人は他人を理解することができるのか②-2

「人は他人を理解することができるのかどうか」というテーマの言葉に関して二つ目の記事となります。
前回の記事の内容を簡単に振り返っておくと――全世界の人に見えるように空にいくらでもメッセージが書けると仮定。この際に(内容も大事ではあるのですが)何語で書くことにしましょう?――というのがまとめで、導入となります。
では本論となる今回の記事を書いていくことにしようかと思います。



まず真っ先に考えそうなのは、やはり全世界の人が見るのであれば(誰か個人宛でないのならば)多くの人が読める英語を使うことなのだろうと思います。
まあ、この記事を読んでる人のほとんどが日本人だと思います。(実は時々海外の方も見にきているらしく、そして読み解くのできないよ、とコメントいただきました。えっと……翻訳してくれと言われてもそれはちょっと厳しい(汗))
となると英語で書くのは厳しいだろうなと感じるかと思います。かくいう私もその一人。いや、いくらかは書けます。ですけど後々述べるように中途半端だからこそ難しいとより感じています。
英語がまったく書けないという人(いあ、実際にはThis is a pen.くらいは書けるでしょ?)はとりあえず文法はしっかりしていて、単語も辞書を使えばいけるだろうというレベルにあると想定しましょう。さてこのレベルで実際に海外の人に自分の気持ちをきちんと伝えることができるでしょうか?

ちょっと難しい話が雑じりますが――
和英辞書で「安心」が何という英単語になるのかちょっと検索してみてください。私はとりあえずジーニアスを使いますね? 以下出てきた単語。
relief: 苦痛などが去った後の解放による安心感
ease: 精神的な気楽さ
rest: 平静
security: 安全・無事
となります。
この中に私たち日本人の「安心」は見当たりますでしょうか?
ぱっと見るとreliefとeaseは近い感じがしますね。ただしreliefは「大変な目に遭ったけど、何とか凌げてほっとしたー」という“安心”で、easeは「まあ、なんとかなるっしょ!」という安楽的な気持ちを表現します。(なおrestは「(主に時間的に)余裕があるなー」という感じで、securityは「害がないと思う」という意味です)
確かに私たちの使う「安心」はこれらの意味を含みます。ですから英語に訳す場合にはこの中から適当なものを選べばよいだろうと単純には考えられます。
ですが英語圏の方が「安心」という日本の単語を見たとき、それは自分たちの使っているどの単語に相当するのかは前後の文脈から判断することになるかと思います。これは相当に日本語に堪能な人でなければ悩むところだろうと。そして逆もまた然りなのですよ。私たちも英語を読むとき、それが何を指しているのか悩むことがあります。何か簡単な単語でいきましょう。enoughというのはなんでしょう?
これは中高で「十分」って意味だと習ったことだと思います。まあ、その通りでそのまま訳せば何とか意味は読み取れます。では日常会話でいきなり、
“Enough”
と言われたら? あるいはもう少し丁寧に書くとThat’s enough.ですね。
これは直訳すると「もう十分だ」となり、感情をこめて訳すと「もう飽きてきた。もうそれ以上は要らない。これでおしまいにしよう」という負のイメージです。正の方向の感情で「十分だ」と伝える場合には”All right”や”Okay”などです。略記する場合には”OK”ですけど、スラングに近いので目上の人には使えません。
と、ここに並んでる単語たちって中高ですでに知ってるようなものばかりですよね? でも今書いたように読み間違えたり、あるいは軽い気持ちで”OK”などと言おうものなら一気に嫌われるということです。
さて英語での意思疎通が難しいことがこんな簡単な単語ですらいくらかわかってきたのではないかと思います。さてはて今度は日本語を伝えましょうか。さっき取り上げていた「安心」という単語について。
実は一つ大きな意味・感情が英語にうまく訳せないのです。それは「安心して暮らせる」というようなときに使うものです。
さっき並べた単語と照らし合わせると、easeが近い気がしますが、これは“楽観的”という意味合いが強くなります。ですがよくさっきの意味で使われるのは原発などの建設に反対するときに「安心できない」と言うときです。つまり“負の感情が付きまとっているから何とかしてくれ”という訴えです。となるとreliefが近いのでしょうか? いや、今苦痛を感じているわけではないのですよね。このときに言う「安心できない」は気持ちのざわつきが抑えられないという意味合いを含んでいます。これを解消してくれということになりますが、このような心の乱れが取り除かれたときに使われる英単語は実は見当たらないそうです。つまり『よっぽどうまくこの気持ちを丁寧に伝えないと「安心」という言葉とそこに含まれる感情を伝えられない』ということです。そして風土が違いますからその気持ちの“ざわつき”を伝えることはさらに難しいこととなります。(さあ、「ざわつき」を和英辞書使って英単語にしてみませう! 何か適切な単語は見つかりましたか?)

