障害者の技術をどう考えるか

私の研究テーマに「障害者と技術の関わり」というものがあります。
いえ、正確には、研究テーマにしたいと思っている、ですね。研究・調査の仕方が難しく、また学者からのウケもよくないため、学術としてどうアプローチ・アピールするかで悩み始めたところから、もう何年も進んでいません。
今回は、その話を少ししたいと思います。

以前に「私は差別主義者です」という記事を書き、その中で(程度はさほど重くはないとはされているものの)私自身も障害を持ち、悩みながら生きてきたということを打ち明けました。そのうえで当該記事は、差別感情(注:行為ではない)が時には人間関係をスムーズにし、相互理解を深める助けになることもあるという経験から、その感情とうまく付き合う方法を模索するのもよいのではないかと提言したものでした。
流れとしては、「自身の障害発覚→障害についての悩み→ルサンチマンの克服→差別との付き合い方を学ぶ→自分はある程度上手くやりくりできるようになり、他の方の事例や社会との関係に目が向く」といった感じでしょうか?
このように今の考えが形成される過程では、他の障害者の方にも意見を聞いたり、回数は少ないもののコミュニティのようなものにも顔を出させていただいた経験が非常に重要でした。先の記事では「差別を隠さず、もっとぶつけてくるべきだ」とおっしゃられた豪気な方の意見が、非常に印象的であったことも述べさせてもらいました。
それと同じくらい印象的だったことが、今回の記事の動機となります。それは、健常者の社会から切り離されたコミュニティを望む方々がいる、ということです。

「健常者から切り離された社会」を望む傾向は、聾唖者の方々に顕著であるように感じます。彼らは音声を聞いたり、発することに困難を覚えるわけですが、しかし一方で、音声がなくとも会話をすることは可能です。
それが、手話や筆談、字幕などの技術です。
手話を楽しんでいる会に顔を出させてもらった限りでは、彼らにとって会話は何ら不自由なことではないようでした。それは仲間同士だけではなく、手話のまったくわからない私相手でも同様なようでした。会話に限らず、その他の日常生活においても困ることはほとんどないそうです。
では、なぜ聾唖者同士、または手話に関心ある方だけの集まりに篭もっているのか? 訊いてみたところ「健常者の方から『大変だろう』と何かと押し付けられるから」とのことでした。
例えば、補聴器のようなものは障害者の助けになる技術だ、というようなことを言われるのだそうです。それがあれば健常者と同じように喋れるのではないか、という誤った考えです。
しかし、先程述べたように、そんなものがなくとも彼らは会話するのに不自由を感じていません。彼らにとって、障害者のための技術とは、健常者が普通を押し付けてくる不要なもの、というわけです。

このような技術との関わり方は、非常に重要な観点だと私は感じました。社会全体の思い込みによって生まれた技術は、必ずしも個人のためになるとは限らない、ということです。
これは何も障害者の方々に限った話ではありません。一般の方々においても、『便利になったというけれど……すごい使いづらい』と感じる技術はあるのではないでしょうか? それはあなたの生活にとって、その技術の在り方は不要であったから、という可能性があります。
あるいは逆の観点で、個人の役に立っていないからと、社会全体に背を向け続けていて、本当によいのでしょうか?
私はユニバーサルデザインという技術の方向性に、とても魅力を感じています。障害者の方々から意見をもらうことで、健常者にとっても便利で使いやすい技術の形が誕生する、というのは実際に起こっていることです。
残念ながら、健常者と障害者の間には、深い溝が残ったままです。そのため、技術発展の可能性も非常に多く見つけられないままになっているのかもしれない、と私は想像しています。

では、「障害者と技術」はどうあるべきか?
これまでのような「障害者のための技術」を一方的に押し付けることは慎まれなければならないと思います。障害者の実生活に寄り添い、それに即した技術開発が望まれます。
「障害者と技術者の関わり」も再考されるべきでしょう。私自身の経験で述べたことでもありますが、障害者は障害との付き合い方において、意識の変化を経験することが、いくつかの先行研究によって指摘されています。このことを知らずに話を聞きに行っては、本質を見落とすことも出てくるでしょう。先方を不愉快な気分にさせてしまうことだってあり得ます。
そもそも、差別的な感情、思い込みや理解不足による偏見は、容易に出てきてしまうものだと自覚しておくべきです。ですから「私は『差別主義者』なのだ」とすらあらかじめ思っておく姿勢が、よりよい相互理解に繋がっていくのではと、以前の記事で提案してみました。

総じて「障害とは何か?」から考え始めねば、ということなのですが、残念ながら技術者、科学者にはその意識が芽生えてないようです。
私はこの問題に取り組めないかと、一時期工学系の大学院に顔を出していたこともあったのですが、教授からは「障害を克服するための技術でしょ?」とまったく理解を得られませんでした。
そこでは、まさに耳の聞こえない方が教授をされていて、補聴器等の技術なしでも何不自由なく教授会に参加されていました。その様子をみなさん目撃されていたはずだったのに、いざ技術者の在り方を考えたいと述べると、このリアクションだったわけです……。

