私は差別主義者です。

多少酔っています。ですからこの勢いでぶっちゃけてしまいたいと思います。文筆が乱れているのにはご容赦くださいませ。
私はタイトルにあるとおり、差別主義者です。特に障害者、同性愛者、整形を受ける人に対して強い差別意識を持っています。

が、以前の「人権・平等概念」の記事で申し上げたように、私自身赤緑色盲という障害を持っています(近年では色盲なんて障害じゃないと言われていて、正直悲しいところですが)。そうした自分も障害者であるという立場から差別をするべきと主張しています。

私自身、赤緑色盲という障害を抱え、ルサンチマンの克服を経たとはいえやはり時々自分の障害について苦しむことがあります。特に小説を書く身としては色彩の表現にとても苦労します。私は桜が好きですが、私にとって桜の色は白でしかありません(濃いのは別ですけど)。紅葉も一つの小説の重要な表現材料ですが、私にはせいぜい赤と黄色の二色の区別がつくのみです。赤の濃淡の違いなどはまったくといっていいほどわかりません。そうしたこともあり、障害者というのはどう自分たちの障害と向き合っていくべきか、そして健常者や社会にどう受け入れていってもらうのがいいのかを考え続けてきました。もちろん他の障害者の主張なども聞きながら、です。
当初たどり着いたのは、健常者と障害者を「区別」してほしいということでした。健常者には障害者の世界がわかりません。また障害者にも健常者の世界がわかりません。しかしお互いが住む世界/社会は同じ場です。そうなればお互いがばらばらに生活を営むしかありません(そして、そうやって過ごしている障害者の方々もたくさんいます)。
現在はバリアフリーなどの健常者と障害者が共に暮らせる社会づくりが進みつつあります。しかし今のところはまだ健常者からの押し付けの域を出ていません。本当に障害者を理解して社会を組み立てなおそうという試みは残念ながら世界のどこを見てもありません。障害者はまだまだ健常者中心の社会から切り離されたところにいます。
このバリアフリーや現状の障害者に対する意識が私は問題だと感じ、これを是正するためには、まず健常者と障害者の間には絶対的な溝があるということを認識してもらい、その上で新しい社会をつくっていくことが大切だと考えました。その結果が「区別」です。
しかし……それでは考えが甘いと気づき始めました。私が自分の障害と向き合ってからちょうど十年目のときです。
「区別」では健常者と障害者が離れていくだけなのです。お互いの溝を認識するところまではいきます。でもそこでおしまいなのです。両者はより一層距離を広げ、障害者は自分たちの殻にとじこっもってしまいます(前述の方々がそうした人たちです)。そして健常者は障害者のことなど忘れ自分たちの社会をつくり続けてしまいます。
私は「何かが欠けているんだ」と思うようになりました。いくら考えてもその答えは出ませんでした。ですが、それは当たり前だったのです。話は「頭」で決着をつけるべきものではなかったからです。
以前の記事でほんの少し触れた小松美彦先生は脳死移植の反対派ですが、その主張では「頭」だけではなく「心」の決着はどこへ行ったとされていました。脳死は「頭/理屈」だけで考えれば確かに死としていいのかもしれません。が、脳死患者は、触れれば暖かいですし、鼓動を感じることもできます。それに対して遺族は本当に心のそこからそれを単なる死体・肉塊としか見ていないのかと強く訴えています。おそらくは違うでしょう。やはり大事な家族の温もりや、体を見れば愛情が沸くのが自然なことです。ですからどんな社会でも(やり方は違えども)死後も遺体を丁寧に扱うのだと思います。
ここに私は糸口をつかんだ気がしました。私は健常者と障害者を「区別」するのは「頭」で考え出した理屈でしかないと気づきました。そうではなくどう感じているのかという「心」の側面を取り入れなければならない、そうしなければ本当の理解にはたどり着かないのだと思いました。その「心」の側面を取り入れた「区別」が「差別」なのです。

当然のことながら理由なき迫害は避けられるべきだと思います。ですが、障害者を見たときに「気持ち悪い」などと思ってしまうことは自然な感情だと思うのです。
ここでは画像などを掲載するのは避けます。が、本当に重度の障害者は「怖い」です。私自身は偶然にも幼い頃に重い障害を持った人を見たことがあります。脳が膨張し、頭蓋を内側から広げて頭部を大きく変形させるというものです。その方は通常の方の頭の三倍の幅の大きさの頭を持っていました。私はあまりの怖さにその場を逃げ出しました。
障害者のことを調べ、自分にも障害があると知っているという現在においてもこのときの幼い自分の感情を否定することはできません。とても素直で、実直な心の動きだったと思います。いくら頭/理屈でこれを過っているものだとしようとしてもできないのです。
(なお、私の見たこの人でもまだまだ「軽い」方です。本当に重度のものは吐き気すら覚えるものがあります。生まれたときに脳が露出しているなど、生後まもなく死ぬような障害もあります。TVなどで観られるものはまったくもって「重い」ものではないと思ってください)
私は障害者に対して「気持ち悪い」などと思うのはいけないことだと思っていました。が、それは心の否定に他なりません。その心と向き合った上で障害者と付き合い、相手を理解していく。そしてその先で心の変化があれば本当の、障害者への理解、なのだと気づきました。
これは私個人だけの意見ではありません。調べてみたら他の障害者の方々の中にも、「自分をあえて差別の目で見てほしい」という方がいることがわかりました。私やこうした人々は、本当に健常者と障害者が理解しあうには、お互いの心や感情も含めて素直に接しなければならないのだと考えているのです。


以上が私があえて自らを差別主義者とする理由です。ここから下は同性愛者や整形を受ける人たちに対して記述しますが、根幹には同じ理念があると思ってください。ただしあえて記述をばらばらにするのは異なった理由があるからです。


同性愛者は激増する方向で今進んでいます。中には脳の障害などでどうしても同性にしか愛情や性欲を覚えないという方もいます。性同一性障害というやつが一番有名でしょうか。
が、この割合はそれほど高いほどではありません。今のような数に上るほど同性愛者が出てくるはずはないのです。
実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています。たとえば異性からのひどい仕打ち(レイプなど)を受けたことが原因だったりします。
しかしこれは「心の問題」です。そのまま心の傷を癒さぬまま同性と結ばれたところで、それは逃避に過ぎず、傷は残ったままです。そして実際に結婚後などにその心の傷が表面化してくることなどがあります。今はそちらの方面にはメディアは目を向けていませんが。
そもそも同性愛者が激増したのは、個人/個性の尊重、というのが謳われだしてからです。同性愛も個性の一つとして認めろというのが、同性愛者やそれを保護する人々の主張です。
ですが「個人/個性の尊重」というのは「頭」で考え出された理屈なのです(多少「人権・平等概念」の記事で触れましたかね)。ここには「心」の介入する余地は認められていません。彼らは心の介入を感じると、「それは差別だ」として猛反発します。自分たちの同性への「心」は認めろと主張しているのにもかかわらず。
ちょっと想像してみましょう。自分に息子がいたとしましょう。その息子がある日、「自分はこの人と付き合っていて、結婚したいんだ」と男を連れてきたらどう感じるでしょう? できるだけ頭や理屈の介入は避けて想像してください。多少なりとも、ショックを受けるのではありませんか?
現在はこのショックを口に出すことすら禁じられようとされている社会になっています。しかしこの瞬間的に感じた感情こそがやはり大事なのです。自分の息子を本当に理解するのなら、この感情すら踏まえて向き合うべきです。
そして先に述べたように、今は同性愛者の多くが自分の心の傷と向き合わずに同性へと恋愛感情を向けているというのが実情です。レイプなどなら自覚しやすいでしょうが、中には精神科医やセラピストなどの専門家でも見つけるのが困難なほど心の奥底に眠っている傷が原因の場合があります。こうした方々の本当の幸せは、同姓への愛、ではなく、心の治療、のはずなのです。
ですが先に述べたように現在は世界中で同性愛が歓迎されつつあります。そして心の治療は置き去りにされつつあります。
だからこそあえて「差別」の目を向けてみるべきではないかと私は考えています。そこから当事者本人も気づいていなかった心の傷に気づく可能性が出てくるのではないかと思うのです。


整形にかんしても同性愛と似た状態です。個人の自由だからだと整形を受けさせるのが当然のようにされつつあります(あるいは「ありました」ですね。現在の日本ではようやく問題が浮き彫りになってきて変わりつつあります)。
整形を受ける人の多くも心の傷が原因であることが多いです。その傷を癒さぬまま手術を受けた結果、「やはり自分の望んでいたことはこれではなかった」と後悔する患者が多数います。しかし整形を受けた場合、完璧に元の顔に戻すことは不可能です。これは後戻りのできない重大な過失となります。
ですがつい最近まで個人主義の流行により整形はそんな心の傷など無視してどんどん行われました。また心の傷があると医者が気づいていても、金儲けのために手術を行ってしまうケースがありました。この結果、上記のようなより深くなってしまった心の傷を抱えた患者があふれかえっています。
現在の日本では(あまりにひどいクリニックがあったこともあって)これを防ごうとする試みが始まりました。きちんとしたクリニックであれば、手術の相談に行ったときにかなり綿密なカウンセリングを受けることになっているはずです(逆にそういうのを受けられないところは信用できないところですので注意です)。
ただこうした試みはまだまだ発展段階です。セラピストらがさんざん警鐘を鳴らしていて、今やっとスタートラインに立ったという感じです。現状として、各クリニックに配属されているカウンセラーや、他の精神科医にはまだまだ整形を受けにくる人々の心の傷を特定できるだけの力量がありません。経験も歴史もないのだから仕方のないところです。
私があえて「差別」しているのは、こうしたカウンセラーらが配置される前からそう主張していたという経緯があるのと、現状でもまだまだ制度も能力も整っていないと感じているからです。「差別」するのは負のエントロピーとして働き、より綿密な心の調査に向かわせるのではないかと期待しているからです。

なお、同性愛も整形も本当にそれが必要なのだとわかれば認めていいものだと思ってはいます。中にはそういう手術などをしなければ癒えない心の傷などもあるだろうと思います。ただし最終手段だと私は考えています。現在はあまりにこれらに対して社会が甘すぎます。このままではより重度の「患者」が出てきてしまうでしょう。
だからこそ私は「差別」すべきと主張しています。
彼らに対する本当の理解のためにも、「患者」を増やさないためにも「差別」の目を向けることが必要なのではないでしょうか。

***
2018年10月24日、本記事の後日談を公開しました。
「障害者の技術をどう考えるか」
より正確には、本記事の背景にあるお話といった方がよいでしょうか?
コメント欄では、さらに私の意図している、「障害学」とその課題・反省についても述べています。

Commented by at 2014-12-17 11:57 x
障害をプラスに捉えて利点を最大限武器に変えると良いんじゃ無いですかね
Commented by zattoukoneko at 2014-12-17 12:21
障害者の側であれば、匿さんのおっしゃる通りと思います。
自身の障害をハンデではないと知り、さらには武器に変えていくような意識の変化を、障害学では「ルサンチマンの克服」といいます。
ただ、その変化を経るのは難しく、また周囲の人が障害を見て見ぬ振りをしているため、変化が起きても理解されるにはさらに苦労するという現場があるように思います。
Commented by 笑わせてもらいました at 2015-05-26 20:33 x
"同性愛に嫌悪を持つのは本能的に当然なのだから、当人達は調子に乗るな。お前らが男好きなのは心に原因があるからです。それを克服しなさい。私の主観で、どうしても必要だと思ったものは容認もまあやむなし"

こうとしか解釈できないのは私がバカだからですかね?
同性愛者は激増の傾向にあるとか、大半の同性愛者は心の傷が原因であるとか、どこから出てきた情報ですか?これ根拠のない妄想ですよね?

事実と妄想の区別もできないのにエッセイストごっこしてる様に盛大に笑わせていただきました。
これからもコメント数ゼロの小説()をせこせこ書き続けて下さい応援してます!
Commented by zattoukoneko at 2015-05-26 23:52
笑わせてもらいましたさんのような、偏見に満ちたコメントは残念に思います。そのようなものが減ればいいのにという記事のはずなのですが、それどころか悪意までこめられていますし。
たとえば、あたかも引用・要約であるかのように記述しながら、「私の主観で」のように笑わせてもらいましたさんの言葉が挿入されています。それこそが思い込みであり、本記事に照らし合わせるならば真の差別意識でしょう。それとも故意に印象操作を目論んだのでしょうか?
また、本記事に関係のないはずの小説を持ち出すことなども、執筆者を貶めたいという気持ちが先走ったものと思います。
「そのように自身の考えばかりを前面に出すのではなく、そのような不快感を覚えることを認めつつも、相手の主張・立場をまず読み取ることから始めてみよう」というのが本記事の主張であったはずです。
内容として反感を買いやすいものではあるし、いくらか意識してそうなるようにも書いてはいますが、読もうとしないというのは悲しいものですね。
Commented by at 2015-05-28 03:13 x
私の言葉?いいえ?

>なお、同性愛も整形も本当にそれが必要なのだとわかれば認めていいものだと思ってはいます。

こう仰ってるじゃないですか。
認めてもいい。逆を言えば自分が納得できない理由で同性を愛するものは差別しますよ、って。

>「そのように自身の考えばかりを前面に出すのではなく、そのような不快感を覚えることを認めつつも、相手の主張・立場をまず読み取ることから始めてみよう」というのが本記事の主張であったはずです

びっくりしました。嫌悪する相手の立場で考えて出した結論が「同性愛は増加傾向」「心の傷が原因」っていう妄想なんですかね。さりげなくスルーしてますけど、これ本当にどっから出てきたんですか?完全に思い込みですよね?お答えしてくださいよ。

>それこそが思い込みであり、本記事に照らし合わせるならば真の差別意識でしょう。
ええ、そうですとも。ありもしない事実をでっちあげて、同性愛者は心の傷を克服すべき、それが歩み寄る道だ。などと超理論を振りかざすあなたは真の差別主義者なんでしょうよ。

あなたの主観で気持ち悪いかどうかだとか、歩み寄る方法だとかは正直どうでもいいんです。
識者を気取ったバカが酒の勢いを口実に、ブログで同性愛者を槍玉に挙げ、事実無根の妄想をもって蘊蓄を垂れている。しかも本人はまるで良識的な記事であるかのようなスタンス。これが最高におぞましいんです。
私はこの記事から悪意しか感じません。筆者の浅はかさを差別します。

"なお、素人エッセイも小説も本当にそれが必要なのだとわかれば認めていいものだと思ってはいます。"
必要ないですよこんなエッセイごっことコメント0の小説の自己満足サイトなんて。
認めません、っていう言葉はこれくらい攻撃的なんですよ。わからないみたいですけどね。
Commented by at 2015-05-28 04:14 x
どうせおバカさんは、私が偏見と悪意に満ちていて記事をろくに読んでいないとか言い出しそうなので問題点をまとめます。

