【ショートショート】『鏡像異性体』

 星のない都会の夜の下、月よりも明るい蛍光灯に照らされながら彼女は言った。
「こうやって手を繋ぐことはできるのにね」
 彼女は、寒さをしのぐために僕が手を入れていた右ポケットへと自身の手を潜り込ませてきた。冷たくなった指が絡まってくる。僕がそれを受け入れると、彼女は「温めてね」と微笑した。その仕草と表情が堪らなく愛おしい。
 彼女はさらに肩を寄せ、体を密着させながら、しかし寂しげな響きの言葉を紡ぐ。
「わたしたちはL体とD体みたいなものだから、だから体を結び付けることはできてもまったく同じものとして重なることはできない」
「L体とD体?」
「うん。わたしたちはお互いに向き合って右手と左手を重ねることはできるけど、でも右手と右手は重ねられない。同じ方向を向いてればできないこともないけど、やりにくいよね」
 彼女の話は抽象的で、何より僕の知識不足のせいで何を言っているのかきちんと理解することができなかった。頭を悩ませているうちに気付くと彼女の家の近くまでやってきてしまっていた。
 左手を小さく上げて「バイバイ」と言ってくる彼女に、僕はいつも通りに手を振り返しながら見送った。その姿が家の中に消えてから、ふと彼女は右利きだったことを思い出す。もしかしたら彼女はずっと僕に合わせて左手で接してきてくれていたのではないか。いや、おそらくはその通りなのだろう。別に手を振るのなんか利き手じゃなくたって構わない。でも先程の彼女の言葉が関係しているような気もして、だから僕は妙に引っかかってしまった。
 帰る途中で僕は深夜まで開いているスーパー内の本屋に立ち寄った。彼女の言っていたL体とかD体という言葉をそもそも知らなかったので、国語辞書を引っ張り出して調べる。けれど記載はなかった。仕方なしに携帯からネット検索してみると「鏡像異性体」という用語が出てきて、どうやら化学で使われているものらしいとわかった。今度は化学の参考書の棚の前に行き、どうせならと一番分厚いやつを手にして索引から記載のあるページを探りだす。読んでみて、細かいところまではわからなかったけれど、普段は重ならないが鏡に映すと重なる構造を持っている物質のことを鏡像異性体と呼ぶらしい。その説明のところに手のイラストが描いてあって、別の呼び方では対掌体というとの文字を見つけて納得した。僕と彼女が手を重ねるときは右手と左手だ。だから彼女はそのことを『L体とD体』と表現したのだろう。
 お互いとても似ているのに実は別のものと思うとちょっと寂しくなった。彼女もこんな気持ちだったのだろうか?
 僕は参考書を本棚に戻すと自分の右手と左手を重ねてしばしの間物思いに耽った。


