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twitterについて考察

今Twitterというのが流行ってます。売りはゆるーく繋がれて、会話を楽しめるということのようですね。
私は前々から応援しているチュアブルソフト様がこのtwitterを利用し始めまして、その情報を時々もらうためだけに三月頃からアカウントを持ち始めました。
で、五月に入ったら同じチュアブルファンの方からフォロー(会話を見させてー、ってこと)されまして、ここから交流が始まりました。これ、やってみたら面白いのですよ。
が、それと同時に問題も発生しました。わけわからない人からフォローされるのです。私とはまったく興味関心の異なる人や、「業者」というやつですね。
また最近ではこのtwitterのログ収集なんていうのがどんどん盛んに行なわれているようです。また「twitterをつかってネットストーキングしたいんです」なんて言うと簡単に研究費がおりるらしいです。
基本的にtwitterというのは発言した瞬間に全世界の人に見られるものです、と利用規約にも書いてあり、自分の発言は自己責任で行なうこととなります。またログを集めること自体は違法ではありません。またこのログ収集を使って同じ興味の人を探すのももちろんOK。これで交流が広がればいいわけですし。またフォローしなくても、何がそのときの話題なのかをリアルタイムで見れたりします。こういう利用方法も当然あり。
ですがこれを悪用する人もいるのですよね。ちょっと試しに私はどのくらい簡単に個人情報を抜き出せるのか交流仲間にお願いしてやらせてもらいました。
――これ、超簡単。私、20分でその人の生活リズム、趣味、学歴、仕事内容、出身、最近の活動なんてのをおおまかに調べられちゃいました(これ、やり方書きません。悪用されたら困りますから)。ここからさらに他のツールとか調べれば本人特定すら余裕だと思います。ただ……私はこれちょっとやっただけで罪悪感に苛まれました。調査のためにと割り切って始めましたが、人間心はついてくるものですね。私には無理でした。だからその友人に、どのツイート(コメント・メッセージのようなもの)を削除し、今後どうしていくべきかを伝えておしまいにしました。
あとはどれだけログ収集がなされていて、業者や悪人がそれを利用しているか調べようと思いました。が、これとてつもないスピードで拡大していっていて、調査しきれません。特に個人でログ収集のシステムをつくられるとそれを見つけるのは難しいですから。
というのがこの記事を書いている2010/05/22の4:49の状況です。
これの1時間前にちょっと気が向いて簡単にツイートした内容があるのですよ。ちょっとそれをそのまま今回は転載してみようと思います。
なお行換えとかが入っていないのと、短い文章で千切れているのは、twitterにそもそも140字までしか書き込めないという仕様があるからです。
やや読みにくいです。そしてほんとに“つぶやき”です。特になーんにも考えてないです。ツイートするってそういうことなので。ただちょっとそのまま全部消えるのも少し惜しい気がしましたので、ここに丸々転載することにしました。

   ***

電気通信史雑学。なお、こんなの専門書50冊も読めばわかることなので、私にとっては捨て話。こんなの見てフォローしてくる人は当然お断り。ということでまずはキーワードを並べてみましょうか。

有線/無線電信、信号、モールス信号、電話、ファックス、アレグザンダー・グラハム・ベル、イライシャ・グレイ、エドウィン・ハワード・アームストロング、第一次世界大戦、アマチュア無線家 etc.

そもそも電信によって送ることのできる信号というのは極めて単純なものであった。「トン」と「ツー」だけである。記号で表せば「・」と「-」となる。これは電気というものが当時扱うことができなかったから。

送信はもちろん電気を瞬間的に流す「トン」と少し長く流す「ツー」で操作する。議論の中心とするのは受けて側の話だ。電気信号を受け取った人間は、それを「紙に表記する」。これは仕組みがとても簡単で、ただ針の動きで紙にインクをつければいいだけだ。なおこれを改良したのが若きエジソン。

これはその後のグレイのファックスの発明を考えればすぐわかる。グレイはベルと多重電信方式と電話の発明で争った人物として有名だが、彼は多重電信の発明のときからこの電気信号を紙に書くのを使って、絵を描けないかと考えていた。これがファックスとなり、彼は巨万の富を得る。

一方でマルコーニによって無線電信が広められ、さらに鉱石ラジオが普及すると多くのアマチュア無線家が出てきた。しかし彼らは信号を紙に書くことはなかった。そもそもそれだけの技術を設置するスペース(ガレージや屋根裏でやっていた)がなかった。そして一番重要なのは、「信号が長すぎた」こと。

今ではモールス信号が一般的によく知られているし、当時のアマチュア無線家もこれを使用して多くの人と交流した。だがモールス信号は、一文字を表すのが長すぎた。たとえば欧文符号でピリオドは「・-・-・-」なんて長さになる。これで会話するのは無理というものだ。

そこで考えたのが、「紙に書かずに直接耳で聞いてしまおう」というもの。これはアマチュアの発案だ。マルコーニ無線会社の技師などは当然のように紙に書いてから解読していた時代。日本でもいまだに電報なんてのが残っている。

アマチュア無線家はあっという間にプロを抜き去った。彼らは信号を受信した瞬間にその意味を理解する。そして瞬時に返事を返した。このスピードがなければその後無線電信やラジオなどは発明されなかっただろう。

こうしたアマチュア無線家の代表例は後のRCA社長・会長のデイヴィッド・サーノフ、エドウィン・H・アームストロング、そしてKDKAの設立のきっかけをつくるコンラッドだろう。特にサーノフはタイタニック号のSOS信号を長時間受信した人物として有名になり、アメリカンドリームを手にする。

またアームストロングはスーパー・ヘテロダイン方式の発明の親である。現在日本ではデ・フォレストの方を「ラジオの父」などと呼んでいるが、そもそも『Father of Radio』はアームストロングとの特許争いのために書いた自己の宣伝本だ。このことを知らない研究者が多すぎる。

アームストロングはWWⅠに従軍した。これはアマチュア無線家にとって当たり前のことであり、名誉とされた。実際彼らの活躍によって飛行機に無線を積んだりするといった技術が開発され、帰国後はHeroと讃えられた。

このときにアームストロングに課せられた課題というのが、ドイツ軍の無線を傍受することだった。当時ドイツは高周波を用いて無線通信をしているのではないかとされていたのだ。ただしこれは後に誤りとわかる。

アームストロングは低周波と高周波を混ぜ合わせることで中間波を生み出すことを考案する(これは元々ヘテロダイン方式としてあったもの)。これをオーディオンを用いれば受信した電波を大きくすることができると考えた。彼は大学時代にすでに再生式回路でこれをやっていたから自信があった。

こうした経緯からスーパーヘテロダイン方式は生み出され、今でこそ真空管は廃れたが、それでも世界のラジオの98%がこれを採用されていると言われている。

さて話は信号の話に戻るが、当然軍は信号を頻繁に変える必要があった。さもなければすぐに解読されてしまうからである。WWⅡで日本の信号がすべて読み取られていたという話は有名だ。真珠湾攻撃のときもアメリカは米国の日本大使館がそれを読み取るより早く攻撃に備えていたとされている。

したがって信号というのはたくさんある。ここ100年のメジャーなところ(無線電信に限り、無線電話などのその他の無線通信は除く)でも1万から10万という数にのぼる。ただ、これらは軍のような限られたところでのみ使うもので、一般的にはモールス信号が交流しやすい。

こうした理由からWWⅠから帰ってきたアマチュア無線家たちは、その後もモールス信号を使って会話している。アメリカ横断のリレーなんていうのが代表的だろうか? また大学内でも研究が行なわれ、一つの成果として時報が生まれた。

この時報は(音が聞き取りやすくされたが)今でも使われている。「ポン・ポン・ポン・ポーン」なんていうのは元々「トン・トン・トン・ツー」という初期の頃の信号を利用したものから出てきている。これが人気でアメリカ全土、そして世界中に広まったわけだ。

一方でモールス信号なんていうのではなく、もっと高度な信号受信を考え出すアマチュア無線家がいた。それは「音声」を送受信すること。これはすでにフェッセンデンが『O Holy Night』を1906年の12月の24日に簡単な無線技術で成し遂げていた。

戦争から帰ってきたアマチュア無線家たちは軍からもらった真空管を手にしていた。これらは当時非常に高価なものだった。彼らはこれを使って、さらに高音質で広域に放送できる無線を生み出そうとした。これは後にRadioと呼ばれるようになる。

この試みの代表格がコンラッドだ。彼は戦争前からすでに実験をしていたが、仲間と協力して自分のガレージから放送を行い、どのくらいの人たちが、どのくらいの感度で聞き取れているのか無線で呼びかけた。このときに音楽を利用した。

これに地元の音楽販売会社が、自分の店の広告も流すという条件でレコードを提供し始めた。すると瞬く間にこれは人気を博し、そして地元の新聞に取り上げられる。

この記事を彼の上司がたまたま見つけた。そしてただちにコンラッドを召喚。会議にかけてこの放送をもっと大規模にできるかと問いかけた。コンラッドの返事は――Yes. だった。不安など微塵もなかった。

こうして世界で最初期のラジオ放送会社であるKDKAが設立される。最初の放送は1920年の11月2日。この日に大統領選挙があったのだ。だからこの日に間に合わせた。放送は大好評で、コンラッドの勤めるウエスティングハウス社は注目を浴びた。

しかしウエスティングハウス社がKDKAを設立したのは、放送自体が目的ではなかった。これによって自社のPRができ、また自分たちの売っているアマチュア無線機器(当時はまだ一般向けのものはない)が売れたら、ということであった。したがって今のラジオやテレビとはまったく異なる。

現在のように広告によってラジオ放送自体で収益を得るというのは、AT&Tが始めた有料放送システムがきっかけとなる。AT&Tはすでにアメリカ全土に電話線を引いていたから、これとラジオを繋げた。これによって通信距離の短いラジオの短所を補ったのである。

AT&Tはこれを、会社の宣伝に使ってくれ、と売り出した。1時間でいくら、というような感じだ。つまりまだここには「宣伝」しかない。

しかしまだまだラジオなんてものはどれだけ価値のあるものか未知の時代。そもそもラジオ自体が普及していないのだ。当然のことながらほとんどの時間は何も流されなかった。

こうなるとそもそもシステム自体の存亡が危うくなる。そこでAT&Tのスタッフはとりあえず空いている時間を自分たちのおしゃべりで埋めてみた。そうしたところ――これが面白いと大好評を得たのである。そして次第にその時間を増やしてくれ、と同時にそれに投資する形で宣伝を入れる会社が現れた。

