【小説】交差日記(2/5)

   ♪ 2 ♪
 翌朝、目が覚めてからノートを開いてみると、昨晩の文字は相変わらずそこにあった。それどころか続きまで書かれていた。
《まずは、ごめん。君が書いている内容を勝手に読んでしまった。何を書くか悩んでいたノートに、気付いたら文字が書き込まれていたんだ。そのことに驚いて、そしてどうしたらいいのかわからなくなった。でも理由はどうあれ、盗み読んでしまった事実に変わりはない。だからまずは謝っておくべきだと思う。この文字が見えていればいいんだけど》
 私が寝ている間に両親が部屋に入ってきた気配はない。筆跡も別人のものだった。赤の他人が侵入して書き残したとも考えられるけど、昨夜目の前でノートに文字が浮かび上がっていく瞬間を目撃していたから、その可能性も低い気がした。
 俄かには信じがたい。けれど私はこのノートを知らない誰かと共有している、そう考えるより外はない気がする。
 私は返事を保留することにした。まだ戸惑いが大きかったし、仕事にも行かなければならなかった。ただそうやって時間が空くことで、日記に文字を書いた相手のことを考える余裕が生まれた。
 最初に出てきたのは怒りだった。私は自分の感情を表に出さないから、職場でも周囲の人たちは気付いていなかった。でも私自身ならわかる。パソコンのキーボードを叩くときや、書類のコピーを取る際に、機器をいつもより乱雑に扱っていた。そもそもあの日記は誰かに見せようと思って書いていたものではない。誰かに見られないと思っていたからこそ、私はずっと抱えていた大事な思い出を綴っていたのだ。それを勝手に読まれていたのは、それなりにショックなことだったのだ。
 でもお昼休みの時間になった頃から、次第に気持ちも変じていった。怒りという高いエネルギーを必要とする感情を持続していることは私には出来なかったし、悲しみも入り混じって少し落ち着いてきたような感じだった。今朝に付け加えられていた文章を思い出す。少なくともあの文からは、私のことを馬鹿にしていたり、嘲笑っているような印象を受けなかった。本当に自分のしたことを、素直に告白し、謝ろうとしていた。その言葉が届いて欲しいと願っている感じだった。
 何だか、不思議な感覚を覚えた。これまでの人生で、ああやって真摯に話しかけてきてくれた人というのは、初めてのような気がする。当然だけれど、ほとんど私が会話をしないとはいえ、皆無というわけではない。仕事上必要なコミュニケーションくらいはするし、多くはないものの職場の人たちと飲み会などをすることもある。それに両親や親戚など、身内の人たちもいる。だから相手から話しかけられたり、頼まれたりすることは今まで何度もあった。でもノートに文字を書いた相手は、自分のことを一所懸命に伝えようとしている感じがする。姿も見えない相手に、謝罪の言葉を述べようとしている。
 帰宅の途につく頃には、少なくとも反発する気持ちはなくなっていた。相手の人も書いていたけれど、急にノートに知らない文章が書き込まれていたら驚くと思う。私自身も驚いた。だからしばらくは様子を見ようとするだろう。それからノートを手放すなり、事態を把握しようと仕組みを解明しようとすると思う。そして今回の相手はこちらに言葉を伝えてみようと、そのために筆を手にするというアクションを取ったということになるのだ。
 その行動は尊敬できるものだと感じる。私ならきっと出来ない。どうやって相手の中に踏み込んだらいいのかわからなくて、ノートから距離を置いてしまうと思う。これまでの私がまさにそうだった。人と接することに慣れていない私は、接触を試みてきた人物を排除しようとしていたのかもしれない。そのために最初に怒りを覚えたのだろう。自分の領域に踏み込み過ぎだと感じたから。
 でも文章を書いた相手に悪気はなかった。突然の出来事に驚いて、だからしばらく様子を見ていただけ。そして勝手に日記を読んでしまったことを謝ることにした。それはとても真摯な態度で、責められるべきところはないと思う。
 ただだからといって、私が返事をするかどうかは別問題だ。悪い人ではなさそうだけれど、これまでみたいに日記を書いていくことはできないし、どう接していったらいいのか皆目見当もつかない。見えています、気にしないでください、とだけ書いて、その後はノートに触れないのが無難だろうか。
 家に帰ってきて、自室で部屋着に着替えても、まだきちんと答えは出ていなかった。机の上にあるノートの表紙に触れ、しばし躊躇してからページをめくった。開かれたノートには、さらに続きの文章が書いてあった。
