「若いうちに勉強しろ」は正しい?

よく耳にする言葉の一つではないかと思うのですが、「若いうちに勉強しておけ」というものがあると思います。若いときにこれ言われるとイラっとすることも多々ありますが、二十歳過ぎた頃からこれを節目節目に『ああ、あのとき勉強しておけば……』と思うことも増えてくるのも事実。
ただ今回は果たしてこの言葉は正しいのかどうかということを検証してみようかと。まあ厳密な検証ではなく、いくつかのお話を混ぜつつどう捉えるのが最も良いのかという考えを述べる程度です。ただし先の“言われるとイラっとすることも~”はちょっと気になるところではあり、ただの反感と片付けてしまってよいのかどうか考えた方がいいのかもしれません。これに対し何らかの回答を与えられるのではないかと期待しつつ、本論に移ろうと思います。



よく年をとると語学や暗記物が難しくなると言います。これは脳の仕組みから見てもその通りのようで、20歳頃から記憶力は低下し始め、逆に思考力が向上するとされています。大体30歳でグラフにすると逆転するのだとか。……どうやって「記憶力」と「思考力」を数値化してグラフにするのかはあまり気にしてはいけませんよ?
また思考力の面でも早め早めに鍛えておくべきだという主張はあります。時々問題となるリテラシー能力ですが、小中の義務教育をきちんとマスターしていれば日常の生活で困ることはないように学習要領が組まれています。ですがそれは“教科書を丸暗記しており、内容を自由自在に使いこなせる”だったり。それ以前に小学校の教科書に何が書いてあったか覚えている人って少ないですよね。ちなみに私はきちんと覚えていますが落書きが描いてありました(違
リテラシー能力は日常生活でも重要であり、そのため成人する前に身につけておくことは確かに重要です。でも「若いうちに勉強しておけ」はこれのことだけを指しているわけではない気がします。もっと勉学の内容という印象ですよね。
勉学としてだと似たような言葉としてこんなものがあります。「哲学をやる者の素養は中学までに決まる」というもの。哲学者として大成するには中学の時点で哲学の本はほぼすべて読んでおけとのことです。また可能ならば独語・仏語なども自分で勉強し、原著にあたっておくようにと。これは思考力を鍛えるのもそうですし、哲学者として基本的な考え方を身につけるのも語学に近く、早いうちでないと難しくなるという理由からです。またぶっちゃけますと哲学(に限らず研究者全般ですが)の大御所って高校くらいの頃にはそのくらい当り前のようにやっている人たちなのですよね。昔の偉人が高校や高等小学校で読んでいた本を調べてみると『……え゛』となりますから。――と、ここまで考えてみましたがこれは研究者から研究者志望の若者に言うのならわかりますが、一般に言われるのとは違う気がしますね。
その他にも生後間もなくは脳の神経がたくさんあるが、その後不必要なものはなくなっていきます。なのでこのときに音楽に触れていると絶対音感が身に付いたり(音に関する神経がなくならないので)、あるいは日本人が英語などの聞き取りを苦手とするのは母音を聴きとる神経が消えてしまうからという理由があります。なおこれらの神経はある程度修復する――というか他の神経が代替してくれる――ので語学聞き取りまでは頑張れば何とかなるようです。絶対音感は無理ですけど。まあこれも時期が早すぎるので今回話題にしている言葉は関係なさそうですね。


