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エヴァの破を観ました。

タイトルの通り。エヴァの破を観ました。
劇場は行ってないので、この前発売されたblu-rayです。私、前にも言いましたけど、庵野秀明は自身で「庵野秀明ごとき」と言ってます。また、実際に話の構造も実はそんなに大したことないです。(おかしな解釈してる人が多いので、みんなして混乱して大袈裟に騒いでるだけ。きちんと読み解けば難しくないです) でもこういうのわからない人多いし、話もただ観てるだけの人が多いので劇場行くの嫌いなんです。これ、旧劇場版のときに痛感したので、それ以来基本的に映画館が大嫌い。

まあ、そんな話はともかく、実際に破を観ました。
やっぱり話は単純。元々の話も知ってることもあって、始まって20分もすれば最後までストーリーの展開を読むのも簡単。今、一回目を観終わったとこですが、プロットにも直してますし、伏線も大体全部抜き出してるはず。(前にちらっとエヴァの話してますね。あれ使ってくれれば大抵の人はいけると思います。特に今回の破は単純明快だから、そんなに考える必要もなし)


が、演出が化け物ではないですか。
どうしてカレカノの音楽使ってるわけ? そういうの誰か書いておいてくださいよ。普通に観ながら奇声をあげてしまったではないですか。
現在、音楽のリストアップを始めてます。
一応、庵野秀明はまだまだ手を抜いてくれてるみたいですね。これやってみた感想だと。(あるいは時間の制約ですかね。何ヶ所かTV版より質を落としてあるところがあります)
これやり終わったら、それぞれの音楽の演出効果を調べていきます。
と同時に各シーンの秒数計測も始めます。当然キャラクターの配置とかも全部調べ直します。
しかし……私はアニメの方の専門家ではないのですよね。小説という同じ物語を書く人間なので、ある程度勉強しているだけ。つまり“ある程度”止まり。庵野秀明のすべての考えをすぐに抜き出すのはまず無理。特に音楽の使い方に関しては、そもそもがこの人、桁違いのレベルにいる人間だからそっちの勉強をあまりしてない私にはきつい。


でもやりますよ。
これ挑戦状なんでしょう? 後世の人間への。
庵野秀明もガイナックスから発表するのではなく、わざわざカラーなんていうのをつくって今回のやり始めたわけだし、製作発表のときにきちんと言ってますから。
もう引退宣言をすでにしている人間ですし、早く引導を渡して、楽に余生を送ってもらいましょうか。次の世代がもう出てきてると示してやります。
ただまだ私自身、この人に現時点で勝ってるわけはないし、今すぐ勝てるとも思ってないです。
とりあえず勉強させてもらいます、庵野秀明監督。またすぐにこの映像観させてもらいます。
そして絶対にいつかその位置に行って、抜き去りますから。
こんな「挑戦状」を突きつけられたらやる気を出さざるを得ないではないですか。面白い。久しぶりにこれだけのもの見せつけられた。もう10年以上経つわけですか、旧劇場版から。あのときの感覚を思い出しましたよ。角川歴彦の電撃文庫創刊の言葉を読んで以来の武者震いですね。


面白い。やってやる。こんな人間が世にいると知ったら、その高みを目指さざるを得ないではないですか! 世界は本当に広いよ、生きてて楽しいよ!! 楽しすぎる!!!
笑えてきましたよ。今、きっと私はおかしな人間に見えるはず。知ったことかそんなもん! こんなに世の中を楽しいと思ったの、本気で久しぶりなんですよ!
この文章も適当に書いてますしね、テンションが狂ってますから。

記事の終わり方とかもどうでもいいや。今から観直すし。三日寝てないのとか、どうでもよくなってきた。
ああ、じゃあこうしよう。二つだけ言っておしまいにしようか。

   庵野秀明、挑戦状は受け取った。これから抜きにかかると宣言しておく!
   あと世の中楽しいよ、本当に! あんたみたいな人いると特に!!
by zattoukoneko | 2010-05-27 08:12 | 映像 | Comments(6)

細田守監督『時をかける少女』紹介

さて、今回は細田守監督の『時をかける少女』を紹介したいと思います。というかこっちは『時かけ』と呼びましょう。そっちで愛されている作品ですしね。
ということで今回は軽くいくよーーー!! 前回は小難しい話になってしまったからね!



でもまあ、最初は作品の紹介からですよね。さすがにこれはマナーとして外せない。簡略化はしますけれど、もちろん。
『時かけ』の監督は(すでに名前を挙げてますが)細田守。
製作総指揮に角川歴彦が入っています(この人については後々きちんと紹介したい。興味のある人はとりあえず電撃文庫の創刊の挨拶を読んでみてください。私はこの人に会うのが人生の目標の一つだったりします)。基本的にこの人の名前が入っているものにハズレはないです。
キャラクター原案は貞本義行です。なので前回記事で彼のイラストが入っている本を紹介しました。
公開したのは角川ヘラルドですね。製作総指揮に角川歴彦と入っていることからもわかるように、角川系列です(ただしこの人、結構波乱万丈人生を送っていますので、簡単にこう言ってしまってはいけないのですが)。


さて、では具体的に話の内容に入っていくことにしましょう。
まず原作は筒井康隆の『時をかける少女』なのですが、キャラなどは一新されています。主人公は紺野真琴。他にサブメインとして間宮千昭、津田功助という二人が入っています。これ、構造が原作とまったく同じです。
また芳山和子も登場します。作中では原作と同一人物とは語られていませんが、各シーンから判断するに同じ人物で間違いないでしょう。
したがってかなり話がリンクした作品となっています。
また登場キャラだけではなく、話もかなり酷似しています。『時かけ』を観る場合には、まず『時をかける少女』をきちんと読むことをお勧めします。これ、あまりに綺麗に後を引き継ぎながら、でも別のストーリーにしていることに身震いします。
――あ、しまった。ネタバレになるからこれ以上踏み込めないや(汗)


次に演出面を見ていこうと思います。
細田守は(私が前に「美術系」と「哲学系」の演出がある、と分けましたが)かなり「美術系」の演出に偏った方です。ただし100%の「美術系」ではないですし、この点に関しては他の追随を許さないほどのレベルの人間です。
特徴的なのは「影なし作画」というやつでしょうか? これによって逆に影を印象的にしています。これ思いついたのすごい!
またカメラの振りをほとんどしないという制限もかけています。その代わりに画面の中でキャラクターがあちこちに移動します。『エヴァ』や漫画の紹介で『ROOKIES』の中でも多少触れましたが画面やコマの中でのキャラクターの配置ってすごく大事なのです。キャラが多少中央からずれただけで印象ががわりと変わります。これを細田守は完璧なまでに使いこなしている。個人的に好きなのは真琴が(とある理由で)街中を全力疾走しているところ。いきなり画面から消えたりします。あとは画面の右(走っている方向の逆)などに行ったりするのですよね。これ、正直見てて身震いしました。これだけの演出で、この真琴の全力疾走の勢いが十二分に伝わる。ただ走っているだけじゃないのがわかる。人は当然疲れるから速度は落ちるし、でも気力を振り絞って速度を上げたりする。これが手に取るようにわかる。だからすごい感情移入してしまいます。
また真琴と千昭のラストの方のシーンも恐ろしいですね。めちゃくちゃ感動しながら、この演出の素晴らしさに思わず「この化け物が!」と叫んでしまいました。
まあ、あとは各キャラの表情ですねえ。特に真琴は細かい。アニメとして強調されてはいるものの、とても自然に感情移入できます。このバランス感覚の見極めってすごいと思います。『とらドラ!』(映像)でも言いましたが、ここがアニメの真骨頂でしょうねえ。(見習え! 下手なクリエイター諸君!!)
それと音楽の使い方も絶妙ですねえ。何なんだろうあれ。おそらくコンマ数秒でもずれたら全然ダメになると思うのですよね。それをきちんと計算しているんでしょうねえ。私がアニメの演出をすることになったら――これはすごい試行錯誤しながらやると思います。多分100回とか変えてもらうのではないかと。1秒未満での調整をやりまくりますね、私はおそらく神経質な方なので(というかやれるところまではやりたいという「完璧主義者」とよく言われます)。
主題歌は奥華子の『ガーネット』で、挿入歌として『変わらないもの』というのが入ります。これ、私はPVも観たのですど――ごめんなさい、よさがよくわかりませんでした。むしろ劇中で聴くととんでもない効果をもたらしますね。『何だこれ?!』と思いましたから。別に奥華子さんを批判するつもりは毛頭ないのですが、これはさすがに作品に負けてますねえ。



ふむ。ストーリーの内部に踏み込むと簡単にネタバレしてしまうのでこのくらいですかねえ。元々の『時をかける少女』が青少年向けと簡単なストーリーですから、少しでもばらすとすぐに内容がわかってしまうという……。
まあ、でも総括しておくと、『時かけ』は「美術系」で群を抜いている作品です。これ、何かの分野でクリエイターを目指す人は相当丹念に見てください。そしてこの上で何ができるのか考えてみるといいかと思います。これ、抜いてみせましょうよ。
(あれ? 結局あんまり話が軽くならなかったような……)


追記:以前に『サマーウォーズ』の解説で、「この作品でパラダイムシフトが起きた」と書いてあったのを見て、思わず「バカか!」と叫んでしまったというコメントをどこかで残しているはず。いまだにパラダイムの概念をきちんと知らない人がいっぱいいるのですねえ。トマス・クーンの書いてる本なんて少ないのだから、その全部はせめて読んで欲しいものです。――ということで次回以降はこの「パラダイム」関連の話をしますね。

時をかける少女 [Blu-ray]
by zattoukoneko | 2010-05-22 05:11 | 映像 | Comments(3)

『とらドラ!』紹介(映像)

今日の記事は『とらドラ!』の映像の方の紹介です。前回本の方を紹介しましたので、そちらと合わせてどうぞー。


さて、『とらドラ!』のアニメ版は2008年の10月から2009年の3月の末にかけてテレビ東京にて放送されたものです。全25話ですね。
前回の小説のほうで少し言いましたが――
  映像ってずるいなー。
と、思いましたww
一番大きいのは複線やストーリーをすべて把握した状態から始められるということですよね。小説より後に始まるわけですから、それらを知っているのは当然。反して先に書いていっている小説は後から付け加えたり、修正する必要がありますから、この点に関してはどうしても負けてしまいます。
また作成者の人数も大きいですね。小説のほうは基本的に著者一人のみでやります。ここに編集担当の力や、挿絵などのイラストレーターさんの力も加わりますが(これらは確かに大きいのですが)、やっぱり大元の小説のほうが良いものでなければならないので、なので作家一人の孤独な戦いとなってきます。これに対して映像作品やゲームは大人数でやれます。監督を中心に脚本、演出、美術や音楽、そして声優などといった人々が協力し合って製作されます。特に声優さんの力が大きいのかな? 監督や演出担当の人の期待を超えたものを生み出すことがままあると聞きますし。
実際、このアニメでは様々なところで各方面の人々がその力量を見せつけてくれています。以下は特に注目されるところを見ていくことにしましょう。


