『世界を凍らす死と共に』2-2-2


 この町は人がとても多いというわけではないけれど、駅近くの道は商店街になっていて繁華な通りとなっているし、休日ともなればそれなりの人出となる。
 ただ顔見知りの相手を見つけるのに苦労するほどではないと思う。にも拘らず向こうから声をかけてもらうまで俺は立花先輩に気付けなかった。
「やっほ。約束の時間より早めに来るなんて偉いね、御薗木君は」
 先輩はいつも腰まで伸ばしている髪をアップにしてまとめ、シャツブラウスにゆったりめのスカート、右肩から斜めに鞄をかけた格好で現れた。どこに行っても恥ずかしくはないくらいにはフォーマルで、しかし普段見慣れている制服よりずっと遊びがある。
 すぐに言葉を返さない俺の顔を見て、先輩は笑みを浮かべながら訊いてきた。
「どうかな、今日の服?」
「正直驚きました。印象が随分変わっていたので」
「ん。一応は及第点。可愛いとか綺麗とか付け加えてくれたらもっと良かったんだけどね」
 言いながら先輩はその場で一回転した。口では『一応は』と言いつつも、その実かなり嬉しかったようだ。浮かれているそんな姿も今まで見たことがない。
 先輩の健康状態は気にかかっていたのだけど特に問題ないようだ。それなら普段あまり外に出ることのない先輩を楽しませたいし、一緒に俺も楽しむことにしよう。
「それで何処に行きましょうか? 希望あります?」
「デートの予定は男の人が決めておくもの――なんて台詞も言ってみたいけど、誘ったのはこっちだし、アタシの身体のことを考えたら遠出も難しいよね」
 少しの間思案する様子を見せた先輩は、最終的に拍子抜けするような答えを導き出した。
「そもそもアタシこの辺りのお店すらまともに入ったことないや。何処に行っても新鮮ってことだね」
 なら本屋とか雑貨屋とかになるだろうか。でもどうせならもっと印象に残るような場所に連れていってあげたいとも思う。
 そう考えてぱっと思いついたところがあった。試しに提案してみる。
「先輩が興味を持つかどうかはわからないんですけど、俺が普段よく行くお店なんてどうでしょうか? 画材屋です」
 俺の案を先輩は快諾してくれた。美術部の人間は頻繁に足を運ぶ場所ではあるのだけど、思った通り先輩はこれまでその店に入ったことがなかったようで、またこの町にあることも知らなかったらしい。
 一般的な文房具を主に扱っている店は駅近くの大通りにあったのだけれど、目的の画材屋は商店街からはやや外れたところに位置していた。客が入ることも少なく、一応看板は出ているもののひっそりとした店構え。入口をくぐると狭い店内に天井まで届く棚がいくつも並んでいた。そのせいで昼間なのに薄暗い。
 中に入って棚に並ぶものを見た先輩は、驚きで目を丸くした。
「これ、全部絵具?」
「そうです。この棚にあるのは油絵具ですね。メーカーによって同じ名前でも色の具合が異なりますし、元々種類も豊富ですから。向こうの棚には水彩絵具やアクリル絵具もありますよ」
 他にも隅の方には筆やパレット、マスキングテープがあるし、客からは見えないが店の主人にお願いすれば、奥からキャンバスを張る木枠や画板も出して来てくれる。ただここは絵具の品揃えに力を入れていて、そこが他の画材屋と大きく異なっているので美術部の御用達となっていた。
 そのことを教えると先輩は一度納得した表情を見せたものの、すぐに一つの疑問に行き当たったようだ。
「あれ、御薗木君もよく来るって言ってたよね? でも絵具がメインって……」
 先輩は途中で言い淀んだけれど内容はわかった。俺は頷いて応える。
「色の判別はできていません。ただ陳列されている商品を眺めたくて時々来るんです」
 棚に並んでいる絵具を眺める。大抵のものにはその商品の色が塗られて示されているのだけど、俺にはその濃淡くらいしかわからない。これまでで書かれている名前は暗記するほどに見つめてきた。でもそれが実際にどのような色をしているのかは未だに知らないままだ。
 この店に最初に入ったのは小学校六年生のとき。まだ美術部になんて入部していない頃だったから、ここの存在も偶然目にするそのときまで知らなかった。
