『世界を凍らす死と共に』1-1-1


   一章


   一.


 ブレザー型の制服に身を包み、ネクタイを結びながらリビングに降りてくる。そんな俺をコーヒーのいい香りが出迎えてくれた。コーヒーメーカーを使用した人物の姿は室内になかった。けれどすでに朝食がテーブルに並べてあるし、すぐに戻ってくるのだろう。そう判断すると、椅子に座って終わりゆく夏の日差しを浴びる。
 目の前ではブールタイプのフランスパンとベーコンを付けた目玉焼き、それと足がきちんと開いていないタコさんウインナーが出番を待っている。料理としては簡単な部類に入るものだが、これだけ準備が出来るようになるまではそれなりに険しい道のりだった。父さんが他界したときは正直どうなることかと思ったし、昔のように俺が家事を担当するとも申し出た。それでもこれからは自分がやることにしたいと母さんが強く要望したから任せることに決めたのだ。
 二ヶ月も経てば非日常も日常になるものだ。そんなことを考えながら、未だ去らない眠気を何とかしようと伸びをする。ちょうどそのときリビングのドアが開いた。
「ごめん、待たせちゃってー。ご飯作ってるときに頭の上に卵落としちゃったからシャワー浴びてきたの」
 どうやったら卵を頭の上に落とせるのか甚だ疑問ではあったのだけれど、それよりもまずは母さんの格好に困惑の声を上げざるを得なかった。
「毎回言ってるけど、タオルを巻いただけの格好でうろつかれるのは……」
「うーん、確かに言われているんだけどさ? 私はそこまで気にすることかなって思うんだよね。だってお母さんなわけだし」
 言いながら母さんは俺の目の前までやってくる。そして前屈みになり、椅子に座っている俺と目の高さを合わながら訊いてきた。まだ湿り気を帯びた、緩くウェーブする髪。それが体の前に垂れて、鎖骨の辺りでちらちら揺れる。
「それとも本当のお母さんじゃなくて、元は赤の他人だからやっぱり気になったりしちゃうのかな?」
 つぶらな瞳に似合わない悪戯な笑み、そしてタオルの隙間からのぞく水を弾く双房が母の若さを否応なしに伝えてくる。母さんは御薗(みその)木(ぎ)青葉(あおば)という名前で、今は亡き父さんが二人目の妻として迎えた女性だ。姓は結婚したときに変わっていた。そして俺より年下だったりする。
 からかってくる母さんに俺はきっぱり答える。
「最初はさすがに戸惑ったけどね。でも母さんは母さんだと思ってるからそういうのはないよ。ただ年頃の若い女の人なのは事実だし、注意した方がいいとは感じてる」
 それを聞いて憮然とした表情になる母さん。
「釈然としなーい。若くて年頃の女性と見てるなら、気になって自然だと思うんだけど」
「また無茶なことを。仮にそれだけで反応してたら、俺が見境ない人ということになるじゃないか」
「鏡夜(きょうや)くんはそうやってすぐに理屈で説得しようとするからなぁ……」
 このまま続けていたらキリがない。膨れっ面になる母さんに話はこれでおしまいと告げ、服を着てくるようにリビングから送りだした。そして今度はきちんと服を着た母さんが戻ってくると、ようやく二人揃っての朝食となった。
 母さんは自分でつくった目玉焼きの中央部分に箸を刺し、溢れ出る黄身に「半熟に出来たー」と喜ぶ。その様子を見ながら、今日は学校の帰りが遅くなることを思い出して告げる。
「コンクールが近いからね。その追い込み作業してくる」
「うん、わかった。出展する作品は今回も鉛筆画なの?」
「鉛筆画じゃなくて木炭画。彩色していないところは同じだけれど」
 デッサンでは昔から柔らかい鉛筆や炭が使用されてきた。硬い鉛筆より濃淡が出しやすいからだ。さらに木炭は後から消しゴムをかけることでぼかすことが容易で、光による明暗も豊かに表現できる。そうした理由から最近ではデッサンに留まらず、完成された作品として受け入れられつつある。
 けれどしょぼくれた様子で母さんがつぶやいた。
「正直な感想を言うと、私は鏡夜くんの絵には色があった方が素敵だと思うんだけどな……」
 確かにコンクールで広く募集されているのは色彩画だし、そちらの方が受賞枠も広い。賞を狙ったり今後も絵画を続けようと思うなら、木炭画に偏らずに色彩画に挑戦した方がいいのは確かだろう。
「でも俺の場合、彩色するのは無理だからね」
「うん。それはわかってるんだけどね」
 俺には色が見えない。判別できるのは濃淡だけで、今はほとんど使われなくなった言葉ではあるけれど、色盲と言った方が状態は伝わりやすいかもしれない。視力の方は正常なのだが、一切の色の識別が出来ないのだ。
 それは先天的なものではなかった。小学校の中学年くらいまでは色が見えていた。しかしあるときを境に急に世界から色が消えた。
「前のお母さんが亡くなられたときだっけ?」
「それから少し経ってからだね。まだ幼かったし、ショックが大きかったのが原因だろうと思う」
 美術部に所属し、そして彫刻などではなく絵画をやり続けているのは、まだ色彩というものに対して未練があるからだ。俺はそれを取り戻すことを願っているし、ならば色が近くにある状況に自身の身を置き続けるのがよいだろうと感じていた。
「話を聞いていると他の『色』もあるみたいだけど?」
「……そっちの色についてはまだ当分の間は関心持たなくていいかなと思ってるんだけどね」
 にやにや笑いで茶化してくる母さんに溜め息混じりに答える。
 元々美術部は女子の比率が高い。うちの高校に限らず他校も事情はさほど変わらないと思う。男子は昔から人気のバスケットボールや野球、サッカーなどに流れやすい。俺のような事情があるのは稀だとしても、前から美術をやっていて得意だったりしないと入ってくることはないようだ。
 母さんが言っているのは柊紗樹(ひいらぎさき)という同級生のことだった。夏休み前の引き継ぎで部長となり、今回のコンクールでも注目株として名前が挙がっている。一緒に作品を仕上げながら、俺が応募しようとしている絵にアドバイスをくれていた。ただ母さんは柊に実際に会ったこともないし、そういう人がいるとしか伝えていない。
「けど私なんて鏡夜くんより一つ年下だけどお母さんになってるんだよ? 鏡夜くんだって年頃の男の子なんだし、薄暗くなった人気のない部室で押し倒しちゃったりとか――」
「ないよ、絶対に」
 あまりに繰り返されるので、母さんは色ボケしているのではないかとすら思ってしまう。俺は中言して否定する。それから柊の性格を知らないからそんなことが言えるんだと嘆息した。もちろん他の女子相手にだって俺はそんなことしない。そもそもそういう目で他人を見るって失礼なことじゃないだろうか?
「うーん、一般的にどうこうじゃなくて。鏡夜くんの抱えている問題の一つって気がしてるんだけどなぁ……」
 恋愛事に関心がないのが『問題』と言われるほどのことだろうか? 母さんの真意が俺には量りかねた。俺も押し黙ってしまい、ちょっとした沈黙がリビングに下りる。ちょうどそのときインターフォンが鳴った。
「あ、もうそんな時間か」
 壁に掛かっている時計を見て食器を片付ける余裕はなさそうだと判断する。母さんにそれを謝ると、俺は通学鞄を手にして椅子から立ち上がった。


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by zattoukoneko | 2013-04-07 07:08 | 小説 | Comments(0)