純に比較できるものではないと考えられます。
ではどうするか? 同じ人に痛みの数値を報告してもらえば比較は容易になりますが、そんな何度も刺された経験のある人なんて見つからないでしょうし、実験するにしてもさすがに被験者が嫌がって集まらなさそうです。実験することすらできないのでしょうか?
……自分が刺さればいいんじゃね?
というわけで、そう思って本当にやってしまったのが、マイケル・L・スミスというわけです。いやぁ、本当に変態、もとい科学者の鑑ですね。
なお、このマイケル・L・スミスが本記事で紹介したような痛みの評価の問題点、痛みの主観的な側面を意識して研究に臨んだということは、彼の論文に明確に書かれています。Abstractにも「…in one subject (the author)」と書かれていますし、Introductionでも研究の背景として痛み評価について触れられています(興味ある方は、Honey Bee Sting Pain Index be Body Location. PeerJ homepage から読まれるとよいと思います(リンク先英文))。


さてはて、記事内でもタイトルでも著者を変態であるかのように書き、というか本当に自分でやってしまったことにドン引きしまくりの私ではございますが、そのように研究しようと考えるに至った背景と過程には非常に納得ができると感じました。痛みをどう評価するか、研究はどうやっていけばよいのか、さすがにこの著者の真似をする人はそうそういないと思うものの、その他の研究者に注目されるには足るものだったのではと思います。
ドMな研究者がイグノーベル賞を受賞したとして終わるのではなく、痛みの評価、研究の難しさに目が向くことで、今後この分野が発展していくことに繋がればと思います。
願わくば、私のような病弱人が医者と痛みについて話し合うとき、気分よく言葉のやり取りができるような医療現場にならんことを。


オマケ
昨年のバナナの研究 も、一昨年の水の上を走ろうとする研究 もそうでしたけど、イグノーベル賞は『思い付きはするけど、本当にやる?!』って思っちゃうような研究が好きなのかもしれませんね。
細かなところでは違うとは感じますが、研究者として真摯であることを、この選考委員会は愛すべきものと見ているのかもしれません。
by zattoukoneko | 2015-09-24 02:32 | 生物・医療 | Comments(0)

PLOSの査読者は性差別的だったのか?

先日、オンラインジャーナルの一つであるPLOS ONE(あるいはPLoS One)が、論文投稿者によって批判されるという事件が起こりました。
批判をした投稿者は二人の女性研究者であり、Ph. D.取得後の研究者がポスドクになる際男性と女性の数に性差が認められることを調べ論文にしていました。これに対しPLOS ONEの査読者は次のようなコメントを付してリジェクト(=掲載拒否)したとされています。それは「共著者、あるいは少なくともピアレビューとして男性を加えるべきである。ポスドクには男性が多いとのことだが、それは男性が女性より足が速いのと同じように、生物学的な特徴に基づくものではないのか? 男性の博士課程学生の方が女性の学生よりも長時間勉学に打ち込むであろうし、そうならば女性よりポスドクになる数が多くても何ら不思議はない」というものでした。
このコメントを受け取った著者らは激しく憤り、その一部をTwitter上に公開しました。結果PLOS ONEは炎上し、担当した編集者を解任すると発表するに至りました。
この一件を知って、私はぎょっとしてしまいました。これは大問題だと感じます。
ええ、査読者やPLOS ONEに対してではありません。こんな馬鹿げた批判をしてしまった著者がいることに驚きを禁じ得ないのです。
今回はこの理由について書いてみようと思います。投稿された論文や、返ってきたコメント全文を読めるわけではないので断定はできないのですが、確認できたところを見るかぎり、査読者はむしろ貴重な意見をくれたと私には思えるのです。


さて、大きく取り上げるのはコメントの問題ですが、その前に。ちょっと学問的にも危機感を覚えるという感想を述べさせてもらおうと思います。
そもそも学問というのは、政治や社会からは切り離されているべきものです。科学などは時に大きな破壊力をもって人間社会をぼろぼろにしますから、殊更に政治の影響を受けないようにと気を付けています。
もちろん、現実的にはそのような切り離しは無理です。研究費という財政的な支援を国や企業から与えられれば、その利益になるような研究が盛んになるのは自然なことですし、そのような直接的な支援がなくとも、同じ社会で生きている以上社会の趨勢や流行り廃りが研究の色として出てくるものです。そうではあっても、せめて表面的には学問の世界は俗世からは切り離されていると振る舞うべきと研究者は考えており、ですから学会などはちょっと世の中から隔絶した雰囲気をまとうように意識されています(企業展示や書籍販売は会場から少し離れた場所にスペースが設けられるなど)。
論文の投稿や研究の発表においても、この意識は保たれています。企業等の営利団体からの金銭授受などの有無を示す利益相反(COIとも)は明示しなければなりませんし、研究内容の素晴らしさはそのプレゼンによってのみ示されなければならない。発表者の社会的地位なんて関係ないし、ましてや発表の場の外部から野次を飛ばして妨害することなんてあってはならない。論文にコメントが付いて、要修正なりリジェクトの結果が返ってきたならば、それに真っ向から取り組んで、より良いものとして仕上げた上で自身の意見を貫き通さなければならないのです(リジェクトの場合は同じ雑誌に投稿するのは常識的に考えて避けるべきですから、別の雑誌を検討)。
査読者だって色々な人がいますから、明らかな誤読をしてきたり、知識の不足があったり、人間的に優れていない人のこともあり得ます。結果を受け取ったときは、正直げんなりしますし、コメントを付けた人のことを恨みたい気持ちになることもあるでしょう。しかしそこで鬱屈した気持ちになるのではなく、「ああ、この書き方だと誤読されやすいんだな」と見直しをするのが論文採択への近道だと私は思っています。重要なことですが、受理されればその論文はもっと多くの人の目に触れることになるのです。もっとわけのわからない批判に晒されうるということなのですが、その危険性を減らしてくれているのが査読者という存在なのです(実際、査読者というのはその分野で優秀であることよりも、的外れでもいいから様々な角度から意見を出してくれる人が重宝されるのだと、大学時代に教えてもらったことがあります)。
このような立場からすれば、今回の著者らがとった行動は学者としてあるまじきものです。あまりにひどいコメントが付いて気分を害したのであれば、今後PLOS ONEなんかに投稿するのはやめて、他の学術誌で実力を示せばいいのです。これは理想論だと思われるかもしれません。けれどそもそも学問というのは理想を掲げることでその立場を維持しているものです。世論を味方につけ学術誌を批判するというやり方は、それはもう学問ではありません。「自分は正しい結果を導いている! 受け入れられないのは査読者が悪いからだ!」という意見がまかり通るようになっては、絶対にいけないからです。