ここでちょっと視点を変えてみます。若いうちに勉強を薦められるのは学習能力面もありはしますが、時間の面からも言われている気がします。つまり「社会に出たら時間がなくなるから暇のある学生の頃に勉強しておけよ」と読み取ることができるということ。ではこの時間面でこの言葉が正しいのかどうか考えてみるとしましょう。
確かに社会人になると仕事に追われて趣味の時間も減りますし、新しく語学などをやろうとしてもまとまった時間は取れなくなります。これは大学の専門をやり始めた頃から学科によっては出てくる悩みで、専門をやるための基礎を復習し直そうとしても実験やレポート提出などに追われてやれないなんてことがあったり。ですからその意味では時間が足りなくなるから~というのは確からしく思えます。
ですが私はここに最初に述べた『イラっと』の理由があると思います。若いうちにはそういう事情が(頭ではわかっていたとしても実体験では)わかっていないということはあるのですが、『イラっと』というのは言葉にすると「こっちだって忙しいんだけど!」になるのではないかなと。
つまり若い頃にだってやることはたくさんあります。学校の宿題だって子供には大変だし、習い事させられたり、塾に通わされたり。学期や年度の切り替えもあってそれに合わせて子供たちだって動きます。また大人から見れば、そして後に大きくなった自分から見たら他愛のないことでもその当時は大事にしているのではないでしょうか? 友人と遊ぶことや、趣味に没頭すること。それらは勉学の面から見たら確かに役に立たないことかもしれませんが、社会を生きていく上で大事なことだと思います。子供のときに他人ときちんと接していない人は大人になっても他人に優しくすることができないし、遊ぶことを目一杯していない人は同じように遊ぶことにも難しさを感じたりする。
もっと具体的な話に発展させますが、実は最近の大人の多くがこれで躓いていたりするのです。仕事なり勉強なりをやることに集中するものの、それをやめて遊ぶことが出来ない、他人と他愛のない話をすることができない、そうして結果として仕事の能率が落ちていくというのです。これは心理療法士も現代の大きな問題であると捉えていて、いかにメリハリを付けた生活をさせるかを指導しているそうです。その際にやはり昔からやっていた趣味は大事になってくる。
このように考えると時間の面から言われる「若いうちに勉強しておけ」は少し的外れという気がします。でもぎりぎり的枠に当たってるから『イラっと』なのではないでしょうか? 今後の大人になってから役に立つかはわからないのだけれど、自分は大事なことだと思ってやっている。だから暇しているように見えて実は時間はないんだよ、と。



さてはて。ここまで考えたところで対偶を取ってみることにします。明確に真か偽か決めることは出来ていないので難しくはありますが、今回は「時間が余っている若いうちに勉強しろ」は偽であるということにしておきます。
命題はもう少し仮定と結論を見やすく言葉を整えると「君が若いのならば、時間が余っているはずである。ならば勉強をすべきである」となります。「、」のところで仮定と結論が分かれている形。「。」以降は結論に他の要因を使いながら新たに導いた結論。ですから対偶は「勉強をするべきだと考えたときを想定する。そのときに時間が余っていないなら、君は若くはない」となります。命題は偽でしたからこの対偶も同じく偽となります。
耳慣れない言い回しだったので普段の言葉に言い換えましょう。「『勉強をしたいな、しておくべきだったなと考えたときに、それを時間のせいにしているのは自分がすでに大人だからだ』と言い訳して逃げているだけだ」となります。『』の部分が対偶で、その後にわかりやすいように偽である否定の言葉を付けました。
結局「若いうちに勉強しておけ」を言う人って、自分が勉強したりないのを感じていて、でもそれを挽回しようとはせずに子供に言っていたりする。だからそれを無意識にでも見抜いている子供は『イラっと』するのではないでしょうか。大人が「確かに昔よりは時間が少なくなる。でもやれることはやっている。これはとても大変なことであって、だから若いうちにもっと勉強することを薦める」なら言われた方も納得するし、むしろ態度でそれを示している大人ならそれを見ているだけで周囲は付いていきそうなものです。
また大人になって時間が足りないと嘆いているなら、先程の対偶の通りにそれは誤りです。大人であっても時間はあって、勉強はできる。確かに若い頃より時間も割きにくくはなっているかもしれないし、能力も落ちているかもしれない。でも何事もやり始めるのに年齢のせいで無理というのはないはずです(中には仕事にしたり免許を取るにはには年齢制限が制度として定められているものもありますけれど、『学ぶ』だけであれば年齢はそこまで気にしなくてよいはず)。だから本当にやりたいことややるべきことを見つけたならば、年齢など気にせずやった方がよいでしょう。またそのくらいの気概がないと(若いころと同じく)中途半端に終わってしまう気がします。



まあそんなことは言いつつ、子供だろうが大人だろうが時間がないのは確かで。そこは真かなーと。なかなか厳しい時間のやり繰りを迫られている気がします。
ということで誰か私の一日を50時間くらいに延ばしてください(ぇ
by zattoukoneko | 2012-03-03 17:50 | 雑記 | Comments(0)