【小説】『絶体零度』4-1-1


4-1-1

 雪奈の部屋から出ると外にはすっかり夜の帳が落ちていた。雨も上がっていたが、東京の夜は茨城のそれと比べてずっと明るい。私の地元では懐中電灯なしでは日没後外を歩けなかったものだが、都会は街灯があちこちにあるために遠くまで見通せてしまうのだ。
 もう少しすれば私が舞美の首を絞めた時間帯に重なる。それまでに事を済ませよう。タイムリミットになっているというわけでもなかったが、一つの区切りであるとも感じていた。
 カーキ色のコートに身を包んだ雪奈が私に少し遅れて自室から出てきた。扉を閉め、鍵を掛けると私に怪訝そうに訊いてきた。
「成明さん。私にはよくわかりません。成明さんは姉との記憶をすべて思い出したと言っていました。これから向かうのは姉の居るところなんでしょうか? どうも違うような気がして仕方ないのですが……」
 彼女は敏感に何かを感じ取っているようだった。雪奈の一番の願いは姉の舞美が無事であり、そしてその人に出会うことだ。しかし私の口からは未だ舞美の生死に関して明言する言葉が発せられていない。
「私は舞美との間で何があったかを確かに思い出したよ。細かい部分でいくつか抜けている物もあるだろうが、それは日常の会話で忘れる物が出てくるのと同じ程度のことと看做していいだろうと考えている。どうして舞美の首を絞めるなんて凶行に至ったかについてはきちんと思い出せているよ」
 そこで私は瞼を閉じ軽く頭を振った。
「でもそれは所詮『頭の中にある記憶』でしかない。私の体や心が伴ったものではないんだよ。そのせいで舞美の首を手で握り締めてから、直後に記憶を失うところに大きなギャップがある。頭で理屈を捏ね合わせて説明することは出来るかもしれないけれど、それでは大事なことを逃してしまう気がする。だから擬似的なものではあるが追体験をすることにしたい」
 これまでの私にとって大きな問題だったのは頭で考えすぎて心がそれに伴ってこないことだった。本来ならば心ある人間としてそうした活動は体に変調を来す。けれども私は刹那という架空の人物を作り出すことでバランスを保っていたのだ。私は社会人として生活しているうちに彼女に必要性を感じなくなり無意識に消し去ってしまっていた。そのまま生活を続けられていれば私も成長できたということだったのであろうが、結局は刹那に再び縋り付いてしまった。けれど今なら彼女は存在しない人間だったとわかっているし、その上で当時何が起きたのか見ていくことができると思うのだ。
 ようやくだ。
 ようやく私は刹那から離れて自立の道を歩き出すことができる。そのための準備はすでに整った。残されているのは舞美との間に現れた刹那の姿を消化すること、それだけだ。
 私の説明を聞いて雪奈がある言葉を漏らす。
「だから私が選ばれたわけですね。姉である櫻庭舞美に似ているという理由から」
「そういうことになる。雪奈にはいい迷惑かもしれないが、私が舞美と出会ってから最後に事を起こすまでを追体験するために君を借りたい。一人で思い出の場所に行くだけでは結局頭で考えてしまうことになりかねないからね。正直に告白すればまだそこまで自分の心とうまく向き合う自信がないんだよ」
 雪奈が考え込んだのはほんの一瞬だった。短く溜め息を漏らして調子を整えた。
「同行して最後に首を掴まれたら困りますけど、そういうことがないのであればご一緒しましょう。姉の身に何があったのかを知りたいことに変わりはありませんし」
 多少皮肉交じりではあったが、雪奈は彼女の目的の為に私に付き合うという選択肢を選んでくれたようだった。そのことに感謝しつつ、私は話を始めることにした。舞美と一緒にいることで私が何を感じていたのかについて、最後に彼女と別れる場所へと歩みを開始しながら。
