【小説】『絶体零度』4-2-1


4-2-1

「舞美も別に自分が殺されることを望んでいたりはしなかっただろうし、殺されるとも思っていなかっただろう。けれど首を締め上げられているはずの舞美は何ら抵抗することをしなかった。私の凶行を甘んじて受け入れていたようにすら思う」
 彼女が望んでいたことは何だったのか。そんなことに思いを馳せてみる。
 別に恋仲になろうなんてことは考えていなかっただろう。私自身も彼女に魅力を感じてはいたが、恋人にしたいとまでは思っていなかった。自分の持っていない物を持っているなと憧憬を抱いていたくらいのものだ。一方で舞美は意気消沈した私を拾って、そして生活が徐々に狂い始めたことに心を痛めていたのかもしれない。私の変化に彼女自身が関与していることに気付いていた様子だったから。
 舞美は自分を刹那に見せることで、しかし全くの同一人物になることは無理だと重々承知していて、だからこそ私に刹那などという人間はいないと自覚してもらおうと考えていたのではないだろうか?
 自分が殺されることを舞美は望んでいなかっただろうが、それも仕方ないとあの時思ったではないか。『刹那』として殺されることですべて解決してくれればそれでいいと、そんな風に考えたのかもしれない。
「けれど成明さんの中には刹那さんが残り続けた。……姉の目論見は外れた」
 呻く雪奈に私も暗い言葉しか返せない。
「舞美と一緒にいることであまりにも刹那のことが鮮明に思い出されてしまったんだ。舞美が刹那の真似を続けていたからというのもあるだろうし、それ以上に妹と過ごした思い出話を多くし過ぎてしまった。私の中で刹那の存在は次第に確固たるものに変化していってしまったんだ」
 私の中で舞美と刹那でどちらに比重が大きくかかっていたか。舞美は実在し刹那は存在していなかったが、それは私の与り知らぬところだった。私と共に長く生活し、支えてきてくれたのは刹那の方だった。
「舞美は刹那の存在を否定しようとした。それは功を奏したように思う。私の中で刹那の存在が確かに揺らいでいた気がするからね。けれど消滅させられるほど強い力は働いていなかったし、むしろ安定させるのが簡単だったのは刹那の存在を残すことだった」
「それじゃあ……!」
 息を飲んだ雪奈に私は応じた。簡潔に、事実だけを強く表すために。
「私は舞美の存在を葬り去ることにしたんだ」
 急速に揺らいでいた自分の生活を安定させるためには目の前にいる『彼女』を消すしかなかったのだ。刹那の皮を被った偽者の存在、舞美を。
 そう。あの時の私にとって不可思議な存在だったのはむしろ舞美だったのだ。どんな人物なのかわからなくなり、存在が希薄になっていた舞美こそ消されるべき定めにあったのだ。だから私は舞美を殺そうと首に手をかけた。けして刹那だと思い込んでそうしたわけではないのだ!
 だが舞美はこの世に実在する人間だった。だから首を捻りあげたところで体が泡となって消えるわけではない。ただただ冷たく、力が抜けて重くなった肉体がそこに残るだけなのだ。
 手に持っている死体を消す術の持たない私はどうしたか。急務なのは揺さぶられ続けていた精神状態を安定させることだった。だから私は自分の記憶の中から舞美の存在を消し去ることにしたのだ。そうすれば私の心は凪の状態になるだろうから。吹き荒ぶ風は収まり、せいぜい心地よく肌を撫でる程度に鎮まるだろうから。
「けれど一度刹那を消し去ったときと異なり、やはり死体が残るということは大きな問題になった。私はそれの処理に困ったし、瑠璃が私がきちんとした記憶を所有していないことに違和感を覚えるようになった。それが今回の一連の事件の発端ということになる」
 私は今回の件で周りに多大な迷惑をかけ、そして遠回りをしながらもようやく刹那が実在しないこと、そしてその役割はとうに終わっているのだということを明確に認識することができた。
 これから浄罪をしなければならないだろうが、しかし私はようやく前に進める。全てが始まったこの路地裏から前へと歩み出すことができるのだ。
 そう決意を固める私の横で――
 甲高い悲鳴が上がった。
「やめてください! 成明さんは勝手に姉を殺したとしてそれで満足しているかもしれません。そのようにしか聞こえない。でも私には納得できない! 仮にあなたが姉の殺害に成功したというのならその遺体は今どこにあるんですか!」
 雪奈の言葉にはっとした。
 確かに私は舞美を殺そうとした。そこに容赦をしようという気持ちはなかった。彼女は抵抗もしなかったし、然程腕力があるわけではないが細い女性の首を絞め続ければ窒息させられるには十分だと思える。
 しかし自分でも告白したように死体を忽然と消すような術を私は有していなかった。だから瑠璃の店へと彼女の体を運んだのだし、そしてその後も私は死体を移動なんてさせていない。
 雪奈は雪奈でまだ姉の生存を望んでいるのだろう。実際に舞美に手を伸ばした私に言わせればその望みは限りなくゼロに近い。でも明示できるだけの証拠もない。
 俯いている彼女の表情は、前髪に隠れて私からは見ることができなかった。発せられた言葉は、良く言えば落ち着いたものだったが、いつものような明るさも覇気もないものだった。
「成明さんは記憶をすべて取り戻したと言って事の顛末を話してくれました。でも結果として起こったことを全部説明できたわけじゃない。私、思うんです。成明さんは姉とのことを全部思い出せたと誤解をしているのではないかって。こう言っては失礼かもしれませんが、自分の都合のいいように記憶を書き換えてきたのが成明さんです。それも無意識に。今もそのようなことはしていないと胸を張って断言できますか?」
「それは……」
 私は断言できると思う。今回の件で随分変わったはずだからだ。少なくとも刹那のような架空の存在や出来事を作り出すことはないように思われる。
 けれども記憶の欠損や見落としは少なからずあるだろう。それに人間という生き物は好き勝手に物事を解釈し、記憶すら書き換えて生きる人間だ。特に後者を常に行ない続けてきた私が、今すぐにそれを一切しなくなったと言えるだろうか?
 言いよどむ私に雪奈が顔を上げてさらに迫ってくる。
「どうなんですか? 私はまだ姉が死んだなんて思いたくありません。姉に会いたいんです。はっきりとした答えを私に提示してください!」
 舞美にそっくりな彼女の瞳に見つめられながら、私はとあることに気付いた。
 確かに私はまた記憶の改竄をしていたようだ。ただしそれは自分の為に行なったことではなかった。そうではなくて私自身、ある人物の言動に引きずられていたのだ。
 それが何を帰結するのかはわからない。しかし私は紐解いてみることにした。そうしなければ何も解決しないだろうから。箱を開けなければ中に入っているパズルピースすら手にすることはできない。
「確かに雪奈の言う通りのようだ。私は舞美が時折訴えていた言葉を忘れていた。どうやら私は自分のことだけしか見ていなかったらしい」
 そして私は舞美の感じていたある恐怖について話し始めた。彼女が刹那として振舞うことが多くなっていったから記憶の片隅へと追いやってしまったとある相談事について。


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by zattoukoneko | 2011-07-16 09:27 | 小説 | Comments(0)