障害者の技術をどう考えるか
2018年 10月 24日いえ、正確には、研究テーマにしたいと思っている、ですね。研究・調査の仕方が難しく、また学者からのウケもよくないため、学術としてどうアプローチ・アピールするかで悩み始めたところから、もう何年も進んでいません。
今回は、その話を少ししたいと思います。
以前に「私は差別主義者です」という記事を書き、その中で(程度はさほど重くはないとはされているものの)私自身も障害を持ち、悩みながら生きてきたということを打ち明けました。そのうえで当該記事は、差別感情(注:行為ではない)が時には人間関係をスムーズにし、相互理解を深める助けになることもあるという経験から、その感情とうまく付き合う方法を模索するのもよいのではないかと提言したものでした。
流れとしては、「自身の障害発覚→障害についての悩み→ルサンチマンの克服→差別との付き合い方を学ぶ→自分はある程度上手くやりくりできるようになり、他の方の事例や社会との関係に目が向く」といった感じでしょうか?
このように今の考えが形成される過程では、他の障害者の方にも意見を聞いたり、回数は少ないもののコミュニティのようなものにも顔を出させていただいた経験が非常に重要でした。先の記事では「差別を隠さず、もっとぶつけてくるべきだ」とおっしゃられた豪気な方の意見が、非常に印象的であったことも述べさせてもらいました。
それと同じくらい印象的だったことが、今回の記事の動機となります。それは、健常者の社会から切り離されたコミュニティを望む方々がいる、ということです。
「健常者から切り離された社会」を望む傾向は、聾唖者の方々に顕著であるように感じます。彼らは音声を聞いたり、発することに困難を覚えるわけですが、しかし一方で、音声がなくとも会話をすることは可能です。
それが、手話や筆談、字幕などの技術です。
手話を楽しんでいる会に顔を出させてもらった限りでは、彼らにとって会話は何ら不自由なことではないようでした。それは仲間同士だけではなく、手話のまったくわからない私相手でも同様なようでした。会話に限らず、その他の日常生活においても困ることはほとんどないそうです。
では、なぜ聾唖者同士、または手話に関心ある方だけの集まりに篭もっているのか? 訊いてみたところ「健常者の方から『大変だろう』と何かと押し付けられるから」とのことでした。
例えば、補聴器のようなものは障害者の助けになる技術だ、というようなことを言われるのだそうです。それがあれば健常者と同じように喋れるのではないか、という誤った考えです。
しかし、先程述べたように、そんなものがなくとも彼らは会話するのに不自由を感じていません。彼らにとって、障害者のための技術とは、健常者が普通を押し付けてくる不要なもの、というわけです。
このような技術との関わり方は、非常に重要な観点だと私は感じました。社会全体の思い込みによって生まれた技術は、必ずしも個人のためになるとは限らない、ということです。
これは何も障害者の方々に限った話ではありません。一般の方々においても、『便利になったというけれど……すごい使いづらい』と感じる技術はあるのではないでしょうか? それはあなたの生活にとって、その技術の在り方は不要であったから、という可能性があります。
あるいは逆の観点で、個人の役に立っていないからと、社会全体に背を向け続けていて、本当によいのでしょうか?
私はユニバーサルデザインという技術の方向性に、とても魅力を感じています。障害者の方々から意見をもらうことで、健常者にとっても便利で使いやすい技術の形が誕生する、というのは実際に起こっていることです。
残念ながら、健常者と障害者の間には、深い溝が残ったままです。そのため、技術発展の可能性も非常に多く見つけられないままになっているのかもしれない、と私は想像しています。
では、「障害者と技術」はどうあるべきか?
これまでのような「障害者のための技術」を一方的に押し付けることは慎まれなければならないと思います。障害者の実生活に寄り添い、それに即した技術開発が望まれます。
「障害者と技術者の関わり」も再考されるべきでしょう。私自身の経験で述べたことでもありますが、障害者は障害との付き合い方において、意識の変化を経験することが、いくつかの先行研究によって指摘されています。このことを知らずに話を聞きに行っては、本質を見落とすことも出てくるでしょう。先方を不愉快な気分にさせてしまうことだってあり得ます。
そもそも、差別的な感情、思い込みや理解不足による偏見は、容易に出てきてしまうものだと自覚しておくべきです。ですから「私は『差別主義者』なのだ」とすらあらかじめ思っておく姿勢が、よりよい相互理解に繋がっていくのではと、以前の記事で提案してみました。
総じて「障害とは何か?」から考え始めねば、ということなのですが、残念ながら技術者、科学者にはその意識が芽生えてないようです。
私はこの問題に取り組めないかと、一時期工学系の大学院に顔を出していたこともあったのですが、教授からは「障害を克服するための技術でしょ?」とまったく理解を得られませんでした。
そこでは、まさに耳の聞こえない方が教授をされていて、補聴器等の技術なしでも何不自由なく教授会に参加されていました。その様子をみなさん目撃されていたはずだったのに、いざ技術者の在り方を考えたいと述べると、このリアクションだったわけです……。
これはかなり難しいテーマだと感じています。
そもそも、私自身が障害ある方とどう付き合えばよいのか、明確な考えを持てていません。
学術にするためには、主観を取り除くため、また後続の研究を盛んにするため、調査の方針を明らかにすることが必要です。これがそもそもできていない、ということです。
優秀な知能の参加を期待しますし、それ以前に社会全体が自身の差別と向き合える環境が整うことを望んでいます。