これはかなり難しいテーマだと感じています。
そもそも、私自身が障害ある方とどう付き合えばよいのか、明確な考えを持てていません。
学術にするためには、主観を取り除くため、また後続の研究を盛んにするため、調査の方針を明らかにすることが必要です。これがそもそもできていない、ということです。
優秀な知能の参加を期待しますし、それ以前に社会全体が自身の差別と向き合える環境が整うことを望んでいます。


# by zattoukoneko | 2018-10-24 18:40 | 社会・経済 | Comments(3)

キリンの首は、伸ばそうと思ったから長くなったのかもしれない?!

「キリンの首が長くなったのは、彼らが伸ばしたいと思ったからかもしれない」――そんなことを言うと、数年前までは周りから馬鹿にされたものです。小中高の間に、進化論にちょっとでも触れていれば、そのような説は空想甚だしいとわかるからです。
しかし、近年になって、科学者もやや本気にこの可能性を信じるようになってきました。今回はその話題を取り上げてみたいと思います。

まずは進化論の基礎から復習しておきましょう。高校までに習っているとはいえ、進化論は誤解を招きやすいものですからね。
現在の主流となっている進化論では、「親が経験したことは、子には引き継がれない」と考えられています。例えば、低身長な家庭に生まれた方がそのことに悩み、背を伸ばしたいとバレーやバスケに励んだ結果、本当に高身長になったとします。けれど、その身長の伸びは子供には遺伝しません。
このことは次のことを考えれば自明とわかります。事故等によって後天的に足を失ってしまった方が子供を産んだ場合、その子に足がないなんてことはあり得ません。あるいはくせっ毛がイヤでストレートパーマをかけていたからといって、自分の子供がまっすぐサラサラの髪の毛で生まれてくることはありません。
上記の3例は、どれも後天的に身体に変化が生じたものです。つまり、体細胞(の構成)が変わっただけのもの(「獲得形質」と呼んでいます)です。
しかし、遺伝に関わるのは生殖細胞です。いずれ精子や卵になる精原細胞卵原細胞は、その他の肉体を構築し頻繁に入れ替わる体細胞とは、発生の初期段階で分かれて保管されています。細胞の複製を何度も繰り返していると遺伝子情報(≒DNA)が破損してしまう危険性も高まるので、それを避けるように大事にされているからと考えられます。これは当然ことでもあって、遺伝情報がそうコロコロかわってしまうと、親と子供でまったく別の生き物になってしまいかねません。脈々と生物種が生き残り続けるためには、必要不可欠とすら言ってよいものでしょう。
ただそれは、「生物は遺伝子の乗り物」に過ぎない、という(我々人間からすると)ちょっと悲しい結論でもありました。私たちが生きている間にどれだけ頑張って学び、自身を成長させようと、子供に受け継がれるのは自分の親の形だけなのです。「趣味で意気投合した相手と恋に落ちた」「夢に向かって努力している姿が格好良かった」みたいな人間物語は生殖の面からみるとどうでもいいことで、子供を産むということはお互いの親の遺伝子を組み合わせることであるとされていました。

以上のような「常識」を、2014年、ひっくり返すかもしれない論文がNature Neuroscience誌に発表されました。親マウスの獲得形質が、子孫にも引き継がれたように見えるという報告です。
(Nature公式HPより原論文:Brian G Dias, et al. Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations. Nature Neuroscience 17, 2014, pp. 89-96.
実験内容は次の通りです。父マウスに電気刺激を与えながら特定の匂いを嗅がせていたところ、その匂いを嗅ぐだけですくみ反応をするようになった(条件反射の獲得とも考えられます)。その父マウスから生まれた子マウス、孫マウスにもその匂いを嗅がせてみせたところ、それまで同時に電気刺激を与えるようなことをしていなかったのにも関わらず、すくみ反応が観察された(親の獲得形質の遺伝)。
この報告は、これまでの「常識」であった獲得形質は遺伝しないという説への反証とみなすことができます。

ただし、なぜ父マウスの恐怖体験が子孫にまで遺伝したのか、その仕組みまでは現時点ではわかっていません。
ここからは想像になりますが、父マウスの恐怖体験が体内ホルモンなどに影響し、それが生殖細胞の遺伝子(この場合、DNAとは限らないかもしれません)を変異させ、子孫マウスにも父マウスと同様の神経変質を生じさせたのではとも考察できます。
あるいは、これは別の研究(糖尿病を発症させたマウスの子供は重度の肥満になりやすい)で示唆されていることなのですが、親世代の経験が生殖細胞内にあった休眠状態にあったDNAをアクティブ化させた可能性も考えられます(この場合には、その遺伝情報はすでに持っていたものなので、厳密には獲得形質とは言えないかもしれません)。