とはいえ、本当に査読者のコメントが性差別的だったのなら、それを問題視するべきと考えるのもわかります(今回のようなやり方は絶対避けるべきであり、大学の指導者や学会での問題提起に出すなど、他の案を模索するべきですが)。では、そのコメントとはどのようなものだったのでしょうか? 著者らが公開したコメントの一部を、全訳して掲載します。
「一人ないし二人の男性の生物学者を共同研究者として迎え入れることもおそらくは有益なことだろう(すなわち、少なくとも内部でのピアレビューを得る、しかし共著者の方がやはりいいだろう)。時に経験的な証拠からイデオロギー的にバイアスのかかった想定に飛躍していってしまうような解釈についてチェックを入れてくれるからである。(中略)もしかすると、博士課程の男子学生の共著者が女子学生よりも平均で一本論文を多く出していることは、そう驚くことではないのかもしれない。ちょうど、男子学生が女子生徒よりも徒競走において少しばかり早く走れるように。(中略)これは〔学術研究としては〕考慮するほどの魅力がないものだろう。他の可能性としてこのような説明も提出され得るかもしれない。男性が筆頭著者となっている論文は、女性がそうなっているものよりも、平均してよりよい学術誌に掲載され、その理由として、その学術誌が性的バイアスを有しているのかもしれないし、実際に男性が筆頭著者の方が論文の質がよくなるからかもしれないし(中略)あるいは〔もっと〕単純な理由で、男性の方が女性よりもわずかばかり健康や体力で勝っているために、毎週男性の方が女性よりも一時間多く〔研究者として〕働いているから、よりよい雑誌に論文が掲載されるのかもしれない」
つまり、査読者はこのようにコメントしてくれているわけです。『あなたの提出した成果は、女性よりの意見によって飛躍を含んでいる可能性がある。もっと単純な理由で、ポスドクに性差が生じているのかもしれない。思いつくままに書いてみるけど、走るのは男性の方が速い、というような生物学的な特徴が背景にあるとか。そうであった場合、性差があるのはむしろ自然なことになるので、ジェンダー研究という学問分野で検討するには値しない(やるとするなら生物学などのもっと基礎の領域だ)。その検討をしていない以上、この論文には論証に不備があると言わざるを得ず、残念ながらリジェクトとなる。そうだな、修正するとするなら……どうだろう、せめて男性の共著者を入れてみては? 男性の視点を入れると思わぬ気付きがあるかもしれないよ』
どうでしょうか? この査読者のコメントは性差別的でしょうか?
身体的な特徴などを挙げているのは、確かに性差別的だとして槍玉にあげられやすいものとは感じます。けれどこれはあくまで仮定に対するさらなる想像であって、査読者が本当に思っていることではないと思います。むしろ懸命に想定され得る難癖を考えてくれて、そういう批判に晒されないようにするために意見をくれているように読めます。
もしかしたら、人によっては「男性の共著者を入れればいいのでは」のところに引っかかるかもしれません。実のところ、これはジェンダー研究をする者に対して投げる常套句のようなもので、私も言われたことがあります(私は研究テーマの一つとして「ジェンダーと科学」というのを持っています)。純粋な理性によって調査研究をしている者にとって、この言葉はしばしば不要なものだと考えてしまうし、思索が浅いと批判されているように感じて不快に感じることもあります。私個人としては、そろそろこの常套句もなくなるべきと思っています。それでも重要なものとして言われ続けているのには理由があります。実話かまでは知らないのですが、「あるとき労働状況における男女差に興味を持った男性研究者が、統計を取った結果、男性よりも女性の方が仕事を休みがちであると結論を得た。興味深い内容であると論文にして投稿したが、コメントに『女性の意見も聞いてみること』と付いて返ってきた。男性研究者は馬鹿にされたと思いながらも、意見に従い同僚の女性研究者に自分の論文を見せた。彼女は言った。『そりゃあ、女性には毎月生理がくるからね』男性研究者はそんな単純なことにも気付けなかったかと恥じ入り、論文を取り下げた」というお話を聞いたことがあります。非常に示唆に富んだエピソードであり、男性には女性が毎月苦しんでいることすら思い浮かばないことがあるし、それは学術研究のような理性にばかり頼ってしまうものでは身体的な感覚が抜け落ちやすいということでもある、という教訓を与えてくれています。
もう一度、このエピソードを聞いたうえで、査読者のコメントを読み返してみましょう。徒競走のような身体的な特徴を想起させるようなことが多く書かれているのは、今回の著者らに身体の感覚を取り戻してほしいと願ってのものだという気がしてきませんか?


私はこの査読者はとても優れた方だったんだろうなと思っています(だからといってリジェクトされる立場になるのはやっぱりイヤですが!)。まあ、冒頭で述べたように、論文もコメント全文も読めていないので、実際に問題のある人だった可能性も残るわけですが。
それでも、今回著者らが訳出したコメントの部分を取り上げ問題視しているのならば、それは著者らがコメントを真摯に受け止められていないことにこそ問題があると私は断じます。
今回の件で、PLOS ONEは担当した編集者を解任してしまいました。実のところ、PLOS ONEはしばしば批判に晒されてきたジャーナルです。知らない方のために簡単に触れておくと、主に医学論文を扱うオンラインジャーナルで、無料で閲覧できる学術雑誌です。紙媒体の雑誌よりも早く論文を公表できるため、非常に多くの投稿があり、それに対して高い採択率でもって掲載可の返事を出しています。年間で数万もの論文を掲載していることから、「いずれゴミ溜めのようになるだろう」なんて言われたこともありました。そんな批判に晒されながらも、最近では引用文献の出典元として見かけることも増え、頑張っているんだなあと個人的に思っていたところでした。そのような環境に置かれていて、評判を高めていかねばならないと考えているでしょうから、今回のような炎上騒ぎは避けたかったのだろうと思います。それ故の編集者解任。
しかしながら、この結末はPLOS ONEに対して、よくない印象を持たせることになってしまったのではないかと思います。今後どのようにして質の高い査読を維持していくのか気になりますし、また騒ぎを起こした学生に同情してしまう人が多くいることにも最近の学問世界の危うさを感じました。
by zattoukoneko | 2015-05-10 12:50 | 生物・医療 | Comments(3)

山極のノーベル賞非受賞は人種差別?

以前ノーベル賞最大の汚点 というブログ記事を書いて、そこでがんの研究をした山極勝三郎がノーベル賞を貰えなかったのは、選考委員の人種差別的な意識によるものだと話をしました。
その後、ノーベル賞の選考過程が公開された(後ほど詳述)のに伴い、本当にそうだったのかと詳細な調査がなされました。結果、そのようなことはなかったようである、と導かれたので、今回はその研究内容に触れたいと思います。


と、本題に入る前にちょっと脇道に。
実を言えば、前の記事を書いたとき、すでに「実際はそうじゃなかったっぽいよ?」と小耳に挟んではいました。ですが、詳細なノーベル賞の選考過程を描出するのは本ブログの趣旨には合わないかなと、詳述するのはやめていめていました。元々本ブログに掲載する記事の内容は、高校生くらいからわかるもの、大学で学んでいくにあたって興味を持ってもらえたらいいなと筆者が思うもの、そして思索を深めていく一助になるようなもの、と意識しています。
私はバリバリの理科系(というか文科系がからっきし)として高校から大学、どころか小学校の頃から進んできてまして、その中で聞いた山極勝三郎の非受賞の話は大きな活力となりました。「山極の分までノーベル賞取るぞ!」みたいな感じです。ですので、私よりほんの少しばかり遅れてくる人たちもその話を知ることができるよう、書き残しておこうと考えたわけです。それが前の記事の動機。
しかしながら、その当時から『詳しいことがわかっているなら、そっちこそ書くべきではないか?』とは思っていました。より正しいことを書くことを是とするか、ネット上の記事は興味を持たせるだけでさらなる勉強は読者に任せるという態度を貫くのを是とするか、というせめぎ合い。
大分長いこと悩んでいましたが、今では読者層もかなり変化しており、またブログ記事の内容も堅苦しい方へと傾いてきています。ですので、ここいらで山極の話も片付けてしまおうと思ったわけです。
ネット上で山極について何か読もうと思っても、ほとんどのところは新しい研究には触れてないみたいだしね!
と、脇道でしたが、この著者の意識を知っておくことは、後々内容理解の一助になるかも?

山極勝三郎がノーベル賞を貰えなかった理由として「東洋人であるから」という話は、フォルケ・ヘンシェンという人物によって明かされたとされています。ここでのヘンシェンの話というのは、1966年10月24日に東京で開催された第9回国際癌会議での記念講演”Yamagiwa’s Experimental Tar Cancer and Its Significance – from Pott to Yamagiwa”のことを指しています。
さて、ノーベル賞の選考過程は秘密にされ、その内容が公にされるのは50年後と決められています。寄生虫によってがんが発生することを発見したとしてフィビゲルがノーベル賞を受賞した(そして山極がもらえなかった)のは1927年のことです。
おやおや? 何だか計算が合いませんね。単純に50年後に選考過程が明らかにされるとした場合、それは1977年を待たねばなりません。となると、記念講演をしたヘンシェンが何者かというのが気になります。彼は公式文書の公開を待たずとも、その内容を知ることができた人物なのでしょうか?