>同性愛者は激増する方向で今進んでいます。中には脳の障害などでどうしても同性にしか愛情や性欲を覚えないという方もいます。性同一性障害というやつが一番有名でしょうか。
が、この割合はそれほど高いほどではありません。今のような数に上るほど同性愛者が出てくるはずはないのです。
実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています。たとえば異性からのひどい仕打ち(レイプなど)を受けたことが原因だったりします。
しかしこれは「心の問題」です。そのまま心の傷を癒さぬまま同性と結ばれたところで、それは逃避に過ぎず、傷は残ったままです。そして実際に結婚後などにその心の傷が表面化してくることなどがあります。今はそちらの方面にはメディアは目を向けていませんが。
そもそも同性愛者が激増したのは、個人/個性の尊重、というのが謳われだしてからです。同性愛も個性の一つとして認めろというのが、同性愛者やそれを保護する人々の主張です。
Commented by at 2015-05-28 04:15 x
↑の文のなにひとつとして事実無根。TVの特集でも真に受けて、世の同性愛者はすべて新宿二丁目に通っていて、ゲイリブに賛同し、同性間での結婚を望んでいるとでも思っているのでしょうか。
まずもって同性愛と性同一性障害の区別すらついていない。一緒でしょそんなの、っていう姿勢が透けて見える。
同性愛は激増の傾向?全国の同性愛者の数を記録したものがあるとでも?"TVで目につくようになった、例えばマツコデラックス!"といった小学生レベルの認識ですかね?
異性からレイプされて同性愛者に?どこのエロ漫画ですか?少なくとも私はお会いした事はないです。あったとしても極小の極端なケースなのに変わりはない。
個性の尊重が謳われだしてから同性愛者が増えた?個性を尊重されると同性を好きになるんですか?
結婚後などにその心の傷が表面化してくる?同性夫婦の結婚生活でも観察しているんですか?
同性愛者やそれを保護する人々の主張?声の大きいゲイリブや二丁目のコミュニティ、ゲイパレードとかやっちゃう人間で同性愛者は100%なんですか?私はどれとも無縁ですけど。

まとめるとですね、筆者の中に存在する"同性愛のテンプレート"がもうステレオタイプそのもの。
で、その妄想に対して差別をもっているから、歩み寄るために克己せよという旨の記事を書いたと。

妄想の根拠から他人に自制を求めるって、偏見と悪意そのものじゃないですか。
しかも筆者は自分を善意の識者だとでも思い込んでいる様子。吐き気しか感じない。キモチワリー
Commented by zattoukoneko at 2015-05-28 12:39
私が「笑さんがしているのは差別である」と指摘し、ご自身からも「差別します」と認めておられます。それですべてではないでしょうか。対話の意思がなく、攻撃することを目的とされている方に、これ以上何を話すことがあるのでしょうか?
その姿勢がまずは改められなければ、回答できることはありませんし、荒らすことが目的のコメントを受け取ることもできません。
Commented by zattoukoneko at 2015-05-28 12:40
とはいえ、今回は私のコメントを受けてのものと思われますし、ある程度筋も通った意見もあると感じたので、いくつかお答えしてみます。

>なお、同性愛も整形も本当にそれが必要なのだとわかれば認めていいものだと思ってはいます。

それより前の部分で、現状ではカウンセリングや制度が整っていないのではないか、という話をしています。
したがって、ご指摘の部分は「医学等に基づいた評価基準が整えられ、それによって手術が必要と客観的にも認められたならばよい」という内容です。
私がすべての方に対して良いとか悪いとか評価を下すわけではありません。
あるいは、社会的に受け入れる基盤が整っていないのならば、個々人の付き合いのもと判断がなされるべきです。
ですから、私個人の感想として知人には苦言を呈することも祝福することもあります。友人に自分なりの意見を述べることすらいけないのでしょうか。
Commented by zattoukoneko at 2015-05-28 12:40
情報元とのことですが、男性性や女性性の啓発セミナーを行っているセラピストがおり、そうした方からのお話や実際に私もセミナーに参加した体験に基づきます。
宣伝になるようなことは控えたいと思っていたのですが、要望がありましたので一例のURLを以下に。
http://www.pas-ins.com/%e5%bf%83%e7%90%86%e7%9b%b8%e8%ab%87/%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%87%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%bb%e3%82%b0%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%97/%e3%80%90new%e3%80%91%e5%a4%9a%e4%b8%96%e4%bb%a3%e5%a5%b3%e6%80%a7%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%87%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%bb%e3%82%b0%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%97%e3%80%80/
紹介したものには具体的な数字はありません。第何回の、会場はどこ、どのような流れから出た誰の発言を用いている、とまで述べてしまうと、プライバシーにかかわりますので、伏せさせていただきます。
こうした場での主張は、論文の査読のような審査を経たものではありませんから、「偏っている可能性がある」というご指摘であれば私もそれは正しいと考えます。
Commented by zattoukoneko at 2015-05-28 20:25
それとも。
笑さんには、今まさに私(あるいはこのブログの読者)があなたに殴りかかろうとしているように思えて仕方ないのですか?
だから拳を振り上げ、刺々しい言葉で自身を包んでいるのですか?
しかしながら、あなたが目で見ているのはただの文字ですよ。肉体などない、記号にすぎません。
また実際生活においても、差別にも一定の役割があるのではないかと考える私は、直接に同性愛者に会っても差別的な言動を向けることはありません。普通に知り合うことから始めます。差別主義者を称していても、差別者であってはならないと自分に言い聞かせています。
まずは落ち着き、字面通りに文章を読むようにしてください。独りで自分の考えるステレオタイプ像を私に重ねられても、こちらからはなにもできません。また、その虚像に殴りかかろうと暴れていたら、他の方も訪問する場を預かる身としてあなたを追い出さざるを得ません。
Commented by zattoukoneko at 2015-05-29 00:51
15/05/29 0:31に、笑さんより「対話は必要ないです」とのコメントをいただきました。
私の方からそうしたコメントはスパム認定せざるを得ないとすでに伝えていましたし、ご自身でもそうである認めるとなれば、コメント拒否の対応を取るしかありませんでした。
攻撃的な文言ばかり並べてはいますが、それでもコメントを残そうとしたのには対話の意志があるのではとも思っていただけに、残念でなりません。
Commented by ダイ at 2015-05-30 18:04 x
これzattouの言ってることって、
道端で障害者とかに不意に会ったとき、「うわっ」「あ!」と思ってしまったとして、それすらよくないことだとされる社会はおかしいんじゃないか、
法や技術がその上にできたら、余計な問題も発生するだろう、
もちろんそんな感情を直接伝えたら、相手は気分を害して怒り出すかもしれない、
でもその後にお互いに考えをモディファイして仲良くなるとこまで行けたら、それは問題あると思える現在の社会よりもよい結果なのではないか、
ってことよな?
本筋捉えずに関係ないとこでソース出せって言われても困るわな。
ま、俺も理想論的過ぎて飛躍してるとこもあるじゃないかとは疑うが、すぐには出てこんわ。

んで、やり取りの最後のとこだけど、一方のコメントが消されてるんでちょっとわからん。
対話する気がないってだけなら、それは残してブロックとかでよかったんじゃね?
消しちゃうと都合悪いこと言われたみたいにも勘繰れるんだが、その辺どうなの?
Commented by zattoukoneko at 2015-05-30 21:17
ダイさん、コメントありがとうございます。
また、素晴らしいまとめをありがとうございます。私の本文よりもずっとわかりやすいですね……。

削除されたコメントにはその他に、「又聞きってことはいい加減な情報なんだろう。間違いと偏見を認めろ」という内容のことが書かれていました。
これが仮に「その他人の主張を正しいと見做すという、その判断はどのようになされたのか」あるいは「『偏っている可能性もある』と自身でも認めているならば、それを本文に明記しなかった理由は何か」というものであれば、議論として深化し得るものを感じていたと思います。
なお、これに対しては「言葉を『数は減少しているが』などに換えても本論に何ら影響しないため」を軸にお答えすることになります(ダイさんがわざわざ「本筋とは~」と入れているのは、このような展開があり得たと想定してのことなのでしょうか? 考えすぎですかね……)。
「又聞き=間違い」という構図は、お話を聞かせてもらった先生をも悪し様に罵るものと思えましたので、ご迷惑をかけてはいけないと削除するという対応を取りました。
まあ、ここまで述べておいてもよかったのかもしれませんが、そうすると「攻撃が目的ならばお相手できませんよ」というすでにある警告にも触れてしまうというのもありまして。
Commented by カコ at 2015-06-05 17:16 x
突然失礼します。別の調べ物をしていたところ、偶然この記事を見つけたので読ませていただきました。同性愛者です。

笑~さんはとても乱暴で失礼な事を書いていると思います。ですが、私もその先生の仰っている事にはちょっと同意しかねるところがあります。
一番違和感を感じてしまうのは、同性愛者は激増する方向で今進んでいます、というところです。
これだけは本当におかしいと思うんです。上の方が本筋に関係ないのだからソースを出せと言われても困るだろうに、と仰っていて、筆者さんも他の言葉に置き換えても本論には影響がない、としていますが、本当にそうでしょうか?

というのもたとえば、この記事や筆者さんの先生のセラピーを受けた人が、私が同性愛者だという事を知ったとき、
「ああ、この人が最近激増してるという同性愛者か。何か心の病を抱えているんだな。例えば異性からレイプされたりしたのかな」
という目で見られるのは、困ります。とても悲しいです。
なので、本筋はそこではないから、で片付けてしまうのはちょっとひどいのではないかなあ、と私は思います。

あと、今のような数に上るほど同性愛者が出てくるはずはない、というフレーズにはちょっと傷ついてしまいました。正直偏見があると思います…これがその先生のお言葉なのか、筆者さんの考えなのかはわかりませんが…。
私は物心ついたときから同性の人が好きですが、「出てくるはずがない」人間なのでしょうか…?ならば私は何者なのでしょうか…?
Commented by カコ2 at 2015-06-05 17:19 x
私は同性愛者である事を隠して生活しています。恋人もいません。こういう声が周囲からたくさん聞こえてくるからです。そういう人は、異性愛の人が想像するより遥かに存在します。
街で、学校で、職場で、友人の間で、ニュースで…善意、悪意を問わずにこの手の話題はたくさん聞こえてきます。

あとごめんなさい。もうひとつだけ気になりました。

「できるだけ頭や理屈の介入は避けて想像してください。多少なりとも、ショックを受けるのではありませんか?現在はこのショックを口に出すことすら禁じられようとされている社会になっています。」

とありますが、正直口にしてほしくないです…。
私が同性愛者だと知らずに、同性愛者を侮辱される事が多々あるからです。これは解決がとても難しい事だと思います。私が同性愛者だと公言しなければ傷つくままだし、公言してもリスクしかないからです。

筆者さんの相互理解を求める姿勢は立派だなあ、と思います。
でもやっぱり、お酒の勢いから書きます、という冒頭と、同性愛者としては疑問を感じてしまう点を本筋とは関係ないから、といって片付けてしまうのは、同性愛の人にとっては冷静ではいられなくなってしまうと思います。

あんまりこういう所に書きなれていなくて、議論なども苦手なので、筆者さんの言う「本筋の論点」からはずれているのかもしれませんが、この記事を読んで感じた事を素直に書きました。ごめんなさい
Commented by zattoukoneko at 2015-06-06 01:05
カコさん、コメントありがとうございます。
この記事には議論が曖昧になっているところがあり、そしてその難しいところを突っ込んでいただいて、私も考えが今でも足りないなと思わされました。

まずは誤解を解かなければいけないと思いました。
「本筋とは関係ない」というコメントについては、「そこはどうでもいい」という意味ではけしてないと私は捉えています。
専門家が集まってくる学会や研究会の発表会でも、「この箇所のソースは?」と訊かれて、「そこは○○先生が仰っていたことなので……」と言葉が濁る場面がままあります。引用元の引用元の引用元の……信頼性と確かめていったらキリがないため、調査や主張の中心以外ではある程度のところで見切りを付けます。
今回の場合、私は「言葉を逆にして主張は変わらないので」という理由から、その見切りをかなり早い段階でしております。具体的には、主にインタビューさせてもらったセラピストの先生には月1程度の割合で1年間にわたってお話を聞かせてもらい、集団セラピーなども体験して信頼に足るかどうかを自身の感覚で確かめ、同時のそれ以外のカウンセラーや精神科医、心理学者、同意を得られればセラピーを受けている患者さんにもご意見も聞き、合わせて元のセラピストをご存じなら評価を伺い、この記事を書いた後には各先生に読んでもらって内容に問題ないかを確認してもらっています。論文でまとめてくれていれば話は早かったのですが、残念ながらこれからの仕事とのことでしたし、私自身は同性愛者のことではなく障害者と技術のことを調べていたので、これ以上時間を割くことができなかったのです。
――という流れを、簡単に書いたのが上にあるコメントです。
私自身が統計をとったわけではないですが、その意見を口にした先生は信頼できると思っていますし、他の先生からも同様の意見が聞けたので、記事内で利用させてもらっています。それに対して「間違いなんじゃないか?」と食い下がられたら、上記のようにキリがなくなって荒れることになるだろうなと感じます。
Commented by zattoukoneko at 2015-06-06 01:05
2箇所ほど短くして抜粋します。
・この記事を読んで「心の傷を抱えているんじゃないか」と見られるのではないか → カコさん「困る、悲しい」
・(同性愛者だと知って)ショックを受けたことを口にするのもいけないのだろうか? → カコさん「口にしてほしくない」

カコさんの不安や悲しみは、仰る通りと思います。偏見の目を向けられるのは嫌なことだし、避けたいと考えるのは自然なことです。
一方で、同性愛者や障害者に接したときに沸き起こった感情(そこには偏見も多分に含まれていることもあるでしょう)を、相手が傷付くからとひた隠しにしていて、そのとき相手を理解することができるのだろうか、というのが私の抱えている疑問です。
お互いに傷付くことなく、理解も深められれば、それが一番だと思います。ですが、その具体的な方法が私には思い付かず、そして現状では無条件で認めて欲しいの声が大きくなりすぎていると感じたので疑問を呈することにしよう、というのが本記事を書いた動機です。

本記事は、同性愛者は差別されるべき、理解されたかったら偏見を受けて嫌な思いをするのも受け入れろ、というものではありません。接した人は、沸き起こった感情に向き合うべきで、馬鹿正直に口に出していいわけではないからです。
なお、何でもかんでも言っちゃう人は、私はセクハラだと見做しています。同性愛だとか異性愛だとか関係ない。ただのダメな人です。

相互理解が深まるよりよい方法というのをずっと考えているのですが……不安にさせてしまって申し訳ないです。私には上記のような疑問が強くあるために、記事に書いたような内容しか現状では提示できないでいるのです。
Commented by zattoukoneko at 2015-06-06 01:06
「お酒~」というのは、しばしば苦言を受けます。
先にちらっと触れましたが、先生方に意見求めたときにも削除した方がいいと言われました。そして私自身も、記事書いて数年経っても夢でうなされたりします。
ただ、一応は考えがあって書いたものでして。二通りの意味があります。

一つは、先程のコメントで述べましたが、この記事の内容は私自身が追い求める最善の答えを提示したものではありません。不完全のものだとはわかっていて、それでも勢いでこれから書いてみようと思う――という意味合いの枕詞(?)です。
執筆当時のことは今でもはっきり覚えてますが、書く内容も箇条書きにして決めてあって(「お酒~」の件もすでにある)、書いたんなら本当に空けるべきだと一缶だけ飲みました(不完全とわかっていながら書くのは実際に不安でもありましたし)。まあ、さっぱり酔えなくて、記事の通りにはなれませんでしたが。