獲得形質が遺伝するとなれば、冒頭の「キリンは伸ばそうと思って首を長くしたのかも」という言説も多少の真実味を帯びてきます。つまり、意思によってある程度は進化の方向性が決定されてきたのかもしれない、ということです。人間がその人生で学び成長した結果も、ある程度ならば子供に受け継がれるかもしれません。
ただし念のため注意書きしておくと、「ある程度」というのが大事となるでしょう。キリンの首と同じように語られることのある「ブタがいくら空を飛びたいと鳥に憧れを抱いても、背中にその翼は生えてこない」という言説までは、おそらくひっくり返らないからです。キリンは元から持っている首を伸ばしているのに対し、ブタはまったく持っていない器官を獲得しようとしているからです。そのような進化は起こらない、という常識までは、今回の報告では覆せません。ブタはどうしても空が飛びたいのなら、鳥の翼とはまったく異なる器官を獲得することになるでしょう(あるいは、飛行機を操縦できるような知能を得るのでもいいですが)。
同様に、どれだけ勉強して頭がよくなったとしても、子供に受け継がれる可能性のあるのは発達した脳の構造だけであり、知識までは当然のように引き継がれないはずです。伝説級の野球選手から子供が生まれても、親が培った立派な筋肉構成くらいは遺伝するかもしれませんが、センスまでは伝わらないのと同じことです。

さて今回ご紹介した話は、2016年8月4日に子供電話相談室でも取り上げられ、話題になっていました。子供からの質問内容は「どうして高所恐怖症は起こるのか?」というもので、これに対して先生は今回の研究成果を挙げ、お父さんの恐怖体験が遺伝しているのかもしれないと回答されていました。
しかしこの回答はまずいなあと、個人的には感じました。ここまでで述べていた内容に、手のひら返すようで申し訳ないですが。
今回紹介した論文で述べられているのは、あくまでマウスのごく限られた恐怖体験についてのみ、です。それが極めて特殊な事例であった、という可能性もまだまだあるということです。
高いところが苦手、という感覚は、先祖が経験した恐怖体験が遺伝しているものなのかもしれませんが、そうでないのかもしれません。これを実験的に確かめることは容易ではなく、あくまで想像話にとどめておくべきと思います。
少なくとも、大学受験までの生徒さんに話す際には慎重にならないとなあ、と思ってます。ほとんどの大学ではここに紹介したようなことを書くとバツにされること、書くことによって評価されそうな大学の場合でも論述はしっかり記載すること、なども並行して教えていかないとですね。


# by zattoukoneko | 2018-07-22 18:10 | 生物・医療 | Comments(0)

「ソース出せ」というコメントは愚かしいということについて

ネット上で「ソース出せ」という批判を見かけ、不快な気分になられた方は多いのではないでしょうか? 後でもう一度述べますが、このコメントは喧嘩腰な印象を相手に与えるものですし、何より、すべての人にとってほとんど価値のないものだからです。
学会場などでは、さすがにこのようなコメントをされる方はほとんどいません(皆無、と言えないところが嘆かわしいところです)。今回は、なぜ価値がないのか、という説明を試みたいと思います。

そもそも「ソース出せ」というコメントが出てきたのは、20年ほど前に日本でディベート競技が流行ったこと(1996年、中高の全国大会が開かれるようになりました)が背景にあるのではないかと想像します。
日本におけるディベート競技とは、ある議題に対して競技者を賛成/反対に分け、立論・反駁を行った後、観客にどちらに説得力があったかを判定してもらうものです。この反駁の中で「ソース出せ」(とは流行った当時は言っていませんでしたが)と主張し、相手側が根拠を示すことができなければ、観客の中での相手の印象を下げることができるという非常に有効な手段とされていました。
これと同じノリのことを、ネット上に誰かが持ち込んだのではないかと思います。これこそソースのない、ただの憶測ですが。

しかしながら、これが有効であったのは、あくまで競技だからです。つまり、その場限りのお遊びでしかないからです。勝ち負けの判定員もなく、その後も議論の続いていく一般社会、とりわけ学術の世界では、悪い影響の方が大きくなると考えられます。

