宮崎駿関係の記事で急遽追加

宮崎駿は人気ですね(苦笑)

このブログの閲覧者様には、一連の宮崎駿関係の記事を掲載してどのくらいの訪問者数が来ているか見えないと思います。
まあ、とんでもない数ですw
彼が人気があって、みなさんが興味を持つのはわかります。また私も彼の作品は面白いと思ってます。だから閲覧者数がやたらと多いのはわかります。

ですが――
この宮崎駿関連の記事だけ見て、そして「ああ、そういうものだったのか」としか思ってくれないのでは困ります。と同時に私がどういう意図でこれを書いているのかきちんと読み取ってもらいたいと考えています。
そのため急遽一つ記事を挿入することにしました。

一個下の記事に書いたコメント欄にあることの繰り返しですが、
本来なら「全部の記事を見てこい」と言いたいです。
私はここはブログという、いわば軽い発言の場と考えています。また一度に投稿できる文字数に限りがあります。そのため私が宮崎駿に関してなんの資料をつかってこれらを書いているのか明示していません。これは「ニュートンの万有引力は科学じゃない?」(カテゴリ:物理)のコメント欄で書きました。
ですが人物や何かを紹介する場合、そこには当然責任が発生します。書く際のマナーというものがあります。これに関しては「チュアブル2nd『あまなつ』紹介」(カテゴリ:ゲーム)のコメント欄できちんと述べています。具体的には、まずその人はどういう人物か紹介しなければなりません。またその人の背負っている背景を述べなければなりません。こうしなければその人物がどういう立場の人かわからないためです。そしてマナーとしてその人の良いところを述べます。これが全体の三分の二程度を占めなければならないと一般的に言われています。そして最後にそこから出てくる課題・問題点などを述べます。これは悪口ではなく、その人のつくったものを踏襲して次に何をすることができるのかという研究テーマを出すということです。だから極めて論理的にやらなければなりません。
私がここまで書いてきた記事で、ある程度私がそれを守っているのが見えると思います。ただ、ここは「ブログ」であるために、わざとそれらの順番を崩したり、省略しています。簡単に言うとエンターテインメントの一つとして提供させてもらってます。
ですが私はきちんと、可能な限り宮崎駿という人物について調査をしています。彼の生い立ち、生きてきた時代背景、思想、そして各作品のつくられた時代・社会背景、さらにはスタッフとの関係も可能な限り調べてあります。ただここまで書いていくと本が数冊かけてしまうほどの量ですから、ここでは割愛しています。けれどそれらをきちんと見ているのだと思ってください。またよく読めば所々でほのめかしているはずです。
なお人物を紹介するにあたり、その背景などを知ったうえで書かなければならないのは、歴史学における「常識」です。現代の私たちの視点から評価するとそれは当時とは違った見方となります。今「宮崎駿は社会的に認められている」という“偏見”を私たちは持っています。ですが、この視点のまま過去のものを見ると、そこにはフィルターがかかっていることになります。このフィルターを全部取り除くことは不可能です(科学哲学において反射性と呼ばれる概念です)。ですがそれでも可能な限りその当時に自分を置いて見なければなりません。私たちが今持っている視点のまま昔のものを評価すると「ホイッグ主義」となります。これは残ったもの、評価の高くなったものこそが正義であるという考え方です。科学者などが科学史を書くとこういうことをやりがちですが、歴史学を学んだことのある人間にとっては一番忌み嫌われる行為です。私は当然ながらホイッグ主義者ではありません。ですからきちんと宮崎駿という人物の背景を調べて、そして紹介しています。
宮崎駿が生きてきた時代背景、もしくはその前にあった歴史、そしてその後の社会への貢献度。これらすべてを踏まえて私は宮崎駿という人物を評価しています。
この評価に関しては明日あらためて一つの記事として掲載します。ただし今度は宮崎駿本人を取り上げるわけではないのですけれど。
ただ少しだけ紹介しておきましょう。そこに含まれない内容もありますから。(ただしその前に私の立場も見てきてください。これは閲覧者の方にも反射性を適用させてもらってます。つまり私の言おうとしていることを知るためには私の背景を知らなければならないということです。ただし全部見てくるのは大変でしょう。ですから次の二つだけ見ておいてください。「閲覧者数増加御礼?」(カテゴリ:雑記)、および「成績の伸び方・ブレイクスルーとは」です。まずこのくらいの私の背景や記事内容は理解しているものとして以下を続けます)
まず日本に漫画・アニメというものを定着させたのは手塚治です。ですが彼はほとんどオリジナルのものをつくれませんでした。手塚治は主にディズニーの映像作品などを盗作し、その技術を日本に持ち込みました。ですが彼はただ盗むだけではなくいくつかの貢献をしました。ひとつは自分の作品に(盗作ながらも)自分の体験に基づく主張を入れようと試みたこと。このためいまだに手塚治は「漫画の神」と称えられています。二つ目にアニメの製作の体制をつくったこと。当時は撮影技術などで日本はディズニーに到底及びませんでした。また社会もアニメというものを軽視していました。そのため機材も人材も集められませんでした。そこで手塚治は一秒間のコマ数を減らしたり、製作のスケジュールを過密なものにしました。当然スタッフへの支給も極めて低くされました。これは現在では悪い影響を残したとも言われています。アニメや漫画、ゲームの製作スタッフが締め切りなどに追われているのはここから派生したものだからです。けれどこの考えはホイッグ主義です。当時の社会背景から考えれば手塚治の対応は適当なものであり、そして実際に世に受け入れられたとよい評価を与えるべきでしょう。