まずは――そうですね、さっき「大きいのかな?」なんて言った声優さんから見ていきましょうか。
とりあえず大きな役を務めている声優さんの名前を挙げるところから始めましょうか(声優さんが好きな人もいるでしょうから)。
高須竜児:間島淳司 逢坂大河:釘宮理恵 櫛枝実乃梨:堀江由衣 北村祐作:野島裕史 川島亜美:喜多村英梨
高須泰子:大原さやか 恋ヶ窪ゆり:田中理恵 春田浩二:吉野裕行 能登久光:興津和幸 木原麻耶:野中藍 香椎奈々子:石川桃子 狩野すみれ:甲斐田裕子
そして忘れちゃいけない――インコちゃん:後藤沙諸里ww
他にも何人もいますが、一応DVDに記載されているキャラ・声優はすべて挙げているかと。
私は声優さんには特別詳しくないです。力のあると思った人は名前を覚えておくし、すぐに聞きわけられるように訓練してますけど。なので上記の方々の詳しいプロフィールまでは知らないです。それに今回はそこまではほとんど触れないので述べる必要もないでしょうね。
『とらドラ!』ではこの声優さんがとてつもなく力を発揮した作品のようです。またお互いにとても仲が良かったようです(ウェブドラマより)。このせいか、とても息のあった演技をされていますね。まったく観ていて違和感がない。下手なアニメだと「やらされてるんだろうなあ」と思うことがありますけれど。
すべての声優さんについて、その人がどのような演技をしていて、そしてそのどこがすごいと思われるのかを書いていったらきりがなくなります。ですので以下はほんの数名だけで留めます(挙げてない声優さん、ごめんなさい。説明する上で特別目立った人や紹介しやすい人を優先させてもらってますので、他の人が駄目だったという意味ではないです。特に私はこの作品で喜多村英梨さんを個人的な注目株にさせてもらってますし、ウェブドラマの司会も――『え、亜美の中の人ってこんな人!?』と思いましたからw ←いい意味でですよw?)。
トップバッターは北村祐作を演じた野島裕史さんから。
アニメのほうでは北村はやたらと高笑いを挙げるキャラとなっています。しかもよく裸になったりするのですでに変態ですw(裸のほうは原作でもそうですが) この高笑いがたくさん採用されたのは野島さんが最初にやったこの演技がスタッフにすごい受けたかららしいです。それでたくさん挿入されたのだとか。野島さん本人は――すごい大変だったと言ってましたけどw でもこのおかげで北村祐作の変態っぷり……もとい変人ぶり(あんまり変わってない)がすごく強調されました。この野島さんの貢献がなければ北村はあそこまで個性的で、アニメの中で観る人を魅了するキャラにはならなかったと思います(原作の時点ですでにいい味を出してますけどね)。
次は高須泰子役の大原さやかさんを見てみましょうか。
(少しネタバレですけど)泰子は後半に行くほどキーパーソンになってきます。これは原作者の竹宮ゆゆこ先生がとてもキャラを掘り下げてつくっていて、ただ登場人物の性格を個性的に、そして目立たせるだけではなく、そういう性格になっているという理由をきちんと考えていることに由来するものです。主人公の高須竜児や逢坂大河にとっては家族という背景がかなり彼らの生き方を決めています。竜児は泰子一人のみの手で育てられてきており、そのため竜児は泰子を中心とした世界で生きている人間です。また大河のほうも竜児と恋の共同戦線を張るようになってから竜児の家に入り浸るようになりますが、彼女は両親に(半ば)捨てられて一人で生活していて、そのため泰子が「家族」の役割を果たしてくれることになります(第24話の大河の台詞などでとてもそのことが彼女にとって大きなものだったということがわかります)。この泰子は最初のほうはほのぼのとした、ときにバカな一面を見せるキャラとして、でも最後のほうはその前半でちりばめられていた伏線を回収しながら、そして色々と爆発させる役どころとなっています。このような難しいキャラを大原さやかさんは演じているのですね。最後まで見なければ泰子の一言一言は何でもないものにしか聞こえないのですが、でも改めて振り返るととても重要なものだったことがわかります。前半泰子をひたすらぼけさせ(笑)、そしてラストで一気に鍵となる人物とにした(涙)、この大原さやかさんの声はとてもよいものだと感じました。
ああ、個人的に泰子がとても好きなので長くなってしまった(苦笑) 次はメインヒロインの大河を演じた釘宮理恵さんについて。
釘宮理恵さんは「ツンデレの女王」なんて言われるくらいにツンデレキャラを多く演じています。私もそのことはいくらか聞き及んでいたし、何作かで見かけたことがあります。ですが――正直なところしっくりくるものが少ないという印象でした。別に釘宮理恵さんの力量を非難しているわけでも疑っているわけでもないのですが、でも『配役ミスでは?』と思うものが散見されるのですよね。「ツンデレの女王」だから起用しただけなんじゃないの?、と。今回も大河はツンデレキャラということになるのですね。だからそこだけ見ると他の作品と起用の仕方が同じに思えます。でも『とらドラ!』のツンデレ大河はそこらのツンデレではないのです。きちんとした内面を持っていて、背景を背負っています。確かにツンデレなんでしょうが、でも本当に自分の心の奥をのぞかせるときは普通の子なんですよね。この内面を見事に釘宮さんは演じているのです。私はこの作品で釘宮理恵=「ツンデレの女王」という見方をやめました。この人は普通にとても演技のうまい人で、ツンデレなんてたった一つの属性に縛りつけていちゃいけないんだと思いました(実際『鋼の錬金術師』のアルフォンス=エルリックとかもすごく上手に演じていますしね)。大河はツンデレキャラですが、だから釘宮理恵さんが起用されたのではないと思います。きちんと大河という難しい役どころを演じきってくれるとスタッフが考えてそして採用したのでしょう。そしてその期待に釘宮さんは十二分に応えてくれている、と。見終わった後は『大河はこの人じゃなきゃ駄目だったんだ』と思うようになっているかと思います。
以上、声優さんについてです。もっとたくさん触れたかったですけど、他の側面も見なければならないので割愛です。他の演者さんについては観た人が個人個人で評価を与えてください(悪い評価が出ることはまずないだろうと思いますね)。


次にOPとEDについていきましょうか(他のBGMなどは文字数の都合上省略します)。
大きく分けてOPは二つ、EDは三つあります。EDが一つ多いのは一話だけ特別なものにされたからで、まあ、二つとみなしてもいいのかもしれません。
となると他のアニメと同じように前クールの13話の終わりあたりで切り換わるような気もします。確かに大体半分なのですが――きちんとストーリーのことを考えてずれています。ここはただ期日だけを考えているわけではないとすぐにわかるところ。
初代OPは『プレパレード』で第2話から第16話まで。EDは『バニラソルト』で第1話から同じく第16話までです。最初の回だけOPがないのですね。
二つ目のOPは『silky heart』で第17話から第24話。EDは『オレンジ』で(第19話だけ『ホーリーナイト』という別の歌ですが)第17話から最後の第25話まで。こちらはOPが最終話だけありません。ようは対になっているのですね。
曲や歌詞、歌い手の良さは――実際に聴いたほうが早いと思います。またアニメの主題歌なのですから、当然のように作品ともリンクしています。ですから作品を観ながら聴くのが良いでしょうね(実際、私などの当時観ていった人たちや、初めて観る人たちはそうするわけですし)。
ここからは(歌だけを取り出せないこともあって)演出の方とも絡んできた説明となります。
まず各キャラごとに色分けがされています。大河・竜児・実乃梨・北村・亜美の順に、ピンク・橙・青・鶯色・赤って感じでしょうか?(正式な呼び名がわかりませんが……) これは『プレパレード』のOPの方で各キャラの紹介やその影の色などで見ることができます。そしてちょっと先走りますが――アニメ版の『とらドラ!』はこのタイトル一文字ずつに色がついています。順に、「と」がピンク、「ら」が橙、「ド」が青、「ラ」が鶯色、「!」が赤。つまりタイトル5文字がメインキャラ5人と対応しています。これ、演出の方でもう一度触れますね。
またED2の『オレンジ』ですが、話数によって流れるタイミングや箇所がずれてます。これによってストーリーの内容を後押しするような演出効果がなされています。特に感激するのが第21話。注意して聴いていないと逃しますが(というかストーリーが急展開しますのでそっちに目が行きがちですが)、曲の一番最後が大河役の釘宮理恵さんの「好きだよ」で終わります。この意味は観てもらえればわかります。というかネタバレなので言えません(苦笑)
ちょっと私が当時観ていた感想ですけど――ちょっとEDが『オレンジ』に変わったときは正直戸惑いました。前のEDの『バニラソルト』がとても良かったし、流れる映像も綺麗でしたから。だから変わってしまったことを残念に思ったのですね? 曲はいいものなんですけど、『バニラソルト』を捨てるほど価値のあるものなのかな、と。
でもこの第21話でこんなすごい演出が仕掛けられていましたし、また話が変わっていくにしたがって『オレンジ』がすごくしっくりくるようになってます。これは先の話を見越しての歌だったのですね。見終わった後はこの曲を聴くだけで泣けてきますよw 実際ウェブドラマの方でもとても大きな反響がありましたから。
OPやEDに関してはこんな感じでしょうか。歌詞とか書いちゃうとネタバレになると思いますから、これ以上は書けないですね。頭のほうでも言いましたけど、アニメの主題歌ですから作品内容ととてもリンクしています。ですのでそれだけ取り出してくるのは困難だし、作品と一緒になって受け入れられてもらうのがいいと私は思います(というか何らかの作品の歌や曲なのですからそうあるべきだと思います。残念ながらただアニメにくっついている曲って山のようにありますけどね)。


これでラストにしたいです。演出について。
まずとても注目すべきことは「5」という数字。タイトルも5文字ですが、メインキャラも5文字です。このためこの5という数字(あるいはヒロインの3など)が各所に見受けられます。これをいくつか見つけていきましょうか。
一番見つけやすいのはタイトルですが、これCMに入るときのアイキャッチに描かれます。しかもその話ごとによって、一文字離れていたり、丸く円を描いていたり。これ全部がどこまで意識されて作られているのかわかりませんが、作品内容とリンクしているのだと思います。ただ残念ながら私には全部の意味を説明できるだけの力がないです(頑張って全部読み解こうと試みたのですが)。しかも一応タイトルですから、あまりにも文字がバラバラになるわけにもいかないのですね? きちんと『とらドラ!』と読めるように文字が配置されてないといけないわけです。この縛りがあるために、この内容だともっとこの文字は別の場所が良いのでは?、というのが困難になってます。そのため読み解く場合には、タイトルとして読み取れるように配置されている、という前提をしっかり頭に入れておかないといけないわけです。でも観る人にとっても(当然作る人にとっても)これはかなりの縛りなので、全部読み解くのは難しいんじゃないかと思います。(やる気にあふれた方は試しに挑戦してみてください。私はまだチャレンジ続けてます)
それととても印象深いのは第18話などに出てくるクリスマスツリーの星のオーナメント。これきちんと五芳星になってます。ただ単純に星だから5つの角を持たせたわけではないです。これがよくわかるのが(ごめんなさい、ネタバレします)、このオーナメントが一度壊れた後。バラバラに砕けたこの星を、実乃梨と竜児が一緒に直そうとしますが、途中竜児が掲げたときには一つだけ角がないです。つまり――それぞれの角をメインの5人が担っているとするならば、一人だけ欠けているという意味になります。誰が欠けているのかについては……さすがにこれ以上は内緒ということで(笑) ちなみに竜児はこの修復途中の星をかざしながら「大丈夫、直るんだ。何度でも」と言ってます。ここからも星が5人の関係を暗喩していることがわかります。(ちなみに……「何度でも」と言ってるのですよね? ようはこの一時的な乖離だけでおしまいというわけじゃないということです。この後誰がバラバラになっていくかについては、各自で確認していってください)
さてED2の『オレンジ』での演出ですが……最初にキッチンの上にオレンジが3つ並んでいます。そしてこの中から竜児が一つだけ手に取ります。これ、もう意味わかりますよね? 配置などからある程度まで竜児の選択がわかるかと思います。
ああ、「5」の説明だけで山のような文字数にww とかくこのような比喩が随所に散りばめられています。演出の奥深さに関しては近年のTVアニメではピカイチ。群を抜いています。(あ、ちなみに――私は演出に関して「美術系」と「哲学系」と分けてます。前者はただ単に見た目だけ重視したもの。後者はストーリーの内容などと深く絡んだもの。『とらドラ!』は後者の「哲学系」に分類されるかと思われます。エヴァとかの庵野秀明作品は……「哲学系」に大きく偏りつつも「美術系」も山のように取り入れた化け物です(苦笑))
他にも演出面は山のようにありますが、すでに相当文字数を食ってしまったので後一つだけ。キャラの動きについて。
アニメ版の『とらドラ!』では当然ながらキャラクターが動きます。これは文字(およびイラスト)だけの小説と大きく異なっている、そして最大の長所でもあります。ですが多くのアニメでは“ただ動いてる”だけたったりします。私としては……「いや、そのくらい当たり前だろ?」と言いたい。でも『とらドラ!』ではこの動きを駆使しようと努力しています。小説は動けない分、地の分でキャラの心情などを深く書き込めます。でもアニメや漫画ではそれができないのですね? それをいかに解消しようと試みているのが『とらドラ!』のアニメ版です。書くキャラはとても細かく表情や体を動かしています。一瞬の力の入れ方、あるいは抜け方、それらすべてに意味があります。それはその時々の心情ではありますが――それが後々のストーリーにも深くかかわってくるのが『とらドラ!』。あるときのキャラクターの表情や動作の意味が10話先でようやくわかるなんてことが多々あります。これは原作の伏線の張り方がすごいのと、そしてそれをアニメの方でより強固に、効果的に描いたものと考えられるかと。つまり……気を抜いて観てると表面上の話しかわからないよって忠告ですw(あ、宮崎駿のときもついさっきもエヴァを出してしまったからここでも一応触れておくと。あっちはむしろ「止まる」のですよね? アニメの常識からは外れた演出ですね。利点であるべきはずの画の動きを捨てちゃうわけですから。でもそれを捨てたことで得られるものをあの化け物監督は見抜いているということです。『とらドラ!』の方ではあまりそういう「止まる」シーンはないですが、こちらはキャラの心がやたらと動くからですね。止まってる暇なんてなかったんだと思います)
ちなみにキャラの動きに関して最後に一言。
ラストの大河の表情……犯罪的にかわいい(笑) 何なんですか、あれ。もう惚れるしかないじゃないですかw


さてアニメ版『とらドラ!』の紹介はこんなところでしょうか。
でももう少しだけ言っておくと、前回の本の方の紹介記事や演出のところでも触れましたが、『とらドラ!』はすごく入り組んだ構造をしているのですね。そのため彼ら・彼女らの仕草や台詞のすべてが伏線だと思って観ちゃっていいくらいです。そのくらい作りこまれていて、キャラの心情を大事に、そしてそれで物語が動いていく作品だということ。これから観る人、あるいはもう観たけどまた観たいと思っている人、そうした人たちは気を抜かないでご覧ください(まあ、ストーリーに泣けてそれどころじゃないよって話もありますが)。