《もしかしたら突然のことに戸惑っているのかもしれない。ボク自身そうだったし。もちろんこの文字が君に見えていないという可能性もあるんだけど。何にしろ、ボクの話もしないといけないよね。勝手に君の書いているものを読んでしまったということもあるけれど、まったく素性のわからない相手に話しかけるのは難しいと思うし。ボクの名前は、キリっていう。十七歳なんだけど、高校には通ってない》
 その後に続くキリの自己紹介を読んで、どうして彼が、君の書いているものを読んでしまったということもあるけれど、と書いているのかを知った。その部分はキリにとっても、そして私にとっても、実は重要な意味を持っていたのだ。
《高校に行ってないのはサボりとかじゃないよ。長いこと入院してるんだ、脚に大きな怪我をしてしまったから。その傷口から毒みたいなものが体に回っているらしくて、これまでも何回か手術をしている。容体が安定したらまた手術をするとか。正直憂鬱だよ》
 それはユウキの境遇に似ていた。実際には、私はユウキのお見舞いに行ったことがないし、具合がどのようなものだったのかきちんとは知らない。ただ脚を怪我していることや、それが原因となって入院が長引いているということはそっくりだった。もしかしたらこのキリという少年は、私の書くユウキに共感する部分があったのでないだろうか。
 ただしまったく同じというわけでもなかった。人気者のユウキと違い、キリには友人が少ないみたいだった。
《高校にも行ってないから見舞いに来てくれる友人もいなくて。病院なんて娯楽もないし、何か自分で作ってみようかと、ちょっと前にノートを親からもらったんだ。透かしが入っていたりして不思議な印象のするノートで、だから特別なことを書こうと考えていた。でも何を書いたら面白いのかさっぱりわからなくて、持て余してたんだ。そうしたらある日突然、開きっぱなしのノートに文字が書き込まれていったんだ。それが君の文章だった》
 そこでキリはまた謝っていた。勝手に私の書いたことを見てしまって申し訳ないと。私はすでに気にしていなかったのだけれど、返事をまだしていなかった。だから彼は気になって繰り返してしまうのかもしれない。
 私はキリに返事を書こうという気になった。一番大きかったのは、何度も謝らせていては申し訳ないと思ったからだった。しかしそれ以外の要素も複雑に絡み合っていると感じる。状況は違うのだけど、お互いに他人と話すことが出来ないでいる。ユウキを介して、脚の怪我のことを共有してもいる。そしてこの不思議なノートで巡り会ったことに、少なからず運命のようなものを感じていた。
《キリさん、文字は見えています。私も急に書き込まれたものだから、本当に驚いてしまいました。だから内容を読んでしまったことは謝らなくて大丈夫です。私はもう気にしていませんから》
 そこまでシャープペンシルを走らせたところで、私は次に何を書けばいいのかわからなくなってしまった。相手がいるということを意識したら、言葉が上手く出てこなくなってしまったようだ。
 こめかみの辺りに手をやって考え込み、ノートを見つめる。そうしたらいきなり、しゃっと短い、けれどはっきりとした線が引かれた。それからすぐに、慌てているのがわかる速度でもって、文章が書かれていった。
《ごめん。返事が来たのが嬉しくて、慌ててシャーペンを取ったら手が滑ってしまった》
 私はその一連の出来事に、思わず吹き出してしまった。キリの容姿を私は知らない。でもノートの前で慌てる彼の様子が目に浮かぶようだった。
 気付いたら、私はキリにさらなる返事を書いていた。
《私なんかの返事が嬉しかったんですか? もしかしてずっと待っていたとか?》
 キリの応答はすぐに返ってきた。
《嬉しいに決まってるよ。ボクが書いた文章が君に見えているという確証はないんだから。待っていたかどうかというのは、うん、待っていた。病院に入院していても暇でやることなんて何もない。だからノートを開きっぱなしにして何度も目を遣っていたよ。今から思えば、あれは期待してたってことなんだろうな》
 キリの言葉は、私の気持ちを明るいものにしてくれた。これまでの人生で、私の言葉をこんなに待ちわびてくれていた人がいただろうか。ノートによる特殊な事態も関係はしているけれど、でもキリの書く文章は率直に彼の心情を表わしているように感じられた。だから私も嬉しくなったのだ。