まず理由の一つに、学術の知識は所詮専門家集団による共通認識にすぎない、ということがあげられます。
根拠が(実験・観察の力によって)しっかりしていると思われている自然科学ですら、その知識は社会の影響を多分に受けていることが現在ではわかっています。根拠がはっきりとしない主張であったとしても、集団全体からそういうものだと認められれば、その説明は受け入れられます。あるいは逆に、どれだけ根拠を示そうと頑張った学説であっても、集団全体の認識に反していれば正しい説とは認められません(後者の一例となるテレパシーが科学とならない理由については、以前に「科学とは何か」という記事で紹介しました)。
したがって、ソース不足と感じられる説明であっても、その背景には社会・学会の共通認識という極めて大きなバックボーンがそびえている可能性があります。「ソース出せ」によって相手の言葉を詰まらせることができたからといって、競技のようにその場だけの勝った気分に浸っていると、いつの間にか集団全体からは厄介者扱いされていたなんてことにもなりかねません(実際、そうなってしまっている研究者に時折お会いしますよね)。
あるいはまた、根拠は実際にあるのだけれど、発表の場では時間や労力の都合上説明を省いてしまったということもあり得ます。このことは、学会発表や論文執筆を実際にされたことがある方には痛いほどわかる話なのではないでしょうか。発表内容を形作るよりも、引用文献をきちんと書いていくことの方が、時間も精神も削られる仕事です。原著論文や総説のようなきっちりした論文であればまだその作業にも我慢できますが、発表時間も極めて短い学会発表などではいい加減になってしまうところが、どうしても出てきてしまいます。
これに対し「ソース出せ」と批判することは、発表者の労力を膨大なものにするだけでしかなく、学術内容推進の場としての学会でやって褒められることではありません。
「ソース出せ」と言ってしまいたい衝動に駆られたときは、ぐっと堪え、相手が本当に検証不足だったのか、あるいは社会全体の共通認識が潜んでいるのか、慎重に見極めるだけの時間を取ることが肝要です。

そもそも学会(に限らず、議論)における批判というのは、発表者の意見を尊重し、その考えをより高みに押し上げるためにあるべきものです。批判者が自分の主張を声高に叫ぶことはあってはなりません(自分の主張をしたいのなら、自分が発表者になるべきです)。
したがって、根拠の説明が抜けていると感じられたとしても、それは時間等の都合であって、発表者は真摯に調べているはずだと看做して聴講するのがよいと考えられます。そうすることによって意識は論理展開の方へと向き、批判者は論理の飛躍を見つけ、そこを指摘することによって新しい課題を発表者または学会参加者に提示することが可能になります。
このような理念に対して、そもそも「ソース出せ」という言葉には、ディベートのルール紹介からもわかるように、「お前の言うことはそもそも信じられないんだよ! 根拠があるなら示してみろ!」という喧嘩腰なニュアンスが感じられます。つまり、相手を打ち負かしてやろうという意図があるのであって、発表者に貴重な時間を割いてもらった報告を台無しにしようとするものとなっています。言葉を向けられた発表者は、そりゃあ不機嫌になること間違いなしですし、周囲で聴講されていた方々も『ここにいたのは時間の無駄だったの?』とげんなりすることでしょう。
むしろ、こんな喧嘩腰の言い方をしてしまったら、本当は根拠がなかったとしても「○○はあります!」と意固地にさせてしまうかもしれません(もしかすると小保方さんもそんな心境だったのかなぁ……)。そうなってしまうと根拠の追及もうやむやになりかねません。学術ですら良好な人間関係の上に成り立っている、ということを肝に銘じておくべきです。

以上のように、「ソース出せ」という批判では、長期的な視野で捉えたときに学会・社会全体にとってあまり役に立たないのです。
議論をする際には、発表者に対する敬意が絶対に必要です。時には、論拠としている考えが馬鹿馬鹿しいと感じられることもあるでしょう。それでも(相手はあえてそのような馬鹿をやることに意義があると考えているのかもしれませんから)前提は前提として一度受け入れ、説明の運びがきっちりしているかに注目すべきです。そして批判を重ね、最終的に論が破綻したとなれば、そのときようやく「(やっぱり)根拠がおかしかったんじゃないですか? ソースを検討し直しましょう」ととどめを刺せることになるわけです。

もちろんのことながら、「ソース出せ」は有効な批判であることは忘れられてはなりません。それを何の検討もなしに、いきなり言い出すことは害が大きいということを今までは言ってきたつもりです。どうしても言わなければならないときには、その批判を用いることも重要となります。
つまり、実験をした形跡がそもそも見られない、結果に不自然な点があり研究不正が疑われる、などの場合です。
しかしこれらであっても、ある程度の検討がなされた上で提出されるはずのものです。また、このような不正行為は普通は起こらないはずのものです。
ですので、どうしてもソースを出してもらいたいときには、学会の質疑応答の時間にではなく、発表終了後にこっそり相手を捕まえて、「すみません、不勉強なもので○○がわかりませんでした。参考となる文献や実験結果がありましたら、ご教示いただけませんでしょうか?」などと言葉も選びつつ質問の形とするのがよいでしょう。それであれば発表者も気分を害することがなく、それどころか学生を教える気分で嬉々として後日メールで連絡をくれるかもしれません。もしくは根拠に薄かったとはっとして、いい指摘をくれたと思ってくれるかもしれません。
学会も社会である、人付き合いという政治の世界なんだとわきまえることで、学術発展が摩擦なく促進できるのです。