二つに、この文言によって読者には私に対して嫌悪感を抱いてほしいという狙いがありました。
ありとあらゆることに関して偏見を完全に持たずに生活している人間ってまずいないと思うのですが、しかしどれが偏見だったり先入観だったりするのか、気付くのは難しいと思います。常にそれに意識を回してほしいとも私は思っていたので、じゃあ私自身に先入観持ってもらおうと。お酒飲んでるって書けば、「何言ってんだこいつ」と多くの人はなるだろうなと。その後に本文を読んでもらって、その上で本当に飲んでいるのか、飲んでいたとしても酔っていて出鱈目なことを書いているのか、判断してもらえれば、目的に沿うことになるのではと目論んだわけです。
上記の先生方のコメントは、実のところ「ヒールやるの? 君には性格的に向いてないと思うよ」というものだったのです。いとも簡単に考えを見抜かれ、その上で向いてないと言われる始末。悪夢の一つにもなっていますから、当たっていますね。

立て続けにコメントあったので内実をばらしてみましたが、その辺りもヒールっぽさに欠けてしまうのかも?
Commented by zattoukoneko at 2015-06-06 01:06
最後に。カコさんの「公言しなければ~公言しても~」というお言葉に対して思ったことがありましたので。

私が理想とするのは、公言するとかしないとか、そもそもそんなことを考えなくていい社会です。
好きな人のことを話すのに、勇気が必要とかリスクを気にするというのはやはりおかしい。そもそもどんなタイプの人を好きになるか話す機会自体そうそうないわけで、同性が好きか異性が好きかも本来はそのレベルのことなのではとも思うわけです。
まあ、告白したり、友人に相手の名前を打ち明けるのは恥ずかしい、というような抵抗感くらいは残るべきとは思いますが。

それを理想と掲げて現状を見ると、カコさんがリスクはあると思うように、今はそうはなっていない。
では同性同士の結婚を認めれば、公言することのリスクは感じなくなるのでしょうか?
私は、「ショックを受けた」「そう言われて嫌と感じた」という場面で、すぐに相互理解の道を歩めれば、リスクはなくなっていくと思っているのです。
法整備なども必要ではあるのでしょうが、人間同士の対話が抜けてしまっていやしないかという危惧があるのです。
Commented by ダイ at 2015-06-12 13:39 x
なんだか期待されてたみたいだが、
すまんな、そんな細かく考えてはなかったわ。
ただ、zattouの理想を正しく汲み取れば、どうやっても揚げ足取り以上にはならねーだろって思ったんだよ。
本当に同性が好きならそのことを貫けばいいだけだし、
周りはぎょっとしようと、理解できるか歩み寄るようにしろって話なんだからな。
zattouは感情論まで汲み取らうとしすぎだろうという批判でもある。

ただ、俺のコメントのせいで余計に長引いたって感もあるな。
責任感じてちょいと調べてみた。俺のはネットだけどな。

すると、同性愛者は近年増加傾向にあると統計が出ているらしいと書いてるところがいくつかあった。
特に、先進国で顕著らしい。
これは、同性愛者の数そのものが増えたってより、先進国ほど潜在的LGBTがカミングアウトしやすいってことなのかもしれんが、
性的指向を混乱する問題を例に挙げたzattouの心配からすれば、大きな違いではないと思う。

あるいは、
視点を変えて、性的虐待でググってみた。
するとWikipediaだが、少年への性的虐待って項目で、性的指向を混乱することがあると記述されていた。
ただし、虐待が同性愛を助長するわけでもないという意見も、その直後に紹介されてる。
ここまでくると専門家の議論だから、正しいのかどうかわからんな。

ネットなんて信頼ならねーだろって言われたらどうしようもねえけどな。
参考にしてくれ。
Commented by zattoukoneko at 2015-06-12 18:55
深読みしすぎてましたか><

私もネットのものを見てみました。
引用元が明示されてるわけではないので、それ以上はわかりませんね。
でも勉強になりました。ありがとうございます。

感情論については、私はむしろ大事にしたいと思っています。
この記事もそうですが、これからは感情に根付いた哲学や倫理学が目指されていくべきではないかと。論理だけで押し進めると、相対主義に陥ってしまう気がするのです。
とはいえ、ただ感情のままに言動を繰り返すのもダメなわけで、論理は基礎に置かれるべきとも思っていますけど。
Commented by 深山 at 2015-07-01 21:13 x
 批判者たちのコメントは,非常に浅薄で,とても危険な思想の萌芽を内包しているように私には感じる.何故ならば,著者の前提としていると思われる「同性愛は正常である」に対する批判を欠いたまま,只ひたすらに我を通そうとしているからである.

 このことを説明するために,ここで,非常に簡単な論理を組み立ててみよう.まず著者の前提とする仮定とは,次のようなものである.
   「(ある人物が)同性愛者だとするならば,それ(その性的指向)は正常なものである」という命題は真である.――(1)
 一方で,批判者が言いたいことは,このように記述できよう.
   「異性愛者ならば,それは正常なものである」という命題は真である.――(2)
 仮にこの両方の前提が共に正しかったとする.この場合,対偶を取ることにより,次の(1’)(2’)も正しく言えることになる.
   「ある人物(の性的指向)が正常でないならば,同性愛者ではない」――(1’)
   「ある人物が正常でないならば,異性愛者ではない」――(2’)
 この2式より,ここで考えている論理上の人物は同性も異性も愛していないことになる.性的指向がいずれかの性別に性愛を覚えることであるならば(――※),この結論は原理的に矛盾している.よってこれは成立せず,故に元々の(1)又は(2)のいずれかの仮定が誤っていることになる.

 著者はこの論理図式をよくわきまえているように感ずる.であるからして,同性愛を異常なものとした上で,即ち同性愛者の本人も周囲もそれを異常であるという認識を持てと呼び抱えた上で,互いに理解することは可能か探ってみたらどうかと提案しているのではなかろうか.
Commented by 深山 at 2015-07-01 21:14 x
 話を戻す.上の結論は,ただ※を覆した場合にのみ異なるものとなり,(1)(2)の両方を正しいとすることができる.つまり,性的指向は異性愛と同性愛に限らず存在するとすればよい.そうしてそれらこそが異常なのであると主張することで,同性愛者も異性愛者と同じく正常であると述べることができる.
 実際,性的指向には両性愛や多性愛,はては無性愛といったものまである.異性愛者と同性愛者ですべての人類を包含できるわけではないのである.
 では,批判者たちは彼らを本当に異常であると主張するつもりなのであろうか?
 今のところはそのような意図はないのかもしれない.しかしながら,被差別者が別の被差別者を生み出すことで社会的な地位を向上させるというのはよくあることではないか.ここに書いた論理を弁えないまま声高に自分の立場を主張していることが,私には末恐ろしく感じられて仕方ない.同性愛者が社会に認められたいと望むならば,もっと慎重な態度で正しい手順を踏んで世に認められるべきであろう.
Commented by zattoukoneko at 2015-07-01 21:37
深山さんが組み立ててくれた論理図式は、確かに私が抱いているものに合致していると思います(ここまではっきりと書きだしたことはないのですが……)。
ただ、少しばかり修正(加筆?)をさせてください。(1)式、(2)式が同時には成り立たないのではないかと結論した後のことです。
私はこの二つの式が同時に成り立つと思っています。それは友人知人との関係に基づく、経験則です。もちろん、このままでは深山さんの論理図式に矛盾します。そこで、私は次のように考えることで解決を図っているのです。
つまり、「ある人が同性愛ならば、同性愛とは同性の他人を好きになることであり、他人を好きになることは正常な性の営みである」と、間に一文挿入するという案です。
……おや、実際に文字に書いてみると、思っていたよりうまくない気が。性的指向が「他人を好きになること」に変わってしまっていますし。
ちょっとすぐには解決できそうにないのです。ともかく、私は他人を好きになるとはどういうことかにまで掘り下げることで、同性愛者も認められる道筋が生まれるのではないかと思っているのです。このことは、どうしてその相手を好きになったのか、周囲の人に認めてもらう過程とも通じるものがあると感じています。
だからこそ、心の傷が根底にあるような、自らを見誤ったうえでの恋愛ならば問題があると思っています。これは同性愛だろうが異性愛だろうが問題なのですが、現状は同性愛を認めさせようという風潮が強くなりすぎていて、どのような場合にでも周りの人たちが口を噤まざるを得ないような雰囲気がつくられてしまうのではと危惧しています。
また深山さんの心配に言及するならば、私自身はそのようなことにはならないと楽観視します。これも恋愛感情を認めてもらいたいというのが同性愛者の主張であると信じるからで、そうであるならば、他の人の恋愛感情を蔑ろにはしないだろうと、そのように思うからです。
ともあれ、このように図式化してみると、どこに追究箇所があるか見つけ出しやすくなるような気がしますね。ありがとうございました。
Commented by 深山 at 2015-07-01 22:17 x
 「他人を好きになる」を間に挿入する,なるほど興味深いと感ずる.
 しかしながら,「(前略)同性(あるいは異性)の他人を好きになることであり,他人を好きになることは正常である」という箇所において、同性(あるいは異性)の文言が抜けているのはいただけない.
 それを省略して良いのか否かが本質的議論の要なのではなかったか.そのような瑕疵を顕にするくらいならば,同性愛者は異常であると言い切った方が良くはないか.そしてその異常者を社会は受け入れる余裕があるのか否かと議論を発展させた方が実りあるように私には思える.
Commented by zattoukoneko at 2015-07-01 22:50
深山さんのおっしゃることはよくわかります。ですが、それでは同性愛が正常なものと認められる道程が断たれてしまいます。
私は、同性愛も異性愛もそこまでくっきりと分けられるものではないと思っています。各々で好きになる人が違うような、その程度の違いしかないのではとも思っているくらいです。
だからこそ深山さんの式の間に何かあるのではと探りたくなる。現段階では上手く論理的な言葉に仕立て上げられていないかもしれませんが、それが「他人を好きになる」ということなのです。
Commented by 深山 at 2015-07-01 23:20 x
 あいわかった.
 つまりは,私は同性愛と異性愛を分けることから始めているのに対し,貴殿は恋愛感情から思考を始めている.
 であるならば,論の組み立て方は私とは全く異質のものになるのではなかろうか?
少なくとも私の立式に引きずられてはならないように思う.記事内の主張も同様の混乱を含んでいるやも知れず,可能であるならば整理されることを期待する.
Commented by zattoukoneko at 2015-10-29 03:33
東京都渋谷区のパートナーシップ制度が話題になることが多くなってきましたが、昨日2015年10月28日についに証明書発行の申請が始まりました。
制度が整えられるのは喜ばしいことだなと思います。

と書くと『あれあれ、記事と主張が違わない?』と思う人がいるかもですが、それは誤読で。
私は「人間にとって差別感情は自然なものなのでは?」「自身の差別意識に自覚的になれれば、その方がより互いの理解につながると思う」をスタート地点としています。
これに対し、法や制度で行動が禁止されていると、周囲の理解があろうと社会生活に支障を来すことは多くあります。
法律で許されてないから自分の意思を変えなくてはいけない、なんてことはあってはなりませんから、今回のパートナーシップのような事例は歓迎されるべきものと思います。

ただ、社会全般の基盤や理解はまだ整っていないと感じています。
先日もTwitterの投稿で「息子が同性愛者になって嬉しい。小さい頃からスカートはかせたり、そういう本ばかり読ませてきたおかげだ」というのが好評を得ているのを見てげんなりしたばかりです。
先の文を「息子が野球部に入って嬉しい。小さい頃からバットとボールを持たせ、漫画もゲームも禁止して特訓させてきたおかげだ」に変えると、異常さに気付く人も増えるかと。
親の趣味で子供の教育の方向を決めており、虐待です。
実際には、そのような親の意向がなくとも、息子さんは同性愛者になった可能性はあります。
ただこのような場合、子供が親から受けたものを虐待と認識してない可能性も高く、自分の意思と親の影響を分けるのが難しくなりがちです。
このような事例が自身の状態をよく顧みないまま将来的にパートナーシップ制度を利用してしまうと、様々なところに歪みが生じそうです。

私が関心を抱くきっかけとなった障害者と技術でも、「技術ばかり進歩して、肝心の障害者が置き去りにされてる」とはしばしば耳にしたことです。
同性愛者と法制度も、今回のパートナーシップ制度で終わりにしてしまうのではなく、当事者との関わりの中で今後も注意深く動向を見守る必要があるのではないかと感じました。
Commented by ハル at 2016-01-09 20:53 x
初めましてのコメントです。

この記事を読んだとき、正直よくわかりませんでした。
でも気にはなってました。
そして先日以下のような発言をツイッターで見かけました。


 電動車いすで幼稚園に行ったら、子供にこう話しかけられた。
 「どうしてそれに乗ってるの?」
 「病気で歩けなくなっちゃったから車いすにのってるんだよ」
 「そうなんだ! でもそれに乗ってれば遠くまで行けるね!」

 「かわいそう」って言われるかなって思ってたので、素直なその言葉に感動しました」
 まじりっけのないストレートな言葉が嬉しかったです。

 お子さんが車いすのことを尋ねると、それを叱るお母さんが多いです。
 でも私はそうは思ってないので、ちゃんと答えたいと思ってます。
 車いすは眼鏡と同じもので、かわいそうでもおかしいでもないんだよ。

 年配の方から特に「かわいそう」って偏見や好奇の目を向けられます。
 そうじゃないんだよって、私は子供のうちから伝えていきたいと思ってます。


これを見て、ブログ主さんはこうした状況を望んでいたんじゃないかって、はっとさせられました。
差別と偏見は、たぶん違うものなんですね。
自分とは違うって、どうしても思っちゃうのが、差別感情。
あれは自分とは違うから相容れないと思い込むのが、偏見。
ブログ主さんは現在の障碍者や性的少数派についての社会の流れが、
あれこれ認めるってしつつも、後者の偏見を助長しているように映っていたんですね。
さっきの引用の、最終パラグラフはまさにそれが生み出した結果なんだと思います。

私は素直な好奇心を抑え込むことだけ覚えてしまった、「好奇の目を向ける」の側の人間として育ってしまった気がします。
もっと子供のように素直に聞ける人間になりたかった。
そのことに気付かせてくれたブログ主さんに感謝です。
Commented by zattoukoneko at 2016-01-09 21:32
ハルさん、私もTwitterでそのツイートは見ており、気になってました。

ハルさんの方で少し文章変えられているようでしたので、念のため元ツイートURLをば。この辺りだと思うのですが。
https://twitter.com/haruumare345/status/677123086366314496
https://twitter.com/haruumare345/status/677123240741875712
https://twitter.com/haruumare345/status/677777409807020032
https://twitter.com/haruumare345/status/677352542162968576

私も軽い障害(とすら今では認められなくなってきてますが)を持ってるわけですが、
そのことに「興味」を持ってもらえるとたまらなく嬉しくなります。
そのような体験がもっと広まってほしい、当たり前と思うくらい数が多くなってほしいと思ってこの記事を書きました。

偏見と差別は違うという見解興味深く読ませていただきました。
そこまで言い切ることは、残念ながら私は考えが不足していてまだできませんが、
すごい示唆に富んだ意見と思います。
確かに差別は感情に基づく部分が大きいですから、それを撤廃するのはどだい無理な話なのですよね。


引用してくださったツイートの方が、私と同じような考えなのかはわかりません。
連絡は取ってませんし。関連ツイート見てもそこまでは読み取れませんでした。
けれどとても貴重な体験をされているのは確かです。
それに触れて思うところある人が増えると嬉しいなって思います。
Commented by とます at 2016-04-12 01:32 x
最近では著者さんの心配の通り、「LGBTは須く無条件で世の中に受け入れられるべきだ」というラジカルな意見のせいで、(そのような過激派に対処すべきはずのところを)「LGBTは到底受け入れられない」と一般の人が感情を振り切っちゃう事例が出てきている気がします。直近のミシシッピ州もそうなのかな、とか。
なので、僕は著者さんの意見に賛成です。ただし、その前提とするところを正しいと認めたとすれば、ですが。