《ところでよかったら君の名前を教えてもらえないかな。何て話し掛ければいいのかわからないんだ。あ、それと敬語でないことを許して欲しい。年齢が書かれたことがあったから、ボクより年上だってことは知っているんだけど、いざ畏まった文章を書こうとしたら筆が動かなくなってしまって。実は一度それでミスをしてるんだ》
《私はミサキです。ミスというのはもしかして一度書こうとして、翌日に消してしまったもののことですか? 言葉遣いは気にしないでください。むしろそちらの方がキリさんの言葉が自然なものに感じられます。むしろ私が堅苦しい印象を与えていないかと心配なくらいです》
《あ、あの時の失敗はしっかり目撃されてたのか。言葉が思い浮かばなくて、最初の一画目だけ書いていたんだ。その日は頭を悩ませて寝てしまったから、消したのは次の日になったんだけど。でも見られてたとなると、明らかに不自然な汚れにミサキには映ったよね。そういえばミサキの文章もあの日は一行多めに空けられていたっけ。ああ、そんなことを書こうとしてたんじゃなかった。名前と言葉遣いのこと、ありがとう。それが言いたかったんだ。どうやらボクは書き言葉が得意ではない気がする。少しまとまりに欠けるね。今は興奮気味というのもあるんだろうけど》
《興奮気味?》
《うん。ミサキとこうして会話することが出来たから。非日常的な経験だというのも関係してるとは思う。ノートでチャットみたいな会話なんて普通はできないしね。このノートからは何かケーブルが出ている様子もないし。その理屈も気にはなるんだけど、それ以上にこうやって誰かと話せているというのが堪らなく嬉しい。もしよかったら》
 そこでキリの書いていた文章が止まった。続きがあるようにしか思えないのに、十分経ってもその後は白いままだ。もしかしたらノートにあるかもしれないケーブルが切断してしまったのだろうか。それともキリの方に何かあったのだろうか。そういえばキリは病人として入院しているのだった。
 心配が頂点に達し、私はノートを使って呼びかけようとした。シャープペンシルを走らせる直前、ようやくキリが戻ってきた。
《ごめん。夜の検査を受けて来なきゃいけないらしい。しかもそれなりに時間がかかるらしくて、だから今夜はもう書き込めないかもしれない。それで改めてさっきの続きなんだけど、もしよかったらボクとこうやって会話をしてくれないかな。時間のあるときに書き込んでくれればいい。後からになるかもしれないけど、ボクは必ずミサキの書いたものを読む。これも交換日記と呼べるのかな。実際にはノートはずっとお互いの手元にあるわけだけど。無理強いはしないけど、ただ断るにしても返事を書いておいて欲しい。実は迎えに来た看護師を待たせてあって、すぐに行かなくちゃならないんだ。それじゃ、返事待ってる》
 そこで今度こそキリの書く文字は止まった。彼の言った通り、検査のためにノートから離れたのだろう。キリが戻ってくるのは大分先のことになるかもしれない。でも私はシャープペンシルを取ると、すぐに返事を書きこんだ。
《正直、私なんかが話し相手として相応しいのか自信が持てません。でもキリが私でいいと言うのなら、喜んで交換日記をしたいと思います。いいえ、私からお願いしたいくらいです。よろしくお願いします》
 その日の夜、私は楽しい夢を見た。一人の少年と仲良く談笑をしている夢。相手はキリなのだと思う。会話の内容は、目を覚ましたら忘れてしまったのだけれど、誰かと同じ時間を明るい気分で過ごしている夢は初めてのような気がした。
 すっきりと気分よく目覚めた私は、机に歩み寄り、ノートを開いた。そこには深夜にキリが書き込んだのか、交換日記を始められることを嬉しく思うという言葉と、それに慌てて付け加えられた検査の報告が記されていた。すべての検査結果が出るのは少し先になるとのことだけど、昨夜わかった分に関しては良好とのことだった。
 キリの具合が良いらしいと聞いて安心した。けれどそれ以上に、ノートの先に私とはまったく性格の違う、生きている一人の人間がいるのだと知れて、そのことが無性に嬉しかった。
 私たちの間で始まったやり取りは、交換日記と呼べるのか少々怪しいものではあった。時間が合えばチャットのように会話を楽しんだけれど、一方で私には仕事があり、キリには検査や病院で決められている消灯時間があったから、そのときには交換日記に近いものになった。ただ何にせよ、その形式が私には助けになった気がする。本当の交換日記だったら、何か面白いことを上手にまとめて書かなければいけないと力んでしまって、うまく文字を綴れなくなってしまったと思うのだ。リアルタイムで交わされる会話があったからこそ、私はキリとの交流を続けられたし、そしてキリは私から言葉を引き出すのが上手だった。