以下総括です。
二回に分けて『とらドラ!』の紹介をしてきました。本と映像ですね。
この二つを見たとき、疑問として浮かぶのが「本と映像のどちらが物語を伝える手段として優れたものか?」ということです。特に(どちらかの方面で)クリエイターになろうと志している方は絶対に考えなければならないことだと思います(残念ながら現在はそんなこと欠片も考えず、ただ好きだから・手ごろだからという理由でどちらかを目指す人が溢れかえってますが。でもそう人たちは後発の人々で駆逐してやればいいだけです。少なくとも私はそのつもりでいます。そんな人たちに席をいつまでも譲っておいてやる気はない、と。また作り手にならなくとも読む人・見る人もそういうのを見抜いてあげるといいと思います。でないと世の中どんどん下手な作り手ばかりになって、そして衰退しますから)。
これに問いに関して私は――小説のほうをとりました。だから小説を書いてる。これは『とらドラ!』を読んだり観たりする前からずっとそうでした。そもそも小説を初めて書くにあたって、『どうして自分は漫画でもアニメでも、実写映画でもなく、小説を書こうとしているのだろう?』と自問自答しましたから。
でも中にはアニメの方を目指す方もいるでしょうね。同じように自問自答をした上で。
つまり――それぞれの利点がある、が私の考えです。
小説には小説でしかできないことがあって、それを極めるのが良いと思います。またアニメには音楽や声、そしてキャラの動きなどいくらでも使える長所があります。これらをうまく使ってみせればいいわけです。(ちなみに第8回の電撃掌編王で賞をもらった作品は私なりにそれに挑戦したものです。今も色々と挑戦中です。難しいですけどね)
ただそれぞれに利点があって、そしてそれの効果は違うわけです。小説『とらドラ!』はキャラの心を深く描くことでその利点を使ったものだといえるでしょう。また私自身も自分の作品のテーマが「人の心の葛藤や、知らず知らずに抱えている矛盾との決着」だったりするので、だから小説を選びました(ここまではっきり自覚できるまでに三年かかりましたけどね(苦笑))。私はアニメの方を選ばなかったから、そこで何ができるかわかりません(と言いつつも実は色々と考えているのですけどねw まあ、ずっと昔から考えているのでいくつかはすでにやられちゃいましたが)。特に伝えたいテーマとして、アニメでしかできないものとなると私にはちょっと思いつかないですかね。これに関しては――じゃあ、私からアニメクリエイター、およびその卵への課題ということでw まだまだ「アニメじゃなきゃいけなかった」という作品は少ないです。もうアニメーションというのができてからずいぶん経ちますし、エジソンの映画の発明からは100年超えているというのに。だからここに自分の名前を刻んでください。そういう作品を私は観てみたいと心から思ってます。

次は『とらドラ!』DVDのAmazonへのリンクです。
とらドラ! Scene1(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene2(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene3(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene4 (初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene5(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene6(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene7(初回限定版) [DVD]
とらドラ! Scene8 (初回限定版) [DVD]

以上、『とらドラ!』の紹介と、そこから見えてくる色々についてでした!
by zattoukoneko | 2010-04-27 07:13 | 映像 | Comments(1)

ジブリ・宮崎駿で追加(大塚英志批評)

この三回ほどで宮崎駿監督作品の紹介をしてきた。そしてその中で私は「宮崎駿ごとき」と何度も口にした。この「宮崎駿ごとき」という主張は私だけがしていることではなく、実は大塚英志という人物もしている。彼は宮崎駿や村上春樹といった作家に対し「物語の構成しか守れず(あるいはそれすらままならず)、なのに世界的に評価をされてしまっていることに危機感を覚える」としている。私は彼の主張のかなりの部分に共感を覚える。
だが、彼はまだまだ甘い。彼の本当になすべきことはもっと別のところにあるだろうと私は主張したい。今回は彼に対して批評を加えることとしたい。
(なお、今回は“本当の”批評を行う。そのため普段のブログ用や小説用とは違った文体を用いる。いわば論文用・書評用のものだ。これは大学卒業レベルの人間が読んだり書いたりするものとなる。だから普段より堅苦しいものとなるがご容赦願いたい)



大塚英志は1958年の生まれで筑波大学第一学群人文学類を卒業。専攻は日本民俗学だった。
研究者として大学院入りを目指すも教官から「君の発想はジャーナリスティックすぎる」と言われて断念。その後漫画の編集として働き、後に自らも漫画の原作者(『多重人格探偵サイコ』など)や小説家として活動を行うようになる。そして評論家としても自分の主張を発表するようになった。
大学時代に研究した日本民俗学というのが彼の大きなバックボーンである。このときに彼は物語の構造論を研究し、そしてそれらを自らの物語作成に活かした(これは『物語の体操――みるみる小説が書ける6つのレッスン』などでわかる)。そして評論を書く際にもこの物語構造に大きく依拠して論を進めていく人物である。

まず大塚英志は宮崎駿らの作品から物語の骨格を抜き出す。これは私もやったことだ。宮崎駿の作品の多くは「初潮」をテーマにしており、それを扱った物語構成というのは古くから、そして世界中にある。だから宮崎駿のやっていることは真新しいものではない。
大塚英志はこのような物語が世界的に高い評価を受けることに危機感を覚えている。人々は現実世界でもこの物語の構造に則ったかのように行動し、だから9・11以降のアメリカ人や世界のテロへの報復なんてものが始まってしまうのだと主張している。
彼の議論は甘いが(アメリカ人のアイデンティティ・アメリカ化やフロンティア理論などは考察していないから)、しかし一つの説得力のある主張だと思う。この点に関して私は大塚英志に賛成である。また物語をつくる者はそうした現実に目を向けなければいけないということにも賛同する。
それに大塚英志が物語の基本構造に注目し、それを作家志望の人たちに基礎として説くのはよいことだと考える。またそこから各作品を分析し、自分の主張を展開することもいいだろう(今ではほとんどこれはやられなくなったが、数十年前には盛んに行われていた研究である)。
しかし、彼はその「基礎」の物語構成しか見ていない。そこに彼の論の問題点がある。

私が宮崎駿の作品を取り上げる際に、多くはその「基本」の構造を見て、確認をしていった。このやり方は大塚英志と酷似している。だが一方で私は細かな描写の意味についても触れていった。この点が私と大塚英志の大きな違いであると私は主張することにしたい。
確かに宮崎駿の作品は物語の構成だけ見れば至極単純なものだ。これは私の記事を見てくれればわかったことだと思う。だから私も大塚英志も「宮崎駿ごとき」と言っている。
だが私は彼の作品の音楽や映像、また細かな演出にも目を向けた。その根幹に「初潮」などの物語構成があるのも事実だが、それを消化し、独自のものとして表現しようとするのは彼独自のものである。そのことは誰も真似できないし、だからこそ宮崎駿は高い評価を受ける。私は(まだそれらもまだまだだと思ってはいるものの)その点はきちんと認めるべき点であり、そしてストーリーテラーを志すものはそこから多くのものを学べると感じている。あるいは見る人もそこから色々なものを読み取ることができるだろう。それだけの価値が宮崎駿の作品にはある。
けれど大塚英志はそれらをほとんど無視している(一度作家の独自性に「文体なども重要だ」という発言をしているくらいだろうか)。彼は本当に単純な骨しか見ていない。だから彼にとって宮崎駿は「ただの物語論を模倣することしかできない人間」としか写らないのである。
したがって大塚英志は宮崎駿の持つ素晴らしさの多くを見落としている。たとえば観客はトトロをかわいいと思う。ではそれは何故なのだろうか? そこには絵の力もあるし、物語の進め方や演出の効果もある。そういうところには大塚英志は一切目を向けない。だから彼の論の中ではトトロなどのキャラクターの細かな動きや登場シーンの意味などについて触れているところがないのである。

また大塚英志は「宮崎駿ごとき」「村上春樹ごとき」としている。こんな物語ばかりが世に受け入れられていては駄目なのだと主張する。
私もその主張にはうなずくこととしたい。なぜなら(世に彼らほど高い評価は受けていないが)もっと上のストーリーテラーが存在するからである。
大塚英志自身が言っていることだ。彼らの使っているのはただの物語の「基礎」的な構造論だと。つまりそれは守られて当然のことであり、その上で作家は新しいものを生み出そうとしたり、あるいは捨てようと試みる。そして実際にこれらをやろうとしている作家や作家志望者はたくさんいるのである。
宮崎駿だってそうだ。彼は(その歩みは遅々としたものではあるが)基本的な物語構成をしっかりと守られるようになっていくと同時に、それだけでなく彼なりの解釈をしようと挑戦している。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』などでは「呪い」にかかるのが主人公とそれと対になるもう一人の主人公と二人に増やされているし、『ハウルの動こく城』の方では何度も呪いが解けかかったりと、思春期・青春期の揺れる心情を表現した。
またここのブログ内ではすでに福永令三、神坂一、上遠野浩平、FFX、チュアブルソフトといったものを紹介している。また次回以降は竹宮ゆゆこを取り上げるし、今後乙一や京極夏彦といった人物も扱おうかと考えている(また『トトロ』の記事で少しだけ庵野秀明にも触れた。彼については今のところあらためて記事にする予定はない)。彼らは物語の基本を守り、その上で独自のテーマを出したり演出を施そうと試みている。あるいは上遠野浩平などは『ブギーポップは笑わない』で従来の小説の書き方を壊してみようと試みた。つまりこうした人物は(大塚英志の言うところの)物語構成しか守れない「宮崎駿ごとき」より上のストーリーテラーなのである。
けれど大塚英志はこうした人物たちを取り上げることをしない。宮崎駿や村上春樹などで留まっている。そこには彼らが実力よりも高すぎる評価を社会から得ているのだということを強調する意図もあるのだろう。けれどすでに世の中にはすでにその上の作家がいて、またそういう人たちに追いつこう、追い越そうとしている若手や卵たちもいるのだ。
大塚英志は「宮崎駿ごとき」で満足していては世の中が駄目になるのだと警鐘を鳴らす。そして現実の世界・社会のためにもっと良いものを書かなければならないとしている。
それなのに宮崎駿より上の人たちを紹介しようとはしない。ようは彼は「宮崎駿ごとき」の下手な書き手しか相手にしていないのだ。その上の人について論じてみたり、批評を加えることはしていない。またよいものだと紹介もしていない。
彼の本意は(私が推測するに)書き手には宮崎駿を超えて欲しいということだろう。あるいは見る側・読む側には「宮崎駿ごとき」という認識を持ってもらいたいと思っているのだろう。その上をぜひ目指そうではないか、というのが彼の願いなのだと私は思っている。彼の著作をいくつも見てきてそう感じた。
しかし現状として彼は物語の構成しか抜き出すことができずにいる。上のレベルの人たちを紹介できずにいる。人々に上のレベルに行ってもらいたいと思うのならば、その上のものというのを提示してみせるのが筋ではないだろうか(それは自分で書くのでもよいし、紹介するのでもよいわけだ)。
なお庵野秀明もトップクラスのストーリーテラーでありながら、しかし旧劇場版の公開時のコメントで「こんなものに熱を上げていないで、他の作品を見てくれ」と述べている。彼は自分より上の作家が世の中にはいると主張したのだ。そして自分のことをその程度と評価している。私は庵野秀明は「化け物」だと思っている。上遠野浩平なども電撃文庫MAGAZINEなどで「またこいつと戦わなきゃならないのか」と高い評価を下し、その上で勝負していくと述べている。でも庵野秀明自身が「自分はこんなものだ」と言うのだから、私も彼のことをそのように思うように努めている。彼の上の作家が世の中にはたくさんいて、そして後続の私たちは彼を抜き去ってみせねばならない(それがこの十年で達成されなかったから庵野秀明は新劇場版を作り出した。彼はもう一度「自分はこの程度のものしかつくれない」と言いたいのだろう。そしてもっと上に行ってくれよと再主張したいのだと思う。だから私はここのブログで彼のことを紹介しようとは考えていないのである)。
大塚英志は上のレベルの人たちは見れていない。この点で私のブログ記事にすら負けている。もちろん文字数の都合やブログというものは軽いものと私は考えているから、大塚英志のほうがたくさんのことを論じて主張できてはいるのだが、それだけだ。
だからこう言わせてもらおう。「大塚英志ごとき」と。

大塚英志の「宮崎駿ごとき」を主張するのには賛成する。作り手も受け手もそのことを知らなければならない。
だがそれは第1ステップに過ぎない。いわば最初のブレイクスルーなのだ。その先のブレイクスルーを経験している人たちはいるし、そしてその高みに私たちは目を向けねばならない。「宮崎駿ごとき」という認識を持つということは、最初のブレイクスルーを起こし、そしてそれより上の人々を見るためのものだ。
だから大塚英志に言わせてもらう。あなたはまだその第一歩しか踏めていない。私たちはあなたの上を行かせてもらう。所詮踏み台にしか過ぎないのだと。
だから、「大塚英志ごとき」なのだ。



最後に。
私は大塚英志のことを「大塚英志ごとき」と主張した。この理由はこれまでの論を読んでくれてきた方には十分伝わったことと思う。
だが「宮崎駿ごとき」と同じで、それを踏み台にしなければ最初の一歩も出せないことも事実である。
だからまずは大塚英志の著作を数冊手にとってみるのもいいだろう。だが(また言うことになるが)それは踏み台なのであるから、さっさと私たちは先に進もうではないか。彼などどんどん捨ててしまってよい。
もちろん宮崎駿と同じように、彼なりの考えや主張、工夫はある。そこをじっくり学ぶことも大事ではあると思っている。
by zattoukoneko | 2010-04-21 05:32 | 映像 | Comments(4)

宮崎駿関係の記事で急遽追加

宮崎駿は人気ですね(苦笑)

