『世界を凍らす死と共に』1-2-1


   二.


 公園から離れてほんの少し。曲がり角を右に折れると同時、後ろから声をかけられた。
「お、御薗木君だ。おっはよー」
 振り向くと腰まで届く長い髪の女子生徒が、手を大きく振りながら早足で近寄ってくるところだった。俺には残念ながら色の濃淡くらいしか見えないが、話に聞いている通りなら、こちらと同じ茜色のブレザーに金色の校章を襟に留めているはずだ。校章は学年順に上から金銀銅となっていて、だから二年生の俺が付けているのは銀色のものになる。
「おはようございます、立花(たちばな)先輩。待っているのは見えたでしょうし、そんなに急ぐ必要なんてなかったのに」
 立花瑠美(るみ)という名の先輩と知り合ったのは昨年の秋のことだった。青葉さんが俺の母さんになる前のことで、ただ紹介だけはされていてまだ戸惑いを覚えていた。俺は『父さんが再婚を望むなら』と自分なりに整理しながら散歩をしていて、その途中一人だけでいる彼女に出会ったのだ。
 立花先輩は少し息を切らしながらそばにやってきた。それから心配してかけた俺の言葉をぱたぱたと振る手で軽く払う。
「このくらいならなんてことないって。むしろ運動不足が原因じゃないかってアタシは推測してるくらいなんだから」
「今日は徒歩での通学してるのもそれが理由ですか?」
「そう。車で送迎されるのに慣れちゃってたから、思い切るのも、お父さんを説得するのも苦労したけどね」
「でも長時間歩くのは難しいから車での送迎になったはずで……」
「いやまあそれはそうなんだけどね。大丈夫だって。無理はしないとの条件付きで許してもらったし、出掛ける前に調子が悪かったら素直に送ってもらうことにするから」
 立花先輩は口調こそ快活なものの、生まれつき体が弱く、体力もつかないのだそうだ。原因は未だにわからないらしい。言葉を交わしつつも、その身から滲み出る儚さを感じざるを得ない。
 先輩は一通り俺と話し終えると、隣にいる真琴へと視線を向けた。
「はじめまして、だよね? アタシは立花瑠美っていいます。御薗木君と同じ高校に通う三年生」
 話しかけられた真琴は視線を脇に逸らしながら小さな声で返した。
「……ども。許斐真琴です」
「あれれ、アタシあまり印象良くない? まあ二人がらぶらぶしているところに割って入ったらそうなるのも当然だけどさ」
「何言ってるんですか、先輩は……」
 俺は一つ溜め息を吐くと、改めて真琴のことを紹介した。
「小学校の頃からの知り合いで、許斐真琴っていいます。中学一年生で、途中まで道が同じだから毎朝一緒に登校してるんですよ。若干人見知りするので、ぶっきらぼうな挨拶には気を悪くしないでやってください」
 その紹介の仕方に不機嫌そうに唇をアヒルにする真琴。それを見た立花先輩が笑みを浮かべる。
「仲良しさんなんだね、二人は」
 今の真琴のどこを見てそう思ったのだろうか。いまいち俺にはわからない。もちろん仲が悪いわけではないけれど。
 いずれにせよ話を続ける俺と立花先輩に対し、真琴はだんまりを決め込んでしまった。少し気にかけていたようだったけれど、仕方なしに先輩は俺とだけ会話を続けることにしたようだ。学校への道を歩き出しながら話しかけてくる。
「昨日は部活の様子見せてくれてありがとう。前々から興味あったんだけど、覗かせて欲しいって頼む友人もいなくてこれまで機会がなかったんだ。だから本当に感謝してる」
 先輩は体が弱いために部活動は一切行なっていない。運動部の類はもちろんのこと、文化系の活動も自粛しているのだそうだ。
「御薗木君の絵はとても綺麗だったね。これは……言っても仕方ないことなんだけどさ、彩色がなされていないことをとても残念に思ったよ」
「色が見えていないですからね。それでも光の明暗くらいはわかるし、むしろ他の人よりそこに機敏になっている気がする。ならそこを上手く表現できれば、自分の欠点も武器に変えられるんじゃないかと鉛筆画や木炭画に挑戦するようになったんですよ。でもそう言ってくれて嬉しいです。色が付いたらどうなるのか興味を惹かれたってことだと思いますし、特に木炭を使うのは初めてだったんで、周囲からの評価は気になってたんです。面倒を見てくれている柊は褒めてくれるような性格じゃないし」
「柊紗樹さんか。彼女の絵も見せてもらったけど、荒々しくて力強い色使いが印象的だった」
 柊は油彩で今度のコンクールに出展する予定だ。水彩画も鉛筆画も、はてはアクリル絵具での絵も誰よりも上手いが、その中でも油彩画が最も素晴らしかった。実際時間をかけられて絵具を重ねられていく柊の絵は、日増しに重量感が大きくなっている気がする。だから立花先輩の語るその絵の色が見れないことを、俺は心底残念に思った。
「荒々しいっていうのはよくわかるかも。柊は気性の激しいところがありますからね」
 俺の言葉に立花先輩はその目を大きく見開いた。そして唐突な質問をしてくる。
「もしかして二人って付きあってたりするの?」
「え、なんでそうなるんですか?」
「だって気性が激しいとか、そんなことアタシには微塵もわからなかったし、さっきも面倒見てくれているとか言ってたから親しい間柄なのかなって」
「違いますよ。コンクールが近いんで指導してもらってるんです。学年も一緒だから部活に出る時間帯もほとんど同じですし、それにやっぱり技術力はすごいと思ったんでこちらからお願いしたという流れ」