 そんな感想を伝えたら、キリはこう返してきた。
《そうかな? ボクは特に何かを意識して話しているわけではないからよくわからない。むしろ病院生活は変化がなくて退屈なものだから、ミサキに飽きられてしまわないかと不安なくらいだよ》
《意識していないからいいのだと思う。それに病院での生活も、何もないからこそ、安心して話せる気がする。変に身構えてしまう必要がないもの》
《確かにそうだね。よく考えてみたら病院で何かがあるって一大事だし。それなら退屈な方がいいや》
 キリのその言葉に、ノートを前にしていた私は笑ってしまった。自分が病人であるという意識が、彼からは抜けている気がする。
 頬を緩ませながら、改めて私は筆を走らせる。
《さっきの身構えてしまう必要がないというのは、私の方の問題なのよ。私は病院にも入院してないし、元気に普通の生活をしている。なのに日々に何の変化もない。キリに話して聞かせるような楽しい話題を用意することが出来ない。けれどキリが自然体で接してくれるから、無理して話題を探す必要がないんだって、そう気持ちが楽になるの》
《無理して話題を作っても駄目だよね、上手く話せなくなってしまう。ボクはミサキとはノートの中で出会ったら挨拶をするように会話が自然と出てくる関係でいたいと考えてるし、だから日々の生活に変化があるかどうかなんて気にすることはないと思うよ》
《それならキリも病院での生活に変化がないなんて嘆く必要はないわね。こうやって何気ない会話をしているのがいいのでしょう?》
《ミサキは痛いところを突くなあ。その通りだね、ボクも自分の生活が退屈なものだなんて考えは捨てることにするよ》
 キリとの会話は、とても楽しかった。普段まったく喋ることのできない私が、彼を相手にするとすらすらと言葉が出てくるのだ。これまで友人と会話をしてこなかった長い年月を埋め合わせるかのように、私はキリとの交流に夢中になった。
 でも同時に、この交流が上手く成り立っているのは、間にノートがあるおかげだとも強く感じていた。実際にキリを目の前にしたら、話が出来ないと思う。私はそこまで器用な人間じゃない。
 それでも誰かと話が出来ているという感覚を持てたことは、私にとって大きな前進だったのだ。ある日の夕方、母の料理を手伝っていると、急にこんな指摘を受けた。
「珍しいわね、ミサキが鼻歌なんて。職場でいいことでもあった?」
 言われるまで気付かなかった。まったく意識なんてしていなかった。何か特別なことがあったわけではない。キリとの会話もこれまで通りで、お喋りをしているだけに過ぎない。だからいいことがあったわけではない。ただ、日々の出来事を敏感に感じ取れるようになったと、そのようなことは思った。
 これまで何百回も歩いている通勤の道も、日によって見え方や感じ方が違うのだということを知った。それはとても当たり前のことなのだけれど、今までただ歩くことしかしていなかったから、そうした日々の変化に鈍感になっていたのだ。
 家に帰った私は、さっそくノートを開いて書き込む。
《今日は風が強くて、寒かった。季節が一つ先に進んでしまったのかと思ったわ》
 そこまで書いて、ひどく手がかじかんでいることに気付いた。ペンを上手く動かせない。温かい飲み物でも持ってこようと、一階にあるリビングに向かう。冷蔵庫からミルクを取り出すと、マグカップ一杯分のココアを作った。それを手に、自室に戻る。それほど時間は経っていなかったはずだけれど、ノートにはしっかりとキリの返事が書き込まれていた。
《ボクは室内に籠もりっぱなしだったからわからなかったな。でも寒いと感じるなんてよっぽどだね。確かに例年よりは気温が低いって聞いてるけど、冷夏とはいえ夏だし》
 そのキリの言葉を、私は訝しく思った。マグカップを机に置くと、すぐに書き込む。
《もう秋も終わる時季だわ。冷夏って、一体いつの話をしているの?》
 書きながら、私の頭には一つの推測が浮かんできた。俄かには信じられないことだけれど、でもキリは嘘を言ったり、冗談を言うようなタイプではないことはこれまでのやり取りから知っている。
《もしかして、私たちの過ごしている時間には差があるということ?》
 私はずっと、キリとは同じ時間を過ごしているものだと思っていた。チャットをしているのと同じで、お互いに居る場所こそ違えども、日付けや時間は変わらないと。でもこのノートはパソコンとは違う。理屈はわからないけれど、私たちが書いた文字を、空間を越えて運んでいる。空間を越えられるなら、時間だって越えていてもおかしくないのではないだろうか。