このブログの閲覧者様には、一連の宮崎駿関係の記事を掲載してどのくらいの訪問者数が来ているか見えないと思います。
まあ、とんでもない数ですw
彼が人気があって、みなさんが興味を持つのはわかります。また私も彼の作品は面白いと思ってます。だから閲覧者数がやたらと多いのはわかります。

ですが――
この宮崎駿関連の記事だけ見て、そして「ああ、そういうものだったのか」としか思ってくれないのでは困ります。と同時に私がどういう意図でこれを書いているのかきちんと読み取ってもらいたいと考えています。
そのため急遽一つ記事を挿入することにしました。

一個下の記事に書いたコメント欄にあることの繰り返しですが、
本来なら「全部の記事を見てこい」と言いたいです。
私はここはブログという、いわば軽い発言の場と考えています。また一度に投稿できる文字数に限りがあります。そのため私が宮崎駿に関してなんの資料をつかってこれらを書いているのか明示していません。これは「ニュートンの万有引力は科学じゃない?」(カテゴリ:物理)のコメント欄で書きました。
ですが人物や何かを紹介する場合、そこには当然責任が発生します。書く際のマナーというものがあります。これに関しては「チュアブル2nd『あまなつ』紹介」(カテゴリ:ゲーム)のコメント欄できちんと述べています。具体的には、まずその人はどういう人物か紹介しなければなりません。またその人の背負っている背景を述べなければなりません。こうしなければその人物がどういう立場の人かわからないためです。そしてマナーとしてその人の良いところを述べます。これが全体の三分の二程度を占めなければならないと一般的に言われています。そして最後にそこから出てくる課題・問題点などを述べます。これは悪口ではなく、その人のつくったものを踏襲して次に何をすることができるのかという研究テーマを出すということです。だから極めて論理的にやらなければなりません。
私がここまで書いてきた記事で、ある程度私がそれを守っているのが見えると思います。ただ、ここは「ブログ」であるために、わざとそれらの順番を崩したり、省略しています。簡単に言うとエンターテインメントの一つとして提供させてもらってます。
ですが私はきちんと、可能な限り宮崎駿という人物について調査をしています。彼の生い立ち、生きてきた時代背景、思想、そして各作品のつくられた時代・社会背景、さらにはスタッフとの関係も可能な限り調べてあります。ただここまで書いていくと本が数冊かけてしまうほどの量ですから、ここでは割愛しています。けれどそれらをきちんと見ているのだと思ってください。またよく読めば所々でほのめかしているはずです。
なお人物を紹介するにあたり、その背景などを知ったうえで書かなければならないのは、歴史学における「常識」です。現代の私たちの視点から評価するとそれは当時とは違った見方となります。今「宮崎駿は社会的に認められている」という“偏見”を私たちは持っています。ですが、この視点のまま過去のものを見ると、そこにはフィルターがかかっていることになります。このフィルターを全部取り除くことは不可能です(科学哲学において反射性と呼ばれる概念です)。ですがそれでも可能な限りその当時に自分を置いて見なければなりません。私たちが今持っている視点のまま昔のものを評価すると「ホイッグ主義」となります。これは残ったもの、評価の高くなったものこそが正義であるという考え方です。科学者などが科学史を書くとこういうことをやりがちですが、歴史学を学んだことのある人間にとっては一番忌み嫌われる行為です。私は当然ながらホイッグ主義者ではありません。ですからきちんと宮崎駿という人物の背景を調べて、そして紹介しています。
宮崎駿が生きてきた時代背景、もしくはその前にあった歴史、そしてその後の社会への貢献度。これらすべてを踏まえて私は宮崎駿という人物を評価しています。
この評価に関しては明日あらためて一つの記事として掲載します。ただし今度は宮崎駿本人を取り上げるわけではないのですけれど。
ただ少しだけ紹介しておきましょう。そこに含まれない内容もありますから。(ただしその前に私の立場も見てきてください。これは閲覧者の方にも反射性を適用させてもらってます。つまり私の言おうとしていることを知るためには私の背景を知らなければならないということです。ただし全部見てくるのは大変でしょう。ですから次の二つだけ見ておいてください。「閲覧者数増加御礼?」(カテゴリ:雑記)、および「成績の伸び方・ブレイクスルーとは」です。まずこのくらいの私の背景や記事内容は理解しているものとして以下を続けます)
まず日本に漫画・アニメというものを定着させたのは手塚治です。ですが彼はほとんどオリジナルのものをつくれませんでした。手塚治は主にディズニーの映像作品などを盗作し、その技術を日本に持ち込みました。ですが彼はただ盗むだけではなくいくつかの貢献をしました。ひとつは自分の作品に(盗作ながらも)自分の体験に基づく主張を入れようと試みたこと。このためいまだに手塚治は「漫画の神」と称えられています。二つ目にアニメの製作の体制をつくったこと。当時は撮影技術などで日本はディズニーに到底及びませんでした。また社会もアニメというものを軽視していました。そのため機材も人材も集められませんでした。そこで手塚治は一秒間のコマ数を減らしたり、製作のスケジュールを過密なものにしました。当然スタッフへの支給も極めて低くされました。これは現在では悪い影響を残したとも言われています。アニメや漫画、ゲームの製作スタッフが締め切りなどに追われているのはここから派生したものだからです。けれどこの考えはホイッグ主義です。当時の社会背景から考えれば手塚治の対応は適当なものであり、そして実際に世に受け入れられたとよい評価を与えるべきでしょう。
この後に宮崎駿という人物が出てくるわけです。彼はアニメは大人でも楽しめるのだと社会に認知させたことに業績があります。ですが、それはさほど大きなものではありません。手塚治のやった、まったく認められない社会にアニメを受け入れさせたのと比べてどちらが大きな業績か。当然手塚治の方が大きいわけです。また宮崎駿の前から手塚治のことを認めた大人たちはたくさんいて、そしてその後の漫画界などを育んできていました。たまたま宮崎駿が目立ったというだけで、よくよく考えれば同世代で有名な漫画家は他にもいるはずです。
それと宮崎駿は自分の作品に自分独自の主張をいれることがまったくできていません。彼の生きてきた時代は左翼思想がはびこり、そして環境問題が世間的に目を向けられるようになった時代です。彼の作品を見ればわかりますが、それをそのまま使っているだけです。手塚治(あるいは他の作家)のように自分の体験を基に考察したり、何か研究したわけではありません。せいぜい昔ながらの物語構成論のなかに自分たちの社会思想を入れただけです。つまり彼は新しいテーマや課題を後世に残せていないということです。これはジブリ内からも批判の声が上がっていますから、すぐにわかることだと思います。
さてブレイクスルーの記事は見ていただけたでしょうか? ここからはその内容を使います。
宮崎駿は確かに社会的に認められ、またそれなりの貢献は確かにしています。では彼は次に何をすべきでしょう?
彼は本来であれば次世代を担う若手を育成するつとめがあったはずです。事実手塚治などはきちんとこういうことをした人物であり、だから今でも尊敬されています。けれど宮崎駿は誰も育てていません。有名な一例としては庵野秀明との確執があります。庵野秀明は『ナウシカ』で巨神兵のシーンを担当しています。よく誤解されていますが、彼は宮崎駿に弟子入りしたわけではありません。むしろその技術力を認められて採用されています。もちろん庵野秀明は宮崎駿を慕っていたので製作に協力したわけですが。
庵野秀明は『ナウシカ』製作後に外伝として『クシャナ戦記』を提案。そして自ら指揮を執りたいと申し出ています。しかし宮崎駿は「そんなものは最低なものになる。やるんだったら自分でやっている」とそれを退けてしまっています。
その庵野秀明は宮崎駿の下を離れて、そして実際に自分には力があるのだということを見せつけています。特に『新世紀エヴァンゲリオン』は社会を変えるほどの影響力がありました。この作品だけで宮崎駿と庵野秀明の貢献度の差は浮き彫りです。
これだけのことをされれば宮崎駿は引退すべきです。もう自分を遥かに追い抜いた若手がいる。そう思えば席を譲ればいい。その分また誰か実力のある若手がその席に座れるのだから。しかし宮崎駿はずっと作品をつくり続けている。ようは自分の立ち位置がわかっていないということに他ならない。あるいはただその席を譲りたくなくて座っているだけでしかない。このことは多くの人が指摘している。庵野秀明自身も、婉曲的ながらも、何度も述べている。
宮崎駿はその席に座っていようとするならば、「まだまだ若手には負けない」と意地をみせて戦うしかなかった。しかし彼の後続の作品を見ていくと、大きな変更点や挑戦は見つけることができない。
これに対して庵野秀明は頂点に登りつめながら、しかし自分に見切りをつけた。それが旧劇場版での「こんなものに熱を上げてないで他の作品を見てくれ」という言葉に表れている。彼は自分よりもっと上の作家がいると感じ、自分はそれには勝てないと判断した。そのため実質指揮を執ることをやめる。具体的には彼はもっとハートウォーミングな作品がつくりたかったようだ。でも自分の作風ではそれがつくれないと気づき、そして見切りをつけたということになる。庵野秀明が次にアニメーションで指揮を執ったのは『彼氏彼女の事情』だが、ここで原作を少女漫画からとったのは、少女漫画に自分のできなかったものがたくさんあるのではと考えたからのようだ。このことは前々から発言している。
しかしこの『彼氏彼女の事情』では監督を務めはするものの、若手をどんどん採用し、色々な演出に挑戦させている。実際作品を見てみれば様々な挑戦が試みられているのがわかる。つまり彼はまだ自分が上に立ちながらも、若手育成をしようと考えていたとみなせるだろう。そして実際それ以降GAINAXでアニメ監督を務めようとはしていない。
けれど2006年にカラーという新しい会社を設立し、再び『エヴァ』を作り出した。このときに彼は述べている。「この十年で『エヴァ』を超えるものは出てくれなかった。だからもう一度つくる」と。つまり上に立つものとして後世の人々に「もう一度よく見て考えろ」と檄を飛ばしているということだ。ただ上の立場でいたいだけなら、新作をつくればいい。でも庵野秀明はあえて『エヴァ』をもう一度やると言ったのだ。これが意味するところはそれだけ深い。
そして庵野秀明はただもう一度再放送するだけではなく、物語を変えてきた。また技術面ではREBUILDという新しい手法も取り入れた。彼はまだまだいくらでもやりようがあるのだと、ここで戦う姿勢を見せている。
宮崎駿はある程度ブレイクスルーを起こしている人間かもしれない。でもその自分の場所がよくわかっていないと思える。そしてそのため他の人間との壁が見えていない。一方で庵野秀明は自分がかなりの高い位置にいる人間だと自覚しており、そしてその壁を世間に見せつけようとしている。そしてその高い位置でまだまだ戦おうとしている。この両者はもはや位の面でも姿勢の面でも違っているのだ。

さて以上のようなことと、そして私の書いてきた記事をしっかりと呼んできてくれた人には、このブログで主張しようとしている意図がわかっただろうか?
私は世の中には作家(あるいはそれに限らず色々な世界)にはいくつかのランクがあると言っている。そして宮崎駿はもうその頂点にはいない。それに戦おうともしていない。
これは明日の記事で言うことだが、宮崎駿を超えている作家はたくさんいて、そして彼らは常に戦っている。すでに頂点に立ちながら、更なる高みを目指したり、そこで戦っていることを見る人や読む人に伝えている。
私が言いたかったのは、したがってこうなる。
世の中には上のレベルの人たちがいる。そしてその人たちは戦う姿勢を見せながら後続の人や、見る人にここまで登ってこいと訴えている。
私はその期待に応えて彼らの位置に行って戦いたいし、追い抜きたいとも考えている。あるいは少なくともそういう人たちがいるのだと知って生きていきたい。そう考える私にとっては宮崎駿はもうリタイアしているに等しいのだ。
この私の意見を聞いて閲覧者の方々はどう思うだろうか?
私は別に宮崎駿の作品が好きでいいと思う。そして私自身、新作が公開されるたびにそれを観るのを楽しみにしている。けれどその上がいるという意識は捨てるつもりはないし、宮崎駿がまた戦わないでいたら「またか」とがっかりする。
本や映画が好きな、ここの閲覧者に問いかけておしまいにしたい。
一緒にこの高みを目指しませんか?、と。
by zattoukoneko | 2010-04-20 18:29 | 映像 | Comments(0)

『トトロ』で追加。(エヴァについても少しだけ)

『トトロ』の記事を読んだ友人から質問がありましたので、その回答内容をみなさんにもお答えしておきます。
マックロクロスケは『千と千尋』の方にも出てきます。「だからあれは実在するんでしょ?」、と言われました。これは“半分”あってます。マックロクロスケは、あのボロ屋敷に感じたサツキやメイの恐怖(子供のとき夜にトイレに行こうとして、暗闇に何かいる?、と感じるのと同じ)で、ここに姿が与えられたものです。つまり日本で言うところの「八百万の神」に相当します。はっきりと姿が見えるのはお婆ちゃんに「本当にいるんだよ」と言われたから。だから姿が見えるのはサツキやメイの想像ですが、八百万の神なので『千と千尋』には出ます。が、トトロの方は完璧に「架空の友だち」なので『千と千尋』には出てきません。
他にもトトロの前に強風が吹くのって何?、とか訊かれましたけど、この辺まで細かく説明してたらきりがないのでやめます。というかここまで紹介したのだからあのくらい自分でわかれと主張したい(苦笑)