「実は色の区別ができなくなってしばらくの間は治ることはないだろうと諦めていたし、それで構わないと思っていたんです。普段の生活に多少の不便を感じることはあって、たとえば赤信号と青信号は光沢が似ているので区別が難しい。でも周りの人や車の動きに気を配りながら信号を見ればどちらが点灯しているのかわかりますし、歩き慣れているこの町の信号なら経験で覚えてしまっています。だから色を見ることができなくても大きな問題には直面しなかったし、むしろそれを受け入れることで別の可能性に出会えるかもしれないとも考えてました」
 おそらくその考えは間違いではないだろう。色が見えないからこそ俺は美術をやろうと決意したのだし、鉛筆画や木炭画に集中することで高い評価を得られるようになった。けれどこの店に所狭しと並んでいる絵具を目にしたときに、どうしても抑えきれない感情が出てきてしまった。
「これだけたくさんの色が世の中には溢れているのだということを知らされて悔しくなってしまったんです。そしてその豊かさを取り戻したいと強く願うようになった。それは素直な気持ちだったから、俺はそれを尊重することにしました。この店に通っているのはそのときに感じた悔しさを再確認するためと、色を見続けていればそのうちまた見えるようになるのではないかなという淡い期待があるからですね」
 説明を聞いた先輩は納得し、そして頬を緩めた。
「御薗木君にとって大事な場所に連れてきてもらったんだね、アタシは。本人じゃないけどここに初めて来たときの御薗木君の葛藤はわかる気がする。多かれ少なかれ他人との差をどうしても意識してしまうことってあると思うから。何より話を聞かせてもらえて嬉しかった。自分で使うことはないまでも、これだけの種類の色があると知れたのはいい経験になったもん」
 一般的に見てデートとしては相応しい場所ではなかったかもしれない。雑貨屋と呼んだ方がいいと思えるような画材屋もあって、そちらには珍しいクリップや定規などが並んでいるから見ていてもっと楽しかったとも思う。
 それでも先輩に俺自身の話が出来て、なおかつそれに興味を持ってくれたなら、結果としてこちらの店で良かったのではないかと感じた。
 しばらくの間立花先輩も絵具を手に取って色の豊かさを堪能する。でも絵具ばかりでは飽きてしまうだろうし、今度は俺の考えた店ではなく先輩の希望する場所に行ってみたい。そのことを伝えるとちょっと考えてから先輩はこう告げてきた。
「御薗木君は思い出の場所に連れてきてくれたわけだけど、アタシには残念ながらそういう場所はなくて。ただこれから行くようにしたいというお店はある。どこがいいお店かとかは全然知らないんだけどね。だからよかったら案内してくれない?」
 希望として告げられたのは女性物の服とアクセサリーが置いてある店だった。それなら商店街の方に帰ればいくつもあるのを知っている。俺たちは画材屋を後にして駅の方へと戻ることにした。
 女性用の服や装飾品を俺は買うことがないのでどこがいいかなんてわからない。目に付いたところを順に紹介していって、先輩の気にかかったところに行くのがいいだろう。
 入口付近から中の様子を伺うということを繰り返し、数店舗目にして気になる店を見つけたらしい。先輩が入っていったのはブレスレットやネックレスを中心に扱っているところで、洋服もカジュアルなもので占められていた。ただ派手だったりごてごてとした印象のものは少なく、可愛らしい感じのするものが主だった。
 それらは立花先輩に似合うだろうし、もしかしたら嗜好がそちらに寄っているのかもしれない。けれどこれまでの先輩のイメージとはまだ少し離れていて、俺は正直にその感想を伝えた。
「やっぱりそう思うよね。実はアタシもなんだ。でもこれも身体の調子を治していく一環だと思ってるの。病弱だからってアタシは色々諦めている気がする。病は気からって、そんなに病気は単純なものじゃないけど、でも気が滅入っていては元気になれないのも事実」
 そこまで口にして先輩はふと何かを考え出した。ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「画材屋さんで御薗木君は直接色に相対することで色覚を取り戻そうとしてるって話をしてくれたよね。随分前だけど、美術部に所属してるのも同じようなことが理由だって聞いた記憶がある。御薗木君は自分の抱えている問題に、直接ぶつかっていこうとしてるんだ。それはアタシのやり方とは違う……」