 キリは私の推測を認めつつも、一つの疑問を呈してきた。
《ミサキは秋を、ボクは夏を過ごしている。とりあえずだけど、ミサキが未来にいると仮定しよう。そうすると、どうしてミサキの書いた文字がボクに見えるんだろうか? 過去にいるボクが文字を書けば、それがミサキに見えるのは自然なことにも思えるけど》
 キリの仮定は残念ながら間違っている。私の過ごした今年の夏は猛暑だったし、冷夏と呼べるようなものはもう何年も訪れていない。おそらくキリが未来にいるということで間違いないだろうけれど、その場合、今度はキリの文字が私のノートに写し出されるのが不思議ということになる。
 けれど私たちが持っているノートが別の物だとしたらどうだろうか。ただ空間や時間を越える能力は同じで、二つのノートに同時に文字を写し出しているという考え方だ。
《それはボクも考えた。パソコンで例えると、お互いに見ている画面の表示は同じだけれど、ディスプレイが違うということだよね。同一の物を異なる二人が違う場所で所有しているというのも奇妙だし、こうやって文字を書き込んで最初の使っていない状態から変えているなら尚更にね。どうやって最初のノートを手に入れたんだって話になるし。でもそうだな、今書いているページの右上の方、ボクのノートにはそこに細くて黒い汚れのようなものがある。ミサキの方はどう?》
《糸くずのようなものがあるわ。消しゴムでも消せないし、ボールペンとかのインクでもないみたい。おそらく透かしを入れる紙の間に挟まっているのだと思う。でもこれってキリが出来ることではないわよね。本当に私たちは、一冊のノートを別々の場所で同時に持っているということなの?》
《そう考えるしかないと思う。その場合、どうやってボクとミサキの二人が未使用のこのノートを手に入れたのか、それが一番の疑問になるけど》
 私たちのノートは、瓜二つだけれど、やはり別の物ということだろうか。文字を行き来させているくらいだから、体裁が似ているくらいはあり得る気がする。もしくは二人ともが文字を書き込んだことで、時間が二つに分岐し、並行世界が生じたのかもしれない。突飛な考えではあるけれど、そもそもこのノートの存在自体が摩訶不思議なのだ。そのくらい飛躍した思考をしないと、理屈を知ることなんて出来ないのではないだろうか。
 問題のノートを前に、私が頭を抱えていると、キリが新たに書き込みをしてきた。
《まあ、あまり気にしても仕方ないし、どうでもいいことかもね》
 彼の言葉に、思わず私は呆気に取られてしまった。そんなに簡単に放り出していいことなのだろうか。もしかしたら私たち自身に重大な影響を与えているのかもしれないのに。
《だからこそ、かな。ボクたちにとって大事なのは、こうやって話が出来ていることなんだと感じるんだ。ノートの存在や仕組みじゃない。今まで深く気にせず会話を楽しんできたし、これからもそうしていけばいいんじゃないかな》
 目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだと思った。ノートの不思議さに気を取られ、いつの間にか私はフィルターをかけていたらしい。チャットや電子メールを使うとき、私たちはその理屈を気にしたりはしない。大事なのはそこに書かれている内容であって、そしてキリはそれと同じだと言っていた。
《ただこれくらいは言えるかもしれない。確かにボクたちは時間も空間も違う場所にいる。時空を別にしていながらも、でもこのノートの上では交わることが出来ている。そういう意味でこのノートは特別なものだし、大事なものではあると思うよ》
 それからキリはこんな提案をしてきた。
《これまで何となく交換日記としていたけど、違う言葉の方がいいかもしれないね。だってノートはずっと手元にあって、交換なんてしていないんだし。そうだな、さっきまで話していた異なる時空に住む二人が交流している場ということを踏まえて、交差日記なんて呼び方はどうだろう?》
 私はその名前が気に入った。すぐにキリにそう伝える。
 時間や場所の隔たりはあるかもしれない。それでもキリという一人の人間と確かに交われているのだと感じられて、それがとても嬉しかったのだ。



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by zattoukoneko | 2013-11-22 19:24 | 小説 | Comments(0)