ここまで、学問の世界を思い描きながら、「ソース出せ」は愚かしいという話をしてきました。
しかしながら、このことは学問に限らず、一般社会やネット社会でも同様であるはずです。何か主張をしている方は、それが思い込みであったとしても、何かしらの根拠をもって話を組み立てているはずです。その思い込みを「くだらない!」と一蹴してしまうのは簡単なことですが、それで得られるのは一時的な勝った負けたの感覚だけです。相手にとっても、周囲の人にとっても、何ら建設的ではありません。時間はかかってはしまいますが、相手の議論をしばらくは発展させてあげて、そのうえであらためて主張に価値があるのかないのか検討するのが理想的と言えるでしょう。
また、一般社会には元よりソースを出すことをその役割としているような記事もあります。新聞記事や行政などが出している資料がその代表ですし、個人の方でも情報提供や解析をメインに記事を出されている方がいらっしゃいます。その場合には「ソース出せ」という批判が、学術よりも早く出しやすくはなります。
相手が何を意図して話をしているかをまず読み取る姿勢が、学術を想定しながら説明した内容に加えて必要になってきそうです。

何かしらの意見を見たときには慎重に相手の意図を見極めること、批判とは相手の考えを発展させるものである、人間関係を意識し一時の勝ち負けに囚われないようにする、といったことが身についていくと、おのずと「ソース出せ」がくだらない批判だとわかってくるのではと思います。

# by zattoukoneko | 2018-07-01 20:08 | 雑記 | Comments(11)

職歴が論文に書かれているところは信用するな:出版倫理の話

前回の記事「日本語論文は廃れるかもしれない現代版:システム面から考える」の続き、出版倫理ver:医学分野を例にして、とも言えるかもしれない。

さて、医学論文において、患者の個人情報を適切に保護することは医療者に課せられた義務と考えられています。このときの「個人情報」とは、個人情報保護法で想定されているものよりもずっと広範な範囲の情報を指し、入院日や職歴、生活習慣なども含んでいます。
この基となる規範については、例えば、「患者の権利に関する世界医師会リスボン宣言」(リンク先日本医師会ホームページ内)があり、「守秘義務に対する権利」の項目の中で「患者の健康状態、症状、診断、予後および治療について個人を特定しうるあらゆる情報、ならびにその他個人のすべての情報は、患者の死後も秘密が守られなければならない」「情報は、患者が明らかに同意を与えていない場合は、厳密に「知る必要性」 に基づいてのみ、他の医療提供者に開示することができる」のように書かれています。また日本国内では、上記を反映した日本医師会『医師の職業倫理指針』の中に「守秘(秘密保持)義務」の項目がありますし、医師らの自発的な倫理感に限らず、法律上でも刑法134条において「医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、6カ月以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する」と記載されています。
また、昨今では世間一般でもプライバシーに対する意識の高まりから、学会や病院からより具体的に規則が発表されていることもあります。日本病理学会「症例報告における患者保護に関する指針」 では「患者の人種、国籍、出身地、現住所、職業歴、既往歴、家族歴、宗教歴、生活習慣・嗜好は、報告対象疾患との関連性が薄い場合は記述しない」と明記されています。
このルールの覚え方として、私は大学時代に「病院のデータベースで検索をかけて、患者が特定できたらダメ」と教わりました。なるほど、ハリソン・フォード主演『逃亡者』をイメージすればいいわけですね。映画内で彼は、忍び込んだ病院内でPCを使い、自分の知っている特徴から真犯人の所在を探り当てていました。ここに発表した論文がそのような使われ方をされるようなことはあってはならない、というわけです。

もちろんのことながら、先に紹介した病理学会の指針にもあるように、論文執筆者が気をつけるべきは患者の職歴だけではありません。家族歴や生活歴についても、疾患と関連性がない場合には、論文内に記載すべきではありません。
ではなぜ、私は職歴ばかりを強調したのか? そして、職歴を記載してしまうような出版社や学会は信用するな、とタイトルに書いたのか?
その理由は、家族歴や生活歴に比べ、職歴は素人(つまり、出版社にいる編集スタッフ)でも簡単に見分けがつくからです。
病理学会の指針は、逆に言えば「疾患に関係しているのなら、職歴も生活歴も書いてOK」ということになるわけですが、素人にはこの判断ができないわけです。例えば、非結核性抗酸菌症に関する報告で「患者は茨城県南部に在住。井戸水を生活用水として常用していた」と書かれていたとき、どこまで出版物として公表していいのかわかりません(ちなみに答えですが、非結核性抗酸菌症は原因菌の分布に地域的な偏りがあって茨城県南地区では Mycobacterium intracellulareの感染が多く、また水の中に常在していますので、報告内容によってはすべてOKと判断されるのではと思います)。
これに対し、職歴の方であれば簡単です。胃がんに関する報告で「職業:専業主婦」と記載することはまったく必要ありません。もし著者がうっかり論文内に書いていたら、出版前に編集スタッフから削除してもよいかどうか質問がなされるはずです(記者向けのハンドブックなどを見ると、一応ここでは「質問」とすべきで、勝手な削除はしないように心がけられているようです)。
このことから、編集スタッフの中に出版倫理をちょっとでも意識している者がいれば、職歴くらいであれば無秩序に出版されてしまうというような事態は避けられることになります。対偶を取れば、「職歴がどの論文にも載っているような雑誌があったら、そこの編集スタッフは出版倫理に注意を払っていない」ということになるわけです。

