【小説】『絶体零度』4-1-2


4-1-2

 私は刹那のことを好きだったろうか?
 好きだったと思う。刹那は私に世界の彩りを教えてくれた。彼女が世界に色を付けてくれたおかげで私は無機質な生き物にならずに済んだ。無機物で出来た人間とは即ちロボットのことだ。心を持って生きていくことなど到底不可能な存在と思われる。
 私は舞美のことが好きだったろうか?
 好きだったと思う。舞美は私に世界の広がりを教えてくれた。彼女が世界とは開けたものなのだと悟らせてくれたおかげで私は社会に潰されずに済んだ。圧屈させられた人間など翅をもがれた蜻蛉でしかない。そのまま地面の上で干からびるのを待つことしか出来ないと思われる。
 刹那と舞美は明らかに別の人間だった。彼女たちが私に見せてくれたのはまったく違うものだったのだから。しかし彼女たちが開拓してくれたのは私の外界という点で同じだった。
 私にとって外界とは目を向けるような存在ではなかった。そこで何が起きていようと無関心で無感動に生きていたのだ。しかし本当のところはそれはとても窮屈で、だから心の奥にいる自分は外を見たがっていた気がする。そして窓の外を見た自分を素直に自身のこととは認められなかったが為に、それを『刹那』と呼び始めた。社会に順応するまでの短い間だけ存在する、そんな存在を生み出したというわけだ。
 就職して社会の荒波に放り出されることで私は次第に刹那を必要とはしなくなった。その頃の私が目を向けるべき外界は取材先と紙面であって、自然そのものではなかったのだ。だから私は自分の心の中から刹那の居場所を無くした。
 けれどそんな折に舞美に出会った。彼女は東京という人工物に囲まれた世界で自然を感じ取る術を教えてくれた。彼女に出会ってから私は変わった。灰色のビルディングを見て味気ないと思うようになったし、人混みを鬱陶しく感じるようになった。東京にある季節の移り変わりに気を配りだしたのもその頃だ。今なら瑠璃の「どうして『寒い』ということを急に考え始めたんだい?」という問いに対してはっきりと答えることができる。「私は東京に出てきてからこれまでほとんど季節を感じたことがなかった。だから寒さなんてものを認識したのは舞美に出会った最近のことなんだよ。だから考え始めたんだ」と。
 私は雪奈に向けて告げた。
「舞美に出会えたことは本来幸せな出来事になるはずだったのだろう。しかしながら彼女の見せてくれた世界は私が馴染んでいた世界とは全くの別物だった」
 私は小説家でもなければエッセイストでもない。ただのボンクラ記者だ。そんな人間が記事を書くときに取材先の風に匂いを思い出すだろうか? そんな情景にばかり気を取られていて仕事が捗るだろうか?
「それは! 確かに成明さんの言っていることは正しいのかもしれません。けど、いずれは姉の見せてくれた世界と上手く折り合いをつけていく事も可能だったのではないでしょうか。成明さんはすぐにそうすることを諦めてしまったんですか?」
「雪奈の言っていることは正しいと思う。こちらから予め何らかの答えを求めて取材に行くのは記者と名乗るのも恥ずかしいくらいだと私は考えている。記者はただ取材相手に私たちの知らない話を聞かせてもらって、それを売れるように気をつけながら丁寧に纏めるのが仕事だからね。ただ取材相手にも色々な人がいるから、その相手のことを深く知るために様々な知見や考え方を身に付けておくことも重要になる。私はこれまで会ったことはないけれど、抽象的に自然を物語る人も世の中にいるだろうからね」
 いずれは私も会社での生活と普段の生活をメリハリを持って区分するなどして舞美や舞美の見せてくれた世界と共存していくことができたかもしれない。しかしそれが可能になるまでは時間がかかっただろうし、それができるようになるまでは多くの無理もする必要はあっただろう。
 共存が可能かどうかを見極めるまでしばしの時間を取るのが通常のことかもしれない。私も舞美と会うのは一つの楽しみではあったし、そうしようとしていたと思う。