まずはノーベル賞の選考過程についておさらいしておきます。
ノーベル賞は世界各地の研究者から推薦状がノーベル賞委員会に届くことから始まります。そしてこれを元に候補者を絞り込んでいきます(第一次選考過程)。推薦状は山のように届くため、多くは以前に名前が挙がったことがあるかによって振るい落とされてしまうそうです。
次に受賞者になり得ると思われる人物について、その道の詳しい人に業績に関する報告書をまとめてもらいます。これを受けてノーベル賞委員会が最終報告書をまとめます(第二次選考過程)。この報告書が提出されるのは賞によって異なっており、物理学賞、化学賞、経済学賞ならばスウェーデン王立科学アカデミー、文学賞ならばスウェーデン・アカデミー、そして今回の生理学・医学賞ならばカロリンスカ研究所となります。これが毎年の9月半ば頃のこと。
最後に、報告書を元に教授会が開かれ、受賞者が決定されます(最終選考過程)。ほとんどの場合は報告書が出されたものがそのまま通るのですが、生理学・医学賞のカロリンスカ研究所の教授会はどういうわけか結構な率で否決します。そうなると報告書を再提出してもらったり、あるいはその年には受賞者は選ばれなかったりします(ただしノーベル賞は必ず受賞者を出すことになっているため、適任者なしとなったり、戦争などの理由によってそもそも受賞者を決められなかった場合は、次の年に前年の受賞者を決めることとなっています)。

さて、問題のフォルケ・ヘンシェンです。彼はカロリンスカ研究所の医学博士で、1926年に山極勝三郎について報告書をまとめた人物でした。しかしながら、山極がノーベル賞を貰えなかったという歴史的事実からもわかるように、ヘンシェンの報告書を受けたカロリンスカ研究所の教授会は山極への授賞を否決しています。
ここで重要となるのは、ヘンシェルは選考過程の一部には関わっているけれども、選考の内容を直接見聞きする立場にはなかったということです。そしてそのことは、先の国際癌会議での発言は、(それがどんな内容であれ)選考委員としてのものであるはずがなく、したがって責任ある立場としてのものではなかったことを意味しています。

では、選考の内容とはどのようなものだったのでしょうか? ヘンシェンが責任ある立場ではなかったとしても、もしかしたら選考委員から暴露話をされていたのかもしれません。次に公開された文書からわかることに触れたいと思います。
山極勝三郎の推薦は1925年に初めてなされたようです。これは東京帝国大学医学部の林春雄らによってなされました。しかしこの推薦に関してはノーベル賞委員会は特別な注意は払っていなかったようです。私が思うに、まだ一回しか名前の挙がっていない山極では、山となった推薦状に埋もれてしまったのでしょう。
二回目の推薦は翌年の1925年になされました。それはルドウィヒ・アショフという人物によるものでした。アショフはフィビゲルと山極の二人を推薦しており、その理由は二人の実験ががん発生に関するウィルヒョウの刺激説を立証したからというものでした。
そもそも以前はがんというのはどうして出来るのかわかっておらず、例えば、受精卵が細胞分裂を重ねて体の組織を作っていく中で、通常あるべきではない場所に別の組織が入ってしまったことによる、などと考えられていました(腸壁などに肉の塊である腫瘍ができることをイメージすれば、この仮説はわかりやすいかと)。これはがんが先天的な要因による疾患であるという考えですが、これに対し、ルドルフ・ウィルヒョウはがんは後天的な要因によるものであると考え、しかも繰り返し作用を受けることで発生するのであると仮説を立てました(注:毒などは一度きりの作用で体に影響が出ますが、がんは発がん性物質などによって繰り返し刺激を受けることでDNAが傷つき、次第に良性腫瘍、悪性腫瘍へと進んでいきます。反復刺激説は、原因物質はともかくとして、このような発生過程を持っていると推測したもの)。アショフの推薦状によれば、フィビゲルはネズミの体内に入った寄生虫ががんを発生させることを発見し、世界で初めて刺激によってがんが発生することを報告したことに意義があるとされました。しかし正確には、寄生虫が出した化学物質ががんを発生させるのであり、現在ではそちらこそが発がん性物質として捉え直されています。よってタールという具体的な化学物質によってがんを発生させたことに、山極の研究意義があるとアショフは続け、したがって二人が同時に受賞することが望ましいと考えていたようです。
これを受けてノーベル賞委員会は選考に山極とフィビゲルの二人を残し、ヘンシェンとベリストランドという人物の二人に報告書を求めました。
まずはヘンシェンについて。フィビゲルに関しては授賞させるか検討されたことがすでにあり、その結果の妥当性に疑問が付いたため見送られたという経緯がありました。しかし、ウィルヒョウの推薦にあるように、フィビゲルや山極の成果はウィルヒョウの反復刺激説を立証したという成果がすでに認められており、山極についても日本だけでなく各国で追試の成功が報告されていることから、授賞に値するとヘンシェンは結論します。
次にベリストランド。彼はがん研究において生化学的な流れが生まれていることを気に掛けています。つまり、フィビゲルの寄生虫によってがんが発生するという説は、実際には別の化学物質が間にあるとされていたり、山極の研究も、コールタールという漠然とした物質を用いていて、その中の何が原因か特定するには至っていない、ということが、さらなる研究課題として残されていると見ているわけです。具体的な発がん性物質を見つけることこそが重要であり、「反復刺激」というそれだけでは授賞するに値しない、少なくともそちらの研究に貢献したのかどうかがはっきりするまで保留すべきという態度となります。
これら二つの報告書を受けて、ノーベル賞委員会は最終報告書をまとめます。そしてすでに述べたように、これを受け取ったカロリンスカ研究所の教授会は、フィビゲルへも山極へも授賞は見送ると答えを出します。これによって1926年の賞は翌年以降に見送るか、再審査となりました。
再度有力候補についての報告書が集められる中、ヘンシェンのみは懲りずにフィビゲルと山極に関する意見書を提出しました。そしてこれは重要な意味を持つことになります。彼はがん研究の候補者を一人に絞り込もうと思ったのか、フィビゲルの研究は山極よりずっと先になされていて、その業績が反復刺激説を確定的なものとしたとして、こちらこそが受賞するに相応しいと述べているのです(なお、後半は以前のベリストランドの報告書に関する反論であり、先延ばしにする必要はないというもの)。このヘンシェンの報告書によって、山極が候補者から外されることが確定的になったようなのです。
結局1926年のノーベル生理学・医学賞授賞は見送られましたが、翌年の選考過程でも山極の名前は早々に外されることが決まりました。時折選考途中で山極の名前が出てくるようですが、それはフィビゲルの成果を後押しするために用いられてます。そして結果として1927年に、1926年の分としてフィビゲルが生理学・医学賞を受賞するのです。
このように、選考過程において人種差別的な考えによって山極勝三郎への授賞をなしにしたということはなさそうだとわかります。むしろ(科学的な成果はともかくとして)議論としては非常に筋の通ったものと思われます。日本人である私たちとしては「ヘンシェンよ、そこで何故山極を外したぁあ><」と悲鳴を上げてしまいそうなところですが、注目されるべき研究分野で誰かを受賞させてあげたいと思ったら、より業績として認められている人物に候補者を絞り込もうと考えるのも自然な流れかと感じます(補足ですが、フィビゲルの業績が完全に否定されるのは、1952年とノーベル賞よりずっと後のことです)。