あと『エヴァ』の方も同じように逃避か?、と言われました。これは確かに近いです。でもシンジは「逃げてない」です。常に父親という現実を背負っていますので「逃げる」と言いながらも現実がくっついてきてます。完全に逃避できるのはエヴァに取りこまれたとき。ここでは完全に父親から切り離されます。だからエヴァの中という「夢の世界」に入れます(ただしシンジの逃げる先は母親の胎内をモチーフにしていて、ここらは庵野秀明なりの別解釈も混ぜてあります)。このシンジに対して、アスカはエヴァの中に溶けません。覚醒後もそうですね? これはアスカはシンジより成長しているから。現実は厳しいものと知っている状態だからです。つまりもうある程度大人の段階までいってアイデンティティを持っているのでエヴァの中に逃げ込みません。もう「個人」ですから。同様にして旧劇場版でアスカが早々と自分の体を取り戻すのも、アイデンティティを確立した人間だからです。補完されて他人と一緒になる必要性をほとんど感じてないということです。でもまだ成長の過程であって、反抗期を超えて現実の厳しさを受け入れていても、そこには戻るべき実の母親がいません。だから中途半端に終わっていて、母親を求めています。だからエヴァに乗れます(仮に本当に成長しきっていると乗れなくなります。だから、パイロットになった瞬間にストーリーの中で母親には死んでもらっているのです)。
あとゲンドウについても訊かれましたね。迎えに来るのはなんでユイじゃなくて初号機なのかと。あそこは本来であれば望んだ人の姿が見えてます。でもゲンドウはユイを望みつつも、シンジに辛くしたという現実も認識してます。だからシンジが迎えに来て、そして食われるなんていうひどい仕打ちを受けます。でも完全にシンジの姿をとっていないのは、ユイのこともまだ求めているから。だから二人の中間的な存在である初号機が迎えに来ます。
あとはラストでシンジとアスカの二人なのは、当たり前ですけどアダムとイヴのイメージです。二人はリリスの中という天国で罪を犯して堕ちてきた人間です。だから首を絞めるんですよね? そしてアスカは「気持ち悪い」と言うのですよね? もうここまでヒント出したので後は自分で考えてください。単純なことなんですから。(あとカオルくんにひかれていってるのとか、殺すまでの間の長さとか当然意味があります。他のシーンもね。でもそのくらいは読めるようになりましょう。庵野秀明自身が旧劇場版の公開時に言ってますが「そろそろこんなものから離れてくれ」ということです。彼自身あの作品は大したものじゃなくて、世の中にはもっとすごいものがあるよって言ってくれてます。だから私も彼の意見を尊重して説明なんてしません。彼は観てる人に「もっと上のレベルに行け」と言ってくれてるのです。だから私もそのように主張します。「『エヴァ』ごときで苦戦してるんじゃねえ」ってことです) 
by zattoukoneko | 2010-04-20 09:16 | 映像 | Comments(2)

ジブリ・宮崎駿作品の物語構成(トトロ)

今回でジブリ・宮崎駿監督先品の紹介が三回目ですね。『となりのトトロ』です。
というか三回ってw すでに特集みたいな感じですが、普通に当たり前のことを書いてきたので自分の中では特集と思ってないです(苦笑) 特集やるときは構成からきちんと考えますからね、一応記事にする以上どう説明するのがよいとかざっと頭で考えてはいますが、この三回分はそこまで練りこんでないです。『とらドラ!』はちゃんと構成考えてますからね(もう一か月考えてますけどね!)。


さて、前置きなんてどうでもいいからさっさと『となりのトトロ』の物語構成に移りましょう。

前回、前々回で宮崎駿はテーマとして女の子の第二次性徴、特に初潮をテーマにしていると言ってきました。
ですが『トトロ』は別のものを扱っています。一応時期的には第二次性徴と近いところにあたるのですが。
いきなり夢をぶち壊してしまいますが――トトロは実在しません。
あ、現実にはって意味ではなく、あの物語の中でも存在しないものです。つまりサツキとかメイが見ているものは幻ってことです。
トトロが好きな人にはショックでしょうけれど――いや、私もちっちゃいトトロとか好きなんですよ?――これにはきちんと理由があります。これを以下では見ていきますね。
『トトロ』で扱われているのは、10歳頃からの子供――特に女の子――に起きるある心の中のメカニズムです。
女の人やあるいは男の人でも覚えているかもしれません。この頃、子供って頭の中で「自分の世界と架空の友だち」をつくる傾向があります。ただし時期的に反抗期ほど長くはないですし、初潮のようにインパクトがないので忘れがちなのですね。でもちょっとよくよく思い返してみると――『確かに何か妄想みたいなことしてたかも?』という気がしませんか? また上では「架空」の友だちと言いました。でも完璧に一から想像したものじゃなくてもいいのです。アニメや漫画の好きなキャラと頭の中で会話していたり、実際にいる友人でもその人と頭の中で遊んでいたりしませんでしたか? このときの彼ら・彼女らは「想像されたもの」ですよね?
トトロというのはつまりこの頭の中でつくられた「架空の友だち」なのです。だからお婆ちゃんに「大人になるとそのうち見えなくなる」って言われているわけです(またお父さんとかお母さんも見えていないですよね?)。
ただし宮崎駿はこれを現実の世界の出来事とかなり混ぜてしまっているため(これは物語上そうしたのか、あるいは力不足なのか、どっちかわかりかねます。他のテーマと重ねたというのは……ないとは言い切れませんが、それで主軸が崩れていたら「力不足」ですよね)、このトトロの存在が実際にいる神様とか妖精みたいなもの(別に妖怪でもいいですがw)をサツキたちが見ているのだと観客に思わせてしまっています。
ですがさっきも言ったように「大人になると見えなくなるもの」と作中ではっきりと言ってます。また大人たちにはまったく見えていません。またトトロやネコバスが出てくるのは基本的に夢の中や彼女たちが「一人にされたとき」です。集団で会いに行ってもどうやったって見ることはできないわけですね。
さて、下ではこの子供がつくる「自分の世界と架空の友だち」の、成長に与える役割というものを見ていきたいと思います。

子供が第二次性徴を迎える直前や始まった辺りで、このような「想像の世界」をつくることは前々から(経験的に)知られていました。これは大人になると見えなくなる、とか、大人になるとその不思議な力は消える、といった物語がたくさんあることからわかると思います。あるいは、他人に知られちゃいけない、なんてのもありますね。ただしこれらはきちんと研究されていたわけではないですし、初潮のようなインパクトあるものでもなかったため、そこまではっきりと構成が作られていないように思われます。あるいは別の「成長」と混ぜられている気もします。なので魔法とか現実世界に力を及ぼしたりしますし、宮崎駿も現実の出来事とごちゃ混ぜにして『トトロ』を作ったのだと思われます。またこれらの「架空の友だち」が見えるキャラクターの年齢設定も曖昧だったりしますね。サツキは年齢的にぴったり一致しますが、メイは若すぎですね(一応「人形遊び」や「おままごと」としてトトロを見た、と解釈することはできますけれど)。
この「想像の世界と架空の友だち」ですが、これも反抗期とかで同じで社会に適応するために人間が進化してくる過程で獲得した心理メカニズムということになります。
子供はそれまで社会というものに接してきていません。もちろん学校とか、そこでの友人関係とかはあります。ですが基本的にそれらはまだ「守ってくれるもの」です。一方で大人たちの住む世界は「独立した人間が協力しながらつくっている社会」です。ここには当然競争や対立なども生じますから、厳しいものとなります。
この社会に出ていくことになる第二次性徴の頃、あるいはその直前に行なう心の準備が、この「想像の世界と友だち」ということになります。
「想像された」世界ですから、当然当事者にとって甘い世界です。出てくる友人は優しいですし、世界もかなりご都合主義です。ですが――このときのことを思い出せる方はちょっと必死に自分の中で何が起きていたのか思い返してみてください――そのうちこの友だちらが冷たくなってきます。ちょっと自分の心にぐさっと来るようなことを言ったりします。あるいは現実世界の方で色々な問題に直面すると、そちらに気を取られていつの間にかこの「友だち」に会いに行かなくなってしまいます。こちらは現実世界に重点が置かれているので自分の心の変化がわかりにくいのですが、ようはその「想像の世界・架空の友だち」は甘いもの・現実の社会とは違うものとして捨てていっているというわけです。
このようにしてそれまでの「守ってくれる社会」から「独立しなければならない厳しい社会」へと住みかを移していきます。このときにクッションの役割をするのが「想像の世界と架空の友だち」ということになります。
(ちなみにやや脇道に逸れますが――こうした「大人になると使えなくなる力」や「他人に知られるとダメな能力」というものを扱っている物語は、最終的に大体他の人とかにばれますね? これは現実の厳しい社会との対面を表しており、ここで力が失われるのは想像の世界の破棄ということです。ですからここで成長を迎えたことになり、魔法とかが使えなくなるということです)

で、『トトロ』では主人公たちが成長してくれないのですよね……。だから余計に紛らわしいことになってしまっているのですが。
ただしトトロが「架空の友だち」ということは所々でほのめかされています。ただしこれらを全部挙げていったら切りがないですし、曖昧な表現になっているところもありますからわかりやすいところだけピックアップしていきます。
まず物語の冒頭は引っ越しするところから始まりますね? で、ここで最初に語ってくれていないのですが、お母さんが病気で入院しているということになってます。つまりここで親(あるいはそれに対当する生まれ故郷)から離れたということになります。これは反抗期の始まりの比喩として捉えることができます(ただし、もう一つ役割があります。後述)。
そして「トトロ」はなんかおとぎ話か何かが元になっているって言われています。これはメイが「トトロに会った」と言うとサツキが「絵本の?」なんて聞いてたと思います。ようは何かから想像したものだ、ってここで宮崎駿は言っていることになります。これはさっきの心のメカニズムで言ったように一から「友だち」をつくるのは大変なので、何かを元にしてますってことです。
またマックロクロスケも、最初はおかしな雰囲気としてしか捉えていません。「何かいる!」なんて言ってますけど、あそこではまだはっきりと見えていないはずです。ここにおばあちゃんから「ススワタリだよ」と実際にいるもんだなんて言われるので、それを信じ込むわけですね。つまり想像して友だちをつくる素地ができるということです。それにサツキがトトロに会うのもメイの話を聞いてからですね? 彼女はどうやらメイが元にした絵本の方を信じていないようなので、メイから実際にいるのだと思わされているということになります(だからメイよりサツキの方が後に出会うのですね)。またここではお父さんもメイの手助けをしていますね。メイの話だけだとサツキは半信半疑でしたが、あの後三人でトトロがいるという木のところに行って、「メイがお世話になりました」なんてことを言ってたかと思います。ここでサツキは不思議なものを信じる方に傾いてくれてます。
さて、見えるきっかけですが、これは「厳しい大人の社会」が垣間見えたときですね。特に守ってくれる人がいなくなって、それまでの子供の「守られる社会」から離されたときです。冒頭で引っ越しをし、お母さんが病気になっているのはそのための予備の伏線でもあります。新しい、別の社会へと強制的に放り込まれているわけですね。そしてメイはお姉ちゃんのサツキがいないときにトトロと出会います(ここ、メイの心理が曖昧なんですけどね)。またサツキがトトロに会うのはお父さんの帰りを待っているときですね。バスが来たのにお父さんが乗っていないという「社会の不条理さ」をまず経験してます。またメイも寝ちゃってますね? あれ別に『子供だから眠くなるだろ』なんてバカみたいな理由で入れたのではなくw、サツキを一人にするためですね。二人でいると「守られている社会」にいちゃいますからね(サツキにとっては「守っている」という感覚でしょうが、それはお姉ちゃんだから自然なことと思ってやっていることなので、だからまだ「子供の社会」に属しています)。ラストの方でサツキがトトロに会いに行くのも、メイを見つけられない、どうしたらいいのかわからない、という「現実」の問題に直面しているから会いに行けています。このようにトトロと出会う直前には、何か「現実の厳しい社会」を感じ取っているシーンが挿入されています(まあ、ドングリの木を伸ばしに来たときとか曖昧なところもあるのですが、あそこは夢の中で出会ったということなのでしょう。だからドングリの木は中途半端に芽しか出てないですし、二人して「夢だけど――」なんて騒ぐセリフが入っていることなのでしょう)。

さてはて、「トトロ」は実在しないということは上の説明でわかってもらえたでしょうか? 他にも細々ありますが、それらは判断がちょっと難しいので紹介はしておかないことにします。自分で見るときに色々と探して解釈してみてはどうでしょうか(明かさないのはこの楽しみを奪わないようにって意図もありますw)。
あ、上の説明でも「いやトトロっているし!」と信じ続ける人へ。
別にそれもいいんじゃないかな、って気がします。そういう人にはきっと「トトロ」がそのうちやってくるでしょうし、また私自身物語の中のキャラクターは生きている存在だと思って見ています。というかそのようにキャラクターを捉えてあげないと彼ら・彼女らの心情を深く探ってあげようという気になりませんから(なお、こういうキャラへの愛着のことを「萌え」というのですよ? オタクだけにしかない奇妙な感覚じゃないですから、誤解していた人はご注意を)。