つまりこれが今のラジオ放送の始まりである。AT&Tも自分たちで放送内容を考え始めるようになる。これが番組programmeの始まりなのだ。

なお、今回は本当にざっとした話でまとめてみた。放送Broadcastingというのはもっと前から始まっているし、他にも収入を得るにはどうするか、国はどう関与するか、そして最も大事な国際比較を何もしていない。ということで今述べたことはせいぜい大学1年生のレポートのレベル。

さて最後となるが――どうもこのtwitterというのもこの初期のラジオなどの歴史と似ている気がする。個人もどんどん発言できるし、会社もそこに加われる。まったくもって草創期のラジオのときと同じ状況だ。

ただ一つ違うとすれば、アマチュア無線家たちは誇りをもって自分たちの“研究”をし、企業もその使い方に頭を悩ませ、いかに倫理を守るかを考え続けた。だがどうやら現在twitterを利用している「企業」の多くが何も考えていないらしい。私はとても残念だと思う。

今後このtwitterというのがどう使われていくのか、私は興味がある。すでに倫理をもった「企業」はいるようだが、一方でそういうことを何も考えていない「スパム業者」もたくさんいるようである。あるいは悪質な個人も。

私はこのtwitterというのはなくならないと思う。まさに交流としてうってつけのものであり、企業も倫理を守ればちゃんとしたPRとなる。だから消えないだろう。が、昔のラジオに熱中したRadio Boyと違って、道徳を持たない人も多々いる。これは今後どう解決されていくのか興味深い。

   ***

と、まあこんな感じです。
軽いですねー。内容薄っぺらいw
でもこれ読んだらtwitterって少しどういうものかわかりません? 少なくとも現状ではすごく危ない交流ツールということはわかるかと。これを読んだ方はちょっと考えてくれると嬉しいかもしれないです。

あ、なお最初に「チュアブルソフト様の情報が欲しくて」と言いました。
ここはとても良心的で倫理にすぐれた会社です。twitterの使い方もお見事(だからこそ私はおかしな人たちにさらされて大きな戸惑いを覚えたのですが)。
また私自身もtwitterを持っているといいましたが――読んでくれた方はわかりますよね? 私、これ個人的な付き合いと思ってやってます。そしてとても人として優れた方々とのみ交流しています。さらにチュアブルソフト様を心から愛している人で固めてます。それ以外の人には(それがたとえ良心的な人であっても)入ってきてもらいたくないです。他の交流仲間に飛び火してほしくありませんから。

ま、ネット上での交流は難しいですね。でもいい人と巡りあるとそれはそれで力になる。趣味の違う人とか、見方の違う人の意見とか聞くと、『なるほどなあ』とうならされます。
twitterにはまる気はないですけど、でもこういう交流は続けていきたいな。直接会っての会話ではないですけど、何の気にはなしに始めて、そして偶然結ばれた絆を私は大事にしたいですね。これも一つの運命ですから。
by zattoukoneko | 2010-05-25 01:26 | 社会・経済 | Comments(3)

デポジットとは?

今かなり多くの方がSuicaやPASMOといったものを持っていると思います。定期としてはもちろんのこと、チャージなんかができて便利ですね。(ついでに言うならこれを利用すると色々ポイントとかついてお得になります)
ですが、これに「デポジット」というのがついていますね? 500円くらい取られるんでしょうか?
これ結構多くの人が『なんだよ、金儲けかよ』と少しいらっとするかと思います。私も同じくその一人。
ですがこれ、お金儲けのためにやってるわけではないのですね(いや、最終的には商売ですからお金の話になりますが)。今回はそのお話です。


そもそも定期として利用するだけであれば前々からある磁気の定期で十分なはずです。ちょっと乗り越した分とか払うのが面倒ですが、500円のデポジットを高いと思うならその程度の手間は大したものではないですね。で、この磁気の定期というのは使い終わったら切り刻むなりなんなりして捨てちゃうかと思います。が、一方でSuicaやPASMOはもう一度同じカードで使いまわしてるはずです。あるいは使わなくなったらデポジット分を返却してもらうはず。デポジットは先に払いますが、要らなくなったらきちんと返してもらえるのですよね?(捨てちゃってる人、やめてあげて!! 自分も損してますから!)
実はここが「磁気」と「IC」の入っている定期カードの大きな違いなのです。

実はSuicaやPASMOといったICチップの埋め込まれているこれだけ薄いカードというのは、日本の誇る最先端技術です。これ、一枚一枚、つくるのとても高額なのです。これをデポジットというたかだか500円程度のお金で貸しているということになります。
これらを渡している側としては、このカードを捨てられたりしたら大損なわけです。だからせめて「先にデポジット分をもらっておきます。要らなくなったらこのお金は返却しますから、カードを返してください」と言ってるわけです。この返してもらったカードを再利用すれば別の人に貸し与えることができるわけですから。
つまりデポジットというのは一種の担保のようなものです。カードが返ってこないほうが損をしてしまいます、だから「きちんと返して」と言うために、デポジットというのを導入しているということになります。本来のカードの価値を考えると数千円くらいとってもいい気がしますが……ここまでやると今度はICカードを買ってくれなくなっちゃいますねえ。ここはどのくらいの値段であれば消費者が納得するかきちんと検討して算出しています(えっと…………これのやり方は高校数学で習ってますよね? その辺の小さな八百屋とかですらやってることですから説明は省きますよ?)。


というわけでデポジットというのは上のような理由から導入されていました。
もし今まで捨てちゃったりしてた人がいたなら……かわいそうなのできちんと返してあげてください。自分にもデポジット分のお金がきちんと戻ってきますから、自分のためでもあります。
また今までこれらのカードを、『デポジットが嫌だから』という理由で敬遠してた方。使い方覚えればとてつもなくお得なシステムです。あちこちで使えますので、ポイントとかたまりまくるのですね。これについては――えっとお店によって色々と違いますので、説明は割愛。申し訳ないですけど、全部やろうとしたらとんでもない量になってしまいますので(汗)
ああ、でも私は知っているのにこれを活用していないぃぃ!! やろうと思えば一年で十万くらいは得してるはずなのに?!!(←お金のこと全然考えない人間だともろばれ)


ということでデポジットのお話でしたー。
お、今回はやたらと短いですねえ。話も難しくないかも? 普段からこのくらいでいきたいなあ(たまたま使う資料が少なくて済んだだけという話)。
by zattoukoneko | 2010-05-09 07:02 | 社会・経済 | Comments(2)

携帯のバッテリーを見てください

タイトルの通りなのですが、携帯のバッテリーを見てみてください。実際に手にとってみるかといいと思います。
これですね、実は――
     プレスされてつくられてるんです!!

いや、これの凄さがあまりよくわからない方が結構いるかもしれませんね(汗)
というかそもそも電池の仕組みってわからないかな? その辺りから順に見ていきましょうか。
次がよく見かけるマンガン電池の構造です。
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携帯のほうはリチウム電池なのですが、こっちの方が説明しやすいのでこちらを取り上げました。……といってもよくわからないですかね(汗) 簡略化した図を描いてみました。
b0118096_9171696.jpg

電池がどうやって電気をつくるのとかは……えっと、長いのでみなさんで復習をお願いしますー。ここから説明していくと本当に長くなるもんですから(さらに汗)
で、炭素棒の方が正極で、周りの金属膜が負極となります。そしてこの中に電解液が満たされているという構造です(電解液は今では通常ペースト状にかためられてますが)。電池の+のほうの出っ張っているのって、この炭素棒なのですねー。
リチウム電池はもう少し複雑ですが、まあ基本は一緒です。これと同じものだと考えておいてください。

で、大事なのは周りの金属の膜なのですが、これ、簡単に穴開いちゃうと中の液体が漏れ出しちゃいます。なのでそれなりにしっかりとしたものにしないといけないわけです。
で、携帯のバッテリーの話に戻るのですが、最初はこれを金属の板を溶接してつくろうとしていました。というのもプレス加工というのは(自動車とかつくっている映像を思い出してくれると助かるのですが)普通は大雑把で大きなものしかつくれないのです。とてもじゃないですけど電池のバッテリーのような小型のものは不可能とされていました。だから金属板を溶接して箱型にしようとしたわけです。
ところが溶接した部分はどうしても脆くて、そこから液漏れしてしまうわけですね。とてもじゃないけど使い物にならん、と。そう断念しかけていたところに――
   岡野工業
という町工場が名乗りを上げます。「うちならプレス加工でつくれる」と。
そして実際につくっちゃったわけです。この技術がないと今のような小型の携帯というのはそもそも生まれなかったということになります。というかそもそも“携帯”できるような代物にすらならなかった可能性があります。この会社の業績によって今のように携帯が普及した社会が生まれたということですね。

ちなみにここの会社、このプレス技術に関して特許をとらずに世界中に公開しちゃいましたw これ、そのまま持っていれば世界中の携帯のバッテリー製造を独占できたはずです。でも惜しげもなく他人に見せちゃったわけですね(当然のことながらこの技術が成功するまで相当な労力と時間をかけてます)。それでもこの会社の岡野雅行社長は別に構わないと思ったわけですね。「自分たちはもっと先のものつくっていくから」だそうです。これ、すごい自信ですねw 私ならここまでのことはできないと思いますw(ちなみに本当にもう先のものをつくりあげているそうですね。すでに社会から求められるものより先のものをつくってしまっているようです)

さてこの岡野工業というのは十人に満たない社員しか抱えていません。とても小さな町工場ということになります。またここからさらに大規模化するつもりもないそうです(これに関して後でもう少し述べます)。
このような町工場で、でも世界に誇る技術を提供している日本の会社ってたくさんあります。有名どころでは、PCにくっついているファン。これだけ小さなものをつくれるのは日本しかなかったのです。ようは全世界のPCのファン(粗悪品は除く)のすべてをこの工場がつくっていたということになります(ただ現在はどのようになっているかまではデータを持っていないのですが)。あるいは工場ではないですが科学実験するときに使うテーブルですね。精確な値を算出するためには地面に平行でなくてはなりません。また量子力学なんて分野が発展してきている現代では、ほんの少しのへこみですら許されません。今のところこのような真っ平らな台をつくる機械技術は存在していません。手作業でやってます。(私がこの人を知ったときにはかなりのご高齢でしたから今もきちんと活躍されているかわかりませんが)これができるのは世界でたった一人です。この方が世界中の科学実験のテーブル(さすがに学生が使うようなやつは違うと思いますが)をつくっているというわけです。あるいは将棋や囲碁の線を引くのも数人の職人だけができることです。この線は日本刀に墨をのせて引いていきます。普通に考えれば機械でやった方がきちんと平行・垂直に交わりそうなものですが、でも今は全然不可能だそうです(普通の人にはまったくわかりませんけれど)。また打ったときの感触も全然違うそうですね。私は――こんな高級な碁盤で石を打ったことがないのでわからないですがw(ちなみに高いやつは数千万とかするのですよ。日本棋院の幽玄の間とかにあるのってこういうやつです。んー、一つ欲しいw)
このように日本の町工場や職人の技術レベルというのはとてつもなく高いものだったりします。これの理由をきちんと説明しきった論文や本を私は今のところ見たことないのですけど、現実としてこういう状況があります。この点は日本が世界に誇っていいところでしょう。