ここで詳細を述べることは避けることにしますが、実際、学会でも出版倫理をまったく守っていないところがあるようです(などと書いているうちにも、新しく「患者のCT画像に撮影日がそのまま載っている」という学会誌を見つけてしまいました。マジか、これ職歴よりマズいと思うんだけど……)。
学術論文の電子化が進み、中には編集スタッフによるチェックがおざなりになっている出版社・学会が(特に海外で)増えているようですので、以前にも増して、著者は論文投稿前に念入りにチェックしておく必要が出てきました。すでに、職歴どころか患者の氏名まで論文に掲載されてしまった事例が生じています(杏林大学ホームページ「お詫び:患者さんの個人情報の漏洩について」)。
とはいえ、著者にとって論文執筆は大変な労力のかかる仕事であり、簡単なミスを起こすこともあるでしょう。出版社や学会はそれは当然起こることと想定し、しっかりとした編集スタッフを抱えておくべきです。あるいは著者は、きちんと編集作業をしてくれる学術雑誌を見抜き、信頼できるところに投稿すべきです。知名度、インパクトファクター、掲載期間、アクセプト率、といったものばかりが注目されがちですが、そう遠くない将来に「編集の質」が投稿先選びの重要項目に加えられるのではと推測しています(学会によっては、すでに雑誌の質の回復を目指し始めたところもあると聞いています)。

さて、ここまでは出版社や学会側、編集スタッフの能力不足として述べてきました。しかし最近、そもそもこのような状況を招いたのは、著者の側にも問題があったのではと感じるようになっています。つまり、「なんで職歴を書いちゃいけないのかわからないんだけど?」という医師が非常に多いのです。
そうした方々の言い分として多いのが、「だって疾患を見極めるには念入りな問診が必要。他の可能性も除外するためにも、職歴が知っておかないとならない」というものです。この主張はとても正しいものです。念のためここで書いておきたいのですが、ここの記事を読んで患者となられた方は、『個人情報が漏らされるかも……』と不安に思ったとしても、医師にはできるだけ詳細な情報を伝えるように心がけましょう。自分ではまったく体調不良に関係ないと思うようなことですら、医師にとっては重要な情報になることがあります。例えば、「韓流ブームのあった十数年前に韓国に旅行をしてカニ料理を食べた」(=旅行歴)という話から、疾患特定につながることもあるのです。
話を戻して。しかし、上の医師の主張は、「日々の診療」と「出版」を混同してしまっています。一度雑誌や本として出版されてしまうと、そこに記載された内容は医師だけでなく一般の人の目にも触れることになります。読者の中には、妻殺しの疑いをかけられた逃亡者がいるかもしれませんし、より凶悪なストーカー等の犯罪者もいるかもしれません。彼らが逮捕後に「論文を読んで、病院のデータベースで検索した」と供述すれば、世間の批判は論文著者にすら向くことでしょう。それが、出版というものです。
加えて、症例報告の論文というのは、著者が診療中にどう悩み判断したかを逐一報告するものでもありません。症例とそれへの考察が主なはずです。よしんば著者の苦労に関する報告だったとしても(時には「職歴をきちんと聞けていなくて判断が遅れた。みんなも気をつけよう」という論文も実際にあります)、関係のない記載は避ける努力をしなければなりません。まさに、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。必要十分な論文に仕上げることも著者の力量の一つというわけです。

この「必要十分な論文を書く」という意識が、特に医学論文においては低下しているように私には思えます。そしてそれが、職歴記載の問題に顕著にあらわれていると感じるのです。
この背景には、演繹的な理化学と違い、医学には帰納的に新知見を得るということも関係してはいるのでしょう。職歴(=環境)や家族歴(=遺伝)は関係ないと思われていた疾患が、後にそれらが重要と判明する可能性も捨てきれません。だからこそ、著者の見極めが重要とも言えるわけですが(場合によっては「遺伝の可能性はまだ否定されていないので、自分は書きたい!」というようなアピールも大事になるかもしれません)。
論文の質の低下は、編集スタッフの質の低下にもつながるものです。出版倫理を意識していた者であっても、投稿される論文のほとんどが倫理意識に欠けるものであれば、それに合わせざるを得なくなるでしょう。そうしないと掲載できる論文がなくなってしまいますし、あるいは編集委員会から「これが普通なんだから、出版倫理の方が時代遅れ」と言われることすらあるかもしれません。論文の質が下がり、雑誌の質が下がり、次に起こるのは学術の質の低下です。ことに日本の医学界は、もうここまで進行してしまっているのではと危惧します。