「雪奈の部屋でも話はしたけれど、最初舞美と出会ったとき、私は彼女を妹の刹那だと思い込んでしまった。赤い傘を差し出してくれた行動は刹那が私にしてくれたものそのものだったし、容姿の点でもセミロングの髪や栗色の綺麗な瞳もまったく同じだった。けれどそれ以上に言動や雰囲気が似ていたのだと思う。消沈している私を何も聞かずに介抱してくれたところとかね」
 ただ舞美が刹那でないことには彼女の部屋に着いて間もなく気付いている。舞美だってずっと人違いをされたままにはいかなかっただろうし、私の気分が落ち着いたところで訂正をしてくれた。
「私はその時に舞美と刹那を分けることができた。ただ興味は惹かれたよ。不思議な魅力を持っていると感じたからね」
 そこから私と舞美の交際は始まった。もちろん恋色などはそこにはなく、友人とするにも不釣合いで、ただ時々出会っては話をするくらいの仲ではあったのだが。
 しかし問題があった。一度は消えたはずの刹那の存在を私は復活させてしまったのだ。私は彼女は実在しているものだと思って舞美にも話を何度かしていた。そして更なる問題として舞美は刹那に似ている部分が多く、そしてそこに私は知らず知らずに惹かれていたということだった。
「舞美と会って話をしていると世界が鮮やかに色付くように思えた。会社での仕事がそれなりに順調にこなせるようになってきて、生活も安定した軌道上にあったその当時は子供の頃に私が住んでいた無色の冷めた世界ではすでになくなっていたけれどね。ただ東京というのは地面が硬く舗装されているし、視線を上げてもビルが空を見るのを邪魔するから灰色がかっていた。だから舞美に会うことは私の世界に潤いを与えてくれるものでもあったし、それを私は楽しんでいたと思う」
 舞美に最初に出会ったのは初夏の頃で、そして次第に暑くなっていた。よく都市部ではヒートアイランド現象が起きており、そのせいで気温が高くなるのだと耳にする。その説に従えばアスファルトやビル壁に太陽熱が吸収され、その熱が放出されるから気温が上がるのだとされる。だがヒートアイランド現象が顕著になるのは風の少ない日であって、むしろそちらに主たる原因がある気が私にはしていた。
「科学的には土よりもコンクリートの方が太陽光の熱エネルギーを吸収・放出しやすいというのは当たっているのだろうけれどね。しかし人工物が自然のものを取り入れると考えると違和感を感じたんだよ。むしろ都市というのは人間が密集して造り上げた要塞であり、自然を排除するようなものだと私は思っていたんだ。だから風を防ぎ、自分たちが空調を使って排出している熱を抱え込んでいるという考えの方がしっくりと来たんだ」
 そのことを暑い日に舞美に告げたら軽く微笑んで、そして例の丘に連れて行ってくれたんだ。
「例の丘って、私が案内したあの場所ですか?」
「ああ、そうだよ。あの場所に私を舞美は連れて行き、そして『ここにはきちんと風が吹くでしょう』と教えてくれたんだ。同じ東京でも場所によって違うものだと彼女は教えてくれた。そして私が理屈っぽく否定していた都会のイメージを変えてくれたんだ」
 それは本来ならばいいことなのだろう。それまで持っていなかった世界観を私に見せてくれたのだから。けれどもその時の私の傍には刹那の亡霊が佇んでいた。世界に色があることや風の気持ち良さを教えてくれたのは刹那だったのだ。だから私は重大な過ちを犯してしまった。
「私はそれをきっかけに舞美と刹那を重ね始めてしまった。同一人物だとはさすがに思いはしなかったけれどね」
 だから私は他の場所で舞美のことを思い出せなかったが、あの丘の上では舞美の記憶をはっきりと取り戻すことができたわけだ。
 あそこでの出来事から私の世界は歪み始めることになったのだから。


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by zattoukoneko | 2011-07-09 09:10 | 小説 | Comments(0)