さてはて、先にあげた岡野工業という会社ですが――
ボーナスとか100万とか平気で渡します。そしてそもそもの給料がやたらと高いです。

最近よく誤解している人がいるのですが、大学に行った方が高収入が得られると思っている人がいるみたいです。でもこれは大間違いで、高校卒ですぐに会社に入って勤め始めた人の一生涯でもらえる賃金と、大学卒で働き出した人の生涯賃金ってそんなに変わらないのです(高校卒の方は四年くらい先に働いてますしね)。また大学に行っている間、学費や下宿先のお金がかかりますから、それを考えるとむしろ少なくなるかもしれません。
じゃあ何故大学に行くかというと。ようはそれなりの大きな会社に入社するためです。それだけのために大学に通うわけですね(ちなみに大企業の方が仕事が楽だと思ったらこれも大間違いですね。人が多い分、それなりの業績をあげなければすぐに首を切られますから。町工場の方は確かに仕事はきついですが、仕事に成功するとかなりのやりがいを感じるそうです)。

さて先に張っておいた伏線を回収していきましょうか。町工場のような小規模の会社と、中規模・大規模の会社の決定的な違いについてです。
町工場とかは基本的に大卒の人なんて必要としてません。面接時にすぐにはじかれます。相手側にしてみれば四年間もの間余計なことを覚えてきた人間です。町工場は常に試行錯誤の連続、大学で学ぶような知識や論理力なんて必要ないし、むしろ邪魔だったりします。
ですがこうした小規模な会社が大きくなっていくと、大卒の人を採用せざるを得なくなってきます。というのは経営するにあたってそれをまとめられるような人材が必要なのですね。それは大学を卒業して論理的な思考を身につけられた人によってなされること。それまでの試行錯誤で会社を運営していたら当たり前のように潰れちゃいます。
これがある程度大きな会社が大卒を採用していっている大きな理由となります(これだけではないのですが)。きちんとした訳があって大卒者を入れていっているわけですね。


で、ここからは私の今もっている仮説の話です。何故日本がこれだけ世界に誇れる技術を持っているのか、について。
これ、多分日本の企業は後進国なのです。それがたまたま棲み分けに繋がったので、日本は様々な技術を世に送り出しているのだと考えられます。(ただこれだけでは説明できない部分があって、日本人特有の性格とかも考慮しないといけないと思っています。ただしこの部分は皆無といっていいほど説得力のある研究が発表されていません。ほとんどの人が「日本人は真面目で勤勉だから」なんて説明でおしまいにしてますが、それはそもそもどこからきたものなのか歴史的に考証したものはありません。実際明治や大正時代の日本人は怠けていて、時間にも非常にルーズだと西欧諸国にバカにされていたくらいですから、ここから何らかの変化があったのは確実なのです)
海外の事情としてはアメリカがとても見やすいのでざっと説明しておきます。
アメリカではまず19世紀半ばにエジソンが出てきます。エジソンについては特集を以前組みましたね。彼は一人で様々な発明をしていったわけではありません。とても多くの部下を抱えていて、そして「エジソン発明会社」をつくります。まだこのときはエジソンは職人肌の親分として動いていますが、それまでと違うのは科学者なんかも中に抱えていったことです。
さらに19世紀後半になるとドイツでカイザー・ヴィルヘルム協会なんてのが設立されて、いかに科学というのが国力に貢献できるのかをアピールしようとし始めます。そして第一次世界大戦では実際にドイツは毒ガスを発明するのですね。ハーバー・ボッシュ法で有名なフリッツ・ハーバーによるものです。
また欧米ではこの頃社会的につくられた「男らしさ」の概念がどんどん変容していっている時期で、(中流階級の)男性は科学者や技術者となるべきだと説かれています。そしてアマチュア無線家なんてのが大量に出てきて、そして彼らはWWIで従軍するとその持っていた技術を見事に使ってみせます。飛行機に搭載されている無線機や、ラジオの根幹技術となるスーパーヘテロダイン方式なんてのはこの戦争中にできたものです。
ここからさらに1920年前後になってくると、今度は企業がこぞって科学者・技術者を募集し始めます。当時の広告を見てみるとそこに「男らしさのために」みたいな標語とかそれを髣髴とさせる言葉、絵などが入っています(この辺は逐次説明していると大変なので割愛)。これによって科学者や技術者は大企業の中に入っていくのが当たり前の社会が形成されていきます。有名なのはベル研究所のトランジスタ開発。デュポン社のナイロンの発明・商品化ですね(これらの発明者の名前、みなさんわかりますか? 有名でないのは企業の中に隠れちゃってるからなんですねえ)。
このような「男らしさ」の概念は日本にはおそらくなかったのだと思われます。明治維新以降、日本の後進性と西欧諸国からの軽視の目を払拭するため様々な科学者が「国のため」に活躍します。有名どころだと桜井錠二、池田菊苗、高峰譲吉、長岡半太郎といったところですね(これ全員、国の研究機関である理化学研究所に深く関わっている人たちです)。ですが彼らの多くは企業家として活動しようとは(少なくとも最初は)思っていません。池田菊苗は「味の素」の発明者ですが、彼はドイツに留学したことがこの応用化学への転身を決定づけたのだとされています。また高峰譲吉なんかもタカジアスターゼでウイスキーづくりなどに貢献してますが、その前にアドレナリンを世界で最初に結晶化させた人物でもあります。日本の科学界が本格的に自分たちの成果を企業へと結び付けようと乗り出したのは、理化学研究所の三代目所長である大河内正敏が理研コンツェルンというのを作り出してからといえるかと思います(実際にはもっとずっと複雑なので、ここをスタートと決めつけてしまうのは問題ですが)。
日本はこの後すぐに太平洋戦争・大東亜戦争に突入していきますから、実際に企業と科学者たちが連携しだすのは戦後しばらくしてからとなるでしょうね。終戦直後は立て直すのだけで精一杯だったでしょうから(ただし何らかの精神は残っていた可能性はあります)。
このように考えると日本の企業というのはアメリカより50~100年遅れてスタートしていることになります。また西欧のような「男らしさ」のようなものもない。だからまだ日本には町工場や職人がたくさん残っているのだと私は現在仮説を立てています。

ただし。遅れている=改善すべき、ではないと考えています。
日本の今持っている技術は確かに世界に誇れるものであり、これらを守り、発展させていかないといけないのではないかと私は考えています(特に後継者の少ない伝統工芸などですね)。
それにそもそも欧米諸国の「男らしさ」の概念によって後押しされた現在の企業の形式は社会的につくられたものなのですから、そこには問題点だってあると思われます(そして逆もまた然り。この概念がなければラジオもテレビも発明されなかったか、相当遅れただろうと推測されます)。
ですので日本の企業の形、その背景にある社会や文化の姿というのをじっくり考察するのは今後の日本の発展のために相当有益なことだと思われます。
まあ、残念ながらこれをやっている人はまったくいないですし、そもそもこれを研究するだけの能力を持った人がほとんどいないのですけれど(ちなみに必要な学問分野をざっと並べてみます。歴史学、法学、経済学、科学領域全般、法学史、経済学史、企業史、科学史、科学哲学、科学論、ジェンダー研究、class, raceの研究など。これらすべてを少なくとも修士課程修了レベル以上、可能であれば博士課程までとなります。ついでに言えば日本ではジェンダー研究が滅茶苦茶遅れています。class, raceの研究については世界のどこを探してもほとんどなされてないです)。これだけの能力を持った人の研究発表を待ってます。あるいは足りないところを早く誰か埋めてくださいw 私はこの先をやるつもりでいるんですから。



ふむ……まだ話が重たい気が?
なんか、そろそろ諦めかけてきた(苦笑)
by zattoukoneko | 2010-05-06 09:17 | 社会・経済 | Comments(2)

日本は模倣するだけの国か?

今回の記事の予定は「ニュートン」でしたが、前回「お守り」という日本の文化の話をしましたので、それと繋がりのいい話に切り替えることにしました。


さて、よく「日本は模倣をするだけの国だ」とか「日本人は真似をするのがうまい」ということを言われます。
確かに日本語の文字(今ここに書いているものも)は中国由来のものです。また稲作も弥生時代に大陸から入ってきたものです(ただしこのときには人種そのものが変わりますので妥当なものかは疑問ですが)。また近代の方に移っていけば明治維新によってそれまでの幕府による体制は一気に廃止され、それまで行われていた日本の国学や和算などは消えていき西洋近代科学へ切り替えられます。憲法もドイツが主(と言われているが、まだ議論の途中)でつくられていますし、大学の制度もドイツの博士号を与えるものを導入したりアメリカでできたばかりの大学院というものを取り入れてきます。また現代でも海外の言葉をそのまま使っていたりします。
これだけ見ると確かに日本は国外から導入したことばかりでできている気がします(確実な例外は鎖国していた江戸時代の日本画くらいのものでしょうか?)。ですがそれらをきちんと検討せずに「日本は模倣しかしない」と結論してよいものでしょうか?
今回は上で挙げた事例(稲作は除きます)について少しずつ触れてきたいと思います。