国際的な出版倫理について検討している機関としては、Committee on Publication Ethics(COPE)などがありますが、日本の学術雑誌に携わる編集者・編集スタッフで、ここに加盟、またはじっくりと目を通している方は少ないのではないかと思います。
あるいは、最近流行りのオープンアクセスでは、Directory of Open Access Journals(DOAJ)がその品質を評価しリスト化しているのですが、2016年に採択基準を厳格化したときに日本の雑誌は大幅に削除され、収載されているものは数えるほどしかありません。
このような状況が生まれてしまったのには、前回の記事にも関係することですが、言語の違いやシステム面での差も影響していることとは思います。しかしそれ以上に、「そこまでやらなくても論文は投稿されてくるし」という出版サイドの甘えが見え隠れします。
「国際誌に論文を発表するのは大変だから、採択されやすい国内の雑誌で。できれば日本語がいいな」という投稿者側の考えが、この時点では世界中に読まれるかどうかという違いだけだったはずなのに、出版倫理の低下という雑誌そのものの低下につながり、本当に日本の学術誌が国際誌に劣ってしまったという現状を生み出したのかもしれません。

国際誌と国内誌の役割は違うと考え直し、論文の質でも出版の質でも負けてはならないという意識を持つことが、今後大事になってくるのではと考えます。

# by zattoukoneko | 2018-06-08 07:20 | 生物・医療 | Comments(5)

日本語論文は廃れるかもしれない現代版:システム面から考える

小保方さんのSTAP細胞騒動の際、その疑惑の一つに「他の論文から盗用しているのではないか?」という指摘がありました。
ちなみにですが、小保方さんに研究不正があったと認められた点は、世間で思われているよりもずっと少ないものでした。上記の盗用疑惑についても、「研究不正とは認められない」と調査結果が出ています(理化学研究所の報道発表資料「研究論文(STAP細胞)の疑義に関する調査報告について」などを参照のこと)。とはいえ、彼女はあまりにも研究者として教養がなさすぎたので、一切の擁護はできませんが……。
ともあれ、この疑惑が浮上したとき、日本の研究者からは「そんなとこまで出版社ってチェックしてんの?!」と驚きの声があがりました。研究者の側からすれば、孫引きなんて当たり前自分の過去の論文をそのままコピペして何が悪い!、出版社の方が忙しい中、世界中の論文と照らし合わせてまできちんと読んでくれてるだなんて、思いもよらないことでしたから。
しかし、もちろん出版社の人間がありとあらゆる論文を読んで覚えてるだなんて、ありえるはずもなく。そういうチェック機能が現在はあるというのが実際のところなのでした。
今回は、それに基づいた与太話となります。

さて、論文に盗用がないかをチェックするシステムは「剽窃検知ツール」などと呼ばれています。CrossCheckというサービスがおそらく最も有名で、投稿されてきた論文をそのシステムに通すことで、どのくらい盗用の疑いがあるかを機械的に判定することが可能というものとなっています。
このシステムにできることは、当たり前のことではあるのですが、疑いの割合を出すことまでです。「100%盗用である/ない」と言い切ることはできません。盗用した者が巧みに文章を書き換えていればその分オリジナル論文との合致率は下がりますし、あるいは、ある著者が完全に書き下ろしで論文を執筆したつもりでいたとしても(学術論文は作家が書く独創性あふれる小説ではないわけですから)できあがった文章が他の論文と似通ってしまっていたという可能性も捨てきれません。このシステムを利用する人は、必ずこの点について心に留めておくよう注意されるほどです。
この弱点は機械的なチェックには当然生じるものではあるのですが、ことに日本語論文では顕著になってしまいます。そう、翻訳されてしまえば、このチェックの網に途端にかかりにくくなるからです。

加えて、日本語論文は電子データベースに収載されている本数がとても少ないという問題もあります(科学技術振興機構J-STAGE「J-STAGE Similarity Checkのご利用案内」の3ページ目(10)など)。日本の学術論文の出版状況は、はっきりと言って遅れまくっています。論文検索のデータベースすらまともなものがないと、学術研究を少しでもされた方は感じたことがあるものと思います。
日本の行政、学会、出版社が電子化にやる気がない――というのも残念ながら否定はできないのですが――というよりは、日本語と電子化との相性の悪さが、この問題の根源にはあると考えられます。
日本語論文をせっかく電子化したとしても、全角・半角の違いがあるために、世界中にweb公開した途端に文字化けが生じます。論文のタイトルや巻号、ページ数といった情報(書誌情報と言います)も、英語対応しかしてない国際的な検索データベースには収載しにくいままです。電子化するためのシステム要件は、webで世界中に公開することを前提としているのですから、これまた英語で書かれています。英語というだけで日本人にはハードルが高いのに、さらにコンピュータの話とかマジワケワカラン状態です。
他にも、電子化するとApple社に高額なロイヤリティ取られるとか、そんなこと知らずに「電子版なんだから安くしろよ」とか平気で言う読者様の存在とか、問題は山積みです。
ぶっちゃけ、電子化に関する技術的・意識的な抜本的改革がない限りは、出版社はおろか、助成金をもらっている学会ですら赤字になってしまうそうです。こんな状況で盗用チェックにまでお金を出すとか、もう無理なわけです。