ちょっとここらで原発の話が出てきたので、建設者側が反対住民にする説得の一例を挙げましょう。大体こんなことを言うわけです。
「この設備は安全であり、事故が起こる可能性は極めて低いものです。ですから安心してください」
これ間違いだろってすぐにつっこめますか? 「安全」だから「安心」できるわけではないのですよね。反対住民が言っているのは「それは過信ではないか」「予期できていないトラブルだってあるんじゃないのか」そしてこれはなかなか口にする人が少ないですが「事故の起こる確率が低いとしたって、一度事故が起こればその被害は甚大じゃないのか?」です。
実は建設者側はリスク論というのを使って話をしています。簡単にリスク論について説明しますね。リスク論では次のようにリスク(=被害)を計算します。
  リスク=事故の発生確率×その事故による被害
となります。
たとえば原発に大きな事故が起こる率を100年に1度としましょう。その事故による死亡者数は10万人だとします。となると一年に死ぬのはたった1,000人。だから原発側は「安全」と主張するわけです。
ちなみに交通事故による一年間の死亡者数は現在5,000人とかです。多いときは10,000人超えてる年もあります。まあ、参考資料出しときましょうか。
交通局交通企画課資料(pdf)
リスク論によれば、交通事故なんかと比べて原発の被害なんてものは大したことがない。したがって安全であり、住民は安心して暮らすことができるだろうという論法となります。でもこれって(英語が細かく分かれてますし、リスク論自体欧米圏でできたものなのでそれで表わしますが)securityなのですよね? 住民が求めてるのと全然違う。反対住民が思うのは、「その事故はいつ起こるか知らないが、明日かもしれないし、子供や孫の世代かもしれない。だがいつにしたってそのときに生きている人間が10万にも死ぬってことじゃないのか? それを受け入れろってことか?!」ということでしょう。だからこそ「安心できない!」と訴えているわけですね。この両者が考えている「安心」が異なっているため、論争はいつまで経っても平行線というわけです。仲介しようと名乗りを挙げているSTSの分野もどちらかというと学者寄りですし(だって科学を市民に啓蒙しようという考えを軸にしている人が多いですから)。
さて、原発の話などにも触れてしまって小難しくなって来た気がしますが、それでよしw それだけ難しい話ということです(苦笑)

ここからまとめを始めようかと思います。
言語は一対一には対応していません。これはそこの言語圏に生活している人たちの文化から多大な影響を受けているからです。「安心」という言葉は実は日本以外では見つけることが困難なようです。すなわち日本という国の風土がつくってきたものであり、そして他の国では育まれなかったものなのです。これを伝えるためには非常に多大な労力を必要としますし、お互いに理解しようと歩み寄らなければなりません。そしてそれはとても難しいことです。
たとえば四季があり、そしてそれに風情を感じる日本人はそれを利用した文章を書きます。これは昔からですね。和歌や短歌なんてものがありますし、小説などでも四季を扱います(電撃掌編王にもお題として「春夏秋冬」が入ってましたしね)。ですがこれを四季に特に風情を感じない、そもそも四季がない人たちにどう伝えればいいのでしょう? 考え始めると難しいと思えてきませんか?
またリズムという問題もあります。専門書などは意味が伝えることができれば十分に役に立つでしょう。ですが小説や詩などでは文体や音によって魅せるということもあるのです。
有名なベートーヴェンの第九より。第四楽章:Prestoにある合唱部分の歌詞を抜き出してみましょう。
O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern lasst uns
Angenehmere anstimmen,
und freudenvolle.