 彼女は何気なく鏡像異性体の話を出したのだと思う。でもだからこそ普段から考えていることなのだろうなと感じられた。
 あれからずっと考え続けていたからだろうか。次のデートの日、駅前の広場で出会った彼女に僕はいつも通りの笑顔を向けることができなかった。
「寝不足……かな?」
 そんなふうに彼女はこちらの顔を上目遣いに見て訊いてくる。僕は何とか笑いながらそうだと頷いて答えたけれど、その後黙ってしまった彼女に、誤魔化し切れていないのだろうなと思った。
 デートをするといっても特別どこかに出掛けるわけではない。付き合い始めて間もない頃は色々な場所に行きはしたものの、若い僕たちは毎回遠出をするほどのお金を持っていなかったし、何より二人で様々なお店を回るだけでも十分に楽しいと思い始めたのだ。その日も彼女の好きな本屋や雑貨屋、僕の好きなCDショップなんかを適当にぶらつく予定だった。
 歩き出すタイミングをどちらともなく見計らって、僕たちはいつも通りに手を繋いだ。
「……」
 いつもと同じはずなのに、でも何だかその手はぎこちなく結ばれたように感じられた。
 その後いつも通っている彼女の好きな雑貨屋へ行った。店主を含め数人のデザイナーが手作りしている小物が陳列されている。手作りだから一つ一つの商品で色や柄が不揃いで、その中から自分好みの品を探し出すのが二人の共通の楽しみだった。
 でもその日僕はそれを楽しむことができなかった。一組のスプーンとフォークを見つけ、そこに描かれているウサギが微妙に異なっていることが気になって仕方なかった。
 この前彼女が言っていた鏡像異性体が頭を離れなかった。そんなこと気に病んでも仕方のないことだとはわかっている。世間一般のすべての人たちはL体とD体の関係にあって、それでもみんな幸せそうに生きている。それは自然なことで、それに心を痛めても現実は変わらないのだから。
 けれど一度巣食った心の病はなかなか消えてはくれず、次に訪れた本屋で僕は上の空だった。隣にいる彼女が「どうしたの?」と心配そうに声をかけてくれたとき、たまたま焦点を結んだ先に箱根を取り扱った旅行雑誌が置いてあった。僕は咄嗟にそれを手にし、彼女に向かって提案した。
「ねえ、今度旅行でも行かない?」
「え、旅行? 箱根は新宿からロマンスカーも出てるし、行きやすいけど、でもどうして急に?」
「少し前から二人で旅行したいなとは思ってたんだ。でも遠くまで行くとなると何泊もしなくちゃいけないし、どこか近場に日帰りで行けるところはないかなって探してたところだったんだよ」
 旅行のことを考えていたなんていうのは嘘だ。ただ今日会ってからのこのたった数時間ですでに僕は息苦しさを感じていた。これを取り払うには今までのデートとは違ったことをしないといけないのかもしれない。すでに行った水族館や動物園とは違い、自然の景色を二人で眺め歩くなんていうのはどうだろうかと思う。
 彼女はしばし逡巡した後、僕の申し出を受け入れてくれた。
「わたしも行ってみたいな。上手くお母さんに交渉すれば一泊くらいできちゃうかも」
 最後にそんなことを言いながら、彼女は僕をどきりとさせた。


 箱根への旅行は次の週末に決まった。ガイドブックも購入したけれど、具体的にどこに行こうということは決めなかった。いつものデートみたいに思いつくままぶらぶらと、ただ人工のものではなく自然を眺めて歩くのが僕たち二人の性には合っているんじゃないかと感じたからだ。
 当日ロマンスカーを利用して僕たちは箱根湯本に降り立った。温泉街として街並みは綺麗に整備されていると感じた。近くにはいくつかの歴史的な名所もあるとのことだったけれど、僕たちはそういうものよりはほとんど人の手の付いていない場所へ足を運ぶことにした。
 僕たちが目指したのは鞍掛山だ。登り始めて最初の頃は天気も良く、街の様子や箱根山を一緒に形成する山々を一望することができた。けれど僕たちは知らなかったのだが、どうやら霧が発生しやすい地形だったらしい。登頂し終わるよりもずっと早くに周囲を濃い白に包まれてしまった。
「……寒い」
 隣を歩く彼女がそうつぶやく頃には、僕たちはすっかり道に迷ってしまっていた。
 僕は彼女の肩を抱きながら、安心させようと声をかける。
「歩いている道はしっかりしてるし、人が頻繁に出入りしている場所なんだってわかる。だから遭難とか大事には至っていないよ。ただ体が冷えてきたし、どこか休めるような場所があるといいんだけど」
 そう言って僕が周囲を見渡すと、濃霧の中で黒く口を開いている場所が近くにあることに気付いた。どうやら自然にできた洞穴のようだ。外で冬の風に当たっているよりはましかもしれない。僕は彼女を連れてその中へと入って行った。
 洞穴の中は、外がまだ昼間だからなのか、それほど暗くはなかった。入口付近は狭く寒かったものの、少し奥に進むとちょっとした池がある広場に辿りつき、外からの冷たい風も吹きこんでこなかったので僕たちはとりあえず一息つくことができた。
 体の凍えもなくなったのか、彼女は広場中央の池を覗き込み始める。
「綺麗な水。水面に顔もはっきり写って、何だか鏡みたい。どこかからの湧水かな?」
 僕も隣で膝をついて同じように池を覗き込む。
「水が流れ込んでいる様子もないね。ずっと溜まっていたにしては透明度が高すぎるし、どこか底の方で地下水道と繋がっているのかも」
 答えながら僕も水面に自分の顔を映す。視線の先にいる僕の隣には彼女の顔。
 二人で並んだ鏡の中の姿を見つめながら、僕はこれまで何か大きな誤解をしていたような気がし始めた。水面には僕と向きが正反対になった僕がいる。そして同じく向きが逆転している彼女がいる。なら僕と彼女は――
 そこまで考えたとき、突如水面の中に黒く蠢くものが現われた。その存在に気付いた次の瞬間にはそれは水面下一杯に広がり、そして飛び出してきた触手が隣にいた彼女を池の中へと引き摺り込んでしまった。
 池に落ちる彼女に手を伸ばすだけの余裕もなかった。それどころか水上に現れた触手は洞穴の広場一杯に広がり、僕をも狙い始めた。情けないことに、出来ることは精々そこから急いで離れ洞穴の外に逃げ出すことしかなかった。