この後に宮崎駿という人物が出てくるわけです。彼はアニメは大人でも楽しめるのだと社会に認知させたことに業績があります。ですが、それはさほど大きなものではありません。手塚治のやった、まったく認められない社会にアニメを受け入れさせたのと比べてどちらが大きな業績か。当然手塚治の方が大きいわけです。また宮崎駿の前から手塚治のことを認めた大人たちはたくさんいて、そしてその後の漫画界などを育んできていました。たまたま宮崎駿が目立ったというだけで、よくよく考えれば同世代で有名な漫画家は他にもいるはずです。
それと宮崎駿は自分の作品に自分独自の主張をいれることがまったくできていません。彼の生きてきた時代は左翼思想がはびこり、そして環境問題が世間的に目を向けられるようになった時代です。彼の作品を見ればわかりますが、それをそのまま使っているだけです。手塚治(あるいは他の作家)のように自分の体験を基に考察したり、何か研究したわけではありません。せいぜい昔ながらの物語構成論のなかに自分たちの社会思想を入れただけです。つまり彼は新しいテーマや課題を後世に残せていないということです。これはジブリ内からも批判の声が上がっていますから、すぐにわかることだと思います。
さてブレイクスルーの記事は見ていただけたでしょうか? ここからはその内容を使います。
宮崎駿は確かに社会的に認められ、またそれなりの貢献は確かにしています。では彼は次に何をすべきでしょう?
彼は本来であれば次世代を担う若手を育成するつとめがあったはずです。事実手塚治などはきちんとこういうことをした人物であり、だから今でも尊敬されています。けれど宮崎駿は誰も育てていません。有名な一例としては庵野秀明との確執があります。庵野秀明は『ナウシカ』で巨神兵のシーンを担当しています。よく誤解されていますが、彼は宮崎駿に弟子入りしたわけではありません。むしろその技術力を認められて採用されています。もちろん庵野秀明は宮崎駿を慕っていたので製作に協力したわけですが。
庵野秀明は『ナウシカ』製作後に外伝として『クシャナ戦記』を提案。そして自ら指揮を執りたいと申し出ています。しかし宮崎駿は「そんなものは最低なものになる。やるんだったら自分でやっている」とそれを退けてしまっています。
その庵野秀明は宮崎駿の下を離れて、そして実際に自分には力があるのだということを見せつけています。特に『新世紀エヴァンゲリオン』は社会を変えるほどの影響力がありました。この作品だけで宮崎駿と庵野秀明の貢献度の差は浮き彫りです。
これだけのことをされれば宮崎駿は引退すべきです。もう自分を遥かに追い抜いた若手がいる。そう思えば席を譲ればいい。その分また誰か実力のある若手がその席に座れるのだから。しかし宮崎駿はずっと作品をつくり続けている。ようは自分の立ち位置がわかっていないということに他ならない。あるいはただその席を譲りたくなくて座っているだけでしかない。このことは多くの人が指摘している。庵野秀明自身も、婉曲的ながらも、何度も述べている。
宮崎駿はその席に座っていようとするならば、「まだまだ若手には負けない」と意地をみせて戦うしかなかった。しかし彼の後続の作品を見ていくと、大きな変更点や挑戦は見つけることができない。
これに対して庵野秀明は頂点に登りつめながら、しかし自分に見切りをつけた。それが旧劇場版での「こんなものに熱を上げてないで他の作品を見てくれ」という言葉に表れている。彼は自分よりもっと上の作家がいると感じ、自分はそれには勝てないと判断した。そのため実質指揮を執ることをやめる。具体的には彼はもっとハートウォーミングな作品がつくりたかったようだ。でも自分の作風ではそれがつくれないと気づき、そして見切りをつけたということになる。庵野秀明が次にアニメーションで指揮を執ったのは『彼氏彼女の事情』だが、ここで原作を少女漫画からとったのは、少女漫画に自分のできなかったものがたくさんあるのではと考えたからのようだ。このことは前々から発言している。
しかしこの『彼氏彼女の事情』では監督を務めはするものの、若手をどんどん採用し、色々な演出に挑戦させている。実際作品を見てみれば様々な挑戦が試みられているのがわかる。つまり彼はまだ自分が上に立ちながらも、若手育成をしようと考えていたとみなせるだろう。そして実際それ以降GAINAXでアニメ監督を務めようとはしていない。
けれど2006年にカラーという新しい会社を設立し、再び『エヴァ』を作り出した。このときに彼は述べている。「この十年で『エヴァ』を超えるものは出てくれなかった。だからもう一度つくる」と。つまり上に立つものとして後世の人々に「もう一度よく見て考えろ」と檄を飛ばしているということだ。ただ上の立場でいたいだけなら、新作をつくればいい。でも庵野秀明はあえて『エヴァ』をもう一度やると言ったのだ。これが意味するところはそれだけ深い。
そして庵野秀明はただもう一度再放送するだけではなく、物語を変えてきた。また技術面ではREBUILDという新しい手法も取り入れた。彼はまだまだいくらでもやりようがあるのだと、ここで戦う姿勢を見せている。
宮崎駿はある程度ブレイクスルーを起こしている人間かもしれない。でもその自分の場所がよくわかっていないと思える。そしてそのため他の人間との壁が見えていない。一方で庵野秀明は自分がかなりの高い位置にいる人間だと自覚しており、そしてその壁を世間に見せつけようとしている。そしてその高い位置でまだまだ戦おうとしている。この両者はもはや位の面でも姿勢の面でも違っているのだ。