では、どこから「東洋人にノーベル賞はまだ早い」なんて意見が出てきたのでしょうか?
ヘンシェンが1966年の国際癌会議の記念講演の中でそのような発言をしたとされていますが、彼の講演内容はその全文が雑誌GANNに掲載されており、そこにはそのような文面はありません。それより前だと吉田富三という人物がヘンシェンから聞いた話として1965年に報告しているものがあるのですが、そこには「日本人にノーベル賞はまだ早いという主張で」という内容があるのですが、どこまでがヘンシェンの直接の言葉で、どこからが吉田の言葉なのか曖昧なようです。
吉田よりさらに前に遡った調査によると、東京帝国大学医学部の中に、1940年頃から「日本人であったから、山極は受賞できなかった」とする見解があったそうです。東京帝国大学は山極勝三郎が研究成果を生み出した場所であり、1925年の推薦を行なった人物らの所属するところでもありました。
今回紹介した研究では、山極の非受賞によって悔しい思いをした東京帝国大医学部という集団があり、そして代わりに受賞した(正確には同じ分野で受賞した)フィビゲルの成果も誤りだったとわかっていくことで、山極こそが受賞すべきだったという感情が芽生えていったのではないかと推測しています。
これに私の感想を加えたいと思います。冒頭で述べたように、山極の記事を書く際、これから科学に興味を持って取り込んでいく人たちに興味を持ってもらいたいという意識がありました。がんというのは現在でも死亡原因の上位を占める疾患であり、国際的に見ても重大な研究課題となっています。それに参画して大きな成果を収めた山極はやはり誇らしい存在であると思います。興味を持ってもらうというのは教育的な側面があるということですが、その際に受賞を逃したことの理由も求められると思います。「人種差別によるのだ」という説明は非常に短絡的ではありますが、業績が素晴らしいと信じている人には縋りつきやすいものなのでしょう。選考過程がまだ秘密にされていた当時の時代では、想像に頼る部分が大きくなるから殊更でしょう。東京帝国大学医学部の人たちも、教育的なエピソードとして山極を紹介する際に、その非受賞の説明に苦慮したのかもしれません。


さて、今回は山極のノーベル賞非受賞にまつわる話をしました。これまで語られてきた「日本人への人種差別によるものだ!」という説明は、こうした精緻な研究も出てきたことだし、今後消えていくべきなのかもしれません。それでも山極の成果は称えられるに値するものであり、どのようにして教育的な逸話としていくかが課題となってくるような気がします。
まあ……ノーベル賞の選考過程を、いかにうまく説明するかが難題ですよねぇ。
by zattoukoneko | 2014-10-19 20:30 | 生物・医療 | Comments(0)

アハ体験はエウレカ効果と呼ぶらしい

覚書なので後でまとめ直すかも。

非公開コメントが付くことがあるのですが、その中で「このブログのアハ体験の記事見ました!」というのがありまして。
確かにこのブログに掲載されている記事で最も多く読まれているのはアハ体験の本当の意味とはという記事なのですよね。
でも、心苦しいことに私はその分野の専門家ではないし、その後の動向を追っているわけでもありません(茂木健一郎さんの論文もきちんと読んでいるわけではないとは、元記事でも述べている通り)。ただ、このブログは母校の後輩が見てくれているのだと知って、『なら今後勉強して物事を理解していくにあたって、有益な方向性を示せれば』という想いから更新を頻繁に続けたという経緯があります。その際にどうしても茂木さんのアハ体験という捉え方はじゃm――げふんげふん、有害だったという(←言い換えても何も変わってない)。
ただ記事を書いた後も『これで本当に当っているのかなぁ?』と思うことはありまして。私の主張はAha Experienceの前後で不可逆な変化があるというが主張の中心であり、それはゲシュタルト転換のようなものとは明確に区別されるべきというものです。一方の茂木さんは「あ!」とか「なるほど!」と言いたくなるような体験すべてをひっくるめてアハ体験と述べているように思え(少なくとも「あ!」と思ったときの区別を明確にはしていない)、可逆不可逆を問うていない。実のところ、茂木さんの捉え方の方が正しくて、「あ!」と口にしたとき、脳内のシナプス間の情報伝達は可逆不可逆関係なく同じなのかもしれないわけです。私はここまで調べてないし、理解も出来ていない。なので私の区別をそのまま鵜呑みにされている方がいるのは『心苦しいなぁ』と(区別ができるということまでは、私は確信していますが)。

で、話は冒頭に戻り。
今回コメントが付いたのをきっかけに、再度「Aha Experience」というのをネットで検索してみました。
そうしたら! Wikipediaに新しく項目が追加されているじゃあないですか!
英語版ではあるのですが、これは目を落とすに値すると思い、こうして紹介記事を書くことにした次第です。……前置き長いって? まあまあw
Eureka Effect
今では名前が「エウレカ効果(ユーレカ効果)」となっているようです。アハ体験より響きがいいですね、緑髪の少女を思い出しますし
もちろん名前が私の知らないものに変わっていたというだけでは、ブログ記事を書くには値しない。私が注目したのは、科学史上の重大な発見と結び付けられていたことです。
アルキメデスは納品された王冠が純金製かどうかを壊すことなく見極めることを命じられ、考えながらお風呂に入った際、浴槽から溢れたお湯を見て「比重」という考えを思い付いたとされています。
アインシュタインの相対論も、大抵の解説には日常生活とは経験則が異なることが書き連ねてあってわかりにくい印象を受けますが、その発想のきっかけはアインシュタインがエレベーターに乗ったときに得られたものだと言われています。
私の以前の記事では、ここまで科学論に結び付けてAha Experienceを説明できていませんでした。科学史上重大な発見が、ここで説明されているように「あ!」という突然の閃きによって生まれているのだとしたら。それはセレンディピティと並ぶほどの、科学認識論の分野で注目されるべき事項なのではないでしょうか。
このように思い、まだ私自身精査できていなながらも、覚書として書きしたためることとしました。

……まあ、結局のところアルキメデスの理解も不可逆性を持ってるのだから、アハ体験ていうのは(ry
by zattoukoneko | 2014-07-28 01:02 | 生物・医療 | Comments(1)

細胞分裂はどう起こるのか。

細胞というのは分裂することによって増えます。これによって生物というのは増殖したり、その体を大きくする・損傷した部分を補うわけです。
生殖細胞や受精卵の細胞分裂は、その他の細胞と仕組みが異なるため今回は割愛することにします。話のメインはそれを踏まえての……ミトコンドリアの話ですから。


さて、細胞分裂の話をするといっても染色体が分かれるところから話をしていくと大変な量になってしまいますね。そもそもDNAやRNAといった核酸と染色体の違いも話していませんし、それらの配列がどのような機構によって起こるのかなんてことを話していたら読んでる人が途中で匙を投げてしまうと思います(苦笑) 今回は分裂のとても初歩的な話をしてそれでおしまいにしようかと。それで流れは十分わかるはずですし。

細胞は分裂の準備が整うと、細胞膜がくびれるようにして二つに分かれます(植物細胞の場合は強固な細胞壁があるためにその様子が観察しにくいですが)。ここまでは中学や高校で教わっていて、教科書などにも図があるかと思います。
では? この細胞のくびれってどうやって起こるのでしょう?
つまりこの動きを起こす力が働かないと、細胞膜はくびれてくれないわけです。まさか細胞膜に神秘的な意思があってそれによって動くなんてことはないでしょうしね。この点を高校生物などではきちんと教えてくれていません。なのでここの説明をしましょうということです。

実は細胞分裂が起こる際には、膜の内側にアクチンリングというのが張り付きます。アクチンについては生物をやっていたら覚えているかと。筋肉の収縮に関わるアクチンフィラメントとミオシンフィラメントのあれです。
アクチンはタンパク質の一種で、ひとつだけだと球状のものになります。これが数珠のように繋がって、アクチンフィラメントやアクチンリングというのになります。これが形状変化することによって収縮運動を起こすのですが――まあ、この内部機構まで触れると色々と化学物質について触れないといけないので割愛します。というかこういう細胞内で動くタンパク質ってたくさんあって、それらに関してはまだまだ研究されていたりしますw 今は大分理論先行ですかね、実際に動くところを観察できたとかは今年ニュースになったりしてました。

さてこのアクチンリングによる細胞分裂ですが、重要なのは細胞膜の『内側に』張り付くということです。これが意味するのは次のようなことです。
I. 細胞の分裂は、その細胞の外側から強制的に起こるわけではない。
II. 分裂の際につくられるアクチンリングのアクチンは、その細胞自身の核からの指令によってつくられる。
どういうことかというと。これまで細胞の分裂というのは脳とかあるいは別の器官から「今分裂をして成長しろ」と強制的に分裂させられる可能性があった。したがって脳が体の成長すべてを支配しているかもしれないと考えられたわけです。もしそういうことになれば極端な話、『背が伸びろー』とか『胸が大きくなれーー』と思い込めばその通りになったかもしれないというわけです。
しかしながら細胞の分裂はその細胞自身の判断に委ねられているということがわかったのです。ただし細胞はそこまで自己中ではないので(笑)、きちんと周りの細胞のこととかも考えます。これに関しては以前contact inhibitionについて説明したときに触れました( contact inhibitionについて)。ただしガン細胞のようにこれを無視したりするものもあります。
ま、ようは細胞の分裂はあくまで細胞自身の判断によりますよということです。


