『世界を凍らす死と共に』4-1-1


   四章


   一.


 真琴は今年度になって再会した頃から、毎日のように不条理という言葉を口にしていた。それで指すところのものをどうにかしたいと考え続けてきた末に、怪を生み出したということなのだろう。その想いを積み重ねる大きなきっかけとなったのが俺との出会いということなら、最初に知り合ってからもう六年もの間苦しんでいたということになる。思い出すのを放棄した俺の代わりに、真琴はあの水の中から冷たい母さんを幾度となく引き揚げようと涙していたのか。
 俺は死んだ母さんのことを振り返ることが出来たし、受け入れようとしているけれど、おそらくはそれで真琴が怪を消してくれるということにはならないのだろう。
「そうだね。僕はあまりにも鏡にいのお母さんのことを夢に見過ぎた。あの冷たさを忘れることなんて一生できないんじゃないかな。それに話もそんなに単純じゃないし」
「世界は不条理に満ちているってやつか……」
「正解。鏡にいにしては鋭いじゃん。色も見えるようになったみたいだし、変わったっていうのは本当なのかもね」
 いつも通りの小馬鹿にした口を利きながら真琴は頷いた。そして最近は夢を見なくなってきているのだと告げる。
「お母さんが死んでしまったという事実は変わらない。僕の怪の力を使っても生き返らせることは出来ないし、もしかしたら力をもっと蓄えれば可能になるのかもしれないけど、そうしたらみんな大事な人を生き返らせようとして大変なことになるよね。だからそこまでは望まないことに決めた」
 そう心の整理が徐々に付いていく一方で、思い通りにならないこともたくさん出てきたという。
「よく言ってるやつだと、どうして女だからって色々決め付けられなきゃいけないのかってこととか。学校の制服とかは昔の社会が勝手に作り出したルールでしょ? それにも腹立つんだけど、そういうのはこれからみんなの認識が変わることで新しくなるとも思う。でもそれだけじゃないんだ。生物として男と女じゃやっぱり違ってる。自分は女なんだって何度も思い知らされたよ。特にこの年齢になるとさ」
 第二次性徴というやつか。言われて俺も真琴ぐらいの年齢のときに、自分の声が低くなるのを嫌だと感じていたことを思い出す。女子も同じように身体の変化に色々なことを思うのかもしれないけれど、男の俺には想像することは難しかった。そしてそのことこそが男女の間にある溝を如実に語っていた。
 真琴は雨に濡れた制服の代わりとして着ている俺の服を摘まんで示す。
「これ鏡にいが今の僕と同じ年齢の頃に着てたやつなんでしょ? でもぶかぶかだね。中学くらいじゃそんなに差は出ないと思ってたんだけど、実際には結構違うや」
 少しふざけた様子でそんなことを話していた真琴は、一転して真剣な表情になって俺の方に視線を向けてきた。
「僕はずっと鏡にいのことを見つめてきた。学校が分かれて会えなくなってからも、最初に知り合う前からも、ずっと。鏡にいの隣に並んで対等な立場で何か役に立ちたいと思ってた。だけど小学校低学年の僕はいつもあしらわれてばかり。もちろん僕が子供っぽいことばかりしてたってのもいけないんだろうけどね。でもあれから何年も経った。僕も成長した。だから試しに訊いてみるよ。――鏡にい、僕は鏡にいの力になれる?」
「それは……」
 真琴と協力して何かをするなんてこと考えたこともなかった。俺にとっては世話のかかる近所の子供で、懐いてくれているのはわかっていたけれど、対等な関係として見たことは一度もない。
 言い淀み、答えられなくなった俺に、真琴は寂しそうな笑みを向ける。
「そういうことだよ、鏡にい。僕はどこまでいっても無力なままなんだ」
「だから怪の力を蓄えたってことなのか。でもどうしてそれを他の人に渡したりなんかしたんだ?」
 俺のことを考えて想いを募らせたというのなら、それを他人に分けようとはしないんじゃないだろうか。真琴は怪の力を使って何をするつもりだったんだろうか。
 その疑問に答えてくれたのは真琴本人じゃなかった。
「そんなに単純なことじゃないと許斐さんが話していたじゃないの。確かに御薗木くんがこれだけ鈍いと、苦労する気持ちもわかる気がするわ」