まず日本の文字についてです。
確かに私たちが使っている漢字は中国でつくられてそれを使っています。
ですが「ひらがな」はどうでしょうか? あるいは「カタカナ」は?
中学くらいで教わっていると思いますが「カタカナ」や「ひらがな」は平安時代に女性貴族の手によって考案されたものです。元々は漢字から来ていますが、そこには明らかに日本人の手による介入が見られます。
また漢字には「音読み」と「訓読み」があります。音読みは(時代によって種類がいくつもありますが)中国の読み方をある程度そのまま使ったものです。対して訓読みは文字が伝わってくる前から使われていた日本語の発音を当てはめたものです。すなわち意味が近いものにそれまで口にしていた音をあてたということになります。つまり日本人は中国の文字をそのままの形で導入しつつも、その読み方には自分たちの流儀をある程度貫いたと言えます。
また中高で漢文を習うと思います。このときに「レ点」とか「上下点」なんてのを教わったかと思います。あれは元々の中国語の語順(英語のSVOCに近い)では日本語に当てはまらなかったため、自分たちの語順に合わせるように入れていったものです。これは日本人の工夫であり、そのまま中国語に移行しようとしていなかったという明確な証拠となります。
同じようなことが英語に対しても言えます。日本人は漢文の例で見られるように他国の言語に対して研究熱心だったようです。英語でよく言われるSVOC(これの並びによって英語の文の基本構造がわかるというもの)は日本人たちが生み出したと言われています。昔の日本人たちなりの、英語をいかに上手く解釈しようかという努力の成果です。
(ちなみに余談ですが、欧米の人が中国語を本格的に学ぶためにはまず日本語から学ぶ必要があるそうです。それは中国語の最も優れた辞書が日本人の手によって日本語で書かれているためです。そのため中国語の漢字を理解するためにはその辞書を使わなければならない。そしてそれを読むためには日本語が必要ということです)


次に明治維新以降の日本の近代科学の導入について見てみましょう。
明治維新がなぜ起こったのかについてはまだまだ議論の余地がありますが、単純に言ってしまえば「西欧諸国が怖かったから」です。
ペリー来航によって明確に日本と西欧文化圏の技術レベルの格差が見せつけられました。当時の日本人には鉄が水の上に浮くとは考えられなかったことです(まあ、黒船の大半は木造船を黒く塗っただけのもので、全部が鉄の船ではなかったわけですが)。
これに危機感を覚える武士たちが多数出てきたというわけです。このままではいずれ日本は攻め入れられ、占領されてしまうと考えたわけです。だからこそ日本は開国し、西欧の技術を取り入れなければならないと考えたわけです。
そして明治維新が起こるわけですが、技術を導入する際にその根幹には西洋近代科学があるのではないかとされました(ただし科学が技術に明確に貢献したと言えるのはWWIからです。WWIで毒ガスがつくられ、WWIIでは原子爆弾がつくられました。それを象徴してそれぞれChemical War、Physical Warと呼ばれます。国益に科学が役立つとしてできたドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所も1911年の設立です)。
日本人(の武士たち)は科学に自分たちの生きていく道を見いだそうとします。その際議論になったのが、西洋の科学は、科学「だけ」日本に持ち込めるかということでした。
科学の根幹にはキリスト教の影響が非常に大きく見られます(これはそのうち記事にしましょうか)。となれば自分たちもキリスト教の教義に染まらなければ西洋近代科学を身につけることはできないのではないかと考えたわけです。これに対して日本人は自分たちの道徳を貫いていいんだという和魂洋才という考え方と、(こういう言い方は見たことがないのですが)洋魂洋才が対立しました。後者はとても代表的な人物がいますね。『学問のすすめ』を著した福沢諭吉です。
これに関しては現代の私たちを考えてみればどちらがとられたかすぐにわかるかと思います。少なくとも日本人のすべてはキリスト教の信者ではないはずです。また過去の方をきちんと調べてみても(キリスト教に宗旨替えした科学者は確かにいますが)キリスト教の洗礼を受けた学者でリストのすべてを埋めることはできません。
このように日本人は西洋の科学をそのままただ真似るだけではなく、きちんとその際に議論をしているのです。また日本人固有の研究も多数なされています。たとえば旨味成分のもとがL-グルタミン酸ナトリウムであると発見した池田菊苗なんてのが代表的でしょうか。あるいは日本で流行していた脚気の研究で病気がビタミンの欠乏によっておこることがあると解明した鈴木梅太郎なんかも有名です(ビタミンという命名は結局日本人の手柄にはなりませんでしたが)。
また現代のほうに行けば技術面では日本の町工場は世界的に有名です。PCのファンはほぼ100%日本製ですし、携帯のバッテリーのプレスの技術は日本人の手によるものです(こちらは特許を取らずに惜しみなく公開してしまいましたが)。また科学実験の際に使われる地面に水平で、真っ平らな作業台は日本人が手作りしてます(この人、私が知ったときにはもう大分ご高齢でしたが、今もご健在なのでしょうか?)。あとはパンの生地などを練り上げる流動科学の知識が必要な大量生産機械をつくったのも日本人が初ですね。他にも……まあきりがないのでこの辺にしときます。こうした町工場は(もちろん西欧の技術なんかも取り入れていますが)独自に試行錯誤して製作していったものです。西欧の後追いをしているどころが、圧倒的に抜きん出ていさえします。
このように西欧の科学/技術を導入した日本は、けれども独自の歩みをきちんとしているというわけです。


憲法や大学の制度も同じです。岩倉使節団などが西欧諸国を巡ってきて、そしてそれを日本風に「アレンジ」します。けしてどこかの国一つだけのものをそのまま持ち込んだわけではないのです(だからこそどこが一番主なものなのか議論がされ続け、そして答えが出ていないわけですが)。
特に法学や文学においてはそのまま西欧のものを持ちこめないと外国へ留学した日本人の多くが感じてます。夏目漱石なんかは英文学から文学の本質を見いだそうとして失敗し、「夏目狂セリ」なんて手紙が日本に送られてきてるくらいですから。


現代の日本人が使う西洋語はどうでしょう?
これも大分日本人によってアレンジされてますね。Japanglishなんて言葉があるくらいで、日本人の感性のまま英語やその他の欧米語を混ぜてつくられた造語の類です。
あとJapanglishではないですが、「科学技術」という語は日本人の発明で、アジア諸国には伝わりますが、西欧の人には伝わらないようです。西欧では元々科学と技術は全くの別物として育ってきて(たまに影響しあうことはありますが)、そのため今の人たちも別物としか思えないようです。そのため学者間では上で書いたような「科学/技術」という表記が時々用いられます(「/」の意味はその前後で切っても、繋げてもいいですよ、という意味です。つまり「科学/技術」とかけばそれ一つで「科学」、「技術」、「科学技術」を指すことになります)。
またそのまま外国語のまま表記しなかったり、中国や韓国のように無理矢理自国の文字で当てはめないところも面白い特徴です。これはカタカナという便利な道具があったことも関係しているでしょう。原音にできるだけ近い文字を当てはめながら、一般の人にも伝わりやすいように工夫されています。上で挙げてきた例や宗教(神学)といい、日本はかなり柔軟な国のようです。これは日本に固定したアイデンティティがないということではなく、むしろその対応の早さこそが日本人の特性だとみなすべきだと考えられます。



さてはて日本ばかりが「模倣する国」と言われますが、じゃあ他国はどうなのでしょう?

肝心のヨーロッパ諸国は中国から火薬・印刷術・羅針盤と持ちこまれてきており、後々改良が加えられるとはいえ、それまではほとんど変わっていません。火薬は部屋に糞尿をためて壁に付着した結晶を取るという方法がしばらくは用いられますが、これはヨーロッパ独自のものではなく、江戸の日本でも花火用の火薬は似たような形でつくられていました(花火は火薬の製造技術が廃れるのを防ぐために幕府が推奨したものです)。ようはヨーロッパの独自性は薄いということ。最終的に大航海時代を迎えてチリ硝石という鳥の糞が年月をかけて火薬となった層を見つけるまではこの方法で火薬はつくられます。
印刷術、および製紙技術は中国から伝わってきたものからやはりあまり変わりません(伝わってきたのは11~12世紀頃)。これは木版印刷という木の板を使う――ようは版画です。あとはレオナルド・ダ・ヴィンチなどの高級職人と呼ばれる科学者に近い技術者たちが自分たちの絵をするときには銅版を用いたくらいでしょうか。最終的にはグーテンベルクがアンチモンとスズの合金を利用した活版印刷技術が発明され、それで本が安価になって広まるわけですが、この発明は1445年頃とされますからそれほど技術の革新が早いわけではないですね。
羅針盤については――技術の内容が細かすぎるので割愛します。書いても理解しきれる方は少ないと思われるので。
(なお、中国とヨーロッパの科学/技術の水準についてはジョセフ・ニーダムという中国科学史の大御所がやっています。大学に通った方なら名前は一度は必ず聞くというくらい有名な人。この人によればヨーロッパが中国を抜くのは産業革命から科学革命(終わりはニュートンの『プリンピキア』出版の1654年とされるのが通例)の辺りで一気に行くみたいですね)

じゃあ中国はどうでしょう? 自ら世界の中心であると名乗っている「中華人民共和国」です。
中国は確かに昔はまさに「中華」でした。上記の三大発明も中国における錬金術などから生まれたものですし、朝鮮半島や日本には稲作や仏教などを伝えています。
ですが16~17世紀にはヨーロッパに抜かれ、19世紀にはアメリカにも抜かれます。そして子分だったはずの日本には日清戦争で敗れます。このときには(少なくとも科学/技術の面では)後進国になっていました。
現在も――日本のことを敵視しながら――どうすれば日本のように学問の世界でトップ争いをできるか模索しています。実際中国で一流の研究者になろうとする人は日本をはじめとした他国に博士号を取りに行きます。中国内でとっても認めてもらえない状態です(これは明治・大正の日本でも同じことですが)。
どうやらいま中国内部は自分たちのアイデンティティを守るのと、一方で他国の模倣をしなければならないというジレンマでいっぱいのようです。

中国以外のアジア諸国はどうでしょう?
東南アジアは中国や韓国、台湾よりもずっと遅れています。先進国の支援を受けながら発展していこうという段階で、まだまだ自分たちのオリジナルというものが出てくるのはまだ先のことになりそうです。
また言語に関してはマレー語が世界で二番目に使われている言語ですが(一番はもちろん英語)、現在は文字は英語のアルファベットを用いてますね。発音もほとんどローマ字読みで簡明です(マレーシアとインドネシアではいくらか発音や単語が違うものがあるみたいですが、まあ日常的に使う分には問題ないはずですね)。英語のアルファベット文字を使うようになったのは、おそらく植民地時代の影響でしょう。現在でもマレー語も英語も、あといくらか日本語も混ざって看板などには表記されていて、話せる方は多いですし。ただそれまで使っていたサンスクリット文字から割合簡単に移行してしまったみたいですね。


まあ他にも南米やアフリカ、あととても大きいロシアの話とかもありますけど、比較として出すのは上のもので十分でしょうね。
こうした国々と比べてみると日本は特別「模倣する国」とは言えなさそうです。
むしろ頑固な西欧諸国と比べてしまうと、日本独自の「柔軟性」が軟弱なものに見えてしまうということのような気がします。それが「模倣するだけだ」と言われてしまう理由なのでしょうね。
私としてはその「柔軟性」こそが日本の独自性な気がします。(前回の記事と無理矢理結びつければ)それが八百万の神の住む日本の姿だなと感じます。
by zattoukoneko | 2010-03-18 02:55 | 社会・経済 | Comments(0)

お守りの中はなぜ見てはいけない?