ちょっとお聞きしたいところがあります。
著者さんは、性的指向の回復療法を正しいものと考えているのでしょうか?
医師の診断を持ち出しているところだけ読むと、回復療法を是としているようにも思えます。が、その後のやり取りなども見ると、案外と性的少数者に対して寛容にも感じます。
その辺、態度が曖昧なように感じてしまいました。そこのとこをもうちょっと説明してくださると嬉しいです。前提に係わるとこなので。
Commented by zattoukoneko at 2016-04-12 09:19
とますさん、ご質問ありがとうございます。
ミシシッピ州の法案、恥ずかしながら存じ上げませんでした。後で詳しく見てみようと思います。


回復療法は、矯正療法や転向療法とも呼ばれるやつですね。
これについては、私は明確に反対の立場を取らせていただいています。
というのも、一度この矯正療法の現場を取材させてもらったことがあるのですが、これがとてもひどかった。セラピストはカトリックの牧師もしている人だったのですが、いきなり人格否定からスタートしたものだから、慌てて私が口を挟んでしまったという。取材になんてなりませんでした。
脇道に逸れちゃいましたかね。この一例が極端に酷かったのかもしれませんが、この経験から、同性愛者を頭から否定する人こそ最も害悪と私は考えるようにはなりました。

もう少し一般的な話で。
私は性的指向としての同性愛は認められるべきと考えています。そして、このときの性的指向とは、先天的なものと思っています。
問題としているのは、性的嗜好を性的指向と混同している場合です。このときの性的嗜好とは、後天的であり、方向性というよりは趣味だと思っています。
成長の過程で同性にときめいた経験が、「だから自分は同性愛者だ」と直ちに結びつけられるのは間違いです。あるいは、異性に傷つけられた経験が、「だから同性しか愛せない」となっていたら、それは治療の対象のはずです。
これらはどちらも本当の原因を見失っています。趣味なら趣味で、自身のアイデンティティとは切り分けておくべきと考えます。
具体例でわかりやすくするとして、私が実際に注意した例を。同性愛者の男性に理由があるかと訊いたら「男の方が性欲強い。だから男同士抱き合った方が激しくなるんだ!」と。もうこれには頭痛くて、「その強烈な性欲を受け入れてくれる女性を探しなさいよ……」と言いました。でもそのアドバイスは何故か聞き入れようとしない。その後、この方は本職のセラピストにより、幼少期に母親から虐待を受けていたため女性不信に陥っていたことが判明します。
Commented by zattoukoneko at 2016-04-12 09:20
このように、私が治療されるべきと唱えているのは、根源的な心の問題についてです。その結果、同性愛が治るかどうかは注目していません。
また、先天的な性的指向としての同性愛であるならば、それは立派なアイデンティティと見做しています。アイデンティティは治療することなどできません。もし方向性が変わったとしてら、それは洗脳です。けして為されてはいけないことです。
性的嗜好としての同性愛ならば、別に持っていても構いませんが、申し訳ないですが私には押し付けないでと思います。趣味は人によって異なるものです。尊重したいとは考えてますが、理解はできないし、嫌悪感を抱く人だっているでしょう。同性愛だから、ということではなく、趣味嗜好とはそういうものと思います。煙草の匂いを嫌がる人がいるのと同じことです。


と、いうようなことで回答になっていますでしょうか?
治療の対象が同性愛に向いているかのように読まれてしまうと、確かに意図が誤解されるかもしれませんね。
また、曖昧と思われてしまう理由として思いつくのは、私の中で性的指向と性的嗜好をどこまで切り離せるか決着がついていないので、それが文脈に滲み出ていたのかもしれません。
趣味もその人のアイデンティティ形成にとってまったくの無関係ではありませんからね。なので後天的に同性愛の性的指向を獲得することもあり得るのかと、その点は今でも悩んでいるところです。
Commented by 馬に蹴られて at 2016-10-23 18:57 x
僕は同性愛者ですが、あなたの意見は楽しく拝見させていただきました。
日常生活で同性愛者のことを話題に出すと、必ず不愉快な気分になりますし、同性愛者側の発言をすると同性愛者認定(事実ですが)されるので反論もできないので、あまり話せないんですよねぇ。もちろんカミングアウトはしてません。今後同性婚が法制度に導入されたとしても、僕は一生カミングアウトはしないでしょう。
だからといって、自分を恥じているわけではありませんし、自分が病気や障害者であると思ったことは一度もありません。性嗜好が僕の人生の障害物になったり、生活に支障をきたしたことはないので・・・。
僕がカミングアウトしない理由は、ストレートの方に不快な思いをさせないためです。どんなに言葉や理屈で説明しても、理屈では理解できないものは人間は怖いし嫌悪感を感じると思います。しかし、声を大にしてストレートの方にそれを理解しろ、とまるで同性愛者を代表したような立場で発言するLGTBの方々には私は迷惑しています。

放っておいて欲しい。ただそれだけです。

同性愛も異性愛も、食べ物の好みレベルの話だと個人的には思うんですけどねぇ・・・。それと、趣味をアイデンティティにしても別にいいんじゃないですか?もっと気楽に生きたらいいと思いますけどねぇ。
世間では同性愛者は自分の性と葛藤してるイメージをもたれてますけど、僕は葛藤したことないです。幼稚園から男の子の方をよく見てたんですが、小学生のとき男女ともにキスをしたことがあってそこで「あ、女の子は無理だわ」ってなったので、そこからは女の子は恋愛対象としては眼中になくなりました。でも唯一の親友は女の子です。
僕としては人の恋を邪魔する人は、競馬場で馬に蹴られて頭蓋骨陥没しろ、と思っています。石原知事とか。でも気持ち悪いと思う気持ちは理解できます。

同性愛者かもしれないというのは別に試してみてもいいんじゃないですか?別に減るわけでもあるまいし。違和感があるなら試してみていやならやめればいいんじゃないでしょうか。そこまで「本当?」のアイデンティティにこだわらなくてもいいんじゃね?整形による被害と同列に扱うのは違うんじゃないかと思いました。

なんか長くて伝えたいこともよく分からなくなってしまいました。すみません。普段同性愛者の方と話す機会はないと思うので、その一人の意見として参考にしていただければ幸いです。
Commented by zattoukoneko at 2016-10-23 23:55
馬に蹴られてさん、貴重なコメントありがとうございます。
経験談や普段お持ちになられている感想、とても参考になります。

ただ、私のスタート地点について、少し説明しておかなければいけないかなとも思いました。
記事内に書いてあるように、障害者についての考察・研究から、私は「差別」の問題に関心を持ちました。そしてその際、障害者の中には「別に周囲の理解なんて求めていない」「普段の生活には困ってない。障害者用の技術は不要」「いいから放っておいてほしい」という意見を持つ方が結構な数おり、同様の見解を持つ方々でコミュニティを形成していることを知りました。
そうした方々の生活や意見交換について見学させてもらった私は、とはいえ彼らの生活ぶりは今後の技術の方向性に影響を与えるものと考えるに至ります。「技術は不要」と声高に主張する人でも、当たり前のように道具を使い、そこにはその人なりの工夫が見られたからです。
当時(といっても実際には数年の間がありますが)の私は工学系の研究室に出入りしていたこともあり、そこの大学教授に障害者の技術について研究したいと打ち明けました。そしてその相談の中で教授の口から出た言葉に唖然とします。「障害者の不足を補うのが障害者用の技術でしょ? そうでないものの研究に価値があるとは思えないなあ」なお、その教授の研究室の近くには全盲全聾の教授の研究室があり、教授会ではその先生が不自由なく議論できるのを見ているはずの方の発言です。
そもそも「放っておいてほしい」と思う障害者が出現したのは、世の中が過剰に障害者に対して「『理解』してあげるべき」という雰囲気をつくりだし、彼らは憐れまれるべき存在だからとバリアフリー等の技術を押し付けたことに一因があるようです。それを疎ましく思い、本当の理解ではないと感じた、いわばカウンターのような行動です。
このような歴史的経緯や社会状況と、今の美容整形や同性愛者を取り巻く環境はあまりにも似すぎていないか、というのが私の危機意識の原点なのです。
Commented by zattoukoneko at 2016-10-23 23:55
最近の過激な同性愛者の運動家や、それに近寄るまいとする周囲の人々、あるいは「そっとしておいてほしい」と思い始める同性愛者(馬に蹴られてさんがここに含まれるのかどうかは、いただいたコメントだけでは判断できるようなことではないですね、念のため)を見ていると、危惧していた通りになってしまっているのかなあ、と思わざるをえません。
もちろんのことながら、馬に蹴られてさんがおっしゃるように、同性愛の問題を障害者や整形の問題をそのまま同列視することには疑問が残ります。なので、上記の意見は筆者である私の類推の域を出ないと思っていただければと思います。細かい差異など、丁寧にフォローされるべきです。
それでも、比較することには何らかの示唆を得るくらいの価値はあると思っています。「放っておく」ことで少数者のコミュニティとその周囲が隔絶されていいのかどうか、ただ法整備や技術の普及だけで済む問題なのか、などについて考えるきっかけにしていただければ幸いです。
Commented by ひお at 2016-11-11 00:43 x
半分くらいまで読みました(笑)自分の感情を認めて受け入れるってところまでです。わたしも自分の苦手を受け入れるのに時間がかかる方なので、でもわたしの出した結論と同じかなあと思いコメントしました。
Commented by zattoukoneko at 2016-11-11 02:47
ひおさん、コメントありがとうございます。
半分まででも、読んでくれる人がいるというのは嬉しいことです(笑)

感情の受け入れは難しいことですよね。「感情で動くのはよくない、理性的になるべし」という主張の強い現代社会においてはなおさらで、自分の考えが感情なのか理性なのかわからなくなりやすい。
でも本当は感情も理性も上手いこと折り合いがつくのではないかなーとか、そのためにはどういう思想・社会ができあがればいいのかなーと。
そんなことを『考えて』いる時点で、ひょっとしたらそれは理性一辺倒なのかもしれないですけども。
できるだけ私は人の感情を大事にしたいですね。
Commented by dande at 2016-11-23 07:23 x
ネットの海で波乗りしてたらたどり着きました。
私も半分しか読んでません。(笑)
同性愛と整形の前までです。
幕末維新の頃でしょうか、西洋人が日本に来たときのことを書き記した物があります。
宿に泊まると奇妙な女がいる、気ままに部屋を出入りしていて宿主も別に咎めるふうでもない、
危害を加えることがなければどうやらそれが普通のようだ。
というようなことを書いてます。
イザベラ・バードだったかどうかは失念してますが。(苦笑)
奇妙な女という表現だったかどうかは忘れましたが所謂知能の低い障害者のことだと私は理解しました。
共存とはこういうことなんじゃないかな、なんかいいな。
と思ったことを思い出しました。
それだけ言いたくて。

いいところですね、縁があったらまた来ます。

Commented by zattoukoneko at 2016-11-23 15:39
dandeさん、コメントありがとうございます。

ご紹介いただいた文章は(たぶん)知りませんでした。
(どこかで似た文を読んだ気もしましたが、いずれにせよ曖昧)
ので、それについての感想・評価は難しいです。すみません。

ただ、著者が日本人(および知的障害者?)に対する第一印象を鮮明に書き止め、
それを読んだ方の中にdandeさんのような考えを抱く方がいる、というのが、なるほどなと思いました。
実は最近の私は、多人数の意見を結びつけて客観的な思想として理解する、というような読み方をする仕事をしてまして。そのせいか純粋に感想を抱くことから離れてしまっていました。いけませんね(苦笑)

とても参考になりました。
他の記事も気に入ってくれたようでしたら嬉しいです。
Commented by 通りすがりの女子高生 前 at 2017-02-03 04:52 x
初めまして。
セクシャルマイノリティーに対する差別に関して調べていたところ、此方のサイトを発見しました。
私自身同性愛者寄りの両性愛者で、差別をする人の意見が知りたかったので興味深く読ませていただきました。
筆者さんは、相互理解のために「どう感じたか」を大切にすべきだと主張されているのだと解釈しましたが、合っていますでしょうか。
同性愛者を気持ち悪いと思う思考や心は個人の自由だと思います。同様に、同性に恋愛感情を抱くのも個人の心の自由です。お互いの自由を守るためにも相互理解と歩み寄りが必要になります。人権の認められている人間である以上この自由を侵害するのはいけないことです。
ただ、「差別を行う」という表現は私としては違うと思います。どう感じているかの意見交換と言う方が正しいのではないでしょうか。
私も、相互理解に当たって、お互いの「負の感情」を認め合うことが大事だと考えています。だからこの点においては筆者さんの意見に賛成です。
「差別」まで行ってしまうとやりすぎではないかと思います。「差別」は一方的で自己中心的で、理解からはかけ離れたものだと思います。
私は同性愛者寄りの両性愛者だと最初に書きましたが、実際に同性愛者を目にした時否定的な感情が沸き起こることがあります。ですが、だからといって差別しよう!とは思いません。
それから、1つ意見を伺ってもよろしいでしょうか。筆者さんは「差別」の後はどうするべきだとお考えですか?どういうリアクションを起こすべきだとお思いですか?具体的にお願いします。お時間がありましたら是非お答えいただきたいです。
個人的にはこの「後」が一番重要だと思っています。
Commented by 通りすがりの女子高生 後 at 2017-02-03 04:56 x
また、文章を拝読して気になった点があるのでそちらについてもお尋ねしてよろしいでしょうか。
>実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています。たとえば異性からのひどい仕打ち(レイプなど)を受けたことが原因だったりします。
この文ですが、何か証拠や資料はあるのでしょうか。統計など…。自分でも探したのですが見つからなかったので。性被害を受けた同性愛者も、幼少期に同性の親から愛情が得られなかったために同性を求める同性愛者も居るのは事実です。ですが、私の周りに限った話かもしれませんが、心の傷が原因で同性愛者に「なった」人はむしろ少ないです。私だって異性が嫌いだから同性を好きになる訳ではありません。
後天的に同性愛者になった人もいますし、それに明確な心の傷などの「原因」がある場合は適切な心の治療を行うべきだと思います。(同性愛を治療の対象とするという意味ではありません。)

少し話が逸れますが、同性愛に「走る」という表現も適切なものではないと思います。全ての人間が異性に恋愛感情を抱き、同性愛は選択的なものである、という前提で成り立っている言葉に感じられます。同性愛は世界的にも異常と定義されているものではないので、この表現は問題があると思いました。もし私が感じたような意図で書かれたものでなければすみません。