しかしながら、研究者の立場から物を言わせてもらえば、やっぱり盗用チェックはありがたい機能なわけです。
すでに述べたように、オリジナルで書いたつもりでも、すでに似たような記述をした論文はあるかもしれません。はたまた、自分のチェックミスで、引用文献を書き忘れてしまっているかもしれません。これらのチェックは、個人でやるには限界があります。出版社や編集部会が頑張ってサービスでやってくれるのなら、こんなに嬉しいことはありません。
ですが、このようなサービスの恩恵は、現状日本語論文ではほとんど受けることができません。ではどうするか?
その一つの答えが、英語論文への投稿、なのかと思います。特に、自然科学系の論文ではその傾向が加速していると感じています。このままいけば、日本語で論文を書こうという研究者はまったくいなくなってしまうのではないでしょうか?

私は、このような状況に、警鐘を鳴らしたいと思っています。
学術研究には、英語だけでは書けないものが存在するということを、忘れてはなりません。特に史学においては、その国の言語で書かれることが重要となるシーンが生じます。英語に馴染みやすい自然科学の分野においてすら、その国・風土の影響が色濃く出ることがあります(科学が社会の影響を受けることについては、すでに常識になっているものと思います)。医学のような分野においては、疾患によっては人種差や地域差が生じることもあり、ガラパゴス的に狭い国の中だけでまず議論をしてもらうことで埋もれずに成果をあげることができる可能性もあります。
盗用チェックシステムであるとか、国際的な論文データベースに頼り切ってしまう行為は、ともすればこの価値を人々から忘れさせてしまうかもしれません。

英語も日本語も、独語も、マレーシア語も、あらゆる言語が同等の価値のものとして電子化されることが、まず望まれます。が、これが実現するにはまだまだ時間がかかることでしょう。
ですので、私としては、研究者個人個人の意識改革がよいだろうと考えています。あるいは、学会や出版社の取り組み方に、英語圏に追随するだけでない、一本筋の通った考え方が欲しいと感じています。
つまり、具体的には(議論の根底からひっくり返すようなことで申し訳ないのですが)「盗用チェックシステムのようなものが本当に必要なのか?」と考えてほしいのです。
盗用チェックもデータベースも、便利だから流行っているにすぎません。発表される論文数が膨大になったため、その価値も並行して高まっただけのことです。そして、それと反比例するかのように、研究不正がないかどうかばかり機械的にチェックする編集・制作・世間の雰囲気が生まれてしまったのではという気がしてなりません。
その論文に価値があるかどうかは、じっくり読んでみて、ようやく初めてわかることと思います。自分にとって有益である論文は、他人にとってもそうであるとは限りません。被引用件数やインパクトファクターによってばかり研究者の価値を測っているような現状は、何だか違う気がしています。
論文が英語で書かれていなくとも、自分にとって必要なものだと思えば、仏語で書かれていようがヒンディー語で書かれていようが、何とか読めないかと努力するのが研究者の本来あるべき姿勢と思います。そして同様に、母国語である日本語論文だって、非常に有り難がって読まれるべきです。

翻って考えてみて、論文を提供する研究者の皆さんは、日本語論文だからと手を抜いて書いてしまってはいないでしょうか? あるいはその論文を掲載する編集者の方々は、どうせ国際誌に載らなかったものを投稿しているのだろうと、質の低いまま採択してしまってはいないでしょうか?
日本語論文の電子化の遅れや、そもそもの日本語の読まれにくさはありますが、それに胡坐をかいて投稿者も編集者もだらけていてしまっては、ますます日本の研究の質は落ちていく一方と思うのです。雑誌の価値が急速に下がっていると思うものも、散見される気がしてます。
今一度、日本だからこそ発信できるような研究について考えてみてほしいと思っています。そのうえで、いつかシステム屋さんが英語に限らずデータベース化する方法を実現してくれれば、日本語論文の価値は極めて高まるのではないでしょうか。

以上、電子化の難しさが日本語論文の衰退を招いているから始まり、編集者や出版社の責任、著者のやる気のなさもあるよ、と色々言ってみました。省みる点があったなあと思っていただけたら幸いです。
また、すでに「日本だからこそできる研究をしたい!」と頑張っておられる研究者や学会もあります。見かけましたら、ぜひ応援を。


# by zattoukoneko | 2018-05-23 03:13 | 社会・経済 | Comments(6)