 外に出ると霧はほとんど晴れていた。洞穴の入り口に立ち入り禁止の看板を見つけるも、僕に出来るのはそれに向かって悪態をつくことだけだった。
 ただ彼女を見捨てるという選択肢はあり得なかった。洞穴の中には得体の知れない化け物がいる。対抗策はわからないが、それでも彼女を助け出さないとならない。
 一度ここに詳しい人を探しに山を下りて町の人に訊くべきだろうか。しかしそうしている間、彼女の命の保障はない。
「……よし」
 僕はもう一度洞穴の中に飛び込む決心をした。具体的に何か案があるわけではなかったが、いてもたってもいられなかったのだ。
 一つ息を吐いて僕は入口に向かって足を一歩踏み出す。
 と、その時、中からも地面の石を踏み締める音が聞こえてきた。その足音の主の姿はこちらからは見えないが、明るいところにいるためか向こうからはこちらが見えるらしい。はっきりとした声が聞こえてきた。
「あ、よかった。ここにいたんだ」
 それは愛しの彼女の声そのものだった。
 僕は彼女が無事であったことに心から安堵し、そして迎えるべくこちらからも歩を進める。そして彼女の姿も陽の光に照らされて見える場所で――
 ――足を止めた。
「わたし、池の中にいる神様の力であなたと一緒になれる姿を手に入れたみたい。まさかこんなことがあるなんて」
 彼女は嬉しそうに右手を振りながら僕に言った。それはいつもとは反対の手だ。彼女はいつも左手で僕に応じていた。
 けれど彼女は単純に鏡映しの姿になったわけではなかった。彼女は彼女自身の鏡像異性体になったのではなく、『僕に』重なることのできるような姿になっていたのだ。
 洞穴の池に顔を映しながら感じた違和感はこれだったのだ。僕と彼女は鏡像異性体の関係なんかにない。あくまで鏡に映った自分自身としか異性体の関係にはなれない。
 彼女はそのことをきちんと理解していたのだろうか。その上で喩えとしてL体とD体という表現を使ったのかもしれない。実際彼女は鏡像異性体とは似ても似つかない姿になっていた。体のあちこちが捩じれ、凹み、歪んでいる。
 僕は思わず踵を返した。その異形の姿を見ていることができなかった。
 けれどすぐそばに来ていた彼女がすかさず僕の手首掴んだ。そして身長差のあったはずの彼女が僕の耳元で囁く。
「ねえ、一つになろう?」
 ぐんにゃりとした、やたらと絡みつく彼女の手がけして僕を離そうとはしなかった。
by zattoukoneko | 2012-01-09 06:55 | 小説 | Comments(0)


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