以上、拙い文章ですみませんが、感じたことを書かせていただきました。筆者さんのような差別主義的な考えは自分にはない考えなのでとても参考になりました。お返事をいただければ嬉しいです。
Commented by 通りすがりの女子高生 付け足し at 2017-02-03 05:32 x
すみません、もう1つ気になった部分がありまして…。御説明いただけないでしょうか。
>同性愛者は激増する方向で今進んでいます。中には脳の障害などでどうしても同性にしか愛情や性欲を覚えないという方もいます。性同一性障害というやつが一番有名でしょうか。
読んでいて頭が???となりました。
「脳の障害などでどうしても同性にしか愛情や性欲を覚えない」とはどういうことでしょうか。筆者さんは、性同一性障害を正しく認識されていますか?
性同一性障害(せいどういつせいしょうがい、英:Gender Identity Disorder, GID)・性別違和は、出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識(Gender identity、性同一性)を持つために、自らの身体的性別に持続的な違和感を持ち、自己意識に一致する性別を求め、時には身体的性別を己れの性別の自己意識に近づけるために医療を望むことさえある状態』をいう医学的な疾患名。(Wikipediaより引用させて頂きました。)
同性愛がセクシャリティの話だとすれば性同一性障害はジェンダーの話です。よくlgbtと一括りにされますが、本来は全く土俵の違うものです。性同一性障害だからと言って好きになる対象が同性(この場合身体的性別での同性)とは限りません。誰にも恋愛感情や性的欲求を持たない、アセクシャルと呼ばれる人もいます。また、大半の同性愛者は生得的に「どうしても同性にしか愛情や性欲を覚えない」ものです。脳の「障害」は関係ありません。
なんだか、筆者さんの同性愛に関する認識が不十分であるように感じられました。余計なお世話でしょうが、このように言及するならきちんと調べてからにしてほしいと思います。
抜粋した部分の文章を、どのような意図でどのような認識を持って書かれたのか是非ともご説明いただきたいです。

すみません、大分攻撃的に感じられる文章になってしまいましたが、筆者さんを攻撃する目的は全くございません。単純な興味と個人的な感想です。
よろしければお答えいただきたいです。
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 02:20
通りすがりの女子高生様
コメントありがとうございます。お返事遅れてすみませんでした。
このブログ、コメントの通知機能が時々働かないことがありまして……ついさっき気付きました。
これから急ぎ、返答を書かせていただきます。

また「大分攻撃的に感じられる文章になってしまいました」とのこと、まったく構いません。
私の知識や理解がまだ足りていないのは事実ですし、またこの記事では読者を煽っている節をわざと出していました。
ですので、批判をされるのは自然のことですし、興味を持って議論に発展するのは、テーマ的にも望ましいことと思っております。
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 02:55
>筆者さんは、相互理解のために「どう感じたか」を大切にすべきだと主張されているのだと解釈しましたが、合っていますでしょうか。
はい、まったくその通りです。
差別をなくすために、「どう感じたか」を言えない社会にしてしまっては、ただ上っ面を取り繕っただけにすぎないのではと思っています。
また、気持ちを押さえつけられてしまった側は、相手に対する感情を歪めてしまうのではと危惧しています。
ですので、まず第一に、自身の感想を言える社会にするにはどうしたらよいか?
でもそれだけでは感情をぶちまけて終わるだけにもなりそうですので、その先にある理解につながるにはどうしたらよいか、考えていきたいという意見表明と思ってこの記事を書いています。

>「差別を行う」という表現は私としては違うと思います。(中略)
>「差別」まで行ってしまうとやりすぎではないかと思います。
ご指摘ありがとうございます。私自身、少し過激な言葉を選んでいる自覚はあります。
ここまで言葉をきつくしないと、相互理解を全く無視したまま、とりあえず同性愛者が社会的に認められただけの世の中になるのでは、という危機感があったことによるのでしょう。
私自身、同性愛者や、記事内に書いた身体障害者に対し、いきなり差別的な発言をすることなど絶対にありません。
一方で「医学的にこの問題に介入できるのではないか?」と頭を悩ませている医師の先生にお話聞いていたこともあって、ざっくりと「差別」という言葉を使って、「このままだと差別とされて見向きもされなくなりそうだけど、様々なアプローチを試みている人がいるんですよ!」と書いておきたかったのです。
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 02:55
具体的に「差別」の後のこと。
難しい話です。それがわかっていれば、こんな記事書いてないと思うのです。私だってこの問題に結論を出したいので……。
お答えになってるかわからないのですが、具体例を一つ挙げることはしておきます。
このテーマで取材をしているとき、カウンセラーの紹介で同性愛者?の方をご紹介いただきました。なお疑問符付きなのは、カウンセラー判断のままです。
その方は男性で、時折男性に抱かれたくなって、ゲイバーに通って相手を探すのだと嬉しそうに教えてくれました。
私はその感覚がさっぱりわからなくて、「正直に言ってしまって申し訳ないのですが、気持ち悪いです」と告げました(たぶん、ここが「差別」の部分でしょうか?)。
でもそれだけではなくて、なぜ「さっぱりわからない」のかを、言葉にしてみることにしました(これが後の対応?)。
内省してみた結果、私は同性だけでなく、異性であっても、抱かれたい抱きたいと思うほどに性欲を感じたことはないからだと気付きました。
「気持ち悪い」の根源は、実のところ同性愛者かどうかではなく、ここにあったという気付きです。
まあ、これについては、その場に居合わせたカウンセラーには「お前の方こそおかしい!」なんて言われてしまったのですが。
しかし、これは相手の方にとっても結構な刺激になったそうでして、「本当だ、なんで僕は性欲持て余すんだろう?」と不思議がっておられました。
本当はこの面談は一回だけの予定だったのですが、お互いに好影響だとカウンセラーに思われ、その後も何度かご依頼を受けて一緒にお話しさせてもらいました。
たまに道端で会って、軽く立ち話するくらいの仲にはなったでしょうか? その後お相手はアメリカの大学に研究員として呼ばれ、そういう機会もなくなってしまいましたが。
まとめると、相手に「理解できない」と伝えるだけでなく、「なぜ理解できないのか」を自分の中に見つける作業を、私は心がけているかもしれません。
お答えになっていればいいのですが。
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 03:16
>>実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています。
>この文ですが、何か証拠や資料はあるのでしょうか。統計など
この記事を書いた時点で、お話を聞かせてもらった精神科医が統計データを発表準備中とのことでした。
が、たぶんその後、論文等で発表されてない気がします。どうされてしまったのでしょう……。
ですので、私がすぐに示せる(刊行済みの)文献はなく、もしかしたらその先生の誤りがあったのかもしれません。
ここについては、私の確認不足もあり、申し訳ございません。

一応、その先生の主張をまとめておきます。
同性愛者として認められている方であっても、深く探ってみると原因が別にあるとわかる場合がある。
今まで、そこまで踏み込んだうえで、「本当の」同性愛者の数を数えた報告はない。
想定されているよりも、その人数はずっと少なくなる、というのが結論になるだろう。
とのことでした。
医師の主観をどう取り除くのかが、報告の成否に関わりそうだとは感じるテーマです。
その統計処理方法については、発表前とのことで、見せてもらうことはできませんでした。

>同性愛に「走る」という表現も適切なものではないと思います。
これについては、意識しておりませんでした。今後の検討課題とさせてください。
ただ、「異性愛は正常で、同性愛は異常(選択的)」という前提は持っておりません。
持っているのは、「心の病を原因とする同性愛は異常とされるべきではないか?」という問いかけです。
もしかしたら、これが細かい表現に出て、わかりにくくしてしまっていたのかもしれませんね。
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 04:14
>同性愛がセクシャリティの話だとすれば性同一性障害はジェンダーの話です。
これはまったくの誤りだと思います。
私自身ジェンダー論を研究のテーマの一つとしていますが、性同一性障害をジェンダーの一つして論じた正当な文献は読んだことがありません。
もしかしたら、医学とジェンダー論では「ジェンダー」の意味するところが違うのでしょうか?
私がジェンダーと使う場合には、生物学的な性に対して社会が与えた社会的な役割、と考えています。
性同一性障害は社会が与えた役割であるはずがありませんので、ジェンダーではないと思います。

また、性同一性障害には、脳の異常などによって性的対象が身体の性に一致しない例も含んでいます。
Wikipediaがまた間違ったことを書いているのかと、慌てて確認しにいってしまいました。
この回答時にも、「概要」のところで、「性同一性障害は、何らかの原因で、生まれつき新滝的性別と、性同一性に関わる脳の一部とが、それぞれ一致しない状態で出征したと考えられている」とあります。
この上で、近年は(脳から生み出されるとされる)意識こそ重要とする社会的潮流にあわせ、身体の方を異常とみなし、性転換手術や戸籍の変更を認めることが増えているだけです。
これを逆に身体的特徴こそ主であるとする考え方から見れば、異常なのは脳ということになり、つまり障害とされます。
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 04:15
記事内ではあまりに省略しすぎて書いているため、誤読されやすくなっているのかもしれません。
「性同一性障害=同性愛、ではない」ことくらい、もちろん知っています。性自認と性的指向が切り離せることも、当然理解してます。「本当の同性愛者」は必ず認められるべき、と私はしていますので、この理解は当たり前のことと言えるかと思います。
そしてまた、同性愛者?であった方が自分を性同一性障害であると誤解する例があることも、直接お会いして知っています。
先のジェンダーとは本当は異なりますが、同性同士のカップルでいるうちに、男性役と女性役が分かれてきて、自分の性別に疑問が生じてきたのだそうです。
その人は性転換手術をしようとしたところで、医師に訝しく思われ、カウンセラーに会わせたところこのことが判明しました。
こういう事例が減ってほしいという記事ですので、直後に「それって心の病かもしれませんよ?」と繋げていったつもりなのですが……意図がわかりにくかったでしょうか?
Commented by zattoukoneko at 2017-02-08 04:23
以上、通りすがりの女子高生さんへの回答となります。

記事自体がわかりにくく、誤解を招きやすくなっているかと思います。
また、私も理解不足なところがあります。
そしてまた、そもそもこの記事の主題に対しては、答えが出ていないのですよね……。

疑問に思われたところをご指摘いただければ、取材時に聞いた話などいくらかご紹介できるかとは思います。
Commented by Zeek at 2017-06-23 01:42 x
同性愛者であれ、相手が誰であってもある一定のグループに対して差別すること自体、人間としてありえない。
よくどうどうとオンラインで同性愛者に対して差別しようなんて言えるな。頭と心腐ってるな。
Commented by zattoukoneko at 2017-06-24 04:22
Zeekさん、コメントありがとうございます。

「差別は人間としてありえない」とのことですが、それは本当に正しいのでしょうか?
ではなぜ歴史的に差別というものがあったのでしょうか?

これまで「差別はよくない」とされる際には、「差別的な意識は社会的につくられた偏見であるから」「あるいは狭隘な個人の主観に基づいているから」などが根拠になっていたように思います。
その根幹には、人類は生まれながらにして平等であり、生まれたときの意識のままであれば差別は起きないはず、という性善説のような思想がうかがえます。

しかしながら、人間なり生物というのは、生まれながらにして平等ではないようです。
重篤な病気をもって生まれる方もいれば、そもそも性差というものを誰もが持っています。
そしてまた、生物として本能を備えています。
私や、私がインタビューした医師やセラピストは、ここに「差別的な意識」の萌芽があるのではと想定しています。
すなわち、差別を生物学的な差異に基づくものと考えています。

生物学的な差であるならば、それを無理に抑圧するのはよくないことと考えざるを得ません。
それはジェンダーの差を認めることと、まったく同じ原理に基づくものでもあります。
したがって、差別は認められなければならない、となります。

もちろん、どんなものであっても差別はしてもいい、なんて暴論に発展されては困りますので、
その差別意識とどう付き合っていくか、そして不当な迫害をなくすことにつなげるかを、今後考えていくべきでないかと話をしています。
その話の内容の一部を紹介するための記事が、これです。

この「生物学的な差異に基づく」という前提が正しいのかどうかはやすやすと答えが出せるものではないですが、
そのように考えた方が、世の中から『不当な差別』をなくすためには、よっぽど役に立ちそうだと私は考えています。

例えば、“オンラインで特定の誰かに罵詈雑言を吐く腐った人”に出会ったら、「その人は本当に腐ってるのかな? 実は芳醇な香りなんじゃないかな?」くらいに余裕をもって見直すことができるようになると思いますよ。
Commented by ムラカミ at 2017-06-24 14:27 x
記事からコメントまですべて読ませてもらいました。
笑さんやZeekさんのようなコメントが付くことが、本当に嘆かわしいことだと思う。

筆者は議論の前提として「頭の膨らんだ障碍者を見て、恐さのあまり逃げ出してしまった」という前提を示している。
そして、同性愛者などに関する差別的な感情も、これと元は一緒なのではないかと論を進めている。
であるならば、その前提を全面的に認めなければ、建設的な議論などできようはずがないではないか。

一つには、この前提に基づくとどのような社会が形成できるのか検討することがあげられる。
あるいはまた、そうした検討をしているうちに、やはり前提が間違っていたと結論されるかもしれない。
そのようにして、批判というのはしていくべきだ。
さもなくば、コメントはただの罵倒になるし、つまりは「理由なき迫害」=差別であろう。

貴重な筆者の体験談は、尊ばれこそすれ、無視されたり蔑まれてよいものではない。
揚げ足を取るようなコメントも私には見るに堪えない思いだった。議論の仕方から学んでくるべきではないのか。
Commented by zattoukoneko at 2017-06-24 15:16
ムラカミさん、コメントありがとうございます。
このブログ全体の主旨とも関係するようなコメントで、文章の内容をそのまま流用できないのが残念でなりません(苦笑)

触れていただいた幼い頃の体験は、おっしゃる通り、私の主張の核であり軸となっています。
デパートでその頭が大きく膨らんだ方を目にしたとき、私は思わず逃げ出して、売り物の洋服の間に隠れてしまいました。数時間後に母が見つけ出すまで、表に出ることができなかったことを鮮明に覚えています。
その体験から数年が経ち小学生になった頃でしょうか。私はそのときの行動を恥ずべきものだと思うようになりました。差別はよくないことだと教わり、もしかしたら自分の行動はそれにあたるのではないかと気付いたからです。自分は悪い人間なのかもしれないとひどく卑下もしました。
それで、どうにか理性によってかつての行動を抑え込もうと意識したのですが、恐怖の記憶があまりに生々しいせいか、否定がしきれなかったのです。
その後紆余曲折を経て、「もしかして、その気持ちを肯定してあげた方が、差別は本当になくせるのではないか?」と逆転の発想をしたことが、私の主張が生まれるきっかけとなります。

紆余曲折の中には、障害者の方々にお話を聞かせてもらったということもあります。
「差別はよくないが区別はすべき」という言説を掲げる方がよくいらっしゃいますが、私の会った方は「区別こそよくない」という主張を持っておられました。
区別されてしまうと、同じ人間であることを認めてもらえなくなるというのです。
「障害というのはれっきとした差である、その差は私たちは努力や工夫によって埋め、健常者と変わらぬ生活を送れるようにしている。なぜその努力を認めてくれないのか」という意見でした。
私はその意見を尊重する思いで、『差を認め一度自分たちとは別けてから関係構築する』という意味で、『差別』という言葉をあえて使うようになりました。

私やこの障害者の方の前提が、絶対に正しいとまではいいません。議論の出発点は人それぞれであってよいものでもあります。
ただ、私はこの『差別』の考え方にもう少しこだわってみたいと考えています。
自分の子供が同じような恐怖体験をしたときには、その気持ちを頭ごなしに否定するのではなく、どうやったら出会った相手と仲良くなれるか一緒に検討してあげたいと思っていますので。
Commented by おもちが好きです at 2017-08-14 19:08 x
質問があり、コメント投稿させていただきます。

このエントリを読みますと、先天的なものにしか同性愛は認められるべきではなく、後天的な場合には一切合切治療の対象であるかのような印象を受けます。
そもそも同性愛には後天的なものは存在しない、というのがその方針の根拠になっているかのようでもあるわけですが、本当にそうなのでしょうか?