ただ『トトロ』は同じようなテーマを持った作品と違って、「トトロ」とお別れしないですね。つまりサツキとメイは成長していないということ。だからあれ、バッドエンド、なんです。だから物語の最後ではお母さんが帰ってこないんです。病気で入院したまま終わっちゃう。一応いくらか元気になっているのは、そこまでで多少は成長した分ということでしょう(まったく成長してなかったらお母さんには死んでもらわないとなりませんね。より厳しい現実を突き付けるために)。なおEDのスタッフロールの中でお母さんが戻ってきているようなニュアンスの画が入りますが、あそこはそれまでにサツキたちがもっと成長したか、一時的な退院ってことなのでしょう。具体的に触れられていないのでどちらか判別できませんけれど。


んー、今回は『トトロ』の話だけだったからもう少し書けるかな?
えっと宮崎駿監督の作品紹介をする初めに言いましたが、これって簡単な物語構成なのですね? こう言っては何ですが……読みとれて当たり前のレベルです。だって宮崎駿は対象にしている年齢層はそれなりに若い人たちを想定してるんですよね、多分。だからそれなりに読解力のある小学生とかで(無自覚でも)テーマがわかるような単純なものになってます。
こういう古典的な物語構成はもう山のように使われてますし、むしろ使い古された感すらあります。もちろん第二次性徴のあたりの青少年の心の動きというのは重要なテーマですから今後も使われるでしょうが。
ですが、世の中にはもっと複雑な物語構成をとったものがたくさんありますし、特に最近の心理学や脳科学などで明らかになってきた心のメカニズムを取り入れたものはより難しくなります。読書とか本気でしたい人たちはこの辺まで踏み込むレベルに達しないと、作者の掲げているテーマがわからなくなりますよ?
また宮崎駿監督の作品は(たびたび言ってますが)中途半端です。子供向けに、アニメという分野でやったからなのか、あるいは純粋に力不足なのかわかりませんが、きちんと描ききれてない部分がたくさんあります。それを絵や音楽で補ってもらってるという感じです(もちろん宮崎駿自身の感性というものがありますから、そこに魅力を感じるというのも大きいです。そこまではさすがに否定しません。むしろこの面では確かに天才ですね)。このような中途半端なものだから、他の作家はこれをきちんと描いたものを提示しようとしていたりします。私自身もその一人ですね(残念ながら世に出せるレベルではないですが(涙))。
以前――どの記事でしたっけ――『トトロ』と同じ話を作ろうとしたことがあります、なんて書いた気がします。この話は中学のときに出した案ですね。このときは別に上で書いたような心理メカニズムなんてほとんど知りませんでしたが(話が単純ですから)、言わんとしていることはわかるわけですね。そして足りない部分もわかる、と。それで自分なりにきちんと描こうとしたのがそれです。
でも書いていないのは……書けないからです。
途中で「トトロ」は何かが元になっていると書きました。別に「架空の友だち」は一からつくってもいいのですが(そして現実にはそういう人もいますが)、ですが物語である以上見る人にはそれを納得してもらわないといけないわけです。感情移入ですね。となるとわかりやすいのはやはり何か元があるという形にするというのがよいわけですね。ですが――何を元にしましょう? みなさんが物語を書く人間だったらどうしますか?
一つの解決策としては『トトロ』と同じく劇中で何か作品があるとするということです。でも『トトロ』はこの作品について何も触れていないから、わかりにくくなってます。ならば劇中劇を入れなければならないのですが、普通に容量を食います。仮に文庫一冊分でこの話を書くとしましょう(というか私がそれで構成を考え始めたのですが)。原稿用紙で250枚です。この場合、主軸の物語がメインにならないとならないとテーマがぶれてしまいますから、どんなに削っても三分の二はそちらに使わないといけません。となると160枚から170枚くらいですか。そうなると残ってるの80枚とかしかないのです。これ短編の量。これだけで主人公がそこにのめりこんで、自分の中に「友だち」としてつくってしまうほどのものだと納得してもらわなければなりません。また、単純に劇中劇→メインストーリーなんて構成も取れません。これだと最初に読むのが劇中劇ですから、読み手はそっちに頭が行ってしまい、話がメインに移ったときにすぐに内容把握をする準備ができなくなってしまいます。だからやるとしたらメインの中に所々で劇中劇を入れていくしかない。でも――最初の仮定として主人公にはその「友だち」をつくってもらわないとならないのです。途中途中で劇中劇なんてことをやってたらそれを提示するのが遅れちゃいます(一応後から『ああ、ここから想像したのね』と思わせることはできますけど、後から気付いてもらったのではテーマが伝わるのが遅いということですし、あるいは「友だち」を変な形で出していって違和感持たせたまま読み進めてもらうということもできるでしょうが、これじゃあミステリーみたいで、私のやろうとしている「架空の友だちとそれとの別れによる成長」というテーマから外れてしまいます)。それに……「友だち」一人じゃあ「世界」が寂しいので、いくつかの役割を持たせた(性格の異なった)キャラが複数必要でした。一つの物語で愛着がわくキャラなんてそうそう出てこないですから、劇中劇はそれなりの数用意しないといけないというわけですね。……もうむしろ劇中劇だけになるじゃないですか!
ということで最終的にそれらを解決する案として出したのが、有名なキャラを使わせてもらう、ということでした。ようは他の作家の方のキャラをお借りするということです。これは――同人とかなら一応可能でしょうけれど――私としてはやるからにはきちんとやりたいと思ってたので、当然使わせてもらうキャラの製作者の許可をいただかねばなりません。無名の私にそんなことできるわけないですし、また仮に許可がもらえて書いたとしてもそれは応募できるような作品ではないですよね。それに自分の物語に使うための役割を果たしてくれるキャラを選別していくなんていうのはとんでもない労力だというのもあります。ああ、それにどうしたってキャラによって重要度が変わりますが、その場合あまり出番のなかったキャラの製作者様には不快な思いをさせてしまいますよね。だから取りやめたんです。

んー、なんかもうここまで書いたから概要を言っちゃいますね。どうせ書けないストーリーなのですから。
タイトルは(最後の方何にしたかな?)仮題が確か『Dreams』だったかと。一応「友だち」キャラが何人か出てくるという理由から複数形にしてました。
主人公は13,4歳くらいの女の子。ちょっと年齢が高めですが、(後で述べる)解決策のためにこのくらいで設定しました。一応「架空の友だち」をつくるぎりぎりの年齢ですし、許容範囲だと判断しました。
ちなみに最初は男にしようかと思ったのですが――この年代の男の子だと性の方にも目が向いてしまう年頃ですね。妄想の世界ですから普通にやましいことするだろうなあ、と思ってやめました。性描写たくさん入るとそっちに目が行ってしまうのでテーマがぼやけるので。
もちろん女の子でも似たような状況になっちゃう可能性があります。性行為ではなくても疑似的な恋愛とかですね。これは入れたくなかったので、「友だち」は全部同性の女性で統一することにしました。
この女性での統一はもう一つ理由があって、この主人公の女の子は男の子へ苦手意識・嫌悪感を持っていてもらうことにしました。これは過去に男の子からイジメとかを受けたということから派生してます。これは単純にキャラの設定というだけではなく、「現実社会の厳しさ・不条理」を与えるという役割があります。これで「想像世界」への逃避を行なわせてます。
で、まあ途中途中「友だち」とかの役割とかがあるのですが、そこら辺まで説明してると量が膨大になるので省略します(というか昔すぎて覚えてないですorz 書いた紙は残ってるのかなあ)。
この主人公へ与えられる課題は当然のことながら「現実世界へ目を向けること」となります。特に嫌がっている男の子へ目を向けるということですね。
それで、まあ恋愛要素を入れるのは常套手段ということもあり、また上手く機能してくれるので、現実世界の男の子と仲良くなっていく、最終的には恋愛感情を持つということが課題の克服となってます。
当然すぐにはこの感情はすぐに芽生えるわきゃないので、ここはじっくり書くつもりでいて、その際に「友だち」に会いに行く頻度を少しずつ減らしていく構成になってます。これは最初は読み手にはわからない程度のペースで、でも途中から明らかに激減します。気付くか気付かないか、ぎりぎりのラインを狙おうと思ってました(これは実際に書いてみて、そこからまた手直ししないと最終調整できないですが)。
そしてぱったりと行かなくなったところで、その男の子とちょっと喧嘩のようなことでもしてもらうことになってます。当然女の子はその「現実社会の厳しさ」から「友だち」のところへ逃げるのですが――もうこの頃には女の子もそれじゃあいけないと思い始めてる頃です(省略したとこにはこのための伏線が途中で入れられてるんですね)。なので自分でつくりだした存在から、「私たちは夢でしょ」と突き放されるということになります。これが「想像世界」の崩壊になるわけですね。ここはこの「想像世界」と「現実世界」が近づき、主人公の心が成長したことが起こっています。
あとはこれで「現実社会」を受け入れる準備ができたので、男の子と仲直りしてもらって恋愛関係でも始めてもらって終了です。

やば、自分の話で分量とりすぎた。省略しまくってるのに(汗)


まあ、後半私の話で埋めちゃいましたが、このように宮崎駿監督の作品って滅茶苦茶単純な構造論を使っているということです。プロでもなく、特に執筆の勉強をしたことのない中学生の私ごときでも真似できる程度のものだってことですね。ですから世の中にはもっとしっかりしたものや複雑なものがあるということです。色々と読んだり観たりする人はそういう背景まで見れるといいですね。
――え? 『ポニョ』の構成ですか? ……誰か私に教えてくださいw 一回観たけど理解不能でしたww(というか途中で5回くらい中断しました。見続けてられなかったので(汗) まあ本当はいくらかわかってますけど、やっぱりこの人はメカ以外は弱いんだなあと思いました。現実に存在していた生物と架空の生物が混じりすぎてて、それらの役割を解釈する前に思わず呆れてしまいました。どっちかに完全に固定すれば――『ナウシカ』みたいに――もっと見やすくて面白い話になると思うんですけどねえ。新しい挑戦……としては破綻しすぎですし、『もののけ姫』での歴史考証の極端すぎる甘さがありますからね。順当に考えて世界設定を失敗している作品だと思ってます)
by zattoukoneko | 2010-04-20 07:49 | 映像 | Comments(0)

ジブリ・宮崎駿作品の物語構造(各作品)

前回の記事でジブリ・宮崎駿監督の物語構成を紹介しましたが、今回はそれを各作品で確かめていきたいと思います。
ただ宮崎駿は(前回もちょっと触れましたが)この伝統的な構成をまともに使いこなせていませんでした。『もののけ姫』でようやくできたか?、という感じです。ですので、これが明確に意図して使われた『千と千尋の神隠し』から見ていきたいと思います。


『千と千尋の神隠し』では、まず最初に反抗期の象徴である「親との別離」が描かれます。これによって神々の世界に迷い込むのですよね(一応親も一緒に入り込んでますが、本格的に別世界に迷い込むのは両親が豚になって別れてからとなっていると思います)。
そして千尋は初潮の証である「呪い」をかけられます。それは湯婆婆によって名前を変えられて『千』とされることですね。あまり呪いっぽくないのは……宮崎駿の力不足です、多分(いや、半分冗談ですw 物語の構成などもありますからね――でも半分は本当に力不足だと私は思ってます。この後読んでもらえればわかると思いますが)。この呪いはきちんと年上の女性=老婆からかけられているはずです。
そして課題となるのは異性から自分の本来の美しさを見抜いてもらうことです。それはハクによってなされるわけですが……ここは少し話が入り組んでいます。というのはハクも同じく呪われているのですね? 名前を変えられているわけです。つまり初潮を迎えているのは千尋だけでなくハクの方も同じなのです。ですから物語はこの二人が同時に主人公であり(視点は移り変わると見ている人が戸惑うので千尋の方に固定ですが)、お互いに自分たちの本来の姿を見抜くことが課題となっているのです。実際、お互いが自分たちの本来の名前を思い出すのは同時なはずです。
ただ――この課題というのが見えにくいんですよね、この作品。名前が変わるという呪いがかけられて、本来の名前を取り戻すという、この後半だけ見ればとても効果的な演出なのですが、前半があまり呪いっぽくないのでわかる人にしかわからないという話になっちゃってます。私はこの構造は昔から知ってましたから(というか宮崎駿はずっとこれですから)すぐわかりましたけど、みなさんはどうでした? ハクの本当の名前思い出すとか千尋もハクによって自分の名前を意識するとか、意味わかりながら観てましたか?
あと――これは演出でしょうけど――余計な部分多すぎですよね。それぞれ色々と意味はありそうですが、この「呪いと、そこからの回復」という大きなテーマとは少し離れてますよね。個人的には――マックロクロスケに手足が生えたのが許せないw(←構造論と関係なし)

なお『千と千尋の神隠し』はこの初潮の話のほかに「行きて帰る物語」という構造も使ってます。
「行きて帰る物語」とは、簡単にいえば、別世界に迷い込む→課題が与えられる→課題のクリア→元の世界に戻る、というものです。ここでの課題が初潮の課題と重ねられているということになります。
ですから千尋はきちんと元の世界に戻ります。このときハクは一緒じゃないですよね? これ一緒に帰ったらバッドエンドなのです。なぜならハクは元から別の世界の存在だから。たまたま迷い込んだ世界で一緒になっただけで、これを連れて帰っちゃったら元の世界に戻ったことになりません。ですから最後は二人は別れるのです。


