忠犬ハチ公のお話

今日は予告しておいた通り、忠犬ハチ公についてです。彼がどうして渋谷駅で待っていたかについてお話したいと思います。

ハチの主人は上野英三郎(1872-1925)という人です。
この人は農大、すなわち現在の東京大学農学部の前身の教授をしていた人でした(現在東京大学の農学部は本郷にありますが、当時は駒場にありました。現在も駒場第Ⅰキャンパスの掲示板の前の小さな森みたいなところに石碑があります。下図参照、正門左に掲示板があります)。
上野はキャンパス内には現在「裏門」と呼ばれるところから出入りしていました。裏門は次の図の上のほうにあります。(小さくしか画像がアップできませんでした。文字が見にくいと思うので、大きな画像が見たい方はこちらへどうぞ東京大学駒場第Ⅰキャンパス地図
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ここで疑問に思いませんか? ハチは本当はここで待っていないといけないんじゃないの?、と。

当時渋谷から駒場キャンパスまでは路面電車が走っており、上野はこれを利用していたと言われています。
ただこれの真偽は不明で、どうやらハチをかわいがっていた渋谷の人たちによって後付けされた話のようでもあります。(まあ、本当に利用していたのかもしれませんが)

つまりハチは主人を待つために渋谷駅に通っていたというわけではないのです。
では何故ハチは渋谷にいたのか?

ハチは死後解剖されています。そのときにわかったことですが、ハチの胃袋の中には――
焼き鳥の串が入っていました。
当時の渋谷駅前には焼き鳥屋の出店が沢山立ち並んでいたようです。どうやらハチはそれらの店の客から餌をもらえるので渋谷駅に通っていたようです。
ただしこれには反対意見もあります(ウィキペディアに結構書いてあったので、興味のある方はそちらもご覧ください)。たとえば焼き鳥の屋台の出るずっと前の朝から駅前にいた、など。しかし個人的にハチをかわいがっている人も多くいたようなので、その人たちからの餌目当てだった可能性は拭えません。

いずれにせよハチは渋谷で結構かわいがられていたようです。そのうちに「ハチは主人の帰りを待っているんだ」と言われるようになりました。(当たり前ですが)ハチは自分からそう言ったのではなく、渋谷に通うようになって随分してから「忠犬」とされるようになったのです。

忠犬ハチ公の話が全国的に広まったのは、渋谷で話題になっているハチのことを聞きつけた読売新聞(朝日新聞という説もありますが、多分読売のほうが早かったはず)の記者が夕刊全国紙に記事を書いたことによります。
これによってハチの人気は急上昇することとなりました。

ハチ公の銅像はいまや渋谷での待ち合わせ場所として代表的ですが、これは初代のものではありません。
ハチ公像は1934年の4月21日に建造されました。これはハチが死ぬ前に作るべきという意見が殺到したためです。そのため製作は急ピッチで進められたようです(なおハチは1935年3月8日に死亡しています)。
ただこの初代ハチ公像は戦中の金属資源不足によって徴収されてしまいました。どうも溶かされて機関車の一部になったようです。
現在あるのは二代目で、戦後ハチ公像の再建の要望が殺到したようで、1948年の8月という戦争直後の苦しい時期にもかかわらず、建造されました。

以上が忠犬ハチ公のお話です。どうも飼い主を待っていた、という一般の説には疑問の余地がありそうです。
――となんだか夢ぶち壊しな話をしてしまいましたが……このままでは後味が悪いのでちょっと余談。
  犬は三日世話してもらった人のことは三年間忘れない。
と言われています。忠実な生き物であることは本当なわけで、仮に渋谷にいたハチの前に主人の上野教授が現れたら喜んで駆け寄って行ったことだと思います。


さて、ここしばらく私事のようなことばかり書いていたような気がします。次回は本の紹介にもどりたいと思います。
テーマは、『ブギーポップは笑わない』と現象学、にします。
(え? セイバーマリオネットの話? …………そのうち書きます)
by zattoukoneko | 2009-11-27 12:33 | 歴史 | Comments(0)