さてはて。ここからミトコンドリアの話に移りましょう。
ミトコンドリアも前回の記事で述べたようにきちんとした一個の細胞、そして生物です。あくまで細胞内に共生しているというだけ。となるとこっちも自分勝手に増殖することができるかもしれない。――この仮定のもとで創作されたのが『パラサイト・イヴ』です。
で、実際このアクチンリングの発見によってわかったことは。
   ミトコンドリアの場合にはアクチンリングは細胞膜の『外側』に張り付く。
ということでした。つまり通常の細胞とは違うということです。通常の細胞は自分の判断で分裂をしました。ところがミトコンドリアの場合は『自分の判断で行なうわけではない』のです。そのアクチンは宿主細胞の核からの指令によってつくりだされることがわかりました。したがって――
   ミトコンドリアの分裂は宿主細胞によって支配されているということです。
つまり細胞共生説にあるように細胞内にミトコンドリアが入ったとき、実はミトコンドリア内の分裂に関わる核酸が宿主の方に奪われていたというわけですw
したがって『パラサイト・イヴ』のような怖い事態はまず起こらないということが現在はわかったわけです。

ま、かといってここに色々な想像を入れる余地がなくなったわけではなくw たとえば宿主細胞とミトコンドリアを擬人化して、その両者の間でどのような闘争があったのかとかを描くことは可能だったりするわけですw まあ『パラサイト・イヴ』を越えるためにはそれなりの生物学の知識が必要になってくるわけですけどねー。



ということで今回はこの辺りで。次回は『パラサイト・イヴ』の話をしようと思います。瀬名秀明原作の小説とスクウェア(現、スクウェア・エニックス)によるスピンアウト作品ですね。これはーー、分けたほうがいいのかしら? 結構入り組んでるし、(よく誤解されているのですが)ストーリーはまったくの別物だし。
ま、ある程度まで書き進めてみて再度練り直ししようかと思っていますです。
…………『3rd birthday』の発売日が近いorz
by zattoukoneko | 2010-12-03 21:31 | 生物・医療 | Comments(1)

今回は細胞の構造基礎

今回は細胞の基本的な話をしたいと思います。内容は高校の生物レベルくらいで、重要なポイントに絞っていく感じで。

まずは細胞の図を見せてしまうのがいいと思います。人間のような真核生物の細胞を今回はメインで扱いますね?
b0118096_20163350.gif

この図は見やすいように色がついてますが、実際にはそれぞれの部位にはほとんど色がついていません。植物細胞だと葉緑体があって、これは緑色をしているので判別できますが、それ以外はうっすらとした影程度ですね。
以前細胞膜の話を記事にしたことがあります(ウイルスの基本構造 )。ここで重要なこととして細胞膜はリン脂質二重層という仕組みを持っているということでした。今回は細胞内小器官を見ていきます。
まず大体中心に核があります。核は核膜に覆われています。
他には小胞体。これは図ではとても省略されていますが、細胞内のほぼすべてを埋め尽くすほどです。またゴルジ体というのは小胞体と連携しているものです。それぞれの働きは次の通り。まず核内にあるDNAからmRNA(メッセンジャーRNA)というものがつくられます。mRNAは核膜にところどころ開いた核膜孔というものを抜けて外へ。これが小胞体(の中でもリボソームの埋め込まれた粗面小胞体)にくっつき、そこに記録されているものを読み解かれます。と同時にタンパク質が合成され小胞体内部へ。タンパク質鎖が一通り出来上がると小胞体内で折りたたまれてタンパク質となります。これが小胞体からゴルジ体に移されながら硫黄化される。完成したタンパク質が細胞内で使われるものである場合はそこから細胞内に放出され、細胞膜上・あるいは細胞の外に出て離れた他の部位に作用する場合にはリソソーム(図ではライソソームとなっていますが)に包まれて運搬。細胞膜にくっつくことでリソソームが開かれ、細胞膜上なり細胞外へとタンパク質が提供されます。
――と、ここで小胞体から細胞膜までがスムーズに動いている気がするかと思いますが、実はリボソーム以外は(核膜も含め)すべてリン脂質二重層できており、つまり化学物質としてはまったく同じなのです。なので簡単にくっつくことができるのです。(なおリボソームはタンパク質とRNAの集合体です。まるで細胞膜にタンパク質が埋め込まれているみたいですよね、粗面小胞体というのは)

さて次にミトコンドリアというのを見てみましょう(今回は動物細胞なので葉緑体はありませんが、図表などで確認してもらうと次の説明がそのまま当てはまるのがわかるかと思います)。
ミトコンドリアには二枚の膜がありますね。外膜と内膜と言いますが、これはどっちもリン脂質二重層の膜でできています(あ、生物嫌いになる人の多くがここで混乱するのですが。膜一枚にリン脂質が二重になっているということであって。「合計すると四枚になる」とか「リン脂質二重層だから二枚」とか思わないでくださいね?)。
実はミトコンドリアには核とは別に核酸をもっていることがわかっています。そしてこの二重膜という構造の示すところは、昔宿主となる細胞に「別の生物が入ってきた」ということ。つまりミトコンドリアや葉緑体は人などの真核細胞を宿とし、そこに共生しているものだということです。

葉緑体は有名で光合成を行う器官です。光エネルギーを吸収し糖を二酸化炭素から合成。デンプンとして蓄えます。
ミトコンドリアは逆にエネルギー(正確にはエネルギーの通貨と呼ばれるATP)を生成します。さらにはミトコンドリアの役目に、アポトーシスを引き起こすというものが。これは細胞を壊死させるということ。胎児の手は最初の頃は両生類のように水かきがあったのが、それがなくなるのはミトコンドリアの力によるとされています。


さて予告で『パラサイト・イヴ』の話をすると述べていましたが、この物語はミトコンドリアは「共生」しているのではなく「寄生」しているのだという考えによるものです。その記事の中で詳細は述べますが、当時これを否定することはできなかった。したがってフィクションでありながらとても現実味があったのです。そう考えるととてつもないホラー小説ですね、実際にいつ起こってもおかしくない話なので。


と、今回はこのくらいで。まずは簡単な高校の生物基礎で留めておこうかと思います。次回は印象的な順番を考えますが、「細胞分裂の詳しい仕組み」か「『パラサイト・イヴ』の紹介」のどちらかとなります。
てなわけでまた今度~。
――ちなみに。高校生物の難しさなめるなー? 今回のは基礎中の基礎だから受験生はここ読んでわかった気になったらダメだぞー。(まあ時期が時期なので念のための注意)
by zattoukoneko | 2010-11-25 20:16 | 生物・医療 | Comments(0)

絶対音感のつくりかた

タイトルは「絶対音感のつくりかた」なんてことになってますが、今回はもっと幅広くいこうかと。「虫歯にならない体質のつくりかた」とか。

ただ前回出した記事である効率的な痩せ方 と同様、身につけられるのは期間限定となります。しかも幼少期です。なので……これを読める年齢の人たちはもう無理です(涙) なのでやるとしたら自分の子供たちに対してですかねー?(ただし私なりの反対意見もあります。最後に書きますからそれも是非見て一緒に考えてもらいたいところです)


さてタイトルとは違いますが説明の簡単(というか流れのいい)虫歯の話から。
実は虫歯菌(と言ったほうが伝わりやすいですよね)は人間の口の中には生まれたときには存在してません。これは外から入ってくるものです。
ここから少し細菌学の話を。
そもそも体内などの特定の環境の中では様々な細菌が集まっています。悪玉菌なんてよく聞きますが、こいつらも普通に体の中にいます。むしろ全部なくすのはよくないのですね。細菌たちはお互いにバランスを保ちながらそこの環境をつくりあげています。これを細菌叢といいます。腸内フローラなんてのは結構聞くんじゃないかと。日本語にすれば腸内細菌叢となります。
まあこの辺の細菌の話は専門書とか読むと難しいのですよねー。……私としては日本の学者の文章力のなさのせいだと思います(洋書のほうがはるかにわかりやすいですから)。まあ日本には実は名著あり! しかも漫画!!(学者よ、負けててどうする?) まあすでに有名ですが、読んだことのない人は読むべし。もやしもん(2) (イブニングKC (126))(あ、巻数どれだか忘れてしまったので外れてたらごめんなさい……)

