『世界を凍らす死と共に』3-2-1


   二.


 局所的にとはいえ、立花先輩が急激に気温を下げたからだろうか、あるいは他の想いでも作用したのだろうか。ほんの少し前まで夏の空が頭の上には広がっていたのに、今ではその重量を感じるほどに、どんよりとした雲が下がってきていた。道を急ぐ俺たちの頬にも時折水の滴が当たる。この調子だと本降りになるのも時間の問題というところか。
「急いだ方が良さそうだな。先輩のことも探さないとならないし」
 歩速を速める俺たちは、しかし先輩の後を追っているわけではなかった。その前に用意するものがあって、一度俺の家に向かっている。
 隣を走る柊は、未だに眉根を寄せて難しい顔をしている。
「御薗木くんが真剣なのはわかったから彼女として付き合うことに了承したけれど、あまりに唐突な話だし、この一件が終わったらわたしも気持ちの整理を再度させてもらうことにするわよ?」
「わかってる。俺自身もいきなり飛躍し過ぎたとは思っているし、だから俺の方でも整理をする。立花先輩ともゆっくり話をしたいと考えてるし」
 急な告白に、柊は一応の承諾をくれたのだ。ただ俺の感じたことや思ったことを聞いてもらう前に、一度ナイフを突き付けられた。でもそれもご愛嬌という気がする。彼女がそういう行動に出るということは容易に想像が付くことだし。
「ともかく今は立花先輩を早く助けないとだな。俺の考えが正しければ、すぐに怪と共に凍りつくことはないと思う。だからといって悠長に構えていることもできない」
 先輩はこの世にまだ未練がある。怪に乗り移られながら口から漏らした言葉は、少々まとまりに欠けていたように感じられた。つまり台詞群には本心の部分と偽りの部分と、怪によって導かれた冷たい部分とが混在していたのだ。立花先輩にはまだこの世界や、自身のことを凍らせてしまう覚悟が出来ていない。仮に完了していたならあの場で俺たちごと氷漬けにしていたのではないだろうか。
 この世に未練が残っていて、それがこれまでの言動として現れていたとしたら。そこをきちんと捉えることが出来れば、先輩を怪の冷たい想いから救うことができるはずなのだ。立花先輩にその未練をもう一度自覚してもらうため、俺と柊にはやることがある。家に向かっているのはその準備が簡単にはできないものだからだ。
 先輩と邂逅したところから、大分住宅街の中に入ってきた。あと十分ちょっとで家に辿り着くだろう。そこで柊が何かに気付いたようだった。
「あら?」
 耳に入った声に何事かと振り返る。彼女の視線の先を追うと、見知った姿がそこにはあった。
「真琴じゃないか」
 まだ身体上では男の子と女の子の区別が明確にはついていない年頃。学校の制服でスカートを穿き、短い髪に小さなピンがなければ面識のない人間には間違われてもおかしくない気がする。
 人通りが少なかったために閉店してしまった煙草屋の軒先で、真琴は雨宿りをしていた。どうやら傘は持っていないらしい。確かにここから家までは距離がある。だからといって待っていても雨は当分の間降りやまないように感じられたし、むしろ強まるだろう。帰るなら今のうちだと思うのだが、当の相手はぼんやりと雨空を眺めているだけだった。
「何やってるんだ、あいつ?」
 放っておくわけにもいかないだろう。若干離れてはいるものの、こちらから真琴が視認できるように、向こうからもこちらを確認出来るわけだし。寄り道というほどにはならないだろうと考え、俺は足の向きを変えた。
「御薗木くんは彼女と知り合いなのかしら?」
「ああ、許斐真琴っていう近所に住んでる中学生。小学校の頃に通学班が同じだったんだ。でもよく真琴が女の子だってすぐにわかったな」
 昔から真琴は男の子に間違えられていた。容姿のこともあるけれど、しょっちゅう悪戯ばかりしていたし、家の塀を壊して庭を滅茶苦茶にしたこともあったから、顔を見たことがある程度の人はずっと誤解をしていたらしい。
 でも今の真琴は女子用の制服を着ているのだと、俺は気付いた。それなら柊が性別を正しく判断できたとして、何らおかしくはない。
「いえ違うのよ。あの子とは一度会ったことがあるの。そのときは私服だったから、御薗木くんの言う通り男の子に勘違いをしてしまって、大変失礼なことをしてしまったのだけれど。……そう、御薗木くんとは以前から知り合いだったのね」
 最後はほとんどつぶやきだった。何か思案している風の彼女の様子が多少気になりはしたものの、その頃には真琴の元に辿り着いていた。向こうもこちらに気付く。
「あ、鏡にい」
「どうした真琴。雨宿りしてても意味ないと思うぞ? それにどうして休日に制服なんだ?」
 声をかけてきた真琴には、いつもの元気がない気がした。人見知りする性格だから柊がいることが関係しているのかとも思ったけれど、それにしても覇気がない。
「制服なのは学校に行ってたからだよ。文化祭が近いからさ、その準備」
 それだけ答えると、真琴は再び雨粒の舞う空を見上げた。
「いつもなら折り畳みの傘を持ってるんだけど、今日は荷物が多いから置いてきちゃったんだよね。早くランドセルから卒業したいと思ってたけど、脇にも荷物がぶら下げられたのは便利だったなって、今くらいは思うよ」