Freude! Freude!
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elzsium
(以下略)
となります。まあ、ちょっとした雑学を入れておくと最初の四行のとこのみベートーヴェンの付け加えた歌詞で、元々はフリードリヒ・フォン・シラーという文学者の詩に曲をつけようというのが第九の誕生に繋がってくるわけです。Freude!の部分からはシラーのものとなります。
で、注目すべきはベートーヴェンが最初に書いているFreundeとシラーのFreudeですかね。前者は日本語訳すると「友」で後者は「歓喜」です。日本語にしちゃうと音がまったく合いません。ですがドイツ語のほうはうっかりすると読み間違えそうなくらいそっくりな単語です。音は――まあ、第九のCDの一枚くらい持っておきましょう!(だって文字じゃ表現できかねるじゃないですか?!)
まあこのように詩なんていうのは訳すのが困難なものの一つというわけです。

もう一つくらい例を挙げておきましょう。ちょっと時事ネタですが。
少し前にトヨタのプリウスでリコール問題が発生しました。このとき豊田章男社長が会見に際してまず“謝罪”を行なったそうです。が、これが問題視されました。一つに欧米圏、特にアメリカから「その発言はつまり自分たちの非を認めているのだ」とされ、悲しいかな日本でも「経営者の責任能力が欠けている」と言われてしまいました。
確かに英語圏の人にすぐに謝ってはいけないなんて話をよく聞きます。彼らは責任の所在を明らかにしたがる傾向がありますからね。(あ、別に私はこれを非難するつもりはないですよ? そういう歴史をこれまで積み重ねてきたわけですから。ただそれに固執して他者を理解しようとしない傾向が強いとは感じてますけど)
ですが(まあ本人に直接訊いたわけではないですからわからないですけど)豊田社長としては不具合による被害者の方々に“お詫び”を言いたかったのでしょう。彼ら彼女らのことを心配しての発言だと考えられます。しかしこれが他国には伝わらなかった。(あ、ちなみにすぐに「詫び」って和英辞書で引きました? 全部謝罪の意味になってると思いますよ)

このように言葉の伝達というのはすごく難しいわけです。政治なんかでは通訳なんてのがついていきます。政治家には英語の能力がないわけではなく(と信じたい)、より正確に意図を伝えるために専門家を用意するというわけです。
(あ、なお通訳の職につくのって超難関です)



大分長くなりました。language(発音による言葉のみに限りません。ここにある文字も含みますし、ボディ・ランゲージのことも考えています)による意思伝達というのは難しい。そこにある社会背景を知らないとならないし、時にはその人個人のことさえ理解する努力をしなければなりません。このように単純に言葉を切り替えればそれで済むという話ではないわけです。
ならば現代の社会はそれができているでしょう? 今回トヨタの話題を出したのでもう予想はついているとは思いますけど、次回記事にて現代社会の状況や宗教などに関して簡単に触れようと思います。
ということで今回はここまで!

余談:ここのブログに私の掌編が掲載されています。たとえば、第8回電撃掌編王受賞作『好き好き大好き、だから嫌い』 をGoogleの翻訳にでもかけてみてください。途中で触れた海外の方ですけど、これやって――さっぱり読めないと嘆いていました(汗)
Commented by zattoukoneko at 2010-07-26 06:35
さて次回は現代社会の話なのですが、それを見るためには各国の歴史などを知らなければならない。これは今回の記事でも言いましたし、この雑記の最初の記事でも似たようなことを言ってます。

ですが普通に考えてあらゆる国について語るのはいくらなんでも無理というもの。
ですのでかなり簡略化します。話も簡単にしないとダメでしょうし。
確実に抜けがあります。というかわざと抜きます。その辺りはご容赦のほどを。
by zattoukoneko | 2010-07-26 06:24 | 雑記 | Comments(1)