さてこの細菌叢ですが、これは先に述べたように生まれたときには胎内にいるときに入ってきた細菌によって主につくられています。このときには虫歯菌というのは赤ん坊の口の中にはいません。
虫歯菌が入ってくるのは生まれてきてからです。これは飛沫によって口の中に入ってきますが、それなりの数が入ってこないとならないので(他の菌にやられるくらい弱いので)空気中に漂っている菌では口の中では十分に数が確保できません。ではどうやって入ってくるかというと――
   親からのキス
などです。他には食べ物を与えるときに熱を冷まそうとして息を吹きかけるかと思いますが、このときに唾液が飛ぶことがあるのですよね。ここから虫歯菌が入ります。

人体内の細菌叢は大体生後一年くらいで決まります。ようは一歳ちょっとくらいで虫歯になる体質かどうかが決まるというわけですね。
ですので自分の子供を虫歯で苦しませたくないという方はいくら可愛いからといってキスなんてしないようにしましょう。



さて次に絶対音感の話。――というか脳の神経の話です。
実は幼少期には非常に多くの神経が脳の中にあります。ですがこれはそのまま持っていると人間の生活に支障をきたすほどのものだったりします。そのため「使わないと判断された脳神経はアポトーシスを起こして消えてしまいます。
よく日本人は英語がしゃべれないと言われます。TOEICなどでもリスニングがありますが、日本はずっと下のレベルをさまよってますね。これは日本には母音が「あ・い・う・え・お」しかないからですね。英語なんかはもっと多いので、その分神経が残るというわけです。
では絶対音感とは何か? ようは聴覚に関係する神経が非常に多く残っているということです。となればすることは簡単で、小さい頃から子供にピアノなりなんなりをやらせておけばいいというわけです。
この神経が取捨選択されるのは大体五歳くらいまでとされています。ここまでは聴覚に限らず、記憶をつかさどる神経なども取捨選択されますから、うまく教育すればとんでもない天才に育つ可能性があるということです。



と、こんな感じで幼少期の話をしてきて、これは現在推し進められようとしています。また私自身もそんな感じでここまで書いてきましたね。
じゃあ……ここから反対意見を述べさせてもらいましょうか。受け売りなんかやつまらないのでね。

小さな子供に教育を施せば上記のように多才な人間に育つ可能性が出てきます。ですがそこに子供の意思はあるのでしょうか?
五歳くらいにならばかなりの自我が形成されていますが、二、三歳の子供はどうでしょうかね? これって極端な言い方をすれば虐待です。またその子の人生を親が決め付けようとする大きな圧力が働いていることも紛れもない事実です。家業や自分のやっている、またはやりたかったスポーツや趣味を親は子供に押し付けがちです。これは、親にとってはそれがいいと思ってやっていることでしょう。ですが自分の子供だって『他人』ですよ? その子は親とは違った時代・環境の中で生きていきます。当然考え方は異なった別人になるに決まっているのです。にも係わらず、幼少期からその子の人生を親が左右していいものでしょうか?
もちろんまったく教育をしないのも問題でしょう。ある程度は導いてやらねばなりません。悪いことをすれば叱らなければならない。社会の道から外れそうになったらそれを直そうとしなければならない。それは親の義務といえるでしょう。だから“ある程度”ならそういうことだって必要なはずです。そこまでは私も否定するつもりはない。
ですが「絶対音感」のようなものはその後の人生を大きく決め付けます。これ、社会的にいいものだとされているからそうは言われないですけど、『障害』と同じです。
これを大袈裟と言うなかれ。絶対音感の持ち主で苦しんでいる人って実は結構いるのですよ? 私は絶対音感を持ってないので想像するしかないのですが、話を聞いた限りだと耳に入ってくる音のすべてがドレミファソラシドなどの音符に即変換されるそうですね。つまり絶対音感の持ち主は生活している中で常にすべての音を分類していっているということです。この情報量に耐えられますか?
また記憶力の非常に高い人もそれに苦しみます。一番有名なのはロシア(だったかな?)でいた、「すべてのものを忘れることができない」という人ですね。大学の教授に発見されて、しばらくの間研究に協力していました。授業などで学生に適当な数字を羅列させると、それを暗唱できるのですよね。しかも数年経ってもそれを忘れません。
この研究は人間の記憶のメカニズムにある程度の貢献をしました(そのうちこの人の持っていた記憶術でも紹介しましょうかね)。ですが最終的に教授も被験者もその実験をつらいものだと考えてやめています。
まだこの人って生きてたかな? その後はそういう記憶力を使わないような(でも一生離れることはありません)のんびりとした人生を送っていると聞いていますが。



総括しましょう。
虫歯になるのはイヤーーー!!(ぇw
まあ、親は子供に良かれと思って早期教育をするのでしょう。そしてそれを全面否定することはしません。でもそのすべてがいいことなのかどうかはきちんと考えなければならないと思います。社会的にいい能力だと言われているからといって、それを身につけさせることには私は疑問を提示します。他人と違うことはルサンチマンを生みます。ルサンチマンの克服について
まあ、虫歯になるのはイヤなので(繰り返してみる)、そういうところは残したほうがいいのかもしれない。でももっと社会は慎重になるべきだと私は考えています。
by zattoukoneko | 2010-07-17 06:46 | 生物・医療 | Comments(1)

効率的な痩せ方

今回は効率的に痩せる方法についてです。あとはその他あれこれ。まあ、これは穴埋め記事に近いので気楽に読めるかと。(まあ、いくら後に繋げようかとは思ってますが)



まずは痩せるにあたって、脂肪細胞についての知識から。
脂肪細胞というのは名前からある程度想像できると思いますが、脂肪を蓄積する細胞のことです。別に体の中に脂肪が直接溜まっていくわけではありません。
この脂肪細胞というのは他の細胞と違って増える時期が限定されています。その後はずっと固定です。
増えるのは幼少期に二度。生まれてから1歳ほどまでと、5歳のあたりまでの二度です(ここはあえて曖昧にしておきます)。それと一番期間が長く、重要なのは成長期の頃。10歳頃から17歳の半ばまでです。
この時期に栄養を取りすぎると(見た目的にも太るのですが)、脂肪細胞が増殖することとなります。この数が多ければ多いほどその後太りやすくなるというわけです。
――と、ここで疑問に思う方もいるかもしれません。脂肪の細胞が増えないのに、成人してからも太るじゃないか、と。
確かに細胞の数は増えません。しかし「その中に入る脂肪の量が増えて膨らむ」のです。大体40倍まで膨らむとされています。(ただしリバウンドを繰り返すとこの限界値が増えるとされてます。下手にダイエットをして、すぐに気を緩めないように!)
さてこれが「脂肪細胞全体」の概説ですが、脂肪細胞には大きく分けて二種類あります。白色脂肪細胞と褐色脂肪細胞というものです。

まず白色脂肪細胞は、みなさんのイメージする脂肪のこと。こいつが増えると太りやすい体質となります。
一方の褐色脂肪細胞というのは熱を発散させる作用があります。これは脂肪細胞ではあるわけですが、どんどん体内に溜まった熱を外に出してくれるので、数が多いと太りにくい体質になるわけです。
となれば、いかに白色脂肪細胞を増やさず褐色脂肪細胞を増やすかが太らない体質をつくるためには大事になります。ということでここからは褐色脂肪細胞の増やし方。