お守りの中って見てはいけないとよく言われますよね? そして開けちゃった人は私だけではないはずw
中見た人は知ってると思いますけど、入っているのは大抵ただの木の板です(いや、一応御祈祷してもらってるはずですから「ただの」は失礼ですが)。
でもどうしてこれを見ちゃいけないんでしょう? 確かに中身が木の板だと知ったらがっかりはしますが、でもきちんと神社でつくられたものなのだから御利益は変わらない気がしませんか?
実は中を見てはいけないのはきちんとした理由があるのです。今回はそのお話。


人は大きな木や石を見つけたとき、そこに神秘的なものを感じるようです。これは世界中あちこちでそうですが(エアーズロックとか)、こと日本人においては顕著な気がします(八百万の神なんてのが出てくるのはそれが理由なのか、もしくはそれらの神々が信じられているから色々なものに神性を見出すか、それはわかりませんが)。
たとえば屋久杉なんてのは現在でも観光スポットになってます。もしくは次みたいな木を見つければ結構な数の人が何らかのものを感じるかと思います。
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で、日本人の面白いのはここからです。
大木はこのままでもとても神秘的です。ですがここに一工夫するとさらに神性が増した気がしてくるのです。
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つまりしめ縄とか、そういうものをくっつけるのです。そうすることで見た人は「ああ、この木には何かあるんだ」と思ってしまうわけです。なかなか不思議なものですね。
ですがこれからさらに神性を増す方法があります。それは――
   切っちゃうことです。
つまりなくしちゃうということ。代わりに切り株の前に鳥居を立てたり、あるいは最終的には周りを小屋で囲んでしまいます。外から見えなくしてしまうのです。
するとこれまた不思議なもので、「この中にはよっぽど大事なものが祀られているんだな」と思ってしまうわけです。これが神社というものです(もちろん神社のすべてが切り株を奉納しているわけではありません。鏡や剣を祀っているところもありますし、天皇の御霊など最初から目に見えないものを御神体にしているところもあります)。
神社の社の中には一般の方は入れないのが通常ですが、実は上のことが理由だったりします。つまり中は何もない。外から見てるだけだったら神秘的だったのに、中を見てしまったら「なあんだ」と思ってしまうわけです。その瞬間神社に対して感じていた神性はそぐなわれてしまうのです。

これがお守りにも言えるわけです。
「見てはいけない」と中身を隠されるからこそ、それを持つ人はそこに神の力を見出します。しかし中を見てしまえばそれを信じる力がなくなってしまうわけです。いくら祈祷を受けた木の板(この木の板も厳選されて選ばれているものです)が入っていようと、それに対する信仰心が薄れてしまえばお守りの効果を期待しなくなってしまいます。ですから「中は見てはいけない」と言われ、それを守るようにとされているのです。


さて、中を見てはいけないのは何もお守りや神社の社殿だけではありません。代表的なものが日本には一つあるのです。
それは「皇室」です。
私たち一般の人間は皇室の方々がどのような暮らしをしているのかあまり知りません。多少ニュースなどで流れてきはします。ですが普段どんな本を読むのかとか、どういう勉強をしているのかとか、あるいはどんな悪事を働いているのか、なんてことは流れてきません。特に一番最後のスキャンダルに該当するものはまったくといっていいほど世間に知らされることはありません(知っている人はもちろんいますし、私自身も昔のことならちょっとだけわかります)。
このような体制が取られているのは日本だけです。イギリス王室なんかはどんどんスキャンダルが報じられ、本にされて出版されています。パパラッチなんてのがよく王室の人間を追い回してますよね? そして浮気の現場なんてのを写真に収めては世界中にばらまいています。
しかし日本にはそれがない。右翼の人たちが怖いから――というのも少しはあるみたいですが――というのがすべての理由ではありません。日本人にとって皇室、およびその中の人たちというのはお守りや神社の中身に相当しているわけです。

確かに戦後の憲法で天皇も一般の人と同じ人間であるとされました。それだけ見ると天皇からは神性が取り払われてしまったかのように思えます。
ですが同じ憲法に、天皇は日本人すべての象徴である、と書かれています。つまり人でありながらまだ神聖さを保っているということです。
――と、こんなことを言うと左翼寄りの人たちが「じゃあ皇室の中を暴こう」なんて言い出しそうです(そして実際にやっている人たちがいますが)。昔の悪しき日本を引きずってる!、なんて言いながら。
ですが元々戦後の日本国憲法の草案は日本人が書き、GHQによって手直しが加えられたものです(以前ちょっと触れました)。このときにGHQ側から要求されたのが天皇を以前と同様に高い位置に置くということでした。
GHQは日中戦争、太平洋戦争、大東亜戦争でぼろぼろに疲弊した日本の状況を見て、ここに住む人たちの支えとなるようなものを置かなければならないと考えたのです。さもなければ日本国はアイデンティティを失い、国としての形を失うだろうと考えたのです。
支えとするのは天皇でなくてもよかったかもしれません(そして草案を考えた日本人自身は天皇のことを省いていました)。ですが復興を急がねばならず、そして特定の強い宗教を持たない日本においてはそれまで使われてきた「天皇」が据えるのには早かったわけです。
こうした経緯から天皇・皇室は日本国の象徴に配され、そしてその中身を見ることを禁じられました。一般の人間ではありながら、しかしそこに神性を保たせたというわけです(まるでただの木の板をお守りと言っているのと変わらないではないですか)。

皇室の方々はこのような難しいことを要求されています。普通の人間だと言われながら、神性も保たないといけないわけです。それはそれはとても窮屈な生活でしょう。生まれながらにしてそうした生き方を強いられ、それを守ってきている彼ら彼女らには敬意の念しか表わすことしかできません。
――と、私は皇室に対して思っているわけですが、現在の日本人にどれだけこういう思いの人がいることでしょう?
皇室なんてどうでもいいや、なんて感じている人がかなりの数にのぼるかもしれません。それは右翼の人にも言えることのような気がします。
私はまだ幼かったけれど、昭和天皇が危篤になり、お亡くなりになる前のメディアの報道はひどいものでした。「何時何分に下血」なんていうのを逐一ニュースにしてたわけです。心配しているからそういう話を流すんだ、と言うかもしれませんが、そこには皇室が守り続けてきた神性がない気がします。右翼の人たちはあのとき各テレビ局を襲撃すべきだったんじゃないでしょうか?
(特に昭和天皇は「天皇」という立場を最初から最後まで貫いた人物でもあります。神性を守るためにか、その伝記などは書かれていませんが、第二次大戦に突入するときは帝国憲法の定めに則り、議会の決定に従い参戦を認めました。しかし昭和天皇本人は反戦派だったことは有名です。でも「天皇」だから議会の決定を優先し、私情を消したのです。そうしなければ憲法に違反することですから――なおこれに対して明治天皇は私情を貫こうとして何度も議会と衝突しています。そして終戦の際にポツダム宣言を受け入れるかどうかを問われ――議会で決められなかったので――ここで唯一自分から戦争を終わらせるという決定を下します。そして玉音放送が行われました。終戦後は象徴天皇とされ、また重要な任務を背負わされるわけです。昭和天皇は生物学の研究者でもあったので、そちらの側面で一般の学者のように振る舞いたかったかもしれません――これは私の想像ですが。けれどそれに不平を洩らすことなく人生の最後まで「天皇」として生きた人物なのです)


さてお守りの話が随分と大きな話になってしまいました。
けれど一度考えてみるといいのではないかと思うのです。私たち日本人はまだきちんと「お守り」を持っていますか?、ということを。
by zattoukoneko | 2010-03-16 06:52 | 社会・経済 | Comments(1)

私は差別主義者です。

多少酔っています。ですからこの勢いでぶっちゃけてしまいたいと思います。文筆が乱れているのにはご容赦くださいませ。
私はタイトルにあるとおり、差別主義者です。特に障害者、同性愛者、整形を受ける人に対して強い差別意識を持っています。

が、以前の「人権・平等概念」の記事で申し上げたように、私自身赤緑色盲という障害を持っています(近年では色盲なんて障害じゃないと言われていて、正直悲しいところですが)。そうした自分も障害者であるという立場から差別をするべきと主張しています。