身体の障害に先天的なものと後天的なものがあるように、性的な指向についても両方がある可能性はありませんでしょうか。
異性愛者であっても、生後の経験によって好みのタイプに影響が出ているのが普通だと思います。
同性愛もそのうちの一つなのではないか、というのが私の抱いている見解です。

よろしくお願いします。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-14 19:29
おもちが好きですさん、コメントありがとうございます。

後天的な場合の同性愛が認められるかどうかについてですが、当記事ではそこまでは問題として取り上げていません。
その議論に発展する前の、準備のための話題提供と思っています。
論旨をわかりやすくするために、そこまでは触れずに書いておりました。が、かえって誤解を招いてしまったかもしれません。

話を聞かせてもらった医師やセラピストの中には、「生まれつきでない同性愛は認めない!」というラジカルな方もいましたが、
私自身はもっとずっと緩やかでいたいと思っています。
そしてそのためには、個々のケースについてよりよく話を聞かせてもらいたいと考えていますし、
そしてまた、社会全体が個々の話を聞こうという雰囲気になっていてほしいと願っています。

しかしながら、「性的少数者は何が何でも認められるべき!」というような主張が声高に叫ばれてしまった結果、「関わると面倒だから一線引いておこう」とか「自分には関係ないから勝手にやってろ」みたいな意見の方が増えてしまった気がしています。
これはよくない傾向だ、かえって差別が強まっているのではないか――という危機感から書いたのが、この記事となります。

同性愛についてざっくばらんに意見交換ができ、違和感や嫌悪感すら踏まえて話し合える環境づくりが第一と考えています。
どうして同性愛になったのか、どういう社会制度が整えられるべきか、という議論はその先に来るはずと思うので、
後天的なものもあるかどうかについては、明確には結論を持てていません。

回答になっていれば幸いです。
Commented by おもちが好きです at 2017-08-15 17:30 x
ご回答ありがとうございます。

なるほど。相互理解のための社会的背景が整っていない、どころか損なわれつつあると危機感を抱き、まずはそこから注目をしようという呼びかけをしたエントリだったわけですね。
Commented by もりなが at 2017-08-20 17:20 x
>実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています。たとえば異性からのひどい仕打ち(レイプなど)を受けたことが原因だったりします。

これ、具体的な数字だせるんですか?統計を取ったのですか?
セラピストから聞いた話ですって?医師から聞いた話ですって?取材をした?取材した人数は最低でも100人は居るのでしょうか?
具体的な数字も出せない、憶測の域を出ない当て推量を事実のように書く。
これは記事の内容以前の問題ですよね、ここに関してはあなたに一定の非があることを認めては?

ちなみに私は筋ジストロフィー患者で、あなたのような軽い障害ではありません、明確な"死"が間近にある障害です。
軽度の障害を持っているだけで、あなたはなにか自分が特別な存在であるかのように錯覚していませんか?
非を一切認めない姿勢からはそのような思考が透けてみえるようです。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-21 02:05
もりながさん、コメントありがとうございます。

取材した人が最低でも100人は必要とのことですが、すみませんが、そのご意見は正当なものとは思えません。
学術研究が顕著でわかりやすいと思いますが、先行研究として参考するとき、同じ見解のものを多数集めろなどとは言われません。
ただし、その先行研究の見解が妥当かどうかは、きちんと吟味しておく必要はあります。
そしてまた、その吟味した過程を説明できればよいはずです。

では、具体的に説明します。
私はとあるセラピストから統計について発表の予定があるとうかがいました。この時点では、もちろん鵜吞みにするわけにはいきません。
次に、この方とやや対立気味にあった精神科医を知っていましたので、このことについて意見をもらいました。「具体的な数値はわからないが、体感としてそのような方を多く診察していると感じる」とのことでした。
両先生に仲介してもらいながら、何名かの自称同性愛者の方にもお会いする機会を得ました。一緒にお話をしていく中で、実際に「あ、自分は同性愛者と思い込んでいただけかもしれない」と目の前で気付かれる方もいました。
この気付きをした方が最も印象に残っており、つまりは、両先生が見ていたものはこのことだったのだと私は納得したわけです。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-21 02:05
正直言いますと、この自称同性愛者の方に会うまでは、私はセラピストの推論を疑わしいと思っていました。
心の傷で同性愛に走るなんて、そんなはずないだろうと。
しかし具体例を目の当たりにし、これが見過ごされつつある社会状況に危機感を覚えるに至りました。
ですから、(もしかしたら件の統計が世に出て認められるまで待つのがよかったのかもしれませんが)先行してブログに書く許可をもらい、ご指摘の文章を書いております。

この『統計』は、もちろん間違っている可能性もあります。
ですので、間違っているとお思いなのであれば、ぜひ反対の結果を導くような統計調査を実施してください。

あるいは、私がこの『先行研究』を信頼できると考えた過程が、あまり適切でない可能性もあります。
検討不足と思われる箇所がございましたら、ぜひご指摘をお願いします。
このような批判であれば、いずれは私もこれを論拠にするのは問題だと認識し、撤回するやもしれません。

しかしながら、もりながさんの場合、「具体的な数字が出てないから間違いだ!」としか言っていません。
それこそが「憶測の域を出ない当て推量を事実のように書く」ことだと気付いているのでしょうか?
正確には「具体的な数字が出てないから『まだはっきりとはしてない』」であるはずです。
そのことに気付いてもらえれば、次の議論の方向性が見えてくるはずと思って記事を書いたつもりだったのですが……。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-21 02:05
せっかくの機会ですので、ご指摘の箇所について、もう少し私の目的を白状しておきます。

「同性愛者の多くは、心の病から同性へと走っています」とあたかも統計的な事実があるように書き、しかしながら具体的な数字を出していないのは……。
批判者の注目を集めるための『トラップ』です。
ですから、そのくだらないところに意見が集まれば集まるほど、私としてはニヤニヤします。

一つ前のコメントにも書きましたが、この統計は未発表であり、私自身まだまだ検討されるべき課題と認識しています。
セラピストや精神科医への取材から彼らは信頼できると述べましたが、こんなものもしょせんは主観でしかありません。いくらでも批判できる余地はあるのです。
そのことに、記事を書いた私自身が気付いています。気付いていないわけがないのですよ。

私の目的は大小の二つに分けられます。
まずは小さい方から。

統計によって具体的な数字が出るのは望ましいことです。データとして議論に利用できるからです。
ですから、この記事を読んだ方には、ぜひ「この箇所は『まだはっきりしてない』と読みかえておくべきだな」と気付いてほしかった。
それはさらなる調査研究につながる課題となります。そうして、このテーマに関してもっと注目が集まってほしかったのです。
……だったのですが、この箇所を批判する方は「具体的な数字が出てないから間違いだ!orいい加減だ!」と言い募るばかり。
何だかネット上によくある議論の真似事ばかりがコメントについてしまって、悲しいかぎりです。
まあ、聡明な方はコメントなんてせずにすでに調べ始めてくれているのだろうと、期待することにしますが。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-21 02:06
次に大きい目的。
はっきり言ってしまって、この『統計』が正しいか間違っているかなんて、私にはどーでもいいことです。
私がこの記事を書いた目的は、差別というものに関し、それは原理的な感情に根差しているのではと読者に考え始めてもらうことです。
この『統計』に特に引っかかりを覚えない読者の方にとっては、この箇所に執拗なまでに悪態をついている批判者の目には、重箱の隅を突いているだけの人と映ることでしょう。
大目的をすんなり読み取れている読者の方は、このようなちまちました方など気にせず、どうぞ次の議論ステップへお進みください。
私はもう少し、箱の隅の汚れを気にしているようなことは行儀が悪いことなのだと、教えなければいけないようですので。

この記事は論文でもなければ、統計データを示す資料でもありません。
ざっくりとした議論をし、読者に関心を持ってもらうことを目的とした、雑記です。
ですから、テキトーに誤魔化しているところもあれば、わざと批判を受けやすいように極端な書き方をしているところもあります。
細かな間違いや疑義が気になった方はそれについて調査してくれれば嬉しいですし、
間違い含みでも私が伝えたかったテーマが読者の今後の思索に役立てば、それが嬉しいことなのです。

――と、これらの誤魔化しや目的は、取材先のセラピストや精神科医に記事を読んでもらったときはあっさりと見抜かれたんですけどねえ。
だからこそ読者も大丈夫だと思ってたんですが、うーん、期待しすぎだったのでしょうか。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-21 02:17
さて、もりながさん、最後にもう一つ批判です。

私自身は障害に重いも軽いもないと思っています。障害を持っている相手になって、その障害を実際に体験することはできないからです。
軽度の障害であっても自殺を考えるほど思い悩む方もおられますし、重度の障害でも平気そうに日々を送られている方もおられます。
私も医師には「成人することはできない」と言われたくらいには生まれつき体が弱いですが、それで悩むことは……ないとは言いませんが、些細なことでしかないです。

死が迫っているという感覚は、それだけで恐ろしいことだと、心中お察しいたします。
もしかしたら、コメント内でそのことを告白されるだけでも、つらい思いをされたのかもと思いました。

ですが、その実体験報告は今回の議論やご批判とはまったく関係のないものですから、通常であれば「ふーん、それで?」で終わってしまうものです。
私はあなたの主治医でもなければ、カウンセラーでもありません。実際に対面したこともありません。
あなたの状況はわかりませんから、同情以上のコメントも理解も一切しようがありません。

しかしながら、このコメントの箇所だけ、ひどく心配になりました。
そのような告白までしてでも私を引きずりおろそうという姿勢が、何だか歪んでいるように見えます。
もりながさんの目には、私が特別で偉い人にでも見えているのでしょうか?
このような記事、取るに足らないものと思ってもらうくらいでちょうどいいと思うのですが。

私は特別ではありません。非を認めないわけでもありません。
もらっている批判のほとんどが「記事を書くときに想定済み」の「痛くも痒くもない重箱の隅」ばかりだから、そのように映ってしまうだけだと思います。
批判の内容についても、ご自身の状態についても、一度顧みられることをお勧めします。
Commented by zattoukoneko at 2017-08-22 12:53
せっかくついでに、もう少し補足説明。

私は取材を通し、「自分は同性愛者だと思っていたが、もしかしたら違うかもしれない」と、精神科医やセラピストに診てもらっている方々が実際にいることをしりました。
しかし世間の流れとして、「同性愛は心の傷と関係しているはずがない!」という主張が、十分な検討がされないまま、罷り通るようになりつつあるとも感じました。このままでは先のような擬似例が見過ごされてしまいます。
ですから、医師や周囲の人に若干の懐疑的な視点を持ってもらうことに、一程度の効果があるもしれないと考えています。そのような方には『心の傷と関係している擬似例が多いのかもしれない』と思ってもらうだけで十分なのです。「多い」とか「増えている」という言葉は、注意喚起のためのレトリックと言ってしまってもいいかもしれません。
このような私の動機、目的が読めている人にとっては、統計が実際に正しいかどうかは重要な問題ではないはずです。

それどころか、こんなにもコメント欄に「そんなはずがないだろう!」と根拠に乏しい意見が集まってしまっては、私の動機である「世間が懐疑的な視点を向けることすら認めなくなりつつある」が正しいらしいと強化されてしまいます。
ですから批判者の方々の意見は批判としての効果をあげていないし、逆効果なのですから、私としては「ニヤニヤ」にしかならないと書きました。

ただ、このような批判ばかりでは議論が先に進まないのも事実です。いくつか前のコメントでその点を指摘されてしまったと、耳が痛い思いをしましたが。
私の本当の希望は、議論が先へと進み、同性愛者にもそうでない人にも過ごしやすい世の中に繋がることです。
例えば、医師やセラピストに診てもらっている同性愛者がいると書きましたが、本当に治療可能なのかどうかは明確に答えが出ていないと思います。症例報告の蓄積が望まれるでしょう。
件の統計についても、調査が複数なされるのが望ましいです。それらは基礎的なデータとして多くの益をもたらすと思われます。

この記事は今後の課題となるべき事柄を多数含んだものとして書いたつもりのものです。
ですから、読者には発展性のあるテーマを見つけ出していただけると嬉しいと感じます。
Commented by 反差別 at 2017-10-11 14:05 x
だいぶ昔の記事に対してのものなので気が引けたのですが、いくつか気になったことがありますのでコメントさせてください。

記事及びコメントまですべて拝見しましたが、まず、コメントでていねいに説明されていることを記事内でお書きになるべきであったと思います。
もしコメントがまったくつかなかったとしたら、単純に偏見の強化につながる表現が散見されました。種々の差別について研究している身からすると、素朴に「危険」と感じた次第です。
具体的に以下3つ挙げてみます。

・「バリアフリーなどの健常者と障害者が共に暮らせる社会づくり…(中略)…はまだ健常者からの押しつけの域を出ていません」
バリアフリーや合理的配慮は健常者から障害者に与えられているもの、つまり「健常者並みであることを障害者が求められていること」を、前提とされているように感じました。
しかし、バリアフリーなどができあがった背景には、青い芝の活動などでよく知られているように、障害当事者からの異議申し立てと激しい運動があったことこそ大事です。
それに、社会が健常者をモデルに設計されているからこそ、そうした意識を是正させようという、まさにzattouさんがおっしゃっているような認識のすり合わせが起き、その行き着いた先が、バリアフリーや合理的配慮なのです。
障害者側からのモーメントが(意図的かどうかはわかりませんが)無視されている、「障害者=物言わぬ人たち」ということが無批判に前提とされているように感じました。
Commented by 反差別 at 2017-10-11 14:06 x
続きです。

・「実は同性愛者の多くは、心の病から同性へ走っています」
この部分には多くの方からコメントがついていますが、それはやはり、いくら「煽る」意図があったとしても、こうして断定的に何の留保もなく述べられてしまうと、単純に偏見の強化につながるからではないでしょうか。
もちろん、コメントのところで追記されているように、「心の病」から自分の性的指向が揺れる人もいるでしょう。それが本人にとって大変な苦しみを生むものであるなら、それは取り除かれてしかるべきと思います。
ただ、最近SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity)という概念で説明されているように、性的指向と性自認にはグラデーションがあることが言われています。誰に心惹かれるか、自分がどのようなジェンダーかということは、生物学的な性に関わりなく、これだと一つに決められるものではない、ということです。むしろ、自分は女性の体を持って生まれた女性で異性愛者だ、というようなアイデンティティを持つ人が多いのは、「それが正常である」と社会が要請しているからです。
つまり、同性愛、異性愛、という区別(zattouさんの言い方を借りれば「差別」)すら、ナンセンスなわけです。
「正常」を問い直す作業、という意味では、このように性的指向や性自認を幅広く捉えていくことは、zattouさんが目指されているような、他人同士の理解を促進していくことと同じです。それは、先天的、後天的ということではなく、個々人の人権を尊重することにもつながります。
「自分が同性に惹かれていることに悩む」という人の苦しみを癒やす方法は、その人が「実は異性にも心惹かれることに気づいてもらう」ことだけでなく、「同性に惹かれる自分を受け入れられるようにする」こともありますよね。
自分が同性に惹かれるかどうかが先天的かどうかなんて、正直なところ本人にも医者にも判別不能なものだと思います。むしろ、「同性に惹かれることはおかしい」と後から社会に気づかされるものではないでしょうか。気づかされる経験のなかった(薄かった、そうした社会で生きてこなかった)人は、そういうことを考えもしないと思います。だから、「同性に惹かれてしまった人たち」は社会に悩まされているのです。
同性愛が病理化されることの「過誤」についても、お調べすることをおすすめします。
Commented by 反差別 at 2017-10-11 14:06 x
続きです。