まず褐色脂肪細胞というのは背中の首元から肩甲骨の辺りに大きく分布しています。次に多いのがお腹の上部ですね。みぞおちのちょっと下辺りと思ってくれればいいかと思います。
で、ここの活動を促進してあげればいいのです。つまりはどんどん熱を出させると。
一番効果的なのは水泳ですね(あとでこれはもう一度触れます)。運動して体温はもちろん上昇しますし、一方で周りには水があるのでどんどん熱を奪ってくれます。またサウナがあるところほどベター。サウナで体を温めてからプールの中に入ればより効果的に熱を褐色脂肪細胞から奪ってくれます。(ただし急に飛び込むのは心臓への負担が大きいのでダメ!)
ただ水泳のできるところってなかなかないですよねえ。スポーツクラブなんて「ぼったくりだろ!」というくらいに値段がしますし。ということでもっと簡単な方法をば。
ようは体を温めて、その熱を褐色脂肪細胞から出させればいいわけです。なので「お風呂とシャワー」を使えばそれでOKです。

以下、具体的なやり方。
湯船に熱めのお湯をはっておきましょう。ちょっと入るのに躊躇うくらいでいいでしょう。そこに首まで使って、熱さを感じなくなるまで我慢します。時間的には30分くらいあれば十分かな? ここは個人個人で環境への適応力が違うので、早い人は10分とかで慣れるかと。
次にシャワーでぬるま湯(かなり冷たいと感じる程度)をうなじの辺りからかけていきましょう。ぬるま湯にしておくのはプールでの話と同じ。心臓への負担が大きくなるのを避けるためです。このぬるま湯に慣れてきたら温度を徐々に下げていきましょう。これも10~30分くらいですかね。あんまりやりすぎると体が冷えすぎるので注意してください。
これを大体一日に4セットくらいやります。すべてで30分かかるとかなりの時間になってしまいますが、まあ2時間程度で終わると思いますよ? 女性の平均入浴時間を考えればこれはそんなに長くないかと。
と、こんなふうなことを成長期の頃にしておけば太らない体になるわけです。あるいは運動不足とかが重なってもすぐに元の体重に戻せますね。
ちなみに私の体重ですけど45キロです。いくら食べてもまったく太らないですねえ。(なんかIBMでみると痩せすぎだから、一日に2300キロカロリー摂れとか出るんですけど……あー、その数倍食べても変わらない場合どうしろと?)


お? もしかしてこの記事を読んでる人の中には「成長期過ぎてるんだけど?!」と思っている方もいるかもしれませんね。
確かに褐色脂肪細胞を増やせる時期は限定されています。ですが大人になってもここから熱が発散されることには変わりません。ですのでまったく同じことをやれば効率的に痩せられます。さすがに体質は変わりませんが(時々活性化されるなんて情報を見ますが、正式な論文での発表は私は見たことないかな)、簡単に体の熱を上げられてそれを外に逃がすことができるので痩せるのには効率的なのです。



さて、効率的なダイエット方法を教えたところで、巷に流れている誤情報をびしばし切り刻んでやりましょう(笑)
まず、「一ヶ月で5キロ減!」とかよく聞くわけですが――そもそも普通に運動してれば一週間で5キロ減るのが当たり前です。そしてそこから体内のホメオスタシスなどの作用により停滞します。これがちょうど一ヶ月間続きます。なのでこの売り文句は当たり前すぎるというw だからどこもかしこも「5キロ」と言ってるわけです。そこが限界ですから。(なお次の月からはゆっくりと落ちていくようになるはずです。体がうまく痩せる方向に調整されていればそうなるかと)
あとダイエットにはウォーキングやマラソンがいいなんて聞きます。まあ確かに私の紹介した方法だけでは筋肉がつきません。また呼吸商(吸った酸素と排出した二酸化炭素の比です)で考えると、炭水化物が1.0で、タンパク質が0.8、脂質が0.7となっています。この数字が大きい方から消費されやすいのでタンパク質からできてる筋肉が脂肪より先に削られてしまうわけです。なので運動もしなければ体が弱くなりますし、またバランス調整能力も崩れるのではないかとされています。なので適度な運動は必要なのは間違いないです。ただ実際にこれで痩せられるかどうかと問われると、「無理だねぇ」と返すしかないかと。
どうしてそういう答えになるかというと、消費するカロリーを考えればいいわけです。ウォーキングの場合たった1キロ落とすためだけに50時間とか必要です。マラソンだと20時間とかだったかな? これで痩せたかったらやり続けろということです(だって食べたら戻っちゃうじゃないですか)。最近ではこれによって新陳代謝があがるともされており、確かに体調の調整なんかも考慮するとその効果はあるかもしれません。(新陳代謝だけに限ったら怪しい感じですね)
けれど痩せることを目的の中心に据えるなら、むしろ熱量をどんどん出してくれる褐色脂肪細胞を上手に使った方がいいわけですね。また仕事の関係などで急ぎで痩せたい方もいるでしょうからそういう人にはお薦めしておきます。(ただしこれ使っても限度がありますし、リバウンドの話を忘れないように!)
あるいはやはり水泳でしょうね。こちらは体も動かしますし、水で熱をとっていってくれますから。なお水泳で1キロ痩せるのに必要な時間は30分で、あらゆるスポーツの中で一番早いです。


まあ、残る問題は「どこの脂肪を落とすか」ですかね。これに関してはもっとずっと長く記事を書かないといけないので掲載予定はなし。というか、私は武道をやってたからか自分でどこをどう動かせばどの筋肉が使われるかとかを知っているのですよね。これは経験的に覚えてきたので明文化するのが難しいですね。筋肉の配置と働きを全部覚えろっていうのは……さすがに無理でしょうし。

さてダイエット関連の話題はこんなところでしょうか?
で最後にですが――最初で脂肪細胞の増える時期で「1歳くらい」と「5歳くらいまで」と曖昧にわざとしておいたわけですが、実はこの辺りにその後の人生に係わるようなことが密集しているのです。キーワードだけ入れておくと、絶対音感とか虫歯とか。
まあこの記事はまた今度。とりあえず、これから暑い季節ですし、学生は夏休みだから実践しやすいかと思ってこの記事にしてみました。冬じゃあ……寒くてやる気になれないのでw
by zattoukoneko | 2010-07-14 04:35 | 生物・医療 | Comments(1)

アハ体験の本当の意味とは

今回は「アハ体験」という名前で有名になっている現象について誤りを正そうと思います。
この「アハ体験」というのは茂木健一郎という人がテレビなどで盛んに使用したことから広まったように思います。ですがこの「アハ体験」は彼の独自の考えではありませんし、そして彼はテレビ受けを狙ってあえて嘘をついています(と、私は思います。さすがに彼は本来の意味を知っているでしょう。あるいは自分なりに解釈しなおしたかでしょうね)。
この「アハ体験」は、今はAha Experienceと表記されるようですね。私が習ったときはまだAh ExperienceとかAh Experimentsなんて言われていたものですが……。
まあそんなことはともかくこの「アハ体験」(もうこの言葉使っちゃいますよ、私は嫌ですけど、広く使われちゃってますから)とは元来どういうものだったのかについて見ていこうと思います。