「らしくないな。確かに俺の記憶にも、雨の日に真琴が傘を差さずに歩いている姿はないけど。でもいつも元気があり余り過ぎて周りに迷惑かけてるお前なら、このくらいの雨の中走って帰りそうな感じがするけどな」
「……鏡にいはやっぱり覚えてないのかな」
「うん?」
「小学校に入学したばっかりのこと。あの頃の僕がどんなだったかとか、鏡にいが言ってくれたこととか忘れてる」
 その言葉に、最初に真琴と出会った頃の記憶がないことを自覚する。いつの間にか悪戯ばかりしている真琴を、俺が面倒を見るようになっていた。通学班の班長をやっていたから、それが当然のことだと思っていたけれど。
「鏡にい、僕が小学校に入学してからしばらくの間は、まだ班長じゃなかったじゃん。六年生じゃないもん」
 真琴が苦笑しながらそう指摘する。
 言われてみればその通りだ。ならどうして俺は真琴の世話係みたいなことをやり始めたんだろう? 俺の疑問に真琴が懐古しながら答える。
「小学校に上がった頃の僕は全然元気なかったんだよ。塞ぎ込んでたっていうか、そんな感じでさ。それを気に掛けてくれたのが鏡にい。元気なんて自然に出るもんじゃないけど、とりあえず表面だけでも明るく振る舞ってみたらどうだって。その頃には鏡にいの目だと色が見えないこととか、お母さんが死んじゃってるってことを知ってて、そんな状況でも他の人と普通に登校してる相手が言うならって、無理して明るく振る舞ってみることにした。結局無理矢理元気出してるだけだから暴れてるみたいになっちゃって、それで助言した鏡にいが、仕方ないから面倒見るってなったんだよ」
 そんな示唆を与えたことなんてまったく覚えていなかった。けれど真琴と俺は四つ差だし、だから小学五年生の春頃から知り合いだったということだ。確かに思い起こしてみれば、通学班班長になる前から俺は真琴の面倒を見ていたし、真琴自身も俺には特に遠慮なく悪戯していた気がする。そして記憶の中にある真琴が悪戯を繰り返している姿は、夏頃からのものだ。それ以前は真琴の姿を記憶の中に見つけることすらできない。
「多分、髪型が違ったから思い出せないんじゃないかな。鏡にいは僕がずっと髪の毛短かったと思ってるんじゃない? 実は入学した頃は、他の女の子と同じで髪の毛長かったんだよ」
 髪を伸ばしている真琴の姿なんてさっぱり思い出せない。さらには「そういえば自分のことを僕って言い出したのもかなり後だったかも」なんて言う。
「すまん、全然覚えてない。子供の頃のことだったから、なんて言い訳にならないよな。真琴はもっと小さかったんだし」
「鏡にいにとっては、特に何も意識しないでやったことだったんじゃないかな。それが自然なことっていうかさ、だから覚えてないんだと思う。でもお母さんも亡くしてて、色を見る目まで失ってて、それでも明るく話かけてくれる鏡にいの言葉だったから、僕は信じる気になった。実はさ、髪の毛を短くしたりしたのは同じ男になれば、鏡にいとももっと遊べるんじゃないかって考えたからなんだよ」
 笑顔でそんな告白をした真琴は、けれど次には表情を暗いものにしていた。
「でもそんなことくらいじゃ男になんかなれない。世の中そんな思い通りになんかいかないってことだよね。鏡にいはすぐに小学校卒業しちゃったし、中学に上がっても鏡にいはさらに高校に進んでるしさ。こっちは会えない間に色々考えたし、再会してからも自分の中では変化があったのに、周囲はそれに付いてきてくれるとは限らない。そういうところ、世の中理不尽だし、不条理だらけだって思うよ」
「うん?」
 どうしてそこで理不尽とか、最近真琴の口癖になっている不条理という単語が出てくるのだろう? 唐突に感じられたから思わず首を捻ってしまった。
 それを見た真琴が舌を出して憤慨してみせる。
「鏡にいが鈍感ってことだよ、バーカ!」
 いつもだったらここで脛でも蹴ってくるところだろう。けれど今日の真琴にはそんな気配はなかった。代わりに上空を見上げ「あ」と小さく声を漏らした。急に雨足が強くなったようで、軒先や道路を叩く音が大きくなる。
「帰るの大変になりそうだな。しばらく止みそうにないし、実は俺たちにも急ぎの用事があるんだ。濡れるのは諦めて、とりあえず俺の家まで走ろう。真琴はそこで雨宿りをするなり、傘を借りてすぐに帰宅するなり、自分の好きな方を選んで。少なくともここよりはずっとマシだから」
「……うん」
 半ば消え入りそうな声で真琴は承諾する。制鞄を胸の前に抱え込んで、雨の中に出る覚悟を決める。
「雨は嫌いだ」
 その呟きに、それまで俺たちの会話を黙って聞いていた柊が静かに呼応する。
「雨の日は、嫌なことを思い出すものね」
 真琴は応えない。そしてそのまま雨落ちるアスファルトの上に身を投じた。


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by zattoukoneko | 2013-04-15 23:40 | 小説 | Comments(0)