私自身、赤緑色盲という障害を抱え、ルサンチマンの克服を経たとはいえやはり時々自分の障害について苦しむことがあります。特に小説を書く身としては色彩の表現にとても苦労します。私は桜が好きですが、私にとって桜の色は白でしかありません(濃いのは別ですけど)。紅葉も一つの小説の重要な表現材料ですが、私にはせいぜい赤と黄色の二色の区別がつくのみです。赤の濃淡の違いなどはまったくといっていいほどわかりません。そうしたこともあり、障害者というのはどう自分たちの障害と向き合っていくべきか、そして健常者や社会にどう受け入れていってもらうのがいいのかを考え続けてきました。もちろん他の障害者の主張なども聞きながら、です。
当初たどり着いたのは、健常者と障害者を「区別」してほしいということでした。健常者には障害者の世界がわかりません。また障害者にも健常者の世界がわかりません。しかしお互いが住む世界/社会は同じ場です。そうなればお互いがばらばらに生活を営むしかありません(そして、そうやって過ごしている障害者の方々もたくさんいます)。
現在はバリアフリーなどの健常者と障害者が共に暮らせる社会づくりが進みつつあります。しかし今のところはまだ健常者からの押し付けの域を出ていません。本当に障害者を理解して社会を組み立てなおそうという試みは残念ながら世界のどこを見てもありません。障害者はまだまだ健常者中心の社会から切り離されたところにいます。
このバリアフリーや現状の障害者に対する意識が私は問題だと感じ、これを是正するためには、まず健常者と障害者の間には絶対的な溝があるということを認識してもらい、その上で新しい社会をつくっていくことが大切だと考えました。その結果が「区別」です。
しかし……それでは考えが甘いと気づき始めました。私が自分の障害と向き合ってからちょうど十年目のときです。
「区別」では健常者と障害者が離れていくだけなのです。お互いの溝を認識するところまではいきます。でもそこでおしまいなのです。両者はより一層距離を広げ、障害者は自分たちの殻にとじこっもってしまいます(前述の方々がそうした人たちです)。そして健常者は障害者のことなど忘れ自分たちの社会をつくり続けてしまいます。
私は「何かが欠けているんだ」と思うようになりました。いくら考えてもその答えは出ませんでした。ですが、それは当たり前だったのです。話は「頭」で決着をつけるべきものではなかったからです。
以前の記事でほんの少し触れた小松美彦先生は脳死移植の反対派ですが、その主張では「頭」だけではなく「心」の決着はどこへ行ったとされていました。脳死は「頭/理屈」だけで考えれば確かに死としていいのかもしれません。が、脳死患者は、触れれば暖かいですし、鼓動を感じることもできます。それに対して遺族は本当に心のそこからそれを単なる死体・肉塊としか見ていないのかと強く訴えています。おそらくは違うでしょう。やはり大事な家族の温もりや、体を見れば愛情が沸くのが自然なことです。ですからどんな社会でも(やり方は違えども)死後も遺体を丁寧に扱うのだと思います。
ここに私は糸口をつかんだ気がしました。私は健常者と障害者を「区別」するのは「頭」で考え出した理屈でしかないと気づきました。そうではなくどう感じているのかという「心」の側面を取り入れなければならない、そうしなければ本当の理解にはたどり着かないのだと思いました。その「心」の側面を取り入れた「区別」が「差別」なのです。

当然のことながら理由なき迫害は避けられるべきだと思います。ですが、障害者を見たときに「気持ち悪い」などと思ってしまうことは自然な感情だと思うのです。
ここでは画像などを掲載するのは避けます。が、本当に重度の障害者は「怖い」です。私自身は偶然にも幼い頃に重い障害を持った人を見たことがあります。脳が膨張し、頭蓋を内側から広げて頭部を大きく変形させるというものです。その方は通常の方の頭の三倍の幅の大きさの頭を持っていました。私はあまりの怖さにその場を逃げ出しました。
障害者のことを調べ、自分にも障害があると知っているという現在においてもこのときの幼い自分の感情を否定することはできません。とても素直で、実直な心の動きだったと思います。いくら頭/理屈でこれを過っているものだとしようとしてもできないのです。
(なお、私の見たこの人でもまだまだ「軽い」方です。本当に重度のものは吐き気すら覚えるものがあります。生まれたときに脳が露出しているなど、生後まもなく死ぬような障害もあります。TVなどで観られるものはまったくもって「重い」ものではないと思ってください)
私は障害者に対して「気持ち悪い」などと思うのはいけないことだと思っていました。が、それは心の否定に他なりません。その心と向き合った上で障害者と付き合い、相手を理解していく。そしてその先で心の変化があれば本当の、障害者への理解、なのだと気づきました。
これは私個人だけの意見ではありません。調べてみたら他の障害者の方々の中にも、「自分をあえて差別の目で見てほしい」という方がいることがわかりました。私やこうした人々は、本当に健常者と障害者が理解しあうには、お互いの心や感情も含めて素直に接しなければならないのだと考えているのです。


以上が私があえて自らを差別主義者とする理由です。ここから下は同性愛者や整形を受ける人たちに対して記述しますが、根幹には同じ理念があると思ってください。ただしあえて記述をばらばらにするのは異なった理由があるからです。


同性愛者は激増する方向で今進んでいます。中には脳の障害などでどうしても同性にしか愛情や性欲を覚えないという方もいます。性同一性障害というやつが一番有名でしょうか。
が、この割合はそれほど高いほどではありません。今のような数に上るほど同性愛者が出てくるはずはないのです。
実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています。たとえば異性からのひどい仕打ち(レイプなど)を受けたことが原因だったりします。
しかしこれは「心の問題」です。そのまま心の傷を癒さぬまま同性と結ばれたところで、それは逃避に過ぎず、傷は残ったままです。そして実際に結婚後などにその心の傷が表面化してくることなどがあります。今はそちらの方面にはメディアは目を向けていませんが。
そもそも同性愛者が激増したのは、個人/個性の尊重、というのが謳われだしてからです。同性愛も個性の一つとして認めろというのが、同性愛者やそれを保護する人々の主張です。
ですが「個人/個性の尊重」というのは「頭」で考え出された理屈なのです(多少「人権・平等概念」の記事で触れましたかね)。ここには「心」の介入する余地は認められていません。彼らは心の介入を感じると、「それは差別だ」として猛反発します。自分たちの同性への「心」は認めろと主張しているのにもかかわらず。
ちょっと想像してみましょう。自分に息子がいたとしましょう。その息子がある日、「自分はこの人と付き合っていて、結婚したいんだ」と男を連れてきたらどう感じるでしょう? できるだけ頭や理屈の介入は避けて想像してください。多少なりとも、ショックを受けるのではありませんか?
現在はこのショックを口に出すことすら禁じられようとされている社会になっています。しかしこの瞬間的に感じた感情こそがやはり大事なのです。自分の息子を本当に理解するのなら、この感情すら踏まえて向き合うべきです。
そして先に述べたように、今は同性愛者の多くが自分の心の傷と向き合わずに同性へと恋愛感情を向けているというのが実情です。レイプなどなら自覚しやすいでしょうが、中には精神科医やセラピストなどの専門家でも見つけるのが困難なほど心の奥底に眠っている傷が原因の場合があります。こうした方々の本当の幸せは、同姓への愛、ではなく、心の治療、のはずなのです。
ですが先に述べたように現在は世界中で同性愛が歓迎されつつあります。そして心の治療は置き去りにされつつあります。
だからこそあえて「差別」の目を向けてみるべきではないかと私は考えています。そこから当事者本人も気づいていなかった心の傷に気づく可能性が出てくるのではないかと思うのです。


整形にかんしても同性愛と似た状態です。個人の自由だからだと整形を受けさせるのが当然のようにされつつあります(あるいは「ありました」ですね。現在の日本ではようやく問題が浮き彫りになってきて変わりつつあります)。
整形を受ける人の多くも心の傷が原因であることが多いです。その傷を癒さぬまま手術を受けた結果、「やはり自分の望んでいたことはこれではなかった」と後悔する患者が多数います。しかし整形を受けた場合、完璧に元の顔に戻すことは不可能です。これは後戻りのできない重大な過失となります。
ですがつい最近まで個人主義の流行により整形はそんな心の傷など無視してどんどん行われました。また心の傷があると医者が気づいていても、金儲けのために手術を行ってしまうケースがありました。この結果、上記のようなより深くなってしまった心の傷を抱えた患者があふれかえっています。
現在の日本では(あまりにひどいクリニックがあったこともあって)これを防ごうとする試みが始まりました。きちんとしたクリニックであれば、手術の相談に行ったときにかなり綿密なカウンセリングを受けることになっているはずです(逆にそういうのを受けられないところは信用できないところですので注意です)。
ただこうした試みはまだまだ発展段階です。セラピストらがさんざん警鐘を鳴らしていて、今やっとスタートラインに立ったという感じです。現状として、各クリニックに配属されているカウンセラーや、他の精神科医にはまだまだ整形を受けにくる人々の心の傷を特定できるだけの力量がありません。経験も歴史もないのだから仕方のないところです。
私があえて「差別」しているのは、こうしたカウンセラーらが配置される前からそう主張していたという経緯があるのと、現状でもまだまだ制度も能力も整っていないと感じているからです。「差別」するのは負のエントロピーとして働き、より綿密な心の調査に向かわせるのではないかと期待しているからです。

なお、同性愛も整形も本当にそれが必要なのだとわかれば認めていいものだと思ってはいます。中にはそういう手術などをしなければ癒えない心の傷などもあるだろうと思います。ただし最終手段だと私は考えています。現在はあまりにこれらに対して社会が甘すぎます。このままではより重度の「患者」が出てきてしまうでしょう。
だからこそ私は「差別」すべきと主張しています。
彼らに対する本当の理解のためにも、「患者」を増やさないためにも「差別」の目を向けることが必要なのではないでしょうか。
by zattoukoneko | 2010-02-03 19:36 | 社会・経済 | Comments(55)

日本における有罪率の異常な高さ

二月になりました。まあ、忘れないうちに記事をupしてしまいます。
今回は日本における有罪率についてです。


日本では逮捕された場合、その後有罪になる率は9割を超えます。これは日本の警察の優秀さの証であるとよく言われていますが、これには疑問の余地が残ります。
なおアメリカなどでは有罪率は3~5割程度みたいです。とても低い気がしますが本来ならばこれが正常な値です。それは「疑わしきは罰せず」という原則があるからです。

「疑わしきは罰せず」に関しては日本の人(それが法律を学んだ人であっても)はかなり誤解しているようです。本当の犯人かどうかわからなかったら無罪にしよう、くらいの認識でしょうか? しかしこれはとんでもない間違いです。
「疑わしきは罰せず」の本来の使い方は、たとえその被告人がどれだけクロに近かろうと、警察・検察の取り調べで捜査手順に少しでもミスがあれば無罪にする、というものです。つまりどれだけ他の捜査が綿密に行われていようと、書類にサインをする順序を間違えていれば無罪ということです。
なんだか私たち日本人にはとんでもない話のように思えます。連続殺人でも強姦でも、それだけ悪質な犯罪をしていようが、警察の捜査ミスによって無罪となるわけです。これは被害者・遺族からそればとてつもなく悔しいことです。
しかしながらこの「疑わしきは罰せず」を採用しているのにはきちんと理由があるのです。

1651年出版のトマス・ホッブズ著『リヴァイアサン』という本があります。小中学校の社会で名前くらいは習うので名前くらいはみなさん覚えているかと思います。
この本の内容を詳説するのは今回の趣旨とは外れるのでやめます。必要なのは「リヴァイアサン」と「法律」の関係です。
ホッブズによれば権力(著作の中では国家)はリヴァイアサンであるとされます。リヴァイアサンについてはFFなんかでよく出てくるので、日本人にも馴染み深くなったと思います。ようは海に棲んでいる怪物のことです。
権力はリヴァイアサンというとんでもない化け物に相当する脅威であるとホッブズは言います。これを野放しにしておけば支配される側は食い尽くされるだけです。
このリヴァイアサンを縛り付ける鎖が「法律」です。リヴァイアサンという権力は法律という鎖によって動きに制限がかけられ、それを破ろうとすれば市民が攻撃ができるという仕組みになっています。