 純白のウエディングドレスに身を包んだ柊は、救急車を呼び終えたのか、俺にそう告げながら立花先輩の方に真っ直ぐに進む。俺ともそんなに距離は離れていない。先輩の呼吸はさっきより随分と安定しているようだった。
「詳しくはわたしにはわからないけれど、今はただ寝ているだけみたい。きっと許斐さんが怪の力で容体を安定させてくれたのね」
「……」
 人見知りが出たからなのか、答えたくないと思ったのか、いずれにせよ真琴は沈黙で返した。それを俺は肯定と受け取ったし、柊もそうしたようだった。
「許斐さんは徐々に自分の気持ちを整理してきたとはいえ、怪とその力を宿すきっかけになったのは御薗木くんの亡くなられたお母さんとの一件で、助けられない無力さを何度も味わったからというのは確かなのでしょうね。だから怪はその一つの現象、属性として冷たさを有しているのだし。そしてお母さんはすでに亡くなられているからと自分の気持ちに蹴りを付けたのなら、残っているのは助けたいという想いということになる。それをわたしや立花先輩に向けてくれたと、そういうことなのでしょう?」
 真琴はしばし言い淀んだ。けれど最終的には柊の言葉を認める形になった。
「他の人が苦しんでいるのを見てるのに耐えられなかったからだけどね。でも力があればその人が背負っている不条理に打ち克つことが出来るかもしれない。そう思って怪の力を渡してみたんだ。本当にその力を役に立てたい相手は鏡にいだったんだけれど」
 それから真琴は、俺の隣にいる今の母さんに視線を移した。
「僕は鏡にいが目に色を見る力を取り戻したいと考えているなら、どうにかしてそれを叶えてあげたいと思っていた。方法は分からないけどそのためには人ならざる力が必要なんじゃないかって考えた。でもそれを達成するのに助力したのは普通の人間でしかない青葉さんだった」
 真琴はそこで小さく頭を振った。その仕草はどこかイヤイヤをしているようにも見えた。
「もう気付いているかもしれないけど、僕にとって青葉さんは鏡にいのお母さんって感覚じゃない。だからずっと『青葉さん』って呼んでる。本当のお母さんは死んでしまったあの人だよ。今回は鏡にいを救ったかもしれないけど、それは取った行動が前のお母さんに偶然重なったからに過ぎないと僕は思ってる。これから鏡にいはまた何か助けが必要になるかもしれないし、そのときのために僕は怪の力をより高める。柊さんや立花さんもきちんと助けられなかったけれど、でも一連のことでこの力があれば世の中の不条理に人は立ち向かっていけると確信した」
「あら、随分と見縊られたものね」
 胸に秘めていた決意を口にした真琴に、しかし柊は冷たく言い放つ。
「確かに今の立花先輩は怪の力で容体を安定させている。だからその力は人を救うのかもしれない。わたしの場合でも、ずっとあの家庭の中に入れられていたら祖母と同じ道を辿ったかもしれない。そう考えれば、そこから抜け出す力をくれたのだから、救われたと言ってもいいのかもしれないわね。でもね、その後わたしが人殺しになり、無関係な人の命をいくつも奪ったというのも事実よ。許斐さんが怪の本体であり、それを離さないつもりなら、その存在を認めたくないわたしはあなたを殺すわ」
 そして柊は腰に手を遣る。怪に取り憑かれていた立花先輩に、サバイバルナイフを手にして飛び掛かっていったときのように。
 けれど腰に手を置いて、それだけだった。柊が溜め息を漏らす。
「ウエディングドレスだからナイフを隠す場所がなかったのよね。こんな服普段着ることないからわからなかったのよ。幸か不幸か今のわたしには許斐さんを殺すことが出来ない」
 嘆息しながらも、柊の口調は真剣そのものだった。怪本体である真琴より冷淡で恐ろしい言葉を紡いでいる気がする。
 その鋭利な言葉でもって柊は真琴を斬りつけた。
「あなたは力とともにあの冷たい想いをわたしたちに押し付けた。あんなものはこの世にいらない。消えるべきものだわ。あなたが怪と深く関わっていて、その関係をやめないというのなら、許斐さんごとね」


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by zattoukoneko | 2013-05-01 06:16 | 小説 | Comments(0)