 確かに先輩と俺は自身の抱えている問題への取り組み方が違う。俺は色が見えないからこそ色の溢れている世界に身を置き続けることにした。立花先輩は病気を改善するために身体を動かすことにし、そして気持ちも切り替えようとしている。問題が違うからというのも一つの理由だと思うのだけれど、俺は内側の方を向いていて、先輩は外の方に目を向けている。
 と、先輩が目をきょろきょろと動かし、何事かを考えているのに気付いた。しばらく様子を窺っているとお互いの目線がばっちりと合い、それがきっかけとなったのか意を決したように先輩はこちらに向き直った。
「その、今日はこんなこと言うつもりなかったんだけど……」
 一度断りを入れてから、先輩は胸に手を当て深呼吸する。心を落ち着かせるとその言葉を口にした。
「御薗木君のこと、アタシ好きです」
「……え?」
 戸惑いの声を上げてしまった俺に「驚いても仕方ないよね、突然のことだし」と言いながらも、先輩の告白はさらに続いた。
「昨年の秋に行き倒れているのを御薗木君に助けてもらったじゃない? 実はあのときのアタシは自暴自棄になっていたの。具合が悪い日が続いてて、いっそこのまま死んでも構わないやって思って外に出た。案の定途中で意識を失って、でも次に目を覚ましたら病院の一室で御薗木君がアタシのことを心配してくれてた。直前に自分の殻に閉じこもっていたからかな? そのときから御薗木君のことが気になり始めたの。それまでもアタシのことを気にかけてくれる人は当然いたけど、ずっと面倒を看てくれてるのはお父さんとか身内の人だけだったから」
 それから立花先輩は俺と出会ったその日のことを訊いてきた。
「行き倒れてたアタシの格好って、覚えてる?」
「いえ、あまり。薄手のセーターを着ていたような記憶はありますけど、何せ事態が事態だったんで」
「それもそうだね。覚えてなくても仕方ない。あのときのアタシは地味なセーターと長いスカートだったの。服なんてほとんど持ってなかったし、気にも掛けてなかったから。でも御薗木君に助けてもらってから自分でも可愛いと思う服を探すようになった。お店に買いに行くのは難しいから、通販での取り寄せばかりだったけどね。今日着てるのもその中からの組み合わせ。そして御薗木君は『印象が違う』と口にしてくれて、それがとても嬉しかった。アタシが変わろうとしたきっかけになったその人からそう言ってもらえたんだもん」
 とても嬉しそうにそのことを語る先輩は、その後に少し表情を真剣なものにした。
「それでね? さっき好きだって告白しておきながらこんなことお願いするのもどうかと思うんだけど、御薗木君にはまだ答えを出さないでいて欲しいの」
 立花先輩はそうして一つの決意を口にした。
「アタシは変わる。身体ももっと丈夫にするし、可愛くもなる。まだ御薗木君は他のものを見てる気がするんだ。絵のこととかね? 少なくともアタシだけを見てるわけじゃない。でもいつかはアタシのことが気になって気になって仕方ないってくらいにしてみせるの」
 それは宣戦布告のようなものだった。先輩は俺のことを見つめていきながら、その過程で自分を強くするつもりだと述べた。それによって俺を振り向かせてみせるのだと。
 俺はその言葉を受けてどう変わるべきなのだろう。少なからず立花先輩のことは気にかかってしまうと思う。けれどその程度の変化でいいのだろうか。本当は告白してくれた先輩にもっと向き合うべきなのかもしれないけれど、そのやり方がわからない。
 先輩はその心中を敏感に察知したのかもしれない。苦笑を顔に浮かべた。
「こんな話しちゃったらデート続けるの難しいね。今日はありがと。体調もいいみたいだし、気持ちを落ち着かせながら一人でゆっくり帰ることにするよ」
 そうして「バイバイ」と手を振って別れを告げた。
 先輩を見送ってから、俺も心の整理をしようと思った。ただ人の多い駅前だとどうしても気が散ってしまう。自然と足は町外れの方に向かっていた。


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by zattoukoneko | 2013-04-12 23:08 | 小説 | Comments(0)