 けれども私は世界の在り方を変容させる彼女に刹那の姿を重ねてしまう。その結果として大きな焦りを生んでしまったのだ。舞美と刹那が違う人物だと頭ではわかっていても、それによる心の揺れは抑えることができなかった。刹那は私の世界を安定させてくれたが、結局は私の生活する世界に適合しなかったが為に消えることになった。そうしなければ私は社会の中で生き延びることができなかったからだ。それと同じように舞美の見せてくれている新しい世界も私の生活に歪みを生じさせるのではないか、そして実際に少しずつではあったが襤褸が出始める。
「さっきも言ったように仕事に身が入らなくなった。そして刹那のことを思い出すようになった。次第に私の生活は昔の状態に近くなっていったんだ」
 私は刹那の存在を消さなければならなかった。かつては無意識にやったことを、今度は意識してやらなくてはならなかった。
「だから姉の首を絞めたということですか? 刹那さんを消すために似ている姉を消そうとした……」
 雪奈の声が少し震えているように思えたのは気のせいではないだろう。しかし彼女の言葉に私は首を振った。
「話はそんなに単純ではなかったんだよ。その当時舞美と刹那は同時に存在していて、だから私は二人を分けられていたしね」
 分けられていなかったのはそのときはすでに変わっていた私の生活様式と、そこにいるはずのない刹那の存在についてだったのだ。刹那は私の人生からはすでに消えた存在であり、消えていなければならなかった。かつて刹那を殺したときそれは無意識に行なったものだったため、再度現れた彼女の存在をすぐに否定することができなかったのだ。だから軋轢を生じ始めた。
「その齟齬は最初の頃は小さなものだったし、私は気付くのが遅れたのだけれどね。でも妹の話をたくさん聞いてくれていた舞美が怪訝に思い始めた。刹那を私が消し去ってから随分長いこと妹と出会っていないことや、彼女や家族との関係が不明瞭すぎると感じたのが理由らしい。それに私は舞美によく『妹に似ている』と言っていたからね、それで余計に気になったんだろうと思う」
 そしてしばらくして舞美は刹那が実在しないことに気付いた。さらには私がそこを明確に自覚できていないために問題が発生しているという事実にも気付いた。
 しかし私は刹那が実際にいると信じて疑わなかったし、だからこそ生半可な忠告では薬になどならず、それどころか毒にしかならないと考えたようだった。それ故に舞美は一つの決断をする。
「舞美は私を『お兄ちゃん』と呼び始めたんだ」
 舞美は自分のことを刹那だと思い込ませようとし始めた。彼女に刹那の姿を重ねていることに気付き始めていたからというのも大きい。当然私は混乱したが、舞美の演技も熱が入り始めた。彼女はそれまでに私から聞いた刹那の話から、言動を真似するようになった。
 舞美は私の地元の茨城の話をした。そこに吹く風の心地良さや、空を見上げたときの青い色と流れる白い塊といった『情景』を語り始めた。でも舞美は茨城に実際に住んでいたわけではなく、だから彼女の話は私からすると違和感を覚えずにはいられないものだった。
 雪奈と共に歩く夜の東京もそろそろ終着点に辿りつくことになった。近くにはそれなりに大きな道もあるがこの時間帯にはさほど人通りも多くはない。そしてその通りから横に入ってしまえばさらに人の姿はなくなる。
「私はその頃舞美の取る行動が理解できなくなっていた。前は彼女に会うのが楽しかったが、いつの間にか戸惑うばかりになっていた。だから正直にどうしてそんなおかしなことをするのかと問い詰めたのさ」
 そしてそれに答えるべく舞美が私を連れ込んだのがこの場所だったというわけだ。
「舞美はこう返事をしたよ。『変なのは当たり前でしょう、お兄ちゃん。いるはずのない妹の私にこうして出会っているんだもの』とね」
 私には『彼女』の言葉がわからなかった。ただ思ったのだ。
 ――『彼女』の存在を認めるわけにはいかない。
 だから私は目の前にいる『彼女』の首を思いっきり締め上げた。


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by zattoukoneko | 2011-07-14 10:02 | 小説 | Comments(0)