さて以上のようなことと、そして私の書いてきた記事をしっかりと呼んできてくれた人には、このブログで主張しようとしている意図がわかっただろうか?
私は世の中には作家(あるいはそれに限らず色々な世界)にはいくつかのランクがあると言っている。そして宮崎駿はもうその頂点にはいない。それに戦おうともしていない。
これは明日の記事で言うことだが、宮崎駿を超えている作家はたくさんいて、そして彼らは常に戦っている。すでに頂点に立ちながら、更なる高みを目指したり、そこで戦っていることを見る人や読む人に伝えている。
私が言いたかったのは、したがってこうなる。
世の中には上のレベルの人たちがいる。そしてその人たちは戦う姿勢を見せながら後続の人や、見る人にここまで登ってこいと訴えている。
私はその期待に応えて彼らの位置に行って戦いたいし、追い抜きたいとも考えている。あるいは少なくともそういう人たちがいるのだと知って生きていきたい。そう考える私にとっては宮崎駿はもうリタイアしているに等しいのだ。
この私の意見を聞いて閲覧者の方々はどう思うだろうか?
私は別に宮崎駿の作品が好きでいいと思う。そして私自身、新作が公開されるたびにそれを観るのを楽しみにしている。けれどその上がいるという意識は捨てるつもりはないし、宮崎駿がまた戦わないでいたら「またか」とがっかりする。
本や映画が好きな、ここの閲覧者に問いかけておしまいにしたい。
一緒にこの高みを目指しませんか?、と。
by zattoukoneko | 2010-04-20 18:29 | 映像 | Comments(0)