さて、次に『ハウルの動く城』いきましょうか。
これは「呪い」が見やすいですねー。というか民話そのままのパクリじゃねえか!、と観ながら突っ込んでしまいましたw
民話というのは『姥皮』というやつです。これは親元から離れた女性が山奥の不思議な老婆から老婆の皮を着せられて、お金持ちの家で住み込みで働く。そこの若い男に美しい女性だと見抜かれて元の姿に戻る、というものです。
これ、皮じゃなくて魔法になっただけでそのまんまですよね? 主人公のソフィーに呪いかけるのは老婆だし、住み込み先のハウルはお金持ちっぽいですし。
ただし変更点もあります。『千と千尋の神隠し』と同じで、ハウルも呪われます。ハウルが途中化け物っぽい姿になりますよね? あれが呪い=初潮です。戦争を嫌いながらもそれに加担している自分を醜いと思うことで、呪いにかかるという構造みたいですね(一度しか観てないからちゃんと把握してないですけど)。それでソフィーが心配して世話してあげるとこの呪いが解けるという仕組みです。
またソフィー自身もたびたび呪いが解けて元の姿に戻りますね。これはその時々で彼女が自分の初潮を受け入れたという心情を表現しています。特にハウルからの影響があると毎回姿が変わります。
こうしてお互いに自分たちの呪いを解くという構造になっていて、また途中途中何度も解けるか解けないかを繰り返しているというのも面白い点です。『千と千尋』と違って、一発じゃうまくいかないわけですね。この辺りは宮崎駿なりに少女(および少年)の心の揺れ動きを取り込んでみたということなのでしょう。
ただ、ハウルの方の呪いは今回もわかりにくいですね。またソフィー自身もどれだけ自分の「呪い」を醜いと考えているのかよくわからなかったりします。なんか所々でむしろ開き直ってるんじゃあ?、というシーンがありますからね。なんでこういう風にしたのかは、ちょっと私にはわからなかったです。
――あ、親との別れを説明し忘れてますね。
ソフィーは確か帽子屋かなんかで働いてましたけど、魔女が来る直前に仕事仲間(あれって血はつながってましたっけ?)と別れてひとりになっていると思います。直接の両親ではないですし、これで反抗期の象徴になるのかわかりにくいとこですけど……まあ、一応ここがそこに位置付けされるのでしょう(あれ、実の母親とも別れてるんでしたっけ? でも冒頭でちゃんと言われてなかったので、私はあまり気にしてなかったです)。


『もののけ姫』は前回少し触れましたね。
アシタカが呪い(ここではもう直接「穢れ」ってことになってますが)にかかって、自分の村から離れます。……これ順番逆な気もするのですが、初潮って反抗期の始まりとぎりぎり重なったりすることもあるので、そういうパターンってことで見ておきました。
ただ課題の解き方がいまいちわからないですね。なんで呪いが解けるのか、今まで説明してきた構造論だけでは説明できないです。また呪いを与えるのも突然現れた獣ですし。あれって年上でメスだったりするんでしょうか?
(というかアシタカの弓強すぎると思いますが? 宮崎駿はメカ系強いのに、誰もあの弓のおかしな威力は突っ込まなかったのでしょうか? 弓の歴史についてあまり知らない方もいると思いますのでちょっと説明しておくと――現在使われている弓道での弓の張力(「重さ」と表現します)は高校生男子の平均が16キロ。女子で14キロです。その後も続ける人は20キロとか超えるの使います。あ、ちなみに普通の初心者が力任せに引こうと思っても、せいぜい10キロちょっとで精一杯ですよ? 筋力の使い方を覚えなきゃならないので。ちなみに私も高校で弓道やってたからこんなデータを持っているわけですが、私の使ってのは最後は23キロです。大体14,5キロの重さの弓で、矢が地面と平行で的に当たるのですが、これは近的という28メートルのもの。有名な三十三間道は遠的で、50メートル先の的を狙います。当然狙いを上にしなきゃいけないのですが――三十三間堂は廊下ですから上に天井があるのです。ですから狙い上げるとここにぶつかります。現在ではこの廊下ではなく、すぐそばの庭で成人のお祝いとかでやっているのですね。つまり今の人たちの使う弓じゃあ本来の三十三間道はうてないってことです。三十三間堂で盛んに弓が引かれていたのは江戸時代。このときは武士たちが「力自慢」のためにここを使ってました。弓の重さは30キロ強。私高校の現役のときは背筋200軽く超えてましたが、23もきつかったですし、20キロから上の1キロ増ってすごい大変なのです。つまり30キロなんて弓は化け物みたいな弓ってことです。そしてそれを引いてる人も。で、アシタカは戦国時代あたりの人間みたいですけど――このときの弓の重さは60~80キロです。ただし、これは今や江戸時代の弓の使い方と違います。30キロですら化け物ですから、こんな弓引けるわけないのです。当時はちょっとだけ弦を引っ張って離すという方法で戦ってました。これで大体2キロ先まで飛びます。また今みたいに顔の後ろの方まで弦を引くのは江戸時代に「手の内」という弓を回転させる技術ができてからの話です――当たり前ですが弦が回転してくれないと顔とかに直撃しますから。これ20キロとかでやると耳とか普通に飛びます――ですので大河ドラマとかでそこまで弓を引いてるものを見たら大笑いしてください。……なんかちょっと脇道に逸れた。で、アシタカ当時の60とかの弓ですが、今言ったみたいにまともに引く代物じゃありません。また古典を読むと「三人張り」とか言葉が出てくるかと思いますが、これは三人がかりで弓を湾曲させて弦を張るということです。つまりそれだけの力を加えないとそもそも弓が曲がってくれないのです。で、こんなに重い弓でも――鎧とかに軽く弾かれますw 人の体にあたってもせいぜい骨を砕くくらいです。よっぽどの至近距離ならもう少し行けるとは思いますけど、そこまで来たら弓より刀使いますよね。そしてこのくらいの威力しかないもんだから、矢尻とかを「→」みたいな形にしてあるのです。矢は回転しながら飛んでいくので、人の体に刺さったときはぐりぐり抉りながら中に進むということです。痛みで動けなくすることが目的なのですね。なのでアシタカみたいに腕とか首とか飛ばすなんて到底無理です。私は観てて爆笑してましたw またアシタカは一人で弦を張るシーンがありますね? ということは彼の弓の重さはせいぜい30キロってことです。60キロでもできないことをそんな弓でできるわきゃないですよね?)
――やば、弓の話に夢中になってた(苦笑) 他の作品へととっとと移りましょう。


『風の谷のナウシカ』も初潮をテーマにしています。
ただこれは宮崎駿の初期の頃のものですから、見抜くのたいへんでしょうかね?
まず親から離されるのは二つあって、実際に自分の実父が殺されますね。また風の谷に攻めてきたトルメキアに連れてかれますね。ここで自分の故郷とも離されることになります。実の父親は生き返りませんが(後で述べる)呪いが解けて大人の女性になるときちんとこの親元の風の谷へと帰るという仕組みになっています。
さて「呪い」がわかりにくいですね。
これはペジテの赤い服を着た部分がそうです。ペジテは一応あのとき敵対しているわけですから、その服(皮)を着るというのが「醜いものへの変身」となります。
で、この呪いはすぐに解けちゃいますw オームの血で青く染まりますよね? あれ風の谷のもとの服の色と同じはずです。ようはここで元の姿に回復したということです。
ただ、このときは宮崎駿もそこまでこの物語構成を使いきれていなかったのだと思います。そもそも「呪い」にかかるのが物語の最後の方ですし、回復もただ血に染まっただけですよね。この辺り、宮崎駿は民話とかで勉強しつつも、意識してこうした攻勢を使いきれてなかったんだなって感じがします(他の演出のため……と考えるとしてもちょっとずれすぎですよね)。
ああ、ちなみに風の谷から出発するナウシカは女の子たちから木の実をもらいますよね? あれ、「女の子」じゃないとダメなんですよ? この辺りはきちんと守ってるみたいですね。あれは「呪い」とは言えないですし、その後もあまり活躍してくれませんが、似たような効果を持ってると思ってくれればよいかと。だから「女」の子からもらうのです。


さて、宮崎駿の作品は他にも『魔女の宅急便』とか『紅の豚』とかがあります。でももう上までの説明でもう大体わかりましたよね?
キキは実家から離れますし、魔女の黒い服にも着替えます(作中で「好きじゃない」って言ってるのは『醜いもの』のちょっとした強調です)。ジジの声が聞こえなくなるのも一応呪いなんでしょうかね。ただこれらはうまく回復に結び付けられていないですし(一応元気を取り戻したみたいな感じで終わりますけれど)、実家にも戻らないですね。
『紅の豚』も似たようなもんです。反抗期の象徴は戦友との別れなんでしょうかね? あの後豚になったってことになってますし。回復するのも、えっとフィオでしたっけ?、この「異性の」女の子に気に入られてキスされたから戻るのですよね。(別に殴られたからじゃないですよw)


こんな感じでしょか? 一応宮崎駿監督作品以外にもこうした構造のものは山のようにあります。
日本以外なら『シンデレラ』が一番わかりやすいし、有名ですかね? シンデレラは継母という実の人間ではない人の元で暮らしてますし、舞踏会では彼女らとも別れてますね。そして綺麗な衣装を年上の魔女からもらう、と。最後も(呪いがかかった状態でではないですが)その美しさを見つけてもらってハッピーエンドです。違いは変身するのが「醜いもの」ではなくて「綺麗なもの」ということでしょうか? この違いはどこから来てるのか知らないのですが(私は文学史は詳しくないので)、でも基本は同じだとわかるかと。(ん? もしかして最初の汚い格好の方が「呪い」で、「綺麗な」ドレスの方は本来の美しさを表してるのかな? でもそう考えると成長のどの段階を指してるのかよくわからないですね。一時的にそういうのが垣間見えたよってことなんでしょうか)


さて、『トトロ』が残ってますねえ。
こいつは別の物語構成を使ってます。なので別の記事として紹介しますね。
(というかまさか宮崎駿の作品紹介ごときで三分割しなきゃならんとは……)
by zattoukoneko | 2010-04-16 09:43 | 映像 | Comments(2)

ジブリ・宮崎駿作品の物語構成

ジブリの宮崎駿監督による映像作品の物語とはどういう構成になっていて、何がテーマなのかについて今回は紹介したいと思います。
というか、私は意外だったのですが、これ知らない人ってたくさんいるのですね? 普通に簡単な話だと思っていて、友人とか大学の教授とかとその話したら驚かれました。これを見ている人にもきっとたくさんそういう人がいるのだろうと思って、今回丁寧に見ていくことにしました。


いきなりですが、宮崎駿ってロリコンです。というか日本でロリコンというものを普及させたのがこの人って言ってもいいくらいです。
もちろんロリータ・コンプレックスというのは前々からあったものです。ですが宮崎駿の『カリオストロの城』や、特に『風の谷のナウシカ』で一気に火がつきました。ナウシカとか大人からめちゃくちゃ人気が出ましたからね。
でもナウシカって結構大人な気がしますね? 設定まではちょっと調べてないのですが、16,7歳くらいに見えます。けど、この子に愛着を持つのってロリコンなのです。それはただ見ていた大人より年下だったからというわけではなく(もしそうだったら30歳の人が20歳くらいのアイドルとか見て好きになるのもロリコンになっちゃいますから)、そうではなくてテーマから見ると本当はナウシカって10歳から14歳くらいなのですよ。ここまで年齢が下がるから、だからロリコンなのです。

さてじゃあそのテーマというのは何かについて説明したいと思います。
実は宮崎駿はほとんどの作品で初潮を扱っているのです(例外はトトロとポニョくらい。ラピュタとカリオストロは――きちんと観たのが大分前なので曖昧です。すいません)。つまり女の子(作品によっては男の子に変えることもありますが)の第二次性徴を描いているということになります。
ですのでこれを迎える時期を考えれば、各ヒロインたちの年齢は10歳から14歳くらいということになります。


じゃあ何が初潮なのか? これは物語の構成から見ることができます。

これは有名な話ですが、宮崎駿は物語作りを始めるにあたって古くから伝わる民話などを読み漁ったという経歴の持ち主です。
そして今でも残っている民話(さすがに子供向けに簡略化されたものは除きますが)の多くはこの初潮のことを扱っていたりするのです(あるいは青春期の成長ですね)。
これは実は日本だけではありません。ありとあらゆる国の民話を調べてみると、同じようなものがたくさん見つかり、構造もほとんど――というか全く同じだったりします。せいぜい文化の違いからキャラクターの立場がちょっとだけ違うというくらいでしょうか?
宮崎駿はこの構造論を自分の作品の中にも取り入れていったということになります。ただし、宮崎駿は天才なのでしょうが、それらを読み解くだけの能力はなかったようです。また自分の作品にもなかなか活かせなかった。これは本人に聞かないとわからないですが、どこまで意識してたのかわかりません。私の個人的な感想としては、彼は一人ではあそこまでの大物にならなかったんじゃないかと思います。彼を支えたスタッフ。特に絵と音楽が彼の作品を引きたてたのだと思います(ちょっと想像してみてほしいのですけど、キャラクターや背景を三流アニメのものにしてみてください。これ、売れますか?)。