・「性同一性障害には、脳の異常などによって性的対象が身体の性に一致しない例も含んでいます」
「通りすがりの女子高生」さんへのコメント部分で出てきた表現です。
性同一性障害には「障害」という文字が入っているために、脳の異常などの病理である、トランスの人たちは必ず手術を望んでいる、といった偏見をもたれてしまうことが、いま問題になっています。
それは、トランスの人たちが自らの権利を認めてもらうために戦略的に「病理化」してきた、という背景を忘れ去ることにもなります。
性別の越境は、社会通念上非常にハードルの高い難題でした。しかし、トランスの人たちは自らの性を自由に生きられないために、仕事や住居が得られないなど、実際生命の危機に直面していた。それを最も効果的に社会に認めてもらうために、性別への違和を「病理化」する運動を起こしたのです。
それは一定成功し、医者の診断をもらえば、自らの性別を変更することができるようになり、トランスの人たちの権利は大きく向上しました。
しかし、「病理化」する過程で手術要件が加わってしまったために、手術をすることまでは望んでいないトランスの人たちが法律上の性別変更を行えない、という問題が現在起きています。
先述したように、性自認にもグラデーションがあり、生物学的な性によって二極的に捉えられるものではありません。生物学的な性まで変えたいという人は、いわゆる「男性」「女性」にむしろ近く、そこまではいかないトランスの人のほうが多いかもしれません。
社会は「男性」「女性」の二極を前提に作られていますから、これも健常者前提に設計されていることと同様、そうした社会構造が、まずもって多くのトランスの人たちを苦しめているわけです。
Commented by 反差別 at 2017-10-11 14:07 x
最後です。

それ以外にもあるのですが、このあたりで。
差別感情を抱いた自分の心にまず目を向ける、という着眼はしごくまっとうなものです。ただ、そうして浮かんだ感情を「当たり前」「自然のもの」と捉えるよりも、そもそもなぜそれが「自然のもの」と感じたかを疑うことの方が大事だと思います。それは、社会が前提とした多数派の「常識」について考えることにもなります。zattouさんの元の記事の書き方ですと、差別感情自体が「当然のもの」と考えているところで止まっているように読めるので、その一歩先のところをきちんとお書きになるべきであったと思います。
「差別」すべき、というよりは、当人を悩ませている「常識とのすれ違い」に気づく、ということではないでしょうか。そしてそれは、問題を「患者」という個人に帰することなく、社会に開くものです。

ご一考いただけますと幸いです。
Commented by zattoukoneko at 2017-10-12 06:19
反差別さん、コメントありがとうございます。
私の記事よりも一歩も数歩も先のご意見と思います。大変参考になりました。
ただ、反差別さんご自身が一側面しか見れていないようにも感じはしました。

「未知の他人」に接したときに抱いた感情に対し、『これは常識に囚われているのでは?』と自己を見つめ直し、さらには社会に還元できるようになる。
ここまでいけば本当に素晴らしいと思いますし、私の記事の先にそれが導かれれば夢がかなったとすら言えます。
ですので、自身の差別的な感情に気付いただけでゴールにしていいとは思っていません。
>差別感情自体が「当然のもの」と考えているところで止まっているように読める
とのことですが、これは「当然」の意味しているところをはき違えた、誤読に近いものと思います。

そもそも何であれ、常識を疑うというのはとても難しいことです。
なぜならば、人は自分の気付きや感情の揺れ動きを容易に見逃してしまうからです。
あるいは気付けたとしても、常識と大きくずれている場合には、気の迷いや偶然として処理してしまいます。
感情ではないですが、セレンディピティと科学的発見の事例がわかりやすいでしょうか?
つまり、常識を疑えるようになるためには、ステップが必要ということです。
他者との遭遇→感情の惹起→感情への気付き→感情の一時的受容→他者との継続的な交流→感情の変容→社会常識との齟齬への気付き→常識を疑う
といったところでしょうか?
私はこの過程のうち、他者との交流のところまでを最も大事と考えました。
社会がよりよくなることは最終目標にすぎません。
それが達成されなくとも、身近な人とよりよい関係を築くこと、それをまずは訴えたいと思っています。
一方で、反差別さんはこの過程ていうと後半のところに関心があるとお見受けしました。ですので、私の記事を「途中で止まっている」と感じたのではないかと思います。
重点の置いているところが異なっている、というのが実際ではないでしょうか。
Commented by zattoukoneko at 2017-10-12 06:20
また私は、感情と常識(あるいは学説)を、生得的なものと社会が作ったもの、と単純に分けていいのかと疑問に感じています。
男らしさや女らしさは社会が生み出したステレオタイプですが、その影響を色濃く受けた時代の人は、感情惹起や思考の面でも男らしく女らしくなっていた可能性があります。
そして逆もまた然りで、人々の営みの変化が、常識や学説に影響を与え、時に科学理論さえ変容させうる、ということはすでに認められていることです。
反差別さんがご指摘のように、近年では性にはグラデーションがあるのが当たり前とされてきました。
私個人はそれを好意的に受け止めていますが、もしかしたら個人主義、相対主義の台頭の影響もうけているのではと、常に慎重に疑うようにはしています。
自身や身近な人の性の在り様について、個々人が常に考える時代になっていくと私は予想しています。
その意味でも、「社会がこうなっている」「生物学的にこう」という一般論の発展よりは、あえて少し未熟な感情の受容をより大事だと主張することで、柔軟な人付き合いを生み出せないかと私は目論んでいるわけです。

学術的に考えようとすると、どうしても一般化は避けられません。すると個人の感情や特殊な事情は蔑ろにされがちです。これは学問の宿命であり、弱点でしょう。
これを何とかしたい、というのが私の目標です。感情すら取り入れた学問をいずれは築きたいし、もしかしたら今のままでも工夫によってはある程度可能かもしれない。
この記事もそのチャレンジの一つです。
あえて学術論文のような正確性は期さないようにしていますし、「煽る」ことによって読者に感情へ意識的になってもらうところから始めてほしいと考えました。
人によってはまったくの逆効果だと言う人もいるでしょうし、反差別さんのようにリスクがあると思われるかもしれません。ごもっともと思います。
私自身この記事が成功したとは思っていませんし、今でも書き直すべきだと夢に見て飛び起きることすらあります。
今後も試行錯誤を続けるべき課題と思っています。
Commented by なも at 2017-12-18 23:32 x
この記事を読んだとき私の中で燻っていた感情が少し落ち着いたように思います。

私は障害者の方や同性愛者の方を内心差別しています。もちろん態度には出しませんが、生理的に嫌悪感があります。
今は"受け入れられない人"は攻撃の対象となっているように感じ、受け入れられないと悪なのかな?と日々疑問に感じていました。

整形を何度もする前や、自分は同性愛者と公言する前に、一度心療内科などにいってみた方がいいと思いますが今それを言うと自分は病気ではない、差別だ、とこちらが責められる世の中です。

この世の中は少し怖いと思います。

最後になりますが、この記事を書いてくださりありがとうございます。貴方はすごいです。堂々とご自分の考えを不特定多数の人々が見るインターネット上に著すことをしているのですから。
貴方のおかげで少し気が晴れました。本当にありがとうございます。
Commented by zattoukoneko at 2017-12-19 06:22
なもさん、コメントありがとうございます。
私の記事で誰かの気持ちを楽にできたと知れて、嬉しく思います。

本当に平等であるということは、双方にとって気持ちが楽になることが大事なのですよね。
ですが現在は(差別も問題に限らず)、少数派であることを否定する=差別をなくす、と図式化されてしまっている気がします。
ですから、声を大にすることで数が多いと見せようとしたり、「自分たちは普通だ」と頑なに言ったりする。それは非常に暴力的な行為ですので、周りの人は一線引いてしまったり、なもさんのように怖いと感じてしまうのではないでしょうか。

根本的な解決のために、まずは「少数派であっても、仮に異常だったとしても、独特な個性だからそれでいい」と意識が変わるべきかと思っています。
そのための一つの手がかりとして、どうしても沸き起こってしまう嫌悪感に目を向けられるようになったり、医療の整備を提案していると考えていただければ幸いです。
ベストな方法はまだまだわかりません。模索してくれる人が増えると嬉しく思います。
Commented by KaNaN at 2018-04-05 02:23 x
著者さんの主張におおむね賛同です。
長年のモヤモヤを解決してくれたかのような、素晴らしい記事と思いました。

一点、改善できるところがあるのではと思い、コメントさせていただきます。
それは、著者さんの想定される感情を表すために、「差別」に代わる語を生み出すことです。

著者さんの「差別」は、自分とは異なる他者にレッテル貼りをし不当に虐げる差別とは、明らかに違うものです。
しかし、コメントまで拝見すると、この区別が付いていらっしゃらない方が散見されるようでした。これではすごく残念です。
近年では、しばき隊など、自身の暴力性を差別と絡めて正当化するような人も居ます。このような方々と混同されてしまったのではないかとも想像しました。

著者さんは括弧付きの表現を使うなど工夫をされておられますが、それだけでは誤読は避けきれないのかもしれません。
ご一考いただけると嬉しく思います。
Commented by zattoukoneko at 2018-04-05 03:40
KaNaNさん、コメントありがとうございます。
そのご提案、実はこの記事を書くよりずっと前から、私も考えていたことでした!

ただ、新しい用語をつくることは、この記事の議論の先にある課題とも感じています。
私が障害者の方から「差別こそしろ」と言われた経験があるから、それにこだわっているせいも多少あるかもしれませんが……。

私が一番大事だと思っているのは、どうしても自分のうちに沸き起こってしまう嫌悪感のような感情に向き合うこと、です。
こうした気持ちは、大抵の場合、よくないものとされています。それを認め、向き合うためには、「『差別』を認める」と表現しておいた方が現状ではよいのではないかと思うのです。
迂闊に小綺麗な言葉で代替してしまうと、自分の心の中の葛藤との間に、乖離が生じてしまいやしないかとも思いまして。

自身の仄暗い感情に向き合うことが簡単にできるようになり、他者との相互理解も当たり前のようになされる社会が整ったときには、代わりの言葉は自然と生み出されるのではないかと期待しています。
……べ、別に巧い言い回しが思いつかないからって、丸投げしてるわけじゃないんだからねッ!(←二十年以上、言い換えについて悩み続けてます)
Commented by カスミ@女性同性愛者 at 2018-04-13 20:29 x
初めてコメントさせていただきます。
この記事自体は大分前に既読だったのですが、朝日新聞の原田さんによる「LGBTが気持ち悪い人の本音」という記事に反論するウェブニュースを見て、ここに戻ってきました。

以前にこちらを拝読したときには、正直なところ、少しムッとしたのが本当のところです。
ですが、上記の反論意見を読み、著者さんの危惧していたのはこういうことかと怖くなりました。

反論記事では、「差別的な表現さえしなければいい」「理解できなくても、関わらなければいい」と主張されていました。
本当に無責任で、当事者のことを何も考えてない意見だと思います。
私たちは、恋人のことを法的にパートナーと認めてもらうだけではなく、家族や親しい友人にも受け入れてほしいと思っています。どれだけ法律が認めてくれても、周囲から内心気持ち悪いと思われているかもと考えたら、正直に自分の恋愛を打ち明けることなんてできません。

差別的な表現だって、これは私だけかもしれませんが、してくれて構いません。むしろ屈託なく言い合えるようになることが、本当の差別の撤廃だと考えているくらいです。
とんねるずさんの「保毛尾田保毛男」にも、私は不快感を抱いたことがありません。そういう架空のキャラクターとして、とても笑わせてもらっていました。

理解できないものには関わらなければいい、とか、気に入らない表現は徹底的に叩いてやれ、という今回の反論記事のような風潮が出てきてしまうと、zattoukonekoさんのご指摘していたように、私たち被差別者は独自のコミュニティを形成して閉じこもることになってしまうと思います。
反論記事の著者さんは、身近にマイノリティのお知り合いがいない(と思っている)から、このような意見を平気で言えてしまうんじゃないかと想像しました。「あなたのすぐ隣に本音を打ち明けられずに苦しんでいる人がいるかもしれないんですよ」、「その想像せずに『関わらなければいい』だなんて言って、何が共存なんですか?」と言ってやりたいほどです。

表面的な差別だけ見えなくし、違和感を口にした人には差別主義者とレッテル貼りして徹底的に攻撃するような、現在の流れを私はとてもおそろしく感じます。
著者さんのご意見には賛同できないところも多々あるものの、今回の一件で、本当にマイノリティの方々のことを考えているのが誰なのかはわかった気がしました。
Commented by zattoukoneko at 2018-04-13 22:36
カスミさん、コメントありがとうございます。
ご報告いただいた記事と思われるもの、拝見してきました。
とはいえ、肝心の元記事を読めていないので、以下のお返事は見当違いになってるかもですが。

反論記事、確かにひどいですね……。
というのも、元記事の主張の出発点や話の筋道を一切合切無視していて、自分が思うところの正義をぶつけているだけですから。
これでは反論でも議論でもなく、喧嘩をふっかけているだけと思います。
「理解できないものには関わらなければいい」の結論を、この記事自体が覆していやしないか、とも感じられそうですし。

ただし、カスミさんの期待とは異なってしまうかもしれませんが、この記事の主張も私は理解できる気がします。
私はマイノリティの方々と気さくに話し合いがしやすくなってほしいと思っていますが、その結果で必ず相互理解が生まれるとまでは楽観視していません。「全く理解できない」とお互いに結論に至ることもあるでしょう(私がお話させていただいた中には、むしろその割合の方が多かったかもしれません)。話し合いの末に関わり合うこともやめようとなったなら、それも立派な答えと思います。
「関わらない」という言葉がよくないのかもしれません。「棲分け」と考えればよいでしょうか?
私自身は障害者の方々からコミュニティを形成している話を聞かせていただきましたが、その状態が心地よいとされる方の方が大多数でしたし、ですから十分にありうる答えと今回はわりとすんなり受け入れられた気がします。

ただやっぱり、同じ社会での「共存」を目指すなら、お互いに話し合える環境、雰囲気づくりは必要と思います。
Commented by カスミ at 2018-04-14 06:50 x
著者さん、お返事くださりありがとうございます。
すみません。そうですよね、書き手の主張をまず受け入れてから、話の展開を見なくちゃいけなかったのですよね。

私は同性の恋人がいることを、親しい友人だけ(両親はまだです)には打ち明けています。
友人たちは興味本位で私たちの生活のあれこれを聞いてきたことがあり、友達とのおしゃべりとして、私は楽しく時間を過ごしました。
反論記事を読んで、そのような経験すら許されなくなるのかと、冷静さを欠いてしまっていたようです。

著者さんにご相談して、本当によかった。
心の不安がだいぶ解消されたように思います。
お手数をおかけしました。
Commented by リョウサエバが好き at 2018-04-20 05:54 x
カスミさんのコメント、すっげーわかる!
僕も思いましたもん。ここの著者さんの予言(?)が当たってるって。

著者さんは心優しいですね。「棲み分け」なんて柔らかい表現を使ってる。
僕なんかは、これって「排斥」だろうよと思ってるので。
マジョリティの側が「関わらなければいい」なんて言い出したら、もう数の暴力だって分かってないんじゃないかな。

「みんな仲良く」が差別をなくすことと教わった身としては、あの反論記事にはぞっとしますね。
僕は、差別=異質なものとして排斥すること、と思ってる。反論記事の方こそ差別むき出しでしたよ。
差別的な表現されることなんてさほど何とも思ってないんですよ。ほら、昔の文学に「当時の表現ー」みたいな注意書きがよくあるじゃないですか。あの感じです。但し書きなんかなくても、他に言い換えできなかったんだなって僕たちわかるんで。

著者さん頑張ってください。ここに理解しようと努めてくれる人がいるとわかるだけで、僕たちには励みになります。
Commented by zattoukoneko at 2018-04-20 13:33
リョウサエバが好きさん、コメントありがとうございます。
予言ではないですね(苦笑)

もう二十年近く前になりますが、同性愛者の権利向上を求めるデモ(集会?)の様子を見に行ったことがあります。
騒いでいる集団から外れて、数名いらっしゃるのに気付いて話しかけてみたところ、「生活の悩みがあって来たけど、誰も相談に乗ってくれない」と途方に暮れておられました。
結局どうしようもなく、その数名の方と私とで少しだけお話したという。今から思うと、具体的なアドバイスも何もできず、反省点ばかりですが。

あれ、今回の話題とはズレてるかな……?
ともあれ、その頃から、実生活の悩みがきちんと取り上げられていないのだとは感じていました。
ですので今始まった問題ではなく、したがって予言ではないですね。

勘違いなきよう言っておかねばならないのは、私が必要と思っているのは、
少数派の方から打ち明けられることがあったとき、打ち明けられた側は興味本位でもいいから悩み相談に乗ってあげられる姿勢、打ち明ける側は相手の不理解によって傷つく言葉が出たとしても耐えられる強さ、です。
そして、それらが自然と準備できる社会の雰囲気です。

話し合ってみて、結局理解し合えず仲違い、ということもあると想定しています。
ただそれは、最初から関係を持たないという、断絶とは異なった結果と考えます。
人の相性のようなもので、性格的に合わなかった、というのに近いものになるのではないでしょうか?