さて警察や裁判員といった司法も十分な権力です。当然のことながらこれを縛り付ける鎖が必要です。その鎖の中でも最も太いのが「疑わしきは罰せず」なのです。
ちょっと想像してみましょう。自分が何らかの容疑で警察に逮捕されたとします。自分は無罪です。しかしながら逮捕された時点でほぼ有罪が確定されているというのが日本です。最も多い冤罪は痴漢で(最近は少し減りましたが)、相手の女性が痴漢だと訴えれば有罪確定です(これを悪用して示談金をふんだくろうとする女性が急増した時期がありましたね)。痴漢は罪としては軽いものですが、社会的にはとても軽蔑される行為です。そのため痴漢で捕まると会社をクビにされることが多いです。当然収入はなくなるわけですし、逮捕歴があれば再就職も難しくなります。これは無実の人にとってはとてつもなく苦しい冤罪です。
「疑わしきは罰せず」はそうした冤罪を極力防ぐために設けられたものです。逮捕後、有罪にするのならば警察・検察は相当念入りに調査をしなければなりません。日本のように「相手の女性が被害を訴えているので」という理屈は通用しないわけです。
まあ確かにアメリカなどの、書類のミスくらいで無罪にする、というのは少々いきすぎな感もありますが、これもリヴァイアサンの脅威から市民を守るには仕方ないことかもしれません。ここまでやっても冤罪が出ているのが実情ですし。
なおこの「疑わしきを罰せず」を取り入れていない日本は冤罪大国でもあります。調査している人によって統計は変わりますが、受刑者の半数以上は(この「疑わしきを罰せず」を抜いたとしても)冤罪だとされています。
現在の日本では、逮捕されれば有罪がほぼ確定ですので、いかに捕まらないかしか対策がないです。しかしあるとき警察が来て「あなたに逮捕状が出ました」と言ってくるのは避けようがないです。偶然事件現場の近くにいたということは気をつけていても起こりうることですから。
日本で冤罪で捕まった場合には、たとえそれが痴漢のような軽犯罪でも、10年くらいの司法との戦いをしなければならないようです。もちろんその間お金はがんがん出ていきますし、(上述のように会社をクビになるので)収入もない状態での苦しい闘争となるみたいです。

さて、去年より裁判員制度が導入されましたが、現在の日本ではどう転ぶのでしょう。「疑わしきは罰せず」の理念をきちんと理解していない日本人は、警察・検察のアピールを鵜呑みにしてしまいそうで怖いものです。マスコミの影響というものもありますしね。
とかく、一度日本人は司法のあり方について一度考えてみるべきなのではないでしょうか?
by zattoukoneko | 2010-02-01 13:00 | 社会・経済 | Comments(1)

ヒトラーの貢献

今回は社会のお話。ヒトラーについてです。
ユダヤ人虐殺という悪い側面ばかりが目立ちがちですが、実はその後の社会へ大きな貢献をした人でもあります。
今回はそれについてご紹介したいと思います。

さて、みなさんはよく道路工事で「穴を掘っているだけ」という場面に遭遇したことはありませんか? 私の住んでいた田舎では10年近く舗装工事が終わらないところがありましたよ。
これは実は大きな経済効果をもたらすものなのです。そしてこれを思いついたのがヒトラーだったのです。
経済効果の理屈はこうです。
まず1億円国から土木工事にお金を出すとします。工事の内容は別になんでもいいです。するとそのお金をもらった土木会社の人たちが給料としてそれをもらい、そして買い物をします。ここでは話を簡便にするためにもらったうちの半分を使い、残りは貯金に回すとしましょう。すると5千万が社会へばらまかれるわけです。そしてこれは巡りめぐって国へとかえってきます。このお金をもう一度工事費に使います。すると会社の人たちは5千万もらい、2千5百万使います。これも国へとかえってきます。そしてまた工事費に使う、と。
するとここまでで国が社会へもたらした経済効果は、最初の1億にプラス5千万+2千5百万。合計1億7千5百万です。
このループはひたすら続きます。高校数学で習う等比級数のお話ですね。数式は嫌いな方がいるかもしれないので省きますが、最初の1億がどんどん膨らんでいくことはすぐにわかると思います。
これはとても画期的な発想でした。現在でも世界各国が政策として取り入れており、経済学者(それがたとえユダヤ人だとしても)はヒトラーのもたらした経済へのもっとも大きな貢献と称えています。

しかもヒトラーはさらにすごくて、ただ単に穴を掘らせるだけではなかったわけです。常に二重三重の効果を狙っていて、その代表例が高速道路アウトバーンです。
アウトバーンは先に述べた経済効果をもたらすための工事としてではなく、高速道路という世界でも初期の画期的な交通網をつくりました。またアウトバーンは戦闘機の離着陸ににも使えるようになっており、三重の効果があるものだったわけです。

ただこの経済政策がうまく運ぶには一つ条件があります。それは金利が7%以上であること。でないと給料をもらった工事関係者は、銀行にすら預けず、タンス預金をしてしまうと言われています。
だから今の日本で真似てもまったくの無意味。どころかただ国からお金が出ていくだけなので経済効果は期待できません。事実見事に日本は赤字大国になってしまいました。


なお、ヒトラーの社会への貢献はこの経済面だけではありません。
代表的なものとして次のようなものがあります。
まず人工洗剤の開発を命じたこと。石鹸は当時まだまだ貴重品で、ドイツは輸入に頼っていました。ところが戦争が始まれば輸入は途絶える。だから合成洗剤の研究を命じたのです。ドイツは化学で世界トップクラスの国でしたので、この要求は別に無謀なものではなく、今や合成洗剤を使っていない人の方が稀なくらいになっています。
また民衆にラジオを普及させたのもドイツが最初です。ヒトラーは自分の声明を国中に広める必要性を感じ、格安のラジオ(ラジオ三号だったかな?)を開発させ、見事に国中の人民にラジオを行き渡らせました。
それと演説にも一工夫入れました。聴いている人たちの印象に残りやすいように、r、の発音を非常に巻き舌で行ったのです。またリズムなども調整していたようです。このような演出効果も考えて演説を行ったのはヒトラーがおそらく初期の人物でしょう。(ただし現在のドイツ人はヒトラーへの嫌悪・後悔が強いらしく、発音の仕方を英語に似せてきているそうです。具体的には英語のthisにあたるdieserという単語がありますが、ドイツ語では”r”は「ア」に近い発音で、ディーゼア、と読みます。しかしこれはヒトラーを思い出させるので、erを英語の「アー」という発音にしていて、今では。ディーザー、などと発音されたりします)


さて、社会への貢献も十分大きかったヒトラーですが、やはりユダヤ人大虐殺に触れないわけにはいかないでしょう。
彼は確かに多くのユダヤ人を殺し、戦後それが明らかになるや世界中が衝撃を受けました。
しかし本当にこの行為は悪だったのか?
もちろん現代の私たちにとっては悪でしょう。しかしながら歴史を調べる場合には、当時社会がどんな状況であったのかを踏まえて判断しなければなりません。つまり当時の歴史背景の中に自分をできるだけ近づけて置いてみることが必要なわけです。
当時は「優生学」という学問が世界的に流行していました。これはダーウィンの進化論が誤って学者に伝わってしまったものの代表例といえるでしょう(実は進化論――現在は進化「学」になりましたね――は近年になってようやくダーウィンのレベルまで追い付いたというのが実情です。ダーウィンの『種の起源』はとても徹底された研究書物で、たとえばヘラジカの角が大きいのは、生存には不利なのに何故あの大きさに進化し生き残っているのかというのが長年疑問でした。しかしダーウィンはすでにこれに対して答えを出しており、メスへのアピールになるのだ、ということを提唱しています。しかしこれが社会的にきちんと学者間に認知されたのは70~80年代です)。
優生学の概要は、社会的な介入により優秀な人種を選択して残すべき、というものです。しかしダーウィン自身はこれには反対で、現在生き残っている生物は自然選択を受けながらも生き残った種であり、ここに人間が無理やり介入するのはよくないとも考えていました(もちろん人間による動植物の品種改良があることも知っていましたが)。
こうした優生学の流行という社会的背景により、劣等種と考えられる人間は人の手で排除していくべきだとされていました。たとえば遺伝的な疾患を持っているような人間です。そしてそれは大なり小なり各国で実施されました。
これが最も大きく出たのがヒトラーのユダヤ人虐殺なのです。
当時ユダヤ人は劣った人種であると考えられていました。彼らが昔から金勘定に秀でていて、金貸しなどを主な生業にしていたという歴史的な背景もあったようです(西洋でも日本でも、金を使って金を稼ぐという行為は蔑まれていました)。
またユダヤ人は流浪の民であり、バビロン捕囚によってイスラエルを追い出されたから定住の地を見つけられずにいた人々でもあります。彼らはゲルマン人のように国を持つことができなかったのです(国を持ち、植民地を持つことこそが一等国としての条件でした)。
そういう背景からユダヤ人はとても劣った種であると考えられました。そのため優生学の教えに従い、大量虐殺という政策をとったというわけです。

今でこそ大量虐殺といえば相当な悪い行為のように思われます。しかし当時の歴史背景をきちんと踏まえたうえで判断しなければならないように思います。
(なお、戦中日本の南京大虐殺については非常に調べるのが困難です。というのは捏造された史料というのが山のように存在し、扱う史料の出どころや、それが信頼に足るものかどうかを調べていかないといけないからです。これに関してはまだきちんと明言できないでしょう。今後まだまだ本格的に研究されていくことが望まれます)