ではその構造というものはどうなっているのでしょうか? これを以下では見ていきたいと思います。
今でこそ言われなくなってきましたが、「女性は汚いもの」とされてきました。
田舎の出身の方とか、お風呂に入る順番っておじいちゃんとかお父さんから入って、そして最後にお母さんじゃなかったですか? これは別に最後にお風呂に入ったお母さんが掃除とかするからじゃないのです。理由は上記の「汚い」から。特に生理がそのように見られてました(だから大人の女性であるお母さんが最後なのです)。
まあ、今は「汚い」と表現してますし、女性の方でもそう言う方が多いのですが、ようはこれは「穢れ」のことです。血ってやっぱり怖ろしいものの象徴ですから「汚い」じゃなくて「穢れ」だったのです。これを女性は表現を軟らかくして「汚い」と言っていたということになります。
宮崎駿のように初潮を扱う場合、特に初めて生理を体験した女の子にとってそれは「穢れ」であり、醜いものと感じるようです(残念ながら私は女性ではないので、本当にそう感じるのかわからないです。文化の影響もあるかもしれないですしね。でも……さすがに戸惑う気がします)。したがって、ヒロインたちは「醜い」状態にされます。『ハウルの動く城』はそのまま「お婆ちゃん」という醜く、かつ大人(すぎる)ものに変身させられます(というかこれは日本の民話そのまんまパクってますね)。これが一番わかりやすいでしょう。
あるいは『もののけ姫』などでは直接「穢れ」に取りつかれるのですよね(主人公は女の子ではないですが)。このように「呪い」のような形で表現されていたりします。
さてこの「醜いものへの変身」が一番の鍵となるのですが、それは克服されなければなりません(女の子は成長して大人の女性になるのですから)。このためある課題が渡されることになります。
その課題というのは――異性から醜くないと見抜いてもらうこと。
つまり醜いと感じているのは自分自身の一時的な嫌悪感であり、他人からその人の元の部分は何も変わっていないのだよ、と言われることによって、自分の体に起きた生理という現象を受け入れることができるのです。これは異性である男性から認められるほど効果が大きいため、昔からこの役割は若い男性に任されています。(あ、ちなみに言い忘れましたが、「呪い」は老婆=年上の女性から与えられるのが通例です)
またこれは初潮を主軸に置きながらも、時期は第二次性徴の頃ですから反抗期と重なります。
(あ、もしかして反抗期の役割ってあまり知られてないんでしょうか? 脳のメカニズムとしてきちんとしたものなのです。ちょっと脇道に逸れてしまいますが説明しておくと――人間という生物は社会生活を営みます。しかし人は最初は親の庇護のもとで育てられるものです。そのため依存しちゃう。なので反抗期というものによって、その守ってくれる人に敵愾心を覚えさせるのです。このことによって自立を目指すのですね。そして反抗期が終われば、普通に親とも仲良くなれますが、このときは自立した大人として一緒に生活することになります――まあ、現代では生物のリズムと社会のリズムがずれてきてるので、親離れも子離れもできない人たちが出てきちゃってますが。あ、余談ですけど反抗期に似たものとして「乳房の分裂」というのがあります。エヴァのサブタイトルでも使われてましたね。興味のある人は調べてください)
反抗期の説明が長くなりましたが……第二次性徴を迎えるヒロインたちは親から引き離されます。『千と千尋の神隠し』では冒頭で親から引き離されて別世界に行ってますよね? 『もののけ姫』では――順序が逆だろうよ、宮崎駿!、と思ってますが――呪われたアシタカは自分の村を出ていってるはずです。


さて各作品で上の構造がきちんと守られてるのを見ていきたいのですが――意外と文字数食ってますね。
多分このまま全部書くと文字数オーバーのエラーが出るので分割します。数日後には記事をupしますね。
by zattoukoneko | 2010-04-14 06:25 | 映像 | Comments(0)

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のテーマ・男らしさの否定

前回の記事のupは日曜だったんですね。すっかり月曜だと思ってました。
で今回のを水曜か木曜にして、一週間で二つ。ちょうどいい感じじゃない?!、とか思ってたんですが……失敗しました。
まあ、今日のをずらすという手もあるのですが、あまり日にちを空けてしまいますとつながりが悪いですし、思い立ったが吉日とも言いますからね。


さて今回は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のテーマについてです。これは全シリーズを通して解決されるもので、一作品目では解決されていなかった問題についてのお話です。
主人公のマーティには勝負事を挑まれると受けざるを得ないという「問題」があります。日本人には馴染みがないと思いますが、これ、「決闘」を意味しています。そして決闘とは(西欧社会の)男らしさの象徴のひとつなのです。

少し難しい話になりますが、西欧社会においてどのように男らしさ(および女らしさ)が社会的につくられたものかを概観したいと思います。(なお参考資料などをあげることもできますが、山のようにある上に一冊2万越えとかする本ばかりなので紹介は差し控えます)
ヨーロッパには階級というものがあるのはご存知かと思います。貴族たちの上流階級と、労働者の中流階級、そしてその下に下流階級というものがあります。男らしさというのはこの中の中流階級の中でつくられたものでした(そして暗黙的に現在でも男らしさを身につけられるのは中流階級だけだと思われています。上流階級の人々にはそんなものは必要なく、下流の人々には身につけるだけの素養がないとされています)。
男らしさの概念が現在の形に整備されたのは産業革命以降、16~17世紀頃です(それ以前にも何らかの男らしさというものはあったでしょう。生物学的に男性と女性はやはり違っており、そうすれば互いに考え方も異なってきて自然ですので)。
産業革命によって中流階級=労働者たちの地位は向上しました。またそれまでは働きづくめだったのが、多少時間の余裕が出てきて「余暇」というものが誕生してきます。そうすると中流階級の人々は自分たちはどのように振舞うべきかを考えだしました。
ここでいくつかのものが参考にされました。
一つに上流階級のマナーです。中流階級は地位が向上し、上流階級に追いついてきました。なればその上流階級の生活の仕方というものを参考にしようというというのは自然な流れかと思います。この際食事の際のマナーやモラル、女性の尊重などが生まれました(ただしこの辺は混然としており、のちに述べるキリスト教からの影響もあります)。
二つ目に騎士道が参考にされました。騎士は上流階級に所属しますし、たくさんのルールやマナー・モラルを持っていました。その中の一つが「決闘」でした。決闘は、一対一で戦うというのもありますが、それを行う際のルールというのが尊重されました。ルールを守ることがいかに大切なことか、が説かれたわけです。(そして18世紀にはいると大学に体育科目が導入されるのですが、この際にさまざまな競技のルールが細かく決められました。フェンシングやラグビーなどはこのときに誕生したものです)。
三つ目にキリスト教からの影響があります。主に生活上のモラルに関してが中心ですが、最も大きかったのは女性の尊重です。「レディーファースト」なんてのがありますが、これはこのときに生まれたものです。男性は女性を守らなければならず、大事にしなけらばならないというわけです。また性行為などに関してもいくつも戒律がありましたので、その面での影響もあったようです。
四つ目に17~18世紀にギリシャ時代の彫刻がたくさん発掘されたということがあります(絵画などはギリシャ時代には主流ではなかったですし、あったとしても破損してしまっていて参考にはならなかったでしょう。一方で彫刻は頑丈ですので、一部しか見つからないことはままありますが、形はわかるわけです)。社会の教科書で見たことがあると思いますが、みなマッチョです。これを見た当時の人々は、昔の人々はこんなに筋骨隆々としていたのか!、と驚いたわけです。そして筋肉美への憧れというものが出てきました。これが男性性の一つの要素となります。また同時期に青少年の性と体の関係に関する研究が盛んに行われていました。現在でも『オナニズム』という本は有名で愛読家がたくさんいます(内容は、自慰行為をすると体が貧弱になってやせ細り、顔色も青白くなる、というものです。現在の視点からみると医学的な根拠はありません)。こうしたことから青少年はどのようにして肉体を鍛えるか、というのが大きなテーマとなりました。大学に体育が導入されたのもこうした経緯からです(なおイギリスにおいては集団意識も尊重されたため、団体戦などが発達します)。また(これはもう少し時代が後になってからの話ですが)人間の力によって自然を支配するという考えが生まれます。その結果西欧社会には「ジュブナイル」という文学群が登場します。これは青少年の男性性を育むための書物であり、代表的なものに『ロビンソンクルーソー』、『トム・ソーヤの冒険』があります。いずれも若い男の子たちが自分たちの力で自然と戦い、支配していくお話です。また文学作品ではないですし、時代も20世紀に入ってしまいますが『ターザン』なんてものもあります。

さてだいぶ長くなりましたが、以上の四点、上流階級への憧れ・騎士道のルール・キリスト教のモラル・ギリシャ時代の肉体美への憧憬、が西欧男性性の根幹にあります。これらが複雑に絡み合いながら男らしさの概念というのは社会的につくられ、ジュブナイル作品などによって青少年の頭に叩き込まれていくこととなります。(ただし18世紀から19世紀にかけて鉄道ができ、駅周辺に百貨店や住宅街が出てきて都市化が進むと、自然がなくなってしまいます。肉体を鍛える場もなくなります。そうするとまた男性性概念も変容していきます。が、今回はここまで話し始めると長くなりすぎますので割愛します。詳しくはエジソンの話のときにしたいと思います)


で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の話に戻ります。
上で述べたように決闘というのは男性性を示す一つの重要なファクターです。また決闘にはルールがあり、それを守らなくてはなりません。詳細は省きますが、たとえば、決闘を申し込まれた場合それを辞退することは認められません。逃げれば臆病者とされ、男ではないとされます。マーティはまさにこれに当てはまっています。決闘を申し込まれ、そこから立ち去るような素振りを見せると臆病者と呼ばれるわけです。そうするとマーティは決闘を受けにいくのです。
ただし決闘に関しては本当に人を殺しますので(ルールで真剣を使うことになっていました)、早い時期に禁止されます。ただし隠れて――というか警察などは見て見ぬふりをして――決闘はその後もしばらく続きます。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの公開された80年代にはすでに決闘はほとんど消えていますが、まだ概念としてはマーティのように残っていたわけですね。
さてマーティの抱えている問題とはこの時代遅れになりつつある男性性を捨てられないことでした。そして劇中何度も何度もこれが出てきます。
が、最終的にはこれを克服しますよね? 決闘を受けたふりをして、車を逆走させて逃げるわけです。
これは男ではありません。――従来ならば。
が、結果的にこれによってマーティは事故を免れハッピーエンドを迎えます。つまり男性性の否定(すべてではありませんが)が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のテーマであったと解釈することができます。


さて、西欧の男らしさばかりを見てきました。先に述べたようにヨーロッパやアメリカでは男性性の概念は社会的につくられた部分が非常に多いです。
では日本はどうか?
残念ながら研究して発表をしている方は皆無です(一人外国の方が発表している本があります。ただしこれは間違いだと思っています。内容は明治維新以降、平民は武士に憧れそのまねをし、武士たちの学んでいた儒教の概念をモラル・ルールとして採用していったというものです。が、平民が武士に憧れていたという証拠はなく、むしろ明治維新は武士たちが勝手にやったもので、明治になってからも平民は置き去りの状態で、自分たちは何なのかわからくなったという記述が残っています。また現在の私たちも儒教の概念を持っていないでしょう?)。
実は今、私自身が調査中です。後々論文として発表する気ではいますが、今のところ日本には「社会的につくられた男性性」というのは根づかなかったように思われます。
啓蒙家の方々が何人か青少年向けの雑誌に、男とはこうあるべきだ、ということを遠回しに言っているものが見つけられます(いずれもベースは西欧のもの)。が、それに対する読者の反応はとても冷たいです。
また日本にもジュブナイルという文学領域が一時期ありました。一番有名なのは筒井康隆『時をかける少女』でしょうか? しかし読んでみればわかるとおり、別に男性性成熟を狙って書かれたものではなさそうです。むしろまだ難しい一般小説を読めない中学生あたりを対象に、平易な内容で書かれたものと捉えるべきでしょう。(そして日本ではジュブナイルが消え、代わりにライトノベルが台頭してくるわけですね)
したがって日本においては「社会的につくられた男性性」はない、というのが今のところの私の考えです。
ただし、イコール日本人は男らしさを持っていない、ということではありません。男性と女性はやはり生物学的に異なっており、自然と男らしさや女らしさというものが生まれてきます(たとえば進化学で言われているのは、男性は妊娠するということがないので色々な女性へ目が向きやすい、対して女性は妊娠するために扶養してくれる男性を求めるためにいかに魅了するかを企てるように脳が進化してきたとされています。これ、一般的に愛情と呼ばれる感情です)。
ただし、日本にも社会的につくられたのかもしれないという概念は散見されます。たとえば男性は外で働き、女性は家の中で家事をするものだ、という考え方です。ただ難しいのは本当にこれが社会的につくられたものかということです。古代から(日本の)男性は外に猟に出かけており、その間に女性は育児や家事、野山の散策を行っていました。この名残と考えることもできます。筋力はどうしても男性のほうがつきやすいですし、女性は妊娠・育児の時期があるのでこの生活習慣は自然なものと考えられます(一部女性が狩猟をおこなう民族がありますが)。ですのでこの流れを汲んで「奥さん」という家族構成ができたのであれば、これは社会的につくられたものとは言い切れません。ただこれを判断していくのがとても難しいのですね。


さて、なんか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の話というよりもジェンダーのお話、歴史のお話が大部分になってしまいました。
次回からはエジソン関連の話を三つほど続けたいと思います。
発明王、と呼ばれるエジソンですが、彼が実際には何をどうやって発明していったのか(そして特許に結びつけたのか)、それがどんなひどいやり方だったのかをまずは見たいと思います。
by zattoukoneko | 2010-02-16 17:14 | 映像 | Comments(0)


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