「アハ体験」が最初に発見されたのは次のような実験でした。
まず被験者に「脳内に腫瘍が見つかって、それを取り除かなければならない」という問題を与えます。このとき選ばれた被験者はごくごく一般の人で、特別医療や科学の知識は持ち合わせていません。
で、被験者はその問題を解決するための案を出していきます。それに対して実験者は「それだとこういう弊害があるのでは?」と疑問を返します。そしてさらに考えを深めてもらうのです。このとき被験者にはできうる限り自分の頭に浮かんだことを口に出してもらいました。頭の中でどのような情報のやり取りがなされているのかを見るのが実験の主旨だったのです。
まあ大抵の場合は被験者は「とりあえず頭を開いてその脳の奥の腫瘍を取ればいいだろう」なんてことを言います。ですがそれに対して「脳には血管や神経がいっぱいあって、特に腫瘍が奥にあるのなら手術は困難だし、後遺症が残るかもしれない」ということを返します。すると当然それを聞いた被験者は頭を開かないか、開いたとしても神経や血管を傷つけないような方法をどんどん口に出していきます。細いメスとかないのかな?とかですね。これはとても自然なやり取りです。頭の中の情報のやりとりも明快ですね。非常に論理的に(そこに科学の知識がなくても)考えようとするのです。
で、これをしばらく続けていると、頭の外から何とか腫瘍を消せないか、なんてことを考え始めるみたいです。そうなるとレーザーなどを使うことになるだろうか?、なんてことを思いつくのですが、しかしレーザーも他の神経などを傷つけてしまいます。そのことを告げるとかなり多くの被験者は悩んでしまうようです。
が、次の瞬間、被験者が言うのです。「ならレーザーを一点に集中させればいいんじゃない」と。
この医療技術は実際に行なわれる、なかなかに先端の技術です。これを(実験者の助けを得ながらも)素人が導いてしまうのです。しかも被験者の多く(一人だけでやったわけではないのです)が同じようにこの結論にたどりつきました。
ですが、注目するのはそこではありません。最後の『いきなり』結論を導き出したところが大事なのです。
先に述べたように被験者には考えていることを随時口に出してもらっていました。ですがここでは一気に考えが飛躍するのです。ここには論理の欠片もないのです。
これを「あっAh」という思いつきから結論を導き出したということで、Ah Experienceなどと名前がつけられました。
現在この「アハ体験」の仕組みは議論の真っ最中です。ただどうやらその瞬間にばらばらに散らばっていた知識がいきなり繋がるようだ、というのが今のところ有力な説のようです。
実際この「アハ体験」は私たちが結構日常的に経験するものです。一番わかりやすいのは難しい数学の問題を解いているとき。模試などであなたは問題文を読んでその瞬間に途方に暮れることがあるかと思います。でも解かなきゃならない。あなたは「うんうん」頭を悩ませるのです。でもこのとき論理的な思考などできてないはずです(できてたら解けてるはずなので)。けれどあるときふと「あっ、そうか」と一気に答えまでの道順が思いついてしまうことがあるのです。これがまさしく「アハ体験」です。


では茂木健一郎の言っているアハ体験とは何なのでしょうか?
彼が紹介しているものを見てみると画像を利用したものが多いですね。これはだまし絵という類のものです。次に挙げるのは代表的な例。
b0118096_53429100.gif

これは皆さんご存知ですよね? 真ん中につぼがありますが、ですが横に向かい合った人の顔があるようにも見ることができます。
次も代表的な例。
b0118096_535617.jpg

これはさっきのやつより知ってる人が少なくなりますかね? 若い女性と老婆の絵が描いてあるのです。
まあ、わからない人はしばらく眺めてもらうとして――
で、見えました?
コツは中央付近、やや左の突起を鼻と見なせば若い女性に見えます。ですが、その若い女性の首に相当する切れ込みを口と見なし、あごだったところを鼻と思えば――気味の悪い老婆の顔に見えます。
これに気付くと、確かに「あっ」と思うのです。ですから茂木健一郎は「アハ体験」の一例として出しているのだと思います。
が、Aha Experienceと今のだまし絵では決定的に違うことがあります。
それは後者の場合、二つの見方がわかった後だと“なぜそう見えなかったのか”がわからなくなるのです。二度目以降に見えたときにはもうコツがわかっているので(忘れていなければ)すぐに二通りの見方をすることができます。
一方でAha Experienceはその経験をする前のことを“忘れます”。そのときに何を考えたのかわからないのです。だまし絵の場合はコツやポイントを見ればいいのだと、自分の思考がしっかりと確立されています。ですがAha Experienceはそれがない。これは決定的な違いです。
そしてこのだまし絵の方にはきちんと「アハ体験」ではない別の名前がつけられています。「ゲシュタルト転換」といいます。なので学問的にもきちんと明確に区別されている代物なのです。


茂木健一郎がどのような考えでAha Experienceとゲシュタルト転換を混ぜて「アハ体験」という名前にしてしまったのかはわかりません。彼なりに考えて似た部分が多いし、そのようにした方が色々と説明がつくと判断したのかもしれません(残念ながら私は彼の論文を全部読んでいるわけではないのでわかりかねますが)。あるいは――テレビ受けを狙ってわかりやすいゲシュタルト転換を「アハ体験」にしてしまったかでしょうね。視覚に訴えるものは効果がとてつもなく大きいですから。
ただいずれにせよ、私としてはこの茂木健一郎の活動にはちょっと不快感を覚えます。彼のHPなどを見させてもらいましたが、彼は脳のトレーニングの一環としてこの「アハ体験」を喧伝している節があります。
確かにボケ防止のような脳の活性という意味ではゲシュタルト転換の方を見てみるのも役に立つでしょう(実際私も小中学生なんかにはこういうものを見せて面白がらせたりすることがあります)。
けれど彼がHPで言っている「数学におけるアハ体験」はAha Experienceのものなのです。これはいくらゲシュタルト転換を経験したからといって意図的に起こせるものではありません。頭の出来のいい人はこの経験を流用して見方を変えるポイントを見つけることができるようになるかもしれません(実際、これは可能です)。ですがそれができるのは本当に能力のある人です。またそうした人たちでも優秀な先生方に訓練を受けたり、何度も何度も失敗したりしてようやくできるようになるものです(これは以前ご紹介したブレイクスルーの経験に近いです)。こうした環境や能力に恵まれていないごく普通の人にとっては、むしろこの「アハ体験」の練習で試験やプレゼンを行なおうとすると失敗します。弊害になるのです。
簡単にまとめてしまえばAha Experienceは閃きなのです。これを起こすにはたくさんの知識を集めておき(先に挙げた実験のAha Experienceの直前の被験者と観察者とのやり取りがもしかしたら知識の蓄積だったかもしれません。確かめようがないですが)、そしてそれを結びつけるのが必要なのです。いわば小さなブレイクスルーなのです。一方でゲシュタルト転換はブレイクスルーではなく、思考の練習です。ここにブレイクスルーが起きる余地はありません。

エジソンの言葉ですが、何かを生み出すには1%といえど「閃き」が大事なのです(まあこの言葉はマスコミ用に適当に言ったものですけれど)。また私が前に記事にしたブレイクスルーを起こすのにも全体の結びつき、まさにAha Experienceが必要なのです。
ゲシュタルト転換の練習によるポイントの発見も重要なものです。ですがそれは上のものと比べればはるかに細かなものです。だからといってないがしろにしていいとは言いませんが(特に人の意見を聞くときなど、色々な見方をしてみるのに役立ちます)。ですがAha Experienceとゲシュタルト転換はやはり別々のものだということを知っておき、それぞれ違うものとして訓練しなければ、優秀な人間にはなれないでしょう。

茂木健一郎さんには申し訳ないですが、ですが私は彼の「アハ体験」に対して反対の意を述べさせてもらいます。
私は次世代の人々に私の上を行ってほしいと思っています。そして世界の頂点に立ってもらいたい。そのためには様々な思考の様式を身につけてもらわなければならないのです。そしてそれを使いこなしてもらわなければなりません。ですから思考のパターンが混ざってしまっている「アハ体験」には反対させてもらいます。


なお、今回は茂木健一郎さんの「アハ体験」を槍玉にあげさせてもらいましたが、実はテレビに出ている知識人のかなりの多くの人がとんでもないことを言っています。この「アハ体験」なんて、まだある程度きちんとした意図が見えるだけずっといいものです。
ただついこの間にブレイクスルーなどの話をしましたので今回取り上げさせてもらいました。繋がりがよかったものですからね。

これから何らかの分野で頂点を目指そうとする方(そこには私自身も含まれます)は、テレビなどの言うことを鵜呑みにしないでください。
もちろんまず知識として持つことは構わないと思います。でもその後それだけを信じるのではなく、自ら他の資料と照らし合わせ、また考えることによって昇華をしてもらいたいと考えます。
これはかなりの難しい訓練です。私自身十年近く(以上?)これをやり続けて、先生方にある程度その力をようやく認めてもらいました(その先生たちは私のはるかに上にいるのですけどね(苦笑))。でもやろうと思えばなんとかなるものです。
あ、最後に。テレビの言うことを鵜呑みにしちゃダメですよって言いました。でもそれはこの記事にも言えること。いまこれを読んでいるみなさん? すでに疑ってかかることはできてますかw?
by zattoukoneko | 2010-04-04 05:35 | 生物・医療 | Comments(11)


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