さて、今回はヒトラーについてお話ししました。次回以降の更新予定ですが、社会関係でつなげたいと思うので、検挙率の異常な高さ・「疑わしきは罰せず」とは何かについて、と、医療ミスによる死亡率についてを考えています。
また、その後、エジソンについて三連発してみようと思います。テーマは、エジソンは実は悪い人、エジソンは悪い人?(歴史的に判断するとそうでもないと言えそうなのです)、そしてエジソン発明会社の没落、という感じです。
ただエジソンの(二つ目の)話をする際に、西欧の社会的につくられた男性性の話について触れておかないとわからないと思いますので、エジソンの前に『バック・テゥー・ザ・フューチャー』の話を男性性と絡めてご紹介したいと思います。
ただその前にそろそろ受験生が落ちる頃ですね。予備校のTVCMの目立ってきました。そこで今年失敗してしまった人や、これから受験生になる高校二年生向けに予備校の暴露話をしてしまいたいと思います。
紹介する予備校さんからの非難がくることは覚悟の上。相当辛辣なことを書きます。ただし(自分なりの調査ですが)できるだけ正確なことを記述させてもらいます。私たちの友人(有名予備校に通っていた人、名門校に受かった人)からのきちんとした情報です。彼らが嘘を言っていなければ信頼できるソースでしょう。
またそれと合わせて有名高校の内部事情もご紹介できればと思っています。一応念頭に置いているのは開成・灘という関東・関西の雄です。あとはオマケとして慶応中等部~高等部の話なんかもしようかと思ってます。
by zattoukoneko | 2010-01-20 12:58 | 社会・経済 | Comments(1)

日本国憲法について訴えていたけど……

たった今帰ってきたところなんですが、駅前で日本共産党(と言っていた気がする)の方が、「アメリカに押し付けられた憲法なんて改正するべき」と叫んでいました。
私はそれを聞いて、『ああ、なんて今の政治家は勉強不足なんだろう』と嘆かわしく思ってしまいました。
確かに今の憲法はアメリカに押し付けられたと言う人が結構いますが、ちょっと当時のことを調べればわかるとおり、日本国憲法の草案は日本人自身が作っています。
もちろんGHQの検閲と手直しは入っています(例えば、天皇を象徴とする、というのはGHQからの提案だったと思います)。だからといって「アメリカに押し付けられた」は言いすぎでしょう。
政治家が不勉強だから、日本は官僚に頼らざるを得ないんだ、と感じてしまいます。(ちなみに官僚は国家第Ⅰ種という試験にパスしています。国家第Ⅰ種のレベルは、大学1・2年で学ぶ(ことになっている)教養課程の全過程をマスターしたレベルです。大学1・2年と聞くと大したことないように聞こえますが、ようは法学・歴史学・文学・語学・数学・物理学・化学・生物学・地学など(これらがさらに細分化されているわけですよね、力学・電磁気学・振動波動論・量子力学・相対論といった具合に)、これら全てをマスターするのがどれだけ大変なことか……。これだけ勉強した(そしてできる)官僚に対して、政治家はしょせん素人ですからね。政治家やるなら田中角栄くらいのカリスマ性を持てと私は思ってしまいます)

ついでに。
憲法第9条ばかりを訴えるのもやめませんか? 国際的に見てとても恥ずかしいです。同様の憲法は世界のあちこちの国が採用してますし、別に日本が誇るべきものではないと思うのですが……
むしろ第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」の方が大事だろうと。この条例はつまり「国民の命は国が守りますよ」という意味です。これなくなったら最悪でしょう?(まあ、明らかに北朝鮮の拉致事件ではこれが守られていなかったわけですが)

なんかだらだら書いてしまいましたが……
ようは政治家の皆さん、勉強しましょうよ、と。そして官僚には勝てなくてもいいですから、もっと国民を魅了するようなカリスマ性を持ちましょうよ、ということです。


さて、ハチ公の話は明日か明後日くらいに書こうかな、と思ってます。
ちょっと史料を集めなきゃならないので、それが順調にいったらですね。
by zattoukoneko | 2009-11-25 17:31 | 社会・経済 | Comments(0)

人権・平等問題 Part. 1

よし、今13時です。何時に書き終わるかな?

今回は人権・平等の概念いついてです。
実は私は以前からこれらについて懐疑的でした。別に完全否定したいわけではありません。重要な概念だとは思ってますし。それでも現状では問題があるのではないか、そう考えています。
以下では三つの問題点を挙げてみようと思います。私が関心を持ったり、勉強した順番とは異なりますが、こっちの方が分かりやすいと思うのでご容赦ください。


◎ 人権・平等の概念の歴史
人権・平等・民主主義という概念はプロテスタントがつくったといわれています(民主主義の概念はもっと昔からあるので、より正確には民主主義のほうがいい、と主張した、となりましょうか)。
プロテスタントが出現してきた背景には、グーテンベルクの活版印刷技術の発明によって、本、すなわち聖書が安価に入手できるようになったということがあります(ただし、当時はまだ紙の値段も高かったので、どれだけ庶民にまで普及したのかは疑問の余地が残ります。ただ、それ以前の羊皮紙の本や、写本よりは手に入れやすかったことは間違いないでしょう)。
プロテスタントたちは聖書を読み、教会の堕落を指摘し、宗教革命を起こすに至るわけですが、今回はその前後の人権・平等の概念の誕生に重きを置いて説明したいと思います(ただし人権については理解しにくいので、平等のほうを最優先に理解してもらえれば、と思います)。
キリスト教の教義では、人は死ぬと、それはかりそめの死ということになっています。人々は一度眠らされ、後にやってくる最後の審判の前にもう一度肉体を与えられ、生き返ることになっています。最後の審判とは、神が生前その人物がどのような生き方をしたかを見定め、善人は天国へ、悪人は無へと還されるというものです。当然ですが、自分の魂・意識が消滅してしまうのは怖ろしいことですから、みな天国に行くことを望みます(だから免罪符なんてものがバカ売れしたわけですね)。
しかしプロテスタントたちは考えました。果たして神にとって最後の審判は必要なものなのだろうかと。
神は全知全能な存在とされています。その神が人をつくって、その人の生き様を観察する必要なんてあるのだろうか?、むしろ生まれさせるときにはすでに天国にいける人間を決めていると考えるのは自然ではないだろうか?、そのように考えたのです。
実際このことは聖書においても言及されていて、神は人が生まれるときにはすでに天国にけるかどうか決めている、としています。これに対してエジプト(だったと思いますが)の人たちは、使徒に対して、「それはあんまりにひどい所業ではないか」と言っています。それに対して使途は「陶磁職人が粘土を綺麗な皿にしようと、便器にしようと、それは職人の勝手な意思だ」と回答しています。
こんなことを言われてしまうと生きていく気力がなくなってしまいそうですが、プロテスタントたちはこう考えました。「少なくとも天国にいける人間は、キリスト教に敬虔な信者であるはずだ」と。これは十分条件ではありませんが、最低限の必要条件だと思われました。そしてプロテスタントたちは熱心なキリスト教信者になっていくのです。

ここまででは平等の概念がどう生まれたのか分かりませんね。実はプロテスタントたちはこう考えたのではないかとされています。
「自分たちさえよければそれでいい」
つまり、他の人が悪人であろうと、キリスト教を信じてなかろうと、そんなことはどうでもいいことである。自分さえキリスト教を信じ、天国にいければいいと考えたのです。これが平等の概念の誕生です。すなわち最初は「誰が何してようと勝手」という考え方だったわけですね。

ただ(このあたりが少々不可解なのですが)プロテスタントたちは次第に暴徒化していきます。自分たちの考えこそ絶対だと信じ、宗教革命すら起こしてしまうのです(教会が堕落していたのが許せなかったのかもしれませんが)。
プロテスタントはその後も自分たちの信条こそ絶対だと信じ、貫き通そうとします。その結果、アメリカはプロテスタント一色に染め上げられます。
実はアメリカに最初に移民してきた人たちの多くがプロテスタントたちでした。彼らは(ゴールドラッシュという背景もあったでしょうが)東海岸から西海岸に至るまでどんどんと領地を支配していきます(インディアンの人権はどうした?、という感じですが)。そして西の果てまでたどり着くと、今度はハワイまで侵略し、次に狙うは日本ということになり、太平洋戦争が勃発します。こうした(アメリカの)プロテスタントたちの行動原理は、フロンティア理論と説明されることがあります。(ただしここで注意ですが、太平洋戦争など、戦争はそう単純な説明ができるものでもありません。ソ連などの社会主義国に対する恐怖もあったと考えられます。ここで言っているのは一つの見方と思ってください)
今でこそこのフロンティア理論の原理は(いくらか)落ち着きましたが、現在でもアメリカでは人権・平等・民主主義という概念を至上のものとし、その概念で結びついているところがあります。事実少し前までは女性や黒人(および有色人種)は選挙権を得るためにはどれだけこれらの概念を理解しているのか試験を受ける必要がありました。WWⅡ前後の日本人たちに顕著なようですが、いかにアメリカ人になれるか、がその国で生きていくために必要なことでした(こうしたアメリカ人化することを『アメリカ化』といいます)。歴史のないアメリカにとって、このアメリカ化はとても重要なことであり、人権・平等・民主主義という(半ば空虚な)概念で国民は結びついています。そのためこれらが崩されそうになるとアメリカ人は一致団結し、暴徒化します。これが有名な9・11テロ事件とそれ以降の中東への戦争という反抗となります(ただこのときは少し経ってから反戦派も目立ってきたので、今では幾分事情も変わってきているように思われますが)。

以上で見てきたように、人権や平等といった概念は、キリスト教由来のものであり、他者を支配しようという凶暴な側面も持っています。
確かに今でこそ人権・平等の概念からは宗教色が抜けてきています(だから日本でも明治維新以降に受容できたのでしょう)。けれども根底に宗教がある限り、他宗教の民族には受け入れがたい部分もあります。
たとえばカースト制度というものを考えてみましょう。カースト制度ではいくつもの階級に人々が分けられていますが、この背景には宗教(ヒンドゥー教?)があります。簡単にカースト制度の理念を説明してしまうと、人は輪廻転生を繰り返しています。そして新たに生を受けるとき、前世の行いによってどの階級に入れるかが決まります。善い行いをしていれば上の階級へ、犯罪などを犯していれば下の階級へと落ちます。階級がどんどん上がっていくと、最終的には輪廻転生という無限のループから解き放たれ、極楽浄土へといけるとされています。と、こうカースト制度の仕組みを概観してみればわかると思いますが、下のカーストにいる人は前世で重犯罪を犯しているということです。そんな人を自分と同じように見ることができるでしょうか? つまりインドにカースト制度がある限り、平等という概念は根付きようがないのです(ただし現在では法律上ではカースト制度は廃止されています。それでも人々の間には根強く残っているというのが実情のようです)。
このように、人権・平等、あるいは民主主義という概念は、そのままではキリスト教以外の他民族には根付きにくいということです。これが人権・平等の抱えている問題の一つとなります。
by zattoukoneko | 2009-11-01 17:21 | 社会・経済 | Comments(0)


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