 俺の説明に先輩は胸を撫で下ろす仕草を見せた。少し大袈裟に振る舞いながら、安堵の溜め息を吐く。
「驚いたー。御薗木君って女子にあまり興味なさそうだし、実際そういう噂も気配もとんとないから気を抜いてたよ」
 酷い言われようだが、事実その通りであるので反論もできない。まあ毎日登校を一緒にしている真琴も女子ではあるのだけれど、四つも離れているとそういう対象ではない。
 ほっとした様子を見せた立花先輩は、けれどすぐに表情を難しいものにした。
「でもコンクールの作業をずっと手伝っていて、時間帯も合うからってことは二人きりになることも多いんだよね。そういう状況が続くとやっぱり――」
 そこまで口にしたとき。
 急に立花先輩が体をくの字に折った。そして呼吸が大きく乱れる。
「先輩!」
 俺が慌てて顔を覗き込むと、苦悶の色を浮かべながらも先輩は笑顔を向けてきた。
「だ、いじょうぶ。それより、鞄の中から薬の入った袋と、お水、取ってくれない?」
 先輩の鞄は持ち主の手を離れ、足元に転がっていた。事態が事態なので構わず開ける。脇の方にあったペットボトルと薬が入っていると思しき白い紙袋を取り出し、先輩に手渡した。
 紙袋の中から錠剤を一つ取りだすと、先輩はそれを口に含んで少量の水で喉の奥に流し込んだ。それを見届けてから俺は声をかける。
「大丈夫ですか? 立っているのもつらいでしょうし、どこか座れるところへ」
「あはは、ごめんねー。急に心臓の発作が出ちゃったみたいで。まだちょっと動くのは難しいかな。申し訳ないんだけど、移動するの手伝ってもらっていい?」
 俺は頷くと先輩の肩に手を回した。真琴に俺と先輩の鞄を持ってくるように言いつけると、ゆっくりと足を運ぶ先輩の補助に専念した。
 近くにベンチなど都合のいいものはなく、仕方なしにマンションの前にあった花壇の縁に先輩を座らせる。その頃には容体も大分落ち着いていたようだった。
「うーん、油断してたかなぁ。心臓が締め付けられるような痛みを覚えるのってそんなに頻繁にあることじゃないから。さっき飲んだ薬も心臓の薬というわけじゃなくてね、精神安定剤なの。発作の原因がわからないし、今のところ効果があるのはこの薬しかないから」
「無理はしないでください。俺と出会うきっかけになったのも先輩が道の真ん中で倒れてたことなんですから」
「あの時は本当にごめんね。それにありがとう。人通りの少ないところだったし、御薗木君に助けてもらえてなかったら今頃アタシはこの世にいなかったかもね」
「物騒なことを言わないでくださいよ。でもとりあえず今回はあのときみたいに意識を失ったりしなくて良かった。俺だけじゃどうしようもないですし」
 去年の秋に父さんと新しい母さんのことを整理しながら散歩をしている途中、町外れにある森の近くの道で一人の女子が倒れているのを発見した。それが立花先輩だった。走り寄ったときにはすでに意識はなく、呼吸もしているのかしていないのかわからない程度に弱っていた。急いで救急車を呼び、電話で指示される通りに介抱。その後到着した救急車に、同行してくれる人がいないからと俺が一緒に乗ったのだ。病院に着いてしばらくしたらある程度状態も安定した。目を覚ました先輩と、連絡を受けた親御さんが慌てて病室に来るまで、ベッド脇から言葉を交わした。
「でも原因不明だしね。心臓だけじゃなく喘息の発作も出るし、ひどい頭痛が出ることも骨が軋みを上げることもある。物騒な言い方に聞こえるかもしれないけど、アタシはいつ死んでもいいと覚悟しながら毎日生きてるからさ」
 運動不足が原因ではないかという推測を先輩が立てるなら、俺はその諦観が原因だと推論することにしたい。もちろん根拠はないし、むしろ病気の原因というよりも、病から派生した気持ちの問題を解決して欲しいという想いに近いものではあったけれど。
 俺が上手い言葉が見つけられずに黙っていると、それまで黙っていた真琴が急に口を開いた。
「そうやって苦しみながら生きてるのってイヤじゃない?」
 率直な物言いに先輩も少し驚いた様子ではあった。けれどすぐに普段の表情に戻って返事をする。
「正直に言えばイヤだよね。ただこれがアタシの生まれた境遇で、仕方のないものだと思うようにはしてるんだ。恨み事ばかり言っていても何も始まらないし」
 しかし先輩はそこまで話してから急に顔に影を落とした。
「でも……世界が変わればいいのにとも思っちゃうよ」
 先輩の苦しみを俺は知らない。他の人と違う体だという点で、色が見えないということからある程度類推は出来るだろうけど、それは推察の域を出ない。ただ俺も色が見えたらいいのにと何度も乞い願っているし、体に痛みや苦しみの出る先輩は尚更なのかもしれないとは思った。
 どこから飛んできたのか知らないが、クマゼミが弱々しい鳴き声を俺たちの上空で奏でた。そして真琴がぽつりと一言だけの返事を返す。
「そう」
 猛々しい夏の暑さはまだ続いており、しかし着実に終わりに近づいている。そんな気配が周囲に立ちこめていた。


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by zattoukoneko | 2013-04-07 07:10 | 小説 | Comments(0)