私は、話し合えば誰のことでも理解でき、仲良くなれる、とは思っていません。
無理な人は無理です。私にも実際にそういう人がいます。
しかし、差別意識を乗り越えて、そこまでたどりつくまではいけるのではないかと、その方法を考えていると捉えていただけると嬉しいです。

とはいえ、今のところ個々人ごとに丁寧にお話を聞くくらいしか思いつかず、
そのため一概に「こうすればよい!」と言うには程遠いのですが……。
Commented by つつ at 2018-07-22 00:23 x
差別主義者の方って差別対象にどの程度の嫌悪感を抱いているんでしょうか。

人それぞれだとは思いますが、私がゴキブリに対して感じる生理的嫌悪感と同等の嫌悪感を差別対象に抱いているなら、克服は相当困難だなと思ってしまいました。
Commented by zattoukoneko at 2018-07-22 04:00
つつさん、コメントありがとうございます。
私へのご質問ということで、ひとまずお答えするのでよかったでしょうか?

まず初めにですが、生理的な嫌悪感というよりは、拒否反応といった方が感覚的には近いでしょうか?
(なのでゴキブリとは惹起されている感情が違っていると思っています)
例えば、多くの人は外科手術の写真や映像を見たとき、目を逸らしてしまいたくなると思います。
これが記事本文でも書いた「幼少期に頭の大きい人を見た」の体験に近い気がしてます。
そのときの私は逃げ出してしまっていて、相当な拒否反応だったことがわかっていただけるかと思います。
しかし、医師が手術を行えるように、手術の現場や医学論文に多数触れていくうちに、拒否反応は薄れていくものです。
つまり、理解によって差別的な感情は克服できるものと期待できます。

一方で、『差別してもよい』と思っている本当の差別主義の方の場合は、上記とは事情が異なっているのではと考えています。
すなわち、『社会的な不平等が生じていて当然だし、そのような境遇に追いやってよい』と考えている場合には、上記の感情だけでなく、偏見がプラスされていることになります。

しかしながら、残念なことに、誰しもがある程度は偏見のようなものを持ってしまっているものと思います。
『障害を持っていると生活が大変だろうな』といったものとかです(実際には当事者と親しくならないとわからないはずなのに)。
ですから、自分の内に沸き起こった拒否反応が感情なのか偏見なのか見極めるためにも、一度その拒否反応を認めるのがよいのでは、と私は考えたということです。
Commented by zattoukoneko at 2018-07-22 04:02
次に、どの程度か、という話ですが、
これについては、お相手によって異なるのが普通で、一概には言えないように思っています。
拒否反応の程度によっては、まさに克服困難もあり得るのではないでしょうか?

一つ正直に告白しますと、私はこれまでに、知的障害を持っている方でそもそも近寄りたくないと判断してしまった方が数名います。
親しい相手への愛情表現らしいのですが、抱きついてきて力いっぱい背中を叩く方とか、
うめき声をあげながらテーブルや窓ガラスをずっと叩き続けていて、食事を周囲に飛び散らかす方とか。
今から思えば、大きな音が苦手などの私側の問題もあったなーと思うのですが、
当時はお近づきになってもお互いによくなさそうだと感じて、お話しすることすら拒絶してしまいました。
今でも、仮に親しくなれていたとしても、恋人や友人に会わせられないなと想像してしまいます。

すべての人に対して、かならず相互理解をしなければならない、とは言えないと感じています。
ご家族や介護の方のお話では「慣れると可愛いですよ」とのことだったので、克服「不可能」ではないのでしょうけどね。
Commented by zattoukoneko at 2018-09-23 19:58
コメントでも度々ご指摘いただいていた、統計についてですが、
先日、そのお話をしてくださっていた先生にお会いする機会があったので、その後についてお聞きしてきました。

結論としては、「論文としてはまだ投稿していない」とのことでした。
現在は東日本大震災で被災された方々のセラピーやカウンセリング、ならびにその報告をまとめることに専念されているそうです。

話が脇道に逸れますが、実は、ほんのちょっとだけですが、私もそこに関わらせてもらっていました。
(当ブログの「いつまで『被災者』やってるのさ!」という記事は、そのときの話し合いでもらった意見をもとに構築しています)
確か、先生ご自身福島のご出身で、そのためか並々ならぬ信念を感じていました。今でも変わらぬ熱に感銘すら覚えます。

話を戻し。
先生ご自身は論文にはしていないとのことでしたが、共同研究者やお弟子さんが「同性愛者は増加傾向にある」ということを前提に据えた論文をいくつか発表されているようではあるそうです。
主に、教育学や心理学・カウンセリングの分野での発表になっているそうで、同性愛者とカミングアウトする者の中には性自認を誤っている者も少なからずいると考え、そうした方々にどう接していくのがよいのか検討したものが主となっているようです。
先生によれば「何の異論もなく受け入れられているようだ」「増加傾向にあるのは、現場の人間にとっては自明だったのだろう」とのことですが、
これについては、私はお弟子さんの論文を読めていませんし、それらの分野の専門家でもないので、はっきりとは判断できませんでした。

私自身とても残念なのですが、統計データの公表は今後もなさそうだなあと感じました。
上記のように、「震災とセラピー」というテーマをライフワークにされそうな勢いがありますし、
また、言外に『自明と受け入れられているのに、統計でわざわざ示すことに価値はないだろう』とお考えのようでした。
(「自明のことを数値で示すだけでも、学術的には大きな貢献だよ!」と私は思うのですが、立場的に私の方が下なので、怖気づいて言えなかったです……)
何よりデータ収集されていたときから、時間が空いてしまっていますからね。難しい気がします。

以上、ご報告まで。
何かの参考になれば幸いです。
Commented by zattoukoneko at 2018-10-24 19:24
記事内にも追記しましたが、コメント欄でもお知らせ。
もう少し学問的な背景についても話しておきたい、そうすべき時期になってしまった、と感じたことから、新しい記事を書きました。
「障害者の技術をどう考えるか」というタイトルです。
もしかすると、そちらを読んでいただく方が、私も企図はわかってもらいやすいかもしれません。
Commented by 名無し at 2019-09-12 21:32 x
障害者みたいな価値の無いゴミはさっさと死ね
Commented by zattoukoneko at 2019-09-12 22:37
名無しさん、コメントありがとうございます。

私自身についての価値判断については、記事を読んでいただいた方にお任せするべきことと思います。
ご批判はとてもありがたいものです。気になる点がありましたら、ぜひ具体的な箇所をご教示ください。

障害を持つ方は価値がないかどうかについては、私は異論のあるところです。
バリアフリーの技術など、お互いに歩み寄ることで学ぶことが多いと感じているからです。
これについては、この後の記事でも触れています。
(後記事にも名無しさんのコメントがございましたので、そちらでもご返信させていただきます)
Commented by たく at 2019-09-25 12:11 x
記事やコメントを見ると、真の同性愛者はあたかも先天的な障害を持っているかのような書かれ方です。
しかし、中には後天的に同性愛になった人もいるのじゃないでしょうか。私の知り合いにも、中学時代に同性の先輩と関係を持ったことがきっかけになったと言ってる人がいます。
そのように考えれば、あなたの言うように性的虐待が原因にある「同性愛者」がいるのだとしても、真の同性愛者と区別する必要はなくなると思いますよ。
Commented by zattoukoneko at 2019-09-25 18:21
たくさん、コメントをありがとうございます。

後天的な同性愛があるかどうかについては、慎重になっておいた方がよいというのが、今のところの私の姿勢です。
というのも、同性愛は治療することができないというのが現在の医学の見解であるからで、
それはつまり、もし仮に後天的に性的指向が変わり得ると認めてしまうと、治療によっても変化させることが可能となりかねません。
同性愛を含め、性的指向は先天的(なお「障害」という表現は慎重に避けられている傾向にあるようです)に決まっている、というのが私の理解です。

ただし、私自身の心情としては、たくさんのおっしゃるように後天的なものも本当はあるのでは?、と疑問に感じています。
そうした議論にもっと踏み込んでもらいたいという願いから、記事中では医療が性的指向の判別に関われる可能性について言及しました。
Commented by T.H. at 2020-05-07 03:55 x
形成外科医をしている者です。
医師にとって当たり前のことが、多くの批判コメントに晒されていて、驚いています。

いわゆる美容整形については、殊更に、記事中にある「差別」が大事とされています。すなわち、事前のカウンセリングを十全に行うべきと言われています。
言われている、、、つまり、不十分ということです。
患者さんの希望ばかりが優先され、あるいは医師が業績を上げたいが為に、手術が行われるケースが後を絶ちません。
当院では、他院で手術を受けたが望んだ顔にならなかったと訴える患者さんを毎年見ています。そのうちの高い割合で、元々手術は必要なく、精神のケアで十分であった症例が含まれています。

批判コメントの多い、同性愛者についても似たようなものです。
批判してる人たちは、年々相談者が増えている実情をまったくわかってない!カウンセリング対応が十分にできればよいですが、ナイーヴな内容になりがちなために、なかなかそうはいかない。満足いく対応が受けられないからと他院に行ってしまうこともあり、そこがきちんとしたカウンセリングを行なっていないとしたら、と、気が気ではない。
なお、相談に来る患者さんは、同性愛と性の認識の不一致がごっちゃになってる方が多い気がします。

なお、記事中では性同一性障害が同性愛者の項目の中で語られていますが、これは美容整形の中で語る内容だったのでは?
適合手術は形成外科の範疇でもありますから、やや違和感を覚えました。
Commented by zattoukoneko at 2020-05-07 06:02
T.H.さん、コメントありがとうございます。

何の因果か、実はつい2か月ほど前に、形成外科に関わっている方(医師ではない)から「術前のカウンセリングの必要性が問題になっている」という話を聞かされたばかりです。
私の知る限りでも20年は前から問題になっていますよ、とお答えしたのですが……この記事からも十年経ちますし、進展しませんね……。

本記事で医療面に触れたことについては、実は考察が不十分であったな、と反省しているものでもあります。
話を広げすぎたな、と言いますか、医療の現場がわかっていなかったな、というか。
外科の前にカウンセリングを導入するって、思いっきり他科連携なのですよね。クリニックのように、元から他科がない場合は敷居が高すぎたのではとも推察しています。
現状では個々の先生方がカウンセリングの必要性を訴えているように見受けられますので、学界全体として取り組んでいく流れが生まれるとよいのでは、と感じています。
(コメント文字数上限、続きます)
Commented by zattoukoneko at 2020-05-07 06:03
(続き)
医療面での反省は、当時の焦りに起因するものと思っております。
同性愛のことで真剣に悩まれている方々が、一般の方たちからは理解されないまま切り離され、運動家の方たちからも見向きもされず、途方に暮れている様を目の当たりにし、
それと時期を同じくして(といっても数年の差がありますが)、医師やカウンセラーからも診療の現場で困難を感じつつある話をお聞きし、
「ああ、これは一刻も早く当事者に向ける目の在り様について、一顧してもらうべく、せめて一石だけでも投じねば」と。
上記の他科連携だけでなく、ガイドラインや診療の手引きの作成など、現場の体制や割ける人的労力のことも考慮しながら、医学って作り出されているのですよね。そういう政治的な側面も大事と今はわかってきたので、もう少し考えを練り上げるべきだったと感じています。

性同一性障害についてのご指摘もありがとうございました。
私は同性愛者の話の中でこの話題を聞いたということもあり、この節での言及で間違いないと思っています。
ただ、先にも反省していると述べましたとおり、ざっくりとした説明になりすぎたとは感じています。
私の理解では、性指向・性自認の違いはあれど、ともに先天的な(要因に起因するところが多い)ものと捉えています。また、両者は別のものでありながら、両方を抱える事例も多くあります。何より、性に関する悩みである点で共通ですから、対応にあたるカウンセラーや医師は両方に対応できるようになっておくべきものと思っています。
こうしたことから、性同一性障害も同性愛者の節の中で触れました(といっても、今見返してみると、全然書いていないのですが……)。美容整形は性の悩みとは別のカウンセリングとなると思いますので、分けて書いています。
Commented by 名無す at 2020-06-10 14:02 x
笑わせてさんて 性的虐待はレイプみたいなことしかない と思い込んでねえ?
だから そんなエロ漫画みたいなことあるわけねえ とか言ってんじゃねえの?
コメント読んでて 気持ちわる て思ったわ
Commented by zattoukoneko at 2020-06-10 19:41
名無すさん、ご指摘ありがとうございます。
コメントをお返ししていた当時には、その可能性に思い至りませんでした。

なるほど……と思わずうなってしまいました。
これは私の本文の書き方もまずかったですね。記事はわかりやすさを取りすぎていたかもしれません。
性的虐待や、それによる心の傷は説明が難しいと思ってのことでした。
(特に記事を書いた当時は、世間一般の認識も浅かったので)

私が直接知っている、同性の人が好き(だと思い込んでいた)男性の方のお話を書いてみます。
印象に残っている方なので、これまでにもコメント中に出させていただいてる人です。

この方は、私と他数名から性に対する姿勢が変だと指摘され、どうして異性ではダメなのか、という問いかけに向き合っているうちに、
「小学校のとき、異性への性的な興奮を覚えたところを母親に目撃され、それがどれだけ醜いことか悪し様に言われた」
「それ以来、女性に性的な興奮を覚えることが怖い」
と突然に気付いて、泣き出したことがあります。
どこまで具体的に述べていたかまでははっきり覚えてないのですが、自慰行為だったのかな?
この方のお母さんには悪気はなかったのでしょうが、叱責はその後も何年も続いていたこともわかり、
後にセラピストが(性的)虐待として、解決に向けて対応に当たることになったみたいでした。

私がイメージしているのは、むしろこのような事例です。
同性愛がまるで免罪符のように/腫物のように扱われてしまうと、こうした例は見過ごされてしまう可能性が高まると思います。
見過ごしをなくすにはどうすればいいのか……という問題提起までを記事では書いたのでしたね。
by zattoukoneko | 2010-02-03 19:36 | 社会・経済 | Comments(94)